SSブログ
A1. 資本論と21世紀の経済学(初版) ブログトップ
前の10件 | 次の10件

#2948 『資本論』と経済学(12) : 公理書き換えによる21世紀の経済学の創造 Jan. 29, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


11. <公理書き換えによる21世紀の経済学の創造>

 
○資本論の公理・公準
 経済学者で『資本論』の公理・公準の抽出を試みた者はこれまで一人もいない。理由は簡単である、ユークリッド『原論』が視野にはいっている経済学者がいなかっただけ、それゆえ、『資本論』の公理・公準はなにかという問題意識が生まれなかったからだ。
 マルクス自身はユークリッド『原論』に関心がなかったようなので、彼の著作の中に公理・公準に関する記述は見つからない、しかし、『資本論』から、前提としている公理・公準を析出することはできるから、やってみようと思う。

1.労働は苦役である
2.商品には価値がある、価値のないものは商品ではない 
3.商品には使用価値がある、使用価値のないものは商品ではない
 
4.価値には普遍性がある
5.人間労働の質は均一であり、そして平均的な社会的労働力があるとせよ 
6.商品の価値はそれに含まれている人間労働の時間量で決まる
 
7.資本は価値と共に剰余価値を生産する
 
8.際限のない欲望の拡大再生産
9.資本の自己増殖の都合に合わせて際限のない環境破壊を行う  

 マルクスが労働が苦役であるというときは、資本主義的生産過程で労働力商品として買われ、生産手段から疎外されているからである。生産手段から疎外された労働というのは、生産手段の所有者が資本家であり、労働者ではないということ。
 
そういう議論を裏返すと、共産主義社会になり、生産手段が労働者の共有になれば労働は苦役ではなくなるということになる、「労働」をしたことのないマルクスの議論は単純素朴な議論でわかりやすい。
 
こういう議論を推していくと、たとえば大工さんをはじめとしてさまざまな職人は自前の道具(生産手段)を所有しているから、疎外された労働ではなく、マルクスが理想とする「能力に応じて働き。必要に応じてとる」という状態に近いことになる。
 
マルクスは労働が疎外されている根拠に、資本主義的生産過程にあっては生産手段が資本家のものであり、労働者のものではないことに求め、「労働疎外=苦役」図式でものごとを考えている。これは労働をしたことのない学者の空想の産物と言わざるをえない。
 自分のもつ技倆の限りをつくして額に汗して働くことは、案外気分の好いものなのである。マルクスは人間の心の問題を度外視して、ただ生産手段から疎外されていることをもって、労働が苦役であると断じている。本当にそうだろうか?業種と規模の異なる4つの民間会社で仕事をした経験のあるわたしはマルクスに同意できない。

--------------------------------------------------
【用語解説】
公理:①一般に通用する真理・道理 ②真なることを証明する必要がないほど自明の事柄であり、それを出発点として他の命題を証明する基本命題。②’数学の理論体系で定理を証明する前提として仮定するいくつかの事柄 (大辞林より)
公準:①要請に同じ ②[] 一般には、証明されないが、証明の前提として要請される基礎的な命題のこと。ユークリッド幾何学においては、幾何学の作図に関する一群の基本命題を指す。現在では公理と同義であり、両者は区別されない。
---------------------------------------------------- 

 
わたしは自明なことを公理と定義し、「~であるとする」を公準と定義して使い分けようと思う。一番大事なのは第一の公理「労働は苦役である」、これがヨーロッパの経済学に共通の労働観である。「ヨーロッパの経済学」と書いたが、もちろん、日本の伝統文化に根ざした経済学を念頭においている。職人中心の経済学の公理公準を参考までに述べておくと、公理系の一部を入れ替えると同時に、四つ追加が必要である。追加された第4~第7の公準は、日本的情緒に基づく倫理基準でもある。 

1.仕事は神聖なものであり、歓びである ⇒第1の公理
2.商品には価値がある、価値のないものは商品ではない ⇒第2の公理 
3.商品には使用価値がある、使用価値のないものは商品ではない ⇒第3の公理
 
4.価値には普遍性がある ⇒第4の公理
5.一人前の職人の仕事は職種を超えて同一であるものとする ⇒第一の公準 
6.商品の価値量はそれに含まれている一人前の職人の仕事量で決まるものとする ⇒第2の公準
 
7.名人の仕事の質は無限大であるとする ⇒第3の公準
 
8.名人の仕事の質は一人前の職人の仕事の質と比較できない ⇒第5の公理
9.資本の運動は利潤を生み、生産性増大は利潤を増大させる ⇒第6の公理
10.小欲知足:欲望の抑制 ⇒第4の公準
11.生産力と環境との調和 ⇒第5の公準
12.売り手よし、買い手よし、世間よしの三法よし⇒第6の公準
13.浮利を追わぬ ⇒第7の公準


  仕事が神聖なものであり、喜びであるというのは日本人が古代から受け継いできた伝統的な考え方である。A.スミス、リカード、マルクスの労働観(労働=苦役)とはまったく異なる。
 
公理系を入れ替え四つ付け加えることで別の経済学が誕生する。第一の公理と第4~7公準は日本の伝統的な価値観に基づく。第1の公理は縄文時代から育んできた日本の伝統文化や天孫降臨神話と密接な関係がある(天孫降臨神話との関係は第23章「村落と税」の「贄と仕事観」で扱う)。 
 ‘78’はピカソの絵や長谷川等伯「松林図屏風」、奇想天外な写実画家「群鶏図」「風神雷神(屏風図)」の伊藤若冲を想像してもらいたい。ピカソや等伯、若冲の絵の価値は彼らがその作品を生み出すに要した仕事時間で計量できないことは太陽が東から昇るのと同じくらい自明である。
一人前とは、熟練度の社会的平均値であり、それぞれの職種の職人が一人前になるまでに要する修業期間510年間を想定する。
 
