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#3915 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.53~66 Feb. 1, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-
10.四方中尉の人間宣言

Ⅱ-11 .三座水上偵察機特攻隊の出撃と米駆逐艦モリソンの沈没
Ⅱ-12 .特攻志願の仕組み
Ⅱ-13 .〈特攻隊に予備学生を使う〉
Ⅱ-14.航空隊における特攻隊員の募集
Ⅱ-15 .航空隊における正式の特攻隊募集
Ⅱ-16 .署名について

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 Ⅱ-10.四方中尉の人間宣言
 
 十四期生の会報には書かれていないが、水上機特攻についてこういう話が残っている(岩永敬邦「水上機特攻その六ヵ月」『別冊あヽ同期の桜』一七五〜一七六頁  注25 )。
 
 生きて帰った特攻隊員は恥を忍ばなければならない。確かに生きているのだが、その思考も行動も、すべて死の枠の中にはめこまれてしまっている。国家も愛も、それは生きる次元からの発想でしかない。だとすればその思考から国家や愛情の論理が消えても当然であろう。
 
 兵隊の組織も人間の作った社会でしかない。天皇の観念で括られている兵隊組織の中に、〈事実としては死んでいるが、実際には生きている個体〉(死に損ない特攻員)が出てくることで、次第に兵隊組織の中に〈人間〉が入ってくる。つまり、異質なものが入ってくる感じである。人間性を捨象した肩章秩序の中に、人間が自覚され始めて、胡座をかき始める。死に損ないの吹きだまり集団が出現する。 
 遺書を書き、辞世の句を残すのは、まだ死に損なわない人々である。吹きだまりはアナポリ(海兵出身者)から睨まれる。嫌われる。しかし、もう人間として上から事態を見つめる知恵が出る。目立たず、静かに人知れず発進する。まさに知らないうちに、生死を超えている。四方巌夫中尉[京都師範。十三期予備学生。神風特別攻撃隊第二魁隊]がこれである。 
 四方中尉は見事にアナポリに人間宣言をたたきつけて死んだ最初の一人であった。
 
 彼は午前の攻撃に出て帰って来た。帰るなり又飛び立たされて天候不良で引返した。横たわる暇もなく夜の攻撃に加えられた。それは死の強制と受取られる程のものであった。一方に一度も出撃しない一群もあったからである。 
 彼は夜、出撃前に従兵にビール箱を持たせた。アナポリの部屋にビールビンを投げつけて叫んだ。
  「アナポリ、出てこい。前線に行って見ろ、戦争しているのは予備士官予科練だけだぞ」
 その夜、彼は突入寸前まで電鍵をはなさず敵状を報告し、降下に移って「長符」を送信し乍ら、発信音と共に消えた。嘉手納の監視哨は見事な敵巡の轟沈を報告している。


Ⅱ-11 .三座水上偵察機特攻隊の出撃と米駆逐艦モリソンの沈没
 
 水上機による特攻搭乗員は、すべて予備士官と予科練出身者のみであった。海兵出身士官は一人もいなかった。 注26
 しかし、水上機特攻の壮絶な力戦奮闘には米軍側の記録が残っている。 
 駆逐艦モリソンは昭和二十年五月四日沖縄本島の残波岬の北方五〇浬近くを朝七時過ぎ哨戒中、〇七一五〜〇八二五の間、九九艦爆四機、ゼロ戦三機の特別攻撃を受ける。艦爆全機とゼロ戦一機は海面に散華したが、最後に突入したゼロ戦二機の内の一機は第二煙突を掠め、第一煙突基部に突入、第一缶室を破壊、他の一機は五インチ第三砲塔を掠め甲板に突入。右舷後部機関室外板を海中に吹き飛ばした。ここまでが経緯一から二までのまとめで、三以降を以下に引用する。
 
