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#3919 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.86~99 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-24 .特攻における諦めと勇気
Ⅱ-25 .特攻も通常化
Ⅱ-26 .搭乗員と参謀の関係
Ⅱ-27.特攻志願説
Ⅱ-28 .特攻命令
Ⅱ-29 .特攻発令者の心情
Ⅱ-30 .特攻世界と参謀
Ⅱ-31 .特攻隊員の心情
Ⅱ-32 .特攻とは
Ⅱ-33 .特攻員と気持ち
Ⅱ-34 .特攻の心得はこう教えられていた
Ⅱ-35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる
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Ⅱ-24 .特攻における諦めと勇気
 
 特攻出撃は軍の命令ではない。搭乗員の志願であったのだ。海軍は一貫してこう主張している。陸軍も同様である。かつての上官たちがこぞってこういっている。 
 搭乗員も、そうだと言っているものもいる。書いているものもいる。しかし、否と書きようもない雰囲気の中、これが自発的志願かと疑問をもらしているものもいる。 
  しかし、沖縄戦のはじめ頃までは、先に触れてきたように、確かに志願の手続きがとられていた。正式の志願方式に「否」と書いて何か報復を受けた話は聞かない。海兵が一人も特攻に出なかったと水上機隊でさえ何もなかった。先にちょっと触れたが、十四期会報で、自分自身「別の途を志望」と書いているものが、一人いる。この同じ水上機隊で、はっきり「否」と書いたものがもう一人いたとのことであるが、二人とも制裁はなかった由。 
 公式の志願募集ではなかったが、どこへ行きたいかの希望を書かせた徳島空で、特攻の希望が少ないといわれて、全員がその晩からひどい仕打ちをうけた話は先に触れた。ただ、これは正式の隊の命令ではなかったが、そういう空気が無言のうちにあったことは否定できないであろう。


Ⅱ-25 .特攻も通常化
 
 航海学校の回天志望の時であったか、志望を変えて、そのため監禁された学生がいたこと(参照087 ︱ 25.特攻も通常化『一旒会の仲間たち』二一三頁)、何か日常業務の失敗で伏竜(水中特攻兵器)に廻されたもの(同書三二六頁)などが、同僚の追想に書かれている。 
 その他、陸軍などでは、機体故障などで帰隊、あるいは不時着したものが説教されたり、参謀の勅諭書き写し命令を受けて〈振武寮〉に缶詰にされた話、海軍の水上機隊で、帰隊するとすぐまた出撃させられたりした話は、先に触れた。が、一方では逆に、帰還してきても、すぐ当然かのごとく平然と次の特攻に従事したと書いているものもいる。個々人はさまざまである。 
 概して搭乗員は、〈不動の確信〉とか〈常時の諦観〉などとは無縁である。彼らの心情は決して一義的でない。それに、貧しい自分の経験から言えば、気持ちは絶えず動いている。不動の安定などというものとは無縁である。 
 もともと、特攻などというものは戦いの作戦などといえるものではない。世界の戦史のどこにもない。大西滝治郎もみずから「統師の外道」といっている。が、外道とはもともと人間の道を外れたもののことであろう。何故、彼は海軍の中に、いや人間界の中にとどまっていたのか。海軍の非人間性の隠れない証拠であるというほかはない。
が、特攻搭乗員が、特にこの性格と離れがたいのは、何より自分から生きて死ぬことを決めていると思っているからであろう。彼らの世界では、生と死とが全く同次元で同居しているのだ。 
 絶えず緊張動揺しているといってもいい。これはニヒルを生きる人間の当然の在り方であろう。正面から見れば、悲劇苦悶と安心面目とが一体をなしている。時によって、そのある一面が強く出るといってもいい。 
 しかし、この事態は、別の角度から見れば、彼らが安心立命を求めて絶えず精進努力を続けている状況であるといってもいいかもしれない。苦闘の人も安心の人も、それぞれの一瞬を生きるほかはないのである。搭乗員たちが外からは一見無心のようにみえるのは、このせいかもしれない。

