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#3917 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.67~85 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-
17.特攻の死の感慨
Ⅱ-18 .特攻志願実情、実態 :
        ◇「自分と出会う」市倉宏祐◇

Ⅱ-19 .同僚たち
Ⅱ-20 .〈望〉と〈熱望〉
Ⅱ-21 .第一次の隊員たち
Ⅱ-22 .特攻志願理由
Ⅱ-23 .酒巻一夫の日記

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 Ⅱ-17.特攻の死の感慨
 
 特攻隊員でありながら、自分は切迫した気持ちはなかった、といっているものもいる。 
 すでに触れたが、個人的に分隊長から呼ばれて、大井空の大八洲隊に編入された斎藤登茂雄は、こうして「薄暮飛行から夜間飛行へと錬度を上げながら出撃命令を待っていたが」、五月十一日に大井空特攻隊は解散された。
 
 命拾いしたと思ったのも束の間、同年六月大井空の特攻隊は再び編成され、鈴鹿空で偵察訓練を受けていた私は呼び戻されて第二中隊(…)となった。専ら夜間飛行の訓練が続いたが、八月始め、第二中隊は松山の拝志基地に転出し、待機中終戦となり、(…)またも死を免れたのである。 
 前後二回の特攻隊生活は「いずれ出撃して死ぬのだ」と覚悟した日々であったはずだが、それほど切迫した気持ちになった記憶がない。生来鈍感で死というものを切実に考えなかったのか、特攻死を受忍し諦めていたのか、或いはまだ出撃命令を受けていないので、死に直面した心境に達しなかったのであろうか。 
 この点、敬服するのは同期の河晴彦君で、三月に特攻隊に入ってから六月二十二日に戦死するまで、常に死をみつめ考えていたようで、五月十八日の母堂への手紙には「一日一日を宝玉の様にいとおしみ、惜しみなくくらしています」と書いている。
(「浜までは蓑を着る」「海軍十四期」第一九号一〇頁)
 死に鈍感なのか。あまり考えもしない性分なのか。それとも、諦めているのか。日々に追われているのか。自分自身がはっきり分からないのかもしれない。痛烈な経験というものには、こうした面があるような気もする。
 
 しかし、回天志願では、はじめ決心が付かなかったひとがいる。何人かが自分でそう書いている。もちろん逆に、自分ではっきり決めたひともいる。
 
 大石法夫[航海学校。二分隊四区隊]
 
 何人応募したか今も知らぬが、ともかく小生は翌朝分隊長室を訪うた。同班の某学生は一人息子とかで慰留され、部屋で泣いていたが、小生の場合は言葉も少なくすぐ許可してくれた。
  「貴様は兄も二人いるし、もっとも適任である」。そんな言葉をもらった。
  (…)もう来年は桜の花を見ることはない。死ぬのなら平然と死にたい。見苦しい死に方はし たくない。…)人の子と生まれて親の愛情は手厚くいただいた。就職したら給料をもらったら、まず第一に親にお礼の気持をさせてもらおう。(…)それははかない夢となります。
  (…)回天の中で一応操作を終えますと、望郷の念が起こります。競争ばかりしたなあ。(…) 人間に生まれた甲斐があったという平和な日があっただろうか。ないとなったら自分の人生は何であったのか。靖国神社へ祭られたとしても何の意味があるのか。もしあえて意味を尋ねるなら、両親に二四年間、人一倍愛情を注いで養育をしていただいたことが、ただ一つの誇りであった。
(『一旒会の仲間たち』二〇一〜二〇三頁)
 
 この人の文面からは、彼が何故志願したのかが全く分からない。あるいは、自分でもその理由がはっきり分節化しえていなかったのかもしれない。人間の気持ちには、こうしたものが多々あるのではないか。一つの例として引かせてもらった次第である。
 
