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#3914 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.43~53 Jan. 31, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-
4.行きたくない。死にたくない

Ⅱ-5.特攻隊員のニヒルと真実
Ⅱ-6.参謀軍令部の空しさ

Ⅱ-7.北浦空特攻志願
Ⅱ-8.指揮官みずから特攻へ
Ⅱ-9.生きて帰ったもの

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Ⅱ-4.行きたくない。死にたくない
 
 こういった話も語られている。
 
 油谷孝[立教大。偵察。大井空。松島空]『日和山有情
  『日和山有情︱石巻つつじ園の七十年』は、石巻の料亭「つつじ園」女将であった小松梅子氏が、 満八十歳のときに出版した自叙伝であり、油谷の文章はこの書物を紹介したものである。この料亭は、戦時中は松島海軍航空隊の予備学生たちのクラブになっていた。油谷はこの書物の一部を引いている。
 
 〇特攻さん 
 松島航空隊から特攻隊が出るようになったのは、昭和二十年春のことだった。
  「行きたくない。俺は死にたくない」志願しておきながら、私のところへ来てそういって泣く学生さんもいた。
  「何をいうの。みんな行くんだから、男だったら涙を見せないで行きなさい」 
 私は声を励まして叱った。慰めてあげたところで行かねばならないのだ。へたに同情してはかえってかわいそうだ。 
 泣きたいのは私だって同じだった。つつじ園を通じてせっかく学生さんたちと親子のような気持ちでつながりが持てたのに、いまここで特攻に行かれるのはつらい。出撃すればもう会えないのだ。ふつうの出撃ならば「どうかご無事で」と帰りを待つことができる。特攻さんにはそれがないのだ。 
 竹島栄吉中尉と向坊寿少尉が鹿島神社にお参りに来たのは四月十二日のことだった。つつじ園とは目と鼻の先だ。つつじ園で何次会目かの壮行会が行われた。
  「ママ、行ってきます」 
 その言葉に、
  「何食べたいの?」 
 私はそう聞くほかなかった。いいたいことがあんまり多いときには、案外、言葉というものは出てこないものだと思った。
  「アンコのたっぷりついたおはぎをたらふく食べてみたいな」 
 向坊さんがいった。
  「じゃあ、これから早速つくって、あす出撃する前まで基地に届けるからね」

  「ありがとう」 
 みんなが帰ると、つつじ園は総がかりでおはぎをつくりにかかった。夜を徹してつくった。つくり終えたのは明け方近くだった。 
 私は出来上がったおはぎを折箱に五つずつ詰め、桜の模様の入った掛け紙に包んで岡持ちに入れ、トシちゃんと二人で矢本基地に向かった。 
 朝早い電車で矢本へ行き、基地へ歩いた。衛門を入っておはぎを渡すと、私たちは指揮所へ通された。料理屋のおかみが指揮所へ通されるなどということは極めて異例だ。わが子と思う特攻さんの出撃を親に代わってここから見送ってやってくれ、ということだと私は解釈した。 
 午前九時、第二次特攻隊三十人が両側に整列する飛行士の間を敬礼しながら出てきた。先頭に竹島中尉、続いて向坊少尉、見知った顔が続々と続いた。 
 私はいつか「死にたくない」といって泣いた特攻さんを思い出した。泣いてはいけないと自分にいいきかせた。 
 第二次特攻隊は、三十人のうち十人が生還してきた。敵機の機銃掃射で飛行機をやられたため、出水基地から出撃できずに返ってきたのだ。雷撃に変更になったり、照明弾を落とす役目にまわって助かった人もいた。竹島さんも向坊さんも助かった人の一人だった。 
 松島航空隊からは第一次から第五次まで、偵察・操縦あわせて百二十五人の特攻さんが出撃した。そのうち何かの事情で生還したのは三十人ほどだった。三十人助かったというよりも、百人も死んだことのほうが胸にこたえた(「海軍十四期」第17号8頁)



