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#3921 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.125~137 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅲ-15 .落下中の米兵に敬礼
Ⅲ-16 .ある海機卒業者の修正
Ⅲ-17 .殴りの意味
Ⅲ-18 .日本を救う。空虚大言
Ⅲ-19.米軍の指摘する、日本海軍の欠陥

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Ⅲ-15 .落下中の米兵に敬礼
 
 昭和二十年一月二十七日には、B 29 、五、六機編隊による東京空襲が行われた。最後尾の一機が編隊から遅れ、その周辺を豆粒ほどの戦闘機数機が追尾攻撃。やがて、基地外辺に墜落。上空に目を移すと、五、六個の落   下傘が開き、次々着地。搭乗員は掴まえられる。 
 あとで分かったのだが、同機は投弾直後に双発戦闘機(陸軍の屠龍らしい)による左上方からの銃撃で、風防を破壊され、搭乗員は零下五〇度の超低温に曝された。よく凍死しなかったものの、そのためかひどく震えていたようにみえた。一名は死亡せしも、五名ほどは捕虜の後、戦後無事本国帰還。 
 その中の一人、レイモンド・F・ハローラン中尉[一九二二年生まれ]が、自分の降下した地点を確認したいと、平成十一年、十二年に来日。しかし、正確には確認はされなかった。
 
 ハローラン氏が落下傘降下中に日本の戦闘機三機が二周、さらに一機が接近旋回しながら挙手の敬礼をして飛び去った。銃撃を覚悟したが予想外の対応に感銘を受けた。
(横尾良男[東北大。土浦空。操縦。第二美保空。K七二二]「海軍十四期」第三四号一二頁)
 
 戦後この戦闘機の搭乗員が、千葉県に住んでいた海法秀一氏であることを捜しあて、鹿島を訪問する前日、ハローラン氏はこの操縦者を訪ね、謝意を表したのであった。海法氏は当時陸軍伍長。日頃隊長から、「降下中の敵兵を攻撃してはならない。日本には武士道があり、西洋には騎士道がある」と教育されていた。 
 陸軍の飛行隊には、真に品位ある軍律を理解している指揮官が存在していたことは素晴らしいことである。米軍の搭乗員さえ感動させていることが嬉しい。敵であれ、部下であれ、民間人であれ、婦女子であれ、いずれの他者に対しても無意識のうちに襟度ある態度を示しうる気風を具えてこそ、品格ある軍律を保持する軍隊といえるのではないか。 
 先に触れたが、殴る海兵を押しとどめて、自分が殴り倒された久住中尉などは、こうした軍律の意味を自覚していたのであろう。部下を殴ることに軍律の厳しさを誇ることしかできなかった先述の先任士官は、軍律の本当の意味を知らなかったのであろうか。殴ることも軍律を維持する一つの仕方かも知れない。が、品位のある軍律を築くという自覚が全くなかったというほかはない。
 
 軍律維持については、アンケートに答えた文章に、こんな話が載っている。
 
 川邊進夫[出水空。筑波空。谷田部空]


  「十三期、七三期、十四期総員集合」。何事ならんと駆けつけると、既に中野司令、横山飛行長 が来ている。(…) 
 司令はまず、軍隊で最も大切な心構えは何かと問われる。吉村が、死を顧みない敢闘精神ですとか答えると、司令は「違う」と云う。ほかに答えようがないから皆黙ってしまった。すると司令は意外や、軍隊で一番大切なのは和であると説かれたあと、「後任者が先任者を殴るとは何事か」と、烈火の雷を落とされた。
(「海軍十四期」第一五号五頁)
 
 後任者とは海兵七十三期、先任者とは十三期予備士官のことであった。予備士官でも、下位の海兵を殴る(修正する)ことは時にあったようであるが、このときには常に何ほどか、上位海兵士官の反撥制裁を招いて逆に修正されていたことは会報の手記にも多く載っている。が、海兵出も予備の上位士官を殴ることは禁じられていたらしい。七十三期の海兵はどう思っていたのか、この隊では予備士官でも上位のものを殴ることには、さすがに問題であると感じていたらしいことが伺われる。



Ⅲ-16 .ある海機卒業者の修正
 
 中庭をへだてた向こうの棟から、ただならぬ気配が伝わってきた。灯火管制の暗幕におおわれた宿舎から、一歩外に出れば真の闇だった。その闇に踏みだした私の耳に聞こえてくる、怒号と鈍い打撃音。続いてのズシンという、なにかが倒れる重苦しい響きは、そこで激しい修正(制裁)がおこなわれていることを示している。 
 光に到着してから、まだほんの二日か三日しかたたぬころのことであった。あの音のする部屋は、私たちより少しはやく、九月初旬に回天隊員となり、今や連日出撃訓練に明け暮れている、水雷学校出身の同期の者たちの部屋にまちがいない。 
 明日の日にも魚雷と化して死んでゆく男たちが、なんであんなに残酷なリンチにあって苦しまねばならないのか。ただでさえ暗い私の心は、さらに深く闇に沈んでいった。 
 それは四期士官講習員に対して、R(海機出身。のち出撃戦死)が加えている修正(制裁)だった。
 
