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#2106 伝説のワインハウス・サリー: 閉店日の集い Oct. 26, 2012 [A.6 仕事]

 5周年を迎えたワインハウス・サリーが閉店になるというので最終日(10/20土曜日)にも行ってみた。ドアを開けるとお客さんで一杯の様子なので、"アケトジ"して帰ろうとしたらサリーさんが出てきて、「ebisuさんお一人なら入れますよー」と声を掛けてくれた。

 中に入ると、主治医一家がオイデオイデをしてくれている。常連のKoさんもオイデをしてくれた。Koさんには失礼して、お父さん先生夫妻に挨拶して主治医親子の中にまざって飲み始めた。
 若先生がお父さん先生に、近所の焼き肉屋の息子さんと紹介してくれた。助かるはずのないガンだったのに助かった、典型的なアケトジ症例、5年生存率はほとんどないと説明付で・・・。6年たったから完治だとうれしそうな顔。
 お父さん先生にはオヤジが平成3年に大腸癌の可能性ありとの診断をもらって、釧路市立病院に入院・検査、すぐに手術が決まった。根室から手術の知らせを受けて八王子ラボの2階、同じ本部内の学術情報部長に事情を話して釧路市立病院と親父の名前で検索してもらったら、血漿蛋白検査が出ていた。癌マーカーのRI検査は病院検査室に設備があるのだろう検査依頼はなかった。血漿蛋白検査(臨床検査4課?)のS女性主任へ電話して確認した。ラボ内は1,000人もの人が働いているが何度か話したことのある人だった。「お父様ですか、悪性新生物です」との返事、彼女が検査したようだ、国内ナンバーワンのラボで検査課では珍しく院卒で仕事の技術的な評価も高い人だったから検査結果に間違いはない。悪性新生物とは癌の別名である。
 手術に立ち会うために羽田から釧路空港へ、出迎えてくれた妹の亭主が困った顔をして到着ロビー出口でまっていた。
「わかっています、オヤジは癌です」と告げると、どうして知っているのかと驚いていた。仕事している会社が臨床検査センターなので、ラボに検査依頼が出ていて結果を確認していますと事情を話した。横行結腸を20㌢ぐらい切った。M外科医は2年後の再発を予言し、その通りの結果になった。2度目の手術はアケトジで、術後4ヶ月で逝った。
 どんな人間もいつかは死ぬ、その一連の過程の中で信頼のできる掛かりつけ医がいることは患者と家族に大きな安心を与える。お父さん先生にあの折はありがとうございましたとお礼を述べた。

 縁とは不思議なもので、私は若先生に胃癌だと思うから内視鏡で診てほしいと平成18年の6月初旬に診察をお願いした。内視鏡で見ている最中に「あ!」と思わず先生が声を上げ、「カンシ」と看護師さんに指示し、サンプルをとった。幽門部手前に胃癌があった、大きすぎて胃を塞ぎ、内視鏡が通らず幽門が確認できない。幽門部手前から通路がほとんどふさがっていた。水もなかなか通らない状態だった。内視鏡検査後の診断で、画像をモニターに写しながら、若先生が説明をしてくれた。苫小牧臨床検査センターにRI検査用の血液を送り、北大病理に内視鏡のカンシで採取した病理標本を送ってくれた。
 自覚症状からスキルス胃癌があるはずとさらに検査をお願いしたが、根室には消化器外科医がいないので粘膜の検査はできない、これでは食事も通る筈がないので、釧路の病院を紹介するからすぐに入院しなさいといわれた。中学校の期末テスト17日前のことだった。ほとんどヨーグルトのみで半月ほどやりすごした。スキルスだと助からない可能性が大きいのでこれが最後の授業となるかもしれない、逃げるのは嫌だから覚悟を決め期末テスト前日まで授業をやった。生徒には「お腹におできができたのでとってくる、1ヶ月間休みにするよ」と言ったら、
「先生、オデキできたの?」
「そうとびっきりおきな奴」
みんな大笑いで、私もつられて笑い転げた。たのしいひととき、満足だった。

 期末テスト当日に釧路へ車を運転して釧路医師会病院に2006年6月23日に入院した。その2ヶ月ほど前の連休ことだが、釧路に遊びに行って、丘の上に白いきれいな建物があるので女房にあれなんだろうって聞いたら、病院って書いてあるよと教えてくれた。「きれいだね、眺めのいいホテルのようだ、入院するならあんな病院に入院したいものだ」となんの気なしに言ったのだが、一月半後にその病院に入院することになった。わたしのばあいこういう偶然が少し多いように感じる。もちろん人生初めての入院だった。