Ⅱ-5.特攻隊員のニヒルと真実
 
8 特攻隊員はいずれもが同じく、非現実的世界から現実を祝福しているのではないか。 
これ以外に生き方がないのである。悲しい。だから、また誇りを感じていたに違いない。あえてニヒルに生きるとでもいったらいいのであろうか。彼らの真実の悲しみと、真実の偉大さが真摯に絡まり合っているとでもいうべきなのかもしれない。
  「帰る所なし」と詠った誓子の句は特攻搭乗員の心の一端に触れたすぐれた句であるが、搭乗員の 相反した心情の葛藤に触れていないところに、物足りないものがあるような気がする。この心情の奥の深さに関わらない点に。



Ⅱ-6.参謀軍令部の空しさ
 
 次々と心なき無残な特攻戦術を続行した参謀軍令部には、この作戦に涙したものがいたのであろうか。あるいは、無意味(ニヒル)を感じていたものが。が、何もなしえなかったのが彼らの実態であろう。 
しかし、彼らは不確かな非現実的の戦果より、むしろ現実の必死に関心していたかに見えるのが口惜しい。彼らは故障や事故で帰ってくる搭乗員たちをひどく嫌っていた。搭乗員たちとは違って、彼らは特攻の空しさと偉大さに無縁であったのだというほかはない。彼らは現実にはみずからニヒルに生きながら、じっさいにはそのニヒルを全く自覚しなかったとでもいったらいいかもしれない。


Ⅱ-7.北浦空特攻志願
 
船越国光[中央大。操縦。土浦空。北浦空。詫間空]「私の神風特別攻撃隊魁隊」
 
 水偵の北浦空が米艦載機の攻撃を受けたのは、二十年二月十六日であった。当日は朝からロケット弾や機銃掃射をうけて、数名の死傷者を出した。(…)対岸から格納庫や指揮所が轟音と硝煙につゝまれた凄惨な状況を見て、苛烈な戦局の前途を思った。(…)数日後、(…)分隊長の佐波大尉(海兵)は一同をねめ廻しながら曰く「ただ今から特攻隊を募集する!各自希望の気持の程度を書いて提出せよ」と小さな紙片を渡された。(…)悉くに予備士官とうとまれ軽視されるのが腹にすえかねていたので、この期に及んでまでも我々学生の忠誠心を探るかの言はまことに不快であった。戦後三十五年経った今日でも、あの日の屈辱的な言葉は忘れられない。 
 選考の経緯は今となっては知る術もないが二十八日講堂に全員整列、第一次特攻訓練員(二十五名)が抽出任命され、翌日から特訓がはじまった。学生一〇〇名中九十九名が志願した。一次にもれた私達大半は(…)無聊をかこっていた。一ヶ月経った三月三十一日夜半、私や鳥井等数名が従兵に起され、飛行長宇賀神少佐(青山学院)室に呼ばれた。伺候すると佐波大尉が侍立していていきなり「貴様らよろこべ!明日から飛行機に乗せる!」不思議にこの言葉は今日まで忘れていない。(…)話しを聞けば、一次隊員中に月余の特訓にも練度が上らず、精神面にも問題のある者があるので、貴様達を彼等と交替させる(…)とのことである。
  (…)後発の私達は(…)あわただしく先陣を見送ることになった。(…) 
 士官らしい処遇もなく、肉親や愛しい人との語らいの機会も与えられず、心技未熟、死生の悟諦なきまゝの必死行であったから、明日は我が身と思っても満されぬ空しさ、悲しさと憤懣に身が震え、帽を振りながら不覚の涙と慟哭は抑えることが出来なかった。 
 日頃大言壮語していた職業軍人が、いざという時には隊の指揮官でありながら平然として他に転出し、航法もロクにできない予備学生や予科練のみを、何故にやみくもに必死行に追いやったのか。運命とはいえ勝算皆無と知りながら黙々として出撃していった同期の心情を思うと、ただ余りにも不運の他なく憐憫の涙を禁じ得ない。
(「海軍十四期」第八号8頁) 
 