Ⅱ-26 .搭乗員と参謀の関係
 
 もともと搭乗員の心情のこうした状況は、じつは参謀の幻想の反映であるというほかはない。よく考えれば誰でもが気づくように、特攻は明らかに成算なき自滅作戦の強行である。これに日本軍の勝利を読みとるのは幻想以外の何ものでもない。 
 最初に特攻を出動させた大西滝治郎は、初めは特攻の目的は、レイテ海戦に臨む米海軍の航空母艦の甲板を破壊し、敵航空機の活躍を阻止して海戦を有利に導くためだと言っている。ところが、これに失敗すると、 次に、航空機による全力特攻で、「これで何とかなる」態勢にもってゆく。さらには、一億総特攻の徹底抗戦を通じて、勝てなくても負けない体制を確立する。米国も我々に畏敬をもつことになるだろう、云々。 
 次々と目的が変わっていっていることは、本当の目的がないということである。つまり、特攻そのことを続行することが目的であったということである。 
 ある隊の話であろうが、特攻作戦の目的は、練習機特攻で戦況を一ヵ月間もちつなぐこと、その間にわが国の航空機工場の地下工場化が完了し、新鋭機の生産が可能になるという説明であったという
(石田修「されど特攻隊」「海軍十四期」第一八号七頁)。こんな話も語られていたようである。


Ⅱ-27.特攻志願説
 
 もともと、特攻という命令の主題目は国家の存亡に関する。志願は搭乗員をこの存亡に動員するための仕掛けである。この装置は、特攻に兵士を動員するために、参謀たち考え出した方策であったのだ。命令への動員が兵士自身の志願によるということになっているからである。 
 もっとも、参謀たちはこの欺瞞に自分たち自身は気づいていないのであろう。だから、戦後になってすら、軍の指導者たちは、特攻は志願であったと絶えず繰り返し主張している。 
 特攻が志願とされたということは、じつはそれが〈志願を求めた命令〉であることを表面的には隠してしまうことであったのだ。志願だから、命令ではないといい続けられている。しかし、志願といっても、特攻命令(つまり、〈志願するかしないかを表明する紙片〉の提出)が〈命令〉されていることを見落としてはならない。誰も何にも言わなかったら、何千人もの搭乗員が果たして特攻に名乗り出てきたであろうか。志願という言葉には何か〈欺瞞〉があるような気がする。 
 多くの搭乗員たちの苦闘は、この仕組みに深く関係している。死ぬことを決めたのは、搭乗員自身の決断であることになっているからである。生きることが、みずから死を受け容れているところに、彼らの心情の苦悶が去来しているのだ。


Ⅱ-28 .特攻命令
 
 特攻による突入は命令なのだ。「命中させても帰ってくるな」。しかし、特攻が志願とすると、この死は自分が決めたことになる。志願形式は命令による、生死の交錯をうまく隠している。国家の存亡に馳せ参ずるものとして、搭乗員の名誉、面目、勇気を約束し、自分だけが参加しない恥辱、同僚に遅れをとる卑怯を排除するのだ。 
 参謀、隊長、司令官たちは自分の死は考えもせず、成果も考えずに、兵士の死も計算に入れず、戦果を計ることも忘れて、次々と特攻を出撃させている。彼らは特別攻撃を通常化する命令者になりきってしまっている。


