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#4340 記事タイトルの検索システムが完成しました Aug. 15, 2020 [A8. つれづれなるままに…]

<更新情報>午後四時半、<余談:経済学との出遭いと戦い>追記

 根室は一気に秋です、今朝7の気温は14.2度でした。

 夏休みに入ってから、なんとなくいままでアップした記事を整理していました。古い記事だと自分で探すのもたいへんです。ブログ付属の「記事管理」のページにはアップした年月日降順でリストされるので、たとえば、5年前に書いた記事を探すにはページを何度も何度もさかのぼって行かなければなりません。だから、一番最初の記事にたどり着くなんて実際上は不可能でした。
 なんとなく記事のタイトルをEXCELでつくった一覧表に張り付ける作業をしていました。500タイトルごとにシートを別に分けて並べていきました。やっている途中で検索できるような工夫ができるのではないかと気が付きました。全体の見通しがあってやっていたわけではありません。

 百タイトルの一覧表×43個を43のブログ記事としてアップし、さらにその43個の「百タイトル一覧表」アドレスの一覧表「年月日」と「ブログ#」の降順の表にまとめて、二段構えにしたら検索システムが可能だということ、ふと気が付いたんです。

 昨晩全部の作業を終了しました。4300本の弊ブログ記事が2段構えて検索できるようになりました。左サイドバーのカテゴリー欄「0.ブログ記事No.索引」をクリックすると、検索リストの一覧が年月日の降順でてきますので、青い太字の文字列をクリックしていただいたら、各記事のタイトル一覧表へジャンプします。
 記事百タイトル一覧表の中で見たいものがありましたら、タイトルをコピーして、右サイドバーの「検索ボックス」へ張り付けて、クリックしてください。指定された記事がポップアップします。候補が3つほど出ると思いますので、そこから選択してください。

<ブログを始めた経緯(いきさつ)
 ついでですから、このブログを始めた理由も書いておきます。
 2006年6月はスキルス胃癌と巨大胃癌を併発し、釧路医師会病院で6時間の手術で命を救ってもらった年です。6月6日に地元の岡田医院で岡田優二先生に内視鏡検査してもらいました。幽門部付近に癌アリ、ほとんどふさがっていて十二指腸まで内視鏡が届きません。自覚症状からスキルスの併発があると思うので、さらに検査をお願いした。冷たく重い感じの何かが胃のあたりで広がりつつあるのがはっきり感じられました。胃の粘膜を走るスキルスは腫れを起こさず静かに広がっていきます。気味の悪い感触です。なんらかの天の助けがなければダメだと思いました。釧路医師会病院へ6/26入院、3週間の検査でスキルスの併発の診断(副院長の富田先生が内科的診断でスキルスの併発と診断)がついて7月20日に手術。執刀外科医は30代の後藤幹弘先生(現在は音更町の木野東クリニック院長)でした。ついてました。術後の病理検査で巨大胃癌とスキルス胃癌が確認されました。8月4日に退院、40日間の入院で手術前は食事は一度もとれませんでした。巨大胃癌が幽門部をほとんど塞いでしまっていたからです。固形物は通らないのでココアミルクのような液状の飲み物とヨーグルトそして点滴で過ごしました。退屈だったので、高校数学の問題集を2冊解きました。手術に備えて身体がなまってはいけないので全身のストレッチやベッドの上で深い呼吸のトレーニングも欠かしませんでした。高校生のころから自己流でヨガと呼吸のコントロールをやっていました、何が役に立つかわからないものです。
 二つの癌はリンパ節へ転移し、隣接している大腸(横行結腸)へ浸潤していました。ひどい状態だったようです。悪いところは全部切除(胃と十二指腸と胆嚢の全摘、胃のリンパ節と大腸一部切除、小腸を首のところまで引っ張って行って食道上部と吻合(ふんごう))、思った以上に進行していたので6時間の手術でしたが、輸血量を後藤先生に訊くとゼロ、700cの出血があったそうです。輸血しないでこれだけやっかいな手術ができる、すごいと思いました。
 術後は体重が10㎏ほど減少し60.5kgに、体力が衰えたのはもちろんのこと、脳の活動も体力に関係のあることがわかりました。塾をやめたら経済学の論文*を書くつもりでしたが、書けなくなったのではと不安になり、リハビリを兼ねて術後1年4か月後からブログを書き始めたのです。2007年11月27日が最初のブログ記事です。短い文章でも見直すたびに校正すべき箇所が目につきました。初めのころは何度も何度も見直したのです。普通に書けるようになるまでどれくらいかかったかは、ある程度は文章の長さに現れています。ブログは末期癌患者の脳のリハビリの記録のようなものです。わたしの場合は脳機能の低下に抗(あらが)う必要がありました。ようやく掘り当てた初回のブログ記事です。

