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#3924 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.177~203 Feb. 6, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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(アンダーラインはebisuが引きました)

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Ⅴ.市倉宏佑一人語り 
 (インタビューにもとづく)

 はじめに
 海軍予備学生になった経緯
 海軍予備学生の第十三期
 海軍予備学生の生活
 入隊試験
 飛行機の実地訓練
 戦闘機の訓練
 一九四五年の二月、特攻志願
 終戦から復学まで
 おわりに
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はじめに
 
  私は大正十年八月二十七日に横浜に生まれました。吉田小学校に入学。一クラス五〇人でした。中学は第一中学校。 

 そして、昭和十七年に京都の三高を卒業しました。修学旅行で京都に行ったら、とても感動してしまって、そこで学びたいと思いました。また、当時京都帝国大学の教授であった和辻哲郎先生を尊敬し、私淑していたからです。ぜひその下で学びたいと考えていました。 

 昭和十七年に三高を卒業したといっても、正確にいえば、十七年の九月の卒業です。八月で授業は終わっているので、四、五、六と三ヶ月授業を受けただけで、三年目はやってない。七月は試験、八月は夏休み、十月東京大入学。戦争のために、そういうことになってしまいました。 
 私より一年先に入学した連中は十二月に卒業しています。もちろん、本来なら年を越して三月に卒業ということになっていなければなりません。私は東京大の三年になったら、すぐに卒業になりました。三年生になり、二ヶ月くらいしたら卒業ということで、その年はほとんど勉強はしていません。 
 十七年の十月に入学して、翌年、学徒動員です。大学そのものは十月より前、四月に当然始まっていました。十月に入学して、それでその年度の一年生です。そして、三年生になり、二ヶ月位したら、学徒動員のために卒業になります。

 話を十月の入学時に戻すと、四月に始まっていたその年度の講義で、二一単位を取ると卒業というところを、一七単位を取得しました。しかし、勉強したという感じはしません。京都から東京に来て、つまらなかったのです。私と仲のいい友人が三高から京都大の方に行きました。そのせいもあります。ただ、その彼も一年後に東大に来たので、それからはけっこう楽しくやっていました。そうしたら徴兵令延期廃止になったわけです。そうしたら、もう有無を言わさないね。私より一年上の学年は九月に卒業ということでした。 
 そして二年になったらすぐ、徴兵で。十二月にはもう横須賀に入っていた。だから大学の一年生のとき、まるまる一年と、あと二年生の二ヶ月だけで、なんにも勉強してない。本当になんにもしてなかったんじゃないかな。 
 登校していたんだけど。授業は出ていたんだけど、身を入れて聞いたという記憶はありません。 


 昔の授業は全部ノートをとることになっていました。試験は全部ノートによるわけです。ノートがないと試験は受けられない。それだから、学校に行ったらノートはとってくるというのが、原則です。自分が風邪だろうと、誰かを見つけてきて、その学生のノートを写す。それが大学生活でした。ノートっていうのは、せいぜい一年間で講義して五〇枚ぐらいかな。たいしたもんじゃないですよ。「毎年毎年講義を新しくやるわけで、たいへんでしょう」って言ったら、「いやー、五、六〇枚だから大したことない」って金子武蔵先生も言ってました。 
 普通の先生は全部そうやって、一字一字、読んで書かせる。しかし、和辻先生は喋ってました。だからもっと分かりよかった。
 
 しかし、和辻先生の授業は眼目をぜんぜんとらえられなくて、ノートはいつも真っ白。ところが先生は、本を書いていました。大きな『日本倫理思想史』という本です。それを読めばいいわけで、その方がノートをとるよりずっと楽でした。『倫理学』も大きかったけれども、そっちの方は読んでいました。学校へ行かなくても内容を知っていました。


 海軍予備学生になった経緯
 
 海軍に行くか陸軍に行くか、という選択肢がありました。陸軍については、三高でも、一人が配属将校をぶん殴って首になったし、中学校のときも二〇人くらい、配属将校の授業のときにガラス戸に光を当てたとかいうんで、首になったりして、非常に不愉快な思いを持っていたので、私は海軍を選びました。
 
 三高の事件についていうと、そのときに首になった男というのは、真冬の京都は寒いんですが、配属将校が話しているときに、誰かが横向いてたかなにかしたら、「どうした」って配属将校が言ったんです。「寒かった」って言ったら、「寒いなら裸になれ」って言って裸にされて、そして、立たされたんです。三〇分ほど経ったかな。一年生の男だったね、その男が出て行ってね。「こんなくだらない学校は、俺は辞める。お前のような奴は先生でもない」と。「ぶん殴ってやるから覚悟しろ」と言って、自分の持っている銃で、教練のときに殴りかかりました。さすがにひどく殴るというのではなかったですが。 
 そんなようなことがあって、その人は結局退学になりました。京都は第二師団でしたが、みんなが師団長のところに行って、あんなのは、「あの配属将校が悪いんだ」と。「真冬に三〇分も一時間も立たせるのは良くない」と言いにいったけれども、それでも、「現役の将校をぶん殴ったってことは、やっぱり陸軍が黙ってはいられない」と言う。 
 ところが、本当はそうなるともっと重い罪になるんだけどね、一方で、白昼堂々と陸軍大佐がぶん殴られたというと権威に関わるっていうんでね、おさえようっていう空気があった。それでその男は単なる退学ですんだ。彼は東北大に変わりました。 
 殴ったその男も気が荒い男でした。今でも覚えていますが、彼が東北大を卒業して、東北育英高校という、野球の強い学校に職を得た。そこに私より一期上の奴が、警察署長で赴任していたのですが、すると、いま育英高校の先生が生徒をぶん殴って捕まっている、という報告があった。行ったらそいつ(将校を殴った男)が捕まっていた。署長はすぐ彼を帰したという話があります。