Ⅱ-29 .特攻発令者の心情
 
 もっとも部下の特攻搭乗員を指名する自分の責任を全く考えなかった人間ばかりではない。神雷部隊(桜花隊)の分隊長であった林富士夫中尉は、部下たちばかりを特攻メンバーに提出することに疑問を持った。「なぜ指揮官先頭で行かせないのか11 注 」。出撃者名簿の筆頭に自分の姓名を書き、司令の岡村基春大佐に提出した。岡村は即座に林の姓名を消し、「そんなことに堪えられぬようなヤワな男は兵学校で養った覚えはない」と一言のもとにはねつけている。「君は最後だ。そのときはわしもゆく」(『一筆啓上瀬島中佐殿』一〇六頁、一一六頁)。 
 同様な言葉は大西が比島から台湾に撤退するときにも使われている。比島の航空作戦の続行が不可能になったとき、多くの特攻搭乗員を出撃させた航空艦隊の長官であった大西は残留部隊を残して台湾に撤退してゆく。このとき残留部隊には陸戦に活路を求めよと指示を出している。 
 この大西の指示に対して、「直言」「剛毅」な人物で、残留する佐多司令は、大西の台湾退避に違和感をおぼえて「総指揮官たる者が、このような行動をとられることは指揮統率上誠に残念です」。大西は真っ赤になって唇をふるわせ、「何を! 生意気いうな」と佐多に平手打ちを喰わせた、という話が伝わっている(森史朗『特攻とは何か』二九七頁)。 
 もっとも、じつはもっと低い声で、「そんなことで戦(いくさ)ができるか!」と、右の拳が司令の頬に飛んだだけのことだ、と大西に好意的に書いている文章もある。この文章は大西と共に台湾に戻ってきて、戦後までも生き延びた大西の副官によるものである(同書二九九頁)。いずれが真実であるか不明である。 
比島残留部隊総勢約一万五千四百名の内、山岳地帯で生き残ったのは四五〇余名でしかなかった(同書二九七頁)。 
 大西は戦後自殺したが、その遺書には隊員を多く殺したことについて、わびる言葉はない。むしろ「よくやった」などという指揮官の言葉を書き残している。大西が何故自殺したか、よく分からない。ただ特攻搭乗員を悼む愛惜の念はない。敗戦直後は、米軍は特攻隊員を処刑するという噂が流れて、生き残った搭乗員の中には、米軍に捕まるといけないというので、すぐには故郷に戻らないでいたものも何人かいた。しばらく隠れて様子を見ていたのである。大西滝治郎が自決したのは、こうした状況の中である。敗戦の日の晩のことである。 
 神雷部隊の司令であった岡村大佐は、「最後のそのときはわしもゆく」といつも語っていたが、敗戦のときにもそのまま生き残っている。ただ、昭和二十三年七月に千葉県で鉄道自殺している。遺書はなく、「自殺の原因は、神雷戦没者たちに詫びるためではなかった」ようである。蘭印方面で昭和十八年頃に起こった「捕虜虐待事件の関係者として、連合軍の追及を苦にしてのことだった」といわれている(『一筆啓上瀬島中佐殿』一三〇頁)。


Ⅱ-30 .特攻世界と参謀
 
 搭乗員の文章を見て、気づかれることの一つは、概して家郷や親族に比して、友人、知人に関する文章が少ないことであろう。つまり、横の関係に触れているところが少ない。横の関係とは一般の世間との関係であろう。あるいは、生きている人間世界のことといってもいい。横が少ないとは、現実の人々が生きている世間にあまり関わっていないことといってもいい。つまり、彼らは、幽鬼奈落の世界に近いところにいたのである。 
 もっといえば、彼らは国のために死ななければならなかった。にもかかわらず、必ずしも本人がその現実の国に直接的に結びついていない。人間界を離れてしまっている。しかし、この事態は、参謀がじつは「横の関係」を直視し得ず、現実の生きている日米関係を離脱してしまっていたことの反映ともいえるかもしれない。搭乗員はこの参謀世界に組み込まれてしまっていたのだ。現実の世界からの超越(つまり、死の世界への参入)を命令されていたのだ。 
 参謀軍令部は、現実における〈日米戦力〉から逃避して、自分らの作戦手柄の幻想しか考えていない。参謀が盛んに日本の運命を叫びながら、じつは真の日本の敗戦状況を見ていない。考えていない。 
 搭乗員たちはこの参謀たちの世界の映しを生きているに過ぎない。つまり、参謀の話で動いているため、搭乗員たちは、現実の生きている国の実情を考えていない。当然かもしれぬ。搭乗員たちはほとんど特攻作戦の正確な成果を知らされていない。彼らは、死に神、幽鬼の世界に組み込まれてしまっている。 
が、特攻仲間は人間であって人間でない。出撃する仲間を前にして、「明日往く」「そうか」以外に言葉はない。言葉は空虚、口を出ると、もはや本当のことでなくなる。気持ちがいいつくせない。無理にいうと、現実に沿わないといってもいい。 
 雷撃隊員と特攻隊員とが同時に出撃していったことがある。両者の態度、言葉は全く違っている。雷撃隊員は日常の言葉を使っている。特攻隊員はひたすら沈黙。ただ歴史の実態は逆の結果になっている。雷撃隊員は全滅。一人も帰ってこなかった。ところが、特攻隊員は何人かが不時着、生存して帰還している。これが歴史の現実である。 
 特攻隊員の行き先は、無の奈落である。だから、当然現実ならぬ天上、地の底が現実的意味を持ってくる。あるいは、その非現実が彼らの真の現実となるといってもいい。奈落を生きる特攻搭乗員は、すでに死の世界に組み込まれているのだ。