#1 バーチャルとリアリティのはざ間に漂いながら考える:2007/11/27


<余談:経済学との出遭いと戦い>

 経済学は演繹的な体系構成をもっています。どのような演繹体系も一群の前提条件=公理から出発してその学問体系を構成していきます。数学モデルもそうした体系の一つです。ユークリッド『原論』が人類史上初めての演繹的学問体系です。
 A.スミス、D.リカード、K.マルクスの経済学には労働=苦役という公理が横たわっています。だから、労働からの解放が至上命題となります。自己を再設計可能なAIと機械がAIのコントロール下に置かれることで、そう遠くない未来に、人間が「労働から解放」されるのかもしれません。そういう未来を描いた小説野崎まど『タイタン』が4月に発売されています。
 こうした労働観と対極にあるのが日本人が育んできた仕事観です。職人仕事に端的に現れています。仕事は神聖なもの、だから、刀鍛冶は正月に禊をしてから初仕事をして、一振り目の刀を神に捧げます。仕事は神聖なものであり、自分が修行して育んできた技術の粋を表現する場でもあります。だから、仕事が生きがいなのです、職人仕事観からは「労働からの解放」という結論は出てきません。工場で仕事する工員も日々仕事の改善をするのも、職人が仕事の手を抜かないのもそういうことなのでしょう。わたしは本社管理部門の仕事や社長の特命プロジェクト仕事が多かった。4分野ほどの専門知識と経験を生かしてやる仕事は「労働」ではありませんでした。職人仕事そのもの。だから、日本の企業には工場も本社部門も職人仕事をやっているのです。
 職人仕事観を公理に措定すると、まったく別の経済学と経済社会が立ち上がります。そういう可能性と理論的な背景を明らかにすることが、わたしのライフテーマでした。根室高校2年生の時にマルクス『資本論』を読んだときに、巨大な森に迷い込んだ感触とこの巨大な森から抜け出したら何が見えてくるのかというのが、学問を志す出発点でした。大方のところはすでに弊ブログ書いてあります。
 経済学で公理を問題にした経済学者はいまのところわたし一人です。マルクス『資本論』は超えたと思っています。マルク氏自身も『資本論初版』(1867年)を書いたときに自分の方法論の限界に気が付いたと思っています。それ以降は経済学の著作を発表していません。ヘーゲル弁証法をベースに『経済学批判』⇒『経済学批判要綱』⇒『資本論初版』と書き進んできたマルクスは、その限界にようやく気が付いたのです。正・反・合の図式ではやれないところまで来てしまいました。(国内)市場関係や国と国際市場関係まで拡張したら、経済学的基本概念の展開が困難であることには気が付いたと思います。フランス語版(1872-1875)はまったく別な書物であると、自身が書いています。その方法的な意味を理解した経済学者はいません。『資本論初版』の方法的限界が見えてきたので、そうせざるをえなかったのでしょう。
 マルクスはヘーゲルではなくて、経済学体系の方法論を探るためにはユークリッド『原論』を読むべきでした。ですが、マルクスは数学が不得手でした。彼の『数学手稿』をみると、微分概念が理解できなかったことがわかります。『資本論』を読んでも『経済学批判要綱』を読んでも微分・積分は出てきません、四則演算に終始しています。そのこと自体もマルクスの経済学の限界になっています。方法論の誤りだけでなく、数学的なツールが使いこなせませんでした。『資本論』や『経済学批判要綱』を通して読んでずっと感じていた違和感はそこにもありました。
 『数学手稿』は、苦手だった数学の学習ノートのようなもので、出版すべきものではありませんでしたが、彼を神のごとくあがめる信者たちが出版してしまいました。泉下のマルクスは苦笑いしているでしょう。学の体系としては唯一、ユークリッド『原論』がありますが、数学が苦手ですから手に取ることすらなかったのでしょう。元々はギリシア自然哲学の専門家でした。イェーナ大学に提出した博士論文のタイトルはデモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異英語版(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』です。ユークリッド『原論』を読まなかったことが致命傷でした。



タイタン

タイタン

  • 作者: 野崎まど
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2020/04/21
  • メディア: Kindle版

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