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Eさんは翻訳家になっていた [22. 人物シリーズ]

2,007年12月21日   ebisu-blog#029
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 根室の「文化人」、北構保男先生田塚源太郎先生福井先生の三人の思い出をebisu-blog#027で書きました。記憶は風化していくので、書き残しておきたい人びとが数十人単位でいます。
 今年の春から夏にかけ、娘からの要求に応じて、国際通貨の解説と、それに関わりがあるのですが今までやってきた仕事を整理してみました。娘から次々と日本経済新聞の切抜きとそれに関する質問事項が送られてきて、質問に答えるうちに、A4版150ページの「大部の本?」になってしまい、書き終わって読み返したら、良き師、良き上司、良き先輩、好き友、好き同僚、好き後輩に恵まれたことに気づかされました。そこで書かなかったことも含めて、あらためて振り返って、それらの人々について、エピソードを書こうと思います。 

 前回のブログでEさんのことに触れました。F学院渋谷進学教室の専任講師をしていた時代の仲間の一人です。F学院は東京の個人指導の草分けでした。1975年~1978年まで専任講師をしていました。F学院は理事長が野心家で、短大を作ろうとして潰してしまったようです。惜しい塾です。「ほめる教育」を旗印にしたユニークな個人指導の進学塾でした。
 Eさんのほかにもう一人仲の良かったのがOさんです。ひょっとして、Eさん、本を出しているのではと著者名でインターネットで検索したら、8冊でてきました。当時の渋谷の進学塾は時間が空くと、それぞれ分野が違いますが、議論が活発で、プチ梁山泊の雰囲気をかもし出していました。インターネットで検索して調べてみたら、Eさんは『図説 古代ローマの戦い』、『メディチ家の盛衰』などを東洋書林から翻訳出版しています。あんまり懐かしくって、少し嬉しい気分です。
 NM君を挟んで11年間の付き合いですが、後半はNM君から彼の話を聞くだけで、特に用事もなく、某社に勤務していて経営改善や統合システム開発をやっていたので多忙で、会う機会はありませんでした。教えていた新宿駅から数分のマンションはKDDが何かの事件で秘密の会議室として使っていたNSMという名称のビルです。その後、すぐ近くの超高層NSビルの22階、23階にある会社へ転職しました。毎週ここでEさんが英語を、私が数学を教えていました。

 話しをF学院時代に戻します。Eさんは塾でも空き時間があると原書を読んでいました。速度がわたしの倍はありました。典型的な「濫読派」だった。当時はかなり荒っぽい読みをしているようにみえました。私は故あって「精読派」に徹していました。高校時代から公認会計士受験関係の専門書や哲学や経済学の古典を読み漁ったことが関係あるのでしょう。私の当時の読書力ではこれらの本をとても「濫読」できませんでした。読む範囲を極めて限定せざるをえませんでした。たった1行に1日かかったこともあります。
 Eさんほどの速度で原書を読みこなせる人間を同年代では知りません。その点だけでも充分に面白い奴でした。当時はヴィトゲンシュタインも読んでいたような気がしますが、ドイツ語原典を読んでいたかどうかは記憶にありません。あっと驚いたのは、大学院入学後、間をおかずにラテン語とギリシャ語の勉強を始めたことです。そして数ヶ月でマスターしていたようです。面白いことをやる奴だというのが私の印象でした。
 彼の鎌倉の「豪邸」へ教えていたNM君とともに招待されて一晩どまりで遊びに行ったときのことを前回のブログで書きましたが、上場会社のオーナー社長の長男ですからF学院で専任講師をして働く必要なんてまったくないのです。にもかかわらず、自分で働いてお金を貯め、働きながら大学院進学を果たしているのです。何が何でも自立するという強い決意は露ほども見せず、自然体で自立している男でした。こういうところも気に入りました。

 あるとき飲み明かして、帰る電車がなくなり、荻窪のEさん宅へ泊めてもらったことがあります。酔って将棋をやったのではないかと思います。そのあと碁盤を出してきて、囲碁のほうが面白いからやろうというのです。囲碁はしたことがないと断ると、「将棋より絶対に面白いから、教えるからやろう」と食い下がります。こっちはしたたかに酔っ払っているし、まいったなと思いつつも、「熱意」にほだされて、教えてもらいながら指しました。結局、なんだかよくわからないまま、空が白んできたことだけは覚えています。以来、囲碁を見るたびにあの夜の「苦行」を思い出します

 これもあるときのこと。ときどきどこかの川原で3~5人で「野球」をやって遊んでいました。何度かやって物足りなくなって、Oさんが城南中学のときに野球部だったこともあり、渋谷の塾の先生たちで後楽園を借り切ってナイター野球をしようと言うことになりました。何人か中学校で野球部だった先生がいました。話しがどこでどうなったのか、後楽園ではなくて、わたしが国分寺にある東京経済大学のグランドを借りることになって、皆で野球をしました。
 高校時代に野球部員だった同じ研究室のS君も入ってもらい、2チームに分かれて4時間ほどの熱戦。どちらも二十数点の得点でへとへとでした。Oさんは元気がよすぎて、気持ちに身体がついていけず、足の肉離れを起こしてました。
 試合が終わった後で国分寺の蕎麦屋で食事をしながらビールを飲んだら、もう立ち上がるのが億劫なほどへとへと。一回限りの楽しい野球でした。
 そもそも後楽園でナイターをやろうと言い出したのはEさんだった。一人頭いくらかかると賃料を調べてきた人もいたっけ。最初は一人5000円で済む話でしたが計算違い?があって後楽園ナイターを中止下のではなかったかと思います。
 当時は渋谷の進学塾の先生たちの三分の二くらいが院生でした。専門分野はばらばら、だから面白かった。それぞれの専門がわかっているから、相手の分野に切り込み議論する強者もいました。同年代で分野の異なるもの同士が議論するのは良い刺激になりました。“異業種交流”のアカディミック版、みたいなものです。当時は異業種交流なんて言葉自体がありませんでした。大学院の研究室では“同業種交流”しかできませんので、貴重な3年間でした。

 東工大の研究室で建築が専門だったNさん、インドを放浪した話が楽しかった。月30万円で王侯貴族の暮らしが出来ると話していました。お金が貯まると放浪の旅にでる。放浪の自由人でした。お金が貯まったのかいつのまにかいなくなっていました。芸能人とよくマージャンをやる人もいましたね。女優の丘みつ子さんを「みっちゃん」と呼んでいました。彼は元東京銀行員の海外駐在員だったかな、英語の講師でした。世界史のいずれかの分野が専門だった早稲田大学大学院オーバードクターのKさん、パイプに煙草を詰めて煙をくゆらしていた。学生運動を懐かしむ慶応大のSさんは経済学の議論をよく仕掛けてきた。東京教育大のYさんは優しい人だった。同じくMさんは生真面目で激情家だった。少し若い東大のS君は元気があったな。数学のKawasakiさんは「褒める教育」をまったく無視して、大きな声で時々怒鳴っていた。隣で授業しているとこっちの生徒までびびっていました。もうひとり理工系の人がいました。HP(ヒューレッドパッカード社)の科学技術計算用のキャリュキュレータ(11万円)を研究室で買ってもらったと、ずいぶん喜んで使っていた。まさか同じものを塾講師をやめて半年後に使うことになるとは思わなかった。
 次回はHP97を巡る話しをしようと思います。


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