Ⅱ-31 .特攻隊員の心情
 
 しかし、何かに心情が一定して決まっているのではない。生死との間で絶えざる迷いと悟りの戦いがあり、心情の苦闘があるといってもいい。この苦闘が一方から言えば、不断の絶えざる精進であったことは先に触れた。 
 といって全く孤独に生きているのではない。お互いに仲間に支えられて、その中で生きているのだ昭和二十年の四月にはすでに鹿屋の出撃基地に待機していて、たまたま敗戦まで四ヶ月近くも出撃する機会がなかった搭乗員がいる。 
 敗戦で八月に家に帰ってきてから、先に出撃散華した同僚たちが毎晩夢に出てくる。お前だけ生きて帰るとは怪しからん。腹を切ってこちらの国にやってこい。とうとう、村の菩提寺の和尚さんに頼んで戦死した同僚特攻員たちの供養をしてもらったところ、それからは彼らが夢に出てこなくなって、ゆっくり眠れるようになったといったことを書いている仲間がいる  注41 。 
 奈落の国も孤独ではない。むしろ固い絆で結ばれているのかもしれない。特攻仲間世界は独自の世界なのである。


Ⅱ-32 .特攻とは
 
 ただ、特攻は生を生きられず、死を生きるほかはない。個体が死に、全体が生きるということである。悲しみが偉大に通ずるということであろうか。個の死を悲しみ、全体が生きると思うと解するひともあるかもしれない。他人に役立つことで、他人が自分を評価し、大きな名誉が残るというひともいるかもしれない。 
 また別の観点からいえば、不確実な勝利(観念の世界)を信じて、部下の消滅という現実を正当化する参謀の立場もあるかもしれない。死を絶対化する道徳教育(自己満足)に陥っていたにもかかわらず、外的成果(救国)を叫ばざるをえなかった矛盾に気づいた軍令部参謀はどれほどいたのであろうか。 
 参謀の不誠実な歴史観が、時代の不可避の真の現実となってしまい、ほとんど正確な戦果が発表されない状況の中で、搭乗員は薄々この事態を自覚していたかもしれない。が、彼らは特攻作戦そのものを拒否していない。恐らく隊を脱走したものはいなかったのではないか。 
 しかし、特攻戦術指導者中島正中佐は、人間を爆弾とする立場に立つ。爆弾命中の成否のみを問題にしている。隊員の苦悶、悲しみは全く理解していない。この指導者はこういっている。「彼等は自分が、何か特別のことをするのだ、というような意識さえ現わさなかった。或いは、〝死〟ということよりも、如何(どう)して〝命中するか〟に心を奪われていたのかも知れぬ」(保阪正康『「特攻」と日本人』八十六頁)。 
 特攻の意味は何だったのか。死んだからとて戦争は勝ちになるのか 注42 。この疑問を指揮者も隊員も考
えてない。ただ死ねばいいことになってしまっている。ここに特攻隊員の悲しみがあり、またそこに彼らの偉大さがあったともいえるかもしれない。 
 特攻者の気持ちはいかに。爆弾の成否より、父母家族の将来。人間に帰って死ぬということであろうか。

Ⅱ-33 .特攻員と気持ち
 
 特攻から帰還したもの、特攻不時着の経過はよく書かれているが、搭乗員自身の特攻そのものに対する気持ちはあまり書かれていない。書ききれないほど複雑で、また書いても詮無いことと思っているのではないか。それほど多様で複雑であったに違いない。自分の苦しさ、生き残った思い、自分の意味づけ、自分の納得など、語っても仕方ないし、語りきれない。 
 何故志願したのか、なども正確には答えきれない。命を賭してあえて志願した理由は、二極の動揺の中にあって、もはや言葉や説明を超えている。他人はもちろん、本人さえ正確には意味づけ出来るものではない。彼らはただ、非運を負って飛行機に搭乗し、痛ましくも太平洋に消えていったのだ。
この男たちの命は、理屈や納得や言葉を超えた執念と悲哀を伝えている。語りきれない、あるいは語り切れるといったら嘘になるといってもいい。 
 誰もが立派であることを見せたいところがある。練習生だと本当に一生懸命教えられた通りに言葉を続ける。が、悲しみが内にこだましている。予備学生だと、何としても自分なりの納得を示そうとしている。その代わり悩みや疑問も多い。その一部は彼らの文章ににじみ出ている。 
 特攻の意味とは何なのか。死んだからといって必ず勝ちになるのか。この疑問を指揮者も隊員も考特攻の心得はこう教えられていたえていない。ただ、死ねばいいになって終わっている。ここに特攻隊の本当の悲しみ。そして悲しみの中の偉大さがある。