 三、以上の攻撃だけでは沈没に到らなかったと思われる同艦に止めを刺したのは三機の Wood-and-Canvas twin-float bilplane of ancient Vintage であった 注27 。 
 四、七機の「骨董品然とした木製帆布張り双艀舟の複葉機」が低空低速で接近して来るのを観守る裡に、その一機は二十粍対空機銃の命中弾を再度蒙り乍ら突撃を続けた。艦尾二十粍対空機銃座に帆布の切れ端をばらばら降らせながら、四十粍対空機関砲座、及び、五吋第三主砲に突入、爆薬は上部操舵室、及び五吋第三主砲を吹飛ばした。 
 五、他の一機は、艦尾から接近中、直掩戦斗機、F4U・コルセアー機の追尾を受け、同艦のウエーキ(航跡)に着水した。しかし操縦員は、尚もひるまず航跡を追い、離水滑走に移り、離水するや否や直ちに五吋第四主砲塔に突入し、大誘爆を生ぜしめた。 
 六、以上二機の九四水偵(九四式三座水上偵察機)突入成功による大爆発のため「モリソン」は急速に浸水し始め、止むを得ず艦長ハンセン中佐は「総員退去」を下命した。 
 七、「総員退去」命令と同時に艦首を向天、直立のまま沈没した。突入と沈没の間十分。 
 八、被害は少からず、三三一名乗組中、一五三名戦死、又は行方不明。一〇八名負傷。内六名は爾後死亡。
 
 以上の文章は「モリソン」戦斗報告( History of U.S. Naval Operations in World War II. Volume XIV”
 林孝之[航空自衛隊百里原管制隊]訳)一九四五年五月十一日の分による(中野宗直[東京大。 操縦。詫間空]「 14 期会報」第一号四頁)。



Ⅱ-12 .特攻志願の仕組み
 
 特攻作戦が問題にされたとき、特攻出撃が命令であれば、究極的にはそれは天皇の命令ということになる。これでは天皇を傷つける恐れがある。特攻を命令で行うのはどうか、の議論がでてきて、結局特攻出撃は搭乗員の志願志望によるという形がとられたといわれている。 
 軍当局は、特攻というと必ずこの見解に立っている。参謀、隊長、司令官などの見解は必ず忠烈なる兵士が、みずから志願して国の危機に身を挺したという形で書かれている。 
 また種々に出されている特攻についての書物でも、大抵のものはそう書かれている。いや、特攻について触れた執筆者だけでなく、軍の当局者はすべて本当にそう思っているらしい。


Ⅱ-13 .〈特攻隊に予備学生を使う〉
 
航海学校でのことであるが、教育中の予備学生を特攻隊員に使うという、軍紀文書が残っている。昭和十九年八月二十日起案、八月三十日発布「特殊兵器要員に充当すべき海軍予備学生の選抜並に教育に関する件申進」という文書で、こう書かれている。「⑥兵器(回天)及び甲標的(特殊潜航艇蛟竜)艇長適任者各五十名を選抜のこと」。志望者は直接に学生隊長に申し出ること  注28 。 
この文書には、選抜要領に「志願者より選抜のこと」と明記されている(武田五郎「ああ回天」『一旒会の仲間たち』258〜259頁)。 
これは航海学校の場合であるが、恐らく航空隊の特攻隊員募集にもこうした文書がでたのであろう。ただし、航空隊では多く望否の紙片を提出する形態がとられている。確かに特攻の編成に志願の形がとられたことは確認されている。十四期の予備学生の文章によると、志願はさまざまな形で行われている。



Ⅱ-14.航空隊における特攻隊員の募集
 
募集の仕方についても、いろいろの仕方があることが語られている。徳島空では予備学生の卒業が近くなった頃、正式の特攻調査志願以前に本人の希望機種の調査が行われたことを何人かの予備学生が触れている。


