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#4013 根室の小中学校の統合をコスト面から考える Jun. 8, 2019 [89.根室の過去・現在・未来]

 #4012で光洋中学校と啓雲中学校の2021年統合スケジュール公表について書いた。
*#4012 啓雲中と光洋中が統合 Jun. 6, 2019
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2019-06-06


 モノの道理として、高校統廃合の前に中学校の統廃合が、そしてその前に小学校の統廃合があるべきだが、順序がまったく逆になっているのはどうしたことか?
 生徒の人数が減りだすのは小学校が高校よりも9年も前であるから、高校統廃合の9年前には小学校の統廃合が完了していなければならない。そんなことは小学生でもわかるモノの道理だ。
 今回の光洋中と啓雲中の統廃合記事には小学校の統廃合がまったく載っていない。どうしたことだろう。根室西高校は今年3月に廃校になったから、小学校の統廃合は9年前に終わっていなければならない。

 中学校の適正規模を根室市の「小中学校適正規模及び配置に関する基本方針」では1学年3-6学級としているので、郡部を含めて1校体制が可能なはず。なぜ避けて半端な統合案をまとめたのか?市側で作成した基本方針通りになぜやらない。
 いずれ2040年には生徒数が1学年110人程度に縮小するので小学校も中学校も1校にならざるを得ない。建物を増改築すれば数億円がかかるが、2段階でなく1段階でやればコストが大幅に削減できる。統廃合を条件に通学バスの無料化を道や国と話し合えばいいが、資料を見てもそういう検討をした形跡がない。校長の数は激減、教員の数も減るのだから、交渉の余地ありだろう。困難な課題をいくつかパスしてしまった。

 コスト面からの検討も見過ごされた課題の一つだろう。
 大雑把な計算で確かめてみよう。生徒数30人の小規模小学校を考えてみよう。1学年5人だから複式学級にすると担任の先生が3人、校長が一人必要となる。いくらなんでもこんな規模に教頭は不要だろう。だから事務職員1人、合計5人の職員構成となる。公務員給与の平均額を600万円を適用すると、人件費だけで3000万円、それに学校校舎建物を10億円とし50年の減価償却で年間2000万円かかる、そのほかの経費を1000万円とすると合計6000万円/年であること。生徒数30人で割ると生徒一人当たり200万円/年のコストがかかる。小学校6年間だけで生徒一人に1200万円ものお金がかかっていることになる。べらぼうな話ではないか?
 生徒数45人の中学校はどうだろう。教科担任制だから先生の数は8人、教頭と校長で10人、それに事務職員が一人で職員数合計は11人。年間人件費は6600万円である。減価償却費を2000万円、その他の経費を1000万円とすると、費用の合計は9600万円となるから、生徒一人当たり213万円である。小規模校では小学校から中学校を卒業するまでに生徒一人当たり1800万円もかかることになる。元は全部税金である。
 1学年6クラスの中学校(生徒数180×3=540人)を想定すると、先生の数50人、事務職員4人、減価償却費4000万円、その他経費2000万円とすると、生徒一人当たり71万円である。
 郡部校の維持にはおよそ3倍のコストがかかっているのだが、そういうコストを考慮していない。学校関係者の議論はいつもコストが欠落している、どうしてコストを考えないのだろう?
 小学校も中学校も1校に統合すべきではないのか?

 小学校や郡部校の統廃合を検討から除外した「検討委員会」は実にイージーな作業をしたようにみえる。閉鎖的な委員会方式による検討はつねにこういうことになる。市立病院建て替えに関する委員会、明治公園再開発に関する委員会、高校統廃合に関する委員会、他にもいくつかあった。市の総合文化会館会議室を使い、毎月2回日曜日をつかって市民の自由参加でオープンにやるのがいい。市長が変わってもやり方は変わらぬ、いつまでこんなことを繰り返すのかね?
  魅力的な町ははどうしたらつくれる?魅力的な地元企業と魅力的な行政のあることが必要条件だろう。閉鎖的ではどうにもならぬ。地元企業も地方行政もどちらもそこに住む人々が支えている。面倒な仕事を避け、十年二十年後三十年後を見ないでどうする?

*根室市立小中学校の適正規模及び適正配置に関する基本方針
https://www.city.nemuro.hokkaido.jp/material/files/group/31/66547559.pdf




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#4012 啓雲中と光洋中が統合 Jun. 6, 2019 [89.根室の過去・現在・未来]

 根室高校が6/4日から前期中間テストをやっている。金曜日までの4日間、まあのんびりしたもの。これが終われば7月初旬の学校祭へ向けて準備期間が始まる。ほとんどの生徒が勉強のほうはお留守となってしまう。2年生と3年生は、ほどほどにして受験勉強と両立させることを考えるべきだが、毎年なかなかそうはならないで、8月9,10,11日の金刀比羅神社の例大祭が終わるまで、お祭りモードは切り替わらない。

 啓雲中学校が光洋中学校へ統合されるという記事が今日の北海道新聞朝刊に載った。2021年4月だそうだ。「元々光洋中学校が10クラス420人ほどに膨らんだので37年前に啓雲中学校ができた、2年生の時に光洋中から啓雲中へと引っ越した」と昨日髪をカットしながら世間話で聞いた。
 啓雲中の統廃合によって元の光洋中に戻ることになる。元に戻るなら校歌も校章もそのままでいいから、手間も最小限で済む。これはこれで実務的な案だ。
 もっとさかのぼれば光洋中学校は根室中学校が手狭になり、柏陵中学校ができて、光洋は1学年10クラス550人の規模で57年前にスタートした。団塊世代のわたしたちが光洋中学1期生であった。柏陵中出身のヒロシに訊いたことがある。大正町(常盤が丘)にあった旧根室高校校舎から机に椅子を重ねて手で持って柏陵中学校校舎まで運んだそうだ。あの年に根室高校は大正町から牧の内へ新校舎を建てて引っ越した。木製の重たい机と椅子だったから、駅前を過ぎたあたりから、急に重みが増したに違いない。女の子はたいへんだったろう。柏陵のスタート時は5クラスくらいかな。昭和37年に市街化地域の中学生徒数が2248人だから、光洋中と柏陵中合わせて1学年平均749人。郡部が884人だから1学年平均294人の生徒数になる。子どもが多かった。
 現在は市内全部の中学校を合わせても1学年200人程度しかいない。
*資料
https://www.city.nemuro.hokkaido.jp/material/files/group/7/suisinn.pdf

 いずれ柏陵中学校も統廃合でなくなるのだから、最後には「根室中学校」という旧名称に戻せばいい。
 2040年には根室市内全部で1学年110人くらいになるという年齢別人口推計データが公表されている。弊ブログでも紹介した。

 柏陵中学校が1学年30人程度になれば統合せざるを得なくなるだろう。郡部の歯舞中、海星中、落石中、厚床中は生徒数の減少でその前に統合対象になるだろう。道路が整備されてるから、無料のマイクロバスで通学できれば便利だ。ついでに郡部から通う高校生も乗っけてあげたらどうか。その際に根室交通への配慮は必要だ。上手にやらないと公共交通機関であるバスが根室から消えてしまいかねない。

*#4013 根室の小中学校の統合をコスト面から考える Jun. 8, 2019
https://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2019-06-07



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#3979 長野県の試み:お試し移住 Apr.30、2019 [89.根室の過去・現在・未来]

 長野県が面白いことを始めた。IT企業の誘致をしようというのである。既存情報関連企業の長野県進出あるいは新規開業を誘うために、共同ワーキング空間を期間限定で提供するというものだ。ためしにやってみてよければ長野へ移住してきて情報関連企業の拠点を構築してもらいたいということ。お遊びではないから、厳しい条件もついているのでURLをクリックしてよくご覧いただきたい。

*長野県に“おためし”居住してITの仕事をする人を募集、コワーキングスペースや住居を提供
https://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/1182186.html?fbclid=IwAR1c6LgrA-Bx22meoiZ69t3dpwS9tUXUmqcogYHljqOvva-katW1DlzOHpw

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長野県は、IT人材の同県内への誘致を図るための取り組み「おためしナガノ2019」の参加者を4月24日から5月27日まで募集する。

