#5229 不満や疑心暗鬼の社員のある社員の扱い:マネジメント May 7, 2024 [A6-1 帝人とSRLの治験合弁会社の経緯]
前回ブログ#5228の続編を書きます。
1997~1999年の話なのですが、類似のマネジメントに関わる問題はいつでもあるでしょうから、参考になれば幸いです。
5/5の飲み会のメンバーの一人であるK.Yさんは証券会社から転職してきた営業マンでした。SRLでは治験事業は比較的若い事業で、マイナーな扱いを受けていたと本人が語っていますが、その通りでした。わたしが1984年2月にSRLへ転職して、2つの新規事業に健康関連事業と臨床治験事業が立ち上がったばかりで、それぞれの部長と実務のわかる人と予算折衝をしたことを覚えています。予算は申請の満額を認めました。3年間は赤字でよいと判断してました。でも、赤字からのスタートですから、肩身が狭い。黒字になればそんなことはなかったのでしょうが、いつまでたっても治験事業は黒字化できませんでした。帝人との治験合弁会社が設立された1997年1月の時点でも、大きな赤字の事業でした。だから、K.Yさんの言うことは正鵠を射てます。不満を解消するには黒字事業にしなければならないのですが、K.Yさんにはどこを受け持ってもらおうかと考えていました。
「外回りが終わると、ebisuさんの席の横に置いてある丸テーブルへ来て、よく話していたな」とS.Tが言いました。治験事業がマイナーな扱いを受けていることに不満があったから、まずはその内容を具体的に聴いてました。本来なら上司の営業部長で常務取締役のO部さんへ云うべきなのですが、好き嫌いのはっきりした奴でしたから、経営管理部長のわたしのところに来ます。わたしのことが気に入っているからではなくて、O部さんに話しても埒が明かなかったからでしょう。Oさんは元は開発部長をしていました。治験事業にはあまり興味がなさげに見えました。会社の人事で希望とは関係なく担当させられたのだと思います。社内では開発部長の方が上ですから。
あるとき、K.Yが体調が悪いので外回りはきついので八王子ラボの検体保管のハンドリング業務へ異動させてほしいと希望を言ってきました。O部さんと話して認めました。やらなければならない仕事があったので、彼に任せてみようと思ったからです。治験の検体は臨床治験が終わっても何年も保管しなければなりません。何かあった場合はその患者の当該検体を出庫して、検査をしなければならないからです。これは在庫管理なので、コンピュータシステムで在庫管理をしたことのない人にはハードルの高い開発でした。それまでは、どの冷凍庫のどの棚へ保管してあるか、担当者の記憶でやってました。じつに手間がかかり危うい。はやくそのような状態を脱したかったので、K.Yさんの異動希望はわたしにとっては渡りに舟でした。生真面目さと頑固さは何度も何度も話し合ってよくわかっていました。人が成長するには具体的な課題や仕事が必要です。
要点は、マイナス80度の保管なので、超低温で長期保管に耐える材質の検体保管容器を選ぶこと。バーコード管理を導入するので、その検体保管容器の霜をこそげ落としてもバーコードリーダで読めること。冷凍庫番号、保管棚番号、保管ラック番号、検体のバーコード、製薬メーカーコード、治験管理番号で管理するような「検体保管管理システム」開発をK.Yに任せました。これが開発導入できたら、差別化と検体検索の精度と生産性向上、一石三鳥になります。実際の容器でのテストがたいへんそうな課題でした。
K.Yは会社の現状に不満のある人でしたが、それは見返してやりたい、治験事業をSRLの根幹事業である特殊検査と同等のものと認めさせたいという心から出た不満でした。難易度が高くて、責任ある仕事を担わせたらどんなふうに化けるのか見てみたいと期待しました。
一昨日の飲み会のときに「検体保管システムはその後うまくいったか?」と訊いたら、2000万円以下で完成したと聞いて、うれしかった。成長してました。部長になったそうです。テストはたいへんだったと言ってましたね。
k.Yはまじめで几帳面なので、ストレスをため込んでしまうことがあります。当時から心房細動症状があり、2度カテーテル・アブレーション手術をしたとのこと。あるとき異動してきた上司とウマが合わずストレスが大きくなって退職したそうです。いまは別の仕事をしています。身体に気を付けて仕事をしてほしいと願っています。