徳島空特攻願書事件
 
 水本均[京都大。徳島空。大津空]「機種選定
 
 昭和二十年一月、私は徳島にいた。ある夜、海兵出身のY分隊長が、搭乗志望機種の提出を求めた。それに先立ち彼は、黒板にいちいち機種を書きつらね、それぞれ丁寧に説明を加えて行き、最後に〝特攻機〟と書いて、
  「特攻機に乗りたい者は志望するように」 
と、簡単につけ加えた。そして、
  「何であれ、遠慮はいらない。自分で最も最適と思う機種を選べ。飛行に適性なしと悟った者は、 地上勤務でもよろしい」 
と説明を終えた。私たちは、艦攻、艦爆、水偵など、それぞれ志望する機種を書いて提出した。 
 私たちの受難は、その夜から始った。就床間もなく、Y分隊長の怒声による総員起しがかかった。 
「貴様らの根性に俺は泣いた。特攻機を志望しない者が意外に多い。なかんずく、陸上勤務志望とは何か。精神がたるんどる。叩き直してやる」 
 かくて全員修正された後、飛行場一周かけ足。へとへとになってやっと寝る。その翌夜は、海兵出身士官による総員起し、修正。その翌夜は先輩予備士官。さらにその翌夜は十三期による総員起し、修正である。彼等に言わせると、
  「十四期は徴兵上りで、兵隊根性が抜け切れていない。勇気がない。そのうえ理屈が多い。そ んなことでは、一人前の海軍士官になれない。特攻機を志望しなかった者は、徳島から卒業させない。いつまでも予備学生にとどめる」 
ということであった。毎晩、起され、なぐられ、そのうえ楽しい外出も禁止である。 
 当時私たちは、関大尉の零戦による敷島特別攻撃隊の体当り戦法の話は聞いていた。しかしこれは、あくまでも零式戦闘機という機種の飛行機による特攻であり、その機種は戦闘機である、練習機の〝白菊〟ですら、やがては特攻に参加して、特攻機と呼ばれたが、〝白菊〟の機種はあくまでも練習機である。私たちは機種の選定に当り、自分の技倆と好みに応じて、艦攻、あるいは、艦爆などと、選んだにすぎない。そうして志望して搭乗した機が特攻にかり出されるか否かは、その次の問題である。Y分隊長の質問が「特攻隊を志望するか否か」であれば、あるいはY分隊長の満足できる結果が出たかも知れない。なぜなら、私たちの前に残されていた道はただ一つ、特攻隊員になることだけであり、この道を拒否することは、不可能だったからである。
(『あゝ同期の桜』209頁  注29)

 この事件はほかの人も書いているが、ここでは別の筆者による徳島空特攻願書事件をもう一つ掲げておこう。 
徳島空、天草空の相良輝雄の「若き日のいのち」はこう書いている。

  「神風」で想い起こされるエピソードは、天草空配属前に徳島空で偵察訓練を受けていたころ のことである。或る晩の温習時間に突然入って来た分隊長は黒板に十種ほどの海軍用機を掲げ、搭乗希望の機種名を配られた紙片に記載するようにとの事であった。私の注目を引いたのは、中に「神風特攻隊」が含まれていたことだった。自ら志願する意志もなく偵察機を希望した。紙片が集められ就寝して三十分も経たない中に「総員起こし!」「兵舎前整列」の号令であわてふためいて一同並んだところ、分隊士数名による全員の横ビンタが飛び、それから例によって分隊長の長口の説教。曰く「キサマ達はヒキョウモノ!」「国のために死ぬのがそれ程恐くて惜しいのか!」「二五〇名中に神風志願が僅か一割とは何たる事か ?! 」「不忠者、恥知らず!これでキサ
マ達の根性のクサレが判った。ヨーシ之から精神を叩き直してやるッ」「上陸も禁止、休暇も取消しだ。飛行場駆け足一周!」と云うわけで、翌日から日本海軍の伝統的シゴキが始まったのである。数週間後、配属先の天草空では計らずも希望通り水上偵察機に搭乗していた私であったが、その悦びも束の間、司令に呼び出されて名誉ある「神風」編入命令を受けた時は暫し茫然とした。
(「海軍十四期」第十九号22頁)