 初の募集には決心が付かず見送り、二回目のときに応募したひともいる。
 
 田英夫[東京大経済学部。四期兵科予備学生。航海学校。震洋](同書一二八〜一二九頁)は、最初の募集の日の晩は決心が付かず、眠れず、志願した仲間がぐうぐう眠ってゆくのを一晩中気にしていた自分を書いている。彼も二回目は志願しているが、何故最初は見送り、二回目には決断したかは、書いていない。誰も拒否はしたくない。しかし、いま死ぬのはちょっと抵抗がある。どうしようかといった苦悶ではなかろうか。細かい気持ちのひだなどは表現しきれない。あるいは、こうしたことなども、自分でははっきり表現できない、あるいは自分自身でも分からない点があるに違いない。


Ⅱ-18 .特攻志願実情、実態
 
 特攻志願、あるいは特攻体験については、自分が何と書き、どう感じていたかを、多くの人がごく親しい少数の人にしか喋っていないのが実情のようである。何故かほとんどの人があまり話さない。会報に書かれたものの中でもこのこと自体に触れた文章はたいへん少ない。 
 これが何故なのかも一つの問題であるが、詳しくは本来書けない性質のものなのかもしれない。具体的に署名入りで、何と書いたか、どう感じていたかをはっきり述べている人は、たくさんの会報記事の中で、わずか二、三人でしかない。ここでは、戦後何十年かの後のコンパのときにあれこれ聞いた話で補うことにする。
 
 沢田泰男[大正十一年六月二十九日生まれ。東京大法学部。昭和二十年五月八日横須賀上空戦死] 

 昭和二十年四月十二日(日記)
  (…)特攻隊員に命名されて、体当りするまでの気持なんていうものは、とても筆などにては 真を写し切れるものではない。この心境は、かかる経験を有するもののみが味わいうるものとして、書くことはやめよう。 
 さらば、父母、弟妹よ、師よ。御健康をお祈りします。
(『あゝ同期の桜』一四六頁  注36
 
 戦後五十年以上も経った頃になって、頼まれてたまたま新聞に自分が書いた文章を掲げておく。ひとそれぞれに思いがあって決してこれが一般的であるなどとは思わないでほしい。もっと勇壮な方もいるであろうし、もっと慎重に多くの面からこの作戦を考えた方もいるであろう。ただ一人の例として考えていただいたらいいと思う。

◇「自分と出会う」市倉宏祐◇
            朝日新聞記事(平成十年三月十日)
 
 昭和二十年の早春、沖縄を守るための神風特別攻撃隊が発令された。この時のことが思いだされてならない。私は谷田部海軍航空隊でゼロ戦の訓練を受けていた。志願を求める司令の話があり、その場で熱望、望、否、の何(いず)れかを記入する用紙が配られた。 
考える時間は十分ぐらいであったかと思う。これまでの生涯がすべて尽くされたほど、大変長く感じられた。最後に〈熱望〉と書いた。決断は一瞬である。その場で血書して志願した者も(四月に沖縄に突入)、また否と書いた者もいた。 
 最初の攻撃隊の発表があるまで、何日かあった。志願の決断のときよりも、この間の方がはるかに重厚な思いをした。道は二つ。選ばれるか、残るかである。一は死であり、他は生である。誰しも従容として死地につきたい。死の覚悟といった言葉は、いくども聞いてきた。ところが、今は全く違う。自分とは何か。いや、何であったのか。この自分が消滅するのである。 
 生きていたい気持ちは否定すべくもない。しかし、自分の死によって国の危機が救われるかもしれない。特攻作戦は回天の戦術でありえたのか。あらゆる面から検討されるべきである。が、いま問題なのは、自分がこの作戦に身を投ずることである。 
 ときに、死にたくない気持ちが強くなる。悪い時代に生まれた。何年か後に生まれてきたら、こんな思いはしなかったであろう。 
 ときに、気持ちが落ち着いてくる。いや、その時代に生まれた者が、その役目を果たせばそれでいいのだ。自分は日本人の生命の流れの一齣(ひとこま)を生きる。隊の外を通る若いお母さんや幼い子供たちを見ていると、何とも心が安らかになる。私が死ねば、彼らは生き残れるかもしれない。誰かれもが、自分の兄弟姉妹のように思われる。一体となって生きている実感が湧いてくる。 
 しかし、飛行場の縁路面注 37に座って、地平線に沈む大きな夕日を見ていると、生きていたい気持ちが悠然と起こってくる。この気持ちは、生きていたいという以外には、余り内容がない。もはや生命の流れとも、一体となる実感とも無縁である。閉じられた私だけの暗い世界である。それだけにまた計り知れない魅力がある。 
 一は生命の流れを守る私であり、他はそれに支えられた自分だけの私である。一は流れに一体化する安らぎであり、他は自分に囚われる執着である。二つの私は通常は絡み合っていて見分け難い。それが突然明確な姿で別々に現れる。熱望の決断は、この二つの私を統合したたまゆらの一瞬であったのだ。分離すれば、一方は絶えず他方に反転して、夫々(それぞれ)の境地を護りえない。安らぎも執着も、何れも迷いであって、悟りではない。むしろ両者の交錯が自分の生きている命運なのだ。
 交錯を直視していると、そのリズムがゆっくりしたものになってくる。 
 攻撃隊は八次まで突入したが、沖縄が陥落して、特攻配備は本土防衛に移行する。幸か不幸か、私は終戦まで攻撃隊員に選ばれることがなかった。今もなお生きることに恵まれている。
 彼らが征かなければ、私たちが征っていたであろう。どんな思いで彼らが出撃していったかは、私たちの思量を超えている。ただ、代わりに生き延びることを譲ってくれたことだけは確かである。己は生命の流れの底に身を沈めて、私たちをその流れの上に残してくれたのである。我々に代わって、身を捧げた人たちの魂の鎮(しず)もりが響いてくる。
 