帝人の臨床検査子会社からの出向者で優秀な営業課長がいました。仮にAさんとしておきます。仕事はよくできました。臨床検査技師の学校を卒業してSRLに応募したけど落とされたと、恨みを持っていました。自分の学力や仕事の能力に自負があったからです。実家がなにか事業をしているのでいざとなれば戻れるとも言ってました。合弁会社の中でSRL出身者と帝人ラボの出身者はそれぞれ出向ですから、それぞれの会社の給与体系で人件費の返戻をしてました。課長で1:2の年収の開きがありました。同じ合弁会社で仕事しているのに年収がそんなに違うのでは面白くないのは当然です。だから、そのあたりのことを自由にやりたくてSRLの100%子会社化を急ぎました。
子会社化して、SRL以上の年収を保障してやりたくて、赤字を黒字に、さらに社員の平均給与を700万円以上にするつもりで経営戦略を策定し、着実に実行に移していました。しかし、合弁契約を解消してSRLの100%子会社にすることはSRL近藤社長とわたしの約束事項でマル秘でしたから、伝えることはできません。データ管理事業へのシフトで黒字化が可能になったので、帝人本社との交渉は順調に進めていました。
合弁解消後数年でSRLの年収は越えられます。心の持ちようが変わってくれたらいいな、恨みの心が雲散霧消したらいいな、そう願っていました。けれどもそれは本人の心の中の問題です。結局、やめてしまったそうです。家業を継いで立派にやっているのでしょう。SRLの100%子会社になったことで、給料が上がっても、業績が悪くてが吸収合併された側の企業の出身者だから、実力を評価してもらえない不安は消えなかったのかもしれませんね。出身母体で評価に差をつけるなんてことはわたしはしませんが、誰が上司となってSRLから来るのかは誰にもわかりません。疑心暗鬼になったのでしょう。
恨みの心や疑心暗鬼をいつまでも引きずっていたら、仕事や人間関係がうまくいかなくなります。胸襟を開き懐に飛び込むしかありません。心の持ちようは実に大きい。Aさんの顛末を聞いて、やはりどうしようもなかったのかと、残念な気がしました。
帝人臨床検査子会社からもう一人の営業課長Bさんは、わたしが辞めてまもなく帝人の金融子会社へ転職しました。穏やかで人望もあり使いやすい人でしたから期待していました。彼も給与合弁会社には好い印象がありませんでした。当初からSRL主導で経営が動いていたことと、給与格差が大きなストレスになっていました。本音を聞きたくて何度か話していましたから、心の奥に反発心のあることは承知していました。仕事と好き嫌いは別です、反発心があってもSRL100%子会社にした後はメインプレーヤーでやれると期待していた課長でした。わたしは営業部門を彼に任せるつもりでいました。人柄、仕事の能力を2年間も観察していれば、だれに責任の重い仕事を担わせたらいいのかはたいがいわかります。Bさんはそれほど期待が大きかったのです。新任の社長を見て希望を失ったと思います。責任の半分はわたしにありました。もう3か月早く学術開発本部長だったI神さんへ話を持って行っていたら、彼は社長を引き受けてくれたはずです。そうしたら、わたしも転職はしませんでした。I神さんへの責任がありますから、引き続き経営管理担当取締役としてマネジメントを担ったでしょう。先にSRL近藤社長の了解をもらって、IついでI神さんへ話を持って行こうとしたときに、彼が辞職してしまったのです。他には治験会社の社長にふさわしい人材がいませんでした。SRLにいた16年間で、5部署と関係会社3社を渡り歩いてましたからSRL社内の主だった人材の能力を知悉していました。
1999年のことでしたから、同じレベルの給料なら同業種でも異業種でも転職可能でした。思う存分にやれないなら、いる理由がなくなりました。四課題が3年で全部片付いてきりが好かったので、進路を変えました。300ベッドの老人病院を核に、老健施設や介護センター、グループホームなどを配置し、シームレスな老人医療と介護事業のプロトタイプを首都圏で作って、うまくいったら全国展開するつもりでした。
元々、50歳前後で儲け仕事からは手を洗って、社会貢献を考えていたので、後数年間だけでしたから最後のチャンス、迷いはありませんでした。
臨床治験の合弁会社の経営を任されて、経営改革して年収が2倍以上になったときの吸収合併された側の社員の笑顔が見たかっただけ。その時を夢見てワクワクしながら仕事してました。それはそれで楽しかったのです。
治験検査事業からデータ管理事業へ、そしてCRO事業へ本格参入して、給料をアップしても利益が出せる企業へと成長したと聞いて、胸をなでおろしました。しっかり人が育っていました。