 藤沢(八期)は、
  「あの男のしごきは連日連夜猛烈を極め、われわれはそれを毎日目撃し戦慄していた」と言い、 
 小野尊飛曹(大津島水上偵察機パイロット)は、
  「あの男、正気じゃなかった」とまで極言している。 
 だが翌朝に会った彼ら四期士官講習員の顔はさわやかだった。その深く澄んだ瞳には、昨夜の嵐の影さえ宿していなかった。特攻隊員になることは、あの瞳になることなのか。そこにはもう、生きながら人間のすべての業を解脱している姿があった。 
 これはえらいことになった。あそこまで悟りきらねば、ここの隊員はつとまらないとしたら、俺はいつになったらそうなれるのだろうか。実際の話、私はいつまでたっても彼らのようになれなかった。 
 全員が出撃して戦死してしまった、あの部屋の人たちに、四十年たった今でも私は畏敬の念を抱いている。
(『人間魚雷回天』五九〜六〇頁  注54
 
 自分は殴ったことがないと語る当時の海兵出身者は、当時の殴る海機人たちの心理を好意的に解説している文章をみたが、何よりも殴るということの人間的な意味を何一つ理解していないことに驚いた(『特攻最後の証言』五三〜五四頁 注55 )。 
 海兵の教育の歪みとでも言うべきなのか、何とも残念な思いをしたことであった。 
 あまり触れられていないので、最後に〈伏竜〉という海軍の特攻兵器について触れておこう(都木濃「伏竜隊始末記」『一旒会の仲間たち』三二六〜三二八頁)。 
 昭和二十年五月。海防艦、第八昭南丸航海士。浦賀入港休日に、当直将校として軍艦旗降下時刻に遅れる。防備隊副長に呼ばれて大目玉。直後、久里浜防備隊付けとなり、伏竜の訓練を受けることになる。 
 訓練の教育担当下士官は、たいへん慎重丁寧。ゴム製防毒衣。上下別、首にゴムパッキン、鉄の首輪。鉛の草鞋。腹帯に鉛の鎖。六〇キロの重みで、浮力抑える。背中に「炭酸ガスを吸収する清浄缶」と「酸素ボンベ」をつける。 
 呼吸の練習がたいへん。しかも危険である。服の中に保つ酸素の量の調整がたいへんで、これには熟練を要す。これに気をつけないと、水中でひっくり返り、自分ではもとの姿勢に戻れない。歩行さえ自由でない。しかるに、武器は三メートル半の竹竿の先に機雷をつけたもので、これで敵艦船を攻撃する。 
 水深一五メートルまでで二時間もつといわれていたが、本人は最長で三十分位しか経験しなかった。これで、敵の艦船の前に展開して、敵艦を攻撃するといっても、果たしてどれほど有効だろうか。 
 しかも、自分自身で自由に着脱できぬ衣服装備である。事故で死んだ予科練も多かったようである。最も粗末な特攻兵器というほかない。 
 それにしても、彼自身はこの特攻を志望した覚えはないらしい。何か失敗をしたら、特攻に廻すという仕組みなどあったのであろうか。何とも兵士をもの扱いしている構造とでも言うほかはない。もともとは志望者をのみ特攻に廻すということではなかったのか。勝手な指揮官がいたということであろうか。


