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#4834 水がめと「酒悦」 Sep. 28, 2022 [C2. 引っ越し作業記録]

 記憶をたどると、この水甕(みずがめ)は小学2年生の頃(昭和31年)からつかっていたもの。根室に上水道が敷かれたのがそのころ。花咲小学校には体育館の前のあたりに水道の蛇口が10個ほども並んでいた。最初の内は鉄臭いのと、カルキ臭いのでまずくて初めのうちは飲めなかったが、我慢して飲んだら段々に慣れた。そのころ梅ヶ枝町三丁目の家にも水道が通ったが、水甕に受けてカルキを抜いてからつかった。

 飲み水は造り酒屋のカネマンが花咲街道の緑町交差点のところ(木村生花店の向かい側)に、水道栓を付けてくれて、ご近所さんはその水を飲料用に使っていた。昭和37年頃までだっただろうか。カネマンは成央小学校のあたりから湧き水を引いて2m×1.5m×1.5mほどもある木の樋にためて、そこから水があふれていた。
 ご飯を炊くときの水や、みそ汁の水、お茶の水はそのカネマンの水道栓から汲んできた水を使っていた。交差点の水道栓は各家庭で持っていて、それで栓を開けてバケツ2つに水を入れて、天秤棒の両端にぶら下げて運んだ。天秤棒がしなるから、びっちり入れると、反動で水がこぼれる。最初の内は家についたときに半分くらいになっていた。だんだんなれて、揺れても水がこぼれないようになる。高校1年の時にはもう水甕を使わなくなっていた。水の匂いに慣れてしまったのだろう。

 「酒悦」という居酒屋をやっていたが、その後、昭和50年代に焼き肉がメニューに入り、焼き肉屋と居酒屋のハイブリッドになった。ビリヤード店と居酒屋と焼き肉屋のハイブリッドの飲食店と、オヤジとお袋はよく働いたから、店はとっても繁盛していた。
 焼き肉のタレはこの水甕で仕込んでいた。果物をふんだんに使い、1か月寝かせて発酵させないと味が出ない。
 焼き肉屋をやめてから、数年の間、タレをこの水甕で仕込んで、オヤジは常連さんへ配っていた。最後に配ってからもう35年ほどたつだろう。
 捨てるのは忍びないので、誰かにもらってほしいと思い、メッセンジャーでお一人声をかけた。押しつけがましいと反省して、取り消したら、ありがたいことに「みてみたい」という返事をいただいた。

 古いだけの水甕。根室に地震でもあったときには、飲料水をためておける、オブジェとして庭に置いても様になるかもしれないと思うのは、こちらの願い、自分の都合を押し付けてはいけません。
 そういうわけで、古い水甕をご覧いただきたい。

①横から撮影
 直径57cm、高さ53cm。300L以上入りそうです。
[新月]10/18行き先決まりました。
DSCN6903s.jpg

②斜め上から撮影
DSCN6904s.jpg

③上から撮影
DSCN6905s.jpg

 よく見たら、汚れていたので、きれいにふき取っておきました。

<カネマン>
 カネマンというのは色媛という銘柄のお酒を造っていた、造り酒屋の名称である。兼古酒造と言ったはず。北の勝が辛口のお酒だったが、色媛は甘口のお酒。現在のヒシサンのところにあった。根室印刷の創業者の北構保男先生は考古学者でもあったが、その奥様がカネマンの長女と聞いています。言葉のキレイな品のいい人でした。何度かご自宅にお伺いしたことがありました。


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