剰余価値生産のところでマルクスは困ったのではないだろうか。資本家的生産関係では生産物の価値は原材料や生産手段を費消した分と労働力の対象化によって付加された価値と剰余価値に分裂している。それが市場関係では市場価値として止揚される。資本家的生産関係で価値と剰余価値を現在使われている一般的な用語におきなおすと、「生産コスト+利潤=生産価格」であり、生産性増大が生産コストを抑え、市場価格との差が拡大して利潤(相対的剰余価値)を増やす。36年ぶりに資本論を抜き読みしてみたのだが、この辺りはじっくり読み直す必要がありそうだ。*-1コンピュータとネットワークと機械の新産業革命:ロボット工場はすでに現実】)

(資本論が世に出てから150年が過ぎたが、資本論が前提にしている公理・公準を俎板に載せた議論は初めて。資本主義国では日本が世界で一番マルクス経済学者が多いのだが、その日本ですら、こうした議論や研究がなされなかったことは、日本の学術研究の陥穽を如実に示すものである。専門化・細分化しすぎて、議論が深いところへ届かないばかりでなく、研究の視野が狭い。高校から、文系と理系を分けてしまう教育の弊害でもある。高校と大学に数学の得意な文系の科をつくるべきなのだろう。日本的情緒を育む文学作品に親しみ、なお数学が大好きだというのは人口の1%未満の学力エリートだろう。日本的情緒と高度な抽象数学を理解できる「鬼に金棒」の人材、国家戦略上、そういう人材を意識して育てるべきだ。)
 

○資本主義社会の富は巨大な商品集積として現れているから、それを構成する最小のエレメント(要素形態)たる商品をマルクスは体系の端緒に措定した。そしてあらゆる概念的関係を排除したその原初的定義を行う。もっとも単純なものとしての商品の概念規定。
  
価値と使用価値(価値の二重性)
  
抽象的人間労働と具体的有用労働(労働の二重性)

 
 同じ演繹的な体系であるユークリッド『原論』は円を二つ使った正三角形の作図からはじめている。ユークリッドも「単純なものから複雑なものへ」という手順で体系を演繹的に叙述・展開していく。(三平方の定理は第1巻第47章、中3の学習内容の弧と円周角、円周角と中心角の関係は第3巻第27章) 

○第1章第3節「価値形態」‘A 単純な、あるいは偶然的な価値形態’
 X量の商品Ay量の商品B、あるいはx量の商品Ay量の商品Bに値する。
 
20メートルのリンネル=1着の上着、すなわち20メートルのリンネルは1着の上着に値する。)ラシャトル版『資本論』18ページ

A 単純な、あるいは偶然的な価値形態
 
(a)価値表現の両極、価値の相対的形態と等価形態
 
(b)相対的価値形態
 
(c)等価形態とその特色
B 総和の、あるいは発展した価値形態(a)発展した相対的価値形態(b)特殊な等価形態(c)総和の、あるいは発展した価値形態の不備
C 一般的価値形態(a)価値形態の性格の変化(b)相対的価値形態と等価形態の発展関係(c)一般的価値形態から貨幣形態への移行
D 貨幣形態
● 流通過程での定義使用価値と交換価値⇒交換価値は他の商品から独立して貨幣(金)となる 

● 資本主義的生産過程での定義
    生産の三要素:生産手段、原材料、労働力
    
労働量=労働強度×時間
   
商品の生産価格
    それぞれに費やされた価値+剰余価値


  価値表現形態を単純なものから複雑なものへ並べてみる。ここで不等号は複雑度の大小関係を表す。 

 「単純な、あるいは偶然的な価値形態」<「総和の、あるいは発展した価値形態」<「一般的価値形態」<「貨幣形態」

 マルクスは交換関係において価値表現形態を単純なものから次第に複雑なものへと展開している。交換関係では貨幣は資本へ展開できない、だから、概念的関係の拡張が行われ生産関係に措定されることで貨幣は資本形態をとることになる
 マルクスが記述した「生産過程」日本の現実と大きくことなるが、その辺りのことなると日本の経済学者はまるで知識を持ち合わせていない。日本とヨーロッパや米国は事情が違うのである。真実は目の前にある、足元を見よと言いたい。
*-2【日本の工場部門と事務部門における「改善」と生産性向上】)
  

 マルクス自身が編集したのはここまでである。ここからは論理的な体系構成がどうあるべきか私見を述べたい。
(第2部は1885年にエンゲルスが編集して出版した、第3部は1894年にエンゲルスによって編集・出版された。マルクスは1867年に資本論初版を出版し、1872年に資本論のフランス語版を出して、11年後の188364歳で亡くなった。この年はエンゲルス編集の資本論第3版が出版されている。) 

     市場関係の定義
 
市場価格 

     国内市場と国際市場での定義
 
国際市場価格⇒比較生産費説の導入

     世界市場
 資本や生産拠点が国境を越える。グローバリズムコンピュータとインターネットが経済社会のあらゆる分野に入り込んでいく売っても減らない商品の出現CDDVD、ゲームソフト、さまざまな種類の名簿等々、デジタルコピーの時代人類の生存環境を脅かすほどの生産力増大と過剰富裕化現象1920年代の米国に始まると馬場宏治先生が書いている)の出現 