 海軍予備学生の第十三期
 
 予備学生というのは、一言でいうと、学校へ行っているのと同じです。たいへんな訓練だと思っていたら、私ら自身から見ても、大したものじゃないってのがすぐに分かった。 
 海軍は本文にもあるように、人をすぐにぶん殴る。ところが、私らの担当になった教育主任は尾崎紅葉の孫で海軍中佐。ここで学生たちを殴ると、殴った下士官も二ヵ月後には予備学生になる。そうなると位が上になるからぶん殴るに違いないという。そんなことしたら海軍が困るから、絶対殴らないという方針だった。それで私らは助かりました。
 
 訓練は楽なもんです。本当に苦しい訓練というのは受けたことがない。学校ですから、訓練されるほど時間もなかった。海兵団も学校だったけど、海軍のことを色々教えてくれて。歩いてはいけないとか、階段は必ず二段跳びに駆け上がれとか、そんなようなことを教えてくれました。それから土浦のほう、航空隊に行ったときも、もう本当に学校です。訓練なんてたいしたもんじゃなかった。色んなことを、試験をやって成績をつけてね。海軍は成績が好きなんです。成績をつけて。それで四ヶ月。
そのときもたまたま私の分隊長が良くて、ぶん殴らなかった。拓殖大学の人でした。私は班長でしたが、その人に非常に可愛がられていました。色んなことでしくじったり、失敗したりもしましたが、ほとんど見逃してくれていました。 
 だから何の気がかりもなく、最大の関心事は、偵察学生に行くか、操縦学生に行くか、ということでした。飛行機の基礎訓練を四ヶ月やりました。基礎訓練というのは、飛行機のことを色々教えてくれるだけです。乗りはしません。飛行機はどうやって動くのかということを、一から教えられました。
エンジンの説明をされたときも、何を説明しているのか最初はぜんぜん分からなかった。もちろんエンジンの掛け方も知らなかった。
 
 偵察学生ってのは、一年間偵察学校へ行って訓練を受ける。偵察というのはたいへんなんです。たとえば航法というのがあります。海の上に出て、自分が今どこにいるかってことを確定することです。
そして、こっちへ行ったら艦隊がいるとか、こっちに行くと陸地があるとか、そんなことは本当に正確には分かりません。飛行機は、風に流されてどんどんどんどん飛んでいくものです。だから今、風が何メートル吹いているか、どっちに向かうか、それをいつも頭にいれて、そして、自分の地図に書き込んでいくんです。だから、自分の地図を持っています。大きな地図です。太平洋の地図だから、海図なんてものではなくて、普通の地図です。 
 地図のことは、ほとんどチャートって言っていました。地図という言い方はしなかったように思う。


 海軍予備学生の生活
 
 海軍では本当にひどい目にはあわなかった。前にも触れたように、拓大出の分隊長がとても良かった。他はひどいのがいました。年中ぶん殴っているような奴がいました。二、三期上の予備学生が分隊長になっています。九州の奴は年中ぶん殴られていました。メシを食べさせないという罰則などを課していた。うちの隊長は何にもしなかった。 
 偵察についていうと、夜間飛行っていって、本当の夜にはやらないのですが、自分の乗るところに幕をかけて、「どっちへ行く」って、後ろから色々言うんです。それで行く。「どこどこの目的地は」って言う。私はぜんぜんできなかった。気持ち悪くなった。本当に気持ち悪くなる。練習機が地上にもあるわけです。私はわりと真面目だから、その練習機でもやったんだけど、それでも「ブーッ!墜落」って止まってしまう。それでもういやになった。結局、私は戦闘機はうまくないんですよ。上手な人は本当にうまいんだけど。でも私は落ちないように、確実にやっていた。
 
 まあそれでも、無事に、ともかく中練という、中間練習機は終わりました。しかし、戦闘機が一番多く、半数以上が戦闘機なので、けっきょく私は、その後は、そっちの方に入った。私は水上機を志願しました。分隊長が水上機の出身だから、「分隊長もそうなら俺もそうしよう」と思ったからです。
それを志願していたんですが、八〇人もとっているのです。それで、三人呼ばれて、「この中でジャンケンして、一人だけ駄目だけど、二人が水上機に」ということになった。ジャンケンしたら私が負けて、そのことが強く印象に残っています。なんであんなことをするのか、八〇人もとるのに、と思いました。 
 一緒に行ってジャンケンで勝った奴が学生長になりました。学生長なんかにならないほうがいいんです。なっているとね、いいところを見せようと思って特攻隊を真っ先に志願したりします。私なども、気が小さいから、これは真っ先に志願しなきゃいけないな、なんて思います。しかし学生長になったその男は、一橋大学を出て、読売新聞の記者になる男です。彼は心臓が強かった。最後まで特攻隊志願をしませんでした。そういう人もいるんです。
 
