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数学と英語 [57. 塾長の教育論]

2,008年2月6日   ebisu-blog#074
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 数学と英語の学習は同じ部分がある。理解が難しいのはいくつかの要素が複合された分野に係る問題である。数学に関して言えば、単一分野に関係のある問題は基本問題に分類できる。クラスAと名づけよう。2分野に関係のある問題が通常のクラスBの問題である。3分野にかかわりのある問題がクラスCである。それ以上をウルトラCという意味で、クラスUCと名づける。
 要するに複合される分野の数が多くなるほど問題が加速的に難しくなるというだけのことである。当たり前の事実だろう。

  昨日、理解が充分ではないようなので、ある証明問題をM君に考えてもらった。分野は数Ⅱである。任意のP点から、直線ℓへ垂線を下ろしたときに交わる点をHとするときPHの距離を求めよ、という問題である。これをP(x0y0)とH(x1y1)、直線ℓ:ax+by+C=0から線分PHの距離を求める公式を証明せよという課題を与えたのである。
 教科書にはきちんとした証明が示されていないが、それまでの知識で証明できる。一般式を使って独力で証明できるようになれば、その分野はほぼ完全に理解できたと見てよい。あとは問題数をこなし、慣れるためのトレーニングをすればいい。
 一般式を使った証明に必要な知識は、直線の方程式と2直線の垂直条件、それに三平方の定理だけである。これだけで公式を導き出せる。つまり、三つの要素に分解すれば複雑に見えた証明は実に単純なものに変わる。中学生にも充分理解できる内容であるから、ニムオロ塾では速度の大きい中学生には教えてしまう。

 デカルトの『方法序説』にある「4つの規則」の第2規則(p.29、岩波文庫)ひとつ、「問題を必要なだけの小部分に分解」するだけのことである。分解したら今度は組み立てる、分解⇒組立て、それだけの単純な操作。長文英語の複文も同じ操作で問題の複雑さを消去できる。基底構造(単文Simple Sentences)に分解して表層構造(元の文)に組み立てるだけの操作で意味が正確に理解できる。比較級の文章も同じである。基本的に二つのSimple Sentencesからできているので、分解してしまえば理解は簡単だし、統合すれば表層構造の文章が作文できる。副詞の最上級に定冠詞をつけて正解としている参考書が多数見られるが、それは教養のない英語であることまでは書いていない。きちんと文法を学習すれば書かれた英語をみただけで、書き手の教養の程度に推察がつく。そういう意味で書いた文章とは怖いものだ。
 分解と総合は知っているだけではだめで、使い慣れないと使えるようにはなれない。「技」を身につけるためにはトレーニングが必要なことはスポーツに限らないである。勉強もスポーツも似ているところが多い。

 今度はS君の番だ。円外の任意の点Pから、円に接線を引くときに、その接線の方程式を求めよという問題だった。1次関数の一般式と円の方程式、そして2次方程式の判別式の3つの要素に分解できる。Pと接点2箇所を通るから、どちらもP点を通る傾きのことなる直線の式で表されることは図を見れば自明のことだ。その直線2本の傾きをkで現し、円の方程式と連立させる。yに代入すればⅹに関する2次方程式となる。判別式がゼロのときに接点を持つから、得られた方程式から係数だけ抽出して判別式に代入するとkに関する4次方程式ができあがるが、4次の項は消去される。なぜなら解は二つに決まっているからだ。接点を持つということは判別式がゼロになるということだ。接点は二つある。判別式にkを含む係数を代入するとⅹが消えて係数のkだけの式になる。kの解が二つあることは傾きの異なる直線が2本引ける事から明らかである。3次元に拡張して、同じ問題を球の外の一点Pから球に接線を引く方程式を求める問題に拡張できる。接点は無数になる。数Ⅱでは手に負えない問題だ。こういう問題意識を持ちながら、次々に数学の拡張をしていくと面白い。

  長文の英語で難しいのは関係代名詞が2つ以上省略された複文である。高校の教科書ではせいぜい一つのセンテンスで関係代名詞の省略が二つあれば難しいほうである。新聞英語や専門書では一つのセンテンスで関係代名詞が4つも5つも省略された文章が出てくる。
 攻略法は数学と同じである。元の単文に分解し、その後に、元の文へと総合すればよいだけのことである。分解と組み立て、分析と総合、それだけだ。慣れてくると無意識の内にそうした操作をやっている。新聞英語や専門書はそういう操作を高速でやりながら読む。文法知識なしには高度に圧縮された文章は読めないことがわかる。とくに会社で使う英語は要旨を間違えると大きなリスクを生じることがあるので、肝心なところは正確な理解が要求される。

