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#2105 小5国語 「大造じいさんとがん」を読み心情曲線を書こう :こんな教え方で大丈夫? Oct. 24, 2012 [64. 教育問題]

 小5の生徒に宿題が出ていた。「大造じいさんとがん」を読んで心情曲線を書いてこいというものだった。「爺さんと癌」だと思ったら、鳥の雁(ガン)だった。(笑)
  5年生で使わない漢字であれば、漢字で表記してルビをふればいいのになぜしないのだろう?ここにも思考停止がうかがえる。
 猟師の爺さんと誇り高い群れの頭領の残雪という名前のガンのお話し。

 心情曲線ってなんだろう???
 生徒ノートをみたが要領を得ない。サインカーブを想像してみたが、日本語に感情の起伏という語彙はあるが、「心情の起伏」という語彙はない。心情とは「心の中で思っていること、心の状態」「気持ち」であり、感情とは「喜んだり悲しんだりする、心の動き。気持ち。気分」。二つの概念は「心情⊃感情」、すなわち感情は心情の部分集合である。何ごとかを冷静に思索する心は心情ではあるが、感情をはなれた理性の働きで感情の動きをともなわぬ。

 ネットで調べてみたら、兵庫教育大学大学院教授堀江祐爾さんが提唱する「堀江式心情曲線」授業がヒットした。
*「堀江式 国語授業のワザ(5) 文学教材は「心情曲線」を効果的に使おう!」
 
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/waza/


 文学の構造を捉えるために登場人物の心情とその変化を捉える、いや登場人物の心情とその変化を捉えることで文学作品の構造そのものを捉えることができるということらしい。
 登場人物(および鳥)の心情を昂揚・上昇・回復・消沈と4パターンに分けて場面を理解していき、生徒の意見を吸い上げて討論させる。
 文学作品を構成しているのは「心情」だけではない。登場人物の年齢・性格・育った環境そして登場人物相互の関係、社会経済的位置・・・そして登場するのはこの物語のように人間だけではなく立派な名前を持った鳥すら登場する。心情の中には冷静に思索する心の働きもあるだろう。これは感性の働きではなく理性の働きだ。
 心情はさまざまな変数の中の一つに過ぎない。そして心情変化は時間の関数ではあっても2次元平面の上下運動だけではないだろう。感情の起伏なら上下方向の運動で大雑把に捉えることもいいが、扱っているのは「感情」ではなく「心情」なのである。
 複雑なものを単純化して教えたいのだろうか?心情という語彙の意味を理解しているのだろうかという気さえする。小学校の先生は生徒に「心情」という語彙の説明をしなければならない。
 失礼ながらこれは学生の思いつきのような教授法だ。こういうことをマジメに教え、思考停止状態で無批判に受け止める、教育大大学院とは不思議なところのようだ。

 心情曲線を描く?そんな暇があったら、何も解釈せずに高速音読を3回繰り返したほうがずっといいだろう。

 先生の解釈も要らない。わたしが中高校時代に国語教師に反発を感じたのは、教師の古びた感覚で「作者の気持ち」を推定し授業で一方的に押し付けられることであった。教師の単なる主観の押し付けに過ぎないので辟易した。
 同じことを感じながら、点数を取りたいために先生が板書したとおりに作者の気持ち(心情)を答案に書いた生徒が多いだろう。国語の授業はこうして従順な生徒にも思索を大事にする反抗心の強い生徒にも楽しくないものになってしまっている。国語の先生だけが勘違いをして自己満足の授業をしている、ピエロだ。

 わたしは高校1年のときに先生の解釈した「作者の気持ち」とわたしの感じた「作者の気持ち」に一致するものがなかったので、自分の解釈を答案に書き続けた。担任がその国語教師だったが評価はずっと50であった。同じ先生でも古典授業は一回おきぐらいにトップ、古典は主観的な解釈の余地が小さいし、作者の気持ちを問うような問題はほとんどないから先生とのトラブルがない。そういうわけで半分を超える科目が毎回クラス(50人)ナンバーワンだが、現代国語のみずっと評点50点に甘んじた。N先生は真正面から反抗してくる生意気な生徒が腹立たしかったに違いない。頭の固い定年間近のN先生は確信犯であるebisuに断固としてバツをつけ続けたからいい根性をしていたとは言える。お互い頑固物同士、いろんな先生がいて、いろんな生徒がいて、高校生活はとびっきり楽しくなる。
 2年になってクラス替えがあり、新しく担任になった先生から「よほど嫌われたんだ、クラスで1番で出された例はない」と言われたが、それぐらいのしっぺ返しはあって当然、かわいいものだ。N先生の対応を恨んだことはない、世の中にはいろんなタイプの人間がいるからにっこり笑ってうけとめればいいのである。小学生のときから家業のビリヤード場を手伝って、実にさまざまな性格の大人がいることを知った。ゲームにはその人間の本質的な部分があからさまに出るから、じっくり人間観察させてもらった。高校生のころにはこの程度の偏屈な先生には腹が立たないくらい器が大きくなっていたのだろう。客商売というのは面白いもの。
 登場人物の心の動きはさまざまな解釈があって当然、奥が深くなればあっと驚くような解釈の余地も生まれる。そうした感受性の多様性を育むことこそ教育の役割だろうとそのときから思い続けている。