 横須賀に入って、横須賀から土浦に行くというのはどういう関係かというと、横須賀ってのは海軍、水兵を訓練するところです。だから、水兵の訓練道具しかない。土浦っていうのは飛行機乗りを訓練するところ。全国から集まってきました。三千人か四千人集まっていました。



 入隊試験
 
 横須賀の第二海兵団に入ってみると、いつも試験をしていました。つまらない試験です。数学の試験とか、電気の試験とか、通信とか。中学校くらいの程度のものです。私は一応、優等生だったから、その試験に出るくらいのことは覚えていました。それでもね、落ちた者が何人かいます。うちの隊は、東大と東北大の隊だったから、落ちた奴は五、六人しかいなかった。中には二〇〇人いて四〇人くらい落ちた隊もいました。土浦に行っても、ほとんど学校へ行ってるみたいなものです。つらいのは、二月の朝六時に裸でもって体操する。これが一番つらかった。それ以外につらいものはなかった。他の隊はみんな裸になって駆け足をさせられていました。うちの隊は、体操していて良かった。隊長は東京大の英文科を出た人です。彼は駆けるのが得意じゃなかったんですね、こっちは寒くて寒くて震えていました。あれだけは一番つらかった。 
 ほとんどあとは試験ですからね、つらいことはなかった。 
 その試験に落ちるとどっかに行っちゃう(笑)。 
 本文にも書いといたけど、軍隊を脱走した人がどこかに行ってしまって分からないように、どこに行ったのか分かりません。消えたらもうそれっきり。どこへ行って何をしているか、全く分からない。
すっと消えちゃう。だから、消えた人たちは何をしていたのか、本当のことは分かりません。後にたまたま状況が知れた人もいるようですが。
 
 土浦でも、授業がいっぱいありました。数学の授業とか、三角測量の授業とか。それは距離を出すためのものです。そういう実践的なものが多かった。一番苦手だったのが、夜間飛行。ぜんぜんできなかった。



 飛行機の実地訓練
 
私は怖がりだから、飛行機なんかちっとも希望していなくて、魚雷艇を希望していました。二〇人くらい乗る艇です。勉強していけば、そこの隊長になれます。二〇人一緒に死ぬんだし、いいやとも思っていました。飛行機、戦闘機は一人です。何をするのも自分一人でしなきゃならないし、それがうまくない。うまくないから、使い物にならないんじゃないかと思うけれども、全く下手というわけでもない。私はまだ並みの学生です。本当に下手な奴がいます。飛行機なんかでも、運動神経の鈍い人が。
 だから、土浦も本当につらい思いはなかったです。分隊長が長話するのが苦しかったってことくらいです。あとは本当に楽なもの。だから、「鉄の訓練」だと、そんなことを言われているけど、ちっとも苦しくなかった、少なくとも私は。まあこんなもんだと向こうも思っていたような気もしますが。 
 とはいえ、殴る分隊長、こういう人に当たった連中は苦労したでしょう。私たちは、なんでも競争なんです。すると、たとえば通信をやると、通信の点が一番悪かったからメシを食わさないとか、そういうことが起こる。なんでも競争で、負けると、練習場を一回まわってこいということになる。そういうことを好きな人がいるのですね。 
 私の場合、駄目だったのは、目、です。モールス信号による通信というのがあります。トツートツーという、あれです。あれは、私はわりとすぐできるようになりました。これは、百字数、毎週やりますが、一字間違えるとマイナス七なのだけど、下手な奴はマイナス二〇〇とか三〇〇とか取ることになる。私はほとんど百点取っていました。これを目でやるのがあります。つまり、光で。光でパッパパッパパッて出るのです。これがぜんぜん分からない。光にあわせてずいぶん考えてね、パパッパパッて音にしてやってみるけれども、もうぜんぜん駄目でした。 
 これも競争でした。うちの隊に、一度にマイナス二〇〇とか三〇〇をとる人がいて、彼がいるためにいつでもうちの隊がビリになっていました。文句を言われてました。分隊長は意地悪なことをしませんでしたが、本人を見ていると、気の毒でした。朝おきたときから、寝るときまで、寝しなの時間まで、トツートツーなんとかってやっていました。音感がないんですね、多分。
音 感がない人というのは、普通クビです。ところが分隊長がね、その男を気に入っていて、それで彼を残して、とうとうその男、土浦の教官になった。戦後その男に会ったら、学術雑誌の編集をやっているんだって言ってました。 
 それでともかく私の場合は、偵察は恐らく駄目だろうっていうので、戦闘機。すでに言ったことですが、私は戦闘機を実は怖がっていました。こんなことできるのかなっていう気持ちでした。



 戦闘機の訓練
 
 六月から戦闘機の一日訓練が始まりました。 
 一日三十分です。だいたい七機ぐらい飛行機があって、一機あたり、七人ぐらいがくっついています。だから一日に七人しか乗れません。午前午後と訓練しますが、午前中に、せいぜい五、六人がいいとこです。三時間ありますが、一人あたりでは三十分くらいしかとれません。三十分では猛訓練とは言えません。
 