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1997~1999年の話なのですが、類似のマネジメントに関わる問題はいつでもあるでしょうから、参考になれば幸いです。
5/5の飲み会のメンバーの一人であるK.Yさんは証券会社から転職してきた営業マンでした。SRLでは治験事業は比較的若い事業で、マイナーな扱いを受けていたと本人が語っていますが、その通りでした。わたしが1984年2月にSRLへ転職して、2つの新規事業に健康関連事業と臨床治験事業が立ち上がったばかりで、それぞれの部長と実務のわかる人と予算折衝をしたことを覚えています。予算は申請の満額を認めました。3年間は赤字でよいと判断してました。でも、赤字からのスタートですから、肩身が狭い。黒字になればそんなことはなかったのでしょうが、いつまでたっても治験事業は黒字化できませんでした。帝人との治験合弁会社が設立された1997年1月の時点でも、大きな赤字の事業でした。だから、K.Yさんの言うことは正鵠を射てます。不満を解消するには黒字事業にしなければならないのですが、K.Yさんにはどこを受け持ってもらおうかと考えていました。
「外回りが終わると、ebisuさんの席の横に置いてある丸テーブルへ来て、よく話していたな」とS.Tが言いました。治験事業がマイナーな扱いを受けていることに不満があったから、まずはその内容を具体的に聴いてました。本来なら上司の営業部長で常務取締役のO部さんへ云うべきなのですが、好き嫌いのはっきりした奴でしたから、経営管理部長のわたしのところに来ます。わたしのことが気に入っているからではなくて、O部さんに話しても埒が明かなかったからでしょう。Oさんは元は開発部長をしていました。治験事業にはあまり興味がなさげに見えました。会社の人事で希望とは関係なく担当させられたのだと思います。社内では開発部長の方が上ですから。
あるとき、K.Yが体調が悪いので外回りはきついので八王子ラボの検体保管のハンドリング業務へ異動させてほしいと希望を言ってきました。O部さんと話して認めました。やらなければならない仕事があったので、彼に任せてみようと思ったからです。治験の検体は臨床治験が終わっても何年も保管しなければなりません。何かあった場合はその患者の当該検体を出庫して、検査をしなければならないからです。これは在庫管理なので、コンピュータシステムで在庫管理をしたことのない人にはハードルの高い開発でした。それまでは、どの冷凍庫のどの棚へ保管してあるか、担当者の記憶でやってました。じつに手間がかかり危うい。はやくそのような状態を脱したかったので、K.Yさんの異動希望はわたしにとっては渡りに舟でした。生真面目さと頑固さは何度も何度も話し合ってよくわかっていました。人が成長するには具体的な課題や仕事が必要です。
要点は、マイナス80度の保管なので、超低温で長期保管に耐える材質の検体保管容器を選ぶこと。バーコード管理を導入するので、その検体保管容器の霜をこそげ落としてもバーコードリーダで読めること。冷凍庫番号、保管棚番号、保管ラック番号、検体のバーコード、製薬メーカーコード、治験管理番号で管理するような「検体保管管理システム」開発をK.Yに任せました。これが開発導入できたら、差別化と検体検索の精度と生産性向上、一石三鳥になります。実際の容器でのテストがたいへんそうな課題でした。
K.Yは会社の現状に不満のある人でしたが、それは見返してやりたい、治験事業をSRLの根幹事業である特殊検査と同等のものと認めさせたいという心から出た不満でした。難易度が高くて、責任ある仕事を担わせたらどんなふうに化けるのか見てみたいと期待しました。
一昨日の飲み会のときに「検体保管システムはその後うまくいったか?」と訊いたら、2000万円以下で完成したと聞いて、うれしかった。成長してました。部長になったそうです。テストはたいへんだったと言ってましたね。
k.Yはまじめで几帳面なので、ストレスをため込んでしまうことがあります。当時から心房細動症状があり、2度カテーテル・アブレーション手術をしたとのこと。あるとき異動してきた上司とウマが合わずストレスが大きくなって退職したそうです。いまは別の仕事をしています。身体に気を付けて仕事をしてほしいと願っています。