Ⅲ-17 .殴りの意味
 
 時が経つにつれて、海軍生活になれてくると、十四期の予備学生が次第に殴ることに登場してくることになる。十四期が同期生修正を行う頃から、殴る操作は次第に拡がって、十三期はもとより、十四期のものまで平気で海兵並みの修正をすることになる。『人間魚雷回天』を書いた神津自身も次第にそうした殴りに参加している。 
 何も海軍と限らなくても、日常生活ではいかんともし難い事情や手違いがあって、決まり通りに事が運ばないことはよくあることである。ところで、何かつごう通りにゆかないことは、海軍ではすべて殴ることで解決してゆくといってもいい。殴ることが一つの解決法だといってもいいかもしれない。 
 殴るときには、殴られる方からいうと、よく理由もなしに殴られた。しかし、殴る奴にはきっと理由があるのだ。それはつまらん理由であるであろう。しかし、殴っているうちに、相手がだんだん悪く思えてくる。自分が正当になるのである。 
 それに、つまらない理由であるから、その理由は一層有力ともいえる。本当に理由が見つからないことが、「それのみ」が理由となる。いや、何でもが理由になるといってもいい。つまり、いついかなるときにも、殴ることそのことが正当化されるのである。殴って失敗したなどという話は聞いたことがなかったように思う。 
 そして、理由がないからいつでも殴れる。殴っているうちに理由が出て来たりする。あるいは、殴ることが意味を造り出す。そして、自分が偉くなる。相手はますます駄目な奴となる。最後には〈もの〉扱いさえする様になる。 
 殴られる方は、理由がないから理不尽を感ずる。ところが、これは自分が悪いのでなく、身分が下なることを感じてくる。身分化の階層ができてくる。これは他者を一様に〈もの〉と化することに通ずる。予備学生、予科練を大量に特攻に動員するのに繋がるわけである。 
 逆にいえば、海兵の仲間のみ人間である。ただし序列付き人間であるが。大佐、中佐、少佐。根源的な根拠から基礎付けられた原理ではない。自分らの仲間の原理が絶対なのだ。天皇絶対の主張に則っているのである。先に敗戦のときに主張されたことに触れたが、世界の中で天皇が相対なることを知らない。海軍の権力世界の構造はこうしたものである。



Ⅲ-18 .日本を救う。空虚大言
 
 特攻は「日本を救うため」が名目。その具体的内容が分かっていない。本当に、特攻で日本が救えるのか。
  「日本のため」「日本を救うため」が題目だけだから、かえって応用力自在ともいえる。特攻作戦の 犠牲戦果の細かいデータが分かってないから、かえってその作戦の破綻が見えない。一命を投じた搭乗員の行為のみが 注目されがちになるから、それだけ悲壮な崇高な気分のみに目がいってしまうことになる。 
 突き放していえば、特攻員自身もこの空念仏に踊らされ、この作戦が戦況にどれだけの貢献をしているか(冷静な事実)を見過ごしてしまう。またその正確な情報を手にする術もない。その場所にもおかれていない。ただ、軍令部上官の言葉だけを信じて、それが日本の現実と思うほかはない。 
 事態は恐らく、実戦部隊の中間士官も同様な事態におかれていたのではないかと推測される。 
 じっさいには、特攻がいかなる成果を生み、いかにして日本を救えることになるのか。本当に正確に考えた参謀がいたのであろうか。制空権、制海権なき状況で、日本に何ができるのか。ナチスも英爆撃機の大きな被害に対応するため、戦闘機を体当たりさせる特攻戦法を一時採用したが、戦果が挙がらぬとして、一ヶ月ぐらいでとりやめている(三浦耕喜『ヒトラーの特攻隊』作品社)。 
 大西が特攻を続行したのは、何か戦果を挙げたいと思いすぎていただけのことではないのか。むしろ、今までの敗戦に何か一矢を投げ込むことにはなる。もちろん日本の敗戦を救う作戦があったわけなのではない。 
 司令官たちは知っているはずである。もっともそれでいても、全く成算もなく世界最大の戦艦大和をほとんど孤立無援の中で沖縄へ特攻に出している。 
 むしろ、戦場の勝敗が明白に推測できる事態でありながら、破天荒の勝利を夢想して、現実離れした目的(あるいは、抽象的な目的といってもいい)に固執して多くの将兵を死地に付かせる。まさしく「外道の統帥」である。 
 特攻は現実分析なき作戦なのだ。だから、大西滝治郎の主張した特攻の目的は頻々と変わっている。始めは、空母の甲板を破り、レイテ海戦に資するため。次には、簡単に負けないため。さらには、特攻による米国人の恐怖心を利用して、平和条件を有利にするためなどなど(これは政治家のやることで司令官のすることでない)。こう次々に目的が変わることは、じつは本当の目的がないということを示しているのではないか。 
 にもかかわらず、彼自身は平和降伏には最後まで反対して、米内海相に怒られている。彼は恐らく最後まで特攻に固執したことであろう。しかし、大西は特攻をみずから正面から発言した。後に触れるが、誰が本当の特攻発案者なのか、正確には分かっていない。背後に軍令部があることはおおかたの見解であろう。 
マ ルダイ(桜花)の発案についても、大田正一少尉が有名であるが、じつは背後に源田実がいたのではないかといわれている。こんな話が残っている。