Ⅱ-34 .特攻の心得はこう教えられていた
  「と号空中勤務必携」(陸軍が昭和二十年五月に作製した特別攻撃隊員用の「教本」)
 
 衝突直前  
  ◎速度ハ最大限ダ    
   飛行機ハ浮ク ダガ    
   浮カレテハ駄目ダ  
  ◎力一パイ、押エロ押エロ    
   人生二十五年、最後ノ力ダ    
   神力ヲ出セ 
 衝突ノ瞬間   (…)  
  ◎目ナド「ツム」ッテ    
   目標ニ逃ゲラレテハナラヌ  
  ◎眼ハ開ケタママダ
(押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈陸軍編〉』九九頁)
 
 他の部隊でも、目を閉じては成らぬことは強調された。目を閉じれば、操縦桿を押す力が一瞬ゆるむ。速度は減じ、飛行機は浮く。飛行機は目標をオーバーしてその上を通り過ぎてしまうことになる。それを防ぐために、降下突入にはとくに着意しなければならぬ。眼を開けたまま突入してゆくためには恐怖心を克服する強烈な精神力が必要であった。

Ⅱ-35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる
 
 橋本義雄[早稲田大。操縦。出水空。筑波空]は筑波空の特攻隊員として訓練を受け、最後はS三〇六(特攻部隊)に所属して待機。が、敗戦まで出撃の機会なく、生存。 
 特攻訓練中に、零戦は特攻機に向いていないという考え(急降下と共に降下角度が段々深くなる)、また直接突入の特攻方法に疑念(飛行機と共に突入する爆弾の威力は、落下に従って加速する投下爆弾の威力に及ばない)を抱き続けていたところから、戦後には忌憚のない海軍への行動批判を述べている(「零戦特攻の戦法」『学徒特攻その生と死』二八〇〜二九一頁)。 
 出撃した特攻機は、いくつか「敵大部隊見ユ」「敵戦闘機見ユ」などの電文を残している。が、必死の搭乗員をどんどん投入しながら、当局はこれらの特攻機の戦果について発表したことがない。どれだけの効果があったのか(二八九頁)。 
 敵に恐怖感を与えたとはよく言われた。が、参謀に関わる問題はこんなことではあるまい。 
 つまり、それですむ問題ではあるまい。搭乗員に死を要求しながら、この戦法が戦況をどれだけ変え、どれだけ我が軍に有利をもたらしたか、特別の作戦であるだけに当然その戦果は明言公表すべきであったはずである。 
 にもかかわらず、当局は、まるでよそ事のように「特別攻撃隊は皇国必勝の大道を邁進し、一億特攻を実践する国民の鑑みである」と空虚な言葉を嘯くだけであった(二八九頁)。
 
 当時から無謀な作戦を事もなげに立案し、尊い生命と貴重な虎の子戦闘機をむざむざと失わせた連合艦隊司令長官をはじめとして幾多の将星、縄付き参謀共は何時の間にか霞ヶ関の役人よろしく栄達、立身のみに走り国家の大計に汚点をつけたその責任は何時までも拭い去ることは出来ない。
(同書二九一頁)

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注 39   『続・あゝ同期の桜』では二〇〇、二〇二頁。
注 40   『一筆啓上 瀬島中佐殿』一一六頁に出てくるエピソード(林富士夫ではなく、新庄という人物 の発言と思われる)。
注 41   出典不明。Ⅳ︱ 15 .にも同様のエピソードが紹介されている。
注 42   同様の文章が次節にもあるが、原文ママとする。なお、保阪正康『「特攻」と日本人』を確認したが、 引用箇所は特定できなかった。 
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