 地方で事業の実施やサテライトオフィスの設置などを考えている首都圏などのIT人材・企業に対し、長野県内に居住して仕事をする“おためし”の機会を提供するもの。具体的には、オフィス(コワーキングスペース)の利用料や移転費、県外への業務上の交通費などを補助するとともに、コワーキングスペースに徒歩で通える住居を県または市町村が無償または有償で提供する。

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 根室市でももう5年間ほど予算を確保して移住促進をやっているがほとんど実績がない。
 当たり前のことだが、企業誘致か地元企業の経営改革(オープン経営への切り換え)ができなければ人口は増えない。
 長野県内なら、新幹線もあるから、サテライト・オフィスも設置可能だ。極東の町根室は首都圏から遠く離れているから長野県とはだいぶ事情が異なるが、何かやり方を見つけたらできるかもしれない。ようは智慧があるかということ。
 IT企業誘致よりも地元企業の経営改革のほうが現実的で効果はずっと大きい。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」にはその企業で働く従業員の処遇も入っている。減少したとはいえ、根室の水産資源は豊かだ、そこが有利な点だ。根室を支える主力産業である水産業から経営改善すればいい。
 オープン化には決算情報の開示、経理規程の整備と徹底(会社のお金と個人の財布を混同しない)、退職金制度の制定や予算制度の導入などが含まれている。正直で誠実な企業、そしてオープンな経営、そういう企業にしか人材が集まらない時代になりつつある。変われない企業は消滅していくだけだ。
 人口減対策は移住促進よりも、地元企業の経営改革のほうが比較にならぬ大きな効果が期待できる

 ようするに、首都圏の標準的な中小企業よりも一歩進んだオープン化をやればいいだけ。好い就職先が増えれば、根室高校を卒業して都会に進学した子どもたちが戻ってくる地元の子どもたちですら戻ってこないような町に、移住しようと思う人が同じ数だけ現れるなんてことが幻想であることは、だれが考えても明らかではないのか

 地元企業の経営改革で人口減少に歯止めがかかる、それで十分じゃないのかね。毎年600人も根室市の人口が減少している。若い人たちが毎年150人は外に出て行って戻らない。まずはそこから改善しようじゃないか。


<余談:ある物理学者との対話>
 この長野の試みを教えてくれたのは、ある国立千葉大学の物理学の名誉教授である。長野県のプロジェクトの応援団メンバーのお一人。根室市政とのかかわり方についていくつかご提案いただいている。



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#3953 北構コレクションの常設展示:オホーツク文化 Mar. 15, 2019 [89.根室の過去・現在・未来]

 根室市の歴史と自然の資料館(花咲港)で北構先生が収集したオホーツク文化の発掘品がようやく常設展示される。わたしはオホーツク文化についてはほとんど知識がない。もう少し暖かくなってから見学に訪れるつもりだ。
 先生は国学院大学院の時代だろうと思うが、文部省の依頼でベトナムの王族に日本語を教えていたことがある。日本語を教えながら、フランス語を覚えたという。フランスの植民地だったベトナム独立を視野に入れた国策だったのだろう。米国と戦って勝利したベトコンは、終戦後にベトナムに残って独立運動を指導した日本人将兵が訓練して育てた。

 北海道新聞3/15朝刊記事を紹介する。
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オホーツク文化期の針入れ、骨角器など60点
根室在住考古学者
 北構氏の発掘品 常設展示

 市歴史と自然の資料館

【根室】市内の考古学者北構保男さん(100)が発掘し、市に寄贈したオホーツク文化期などの埋蔵文化財「北構コレクション」の一部が市歴史と自然資料館(花咲港)で常設展示される。北構さんが長年情熱を傾けてきた研究の成果を知る貴重な資料だ。(今井裕紀)

 北構さんは1918年(大正7年)根室町(現根室市)生まれ。14歳のころ、根室港の港口にある弁天島で捕鯨の様子が掘られたオホーツク文化期の針入れを発掘。超1級の資料として考古学会を驚かせた。国学院大に進み北千島でオホーツク文化やアイヌ文化の遺跡発掘調査に従事。戦後は根室に戻り印刷会社を創業し、町議や市議を務めながら発掘調査を続けた。「古代蝦夷の研究」で70歳の時に文学博士号を取得。
 2017年2月、「故郷に役立てたい」とこれまで自身が発掘した土器や石器、骨角器などの埋蔵文化財約13万点を市に寄贈し。常設展示に向け、資料館の学芸員らが資料の台帳づくりを進めてきた。
 今回公開されるのはコレクションを代表する役60点。針入れやアザラシなどをかたどった骨角製品といったオホーツク文化期の出土品のほか、17世紀ごろのものとみられる北千島のアイヌ民族の内耳土器など千島関係の資料も含まれている。…
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 膨大なコレクションのほんの一部が公開される、根室の小中高生に見学してもらいたい。

 北構先生は根室商業のご出身。作詞をよくされた歯科医の田塚源太郎先生とは根室商業の同期である。田塚先生は国後島のご出身、「国後の大漁師の息子」と北構先生はおっしゃっていた。田塚先生はビリヤードの常連のお客様だった、男のお子さんがいなかったのでずいぶんかわいがってもらった。二女とは小学校、中学校、高校と同級生だった。北構先生も田塚先生も背の高い人だ、田塚先生には根室商業時代に武勇伝がある。線路に仁王立ちして列車を止め、乗せたもらったことがあるようだ。当時は蒸気機関車である、止まらなければ轢かれる、同級生と度胸試しでもやったのだろうか。「根室商業の生徒」ということでお咎めなし、おおらかな時代だった。根室商業は道東では輝いていたのである。総番長制度もそのころに元気のよい根室商業の生徒がヤクザともめごとを起こして、その収拾のためにできたものだろう。「お控えなすって、手前生国発します所…」という切り口上が5年先輩まで総番長に代々伝わっていた。総番で野球部のキャプテンだった5年先輩から小さく折りたたんだ紙をもらったのだが、机の中にしまったままなくした。そのときにやってみせてくれたよ。ヤクザ屋さんともめごとがあったときは、総番が交渉することになるので、仁義の切り方は知らなきゃ話にならないと云った。話をつけるためには向こうの流儀で挨拶するのが筋、総番は命懸け、責任が重かったのである。だから、金刀比羅神社のお祭りの時は、総番が前を歩き、一歩下がって総番グループが連れだって練り歩いていた。あれは一種の儀式だったのだろう。普段と違っておっかない顔してた。
 北構先生は市議を何期かやったあとに、市長選挙に出たことがある。ebisuが高校1年生のとき、選挙期間と東京オリンピックが重なっていた。オヤジが応援していたので記憶にある。残念ながら落選した。根室の町は漁師町でインテリが嫌い、歯に衣を着せずにずけずけモノを言う北構先生が煙たかったのだろう。それを境に北構先生は政治の世界から足を洗い、印刷業と考古学研究の二足の草鞋でいくことに決めたのだそうだ。「なにをやっても根室の町は変わらんよ」、ある日印刷会社の応接テーブルで雑談をしていたときに大きな声でそうおっしゃった。「同期はみんな逝っちゃった、昔話ができるのはもう君くらいなものだ」と笑っておっしゃった。先生は40代で政治の世界をあきらめた。
 市長選挙に当選していたら、北構先生が国学院大の文学博士号を取得することはなかったかもしれぬ。市長選挙に敗れ、幸いなるかな。根室のエスタブリッシュメント(=当時の”オール根室”)のアホウどもにかまっていてもしょうがないと達観したのだろう。いまも根室の町は変わらない。
 平成3年にお亡くなりになった歯科医の福井先生は根室新聞に連載小説を書いていた。お亡くなりになる3か月ほど前にたまたま帰省していてビリヤードをしていたら、「トシボー」と呼ばれて誰かと思ったら福井先生だった。周りにいい大人がいた。
 三人の「大人」は皆さんご近所さん、歩いて5分以内の距離。そういえばテニスの大坂ナオミのお母さんの実家も右向かい側にあった。あんな家、高校生の頃にあったかな?記憶にない。
 信金本店の裏に「大坂屋」というアイスクリーム工場があったのは覚えている。小学生のころ、断面積が一辺2㎝の正方形の直方体の形をしたチョコレートでコーティングされたステック・アイスの保管温度が上がって形が悪くなって売り物にならなくなると安く売ってくれた。味は変わらない、結構喜んで食べていた。中学生のころにはその小さなアイスクリーム工場はなくなっていた。