[結論-1
 資本論は演繹的な構成をもっている。概念的関係が演繹的・段階的拡張されるにしたがって、商品は具体的で現実的になる。マルクスは段階的に概念的関係を拡張し、用語をその都度再定義して経済学体系を記述しようとした。

 [結論-2:ヘーゲル弁証法の破綻]
 テーゼとアンチテーゼ、そしてそれらを統合するジンテーゼ、対立物の矛盾を論理の展開動力にするのが「ヘーゲル弁証法」だが、上向展開論理にヘーゲル弁証法を持ち込んだことがプルードンとマルクスに共通する間違いだったのではないか。
 
商品に内在する価値と使用価値のうち、価値は価値表現関係や生産関係、そして市場関係でより具体的な内容を獲得していくが、使用価値はそのままである。20エレのリンネルの使用価値はリンネルがもつ使用価値であり、布が縫われてワンピースに変われば使用価値も変わるのではないかといっても、原材料として使われて別の製品(この場合はワンピース)に生まれ変わり別の使用価値をもつことになるだけ。リンネルがもつ原材料としての使用価値は失われワンピースという製品の使用価値に変わるのみ。ところが単純流通では価値は交換価値となり、生産関係では資本家的生産過程で価値と剰余価値を生み出す。市場関係では価値は市場価値(あるいは市場価格)となる。市場関係では競争が導入されるから、個別企業の「生産コスト+剰余価値」と市場価格の乖離という問題が生ずる。ヘーゲル弁証法の「正」=生産価格と「反」市場価格と考えたくなるが、それは同じ「価値」の存在形態であって、価値と使用価値がより具体的な概念的関係で形態転化を遂げての対立ではない。商品の使用価値は使用価値のままである。
 
上向論理の展開動力に対立物の矛盾は必要がないどころか邪魔ものとなっている。正・反・合のヘーゲル弁証法は要らない。ユークリッド『原論』にもそういうものはまったくない。拡張されていく概念的関係は、それ自体を比較検討すれば、容易にその大小関係の判別がつくから、それにしたがって概念的関係の展開系列を決めればよいだけであり、実にシンプルである。
 資本家的生産様式で貨幣は資本となり、交換価値は(生産)価値と剰余価値に劇的な形態転化を遂げるが、対立物であるはずの使用価値は変わらない。生産過程では原材料の使用価値は原材料としての有用性にあるだけ。「なぜだ!」、ヘーゲル弁証法を学んだ者にはそういう疑問が出るのは当然だ。マルクスは上向の展開論理で「弁証法」にこだわったから行き詰ったというのがわたしの結論である。

 2項対立はシンプルでわかりやすいので広く受け入れらたが、3項やもっと多変数のときには処理できない。世の中のものごとは無限の変数で動いているから、思考実験での二項対立はものごとをシンプルに考える上で有効な方法であるが、おのずと限界がある。マルクスはヘーゲル弁証法の限界を『資本論』を書くことで知ったのだろう。マルクスは『資本論初版』の20年前、1847年にエンゲルスと共著で『共産党宣言』を書いているから、いまさらヘーゲル哲学では経済学が描けないとは言えなかったのだろう。階級闘争史観が誤りであることを自ら認めることになるからだ。
 経済学の体系に則して
もう少し具体的に書くと、生産過程を通過すると原材料としての使用価値を持つ毛織物は上着という使用価値に変わる。そして費やされた労働力と生産手段の損耗度合いに応じてそれらが製品の価値となる。だがそれだけでは足りない、資本の運動は生産過程で剰余価値も生み出す。つまり、変数が使用価値、価値、剰余価値の三つになったわけだ。ヘーゲル弁証法は2項対立であるから、3項の処理ができない。ここに来てマルクスは途方にくれただろう。だから第2部を書けなくなったというのがわたしの推論である。


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25

 #2936 『資本論』と経済学(2):「1.経済現象と日本の国益」 Jan. 26, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-26

 #2937 『資本論』と経済学(3):「円安はいいことか?80⇒120円/$の威力」 Jan. 27, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27

 #2938 『資本論』と経済学(4) : 「経済学とは?」 Jan. 27, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-1

 #2939 『資本論』と経済学(5) : 「『資本論』の章別編成」 Jan. 27, 2015  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-2

 #2941 『資本論』と経済学(6) : 「マルクス著作の出版年表」 Jan. 29, 2015   
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-1

 #2942 『資本論』と経済学(7) : 「デカルト/科学の方法四つの規則」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-2

 #2943 『資本論』と経済学(8) : 「ユークリッド『原論」 Jan. 29, 2015   
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29

 #2944 『資本論』と経済学(9) : 「何をやりつつあったかは残された文献に聞け」 Jan. 29, 2015    
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-1

 #2945 『資本論』と経済学(10) : 「プルードン「系列の弁証法」 Jan. 29, 2015    
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-2

 #2947 『資本論』と経済学(11) : 「労働観を時間座標系においてみる」 Jan. 29, 2015     
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-4




にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 

経済学 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村


#2947 『資本論』と経済学(11) :「労働観を時間座標系においてみる」 Jan. 29, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


10. <労働観を時間軸座標系においてみる:経済成長の極限> 

 奴隷制社会と農奴制社会を経験しているヨーロッパおよび中国、借金を返済できずに隷属民となる例はあるが奴隷制社会を経験していない日本は労働観に決定的な違いがあることを指摘しておきたい。労働は苦役であるというのは特殊ヨーロッパ的あるいは中国的な労働観であり、普遍性をもちえない。それぞれの地域において歴史的にさまざまな労働観が育まれたのだろうと思う。
 
古代ギリシア都市国家においては労働をするのは奴隷だった。特権市民は労働しない。その伝統は帝政ローマへも引き継がれた。こうしたヨーロッパの歴史が労働への蔑視を生んだのではないか。
 