帝人の臨床検査子会社からの出向者で優秀な営業課長がいました。仮にAさんとしておきます。仕事はよくできました。臨床検査技師の学校を卒業してSRLに応募したけど落とされたと、恨みを持っていました。自分の学力や仕事の能力に自負があったからです。実家がなにか事業をしているのでいざとなれば戻れるとも言ってました。合弁会社の中でSRL出身者と帝人ラボの出身者はそれぞれ出向ですから、それぞれの会社の給与体系で人件費の返戻をしてました。課長で1:2の年収の開きがありました。同じ合弁会社で仕事しているのに年収がそんなに違うのでは面白くないのは当然です。だから、そのあたりのことを自由にやりたくてSRLの100%子会社化を急ぎました。
子会社化して、SRL以上の年収を保障してやりたくて、赤字を黒字に、さらに社員の平均給与を700万円以上にするつもりで経営戦略を策定し、着実に実行に移していました。しかし、合弁契約を解消してSRLの100%子会社にすることはSRL近藤社長とわたしの約束事項でマル秘でしたから、伝えることはできません。データ管理事業へのシフトで黒字化が可能になったので、帝人本社との交渉は順調に進めていました。
合弁解消後数年でSRLの年収は越えられます。心の持ちようが変わってくれたらいいな、恨みの心が雲散霧消したらいいな、そう願っていました。けれどもそれは本人の心の中の問題です。結局、やめてしまったそうです。家業を継いで立派にやっているのでしょう。SRLの100%子会社になったことで、給料が上がっても、業績が悪くてが吸収合併された側の企業の出身者だから、実力を評価してもらえない不安は消えなかったのかもしれませんね。出身母体で評価に差をつけるなんてことはわたしはしませんが、誰が上司となってSRLから来るのかは誰にもわかりません。疑心暗鬼になったのでしょう。
恨みの心や疑心暗鬼をいつまでも引きずっていたら、仕事や人間関係がうまくいかなくなります。胸襟を開き懐に飛び込むしかありません。心の持ちようは実に大きい。Aさんの顛末を聞いて、やはりどうしようもなかったのかと、残念な気がしました。
帝人臨床検査子会社からもう一人の営業課長Bさんは、わたしが辞めてまもなく帝人の金融子会社へ転職しました。穏やかで人望もあり使いやすい人でしたから期待していました。彼も給与合弁会社には好い印象がありませんでした。当初からSRL主導で経営が動いていたことと、給与格差が大きなストレスになっていました。本音を聞きたくて何度か話していましたから、心の奥に反発心のあることは承知していました。仕事と好き嫌いは別です、反発心があってもSRL100%子会社にした後はメインプレーヤーでやれると期待していた課長でした。わたしは営業部門を彼に任せるつもりでいました。人柄、仕事の能力を2年間も観察していれば、だれに責任の重い仕事を担わせたらいいのかはたいがいわかります。Bさんはそれほど期待が大きかったのです。新任の社長を見て希望を失ったと思います。責任の半分はわたしにありました。もう3か月早く学術開発本部長だったI神さんへ話を持って行っていたら、彼は社長を引き受けてくれたはずです。そうしたら、わたしも転職はしませんでした。I神さんへの責任がありますから、引き続き経営管理担当取締役としてマネジメントを担ったでしょう。先にSRL近藤社長の了解をもらって、IついでI神さんへ話を持って行こうとしたときに、彼が辞職してしまったのです。他には治験会社の社長にふさわしい人材がいませんでした。SRLにいた16年間で、5部署と関係会社3社を渡り歩いてましたからSRL社内の主だった人材の能力を知悉していました。
1999年のことでしたから、同じレベルの給料なら同業種でも異業種でも転職可能でした。思う存分にやれないなら、いる理由がなくなりました。四課題が3年で全部片付いてきりが好かったので、進路を変えました。300ベッドの老人病院を核に、老健施設や介護センター、グループホームなどを配置し、シームレスな老人医療と介護事業のプロトタイプを首都圏で作って、うまくいったら全国展開するつもりでした。
元々、50歳前後で儲け仕事からは手を洗って、社会貢献を考えていたので、後数年間だけでしたから最後のチャンス、迷いはありませんでした。
臨床治験の合弁会社の経営を任されて、経営改革して年収が2倍以上になったときの吸収合併された側の社員の笑顔が見たかっただけ。その時を夢見てワクワクしながら仕事してました。それはそれで楽しかったのです。
治験検査事業からデータ管理事業へ、そしてCRO事業へ本格参入して、給料をアップしても利益が出せる企業へと成長したと聞いて、胸をなでおろしました。しっかり人が育っていました。
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