 このように複雑な問題は、科目は違っても、基本要素に分解すればほとんどの人が頭の中の引き出しにしまいこんである基本知識だけで理解可能だ。同じ操作で科目の違う複雑な問題を解くことができる。英語や数学それぞれに別々のやりかたを覚えなければならないとしたら、頭脳への負荷は限りなく大きくなってしまう。「頭のよいやり方」は同じパターンを見つけることだ。そうすればひとつのやりかたでさまざまな問題に適切に対処できるようになる。喩えて言えば、一つの公式を覚えただけで100の公式を暗記した以上の効果を発揮できるようなものだ。特殊な問題ごとに解き方を憶える必要がなくなって、憶える要素を激減できる。これだけで学習の困難さは著しく逓減できるだろう。分解と組み立て、分析と総合の方向の違う二つの操作でほとんどの複雑な問題が解ける。もう一度言おう、数学も英語も複雑な問題はまったく同じパターンで解くことが可能である。だから私には数学と英語が別の科目だという気があまりしない。同じ思考パターンを応用しているだけである。脳の中に広い記憶容量を確保する必要がなくなるから、いろいろな分野の情報をためておく余裕ができる。
 こうして、理論経済学に関わる諸問題と専門知識、コンピュータシステム開発、会計学、原価計算、マイクロ波計測器、さまざまな医療用理化学分析器、臨床検査、薬剤、医学などに関する雑多な知識を詰め込む余裕を脳内に作ることができた。問題ごとにさまざまな解法パターンを暗記するような愚かな学習法を採用していたら、とうていこのような膨大な量の知識を収める余裕を脳内に創ることはかなわなかったろう。
 念のために言っておく。数学や英語の複雑な問題だけではない。実はコンピュータシステム開発も同じである。分析と総合、分解と組み立て、「必要なだけの小部分に分解」し、分解が終わったら組み立てるだけ、そういう単純な操作で現実の困難な問題の多くが解ける。解決が困難な仕事も同じである。分解と組み立て、分析と総合でほとんどの仕事が適切に処理できる。あらゆるジャンルに応用が利くというところがこの方法の味噌である。

 生徒たちの中には英語と数学はまったく別物だと考えている人が多い。じつはほとんど同じなのだ。少し深く勉強すればそのことに気がつく。英語が得意だけれど数学が不得意などという人は、じつはまだ勉強の真髄に触れていないだけである。浅い表面的な勉強に終始しているだけだ。

 病院事業の赤字縮小も根室市の財政破綻問題も分析と総合で適切な対策が可能だ。ニムオロ塾が「覚えるよりも考える」教育を声高に言う理由がわかっただろうか。学生時代だけでなく社会に出てから、さらに威力を発揮できる力をつけるための私塾だ。
 そういう力をつけた若い人たちが増えれば根室の30年後は明るい。失礼ながら、いまはそのような能力をもった人材が根室の政財界の要職を占めている人たちには少ない。だから町は衰退し続けている。

 考え抜く習慣をつけるために、ニムオロ塾では考え抜くトレーニングを生徒と塾長の対話の中で実現しているナマの授業の大切さがそこにある。生徒と教師の対話に教育の本質があると思っている。直接的なコミュニケーションでなければ伝えることのできないものがある。わたしはそれを小学校の担任の鶴木先生から教わった。中学の担任の山本先生からも、中学時代に日本史を教えていただいたいま西浜にお住まいの柏原先生からも、昨年お亡くなりになった高校時代の簿記の白方先生、大学時代の恩師である市倉宏祐先生、会計学科の学生なのにちゃっかり内田義彦先生の経済学史講義からも貴重なご意見を学んだ。大学院時代には増田四郎先生の学風やお人柄に学ぶところが多かった。何も学んだのは学生時代だけではない。仕事を通じてさまざまな人から学ぶことが多かった。それは単に知識だけにとどまらない。生き方の実例から学ぶことも多かった。そのあたりは個別にこのブログに書く機会があるだろう。大事なことは、人と人のコミュニケーションでしか伝えられない大切な何かがあるということ。
 ニムオロ塾には、滅多にいないが数学も英語も、両方同時に百点とる奴がいる。そして英語も数学も両方できるようになる生徒が多いのがニムオロ塾の特徴である。折に触れて、数学も英語も同じ思考パターン、分解と統合、分析と総合を応用して問題解説を繰り返していることが影響しているはずである。こうして、いくらか学習の真髄の一端にに触れることができた者たちは数学も英語も成績がトップクラスになってしまうのだろう。皆がそうなって欲しいと願って授業はしているが、なかなかそうはならない。一部の者たちがそうした領域に触れることができるのみである。どのように授業で接したらもっとそういうレベルの高みまで多くの生徒を連れて行けるのか、教え方に関する試行錯誤は果てしなく続く。生徒一人ひとり個性が違うから、ある生徒に有効なやり方が他の生徒に適切かどうかは生徒を見て判断するしかない。これでいいというやりかたなどないのかもしれない。

 社会人になって経験のない大きな仕事を任されたときに、学んだことが生きてくる。デカルトの『方法序説』に書いてある「科学の方法」、分析⇒総合の思考方法に習熟していることが現実の困難な仕事に係る問題解決へ道を切り拓く。


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