 根室の町に吹く風もその向きが変わりつつあるようにわたしは感じている。「勉強しなくても船に乗れば飯が食える」、そういう時代ではとっくになくなっている。根室は否応なしに変わらざるを得ない。わたしがブログで発信している具体的な提言の三つに一つは時代の変化でゆっくりと実現することになるかもしれない。直球を投げ続けているうちにバターボックスに立ってみようと思う若者がきっとでてくる。ケセラセラ。

 今日は風がなくて陽射しがとってもあたたかい、11時の気温はマイナス0.2度だが、春が来たようだ。雪解け水が下水溝に落ちていく音が心地いい。

 北構先生は、おおらかにご自分の道を歩かれ満百歳になられたご様子、おめでとうございます。




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#3861外国人技能実習生と根室の水産加工業 Nov. 24, 2018  [89.根室の過去・現在・未来]

 今朝初めて雨水受けのバケツの水が凍った。6時14分にマイナス3.1度を記録した。今冬2度目のマイナス最低気温。

 今日11/24の北海道新聞に「外国人材 期待と不安」(第1社会面)という記事が載っている。道新さんなかなかいい取材をしているので紹介したい。

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市内の水産加工場では実習生が年々増加。受け入れ窓口の監理団体の根室商工会議所を通じて来日した実習生は117人(22日現在)で、初年度の6年前の7.3倍だ。同会議所の野田敏専務理事は「技能を身につけるという実習制度の趣旨と現状は乖離している。法改正では労働者としての立場を明確にし、待遇を補償すべきだ」と話す。
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 根室商工会議所の専務理事は根室の経済人には珍しくまともなことを言う人のようだ。ebisuに褒められたらきっと迷惑だろう。だからブログではなるべく人をほめないようにしている。(笑)
 6年で百人を超えるベトナム人技能実習生の受け入れ窓口をやってきた現場の意見であるから、市議も道議会議員も国会議員のみなさんも、そして政府も真摯に耳を傾けてもらいたい。

 根室の実態を言うと、ベトナム人技能実習生は、中国人が来なくなってのでそれと入れ替わりに増えたという事情がある。ベトナム人の技能実習生もいまのままの待遇では中国人と同じで来なくなる日が来るだろう。
 根室で職を求めている人たちはすくなくない。水産加工業になぜ根室っ子が集まらないかというと、給与が低いことと、水産加工業で働くことが一段低くみられるという事情がある。根室の基幹産業なのにこういう状況は根室の水産加工業者が創ってきたと言えるから、人が集まらないのは自業自得である。そろそろ変えようよ。

 戦前もそうだったのだろうが、北方領土を失った戦後、根室の水産加工業の主力はカニ罐詰であり、工場には全道各地から男工さんと青森県まで含めて集められた女工さんたちが支えていた。この時代は根室の水産加工業で働けばけっこう稼げたのである。昭和30年代中ころの最盛期には日本合同罐詰だけで4工場800人が働いていた。
 ところが昭和30年代半ば過ぎになるとしだいに女工さんが集められなくなった。条件のよい工場が東北にも北海道各地にもでき始めたからである。他の地域の女工さんたちの宿舎や給料と根室のそれの差がしだいに大きくなった。根室の水産加工業はそうした時代の変化に対応できなかったのである。
 日本は経済高度成長期で賃金が上がっていったが、根室の水産加工業の賃金は低いまま、寮の建設や工場設備へ満足な投資が行われなかったから、建物も設備も老朽化していった。
 根室最大の水産会社であった日本合同罐詰株式会社は経営がじり貧になると、打開すべく富良野に野菜の缶詰工場をつくった。それが結果として経営破綻の引き金になったが、経営破綻の真因は男工さんや女工さんたちの待遇を改善するという意識が本社スタッフになかったからだ。昭和30年代後半になるとあきらめて現場を支えている男工さんたちが次々にやめていった。

 昭和30年代中ころに、ある工場の現場監督が4工場を一か所に集中し女子寮を新築する提案をした。統合すれば工場長も現場監督もそれぞれ一人で済む。
 女子寮は土間に2段ベッドが並んでいた。それを新築して板敷あるいは畳の部屋にするという提案である。本社は耳を貸さない。四工場のうち女工さんを集められたのは一つだけ。なぜか?
 たとえば、ほかの工場では6時15分まで働かせて、6時でカット、15分会社が得をする、そういうことを自慢するような工場長や現場監督ばかり。これでは人が集まらぬのは当然だ。M工場の現場監督は最盛期には昼休みを2時間与えた、1時間は有給である。寝ずに洗濯する女工さんには有給での昼休みは与えない、無理やり寝てもらった。あの当時は大きなタラバガニがたくさん獲れた、いまなら1杯10万円もするような大きなタラバガニ(脚を広げると1.5m)が船に満載されるほど獲れた。大型の冷凍設備がないから、処理できなければ海に捨てるだけ。だから処理できなければ、通いの女工さんたちや男工さんたちに持って帰らせた。だから、団塊世代にはこうして工場からタダでもらった大きなタラバガニをたくさん食べたことのある人がいるだろう。
 話を戻そう、連日の残業でみんな疲れ果てているから作業効率が次第に落ちていく。昼休みを2時間とらせると、疲れがスッカリとれて午後の処理量がアップするのである。会社は損をしないし、原料廃棄量も減少しコストを下げられる。一石三鳥である。ものはやりよう、人は使いようなのだ。
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」はそこで働く人たちの幸せ実現も含んでいる。

 M工場では加工設備の工夫や自動化の工夫もしていた。殺菌窯を円筒形から直方体のものに変えたら3割処理量がアップした。殺菌窯がボトルネックになっていた。作業が一番きつい工程である秋刀魚の切り分け選別を水流で自動的にわけられるようにもした。しばらくの間はこうした様々な工夫でしのげるが、長期的には無理だ。根本的なところに手をつけなければ、女工さんを集められなくなる。本社はいつまでたっても提案を検討しない。愛想をつかして現場監督が辞めると、しばらくすると男工さんたちも続いて道内の各地へ散っていった。そして四工場全部で女工さん不足が表面化した。それまでM工場には定員以上に女工さんが集まっていたから、その余剰分を他の工場へ回していたのである。出した女工さんたちは順にM工場へ戻して入れ替えていた。人は大事に扱わないといけない。出しっぱなしでは翌年来なくなる。

 根室はいま同じ轍を踏んでいる。必要なのは中国人労働者やベトナム人労働者ではない。都会で働くのと同じくらいの処遇で根室っ子を採用すればいいだけだ。水産加工場で働くことが誇りをもてるような処遇をするだけで問題はなくなる。ようするに水産加工業を営む企業経営者たちの経営のしかたがまずいのだ。そこにメスを入れないと、いずれ根室の水産加工業全体が日本合同缶詰株式会社のようなことになる。

 「オール根室」なんて言って、小さな村社会を形成しているようではアウト、オープンな心で、広い視野と長期的な視点をもち、自分たちの経営のやり方を変えなくてはいけない。
 たとえば、決算は従業員へ公表する、経理規程をつくりそれを厳格に守り公私混同しない。退職金規程を整備して毎年末に従業員一人一人へいまやめたら退職金がいくらになるのか通知する。予算制度を導入し、予算を達成したらボーナスが何か月分出るのか約束する。10年20年後にどういう会社にしたいのか経営者は授業員に夢を語りともに実現する。こういうあたりまえのことをやればいいだけ。当たり前のことというのは、上場審査基準をクリアするような経営体制を作るということ。当たり前のことをするだけだから小さい企業でもやれる。