 九月にいわゆる「赤とんぼ」による訓練が始まったんですが、私は編隊が下手で、いつも側に寄るって言われてました。側に寄る場合、翼(よく)と翼(よく)の間を一メートルにしなければならない。空中では、ぶつけたほうが死にます。地上ではぶつけたほうが生き残る。私と一緒に乗っていた教官は、水兵でしたが、怖がっていました、私と乗るのを。ちょっと寄ると、操縦桿を放せって言うんで189 ︱ 市倉宏祐一人語りす。だから私は一ヶ月くらい操縦桿を放していました。そうしたらぜんぜん駄目になっちゃって。飛行機は、一メートルでこうずーっと行くんですけど、絶対離れないで翼をちょっと下ろして。
 
 そして一ヵ月後に教官が変わりました。ぜんぜんできない。その教官が、逆にものすごく豪胆な人でね。自分は空を見ていてね、全部、こっちに任してやる。任されると一生懸命になってね。けっこう、一ヶ月くらいたって、「市倉、病気で休んで、ずいぶん下手だったけど上手くなったな」って、言っていました。病気でもなんでもなかったんですが。それで、ともかく人並みになって卒業したのです。
 
 その訓練を卒業すると今度はすぐに戦闘機隊に配属されました。十月です。 
 場所は茨城県の神ノ池っていう、銚子の先の、何にもない原っぱです。神之池という池がある 注71 。そこの戦闘機隊に入った。そこへ行ったら、海兵の連中がいました。そこは、出来たばかりの飛行場で格納庫がない。だから、ゼロ戦が雨ざらしになっている。雨ざらしになっているものだから、年中故障を起こす。故障をすると、それを直している時間は、訓練できない。それで、前の海兵の連中が、訓練時間が足りないって言って一ヶ月、余計にすることになった。お前たちは︱私らね︱、後から来た奴らは一ヶ月待っておけ、飛行機がないから待っておけ、そう言われて一ヶ月遅れるんです。それで、海兵は一ヶ月遅れて、卒業するのですが、私らは、一ヶ月遅れて始まる。戦闘機訓練が始まるんですが、そうしたら二ヶ月目に、燃料が無くなったから、これから二ヶ月以内に卒業課程のものは訓練続行、三ヶ月かかるものは訓練停止ということになった。私はちょうど三ヶ月かかることになった。海兵のおかげで休んだために。それで私らは訓練停止になって。それからずーっと八月まで訓練停止です。敗戦まで。


 一九四五年の二月、特攻志願
 
 ともかく、飛行機があるけれども、燃料がないので何もしていません。そしたら、翌年の二月、集合がかかった。特攻隊の募集でした。それは新聞に書いたとおりですけど。あれをうまく逃れたのが、生き延びた理由だね、後から考えてみると。
 
 訓練停止になって、何をしていたかというと、飛行機のエプロンと呼ばれるところがあります。格納庫の前にコンクリートがしきつめてあって、そこへ出てみんな飛行機を直すんです。そのエプロンが敵の飛行機から見えると目標になるのです、真っ白いから。それをぶち壊す作業をしました。これは苦しかった。大きなハンマーでもって壊すのですが、ハンマーでたたくと、もう本当に頭の芯までジーンとしました。 
 そして、芝生を植え替える作業。 
 それから、飛行場のところに、敵の飛行機が来るだろうからって言って、防空壕を作れと言われました。防空壕っていうのは、大きなヒューム管です。それを、一〇人ぐらいで押してくんですよ。腕立て伏せを何十回とやっているのと同じです。これは、ものすごく苦しい。そういう仕事をやっていましたね。
 
 そうこうしているうちに、特攻隊の志願ということになった。昭和二十年の一月のはじめです。 
 これは、新聞にも書いたけど、「熱望」と「望」、「否」という具合になっていた。どれかを書いて提出しろ、というわけです。言われたときには、突然部屋が真っ暗になったように感じました。そう感じたのです。これは本当に考えた。あのときは本当に考えた。「熱望」と「望」のいずれかを書くとしか考えなかった。何故かと言われても、国のために志願するという積極的な動機はありません。けれども、なんていうことなしにね、そんなに愛国の士でもないし、だけどもまあ、国のために死んでいいと思っていました。それでも自ら進んで志願するほどのものじゃなかったけど。一方では自分だけ生き残ったらもう、えらいみっともないという気があって。いや、やっぱりこれは行かなきゃいけないかなという気持ちもありました。 
 そしてともかく、「熱望」と、最後は書きました。
 