 当時の状況に少し触れておく。
 
 次に特攻隊の編成があるまで、隊内に残っていた我々はいろいろな経験をした。使われてないエプロン(格納庫の前のコンクリート広場)が敵機の目標になるというので、これを壊す作業。鉄のハンマーでコンクリートを割る作業であるが、これは一撃ごとに頭がカチンとする。簡易防空壕を造るために大きなヒューム管を六、七人で飛行場の隅に運んで行く作業。見た目には楽なように思われたが、やってみると腕立て伏せを何百回もすることになるわけである。 
 敵が上陸してきたときには、陸戦もできなくてはということで、何人かで館山の砲術学校へ一ヶ月講習を受けに行ったりした。航空隊ではもっぱら飛行機の訓練をしているだけであるので、日米間の戦争の実状はほとんど知らなかった。 
 ところが、館山に行って驚いた。日本のどんな大砲をもっていっても、アメリカのM4戦車では跳ね返ってくるというのである。兵隊が穴に隠れていて、特別の形をした爆薬を竹竿の先につけてぶつけるか、軍艦の砲弾にロケットをつけてベニヤ板の台座の上を滑らしてうまく当てるか、するほかはないという。 
 その実物をじっさいにやって見せてくれるのである。戦争がそんな状態になっているのを知って、そのとき初めてこの戦争はもう危ないかもしれないという気がしたのであった。 
 航空隊に戻ってくると、空襲の度に教官たちが邀撃にでるわけである。戦闘配備になると、我々は戦闘指揮所の周りに詰めて、飛行機を動かしたり、燃料を入れたり、機体を磨いたりする。機体が磨かれていないと速力が五ノット違うといわれていた。空戦でそれだけ違えば勝敗に関わるわけである。 
 発進の命令が出ると、一五、六機のゼロ戦が風向きを度外視して全機が一度に離陸してゆく。たいへん勇ましい光景である。 
 ところが、これに引き替えて、帰ってくるときが寂しい。一機一機と帰ってくる。主翼に敵の機関銃の弾で穴がいくつもあいているのに、そのまま燃料を詰めてすぐに離陸して行くのである。 
 しかし、まだ帰ってくるのであれば、うれしいのであるが、暗くなっても、半分ぐらいしか帰ってこない。帰ってこない飛行機を待っているのは寂しいものである。 
 空戦が終わって、二、三日は、これこれの標のついた飛行靴があったとか、〈ヤ〉(谷田部空の飛行機についている記号)の何番の記号のついた翼の破片があったとか、あちこちの村や町から連絡が入る。結局何の連絡もなく、どこでなくなったか分からない飛行機もいくつか出てくるのである。 
 若い紅顔の飛行兵曹が「帰ってきてから食べますよ」「とっておいて下さい」と握り飯を半分残して出撃して行ったが、暗くなった戦闘指揮所のテーブルの上に、一つぽつんと半分食べかけた握り飯がいつまでも残っていたことは今でも忘れられない。 
 高等学校の寄宿寮の部屋で一緒だった友人が気象兵で鉾田(茨城県)の観測所にいた。航空隊に所属している気象隊で、彼のほかはほとんど若い女の子ばかり。外国の電波が入る。娘さんたちが楼上楼下を駆けめぐっている。一晩ゆっくりしゃべりながら、軍隊にはいろいろの持ち場があることを今更ながら思い知ったことであった。 
 あまりにも搭乗員の消耗が激しかったからであろうか、敵の本土上陸作戦に備えて兵力温存するため、米機の空襲に対して教官たちが邀撃に出動しなくなっていった。そのうちに隊そのものが敵の艦載機の攻撃を受けることになり、若い水兵がグラマンのロケット砲にやられて体が破裂した姿などは悲惨なものであった。 
 沖縄の敗北と共に、我々の中から神雷部隊(〈桜花〉という人間爆弾の部隊)の搭乗員に転出するもの、本土防衛の特攻隊の訓練に北海道に転勤するものなどの動きがあり、私なども朝鮮の元山にゆくことになっていた。それが八月に終戦になったわけである。 
 八月の十五日には、厚木から戦闘機が飛来して決起を促したり、副長だか、飛行長だとかが、我々の自決の問題はどうするのかといった士官の会議があったりしたが、結局飛行機が勝手に飛び出さないように、八月の二十二日には搭乗員は全員即刻帰郷になった。