わが国では国が成り立つ以前の縄文時代から続いている村落共同体のあり方や天孫降臨神話が、働くことや仕事に対する考え方の違いを生み出したように思えるので、横道にそれて#20で取り上げる。
 
古代エジプトやメソポタミア、インド、中国ではどうだっただろう。こういう風に並べてみると「特殊ヨーロッパ的な労働観」の意味がいっそう鮮明になる。この小論のテーマに関連する限りでは、ヨーロッパの労働観を取り上げるだけで十分だろう。 

【過去系列】
(1) 古代都市国家およびローマ帝国での特権市民と奴隷や農奴 
(2) 初期:東ヨーロッパ人の奴隷化:貿易支払いのための奴隷狩り
 
(3) アフリカ人の奴隷化
 
(4) 第一次産業革命
 
(5) 米国南部での奴隷需要増大
(6) 米国北部工業地帯で労働力商品の不足状況の現出
 
奴隷解放(1862年)=安価な労働力商品として黒人奴隷を解放して、北部工業地帯の労働力需要を満たす⇒ 米国の生産力の飛躍的拡大と世界支配開始
(7) 資本主義の第2段階開始:米国の勃興と白人帝国の世界支配の時代⇒帝国主義と植民地化政策資源収奪や低価格での一次産品収奪のための植民地政策。
(8) 白人帝国主義国家対アジアの戦い:日露戦争で有色人種の国が白人帝国に世界初勝利 
(9)
大東亜戦争での日本の敗北と、日本の戦いに意を強くしたアジア各国が白人大国から次々に独立。 

【現在進行系列】 
(10) グローバリゼーションの時代:米国製ルールの押し付け(規制緩和、TPP、国際会計基準など)
 
(11) 第二次産業革命:機械とコンピュータとインターネットが融合する時代。それ以前に比べて工場の生産性が数十倍になる。企業間競争の主戦場はソフトウェアとサイバー空間へ移る。
 

【未来系列】 
(12) 第三次産業革命の時代(百年後):
 量子コンピュータネットワークの世界。
現在の性能向上速度を延長すると、コンピュータの性能は百年後に現在の2億倍になる。物の生産に人間の手は要らない時代となる。現在のコンピュータの2億倍の性能を持つ人工知能がわずか5cmのキューブサイズになる。ネットワークにつながれた人工知能とロボットが工場生産のすべてを支えるから、生産に人間が邪魔になる時代、人間の存在理由がなくなりかねない危ない世界でもある。どれほど優れた人間よりも、人工知能搭載人型ロボットのほうがはるかに性能がよい製品をつくり、サービスを提供する世界が現出してしまったら、人間は労働者でも職人でもいられなくなる
 コンピュータの処理速度や記憶容量が2億倍にもなってしまったら、人工知能搭載人型ロボットと競争しても、性能の面でもコストの面でも人間が勝てるわけのない時代の幕が開けてしまう、百年後の人類はどうやって職を探すのだろう?
 
量子コンピュータがパンドラの箱を開ける鍵でないことを願うが、便利さを追い求め、欲望の拡大再生産を続ける人間が自らの手で経済成長(=拡大再生産)や利便性追求、そしてあくなき利潤追求を止めることができるのだろうか?強い懸念を表明せざるをえない。
 こうして過去・現在・未来の系列を俯瞰してみると、無限に自己増殖する資本はまるで癌細胞のようで、未来がこういうものだとしても、わたしたちは資本の自己増殖をとめることができるのだろうか?
 
資本の増殖の背後には人間の欲望の無限の自己増殖があるのだが、人間の欲望を超えて資本が自己増殖する時代がコンピュータとネットワークの進化によって百年後に来る
 
過去30年間のコンピュータの計算速度とメモリーの拡大速度を前提にすると、おおよそ百年後に処理速度も記憶容量も2億倍になり、コンピュータもネットワークも人間のコントロールを離れてしまう。コンピュータとネットワークとそれに接続されたさまざまな機械が人間のコントロールを離れて自立的に動く世界、そしてそれをとめるすべはおそらく人間にはない。
 これから一世代、どんなに遅くとも二世代の間に、小欲知足の価値観に基づき、肉体を使う仕事へ回帰して、過剰な便利さを排除する、職人中心の経済社会を創るべきなのだろう。無限の成長は癌細胞そのものである、無限の経済成長や道具の進化を追うのはそろそろやめにすべきだとわたしは思う。
 その一方で、生物進化はとめられないものだと仮定するなら、人間は経済成長や利便性追及の果に、絶滅せざるを得ないのだとも考えるのである。人類は自らの欲望を抑える叡智があるだろうか?
 


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25

 #2936 『資本論』と経済学(2):「1.経済現象と日本の国益」 Jan. 26, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-26

 #2937 『資本論』と経済学(3):「円安はいいことか?80⇒120円/$の威力」 Jan. 27, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27

 #2938 『資本論』と経済学(4) : 「経済学とは?」 Jan. 27, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-1

 #2939 『資本論』と経済学(5) : 「『資本論』の章別編成」 Jan. 27, 2015  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-2

 #2941 『資本論』と経済学(6) : 「マルクス著作の出版年表」 Jan. 29, 2015   
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-1

 #2942 『資本論』と経済学(7) : 「デカルト/科学の方法四つの規則」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-2

 #2943 『資本論』と経済学(8) : 「ユークリッド『原論」 Jan. 29, 2015   
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29

 #2944 『資本論』と経済学(9) : 「何をやりつつあったかは残された文献に聞け」 Jan. 29, 2015    
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-1