 もう二十年近くも前のことだが、高校生と森鴎外の『舞姫』を読む機会があった。書かれた当時の時代背景やその時代の日本人の典型的な価値観そして鴎外自身の人生などを重ね合わせて解説していったら、その高校生は喜んでいた。
「学校の授業とまるで違う、国語の授業ってこんなに楽しいんだ」
 そう、先生が10人いたら10通りの解釈があっていい。30%の共通項があれば充分だろう。

 30代半ばの転職時にリクルートのSPIテストを受けたときの偏差値は国語系が68、数学系が72で総合偏差値72だったから、高校時代のわたしの国語能力が特別に低かったわけではないだろう。
(小学4年生のときから北海道新聞社説と1面の記事を毎日読み始めた。中学校はSFの濫読の時代だった。高校時代は読む本のレベルが上がった。近代経済学やマルクス『資本論』、原価計算、財務諸表論、監査論、経営学、商法などの公認会計士2次試験受験参考書群や哲学書を片っ端から読んだ。予備校時代も岩波書店から出た『哲学講座』、そして左翼思想系の本を高田馬場や神田の本屋街を歩き回って大きなバッグに詰めて、かたっぱしから読み漁った。エコノミスト、現代思想、思想、情況、朝日ジャーナルなど雑誌も数年間読み続けた。硬い雑誌だったから、興味のある記事だけをピックアップして読むだけでも時間はあっというまに流れていった。あるところから、小説や専門月刊誌類を避け、専門書にのめりこむようになった。有限な時間を自分なりの判断で、青春時代のいま読むべき本に絞り込んで読み漁るようになっていった。自然と小説類を読まなくなっていた、時間が惜しかったのである。)
 価値観の相違で解釈が分かれるような問題があるから、国語系は力がありすぎるとかえってダメである。出題者のレベルに近いほど、あるいは出題者の考えにチューニングできるほど偏差値が高くなるのは当然だ。そして出題者の能力はそれほど高くはない。
 世代が違うから、主観的な角度からの理解は生徒と先生の受け取り方が違って当然である。
 
 心情という主観的な材料で文学作品の構造全体を論じようなどいう者は、失礼ながら教育大の先生とそういう先生に教えられた生徒ぐらいだろう。一般大学でこんな講義をしたら学生に笑われる。どうしてこういうバカげた教授法を無批判に受け止めるだろう、教えるほうも教わるほうもほとんど病気としか言いようがない。一般大学の哲学科の学生と議論してみたらいい。
 こういうバカげた事が起きるのは、高校に哲学という科目がないことが影響しているのではないか?ものごとを言葉の厳密な意味や用法までさかのぼってとことん考えるという経験や習慣がないから、こういう学生の思いつきのような教授法が喧伝されるのだろう。

 文学作品はそれ自体を味わえばいいだけだ。日本文学は日本的情緒を育てるためのコヤシのようなもの。卑怯とか矜持とかそうした特殊日本的語彙とその表現をたのしめばいい。多読、濫読をとおして日本的情緒にひたればいいのである。考える材料は無限にとりだせる。

 教科書があまりにも薄いので、頭のよい教授殿がこうしてテクストをいじくり回し、つまらない「授業の技」を考え出し、教師や教師の卵たちが授業で無批判に真似をする。教育大生は記憶優先の受験勉強をし続けて、思索する習慣をなくしているのではないか?学生時代及び卒業してから哲学書を読んだことがあるか?
 たとえばフランス、哲学は高校生の最重要科目だ、英国だってそうだろう。両国には哲学を知らないインテリなんて一人もいないだろう。

 小学校5年生担当の先生たち、「心情曲線」なんて教える必要はないよ、ここは読むだけでいい、心情曲線なんてものはパスしよう。
 こういう授業は生徒に百害あって一利もないから、そんな暇があったらいいテクストをたくさん選んで読ませたらいい。


*教育大というところは先生の質で一般大学とかなり隔たりがあるようだ。東京と北海道の相違かと思っていたが、どうやらそればかりでもなさそうなことが教育大の先生が提唱する国語授業のワザ「心情曲線」をとりあげてみて感じた次第である。
 教育大について以前書いた弊ブログ記事を紹介しておく。
 #2064 大学教員の地域格差はさらに大きい:遅い夏休み帰省 Aug. 25, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-25

