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#4803 『向山家の子育て21の法則』(4):方向性の違い Aug. 11, 2022 [55.1 TOSSの水野さんとの対話]

 TOSSという教育団体の代表である向山洋一氏は小学校の先生の経験があり、授業の名人でもあります。水野さんはその授業の着眼の良さと上手さにほれ込んだ、「向山一門」はそういう人々なのでしょう。だから授業の名人がすくなくありません。落語の一門を想像してもらうのが、近いでしょう。ひたすら師匠の芸を真似て近づく、一生修行です。

 わたしが授業について話すときに脳裏に思い描いているのは、ゼミの指導教授だった市倉宏祐教授(哲学)、授業を1年間拝聴した内田義彦教授(経済学史)、大学院でたった3人で1年間薫陶を受けた増田四郎先生(西洋経済史)の三人です。それぞれがその分野では日本でトップレベルの学者でしたから、三人の先生に巡り合えたのは奇跡に近い。授業のうまさなんてものは問題にはなりません、そんなものを学生は求めてません。わたしは三人の先生の学識と思索の深さに触発を受けました。それゆえ、大学以上の教育機関では授業のうまさなんてどうでもよいことと思っています。経済学の分野で、この三人の先生たちがそれぞれの分野で残された業績に匹敵する何かを築けたらうれしい。これら三人の先生は一度も首都圏を離れていません。だから、塾生には首都圏の大学へ行けと勧めています。
 ドイツには「教師は研究者たり得てはじめて教師たることができる:"Leher können nur Leher sein, wenn sie Forscher sind..."」という格言がありますが、その通りだと思うのです。 古里である極東の小さな町で生徒たちに教えながら、わたしは研究者でもあり続けたい。
 
 小学校の先生たちに授業スキルが大切なことはわたしにも同意できますが、大学はまったく違っています。大学の先生は授業のうまさを磨くなんていう人は例外中の例外でしょう。それよりは研究の中身の方がはるかに重要です。そのことは、生徒の発達段階に応じて、理想とすべき授業のあり方が変わることを意味しています中学校と高校はそうした授業の在り方のはざまにあるのです
 中学生になると、成績上位の生徒達には、授業の上手さでは対応できないと思います。この時期は動物的な勘も鋭い、教師のふだんの言動や授業の中身から、学力の高い生徒たちは先生の学力レベルを見抜きます、お粗末だったらいうことを気かなくなります。授業だって聞かなくなるのです。自分で難易度の高い問題集をやっているほうが学力をアップできますから。
 だから、中学校の段階では授業のうまさが必要なのは、1割のトップ層を除いた9割の生徒です。高校生は半分大人ですから、やる気のない生徒に合わせて授業の質を下げる必要はないと思います。自主的、自律的な学習を育むには、中学生よりは厳しい態度で授業に臨んでいい。赤点で落第させていいのです。そうでないと自分たちの学習責任に対する自覚が生まれず、育たぬ、ということになります。ありていに言うと大人になれないとうこと。子どもを大人にするのが高校教育の役割だとしたら、現状の在り様はとってもまずいということになりませんかね。

 どんなに問題をやさしくしても30点以下の成績しか獲れない生徒は落第でいい。国立釧路高専はその基準(赤点)が60点だそうです。もちろん毎年落第者が出ています。そうして初めて、釧路高専卒業者が一定のレベルの学力があることを経済社会に認めさせることができます。しっかり勉強して学力では大人になったことを保障できるのです。基準に達しない生徒を卒業させないことで、卒業生の学力に対する品質保証をしています。

 翻(ひるがえ)って、根室高校生卒業生にはそういう品質保証がなくなりました。どんなに成績が悪くても留年や退学処分はないのです。赤点とっても追試すらなくなりました。どうせ卒業させるのですから不要と考えてのかもしれません。根室高校卒業生が根室の地元経済を支えてきましたが、もはや根室高校を卒業したというだけで、採用はできぬということ。地元企業の嘆きが聞こえてきます。

 小学生じゃあるまいし、宿題もなくても高校生になったら自主的に自律的に学習すべきです。教科ごとに授業の上手な先生たちのYouTube番組が教科ごと単元ごとにフリーでいくらでもありますから、学習意欲のある生徒はどんどん学べます。高校生になっても学習意欲のない生徒は留年させていい。そうすることで「学力の品質保証」が可能になります。