 優等生の習いで、子どもの時から、いい格好しようとしているんだね。いい格好してみたいという気持ちが、やっぱりああいうものを書かせるんですね。堂々たる人はみんな、「望」と書いている。「熱望」って書いた人はたいへん少なかったということを、その頃知り合った人が、後から言っていました。だからいい塩梅に助かったんでしょうけれど。待っている期間はつらかったね、本当に。 
 後から知ったことを言い添えておくと、ほとんどの人が「望」と書いたわけですが、「否」と書いた人も少数いたようです。でも、そういう人は何も言いません。「他の業務を望む」と書いた人もいたとも聞きました。逆に、「大熱望」とか「熱熱望」と書いていたり、さらにはぜひ特攻に行かせてくれとわざわざ直訴に行った人もいたようです。二〇〇名ほどの私のクラスで、「熱望」と書いた人は三〇名ほど、そのうちの二七、八名は実際に特攻で死んでいます。 
 くり返しますが、私が「熱望」と書いたのは、国を救うとか、敵をやっつけるとか、そういう意識はあまりなく、小学校以来の優等生という呪縛から遁れられず、そのために、それを維持するために「熱望」と書いたと思っています。それは、何故この本を書いたのか、という理由にも通じますが、そもそも動員前に大学にいて勉強をしていたとき、戦争のことなど考えたこともありませんでした。在学中に徴兵検査で身体検査も受けましたが、それでも何も考えていませんでした。私だけがそうだということではないと思います。本文でも書きましたが、海軍にもそういう閉鎖的なムラ社会的なところがありましたし、結局、日本の社会というのがそういう具合になっているのだと考えています。もちろん、私が勉強していた東大もそうでした。 
 特攻は殺人です。特攻機はもはや武器ではありません。戦争は勝つために知恵を絞る、死力を尽くして行うものだと思いますが、そういうことが少しも考えられていませんでした。当時の、私が所属した海軍では。効果の全く考えられていない戦術に組み込まれたことが、とても悔しいことだと思っています。こういうことができたというのが残念なことです。
 
 話を戻しますと、志願書を提出したあと、特攻に出なさいという連絡がいつ来るのかというと、上官から次から次にという感じで「今度何名来い!」と言われる。それで連れていかれる。一ヶ月ごとくらいに、「今度は誰々、誰々、来い」って二〇人くらい連れてかれてしまう。それでまた一ヶ月経つと、「誰々、誰々、来い」と命令が来る。最初のうちは桜の木の枝を持たされるなど儀式めいたこともありましたが、だんだんそれもなくなっていくのが寂しかった。夕方頃に上官が私たちのいる部屋にやってきて、名前を呼ぶだけ。四月頃からは、「熱望」や「望」と書いた志願書に関係なく名前を呼ばれていました。 
 はじめは、戦闘機隊だとかなんとか言われ、二〇人ぐらい行ったと思ったらすぐ特攻隊に変わったとか言われていました。それから今度、「爆弾」に乗るのですね。飛行機の下に爆弾が付いていて、そこに乗るわけです。それが「桜花」という特攻機です。それに二〇人ぐらい行きましたね。
 
 私らは、最後に三〇人ぐらい残りました。朝鮮北部の元山航空隊に飛行機があるというので、あそこへ行って特攻訓練をやるというような話でした。八月半ば過ぎにそうなるということでした。待っている間、私は本当に何もしてないのです。遊んでいました。そのうちにこんなことをしているのが馬鹿馬鹿しくなってくるんだな。監督官がいないんですから。だから、私は農場に行って、練習生と一緒に芋を作っていました。それが一番楽しかったね。四十歳ぐらいの、下士官のおじさんがついていてくれて。その人は非常に温厚な人だった。お寺にいたんですけど、そこがとても良かったと思いましたね。一ヶ月くらいいたかなあ。戦後、訪ねてみましたが。

 終戦から復学まで
 
 玉音放送は聞いていません。 
 私らはね、隊にいないわけです。農場にいるわけだ。飛行機がなくて練習もできないので、名前が呼ばれて特攻が決まった連中は北海道の千歳にいって、特攻のための訓練をするということでした。私は谷田部航空隊から農耕隊の隊長として芋を作っていました。昼休みは二時間昼寝です。昼は、私は「二時間昼寝」って言って寺へ戻ってきて、寝ていました。そうすると、八月十五日は玉音放送が終わっていたんです。寺の坊主が出てきてね、「市倉さん、戦争は終わりましたよ」って言われた。さすがに私はどうしていいか分からなかったね。どうしたらいいのだろうって思った。他の隊はみんな集まってその放送を聞いているわけだ。農場で芋を作っていた私らはみんな昼寝。隊とは二里ぐらい離れています。それでもすぐ自転車に乗って、農場に行き、「総員集まれ」って号令をかけた。「いま戦争は負けた」と言いました。練習生はみんな泣きました。涙をこぼしていました。本当に、純真です。 
 私はどうしていいか分からなかった。どうしたらいいのだろうって思った。 
 そのうちに厚木航空隊とか、何かやろうという連中が次から次へと来るのです。そして、「今こそ決起せよ」って言う。決起しろ、と言われても、彼らは戦闘機隊で決起して戦うということらしいけれども、そんなのはおかしいじゃないかと、あのとき思いました。 
 それから、士官が全部集まって会議が始まりました。「我々はこれからどうするか」というのが議題です。こういうときはやっぱり堂々たる態度の人がいる。「天皇は負けたというけど、天皇は絶対だから敗北は無い、だから我々は行かなきゃいけない」というようなことを海兵の連中が言ったとき、予備学生が、「いや、天皇が絶対なのは日本の国内だけだ。戦争は外国とやっている。外国と日本との間には絶対はない」と言う。「だから天皇は絶対でなくて負けるのは当たり前なのだ」と反論した。海兵の人は一言も反論できませんでした。そのような、落ち着いて議論で打ち負かすことのできる人が、こういうときでもいるんですね。
 