 副院長の消化器内科医の先生が粘膜細胞を採取してスキルスを見つけてくれた。レントゲン(ガストロ造影)でも粘膜に走るスキルスが幽門付近から胃の上方に向かって広がっているのが確認できた。冷たく重い感じが拡大する自覚症状と所見が一致した。
 高校生のころからストレッチとヨーガを組み合わせたようなことをずっとやっていた。東京へでてからもヨーガの本やお釈迦様の呼吸法について何冊かの本を見ながら独習していたので、身体の声がよく聞こえたのだろう。呼吸法を伴うストレッチは身体の発する声を聞きながらやるもの、歩くときには腹式呼吸や長息トレーニングをしていた。何が役に立つか分からぬものだ。
 消化器内科医の診断がついて胃の全摘が決まった。内科病棟から外科病棟へ移り、若い担当外科医から術式についての説明があった。胃を取って胆嚢をそのままにすると炎症を起こすので胆嚢もとるという。開けて広がっていれば脾臓も膵臓もとることになりますと、G外科医が同意書を前にしながら説明してくれた。「お任せしますので、よろしくお願いします」と返事をした。若いけどしっかりしたドクターに見えた。この若い外科医の腕を磨くくらいの役には立つだろう、手術は相当に難しいはず、粘膜を走るスキルス胃癌と胃の内部に腫瘍ができる癌の併発だから、たぶんアケトジ、よくてもギリギリだろうと想像していたが、実際には完全なアケトジ症例だった。開けて臓器に触って確認して手が停まってしまったとあとで外科医のG先生が説明してくれた。「横行結腸に浸潤してしまっている、手遅れだから閉じるべきだろう」と考えたようだ。ベテラン外科医の院長A先生が「ざっくりとりなさい」と指示したという。助からぬなら、若い外科医のG先生が腕を上げてもらったほうが患者のわたしとしてはうれしい。腕を上げて次の患者を救ってくれれば本望と思っていた。
 摘出した患部の病理検査は80年代半ばからから90年代初頭まで仕事をしていたラボへ依頼された。SRL社の病理診断書には「巨大胃癌とスキルス胃癌の併発」と書かれていた。ラボで検査した病理検査課の担当は患者名を見てebisuだと気がついただろうか。わたしが働いていたころにラボに病理医は4名いた。検査課長は旧知の人だった。
 学術開発本部スタッフをしていたときは、創業社長のFさんの社長室が私の席の背中側、歩いて数歩で社長室入り口、病理医のT先生の副社長室は10歩ぐらいのところにあった。席の右手がわたしを購買機器担当から引き抜いてくれた学術担当取締役の席。学術情報部の仕事も開発部の仕事も、なんてことはないルーチンワークも指示されるままに引き受けていたが、それまでの担当とはまるで違う斬新なやり方で実務を変えてしまったから、仕事をこなすたびに信頼が厚くなった。「本部内の仕事3割カット・プロジェクト」も任せてくれた。ラボ見学案内の英語版は外部へ翻訳を頼んだが、使い物にならなかったので、わたしよりも語学が堪能なI取締役と二人でやった。「何年かしたら、ebisuの下で使われているかもしれないな」とつぶやいたことがあったが、もちろん冗談だっただろう。仕事ではずいぶんと頼りにしてくれたいい上司だった。

 助からないところを釧路医師会病院の優秀な若き外科医G先生にに助けていただいた。それもこれも釧路医師会病院なら同門だからすぐに入院手続きがとれると言ってくれた主治医の若先生のお陰である。ebisuの例があるから、担当した外科医はスキルスと巨大胃癌の併発した患者に出遭っても、アケトジはせずに躊躇することなく摘出手術をするだろう。若先生も生還の可能性を信じて患者を送り出せる。

 若先生は旭川医大で学んだ。根室高校を卒業してから駿台予備校の寮に入ると、全国からとんでもない優秀な浪人生が集まっていたという。なかには京大には合格したが東大に入りたくて浪人した者もいた。そういうなかでもまれて急激に偏差値が上がったという。周りに優秀な者がいて切磋琢磨すると能力は急激に伸びる、適度な競争はある時期必要なのだ。駿台の模試では北大医学部にA判定をもらっていたのに、試験は水物、北大医学部はすべった。「旭川医大も国立だから、それで充分」とお父さん先生が言ったという。