 ところで、政府が外国人の雇用に関する大幅な規制緩和をするという。たまげた。人を人として扱わず、奴隷のごとき「技能実習」が平気で行われている。実習生には職場の選択の自由すらない。帰国した技能実習生がなんというだろう。口コミが一番怖い。
 対象となっているのは、介護、保育、農業、水産業、工業、土木業、建設業などである。いずれも待遇が悪い業種である。日本全国が「昭和30年代後半の根室化」しつつあるようだ。日本合同缶詰の轍を日本全体が踏もうとしている。
 額に汗して働いたことのない者たちの考えることは愚かだ。処方箋は外国人労働者を増やすことではない。給料をアップして日本人の雇用を増やせばいいだけだ
 必要のないこと(外国人雇用の促進)をやり、必要なこと(処遇改善)を怠る、これを愚かと言わずしてなんと言おう



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#3806 四百年に一度の巨大地震でも水道は大丈夫な根室 Aug. 15, 2018 [89.根室の過去・現在・未来]

 今朝8時少し前に根室水道の工事責任者の方が見えた。これから水道本管からの引き込み工事をしてくれるという。コンクリート塀があるので敷地内の掘り起こしは重機が使えないから、手掘りになります。
 プロパンガスのボンベが邪魔になりそうなので、脇にどけてパイプを延長してもらうために8:25にメーコー商事さんへ電話を入れると、10分やってきてボンベをどけて延長パイプをつけてくれました。ガスボンベの重量は100kgくらいあります。
 午後3時ころ工事が終了したので、メーコー商事さんへ電話して延長したパイプを元に戻してもらいました。
 メーコー商事さんとのおつきあいはもう50年を過ぎました。「イナちゃん」が創業したときからのお付き合いでした。いや、独立する前からのお付き合いです。一時はお隣さん同士。よく仕事し、よく遊び、よく飲んだ。高2のあるとき弟を連れてきて「俺の弟だからよろしく」と紹介されたことがありました。弟さん、夏のアルバイトにお兄さんのところを手伝っていたのでしょう。その弟君の嫁さんが中学時代の同級生、「ゆうこりん」です。お兄さんも同期の弟もすでにいません、いい人たちははやく召される、それがわたしが巨大胃癌とスキルス胃癌の併発にもかかわらず生き延びた理由かもしれません。(笑)

 ガス屋さんと確認しているところへ工事責任者の方が歩いてきたので、少し立ち話しました。新しい管に替わってから水の勢いが以前より良くなっているはずだといってました。地震に強い直径50mmのポロエチレンニ層管から家の敷地の中へ新しい水道管が引き込まれました。いま、3系統から水が来ています。道路の向かい側には直径300mmの本管が埋設されているので、それにつながると4系統になります。光洋団地のほうの流路は住宅戸数が多いので大きい管が走っています。このようにどこかが破断しても断水しないような水道回路になっています。
 市内で断水が起きても、この辺りは水が停まったことがありません。300mほど離れたところに昔の浄水場があります、4mほど高い。いまでもそこまで水を上げて配水しているのでしょう。

 四百年に一度の巨大地震が根室をみまっても、水道が断水することはなさそうです。問題は下水だが、避難場所からの経路を事前に確認して、チェック作業の段取りを決めておけば、避難所の下水の回復も素早くできるでしょう。
 こうした事前の準備を積み重ねることが、災害に強い町づくりでもあります。水道技術屋さんいい仕事をありがとう。

 ポリエチレンニ層管の写真が載っています。
*#3777 四百年に一度の巨大地震(78%)が来ても水道は大丈夫? July 4, 2018


 工事後の現場⇒やるまえよりもきれいになりました
雑草が生えていました。裏口は使っていないので雑草を抜くのも表に比べたら手抜きしてます。フキが生えると根っこごと引き抜きます。

SSCN2107.JPG
 
 

   


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#3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018 [89.根室の過去・現在・未来]

 今朝(4/26)のNHKラジオニュースでは、根室市が地震が起きた後の建物被害への評価作業手順を決定して公表したという。評価基準を設定して地震が起きたら被害建物に赤、黄、緑の三色の識別ラベルを迅速に貼るという。
 基準になっている震度想定は震度6強で、建物被害は4割に及ぶという。全壊が4割なのか、一部損壊が4割なのかはわからない。おそらく一部損壊と全壊を含めて4割なのだろう。そんなものでほんとうにすむのか?

 ところで、揺れは地盤が軟弱だと大きくなることが知られているから、根室市街地でも場所によって揺れは大違いだ。震度計が設置されている合同庁舎の一角は固い地盤で揺れは最も少ない。1994年10月4日の根室東方沖地震の時に震源地が根室のほうが近いにもかかわらず震度計の揺れは小さく、釧路のほうが大きな震度を記録して激甚災害が適用された。震源地は根室東方沖200㎞、M8.2。釧路の震度は6、近い方の根室は5で激甚災害の適用外であった

*https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道東方沖地震

 根室市はまだあの教訓を生かせないようだ。また釧路のほうが震度が大きく出て、根室が激甚災害の適用にならない可能性がある

 地盤の軟弱性と震度への影響について解説したサイトがある。
*https://supportmap.jp/Content/file/pdf/whatis_jiban_pamphlet.pdf
**地盤サポート https://supportmap.jp/#15/43.3324/145.5865

 揺れやすさの係数が色分けされている。震度計が設置されている場所を1とすると、市街地には揺れやすさが1.5倍になる地域が広がっている。揺れやすい軟弱地盤ということは実際に揺れが大きくなることを意味している。固い地盤のあるところで計測した公表震度6でも、揺れやすさが「1.6~2.0」の薄いピンク色で色分けされた地域は震度7超になると考えるべきだろう
 おおまかにいうと、合同庁舎から「はなまる」のところまでを境界として、海側は地盤が軟弱なところが多い。山側も低地はもともとが「ヤチ」だから、地盤は軟弱だ。地盤の揺れやすさ係数が「1.6-2.0」の地帯が散見される。岬町、弥生町、本町、海岸町、汐見町の海側の地域が該当する。この地域は全壊建物が集中するだろう。高潮被害のあった地域と重なっているから、あの一帯の土地(弥生町と本町そして梅ヶ枝町の一部)は買取を希望する地主から市側で買い取り空き地にして広場として使用したほうがよい。金刀比羅神社の例大祭や盆踊りのメイン会場となっている。
 この「地盤リポート」は地形から判断しているだけだから、実際にボーリング調査をしたらもっと違った様相があらわれるだろう。
 地盤の軟弱な地帯で建物が全壊したら、そこに住む人たちは避難する時間があるだろうか?四百年に一度の根室沖巨大地震が近づいている。


 小学生のころ、家の向かい側で工事が始まった。5mほども掘り下げて基礎工事を始めた。きれいな緑灰色の粘土層の下に帯水層があった。あの辺りは、井戸は数メートル掘れば使える水が出る。現在の北海道銀行建物のある場所だ。当時建てられていた建物はNTTのだった。100人以上の職員がいた。道銀はそのままその建物を利用している。柱が太いのは50年前に設計者が地震が多い根室だから耐震を考慮したからだろう。
 海側の低湿地はもっと地盤が軟弱である。上に挙げたURLをクリックすれば根室市街地の地盤の強度が色分けして示されるのでご覧いただきたい。
 250m四方の範囲ごとになっているので、これでは個々の家について地盤の強度がわからない

 根室市が今すべきことは、市街地や郡部の住宅が多い地域の地質調査をすることである。200か所ぐらい簡便なボーリング調査をすれば建物への被害想定が具体的になる

 見落とされている重要なことがある。合同庁舎に設置してある震度計が6弱なら、地盤の軟弱性を考慮すると市街地の大半が震度7になるということ。震度6強と震度7では被害想定がまるで異なる。震度7なら鉄筋コンクリート建物でも被害が出る。昭和57年以降の鉄筋コンクリート建物の全壊率は4.6%(震度6では0.6%)である。被害の程度は8倍も違う
*https://allabout.co.jp/gm/gc/392009/

 木造建物では昭和57年以降に建てられた建物の全壊率は15%(震度6強では1%)だから、15倍も違ってくる昭和36年以前に建てられた建物は建築基準が違うので8割が全壊する
**https://allabout.co.jp/gm/gc/392009/2/

 根室市で地震計を鳴海公園に設置したらいかが?あのあたりが根室の平均的な地盤強度と考えてよいのでは?