 特攻志願のときも同じようなことがあって、志願書を提出して帰ってきたら、今でもよく覚えていますが、同室にいい加減な男がいて、その男に「何て書いた?」と聞くと、「望」だって答えた。すると、一人、「熱望」と書いたという男が、「しまった…!」って言ってね、ベッドの周りを回り出しました。三十回くらい回って、「自分がそう書けば良かった。「望」を書きたかった」って言いながら。そんな具合に、本当に自分の気持ちで動ける、堂々たる人もいるのですね。もう一人の同僚は︱「望」って書いた男ですが、インチキな奴でした。年がら年中サボっているような人でしたが、堂々と「望だ」って言っていました。だからやっぱり、人間は分からないもんですね。
  「否」と書いた人について言えば、その人は、自分が「否」と書いたなんて絶対言わない。だけど、 たまたま彼と私が会ったときに尋ねたら、「否」と書いたと答えました。「自分は母親が年取っているから、嫌だ」という理由も言っていました。私は感動しました。私の母親も年取っていましたけれど、書けませんでしたから。だから、そういう人がいるんだな、大したものだなって思いました。だから、人間的な迫力というのかな、そういったものがあるんじゃないかな。
 
 要するに、重大な状況にあっても堂々たる議論ができる人がいるわけです。「みんな決起するんだから、お前もそれに志願すると書け」って言われたときに、「自分は天皇陛下の命令でここに来た。その天皇陛下がやめるって言っているんだから、私はやめます」と言って、サッと帰っちゃうとか、そういう人がいるんです。立派な人です。私なんかは、「どうしよう、どうしよう」とか言っているだけでしたから。 
 それから、自決のことでいうと、副長だった人が、「我々の自決の問題をどうする」とみんなに聞く。その人は普段予備学生なんて相手にしてないんですよ。みんなが集まってきたときに、予備学生相手に自決のときだけ「どうするか」なんて聞いてくるような人がいましたねえ。
 
 とにかく、八月十五日のあとは、連日、そういった会議ですよ。そういう連中が集まって。最初の日に自決の問題が出たんですが、私は「こんなことで付き合っているのは俺の使命じゃない」と思った。「自分は練習生を農場に置いていて不安だから帰ります」と言って、そこから抜け出して、練習生のところに戻った。そしたら、兵隊が酒に酔っ払って帰ってくるところに出くわしました。私が遅く帰ってきているってことも知らないで、酔っ払っていた農業指導とかいう上等兵が二人いたんです。三十歳ぐらいの人です。私は知らなかったけれども、その二人は毎晩酒を飲んでいたんですね。私が人をぶん殴ったのは、そのときが初めてです。二人がほろ酔い加減で出てきて、「何やっているんだ」って言った。こういう場合は、本当はいつも農場まで駆け足なんですよ。農場まで二里もあるのに、こんな連中と駆けられもしないし、どうしようかな、と思った。結局ね、これはぶん殴るしかないと思って。ともかく二人を、一発ずつぶん殴った。初めてのことでした。終戦の日です。そういうことがありました。あの二人がどうなったか分からないけども。
 
 そのお寺に、戦後、行ってみたことがあります。茨城大学に講義に行ったときです。坊さんも、奥さんも、息子さんも、みんな死んじゃっていました。新しい養子さんが入って代が変わっていた。世の中ってのはやっぱり浮き沈みが激しいもんだって思いました。私はお線香だけあげて、帰ってきました。「戦争中はご苦労されたそうですね」と向こうの人に言われました。 
 なんか世の中ってのはそんなもんですね。
 
 八月十六日はともかくそこにいました。十七日はもう、ここにいたら自決の何やらに巻き込まれる、こんなところにいてもしょうがないと思って、それで帰っちゃった。帰ったっきり、本隊にはもう行かなかった。 
 そしたら、その翌日、鹿島灘に敵の軍艦が三〇隻出たとかいって、特攻機の出動騒ぎがあって、飛行機が三〇機用意され、プロペラまでかけていたことがあったらしいんですね。私は知らなかった。そうしたらその翌日、それが要するに誤報だと分かった。その翌日です、全員引き上げで、練習生も全部土浦に帰ることになった。私らも一緒に帰る。それで帰ってきましたね。 
 八月二十二日に私は横浜の家に帰りました。階級章を見せると、車に乗せてくれましたし、列車にも優先的に乗れたので一日で帰ることができました。その後、すぐ親の出身地である岐阜県の加子母(かしも)村に行きました 注72
 
 加子母村ってのはね、岐阜県の山の中で、天皇の御料林があるところです 11 注 。そこが私のふるさとなんです。日本で一番広い村じゃないかな、ほとんど林だけど。戦争前にそこに行って厄介になったものだから、そこに三ヶ月いました。何にもしないで。私はね、本文にも書きましたが、そのときはなんか馬鹿馬鹿しいって感じが非常に強くて。一生懸命やって、みんな死んだりして、だけど終わったらそれっきり、こんな馬鹿馬鹿しいことがあるかと思いました。そういう気持ちが非常に強かった。それで、だから「もう大学なんか辞めよう」と思った。そしてこの村へ戻って、村の小学校の先生でもやって、一生過ごそうと思った。三ヶ月ぐらいいました。来年の四月から先生にしてくれないかって言って、頼みました。そしたら、母屋の当主というのがいるのですが、何でも威張っているその人に呼ばれてね。「そんなことで若いのにどうする」とか言われたし、三高の友達が手紙をよこして、「何を言ってるんだ、もうみんな今帰ってきて一生懸命勉強している」。特にそいつは経済学部で、経済学部はマルクスが帰ってくるわけですよね、だから非常に張り切っている。そんなもんだから、
もうみんな張り切って勉強している。「お前みたいに寝言を言ってる奴はいないから、すぐ帰って来い」というような内容です。それで私は一月頃だったかな、東大に帰って和辻先生にご挨拶したら、「無事に帰ってきたか」なんて言われて。
 