 大田正一
 
 桜花の発案者とされる大田正一に触れておかなくてはならない。大田の案は源田実の引き回しで実現されたといわれている。が、桜花にまつわる源田の存在は影のままにとどまり、解明されていない。 
 ある論者は、特攻は陸軍では上から、海軍では下から発案されたという。確かに回天は黒木中尉と仁科少尉とが発案した。初めの頃に、二人とも事故で殉職している 注56 。 
 しかし、大田はどうか。発案者が最後まで桜花に搭乗していない。何故か 注 。むしろ大田は人寄せパンダであったのではないか。大田が重要な意味をもっているのは、桜花が軍令部の特攻踏み切りに大きな役割を果たしている点である。 
 特攻兵器の発案としては回天の方が先であったが、脱出装置に難があるとしてなかなか兵器として認められなかった。ところが、脱出装置なしの特攻兵器決定には、桜花が先鞭をつけた。桜花が先に兵器として認められたことが、回天の兵器認可を可能にしたともいえる。 
 回天で出撃すれば、いずれは死ぬ。脱出装置があってもなくても同じといった議論さえ出ていた(武山学生隊第一隊長津村敏行の考え。「脱出口があってもなくても、決して助からないのではないか」)。 
 大田は桜花の採用と共に、たいへん重要な人物とされている。桜花は通称〇大(マルダイ)といわれている。 彼は敗戦時には神雷部隊にいたが、ひとりゼロ戦に搭乗、鹿島灘沖から太平洋に消えたといわれていた。ところが、漁船の側に着水。生存した。寸借事件など起こして後、消息を絶ち、名前を換え、結婚して生き延びている。すでに触れたが、この彼の生存の背後には源田の影ありとする説がある(『一筆啓上瀬島中佐殿』一三〇頁)。
 御田重宝(桜花は軍令部の発案とするジャーナリスト)は、「特攻隊はいかにして生まれたのか特攻兵器開発の真実と「大田正一少尉」の病死」で、次のように述べている。
  「昭和五十八年二月三日の中日新聞は、『生きている?桜花〝生みの親〟・特攻の本命誕生のナゾ聞きたい』と、ほとんど一ページをさいた特集記事を載せた。愛知県出身の大田少尉の故郷の関係者から消息を聞き出したいという目的があったが、『読者からの感想はありましたが、大田少尉の関係者からの反応はゼロでした』と執筆した記者が私に語ってくれた」。 
 ところが、平成六年十一月にT・O氏より御田に連絡がくる。御田が桜花の発案を大田でなく、軍令部としていたことから、真実を語りたいとの申し出があった。氏は大田正一の子どもと名乗る。大田は山口県生まれで大正元年八月二十三日誕生とのこと。取材の約束を取り付けるも、同年十二月に、本人がガンのため死亡。真実は不明のままに残ってしまった(別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』二八〜三一頁)。 
 特攻作戦は軍令部の発案としても、冷静な軍事の現状の分析も無く、いずれにしてもただ緊急事態を叫び、いたずらに若い搭乗員たちに悲壮な勇気を求めたのにとどまったのは残念である。通常の軍令部であれば、本当に日本を救うためなら、通常作戦でやるべき。これができなければ、降伏すべきである。この検討さえなかったとするなら、まことに思慮のない話である。



Ⅲ-19.米軍の指摘する、日本海軍の欠陥
 
 戦後知ったことであるが、米側の日本軍戦力の分析は〝下士官兵は強いが、職業軍人の幹部将校は柔軟性に欠く〟とのことであるが、米軍は日本軍の内情を分析するだけでなく、自軍の欠点も知っており、民間人をどんどん登用してその柔軟な頭脳を活用し参謀としてすら活用した由である。
(田村靖「わが戦中日誌」『一旒会の仲間たち』三〇六頁)
 
 大学生の搭乗員は勿論多く活躍している。父ブッシュ元大統領も搭乗員であったといわれている。 
 日本人の〈島国根性、ムラ意識、派閥意識〉は歴史的、伝統的のものであるのかもしれない。海軍がこの根性を中核のものとしたことは何とも残念である。


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注 54  文庫版では八四〜八五頁。
注 55   『特攻 最後の証言』制作委員会『特攻最後の証言』文春文庫、二〇一三年では七六〜七七
頁参照。

注 56  黒木博司大尉は昭和十九年九月七日に回天訓練中の事故で殉職したが、黒木と共に殉職したの は樋口孝大尉。仁科関夫中尉は回天特別攻撃隊菊水隊員として昭和十九年十一月二十日に戦死し ている(回天刊行会編集発行『回天』一九七六年、一四七頁、一五四頁)。

注 57  大田は桜花に乗ろうと操縦の手ほどきを受けたものの、適性なしと判定されたという説がある (内藤初穂『桜花』中公文庫、一九九九年、二九三頁)。
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桜花https://ja.wikipedia.org/wiki/桜花_(航空機)
海機:海軍機関学校。海軍には海軍兵学校、海軍機関学校、海軍経理学校の三校があった。海軍機関学校は機関術、整備技術のほかに火薬の調合や設計やメカニズムの研究など、さまざまな科学技術研究をしていた。機関科将校育成機関である。舞鶴と横須賀にあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍機関学校



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