 わたしが一番長く勤務したのはSRLという臨床検査最大手の企業で、16年間仕事しました。上場前と東証一部上場後では入社してくる新入社員の学歴がまるで違いました。20人の募集に1万人の応募なんて年もありました。ところがそういう難関を超えて入社してくる高学歴の社員たちが仕事ができないのです。一橋大卒は合弁会社を含めて6人ほど一緒に仕事していますが、マネジメントができません。京都大の理系学卒の開発課長人とも一緒に仕事していますが同じでした。早慶では一人優秀な人がいました。ベンチャーですが一部上場企業ペプチドリームの創業社長をやってます。SRLの元社長だった近藤さんは慶応大医学部卒の切れ者でした。厚生省の医系技官としても型破りだったとは、早世した同僚のKYから聞いてました(KYの奥さんは東大理Ⅲでした)。
 難関大卒にも人材は案外少ないのです。受験勉強と企業や組織のマネジメントはスキルが別だというだけのことですから当たり前のことかもしれません。
 そういう現実から出発し、社会人になってからでは手遅れ、人材育成のカギは高校以下の学習スタイルにあるという仮説で、古里で小さな私塾をはじめました。
 どの段階で何をすれば、受験勉強バカでなくて、学力とマネジメント力の両方を具有した人材を育てられるのかを探りたかった。20年間生徒たちを指導し観察してみて、おおよそのことはわかりましたね。

 そういうわけで、向山さんの直弟子である水野さんとは授業に対する出発点と方向性が違っていました。それはいろいろな問題を論じているときにも、考え方の違いとして顔を出します。
 
 日本の伝統的な子育てを議論しているときに、方向性の違いがはっきり出てきました。日本の伝統的な子育てを問題にしながら日本の伝統的な性風俗の問題が出てきません。水野さんは知らないわけではありません、以前一度議論してますからご存じですが、伝統的な性風俗には触れないというのが彼の基本的なスタンスです。
 わたしはそこに触れなければ、子育て、子どもから大人への過渡期の性教育は、日本の伝統的なものから大きく外れてしまうと思います。
 市倉宏祐先生も内田義彦先生も増田四郎先生も、おそらく同じことを言います。そういう学風なのです。
 だから、よき教育者であるためにはよき研究者であらねばならぬ、それがわたしのスタンスです。日本の伝統的な子育てを問題にするときに、若衆宿や娘宿の果たした役割を看過するわけにはいかないのです。それを外したら、よき研究者であるとは言い難いからです。

 なぜ、水野さんがよくご存じであるはずの日本の性風俗をとりあげないかは、わたしの考えるところでは、明治の文教政策批判になるからだと思います。若衆宿や娘宿という制度を、富国強兵・殖産興業の名のもとに明治政府の文教政策が徹底的に破壊しました。西欧列強に並ぶためには、欧米のスタンダードから大きく外れる日本の伝統的な性風俗を破壊し、なかったことにするしかありませんでした。そこだけで終わればよかったのですが、いまも文化破壊は学校現場で続いています。高校の古典文学教育がその典型例です。伊勢物語、源氏物語、枕草子、和泉式部物語など、古典文学の背後には日本の性風俗があり、性愛に満ちています。それを授業では取り上げないのです。明治政府の文教政策が、性風俗に関しては令和の時代の学校教育を支配していると言えないでしょうか?
 性教育に関して、性交・妊娠は扱わないという文科省の出所不明の「歯止め規定」もどこかでつながっているように感じます。若衆宿や娘宿の制度では乱交がしばしば行われました(つまり実技の指導もしていました)が、それには厳格なルールがありました。妊娠したら、女の子が男を選べます。身に覚えがある男は結婚を拒否できません。そんなことを知っている中高生はいないでしょうね。学校の先生たちだってご存じない。
 TOSSがなぜその点を指摘しないのか?理由があるはずです。