 #2945 『資本論』と経済学(10) : 「プルードン「系列の弁証法」 Jan. 29, 2015    
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-2

 #2947 『資本論』と経済学(11) : 「労働観を時間座標系においてみる」 Jan. 29, 2015     
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-4


経済学 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 

#2945 『資本論』と経済学(10) : 「プルードン「系列の弁証法」 Jan. 29, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


9. <資本論体系の特異性とプルードン「系列の弁証法」>

  一番大事な点:資本論は数学と同じ演繹的体系をなしている経済学が経験科学なら、データに基づいて帰納的に法則を導き出し、理論を構築するのという方法論をとるはずだが、マルクスはそうはしなかった。はじめに方法論ありきだった。
 
経済学の研究という点から見るとじつに運のよいことにマルクスは1849年に英国に亡命し、1850年から大英図書館で経済学の研究をし始めるA.スミス『諸国民の富』やD.リカード『経済学および課税の原理』はよく読みこんでいる。経済学の本を読み、経済学の基本概念はなにか、その相互関係はどうなっているのかということに関心をもち何年間も執拗に追い続けたようで、その跡が著作年表や一連の著作から読みとれる。1858年『経済学批判要綱』(以下『要綱』と略記)での、「流通過程分析⇒価値形態(価値表現形式)⇒商品の基本概念分析」に下向分析の足跡がはっきり記されている。資本の原始蓄積過程における生産性上昇による生産力増大、そして資本の加速的な増殖が労賃の高騰を招くというような法則性抽出は、データの読みと内省的な思考の結果である。
 ヘーゲル哲学にとらわれすぎると、それを超えたところにある『資本論』体系が見えなくなる。ヘーゲル哲学に戻って考える必要はない。『資本論』第1部をよく読めばいいのである。
 方法論に注目すると、同時代のピエール・ジョセフ・プルードン1809/1/15-18651/19、マルクスより9歳年上)に系列の弁証法がある。 
   プルードンの論理的系列は思考作用の抽象過程をあらわすものであると同時に、「その結果としてえられる抽象的・一般的な概念の構造を表す」(佐藤茂行著『プルードン研究』109ページ、昭和50年出版)ものであると考えていた。アンダーラインを引いた箇所は、そのまま『資本論』に当てはまる。
プルードンはフランス人だからデカルト『方法序説』(いまでも高校国語の教材に採り上げられている)は読んでいるはずで、その延長上に自分の思考を積み重ねたのだろう。デカルトよりは踏み込んでいる。弁証法がこの時代の流行だったのだろう、しかし、ヘーゲル弁証法という余計な夾雑物が混じることで上向の論理の道をプルードンもマルクスも踏み外してしまった。
 
A.スミスが諸国民の富の原因と性質を明らかにするものとして経済学を捉えたのに対して、プルードンは経済学を貧困を実証する手段として捉えた。そして自らの経済学体系を「系列の(ヘーゲル)弁証法」で叙述したのである。

---------------------------------------------
「「経済学」を貧困の原因の探求の科学としてではなく、貧困の実証の科学として評価するに至ったのであった。言いかえると、これまでの経過から判明するように、プルードンが経済学研究に取り組んだ際の問題関心は、現実的な「条件と財産の不平等」の究明であった。パリでの研究を通じて、かれにとって「経済学」は、この「不平等」の原因を究明する手段ではなく、これを実証する手段として、そしてその限りで有効なものとして評価されるに至ったわけである。」同書188ページ 「プルードンの経済学体系は、平等=正義を分類主題として、「政治経済学」のカテゴリーを批判的に再編成した、いわば古典経済学批判の体系である。そこでは、まず、「分業」「機械」「競争」などのカテゴリー(類概念)が、平等=正義を区分原理として、それに対する肯定と否定の規定(種概念)にあらかじめ二分されている。…このようにして、相互に「アンチノミー」の関係にある概念の系列、すなわち「矛盾」の体系が成立する。…以上のような体系の構成の原理は、1843年の『人類における秩序の創造について』の中の「系列の弁証法」によって確立していたのであった。」同書238ペー
---------------------------------------------

 
アンダーラインを引いたところは『資本論』商品章の価値と使用価値が相互にアンチノミーの関係にある概念として扱われ、価値形態でそれが交換価値と使用価値という概念の系列となって現れている。しかし、一連の著作の中でマルクスは系列の弁証法に一度も言及していない。プルードンの『人類における秩序の創造』(以下『創造』と略記)は資本論初版よりも24年も前に書かれている。マルクスが最初の経済学に関する著作『経済学・哲学草稿』を出版したのが261844年、つまりプルードンの『創造』の1年後のことになる。プルードンのこの著作のドイツ語版があったのかどうかは書誌学者の研究に任せたい。
 
方法論としてはほとんど同じであるのに言及していないというのは、この場合は利用したと受け取っていいのだろう。シンプルに言うと、プルードンの「系列」とは上向の系列であると理解してよい。マルクスが上向論理で行き詰ったのは、系列の弁証法を意識したか、同じことだがヘーゲル弁証法を『資本論』の論理展開エンジンに用いたためであるように思う。それはまったく必要のないことだった。
 
アナーキストのプルードンとは、思想においても方法論においても、コミュニズムを提唱したマルクスは明確な線を引いておきたかったのではないか。マルクスは古典派経済学から学び、その基本的な概念を析出しそれらの相互関係を突き止める作業が必要だった。そこさえきっちり押さえれば、系列の順序はおのずから明らかになった。『要綱』がそういう研究過程を明らかにしてくれているから、プルードンの系列の弁証法から学ぶ必要はなかった。『資本論』研究文献でプルードンの系列の弁証法に言及したものを見たことがない。体系構成についてプルードンとの比較分析の余地がある。