 根室市総合政策部が企画提案して緊急に実行に移さなければならないことは、市街化地域等200か所のボーリング調査とその公表である。こういうことにお金をかけて、巨大地震に備えて被害を小さくしたい
 ふるさと納税資金をいまのことに使ってはいけない、未来の大災害に備えるために使いたい。借金を減らして、復興資金を200億円ほど積み立てたい。根室人の叡智(えいち)が問われている。 

<余談:地盤サポートマップについて>
 地図上に「地耐力」を示す四色の丸いマークと250m四方の単位で「地震時の揺れやすさ」を指標化した色分けがなされている。「地耐力」は「ジャパン・ホーム・シールド社」がこれまでに解析した結果をふまえての評価である。
 黒円は地耐力が「強い地盤」 
 緑円は地耐力が「やや強い地盤」
 青円は地耐力が「ふつうの地盤」
 ピンク円は地耐力が「弱い地盤」

 市街地に打たれた円は約50ある。地震時の揺れやすさ指数が「1.2-1.4」の黄色の区画でも地耐力が弱い場所がいくつもある。ピンクの円は海岸部の低地に集中している。
 やはりこの地図の情報だけでは、地盤の揺れやすさや地耐力の評価はこころもとない。市街地だけで200か所、郡部が百か所ぐらいあれば使えるものになるのではないだろうか。専門家の意見も聞いてみたい。 

*#3733 これから30年間に起こること:自然災害編 May. 1, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30


 
#3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-21


 #3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-26-1


 #3665 道東に四百年に一度のM9級の地震が近づいている Dec. 20, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-12-20

 
#3270 根室も四百年に一度の大地震が近い:熊本大地震は他人事ではない Apr. 15, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-04-15

 #1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24

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#3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018 [89.根室の過去・現在・未来]

 HBC(東京ではTBS)番組「報道特集」(土曜日午後6時)で標記巨大地震の可能性がとり上げられた。浜中町は避難道路が海岸線に沿って伸びているので、現実に避難が可能かどうか検証が必要なようだ。お年寄りの運転で避難場所まで車で走ったら13分かかった。実際に地震が起きたときにはこんなに短時間では行けない。逃げるときにもっていくものを考えるだけで、数分たってしまうし、片側一車線の道路だから渋滞が起きる。避難時には反対車線も使えるようにルールを決めておかなくてはならない。
 四百年前根室沖巨大地震では24mの高さの津波が全道各地と東北地方を襲った。(弊ブログ#3665参照)

<浜中町・厚岸町>
 浜中町の人口は6千人だから、3人で1台の車に乗るとすると最大2000台が海岸線に沿った道路を高台へ向かって走ることになり、渋滞が起きるだろう。地域ごとに避難場所と避難経路をあらかじめ決めて訓練しておきたいものだ。実際に1000台くらいで分散避難訓練ができたら様子がわかる。無理なら、別の場所の高台まで道路を整備する必要アリだ。航空写真地図で確認すると海岸線と霧多布に市街地が広がっている。霧多布湿原展望台も高台になっているので、二方向に避難路がある。町営温泉「ゆうゆう」のある場所も高台だから、避難場所として使える。温泉水がトイレに使える点も大きなメリットだろう。
 霧多布地区に人口の半数がいるとして、500台くらいが二方向に一斉に避難したら、逃げ切れるだろうか。地区ごとの具体的な避難場所と経路が検討されなければならない。動線が交差するようなことがあったら、緊急時に事故が起きて避難できなくなる。必要なら数か所バイパスできるような道路整備が必要になるかもしれぬ。
 航空写真地図を拡大すると住宅地が確認できます。自分が霧多布のどこかに住んでいると想像して、逃げる経路を探索してください。
*「人口統計ラボ」浜中町地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01663

 想定では20-30分で津波が到達するから、現実的な避難訓練を何度もやっておくべきだ。
 漁業で食べている地域は海岸線沿いに住まないと仕事と生活の両立が難しいから宿命のようなものだ。
 厚岸も海岸線に沿って町が広がっている。

<釧路市>
 もっと深刻なのは釧路市だろう。海岸線沿いの低地に市街地が広がっている。原野の奥の方の湿原展望台のあたりまでの経路と釧路町方面、そして釧網線沿いの高台へという三方向の避難路がありそうだ。地区ごとに避難地と避難経路をあらかじめ決めておかないと大混乱になる。しかし、どれほど綿密に計画しても人口18万人では車の混雑で半数も逃げ切れないだろう。何か有効な対策があるるのだろうか?北大通に市立図書館ができたが、鉄筋コンクリートの建物を指定避難場所にするには、いまから調整作業が必要だ。何人くらい収容できるか建物ごとに積み上げ計算して避難の現実的な段取りを細かく決めていかなくてはならない。震災時に大きな問題となるのはトイレである
*「人口統計ラボ」根室市地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01206

<根室市>
 根室市はどうか?太平洋岸で人口が密集している太平洋沿岸地域は、落石地区花咲港桂木の浜歯舞(友知から歯舞、珸瑤瑁までの太平洋岸)地区だ。人口の1/3の9000人が太平洋岸とオホーツク海側の被災予定地域に住んでいる。歯舞は昆布漁をしている家が多いので、昆布干場が海岸から近い方が仕事が軽くてすむ。歯舞地区の太平洋岸だけで約1500人が住んでいる。津波の高さが20mなら長節湖を超えて温根沼へ抜ける可能性がある。
 これら4地区は20分あれば、車で道路を使って避難可能だ。落石地区は車に乗れば数分で高台へ避難できる。花咲港も桂木浜も歯舞地区も同様だ。でも時間があまりないので実際に近い形で避難訓練しておくべきだろう。段取りよくやらないと津波が到達してしまう。
*「人口統計ラボ」根室市地域別人口及び航空写真地図
https://toukei-labo.com/2010/?tdfk=01&city=01223

 いずれにしても、甚大な被害が起きるから、大地震と巨大津波に備えて、根室市は借金をすべて返済してお金を100~200億円積み立てておいたらどうだろう?自助があってその上に公助があれば早く立ち直れる。巨大地震が来ることははっきりしているのだから、自分たちにできる範囲のことはやるべきだ。
 水道も止まる可能性が大きいから、井戸を数か所に用意しておけたら便利だ。自家発電でポンプが動くようにしておきたい。成央小学校のところが昔「色媛」という造り酒屋の水源地になっていたから、あそこに井戸を掘り、蛇口を20個ほどもつけてあれば、いざというときに重宝する。
 市議会根室沖巨大地震対策委員会をつくり、市民とともに対策を考えたらいい。市役所総合政策部たたき台をつくったらいい。そして総合文化会館で一般市民を交えて土日に何度も議論すべきだ。それぞれいい仕事を期待したい

 今後30年間に30%の確率でM7.8~8.5の巨大地震が起きるとテレビで言っていた。千島海溝と日本海溝で連動して地震が起きる可能性がある。17世紀に起きた根室沖巨大地震の被害は東北にまで及んでいる。地質学者が津波堆積物(砂)が各地の地層に刻まれていることを確認している。

 根室沖巨大地震については、日経サイエンスが2011年12月23日に記事を掲載している。
*「巨大地震、北海道東方沖が要注意 日経サイエンス
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG2101D_R21C11A2000000

 弊ブログもご覧いただきたい。
*#3731 根室市の巨大地震対策:建物被害評価作業手順公表 Apr. 26, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-26-1

 #3728 根室沖巨大地震M7.8~8.5:今後30年間で80%の確率 Apr. 21, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-21


 
#3665 道東に四百年に一度のM9級の地震が近づいている Dec. 20, 2017
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2017-12-20

 
#3270 根室も四百年に一度の大地震が近い:熊本大地震は他人事ではない Apr. 15, 2016
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 #1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
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#3724 ジャズの街PR推進委員募集(2):愛好家とは何か Apr. 16, 2018 [89.根室の過去・現在・未来]