 こういう職業軍人は、軍紀を創ったかもしれない。が、特攻を平気でやり、自分は生きていられる人間を形成しうる素地を創ったともいえる。良い、悪いは歴史の判断に委ねられるべきであろう。 
 海兵と予備学生との関係あるいは対立について、書いている学生もいる。
 
杉村裕[東京大。操縦。谷田部空。戦闘機]は、昭和二十年五月谷田部制空隊、六月特攻隊、七月一日千歳空と転勤し、七月十日特攻訓練中事故死。


昭和二十年二月二十三日(谷田部空にて日記) 
 国分大尉より航空隊の生活のあり方、編隊長と列機との間柄についてお話あり一寸感激す。現在の俺達︱少くとも俺には︱左右にも上下にも意志の疎通が欠けているのは確かだ。(…) 
 梅本大尉より汝等は心構えにおいても、知識においても士官たる海軍搭乗員たる資格なしと叱らる。無念なり。又想う。現在の如く海軍が、兵学校出と予備士官などの差別対立を意識して形成している情況では、日本国の運命危ういかなと感ずる。
(『別冊あゝ同期の桜』53頁 注22)
 
 航海学校では特攻志願を変更した学生がひどい待遇を受けた話が伝わっている。 
 二分隊S学生は初回の昭和十九年十月、暮れの十二月、二度特殊兵器を志望しながら、家庭の事情を理由に、再度取り消しを申し出た。平瀬区隊長に、叩き斬ってやると追い回され、別室に隔離され、番兵までついたとのことである(『一旒会の仲間たち』213頁)。 
 もともと志願だから、意見を替えても良いはずである。本来からいえば、隊員が行かなければ、率先垂範、平瀬区隊長が行けばいいのである。何かしら、本来の軍事作戦とは違った趣きがあるような気がする。教育課程の予備学生を使うという基本方針が前提になっているかに思われる。 
 もっとも観点を換えていえば、一度決心したものをたびたび替えることが良いか、悪いかは別の問題である。人間の人格の問題であって、制裁の対象にはならぬのではないか。が、こんなことは戦後だからいえることで、 当時日本の軍隊では、こうしたことが普通とされていたところに、問題があるのであろう。 
 志望を変えたものへのこうした仕打ちは、〈不時着、あるいは、帰還したものへの仕打ち〉に通じているかもしれない。


Ⅱ-8.指揮官みずから特攻へ
 
 これは海軍の話ではなくて、陸軍の将校の話であるが、部下のみを特攻に送るのをいさぎよしとせず、みずから特攻に志願した陸軍の教官がいる。 
 昭和二十年五月二十八日、第四五振武隊隊長として沖縄洋上に散華した藤井一中尉は、陸軍士官学校の出身ではない。下士官から将校になる少尉候補生二十一期出身。熊谷陸軍飛行学校で少年飛行兵の教官をしていたが、「お前たちだけを死なせはしない」と、みずから特攻志願。 
 妻と二人の幼い子も自決。藤井中尉の死の五ヶ月前に、入水。
  「私達がいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝っ て待っています」。 
 妻子の入水から五ヶ月後に、中尉は知覧出撃。そのときに、すでに亡くなっている二人の我が子にあてた遺書を残している。
 冷たい十二月の風の吹き荒ぶ日、荒川の河原の露と消えし命。母と共に殉国の血に燃ゆる父の意志に添って一足先に父に殉じた哀れにも悲しい然(しか)も笑っている如く喜んで母と共に消え去った幼い命がいてほしい。 
 父も近く御前達の後を追って行ける事だろう。厭がらずに今度は父の膝の懐でだっこして寝んねしようね。それまで泣かずに待っていて下さい。千恵子ちゃんが泣いたらよく御守しなさい。では暫く左様なら。 
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立てゝ御土産にして参ります。 
では一子ちゃんも千恵子ちゃんも、それまで待ってゝ頂戴。
(工藤雪枝『特攻へのレクイエム』中央公論新社、80〜81頁  注23