 ついでだから、もうすこし掘り下げて具体的に論じてみたい。1866年のエンゲルス宛の手紙にあるように、マルクスには上向の系列が途中から見えなくなったことがわかる。事実に即して言えば、交換関係から貨幣を媒介として生産関係へと概念的関係を拡張した後、どのように体系を記述すればいいのかわからなくなった。下向分析で見つかった上向系列が生産関係で行き止まってしまった。単純な市場関係を展開した後、「国内市場と国際市場」関係へと概念的関係を拡張し、世界市場関係へと至る道がマルクスの採るべき上向系列だった。ところが、資本論初版が出版された1867年にはまだ世界市場は出現していない、そこに気がついて困惑した可能性がある。マルクスの時代に『資本論』を完成することは無理だった、世界市場は実証研究がその背後になければ描きえないのである。あの時代にはリカードの比較生産費説があるだけだったが、それで世界市場を描くことはできない、貧弱すぎるのである。この点から、経済学は経験科学の一つで、なおかつ演繹的体系構成をもつ面白い学問分野であることがわかる。
 院生のときに、リカードの国際市場論について小論を書いた。その折にマルクス『資本論』と比較しながらリカード『経済学および課税の原理』を読んだ。修論で『資本論』の体系構成の最後の環である世界市場関係に見通しをつけるために、リカードの国際市場論は一度読んでまとめ、中身の検討をすべきだと考えていたのだが、単純な国際市場関係とその完成形態である世界市場関係を概念的に区別するとしたらどうなるのかまったく見通しが立たなかったのである。もちろん、今日のグローバリズムや機械とコンピュータとインターネットが融合したサイバー空間が現実の世界にあるはずもなく、不可能だったと言わざるをえない。そのころからマルクスの労働観への違和感も大きくなりつつあった。


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 


#2944 『資本論』と経済学(9) : 「何をやりつつあったかは残された文献に聞け」 Jan. 29, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


8. <マルクスが『資本論』で何をやりつつあったかは残された文献に聞け>

 マルクスが資本論で何をしようとしたのかについては定説がない。マルクス自身が資本論第1部を書いて、そのあと草稿を書き散らしただけで、どのようにまとめたらいいのかわからないと吐露している。だから、1858年に書かれた『要綱』段階のマルクスの構想で資本論を整理してはいけない、マルクス自身が1866年に体系の見通しが立たなくなったとエンゲルス宛に書いているのだから、その言を尊重すべきであり、マルクスがなぜ行き詰ったのかを合理的に説明できなければならない。この大きな謎を解いた経済学者はいない。謎を解く鍵はヘーゲル弁証法にある。経済学体系構成にヘーゲル弁証法を利用したのはプルードンとマルクス二人だけである、後にも先にも例がない。

 マルクスは研究が行き詰ったことをエンゲルスへの手紙で吐露しただけだから、彼が資本論で何を目論んだのか本当のところがわからないままである。だから、エンゲルスが古い構想に基づいて第2部以降を編集したように、他の経済学者が資本論を読んで独自の理論体系を構築する余地が残された
 
たとえば、マルクス経済学では宇野シューレが最大派閥であるが、宇野弘蔵は理論構成を三段階(原理論・段階論・現状分析論)に分け、資本論を経済学原理論と位置づけた。『要綱』日本語版が出版されていない段階での研究だから、マルクスがやって見せた下向分析の過程を丹念に追わずに、結果の『資本論』を徹底的に読み込んで自分なりの思考を重ね、別の理論体系をつくってしまった。これはこれで面白い。
 
宇野氏は『資本論初版』序文にある、次の章句を何度も読み返し、塾考を重ねたのだろう。

 「物理学者は、自然過程を観察するにさいしては、それが最も内容の充実した形態で、しかも撹乱的な影響によって不純にされることが最も少ない状態で観察するか、または、もし可能ならば、過程の純粋な進行を保証する諸条件の下で実験を行う。この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。その典型的な場所は、今日までのところイギリスである。これこそは、イギリスが私の理論的展開の主要な例解として役立つことの理由なのである。」 

 
マルクスの『資本論』を読めば読むほど迷路を彷徨うことになる、高校2年生のときにそういう強烈な体験をした。大きな森の中に入り込んで方角を失ったのである。それ以来、この巨大な知の森にもう一度分け入り、通り抜けてみたいと思い続けた。見通しがつくまでなんと約40年も掛かってしまった。
 大御所の宇野弘蔵はマルクスが『資本論』を書いている途中で、肝心の体系構成の方法論で破綻したとは考えなかった。マルクスは『資本論初版』第一部を書き上げて気がついてしまった。だから、エンゲルスにも第2部以降の体系化はとても無理だと手紙で書き遺した。実際に、第2部以降の体系化作業をマルクスがやることはなかった。


 資本の原始蓄積が最初に始まったのは18世紀英国で資本主義の最初の典型例であった。その後百年たった19世紀中葉の米国では北部工業地帯で原始蓄積が始まり、南部の奴隷を工場労働者として労働市場へ投入する必要が生じた。いま資本の原始蓄積過程にあるのは中国やインドである。原始蓄積が始まれば、労働者の雇用数が増大し、賃金が高騰する。だが、それは資本蓄積を阻害することのない範囲であると、マルクスは「第七編 資本の蓄積」で指摘している。資本蓄積の進行は労賃変動の根源である。英国が研究対象となったのは当然である。
宇野『価値論』は読むほうが辟易するくらいしつこいが、しつこいからこそ独自の理論体系を造り、大きな学閥となりえた。わたしは宇野氏の『価値論』の論理展開しつこさに辟易すると同時に敬意を払いたい、学者はあれぐらいしつこくなければいけない。