 私も先輩に大学3年で公認会計士二次試験に合格し手監査法人の京都事務所の責任者をやっている人がいるし、母校の情報学部の教授をして週2回東大に講義に行っているTさんがいる。同期のゼミで哲学科の教授になったIもいる。青森大学のT経営学部長、千葉経済大学のS経済学部長も1年先輩になる。後輩も彼の母校に戻り教授をしている。東京渋谷の進学塾でもいろんな大学の大学院生がいた。Eさんもその中の一人だった。忘れてはならない奴がいた、根室高校1年の同級生の一人である。高田馬場の富士短期大学に進学して卒業した年に税理士試験に合格したHaだ。実家は沖ネップのコンブ漁師だったから毎年夏場は家業を手伝っていた。細身だったが腕相撲だけはあいつにかなわなかった。コンブを浜に上げて石の上に並べる作業を繰り返していたら、腕力は強くなる。先輩・同期に恵まれたことはたしかだ。
 能力を伸ばすためには人材の集中する東京に行くメリットがとっても大きいから、わたしは男子生徒には道内の大学でなく東京の大学へ進学することを勧めたい。会社の数も札幌の200倍はあるだろうから、就活にも便利だ。

 オヤジはお袋と一緒に10年間ほど酒悦という焼き肉屋をやっていた。お父さん先生曰く、
「タレがうまかった、息子は中学生のときに9皿食べたよ」
若先生曰く、「最高10皿だよ」
 タレは二十数種類の原材料を陶器製の大きな甕で仕込み、2週間ほど寝かせて発酵させる。発酵のコントロールがむずかしいとお袋が言っていたことがある。大きな甕でつくらないと同じ味が出ないとも言っていた。肉は釧路の屠場から直接仕入れていた。オヤジは若い頃釧路の肉屋で3年ほど修行したことがあった。器用な人だから人が3年かかるなら1年で技術をマスターできただろう。放浪癖のある人で、カバンひとつもって、兵隊に行くまで30くらいも職を点々とした。兄弟子が屠場の責任者だったから、そういう特別な仕入れルートをもっていた。東京銀座の焼き肉専門店でも、オヤジがあの当時出していた肉に匹敵するレベルのものにはなかなかお目にかかれない。
 その兄弟子が亡くなってから、送られてくる肉質が下がった。気に入らなくてずいぶん棄てていたようで、根室での仕入れに切り換えたが、やはり同等の品質の肉が手に入らない。オヤジはほどなく店を閉めた。
 納得のいかない仕事はしない、何ごとも筋を通すのがオヤジの流儀だったが、あんなに流行って客でごった返していた店をあっさりやめたのには驚いた。元落下傘部隊隊員はなにごとも思いっきりがいい。降下訓練で飛行機から飛び出すときの思いっきりのよさそのまま。
 やめてからは数年間、ビリヤード場だけをやっていた。2回目の手術の前に43年間やっていたビリヤード場もやめた。

 お父さん先生は焼き肉屋当時のことをよく覚えていてくれた。家が近いこともあり、肉を食べによく来てくれたようで、オヤジから話しは聞いていた。「中学生の息子が肉が好きでよく食べるんだ」と食べっぷりのよさをうれしそうな顔で語っていた。そういうわけで主治医一家とは親子二代のお付き合いである。

 話しは地域医療問題に及んだ。根室は医師も看護師も足りない、それは市立病院だけでなく医院側も事情は似たようなもの。私は医学部進学生と看護専門学校進学生に奨学金を出して地元出身の医者と看護師を育てるべきだと何度かブログで書いた。
 今年3月に看護学生に3年間360万円の奨学金を出すことが市条例で決まった。3年間市内の病院に勤務すれば返済が免除される
 まことにありがたいことだと思っていたら、若先生と歯科医のF先生が市のほうにプッシュしてくれたという。地元出身者を増やさないとジリ貧になるから奨学金を増額すべきだと言ってくれたらしい。ebisuがブログで書いても市は動かないが、医者が提言すれば動くこともある。
 根室出身の看護師さんが増えて、そのうちの何割かが戻って地域医療を支えてくれればいい。生徒たちの学力を高め、看護師志望の生徒を育てることが根室の地域医療における私の役割だ。願わくば医学部に進学する生徒も数人育てたい
 2006年に胃の摘出手術をしてから満6年と4ヶ月が過ぎ、身体が慣れてきたのか体調はよくなった。