Ⅱ-9.生きて帰ったもの
 
 武田五郎が、予科練出身の回天隊員である横田寛が書いた『人間魚雷生還す』の中に、回天搭乗員として出撃し、生還した隊員に対して、次のように叱りつけた上官がいたことが書いてある、と紹介している。しかも公開の席上でである。
  「いつの出撃でも一本か二本(一人や二人ではない)、オメオメと帰ってくる。鉢巻を締め、日本刀をかざし、全員に送られて得意になって行くだけが能じゃない。出ていく以上、戦果をあげなけりゃ、なんにもならん。スクリューが回らなかったら、手でまわして突っ込め」
(「ああ回天」『一旒会の仲間たち』272頁)
 
 伊号三六潜水艦から出撃した回天搭乗員の久家稔[大阪商大]は、二回の出撃とも回天の故障で発進できず、三回目の出撃のときに発進の前にこう書き残している。 
 艇(回天)の故障でまた三人が帰ります。(…)二度目三度目の帰還です。生きて帰ったからといって、冷めたい目で見ないでください。(…)この三人だけはすぐ出撃させてください。最後にはちゃんとした魚雷にのってぶつかるために、涙をのんで帰るのですから、どうかあたゝかく迎えてください。お願いします。先にゆく私に、このことだけがただひとつ心配ごとなのです。(同書272頁)
 
 陸軍特攻隊では、帰ってきた搭乗員に、参謀がひどい仕打ちをしたことが伝えられている。叱りつけるはもとより、一箇所に集めて勅諭の筆写などを行わせた(参照高木俊朗『特攻基地知覧』〈帰ってきた特攻隊員を怒鳴る参謀〉)。 
 海軍では、こうした話は聞かないが、後に触れる四方中尉の話もあるし、八幡神忠隊で散華した大石政則が、その前にエンジン不調で出撃途中から引き返してきたことを、たいへん気にしていた。

 ただ、海軍の特攻にも、あまり芳しくない話が伝わっている。昭和二十年七月三十日に、中練宮古島の岡本晴年中佐は、もともと中練を使用する特攻には反対であった。にもかかわらず、特攻で出撃しながら、故障で帰ってきたもの、あるいは不時着したものを、卑怯者、臆病者呼ばわりし、そのものたちの中から中練五機の特攻隊を組織し出動させている。 
 しかも、彼はこの五機を特攻機として申請していない。自分が単なる殺人者であることを自覚していないことになりはしないか。ひどい指揮官もいたわけなのだ(参照森本忠夫『特攻』322〜324頁。角田和男『修羅の翼』399〜401頁  注24 )。

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注 22   『続・あゝ同期の桜』では60〜62頁。
注 23   中公文庫、2004年版では100頁。
注 24   この文章の出典として、森本忠夫『特攻』と角田和男『修羅の翼』が挙げられている。

  まず森本忠夫『特攻』を見てみると、単行本版(文藝春秋、一九九二年)268頁に次のよう な記述がある。  一部の中練特攻を出撃させていたものの、宮古島基地の岡本晴年中佐は、その後、上部 からの命令を巡って、言を左右にし、彼の在任中、特攻を出さなかったと言うのであった。 『龍虎隊』の『中練』特攻で散華していたのは上述の七人だけであった。彼らが、凛然と して敵艦に向かって体当たりを敢行し、沖縄の空に散って逝ったのは、しかしながら、司 令に「卑怯者」「臆病者」呼ばわりされたからでもあった。岡本晴年中佐の場合、一方で、 特攻隊員達を叱咤しながら、他方で、『中練』特攻に抵抗していたのは、当時の戦況の中で、 板挟みになっていた同中佐が、一時的にせよ、ある種の錯乱状態に陥っていたからであろ う。だが、それにしても、くやし泣きの中でただ死に場所のみを求めていた彼ら特攻隊員 の死は余りにも悲痛であった。(角田和男『修羅の翼』324〜326頁)
 