Ⅱ-19 .同僚たち
 
 特攻志願については、さまざまな思いをした。谷田部空の特攻隊(神風昭和隊)に選ばれたひとの中には、本当に心底希望して、喜びすすんで隊員になった人たちがいることも、紛れもない事実である。こんな人たちがいた。


 血書 
 笹本洵平[台北帝大]は悠々としていて、細々とした器用なところない大きいひとであったが、この人が特攻志願に当たって即座に指を切って血書で願書を提出したことを聞いてびっくりした。私なども何とか行かなければならないかなという気持ちはあったが、血書して往くなどという気持ちは理解し難いものであった。
 
 分隊長に特攻を直訴した佐藤、松村両君の気持ちについても同じ思いをした。 
 一人は先に谷田部空から鹿屋まで進出する文章を紹介した佐藤光男、今一人は松村米蔵[日本大]で、二人とも土浦航空隊では私と同じ班にいた同僚である。谷田部空で、昭和二十年の二月に特攻志願が求められた日の夕方に、たまたま本部の方から二人が帰ってくるのに遭遇した。二人とも今、分隊長にわざわざ特攻隊に入れて欲しいと申し出てきたとのことであった。 
 驚いた。松村には奥さんがいて、赤ちゃんもいたはずである。どうしてそこまでやるのか、分からなかった。しかし、そういう人がいたことは事実なのである。佐藤とたいへん仲が良かったので、二人して志願する気になったのであろうか。二人とも、特に愛国の言辞をこととしていた人たちではなかった。今でも分からない。残念な人たちである。松村は昭和二十年四月十四日に第一昭和隊で、佐藤は四月十六日に第三昭和隊として出撃している。 
 戦後になって、私の同僚の一人が追悼会のおりに、松村の奥さまに聞いた話であるが、彼女が「あのとき一万円出していたら、主人は特攻をはずしてもらったかもしれないのですってね」といっていたことが忘れられない。ありもしないことを吹き込む人たちがいるわけなのだ。 
 彼らの本当の気持ちはどういう気持ちであったのか、今私たちにもやっぱり分からない。個人個人によってそれなりの心構えがあったと思うほかはない。奥さんは、その後、神主として息子さんを育てて、めでたく立派に神社を嗣いでいるとのことである。