 F先生のことを少し書いておきたい。F先生はebisuの歯科の主治医であるが、先代にはビリヤードのお客さんだった。頻繁に通ってくれた常連のお一人、少し年上の北国賛歌の作詞者である歯科医のT先生とも仲がよかった。両先生が小学生の私とビリヤードをして遊んでくれた。
 平成3年に用事があって根室に1週間ほど戻って店番をしていたら、「トシ坊」と呼ぶ人がいた。40過ぎのわたしを誰かなと振り返ったらF先生だった。お顔の色が黒ずんで痩せていたのですぐにF先生とはわからなかった。癌なら肝臓に転移しているとそのときに思ったが、その数ヶ月後に亡くなった。「トシ坊」と懐かしい呼び方をしてくれた先生の声が耳に残っている。
 先代は文才のある人で、根室新聞に時代小説や現代小説を連載していたことがある。先々代もビリヤードがお好きな人だったが、太った人で赤ん坊のわたしをお腹の上に載せてよく遊んでくれたそうだから、私はF先生のところとは三代のお付き合いになる。主治医のF先生は目が先代にそっくりで、先代に治療してもらっているような錯覚に陥ることがある。そんなときは涙腺がゆるんでしまい、がまんするのがゆるくない。
 40代と50代、消化器内科の専門医の先生と歯科医のお二人の主治医がいるのでebisuは安心だ。

 思いがけず、看護専門学校生への奨学金支給に関する市条例制定の経緯を聞けた。ワインハウス・サリーは貴重な集いの場だったのである。

 ブログ仲間のカツヨさんも娘さんを連れて来店していた。医療系へ進学する娘さんもドクターとしばらく楽しく会話していた。

 オイデをしてくれたKoさんが支払を済ませて帰りぎわに、彼の同期の友人である鳴海町の塾のKu先生を紹介してくれた。挨拶と握手だけしたが、共通の生徒がいるから、そのうちにゆっくり教育談義をしたい。
 共通の生徒はこの間の看護模試でいい成績をとった。英語と数学ができがわるかったのに20番以内にはいっている。調子のいいときには全道5番以内に入るのだろう。
 偏差値が60を超えているから看護専門学校なら道内のどこでも合格できる。来週、数学の苦手な分野の問題集を渡すつもりだ。看護模試よりもレベルが高い問題集だ、「場合の和」と「確率」を3ラウンドやるといい。英語が得意なのだが、時折不安定なことがあるから、英字新聞記事と格闘したらワンランク力がアップする。
 卒業するまでに全道で一番をとることがあるかもしれない。ノビシロの大きい生徒だから期待している。
 ふるさとに戻ってから開熟してもうすぐ10年だが、看護学校へ進学した生徒はすでに5人。20人くらい看護学校へ進学させてみたい。そのために看護学校進学者への奨学金360万円という今年3月にできた市条例はたいへんありがたい。経済的な事情で進学をあきらめざるをえない生徒もいたから。微力ではあるが、根室の地域医療のためにebisuはebisuの役割をたんたんと果たす。

 閉店から1週間がすぎ、イタリアで修行したソムリエの店ワインハウス・サリーは伝説になってしまった。どこのお店に集えばいいのだろう?
 惜しまれて閉店、一週間たってご本人も喪失感の大きさを味わっているのかもしれぬ。
 いいお店だった。 

【27日追記】
葉書の案内では閉店日が20日になっていたが、一日延ばして21日の日曜日がほんとうの最終日だったようだ。さっきサリー・ブログを読んで気がついた。



*#2100 蛍の光窓の雪♪・・・ワインハウス・サリー Oct.16, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-10-16


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ZAPPER

とってもステキなお店でした。
我々も残念です…。
by ZAPPER (2012-10-30 11:27) 

ebisu

素敵なお店の経営者だった極東のソムリエは、専業主婦で極東と九州を行ったり来たり、幸せな日々を送っているのでしょう。
それでいい。(笑)

だれかああいうお店をやってくれないかな。
by ebisu (2012-10-30 13:05) 

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