この記述を読むと、特攻帰還者を卑怯者・臆病者呼ばわりした「司令」というのは「岡本晴年 中佐」であろうと、多くの人は思うだろう。「一方で、特攻隊員達を叱咤しながら、他方で、『中練』特攻に抵抗していたのは、当時の戦況の中で、板挟みになっていた同中佐が、一時的にせよ、 ある種の錯乱状態に陥っていたから」と、岡本中佐の当時の心理状態まで丁寧に解説されている からだ。 
  では、森本が参考にした角田の著作では、この部分はどのように書かれているのか。 
単行本版の四〇〇頁に、「その(=中練特攻隊の)第一陣が宜蘭に着いた時の司令の訓示はひ どかった。訓示というよりも、ほとんど叱責に近かった。正に、臆病者、卑怯者扱いの訓示であ る」とあるが、この「司令」とは誰なのかが問題となってくる。 
 角田は予科練五期生から零戦搭乗員として活躍し、海軍中尉までになった叩き上げの軍人らし く、上官の個人名をあえて記述しない傾向があるが、これ以前の記述を読んでみると、「〔昭和 二十年〕二月五日、新しく第二〇五海軍航空隊が編成された」とあり、角田も二月五日付でこの 二〇五空に付属していた戦闘三一七飛行隊に編入されていることがわかる(384〜385頁)。 さらに、399頁に「中練特攻龍虎隊は、元は二〇五空の零戦搭乗員だったが、たびたびの故障 や不時着で破損機が多く、内地よりの機材の補充も乏しく、やむを得ず訓練中止となって高雄空 に保存されていた九三式中間練習機をもって体当たりをすることにしたもので…」とあり、これ らの記述から、この「司令」とは二〇五空の司令であると類推できる。そして、この二〇五空の 司令だった人物は、玉井浅一中佐である(秦郁彦編『日本陸海軍総合事典[第2版]』東京大学 出版会、二〇〇五年、二二八頁)。玉井は、二〇五空司令に着任する前は二〇一空副長で、山本 栄司令の負傷以降は司令代行として、大西瀧治郎のフィリピンでの最初の神風特攻隊の編成に立 ち会った人物である。390頁にも「玉井司令」という文言が登場するので、この「ひどい訓示 をした司令」は、岡本晴年ではなく、玉井浅一であるというのは間違いないだろう。角田の著作の中で、岡本晴年は「中練特攻龍虎隊」の節の末尾に、次のように登場する。
  「戦後三十年近く経って、宮古島基地指揮官の岡本晴年中佐は特攻作戦にはあまり積極的でな く、言を左右にして中佐の在任中は中練特攻は出されなかったと聞いた。したがって、龍虎隊の 生存者も多いらしく、戦記に残る戦死者の数は少ない」(401頁)。 
 つまり、玉井浅一と思われる「司令」が懲罰的な中練特攻隊を編成したにもかかわらず、実際 の戦死者が少ないのは、岡本中佐が特攻に積極的でなかったからであると、角田は述べているの である。岡本晴年という人物は、角田の著作では一貫して特攻に積極的でなかった様子がうかが えるのだが、森本の著作では、別個の人物である「司令」と「岡本中佐」を同一人物と捉えたため、 岡本を「板挟みになって」「錯乱状態に陥っ」ていた人物として描かざるを得なくなったようである。  岡本の経歴は玉井ほどは知られていないが、終戦直後の八月十八日には茨城県の神ノ池飛行場 で、桜花発案者の大田正一が、自殺を図るために零戦練習機に乗って東北方の洋上に消えていく のを、「飛行長の岡本晴年少佐」が見張塔から双眼鏡で確認している(秦郁彦『昭和史の謎を追 う(上)』文藝春秋、一九九三年、339〜340頁)。つまり、岡本晴年少佐は宮古島基地指揮 官から神ノ池飛行場の飛行長に転任し、終戦を迎え、いわゆる「ポツダム中佐」として軍歴を終 えたと思われるので、宮古島基地指揮官当時の階級は当然少佐だが、角田が「宮古島基地指揮官 の岡本晴年中佐」と記したのは、岡本の最終階級を書いたまでのことと思われる。

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市倉先生の翻訳された本です。ゼミで指導していただいたときに、この本を翻訳されていました。
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