Ⅱ-20 .〈望〉と〈熱望〉
 
 また、こんな人もいた。特攻志望の書類を提出したすぐ後のことであったかと思う。学生舎に帰って、ベッドを整理していると、そこに一人の同僚が帰ってきた。「何と書いたか」。「熱望」と答えると、彼も「俺もだ」。あまり元気がない。 
 そこへもう一人が戻ってきた。「俺は望と書いたよ」。「俺は熱望だよ」。
  「しまった」といったかと思うと、その同僚は、アッという間に自分のベッドの周りを全速力で、 早周りし始めた。少なくとも三十回以上も。 
 何を言っても、ただ一層早く回るばかり。見ている私自身も、「そうか、我ながらつまらないメンツに囚われて熱望と書いたかな」と思った。しかし、黙っているほかはなかった。志願には、やはりメンツを気にする部分があって、直接の自分の気持ちに忠実に「望」と書いた一人に敬意を払うほかはなかった。 
 といって、私自身はやはりもう一人のように、自在に廻りきれないものがあって、己れ自身の確信の無さを思い知らされて、「これが自分なのだ」と、自分自身に納得するほかなかったことを覚えている。 
 このことは、何故自分が「熱望」と書いて、「望」と書かなかったこととも関係しているかもしれない。熱望、望、否。後年のコンパのときの話では、「望」と書いた人たちがたいへん多かったようであった。何故あのとき、自分は熱望にしたのか。はっきりした理由は自分でも分からない。 
 よく戦況を知っていたわけなのではない。とくに特攻のみが日本を救う途だと熱望していたわけでもない。我々は真の戦局は知らぬ。参謀は当面の戦果を求めているだけだったのかもしれない。が、一方では微かではあるが、日本を救えるなら死んでも仕方がないという気持ちがあったことも事実である。 
 戦況とは別に、何か自分個人の生き方やそのことへの意地のようなものが働いていたように思う。もとより、国を救うべき時だとは思っていた。が、特攻が唯一の作戦であると確信していたわけではない。が、にもかかわらず熱望とした背後には、何か「望」では自分自身に対して潔くないような気がして、自分の意地みたいなもので「熱望」と書いたような気がする。対面とか、面目とか、あるいは、自分だけ助かることなどにはなりたくないといったような勝手な気持ちがあったようである。 
 何となく、「望」と「熱望」との相違が感じられているわけである。何かしらこだわりがあることが考えられる。「望」と書くと潔くない気がしていたが、本人は決して断固特攻を願っていたわけでもない。「望」より「熱望」のほうが思い切りがいいとか(若かったせいでもあろう)、今からいえば、つまらないことにこだわっていたといえるかもしれない。 
 しかもそのときは、みんなが「熱望」と書いたと思っていた。戦後のコンパで、あの時何と書いたかといったことが話されて、多くの人が「望」と書いたことを聞かされて、我ながら自分が堂々たる確信を持っていなかったことを情けなく思ったことであった。 
 また、「否」と書いた人もいた。
  「否」と書いた人は、二、三の分隊では一〇〇人にうち一人はいたとのことが、会報には載っている。 しかし、誰がどんな気持ちで否と書いたかなどという記事は全くない。自分が何と書いたかは、誰も聞かなかったし、特に親しい仲間にしか話さなかったように思う。たまたま、否と書いたとみずから語ってくれたひとがいた。年をとった母がいるからといっていた。私はこれを聞いて全く感動したことを憶えている。 
 末子の私にとっても母親は最も大切な存在であったからである。多くの人が特攻を志望したが、彼は自分の心情を貫いたのである。私にも年老いた母がいた。が、自分には書けなかったことが、我ながら情けなかったのかもしれない。 
 もっとも、戦後三十年もたった頃であったであろうか、たまたま彼の話になったとき、その頃の彼は戦闘機で縦横に空中戦がしたかったから、特攻を志願しなかったといっているという話を聞いた。何か割り切れない感じがしたが、何も変える必要はないのに、こう変えざるをえないものが、やはり何かあったわけなのであろうか。いずれが真実なのか、それとも両方とも真実であったのかもしれない。あるいは、特攻志願の本来の姿などというものは分からないものなのかもしれない。