<最終更新:4/18朝8時>

 根室で一輪車に乗れる40代が多数いるはず。小学生の時に一輪車乗りのおじさんに習ったからだ。

 ebisuのオヤジは落下傘部隊、釧路生まれで旭川育ち、戦後まもなく根室へ移住した。農産物を富良野方面からかき集め、根室へ運んで売った。闇市という商売だ。戦後しばらくは食糧難の時代で食べ物が手に入らなかったのである。1~2年ほどもそいうことをやって食いつなぎ、昭和22年におふくろと結婚し、下駄屋をはじめた。伯父貴が小樽で下駄屋の問屋をやっており、根室で商売することを勧めてくれたからだ。そして根室に定住して結婚した。
 戦後しばらくしてから空自から落下傘部隊の教官として来てくれないかと要請があったようだが、オヤジは断った。当時はある事情から下駄屋をつぶして貧乏だったが、首を縦に振らなかった。
  落下傘部隊は秘密部隊であり、ほとんどが戦死しているので、生き残りがわずかしかいない、自衛隊側にはそういう事情があり、新兵の訓練のために正規の訓練を受けた落下傘部隊員が必要だった。
 戦友たちはだれ一人生き残らなかった。オヤジは戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」の撮影の際に、飛行機から飛び出すのに前の隊員が躊躇したので、押し出しながら転がるように一緒に飛行機から飛び降りた。そのときに主導索が右腕に引っかかり複雑骨折、療養生活となった。よく無事に降りれたなと当時を振り返り述懐したことがあった。右腕は肩から感覚を失いぶらぶら揺れていた。これではバランスのとりようがない、着地は三点着地が原則で、ひざを屈伸させながら衝撃を殺して前転し、ショックを肩と背中へ分散させる。右腕の感覚がなくぶらぶらしているので、その瞬間に死を覚悟した。でも、なぜかちゃんと降りていた。三階から飛び降りても下が土なら三点着地をすればケガはしない。塔の上から飛び降りる地上訓練が徹底的になされているから、いくつになっても身体が自然に反応してそういう着地になる。柔道の受け身のようなもので技となって身体が自然に反応する。2度目の手術の後は最後2か月くらい市立根室病院に入院した。3階の窓から下を覗いているところをおふくろが見た。心配そうな顔をしているおふくろを見て、「この高さじゃ、死ねないよ、骨折もしないだろう」そう言ってニヤッと笑ったそうだ。そして一言、「ロードバイクですっ飛ばして、ダンプカーが来たらセンターラインを越えればあっさり逝ける」、おふくろはやりかねないとぞっとした。退院できないまま体力が衰え、最後は麻酔で意識が混濁し眠るように亡くなった。
 落下傘部隊は満州で通信兵をしていた時に募集があった。募集の紙には「命の要らないもの集まれ!」と書いてあったらしい、「どうせ死ぬなら、パッと散りましょ」と応募したそうだ。最後まで命知らずだった。
 落下傘の降下訓練は輸送機ごとに十数人が連続して飛び出すのだが、下で教官たちが見ている。降下気迫がないと一瞬ためらいが出る、すると、間隔があく。青空に絹製の真っ白い落下傘が等間隔で並ぶ。それが途切れて間隔があくと地上で見ている教官には一目瞭然、降りてから、「×番機の△番目の隊員前に出ろ!降下気迫が足りない!」と殴られるんだそうだ。そうなってはかわいそうだから、押し出しながら転がるように飛び出したのだが、姿勢が崩れるから、危険で、案の定大けがをした。「石火の機」の判断だからどうしようもない。
 一番最後の者はふと振り返ると誰もいない、何とも言えない不安な気持ちになるんだそうだ、それに負けないようなツワモノが最終降下者に選ばれる。オヤジは度胸がよかったのだろう、それがあだとなる。
 落下傘部隊の隊員は正規兵三人を相手にできる、そういう厳しい訓練を受けている、だから精鋭中の精鋭なのだ。訓練の中には昼間片目を眼帯で覆い、真っ暗闇の中で外して門番が立っているそばをすり抜ける、まるで忍者のようなメニューもある。
 オヤジは複雑骨折した右手のギブスが外れないまま、戦地へ赴(おもむ)く戦友たちを宮崎県の港から見送った。「靖国で会おう」そういって船に乗った戦友たちを左手で敬礼して無言でいつまでも見送った。見送ったときのオヤジの心中がよくわかる、無念だっただろう。どこに赴くかは秘密部隊だから緘口令が敷かれており、部隊員と言えども訊くことができない。制空権はすでになく、「空の神兵」が船で南方の戦地のどこかへ送られて、二度と帰ってこないのである。戦友たちは命懸けの訓練を活かし、空から降下して飛行場を占拠して戦って死にたいと願っていた。
 別府温泉で療養しているうちに終戦、傷痍軍人であるが、申請していない。できるわけがない、戦友は全員戦死している。お見合いをしたときには右腕が上がらなかったとおふくろが言っていた。箸でつまんだ料理が口に運べない、口のほうを箸へもっていって食べた。それを見て、兄が満州で戦死しているから、おふくろはケガをした兵隊さんの嫁になろうと思ったという。不運なケガはここで幸運の女神となる。
人間(じんかん)万事塞翁が馬」、その通りの展開である。
 片輪になったかに思えた右腕はその後完治した。だが、そのためにオヤジは今度は右手に大けがする。
あいつ(落下傘部隊の戦友)たちは結婚もできず、子どもも残さず、ただ死んでいった、俺には女房も子供もいる、あいつらの分まで幸せになる
 戦争とは距離をおいて、幸せに暮らすことが、戦友たちへの弔いでもあったのだろう。オヤジは一度だけ靖国神社へ行った。癌の手術を受けた翌年のことだから平成4年の4月初旬、死ぬ1年半前に靖国神社におふくろと一緒に詣でた。死を意識していたのだろう、桜がきれいなときだった。おふくろも、兄が突如侵攻してきたソ連軍と戦って戦死、満州の荒野に一本立っている木の根方に埋められているから、靖国神社へ行きたいと思っていた。あのときは一緒に行こうと言えなかった。二人にはそういう厳(おごそか)かな雰囲気が漂っていた。電車の乗り継ぎのしかたを教え、駅を降りてから靖国神社までの地図を渡して見送った。

 ところでオヤジが一輪車に乗りだしたのは還暦になってからだ。ビリヤード台の並ぶフローリングの床で本を読みながら練習し始め、すぐに乗れるようになった。こういうものは基本が大事だから、片手をサドルに当てて乗って降りるという動作を繰り返す。降りるときにサドルの尖端をつかんで一輪車が飛んで行ったり、倒れないようにする。もちろん何度も転んだそうだ、転ばないと上手にはならない、そう言っていた。転んでいるうちにバランスのとり方の要点、崩れるときの感覚がわかり、調整できるようになるのである。
 一輪車のバランスが落下傘で空中に飛び出した時の感覚に似ているのだそうだ。オヤジなりに過日を思い出して楽しんでいたのだろう。戦友たちとの降下訓練を思い出せる瞬間だったのではないか。
 落下傘の降下訓練は文字通り命懸けである。現在のようなスポーツ降下ではなく、データもなく日本軍独自に試行錯誤してデータをとって、工夫していたのである。できるだけ小さい落下傘で、高速で降りながら着地を安全に行うことが、降下訓練の要諦である。ゆっくり降りたら、地上からの射撃の格好の的になる。落下傘の大きさ、装備の重さ、降下速度、着地の安全性、これらが微妙にバランスする一点を見つけるのである。
 あるとき、80㎏の人間が30㎏のフル装備で無事に降下できるか実験が決まった。オヤジは65-68㎏くらいだったろう。実際に80㎏の人間が通常の落下傘を使用しフル装備で飛び降りるのである。実験は無事だったという。80㎏の体重までは落下傘部隊員として訓練できるということ。降下実験のデザインとデータの蓄積はその後の落下傘部隊の活躍に役に立ったに相違ない。現在の空挺団の降下訓練はそうした先輩たちの命懸けの実験データで支えられている。
 