 水本均は、機種選定について、特攻機を他の機種と並列させて選定させるのは、論理的にいえば、もともとナンセンスであったと指摘している。 
 水本は分隊長の論理の不整合を指摘しているが、さらにコメントすれば、いかなる機種でもいいと前置きしているのに、こうしたことをするのは人間の信義に反するような気がする。分隊長命令にやみくもに従った他の士官たちの行動にも何か肌寒いものを感ずる。 
もっとも、我々がそのときの士官たちの立場におかれたら、果たして分隊長の言辞に批判を投じえたであろうか。我ながら情けない行動しかとれなかったのではないか。またそんなことをしたら半殺しでは済まなかったかもしれない。 
 我々自身もいつしか〈海軍ムラ社会〉の組織軍律の中に組み込まれて、本来の人間の魂と勇気とを失ってしまっていたわけなのだ。日本海軍がアメリカの海軍に敗れるほかはなかった根本の原因は、こうしたところにあったのかもしれない。 
 ただ、観点を換えて考え直してみると、特攻を望か、否かを記名する場合でなく、ただ言葉でそのことを聞いた場合でも、望は一〇%もいたわけである。これは何を意味するのか。解釈は分かれるかもしれない。あるひとは、特攻望か、否かと、聞かれれば、全員望だったはずだといっている。 
 そうかもしれない。こうした状況の中で、特攻志望の実態を一概に決めることはできないような気がする。特攻望否の割合には、さまざまの原因、種々の綾あり、一概に規定出来ぬところがあるからである。逆に、海兵士官の方からいうと、彼らが予備学生をぶん殴ったということは、学生全員がまさに特攻志望であることを望んでいたのであろうか(愛国心の証として)。あるいは、予備学生は特攻要員でしかないということであろうか。 
 しかし、私自身の気持ちから云えば、一〇%(二五人)もすすんで特攻を受け容れる人がいるということが、学生の国に殉ずるモラルの高さを示しているような気がしてならない。



Ⅱ-15 .航空隊における正式の特攻隊募集
 
 募集の仕方については、いろいろの仕方があることが語られている。 
 名古屋空草薙隊(艦爆隊)。特攻志願者は氏名に丸印つけて提出せよ。「いよいよ来たるべきものが来たという決意を新たにしたのであった。当時の状況からして、当然全員志願したことと思われる」(泉義一[明治大。操縦。出水空。神町空]「名古屋空草薙隊」『別冊あヽ同期の桜』200頁  注30 )。 
 松島空でも、四月に特攻隊(九六陸攻)の募集があり、志願するものは「一歩前へ」で、志願が求められた
1注 注 (花田良治[山口高商。操縦。出水空。松島空]「九州十四期」昭和六〇年八月十五日号5頁)。 
 宇佐空については、美座時和[拓殖大。操縦。出水空。百里原空。宇佐空]が、特攻が始まったときのことを語っている。
  「夕食後、指揮所前へ整列した我々に特攻を熱望する者は一歩前進の令が下るやいなや一斉に、ダッ と全員の足並みが揃って出た時の感銘は確かに今でも嘘ではない」(「同期の桜会報」第七号七頁)。筆者は、皆がそろって、さっと出たことに誇りを持っている。 
徳島空であったか、同じ仕方で、一名除いて全員ということが伝えられている。こうした事態には、よく「一名を除いて」という表現が使われているが、その一名がどんな人物であるかには触れていない。 
 多くの隊で用いられた仕方としては、小さい紙片を渡され、熱望、望、否のいずれかを書いて提出せよ、といったものが一般的であった。 
 水上機の鹿島空では、「A‐すぐ」「B‐次」「C‐他の途」「D‐否」の四項目の一つを選ぶのが、志願書類の内容であった。 
 外の仕方では、「申し出」の形をとったところもあった。三日以内に分隊長に申し出る。家族や同僚に相談しないこと。この仕方では、個人の決断が尊重されているといえるかもしれない。 
 航海学校の予備学生から回天搭乗員を募ったときには、この形がとられている。また博多空で神雷桜花隊員募集のときにも、同様な形で特攻隊が編成されている。 
 山本芳知[早稲田大。操縦。博多空。戦七二二]によると、十九年暮れに任官してすぐに、戦闘機要員に対して、分隊長より一五名の神雷搭乗員募集が行われている  注 32
  「当時の情勢下、われわれとしては、好むと好まざるとにかかわらず応募せざるを得ない。自分も 直ちに分隊長に申し出る」。十三期第一陣。十四期第二陣。博多空、美保空、各一五名。海兵ゼロ(『別冊あゝ同期の桜』201〜202頁  注33 )。 
 大津空。昭和二十年に、偵察課程卒業者が徳島空から三月十四日に、大井空から四月十二日に着任すると、着任の日から自動的に特攻分隊編入(同書187頁  注34 )。
 北浦空。昭和二十年二月二十日に応募紙片が配られ、一〇〇人中一名を除き、九九名が署名し志願したといわれている。 
 大井空から三月十六日、十四期偵察来る。三月下旬から移動。詫間空へ。四月十二日には、大津空特攻隊の第一陣が詫間空に進出。ところが、総員見送りの後早速私物を遺品として郷里に発送しようとしていた矢先、四月十五日全員が大津空に引き返してきた。詫間空が第十航艦所属の水偵特攻隊の集結により手狭となり、とりあえず原隊に引き返して待機となったのである。ついに敗戦まで出撃の機をえていない。 
 詫間空。昭和十九年五月二十五日に、土浦基礎教程を卒業するとすぐに三座水偵の操縦学生として詫間空に着任。昭和十九年十二月に少尉任官にあたり、森司令の祝いの弁。「君等は水兵から七階級特進した。異例の事でありお目出たい云々」。この挨拶に何か異様な感じをうけた。水上機隊の特別の雰囲気であろうか。
 