Ⅱ-21 .第一次の隊員たち
 
 どういう理由で、初めの三〇人ほどの人々が選ばれたかは分からない。第一陣で鹿屋に出撃しながら、敗戦まで出撃の機会がなく、何人かが運良く帰ってきた。この中の一人の人の話では、「熱望」だけではなく、何かもう二、三句つけ加えた人が多く選ばれていたようだといっていた。 
 一方、同じく運良く帰ってきたもう一人は、「熱望」と書いたものは、みんな選ばれて特攻隊員になったと考えていたという。たまたま、小生が「熱望」と書いたという新聞記事を見て、「熱望」でも行かなかった奴がいたんだと天を仰いでいた。じじつ、「熱望」と書きながら、寝台を駆けめぐった同僚も運良く行かなかった。



Ⅱ-22 .特攻志願理由
 
 特攻志願提出のときに、何と書いたかを書き残している人はけっこう何人かいるが、その間の感情の動きを細かく書いている人はほとんどいない。いくつか挙げておこう。
 
 航海学校で、震洋特攻募集のときのこと。

  (…)決定的に命を捨ててしまうには、まだ娑婆っ気たっぷりだったが、格好よく死にたい。 どうせ負戦だから、木っ端微塵になりたい。ほんとに、そう思いこんで、単純に、どんな特攻隊かも詳しく知らないまま志願した。いきなり不採用になった。 
 けったくそ悪く翌日の練兵に出ず、 Only strike したのが功を奏したのか区隊長はじめ偉いサンが、「そんなに行きたいか?」と、いうことで、採用された。
高木渉[大阪商大]『一旒会の仲間たち』一七四頁)


 鹿島水上機の特攻志願

  「A︱すぐ」「B︱次」「C︱他の道」「D︱いや」を記名で理由を付けずに出せ。銀河の事故や 特攻機が標的直前でスティックを引くのが多い事を聞いていたので、敢えて理由をつけて「C」と書いた。部屋に戻って某も「D」を選んだと聞いて、共に後難を恐れたがそれは無かった。
(須永重信「私の一年八ヵ月」「海軍十四期」第三五号八頁)
 
 もともと、CやDをみずから提出したことを会報に書いているひとは、この人一人だけである。本人は特攻隊には編成されなかった。



Ⅱ-23 .酒巻一夫の日記
 
 偵察課程の方で面識はないが、酒巻一夫[昭和二十年四月十二日串良より特攻出撃]は、入隊以来の日記が残っており、まことにひとときの迷いもなく、いつも文字通り立派な軍人たらんとする文章を残されていて、こんな方がおられたのかと、今更感慨深いものがある(参照   『学徒出陣 50 周年記 念特集号』四五〜五〇頁、「関東十四期」第五号三頁、「九州十四期」平成二年十一月十五日号六頁)。 
 彼は昭和二十年の三月十七日大井空の偵察課程を卒業して、艦爆艦攻の百里原空に着任。着任と同時に全員特攻要員と申し渡され、三月二十二日には早くも特攻隊員に指名され、四月十二日には串良基地から出撃している。 
 彼は「いつもニコニコして自信と落着きが感じられ」る人柄であったが(萩原浩太郎「百里原空の三人の友」『別冊あヽ同期の桜』二一八頁  注38 )、彼自身はみずから「躍る思い」といい、「自信なしとはいえ、殉皇の至誠を捧ぐるの機に恵まれ、感奮邁往せむ」と日記に記している(『学徒出陣 50 周年記念特集号』四八頁)。 
 特攻指名から「百里原空進発までの十日間激しい特攻訓練の明け暮れであったが、同期生には露ほども胸の苦衷を垣間見せなかった」(江名武彦「弧雲愁傷・九七艦攻隊散華」土居良三編『学徒特攻その生と死』二九八頁)。
  「凛とした風姿で偵察席に仁王立ち、帽振る私共に挙手の礼で応じて離陸して往った」(同書二九九 頁)。
 