 オヤジはあるときから小学生に一輪車を教えだした、楽しさを伝えたかったのだろう。その前かそのときか今となってはわからないが、オヤジは花咲小学校と北斗小学校にそれぞれ十台くらいずつ一輪車を寄贈した。
 子どもたちに一輪車の乗り方を教えていたら、あるときクレームがついた。小学校で教えたのかもしれない。体協の資格のない人が小学生に一輪車を教えてはならないというのである。乗れる先生はいなかったし、もちろん指導もできないが、もっともな話ではある。
 自衛隊でならエリート部隊である空挺部隊ですぐにも降下訓練の指導教官ができても、小学生に一輪車を教えてはならない。自衛隊の空挺部隊教官という肩書があったら、何の問題もなかっただろう。ばかばかしいが世の中は肩書がないとダメなこともある。オヤジは、千葉の空挺部隊に降下の仕方を教えるのではなくて、根室の小学生に一輪車を教えてあげたいから体協の資格をとることに決めた(笑)、それが人生初めての資格試験である。
 ビリヤード店と焼き肉店「酒悦」を経営しながら勉強を始めた。肉はスライサーを使わずに全部手切りしていたから忙しかったはず。ずいぶん流行った店だった。儲かったから梅ヶ枝町の飲食店では一番最初に水洗トイレにした。東京の3歳になる孫が2階のトイレが臭くて嫌だと言ったらすぐに大工さんに頼んで水洗にした。1981年ころだったかな。
 試験を受けることを知ったお店の常連の明照高校(当時根室にあった私立高校)の先生やほかの学校の先生数人が応援してくれた。ドキドキしながら試験を受けて体協の資格を取った。
 もう誰からもクレームはつかない、堂々と小学生に教えられる、オヤジはうれしかったに違いない。好きなことを好きなようにやるためには、クリアしなければならないことがある。

 あるとき、一輪車仲間の一人が日本一輪車協会へ支部設立と支部長の申請を出した。そうしたら、根室の先生たち数人が、一輪車は〇〇さんが始めた、だから一輪車協会根室支部長は〇〇さんだとオヤジを初代支部長にしてしまった。北海道の最高齢の一輪車乗りということでNHKテレビが2回取材してくれた。10分ほどの番組だった、いまでも本棚のどこかにVHSのビデオが二本ある。夏は朝早く、ローラスケートを履いて、一輪車を肩に担ぎ、警察の坂を上がって右側の市役所前の広場(駐車場)で練習していた。大きな一輪車にも乗っていた。

 オヤジは一輪車に乗り始めると同時にサイクリングも始めた。当時は釧路から根室まで120㎞の大会があった。30代の人と優勝を競り合いながらゴールになだれこむほど馬力があった。60代半ばころのことだ。若いころは釧路の町内対抗の自転車競走で優勝したことがあると、向かいの床屋さんのご主人が言っていた。そのころSさんは釧路の床屋で修行中だったが、向かい側の肉屋で修行していたオヤジを知っていた、元気がよくて怖そうな若者だったという。戦後、修行が終わって根室へ戻ってしばらくしたら、道路のはす向かいでオヤジが下駄屋を開店したのでびっくり、それ以来、ずっと仲がよかった。オヤジが亡くなってから、四十九日に線香をあげに光洋町の家まで来てくれて、わたしが知らなかった昔話をしてくれた。
 「悪いことはできないものだ、お父さんの足を引っ張った二人はどちらも不幸な最期を遂げた」
 因果応報だったかどうかはわからない、いいやむしろ時代の流れに対応できなかったからだと思う。しかしなぜか二人とも同じ死に方をした、理由は共通している、怖いものだ。ほんとうにお気の毒と思う。実名とことの経緯(いきさつ)を息子のわたしに語ってくれた。わたしが幼稚園の頃のことで知らないだろうから、いま伝えなければと来てくれたのだ。Sさんは数年後に亡くなった。
 わたしは小さいころかってに家に上がり込んで、テーブルに置いてあるサツマイモを食べたりしていた、同じ年のマーちゃんがいた。おとなしい子だったが、いまは鮮魚店の女将さんだ。信金本店の向かいにあったお菓子屋さんのヤッコも同じ年の生まれで、自由に出入りしていた。花屋のケイコ、そして洋裁店のユッコが同じ年の生まれだ。同じ年齢の子がいれば、勝手に上がり込んでも親たちが家族同様に扱ってくれた。もちろん、他家へお邪魔するのだから、玄関から上がると正座をして両手をついて「こんにちは」と挨拶していた。帰るときにはやはり正座して両手をついて「おじゃましました」とか「さようなら」と行儀はとってもよかった。お袋の躾がちゃんとしていた。いまとは大違いだ。(笑)
 オヤジは足を引っ張った二人を許していた。時間と周りの優しい人たちが癒しになったのだと思う。「ゴロウさん」と親しげにオヤジを呼んでくれた歯医者のT先生、3代の付き合いになった歯科医のF先生、近所の印刷会社のKさん、優しい思いやりのある人も多いのである。歯科医のT先生とKさんは根室商業の同級生だった。Kさんは還暦を過ぎてから母校に博士論文を提出して文学博士(考古学)となったから、それ以降はK先生とお呼びしている。お仲人さんでもある。
 話を元に戻すと、一人はお店(焼き肉店)の常連となって親しくしていた老舗のご主人、「当時知っていたらあんなことはしなかった」と後悔していたそうだ。
 同じことが市と癒着して経営改革をしようとしない地元企業にも言える、じつに危険だ、だから強く警告したい。経営者だけでは済まない、そこで働く人たちがいる、そしてそれぞれの経営者には子どもたちがいる。このままだとまた同じことがいくつか起きる。わたしは何とかそれを止(と)めたいのだ。浮利を追いかけて人の意見を聞かぬ傲慢さが災いのもとだ。
 オヤジは「俺は根室の土になる」と言って亡くなった。長年住み慣れた根室に愛着がわいたのだろう。わたしの同級生たちも10人ほど毎月のように会を開いてお店に来てくれた。息子は高校を卒業してからずっと東京住まい、高校時代から我が家に出入りしていた彼らが客として来てくれてうれしかったのだと思う。

 オヤジは69歳(ebisuは3月にようやくこの歳になった)で大腸癌を患い、釧路市立病院で手術をした。担当外科医の森山先生は術後に切り取った大腸を緑色のラバーにのせて見せてくれ、2年後に再発しますと言い切った。その通りの経過をたどり、2度目の手術は全身転移で「開け閉じ」、その4か月後に根室市立病院へ終末医療のために入院して家族と親戚・知人に看取られながら逝った。「最後は根室の病院がいい」、願い通りの死に方だった。あの日はちょうど根室市長選挙の日、平成5年9月12日、お袋と一緒に選挙に行ってくるとベッドのオヤジに告げて家に戻って投票を済ませたら、亡くなったと電話があった。
 根室の土になると言って、その通り、西浜町の墓地に眠っている。おふくろは長生きして、平成23年に亡くなった。根室初めての居酒屋「酒悦」のお母さんとしてご存知の人がいるだろう。焼き肉屋「酒悦」も根室の人たちに愛された。おかげで大学へ進学できたし、大学院で経済学を学ぶこともできた。ありがたいことだ。

 愛好家とはなにかと思った。身銭を切って遊ぶ、そしてその楽しみを、一輪車なら乗り方を教えることを通じてほかの人々と分かち合う。こういう習慣が根室の伝統文化となってくれたらうれしい。

 他方、身銭も切らずに、補助金をあてにして存続を願うジャズ愛好家と称する数十人の人々が根室にはいる、そしてそういう人々に迎合する市役所総合政策部がある。同じ根室人として悲しいね。

(根室のジャズの愛好家が全員こうだとはわたしは思わない、まともな人もいるはず。声をあげたら不利益はあるよ、でも子どもたちや孫たちのために声を上げたらいい。根室の旧弊は当代で壊すべきで、声を上げないと似非(えせ)ジャズ愛好家と一覧托生です)
 
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似非:①似てはいるが本物ではない、見せかけだけの意を表す。 『大辞林』より
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#3723 ジャズの街PR推進委員募集について:私の意見 Apr. 15, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-15

*#3722 朝方の地震:震源地は根室半島南東沖 Apr. 14, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-14

*#3720 根室の人口減少『広報ねむろ4月号』より:14か条の課題 Apr. 12, 2018
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2018-04-11-1

*#1782 北海道大震災:根室・釧路沖 400年に一度の巨大地震の可能性あり Dec.25, 2011 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2011-12-24