 前に言ったように、特攻の志願があったとき、ずいぶん真剣になって考えていました。一ヶ月くらい呼び出しが来ない。来ると、呼び出された連中が行ってしまう。また一ヶ月くらい来ない。そうすると、だんだんね、気がのんびりとしてくるんですね。だんだん平気になってくる。「そのうち当たれば行くだけだ」というような、いい加減な気持ちになってくる。何て言うのか、日常的にも、特攻がどうなるなんてことも考えなくなってくる。「いや、この芋はこっちに植えよう」とか、そういうようなことの方に気が向いてくる。だから、特攻で本当に真剣になって、「行ったらどうなるかな」っていって考えていたのは、一ヶ月か二ヶ月です。まあ本当は一ヶ月くらいだろうね。
 
 それから、喋らない。特攻に当たった者もぜんぜん喋らない。どういうつもりで行くとか、そういうことをこっちも聞かない。聞けないし、喋れないのだろうと思うけれども、なんかあれは寂しい気持ちでしたね。当たると一ヶ月、特攻の訓練をして、九州の最先端にある鹿屋航空基地に行って、そして向こうが出てくるのを待ってるんですよ。
 
 しかし、私らゼロ戦なんだけど、だんだんゼロ戦が無くなってきてね。「赤とんぼ」とかの練習機とかね、それから下駄履きの水上機とかね、そういうのが行くんです。すると、そんなものはすぐ落とされてしまう。だからゼロ戦はなかなか貴重な爆弾になってくるわけです。それでね、六、七人かな、最後まで特攻に行かなかった人もいます。 
 そういった人は、四月に行って、続々と出ていく中で、八月まで居残って行かなかった。そんな人がいるんですよ、六人くらい。運ですね。どう見たってね、特攻なんて有効な攻撃だとは思わないし、どんどん飛行機は無くなる、搭乗員は無くなる、大した効果はあがらない。
  「何故こんなことを続けるのか」って、今でこそ思いますが、そのときはぜんぜん思わなかった。ただ、 「死ねばいいんだ」っていうようなつもりだけ。参謀はどうだったんでしょうかね。
 
 昭和二十一年の一月に復学ですが、そのときも復学するつもりは無かったけども、ともかく東京にふらりと出ていって、研究室に寄ったら、先生が「帰ってきたか」って言って復学せざるを得なくなって(笑)。大学では、勉強しなかった。
 
 二年の二ヶ月目に学徒動員で、そして一年八ヶ月戦争に行っていたんです。何年生で復学になったか分からない。大学にあと二年間くらいいましたよ。
 
 大学院というのも、今と違ってね、「大学院に入ります」って言って、届けを出せばそれで入ったことになる。そして、授業も何にもない。一年にいっぺん、三〇ページ、レポートを出す。そして、何年目かに博士論文を出すという。それが、博士の課程。それは、オックスフォード、ケンブリッジの課程です。それが戦後アメリカの制度が入ってきて、授業までやったりするようになった。
 
 東大も、だからそんな形式で、何の義務も何にもないんです。月謝は三〇〇円。高いです。私が戦争から帰ってきたとき、月謝が一〇円だったから。だから、もう本当に高かった。


 十三期と十四期
 
 学徒動員があって、私らは十四期ということになります。この十四期は、二ヶ月間、二等兵をやっています。私らが予備学生になるには、二ヶ月たって、十三期の四ヶ月後に我々は土浦に入るんですね。十三期の連中とはあまり会っていません。十三期が出てすぐ十四期だから、まだ教官にもなってないしね。だからあんまり会ってない。十四期の私らが一番会っているのが海兵で、たまたまなんか青島にいて、海兵にものすごくぶん殴られた十三期が、たまたまその次に来た十四期をものすごくぶん殴ったっていうのだけが、十三期が勲功を果たした事件じゃないかと思う。 
 ろくでもない連中だと思いました。私も、ぶん殴られたことがあります。私は霞ヶ浦航空隊でね、歩いていたらね、ある大学の教授の息子だったけど。なんか心安く話しかけてくるから、こっちもいい気になって応じていました。私らは防空壕を調べに行っていたんです。で、一緒についていくと、最後は彼の寝室みたいなところに連れ込まれて。裸でふんどし一丁みたいな奴が出てきました。次から次に出てきて、我々二人をぶん殴っていった。これが十三期かっていう気持ちでした。なんで殴られたか分かんない。私は本当に怒った。私は軍刀を持っていましたから、よっぽどこいつら脅かしてやろうかと思ったくらい。ひどい連中でした。あの人たちは。 
 十三期に入った人は、高等専門学校を卒業した人と、大学を卒業した人です。高等専門学校を卒業した人っていうのは︱もう俺らは高等専門学校を卒業しているわけだからね、私らより年下です。師範学校の人とかね、新しく高等専門学校になった人とか、そういう人たちがいました。それから、日大が五〇〇人かな、早稲田大が五〇〇人というのが十三期だって言われています。本当かどうかは分からない。十四期は、東大が五〇〇人、早稲田大が五〇〇人って言われています。ただ十三期はみんな元気が良かった。それで、「自分たちは志願で来た」と自慢して、「お前らは徴兵で来やがって、なんだ」って言ってぶん殴るんです。
 