特に特攻志望の志願はなかったが、昭和二十年二月八日「特攻隊についての感想」を提出させられる。その後すぐに十一日には特攻隊が編成。十四期三三名のうち、一五名が訓練に入っている(中野宗直『別冊あヽ同期の桜』179〜180頁  注35 )。 
 水上機隊は、特攻隊搭乗員には、開戦以来敗戦まで、海兵出身の士官は一人もいない。特攻隊員はすべて予備学生と予科練のみである。このことは多くの人が感じているが、一体何を意味しているのか。本当のことは分からない。 
 特攻志願の初めの頃は、各部隊が何らかの仕方で志願の形式を守ったようであるが、次第に特攻が当然の風潮が主流を占め、随時に特攻隊の編成が行われ、それぞれそれなりの仕方で隊員が決定されたようである。 
 特異な仕方であるが、松山空では、個人面談が行われている。
 
 斎藤登茂雄[東京大。土浦空。大井空。松山空。大井空]「神風特別攻撃隊大八洲隊始末記」
 
 二十年三月に入ったころと思うが、私は二分隊長三堀大尉に呼ばれた。「ここで特攻隊を編成するが志願するか」とのじきじきの問いである。今から考えると不思議であるが、ほとんど抵抗もためらいもなく、「志願します」と即答した。やはり未熟ながら、海軍に入って一年有余の教育で、無批判に体制順応、滅私奉公の心構えが出来ていたようだ。分隊長は、「せっかく最高学府まで出たのになあ」と一応の思いやりは示したが、どういう基準で選んだのか分からないが、指名で呼び出した者が同意したのだから、遠慮なく特攻隊に編入したことと思う。
(「海軍十四期」第一三号六頁)


Ⅱ-16 .署名について
 
 渡辺真一郎[土浦空。操縦。谷田部空。美幌空]「特攻所感」(「海軍十四期」第一六号6頁)特攻隊で自らすすんで生命を捧げた戦友の行為は尊いものであるが、これを命令したものが安穏と生きのびたことには憤りを感ずる。 
 命令者に対する怒りは当然であるが、この文章はただ特攻そのものの非人倫性には触れていない。こんな風に書いている。
 
 私は、特攻隊志願をさせられた時の雲ひとつな青い空とあきらめの気持を憶い出す。その後特攻隊解除になった時、本当にホッとしたものである。これは最近読んだ『海軍中攻決死隊』(光文社刊)の中で歴戦の搭乗員横山長秋氏も同じことを書いている。
 