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#3686 膨らむ歳出と人口減が加速する町:根室 Feb. 3, 2018 [89.根室の過去・現在・未来]

 市民一人当たり歳出額が藤原前市長時代に比べて1.6倍を超えている、そして人口減少は2年続けて年間600人を超えた

増減 人口   一般会計予算  (億円) 万円/人  
  36,041  1994 H6 177.8 49.3  
-481 35,560  1995 H7 184.7 51.9  
-343 35,217  1996 H8 186.4 52.9  
-382 34,835  1997 H9 190.4 54.7  
-301 34,534  1998 H10 178.9 51.8  
-351 34,183  1999 H11 178.1 52.1 藤原市長
-324 33,859  2000 H12 181.4 53.6  
-371 33,488  2001 H13 178.6 53.3  
-460 33,028  2002 H14 173.1 52.4  
-360 32,668  2003 H15 166.3 50.9  
-402 32,266  2004 H16 166.3 51.5  
-495 31,771  2005 H17 159.2 50.1  
-390 31,381  2006 H18 146.0 46.5  
-500 30,881  2007 H19 141.5 45.8 長谷川市長
-412 30,469  2008 H20 147.3 48.3  
-388 30,081  2009 H21 145.7 48.4  
-485 29,596  2010 H22 155.0 52.4  
-457 29,139  2011 H23 160.9 55.2  
-389 28,750  2012 H24 164.8 57.3  
-201 28,549  2013 H25 166.4 58.3  
-499 28,050  2014 H26 166.2 59.3  
-421 27,629  2015 H27 170.8 61.8  
-611 27,018  2016 H28 168.1 62.2 205.1
-619 26,399  2017 H29 169.9 64.4 178.9


 平成28年の一般会計当初予算は168億円だったが、「広報根室2018年1月号」記載の決算データでによれば205億円である。そのデータで計算すると、平成28年度の市民一人当たり歳出額は76万円となる。道庁から転出して市長となった藤原前市長は一貫して財政規模の縮小に努め、最後の年は市民一人当たり歳出額を46.5万円まで縮小した。人口減を見越して財政規模を縮小するのはたいへんな仕事だっただろう
 平成28年度の歳出は藤原前市長の最後の年と比べると、市民一人当たり歳出額が1.6倍にも膨らんでいる。なぜこんなに財政規模が膨らむのか、市民一人一人が考えるべきだ。


 年間人口減少幅藤原前市長時代年平均395人の人口減少8年間で3162人減長谷川市長に代わってから、年平均453人11年間で4982人の減少、そして最近2年間は600人を超えているから、人口減少が加速したように見える。こんなに減少したのは平成3年の606人以来である
 根室市が旗を振っている移住促進が破綻していることはデータから明らかだ。根室市の政策で移住したのは10人足らず。

 人口減少幅を小さくしたければ、地元企業の経営改革をするのが本筋である。首都圏の標準的な企業がどういう経営をしているのかに学ぶべきだ。魅力のない企業に人は集まらない、魅力のない町からは人が出ていく
 足りない労働力を中国人やベトナム人で代替すること自体が大きな経営判断ミスだ。いま働いている人たちを大事にしないでさらに低賃金の外国人を雇用すれば、水産業で働く人たちの給与は上がらないどころか下がる。こんな状態を目の当りにしたら、自分の子供を水産業界で働かせたいと思う親が増えるだろうか?水産業界で働く人たちの給与はいずれ中国人やベトナム人並みになり、根室っ子はそういう会社をますます敬遠するようになる。水産業界は人が集まらなくなり、経営がたちいかなくなる。どうしてこんなことがわからないのだろう。水産業界は人材の集まらない業界となりつつある。
 具体例がある。根室最大の企業であった日本合同罐詰株式会社には1000人の女工さんたちが働いていた。当時のカニ罐詰の技術水準は非常に高かった。働いている人たちを粗末にすれば、人が集まらなくなり、品質が落ちる、そして経営が破綻する。昭和30年代に半ばころから、女工さんが集まらなくなり、日本合同罐詰は昭和52年に経営破綻した、何が起きていたのか何度も書いているので再説しないが、同じ轍を踏んではいけない。

 人口減少を緩和するには、地元企業の経営改革を進めることと、そして市役所や市議会がちゃんと機能しなければならない。
 「オール根室」が問題なのは、相互批判を失い、市政と癒着し、内部改革の妨げとなり、根室衰退の構造的要因となっているからである。そこに集っている人の人格を云々しているのではない、市政翼賛と癒着というその構造的役割が問題だと言っている。
 魅力のある街づくりをするために、
経済諸団体は経営改革の旗を振れ、メンバー企業の経営改革をやらずに、町の復興も人口減の緩和もありえない

 ふるさと納税制度は地元企業の経営を腐らせる。利用する側にとっては脱税まがい、こんな制度は日本を地方から腐らせるから早くやめるべきだ。ふるさと納税返戻品でイージーな商売を続けると、それが癖になり、経営体質が変質していく制度がなくなったときに、生き残れるのか?他地域が根室産の蟹を返戻品にするのも合法だから、各自治体間でそんな競争をはじめたら、続くわけがない
 浮利を追えば自分の首が締まる。住友家の家訓も「浮利」を負うことを戒めている。「浮利を追わず」というのは住友家に限らず、200年以上の歴史をもつ日本企業に普遍的な価値観
 ふるさと納税制度は「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」というわけにはいかない、自分のところだけよければいいというスタンスだ。日本の伝統的な商道徳はそうしたことを戒めている。長続きしないのだよ

 市立病院の赤字は現在年間16-17億円の間だが、人口減少が加速すれば採算はさらに悪化し、一般会計繰入金を増額せざるをえなくなる。いつまでこのような巨額の赤字補填ができるのか?

 今年は市長選挙の年だが、地元企業の改革や市政を改革する能力を持った若い候補が現れなければ、根室の人口減少は加速することになる。
 600人の人口減少が22年間続いたら、2040年に根室市の人口は現在の半分、1.3万人に減ってしまう。地元企業の7割以上が消滅しているだろう。すでにスーパマーケットは地元資本がない。
 いま中・高生の諸君が40歳になる前に、地元企業の半数が消滅している可能性がある。就職できても、40歳前に失業ということになりかねない。したがって、若い人たちにとっても、地元企業の経営改革は死活問題である

 なぜ、人口減少幅が600人の大台に乗ってしまったのか、市議会と市役所の政策担当部署は分析すべきだろう。「広報根室」や「ねむろ市議会だより」にはそういう分析を載せてもらいたい
 人口減少対策は根室に住む自分たちでやろう、内部改革をせずして町の繁栄はない


<余談:三友冷蔵民事再生法適用を申請
 2月2日の北海道新聞にカネ共三友冷蔵(根室市、渡辺幸二社長)が東京地裁に民事再生法適用申請をしたという記事が載っていた。「売上高が市内トップの水産加工会社で、サケ・マス・サンマなどを扱い、市内の水産加工会社から「根室きってのベニ屋(サケ・マス加工業者)との評価もあった。民間調査機関による負債総額は約35億円にのぼり、市内の漁業・水産加工会社ではサケ・マス流し網漁禁止以降最大。既存事業を継続して再建を目指す方針だが、老舗のつまずきに、市内経済・産業界に動揺が広がっている」。
 大手飲食業の「トラオム」とスポンサー契約をしたようだ。従業員60人は継続雇用の予定。

 地元資本が次々に消滅しても、首都圏の大手資本が吸収し雇用保障をしてくれたら、働いている人たちはそのほうが幸せかもしれない。債務超過になってからでは、二束三文で買いたたかれるから地元企業オーナーの手にお金は残らない。経営改革できないのなら、企業価値のあるうちに、つまり黒字のうちに売却するのが賢明だ。従業員のためにもそのほうがよい。売却交渉は債務超過になってからでは遅すぎる。赤字企業の買収交渉や資本提携交渉などもしてきた経験からのアドバイスである。


地方は若者の「起業家」を使い捨てにしている
http://toyokeizai.net/articles/-/206712

*「ブラック農家」や古い経営者が地方を滅ぼす

地方の働き手不足の原因は人口減少ではない
http://toyokeizai.net/articles/-/151881





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