 
宇野弘蔵『経済学方法論』について、宇野学派の俊英、馬場宏治先生が感想をもらしている。
---------------------------------------------------------------
「方法論なんてものもね、型にはまった図式化できるのが方法論だとは僕は思っていない。俺何やってきたってあとから考えてみて、こうなっていたのよってのが方法論じゃないかと思う。宇野先生の『経済学方法論』、宇野さんの書いた中で一番つまらない、あれは病気のせいもあるだろう。だけどそうじゃないんで宇野さん、本当の方法論書こうと思ったからしんどかったんじゃないか。教科書風な、変な書き方、堅い書き方になっていますよね。」(青森大学研究紀要第33-1号 20107月「社会科学を語る(続)」馬場宏治・戸塚茂雄)

 方法論については馬場先生のいう通りだと思う。マルクスもヘーゲル弁証法を真正面に押し捲ったが、研究が進んでくるとヘーゲル弁証法とは違うところにでてしまった。あとから自分の研究過程をみて、方法はこうだと書けばよかったのだろう。 マルクスに代わってその作業を試みるのがこの論考の主要な目的の一つである。
 
宇野氏が数学に興味があるかあるいは『要綱』が出版されていれば、丹念に読んで別の理論体系を構築した可能性はある、それにしても、宇野氏はドイツ語を読むのにそれほど困難があったわけではないから、『要綱』をドイツ語版で読めばよかったのだ。『経済学批判』と『資本論』を読んでいれば十分だと判断したのだろうか、わたしにはその点が疑問である。   


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 

経済学 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村

#2943 『資本論』と経済学(8) : 「ユークリッド『原論」 Jan. 29, 2015   [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


7. <学の体系構成法の視点から見たユークリッド『原論』>

 この章が本稿でもっとも重要な部分の一つである。学の完成された体系構成はユークリッド『原論』以外にはない。
 高校生には「ユークリッドの互除法」が教科書に載っているから馴染みがあるだろう。ユークリッドの人物についてはどこで生まれてどこで育ったのか、記録が残っていない。しかし、実在したことだけは確かである。アルキメデス(287年ごろ~212B.C.)がその著「『球と円柱について』の第1巻の第2命題の証明の中で「ユークリッド(の『原論』)の第1巻命題2により」と記してある。
(ユークリッド『原論』より、「ユークリッドと『原論』の歴史」437㌻。訳・解説 中村幸四郎・寺阪英孝・伊藤俊太郎・池田美恵 共立出版社1971年初版、以下『原論』と略記)
 ユークリッドはプラトンの直弟子たちと同世代である。

 
 『原論』は公理・公準の説明に続いて、同じ半径の円を二つ使った正三角形の作図から幾何学の解説を始めている。第1巻は平面図形の性質がとりあげられている。『原論』は平面幾何学だけではない、数論や立体幾何学、正多面体にまで及ぶ。
 
79巻は「数論」を扱っている。ここで面白いのは、線分の長さの区切りに数字ではなく文字が充てられている点で、広義の意味での代数学も含まれていると考えてよいのだろう。第7巻の冒頭には23個の定義が並んでいる。大雑把にその順序を書くと次のようになる。
 
 単位⇒数⇒割り切れる数と割り切れない数⇒約数⇒偶数と奇数⇒偶数や奇数の除算の商の分類⇒素数の定義⇒互いに素⇒素数と合成数⇒平面数:二つの数の積で表される数⇒立体数:三つの数の積で表される数⇒平方数:等しい数に等しい数をかけたもの⇒立法数⇒比例数⇒相似な平面数と立体数は比例する辺をもつ数である⇒完全数:自分自身の約数の和に等しい数 

 
数論の定義は単純なものから複雑なものへという順序で並んでいる
 
最終巻の13巻第16章では正二十面体がとりあげられている。

 「正二十面体をつくり、先の図形のように球によって囲み、そして正二十面体の辺が劣線分とよばれる無理線分であることを証明すること」(『原論』427頁)

 立体図形、しかも正二十面体の辺が有理数ではなく無理数であることを証明せよというのである。球の直径を有理線分(有理数)としたときに20個の等辺三角形(正三角形)の各辺の長さが無理線分(無理数)になる証明が載っている。

 『原論』は平面幾何学と数論そして立体幾何学に及んでいる。全体が統一の取れた体系というよりは、いくつかの部分に分かれているといったほうが事実に即しているだろうか。全体の展開順序はこのようになっている。
    平面幾何⇒数論⇒立体幾何
 平面幾何と立体幾何の間に数論の挟まっているのがどうにも不細工にみえるが、数論を扱わぬわけにもいかない。平面に高さという要素を加えたものが立体であるから、単純さを尺度にすると、次の不等式が成り立つ。
    
平面図形<立体図形
 
ここでも単純なものからより複雑なものへという展開系列の順序が守られている。

 第1巻の平面幾何は、重なり合う半径の同じ二つの円で等辺三角形を描くことから始められている。平面を二つの線分で囲むことはできない、三本の線分で囲まれた三角形がもっとも単純な平面図形である。三角形の内では等辺三角形がもっともシンプルで美しい。三角形を3分類して並べると、「等辺三角形⇒二等辺三角形⇒不等辺三角形」の順序になるが、第1巻は等辺三角形のあとに三角形の等積変形が来て、そして平行線の性質が導かれている。