 確かに十三期は志願です、一応。卒業生を対象に、海軍が募集して、志願があって、全部身元を調べています。十四期は全部一律に、兵隊として採ったわけでね。だから、教練が丙の奴は落とすとか、そういうようなことをしていたようです。
 
 十三期から急に人が多くなる。十三期、十四期はめちゃくちゃに多い。一万人です。だから、十四期もそうだけど、玉石混交でした。 
 飛行予備学生というのは、昔はなかなか採りませんでした。色々詳しく身元調査かなんかをして、本当に少ない人数しか採らなかったんです。それをここでごっそり採るようになって。何て言うかな、予備学生って制度は私たちにとっては楽だったけども、それが、飛行学生、海兵の学生には気に喰わなかったようです。急に、すぐ来て少尉待遇になるわけですから。だから、つまらないことだと思うけど、海軍兵学校が特別優れた学校だって思っているんだね。それがともかく、根にあったわけです。
 
 私は志願して十三期に入ろうという気は毛頭なかった。それはもう、十三期の駆け足っていうのは威勢がいい。十四期は…。そのくらい違うんです。  
 私は、わりと何でも一生懸命やる方です。でも、先頭に立って何とかっていうようなことは、あんまりしない。たまたま土浦では班長になっていたもんだから、そういうことはありましたが。



 おわりに
 
 私自身が本当に考えて、これは書かなければいけないかと思ったのが、この本です。これまで特攻のことについては話したことがない。たまたま機会があって書いてみた。これでいいのかどうか分からないけども。 
 指揮官が自分たちだけ行かないのはけしからんじゃないか、ってことを書いた。まだ陸軍は、指揮官が先頭で行くんです。ところが海軍は、ちょっと転任してくるとすぐに人を集めて特攻隊です。ひどい扱いです。爆弾同様です。海軍というのは、そういうところでした。もちろん立派な人はいた。たとえば駆逐艦なんかに乗った人は、一糸乱れず敵の空爆を逃れて、生きて帰ってきたって人がいたりします。それから下士官が、本当に優秀でした。機械みたいに動いて。で、士官というのは本当に駄目でした。だから、なんていうのかね、海軍は負けるべくして……。

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注 71  茨城県鹿嶋市と神栖市にまたがって存在していた神ノ池海軍航空隊のことと思われる。神之池 という池が現存する。
注 72  二〇〇五年編入合併し、現在は中津川市加子母となっている。
注 73  昭和二十一年四月一日、御料林は国有林に一元化された(アジア歴史資料センターHP参照)。     加子母の地域面積の約九三%を占める山林では、伊勢神宮の式年遷宮御用材をはじめ、法隆寺 金堂、姫路城、銀閣寺などの修復用材、名古屋城本丸御殿の復元などに使われる「東濃ひのき」 が育てられている(加子母森林組合HP参照)。
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<ebisuコメント>
 この本を書いた動機は、先生自身が「終わりに」のところで明快に述べておられるので、付け加えるべきことはない。
 あとは編集委員会のみなさんによるあとがきを紹介するだけである。
 アップし終えて、たまたまいま生徒たちと読んでいる本について蛇足と思いつつしたためる。市倉先生が育った加子母村は伊勢神宮の式年遷宮や法隆寺金堂の修復に使われる用材を産出できるほど優良な山林が93%を占めているという。いま、法隆寺宮大工最後の棟梁西岡常一氏とその弟子小川三夫の本『木のいのち 木のこころ』(新潮文庫)を音読トレーニング授業で生徒と一緒に読んでいる。宮岡棟梁が法隆寺修復に使った木材のなかに市倉先生の生まれ故郷の良質の檜材が使われている。西岡棟梁が加子母村の山林を実際に見て、どの部分に使うか一つ一つ吟味したはず。
 旧制三高時代に和辻哲郎に私淑した経緯には、その思想に興味が湧いただけでなく、『古寺巡礼』にも先生は深い感銘を受けたのではないだろうか。
 先生が学徒出陣するときの「出征旗」には東大総長の署名とともに和辻哲郎の署名も見える。繰り上げ卒業での東大からの学徒出陣だった、和辻哲郎は指導教授だったのだろうか。
 学部のゼミの合宿のおりに、「数年専修大学で教えていてもらいたい、いずれ東大へ戻すから、そういう約束だった」と笑って話されたことがあった。どういう手違いか、母校の東大へ戻れなくなったようだ。そのお陰でわたしたちは、市倉先生の薫陶を受けることができたのである、まことに運がよかった。(笑)
 




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