 じっさいは、こちらが署名するのであるが、人によっては、署名する本人は「させられた」といった感じをもつひともいたわけなのだ。つまり、自分としては「させられた」のであって、「した」のではないということであろう。もちろん、「躍る思い」のひともいる。が、全員が必ずしもそうだとはいえないことであるわけなのだ。 
 といって、志願命令を無視して、全く自分の意志で行動する気持ちをもったひとの文章は見当たらない。恐らくいないのであろう。ここに、特攻志願の一つの仕組みがあったともいえるわけである。特攻志願は決して一通り一様な気持ちではないことを理解しておかないと、本当の搭乗員の気持ちを十分に理解することは出来ない。


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注 25   『続・あゝ同期の桜』では二〇七〜二〇八頁。
注 26  押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈海軍編〉』光人社、二〇〇五年、二三七〜二四〇頁の海軍神風 特別攻撃隊出撃一覧表「水上機の神風特別攻撃隊」で確認したところ、確かに一人もいなかった。
注 27  引用原典のタイプミス。正しくは「 biplane 」。
注 28  この軍紀文書とは「海人三機密第三号の六二」という文書である。原本を参照することはでき なかったが、神津直次『人間魚雷回天』に全文が掲載されている(単行本版二六三〜二六六頁)。 武田五郎「ああ回天」に一部掲載されているものと比較すると、全く同じではなかったので、『人 間魚雷回天』掲載の「海人三機密第三号の六二」の該当箇所を掲載しておく。
     「⑥兵器搭乗員及甲標的艇長適任者各五〇名を選抜し(…)」(二六三頁)  
    「一、選抜要領       (イ)本要員は志願者より選抜す」(二六四頁)  
   なお、当該文書には「志望者は直接に学生隊長に申し出ること」という記述は見られない。
注 29   二〇〇三年版では二三八〜二三九頁。
注 30  『続・あゝ同期の桜』では二三七〜二三八頁。
注 31   原典には「一歩前へ」という記述は見られない。
注 32   原文ママ。「神雷」とは桜花特攻を行う部隊名であるため、ここでは「桜花搭乗員」のことを 指すと考えられる。
注 33   『続・あゝ同期の桜』では二三九〜二四〇頁。
注 34   『続・あゝ同期の桜』では二二二頁。
注 35   『続・あゝ同期の桜』では二一二〜二一三頁。
===============

<ebisuコメント>
Ⅱ-10にでてくる「アナポリ」という用語は米軍の海軍兵学校の所在地「アナポリス」を指し、日本の海軍兵学校出身の兵士たちを揶揄している。前線で特攻兵として戦っているのは学徒動員された予科練の者たちだけであり、職業軍人であるはずの海軍兵学校出身者は特攻を命令するだけで自らはやらない。大和魂を失っているから、「アナポリ」つまり米国海軍兵学校出身者と変わらぬということ。
 市倉先生は昭和19年4月1日に第14期
海軍飛行予科練習生として学徒動員された。予科練の1年間の訓練期間が終わると、「予備士官」となり、さらに1年後に少尉任官で正式の将校となる。海軍兵学校は職業軍人のエリートコース、ここを卒業して少尉任官まで4-5年かかるのが普通だったから、やっかみもあって予科練や予備士官を苛め抜いたのだろう。男の嫉妬は手がつけられぬもの、人間性を根こそぎ奪ってしまう。
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四方中尉は見事にアナポリに人間宣言をたたきつけて死んだ最初の一人であった。
 
 彼は午前の攻撃に出て帰って来た。帰るなり又飛び立たされて天候不良で引返した。横たわる暇もなく夜の攻撃に加えられた。それは死の強制と受取られる程のものであった。一方に一度も出撃しない一群もあったからである。 
 彼は夜、出撃前に従兵にビール箱を持たせた。アナポリの部屋にビールビンを投げつけて叫んだ。
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*https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍飛行予科練習生
*電鍵デンケン モールス信号を送信するための装置である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%8D%B5



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