**この「大造じいさんとがん」の話しを教科書で習ったことがあるかと生徒に聞いてみたら、高校3年生まで小学校のときに習ったことがあるという。少なくとも8年間はこのお話しが教科書に載っていることになる。教え方は同じだろう。国語の先生、こんな教材を使い、こんな教え方を10年続けたら、どんな先生になるか想像がつきませんか?やめましょうよ、堀江式なんて。教科書も替えたほうがいい。


*書評:有元秀文著『まともな日本語を教えない勘違いだらけの国語教育』(合同出版)(ブログてんしな?日々より)
 
http://francesco-clara.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-72d6.html


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弊ブログより
 #2111 成績下位層 中2の国語力は小4以下の現実 Nov. 1, 2011 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-10-31

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Hirosuke

>昂揚・上昇・回復・消沈

4つ全部がゴチャ混ぜの、
3Dタイムトラベル小説へ、
どうぞいらっしゃいませ。

YAMATO高校♪合唱部『わが◆マイルストーン』2

by Hirosuke (2012-10-25 11:26) 

ebisu

「ミレーよりもピカソが好き」
http://hironagayuusuke.blog.so-net.ne.jp/2012-02-03

わたしはどちらも好き。
ウィキペディアを引いたら何枚か出てきました。「晩鐘」「種まく人」「落穂ひろい」「羊飼いの少女」、美しい農村の風景と、そこで生きるたくましい農民の姿、種まく人の手からこぼれ落ちる種は生命の躍動そのもの。根室は漁業の町ですが、ミレーの絵は仮想空間のふるさととでもいえるような、どこかなつかしい響きを伝えます。
ピカソも写実の時代がありました。どうしてあれほど美しい写実的な絵を描いていたピカソが、抽象画に替わりうるのか不思議です。きっとエネルギーが大きすぎて、自分の殻をやぶってしまったのでしょう。
ピカソには反骨精神の強さも感じます。
ミレーもあんな時代に農村や農民の生活をモチーフに絵を描き始めるなんてそうとうの反骨精神の持主、ピカソとは顕われ方が異なるだけ。

さて、「YAMATO高校♪合唱部『わが◆マイルストーン』2」はずいぶん検索がしやすくなりましたね。
心情の展開がこの小説の屋台骨をなしているのは事実でしょう。
アップダウンの激しさがこの物語の特色でしょうが、伴奏のように移り住んだマチやその周りの雑多な風景、あるいは美しい風景描写がときおり顔を出します。

心の動きに合わせて、見える風景が異なるのではないでしょうか。風が吹き、はるか遠くから花の香りが漂ってきても心の状態が乱れていると気がつかない。
自然の移ろいのかすかな変化を五官で感じ取れるような状態でいたいものです。免疫が下がっていたのか頻繁に口内炎がおき、食事を摂るのが苦痛、でも摂らないと痩せて体力が落ちて動けなくなります。痛みを我慢しながら、胃のない私は1日6回も食事をしなければならない。
自然のかすかな変化を感じる余裕もなくなりますが、夏になって庭のはまなすやすずらんの香りが漂っているのにふと気がつくと、心が和んでいます。
インプラントで仮歯が入ったので、咀嚼はずっと楽になり、口内炎もずいぶん緩和しました。一時は苦しくて断食したほうが楽かと(笑)

別れ話の前後の高速度道路近くの歩道橋の上とか・・・横浜市内の似たような風景を想像して楽しんでいます。
余計なことですが、心情表現にそうした風景の点描がもっと増えると、厚みが出てくるように感じています。
by ebisu (2012-10-25 12:14) 

Hirosuke

>別れ話の前後の高速度道路近くの歩道橋

本当に重要な景色でして、
これがなかったならば、
エメラルダスとは何もなく終わっていたんです。
(まだ書いていません。)


>風景の点描

中3時代は閉じた世界に住んでいたので、
「静岡の頃」シリーズを絡めながら、
描写に変化を与えていくつもりです。

書評を頂き感謝致します。

by Hirosuke (2012-10-26 00:10) 

ebisu

お節介なコメントを嫌がらずに受け入れてくれてありがとう。
素直な人ですね。
うらやましい。(笑)
by ebisu (2012-10-26 11:58) 

Hirosuke

4ヶ月ぶりに小説部分の新エピソードを書きました。

第7章 若葉の頃(4) タッチ&ゴゥ
http://hironagayuusuke.blog.so-net.ne.jp/2012-06-26
[中3時代 1980]

たった5分間の、まったく風情のない風景です。
by Hirosuke (2012-11-05 10:44) 

ebisu

グォーバリバリ

あそこはキャンプ座間でしたか?マッカーサーが初めて日本本土の土を踏んだのは。

あれだけ字が大きくなっていったのでは、音が聞こえてくるようですね。(笑)

なにより書いている当人が楽しそうでいい。あの箇所はにやけながらタイプしていませんでしたか?
by ebisu (2012-11-05 13:04) 

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