 水上機特攻の岩永敬邦[東京大。操縦。北浦空。詫間空]はこう書いている。

  〔特攻志願の紙片は〕半紙を八つ切りにした紙を二つ折にして、熱望、希望、希望せず、何れ でもよいから、記入して出せと申し渡される。名状しがたい硬さが部屋を占める。勿論それは熱望という二字で埋められねばならない仕掛けになっているものなのだ。一枚一枚を開いていくうちに、行間に、蔽えぬ動揺を伝えるものも見える。
  (…)
 四月十一日朝、魁、水心隊搭乗員整列の令達が流れる。(…) 
 今日の特別攻撃隊員の名が呼びはじめられた。
  「今度は俺だ」読み上げられて行く人毎に、一語々々が、己れの名前に近よってくる。それは 既に所与としての距離であり、時間であり、刹那である。ガキッと己れの名前が己れの肉体を噛み込んだ、暗黒い光がさっと眼を蔽って去った。生命の時間と方向が、今度は本当に刹那に決定されてしまった。二十三歳の生命はその瞬間に生命を絶った。絶たれて尚定められた時間の間、己れの意志と力によってその道を歩かねばならぬ。
(『別冊あヽ同期の桜』一六九頁、一七一頁 注39
 
 前田夘一郎は、航海学校で第三分隊にいたときの人間魚雷〈回天〉志願の体験をこう書いている。

  (…)今日若い人たちから「なぜ志願したか?」と質問されるが、当時は志願することについ ては説明は不要であって「志願しない」ことについて説明を要した。しかし戦後から現在に至る間は逆となって「志願する」理由が問題であった。本当はこのことが重要であったと今でも私は考える。私は海軍入隊時飛行科を志願したくない理由を試験官に答えたが説明とはならなかった。しかし試験官は飛行科を第三志望としていることと、私が長男であることと、私が繰り返し志願したくないことを察してあえて飛行科に採用の判定をしてくれなかったことに今もって恩義を感ずるとともに恥ずかしいことをしたと内心恥じていた。
  (…)私は志望すべきや否やについて話し合う環境もなく時間もなかった。(…)前線の弾丸雨 飛の下の死生観もなく死を畏れていたことはもちろんであって、形而上の一般論で結論など出るはずがないまま、灯火管制下の薄暗い中での自習が終わったところで、本部二階の教官室に赴いた。
  (…)分隊長は「このたびのことに関して学生の総員志願のことを期待したが、必ずしもそようなことにならなかった。しかし選ばれた諸官は分隊長の期待に添うごとく任務を完遂すべし」と訓示があった。
(「わが海軍航海学校の憶い出」『一旒会の仲間たち』三四五〜三四九頁


 山鹿少尉
 
 一方では、特攻を逃れる機会をみずから断った予備士官もいた。 
 山鹿悦三少尉[三高。東京大。偵察。神風特別攻撃隊八幡振武隊。南西諸島]がこの士官である。 
 これは石田修[東京大。操縦。徳島空。宇佐空]が、この山鹿悦三について語っているものである。

  (…)私は宇佐空着任後、司令、飛行長に呼び出され、飛行長付を命ぜられた。その時、「君と は、最後に、我々が同乗して出撃するから、それまでは作戦関係の事務を分担するように」と命ぜられた。 
 その後、飛行長付の業務が多忙のため、増員する必要が生じ、私に、同期生中から候補者二名を選ぶよう命ぜられた。そこで、任官序列に従い先ずK・H君(元徳島空第三分隊学生長)を指名 
し、決定した。次に山鹿君を指名したが、彼は「特攻出撃のため、ここまで来たのだから断る」と峻拒し、その後、特攻出撃した。まことに痛惜の至りである。
(「されど特攻隊」「海軍十四期」第一八号七頁)

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注 36  二〇〇三年版では一六四頁。
注 37  朝日新聞に掲載された文面には「縁路」とあったが、著者の原稿を確認したところ「縁路面」 となっていたため修正した。著者は常々、縁路面に座って眺めた風景やその時々の心象などにつ いて話していた。
注 38   『続・あゝ同期の桜』では二六〇頁。

注 39   『続・あゝ同期の桜』では二〇〇、二〇二頁。 
===============

邀撃:[ようげき]名〙 (「邀」は待ち受けるの意) 来襲して来る敵を待ち受けて攻撃すること。むかえうつこと。



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