 水野さんは「win3計画」というブログを書いています。性教育についても積極的に発言し、中標津町の学校で性教育について何度も講演をしています。とっても活動的で立派だと思います。名人芸ですから、伝え方もとっても上手だと思います。
 でも、伝統的な性風俗にはどういうわけかアンタッチャブルです。日本の伝統的な子育てといいながら、その中で重要な役割を果たした性風俗には触れない。つまり、現在の政府の文教政策批判となるような問題には触れないというのがわたしの推測です。水野さんには別の理由があるかもしれませんね。
 水野さんは向山さんの直弟子、しかも高弟です。TOSSの大幹部でもあります。そういう立場があるので、発言に制限があることはあたりまえです。十年来のお友達ではありますが、わたしはそこがとっても気になっています。しかし、それはわたしの問題意識でいえることで、水野さんにとってはどうでもよいことかもしれません(笑)
 1万人のTOSSの先生たちはどのように思うのでしょう?完璧な答えはないのですから、意見が割れて当然だと思います。

  水野さんとわたしは、出発点と目標とするところが異なっています。どちらがいいという話をしたつもりはありません。問題意識も目標も異なっても、お互いに対話はできるし、何か大きな問題があればそれぞれのスキルを活かして一緒に取り組むことだってできます。大事なのは相手を知り、その上でいままでの生き方を尊重するということ。何かを議論して、相手を説得しようなんてお互いに思っていません、それぞれでいい。

 いろいろ書きましたが、水野さんとは意見の一致していることもあるんです。それは就学前教育に学力格差を縮める鍵があるということ。小学校に入学してくるときにはすでに大きな学力格差が存在しています。それをどうやって解消するかが学力格差を縮める鍵の一つです。開けなければならない扉は何枚もあります。
 水野さんの「子育てwin3計画 」はそういうことを目標に立ち上げたもの。この分野での水野さんの活躍を期待しています。彼のもモットーは「親によし!、子によし!世間によし!」です。
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は近江商人の商道徳で、広く商家の家訓となっていますが、これをもじったものでしょう。わたしも弊ブログで繰り返し、「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」を叫んでいます。大切な同士かも(笑)

 ところで夏休みの四日間(8/8-11)が終わりました。毎日雨でしたのでサイクリングにも行けず、悶々としてました。(笑)


 以下は、水野さんがFBで同じ日の夜に書いてくれた返信です。ごまかしがなく仕事が速い点でも特筆すべき人です。(8/11午後10時半追記)


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私は性教育にも関心があります。
日本の伝統的な性風俗にも関心があります。
性のみならず生活全般に関わる民俗学に興味があります。
それは子育ての問題を考える上で必要な情報だと思うからです。
しかし、本やブログの中ではあまり積極的に扱っていません。
それは明治政府や現行政府の政策批判になるからではなく、
私の中で現代の子育てに対して役立つ形にまとめ切れていないからです。
①古典文学の背景←教えるべきだと思います
②歯止め規定←なくすべきだと思います
③若衆宿や娘宿の制度←歴史的知識として必要だと思います
しかし、①②③は知識です。
知識が多い方が自分で考えるためには有益だとは思いますが、社会の仕組みとして現行日本の性教育は不十分だと認識しています。
システムが見えないのです。
良い悪いは別として、江戸後期にはシステムとしてはかなり完成されて(安定して)いたと思います。
しかし、それをそのまま現代に当てはめるには無理があります。
ならばどうすべきか。
私の頭の中はそういう状態です。
中高生男子生徒にYouTubeで「男の授業」を実施しているのはその一つの試みです。
具体的な目的の一つにはDVを減らしたいという思いがあります。男女平等と言いますが、動物として男は女より強い。
DVが減らないのはこの事実を補う仕組みが未完成なのだと捉えています。
そういう意味での「男の授業」です。
男の側に、性交など~子育てにおける全体的な見通しが必要だと考えている途中です。
今回のebisuさんのブログはそのことを振り返るきっかけを与えてくださいました。
感謝です。
win3の意味。まさしくその通りです。
「三方よし」はシステムを評価するときの極めてシンプルなルーブリックだと実感しています。またぼちぼち発信し始めます。
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 わたしも江戸時代の性風俗をそのまま現代に再現しようとは思いません、では、どうしたらいいのか。わたしも試行錯誤で、若い人たちの性の問題をブログで採り上げています。困っています。
結局、問題意識は一緒でしたね。


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