 マルクス『資本論』との関係でいうと、注目すべきは公理・公準と作図の展開順序の2点に絞られる。第1巻の図形の性質は、もっとも単純な平面図形、(半径の同じ円二つを使った)正三角形の作図が最初におかれている。数論の定義の並び順も「単純なものから複雑なものへ」という系列になっていることはもうお分かりだろう。
 
1巻は「定義」⇒「公準」⇒「公理」⇒単純な図形の作図(正三角形)という順に展開されている。定義は23個あり、公準(要請)は5個、公理(共通概念)は9個並んでいる。定義は「点⇒線⇒線の端⇒直線⇒面⇒平面⇒…⇒平行線」

体系構成で最も重要な公理・公準はユークリッド『原論』では次のようになっている。
公準(要請)
 次のことが要塞されているとせよ。
1.       任意の点から任意の点は直線を引くこと。
2.       および有限直線を連続して一直線に延長すること。
3.       および任意のテント距離(半径)とをもって円を描くこと。
4.       およびすべての直角は互いに等しいこと。
5.       および1直線が2直線に交わり同じ側の内角の和を2直角より小さくするならば、この2直線は限りなく延長されると2直角より小さい角のある側において交わること。

公理(共通概念)
1.同じものに等しいものはまた互いに等しい。
2.また等しいものに等しいものが加えられれば、全体は等しい。
3.また等しいものから等しいものがひかれれば、残りは等しい。
4.また不等なものに等しいものが加えられれば全体は不等である。
5.また同じものの2倍は等しい。
6.またおなじものの半分は互いに等しい。
7.また互いに重なり合うものは互いに等しい。
8.また全体は部分より大きい。
9.また2線分は面積を囲まない。
                                   同書2頁より

 
平行線公準が成り立たないものと前提すると、リーマンの球面幾何学のような非ユークリッド幾何学が成立することから、『資本論』の公理・公準の一部を入れ替えると別の経済学が生まれる可能性があることは容易に予想がつく。そういう操作を大学院生の頃から考えていたが、当時は何をどのように換えたらいいのかわからなかった。

 中学校と高校の図書室にはこのユークリッド『原論』を備えてもらいたい、そして数学の先生はそういう本が自分の学校の図書室にあることを生徒に伝えてもらいたい。数学好きの早熟な生徒なら十分に読める。田舎の学校でも、工夫次第で都会の学校よりもいい環境を整えることができる。大人の責任を果たすために、できることから始めよう。

*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 

経済学 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村

#2942 『資本論』と経済学(7) : 「デカルト/科学の方法四つの規則」 Jan. 29, 2015    [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


6. <デカルト/科学の方法四つの規則とユークリッド『原論』>

 流通過程分析や商品分析は「下向の旅」であり、商品の概念規定から始めるのは「上向の旅」である。これはデカルト『方法序説』1637年)にある「科学の方法 四つの規則」にあるものと同じ。数学書であるユークリッド『原論』と方法論において同じものである。集合論をベースにした現代数学の体系化の試みである『ブルバキ 数学原論』も公理をベースにした演繹的体系構造をもつ。
 
デカルト「科学の方法 四つの規則」には次のような解説がある。
------------------------------------------------------
 
デカルト『方法序説』ワイド版岩波文庫 「科学の方法 四つの規則」27ページ~

 
まだ若かった頃(ラ・フレーシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数学を、少し熱心に学んだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。まず論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、未知のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つばかりだ。…以上の理由でわたしはこの三つの学問(代数学、幾何学、論理学)の学問の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければ、と考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがすっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた
 
第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は何もわたしの判断の中に含めないこと。
 
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分別すること。
 
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定しえ進むこと。
 
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった*重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。
-------------------------------------------------------- 

 
デカルトが「三つの学問(代数学、幾何学、論理学)」といっているが、歴史的順序に従えば「論理学、幾何学、代数学」である。アリストテレス論理学とユークリッド幾何学、ディオファントス代数学(『算術』)を指していると見ていいのだろう。デカルト自身が『幾何学』を著しているが、これは解析幾何学、中学生で習う座標平面のこと。訳注#8で確認したが、やはり論理学はアリストテレス論理学だ、これには弁証法も含まれるが、ソクラテスの「弁証法」であって、弁論術であり、ヘーゲルのそれとは異なる。デカルトは解析幾何学や哲学や論理学の研究をした上で、『方法序説』で自分の方法論を振り返って記述している。はじめに方法論ありきではない。

 哲学者であり数学者、物理学者でもあったデカルトがフランス語で書いた著作をマルクスが読んでいたかどうかはわからないが、『経済学批判要綱』(以下、『要綱』と略記)にも『経済学批判』にも『資本論』にも、わたしが読んだ限りでは、体系構成についてデカルトから学んだという記述は1行もない、もちろんユークリッド『原論』への言及もない、どちらとも接点はなさそうである。数に関して言うと『資本論』は有理数の四則演算だけで無理数は使われていない、そして『資本論』の約百年も前にできた微分積分も使われていないこととあわせ考えると、マルクスは数学への興味が薄かったと判断していい。
 
微積分にすら関心がなかったくらいだから、経験科学の分野である経済学全体が、そうではない純粋数学の体系化と同じ演繹的な方法で叙述可能だという自覚も見通しも当時のマルクスにはなかったとわたしは推定する。1部だけでもフランス語版だけでなく、英語版の訳者へのマルクスの編集指示書が存在しており、それすらずいぶん無視したくらいだから、エンゲルスに余裕がなかったことは事実だろう。第2部以降は悪筆のマルクスが残した膨大な遺稿から、『要綱』デッサン通りに第2部と第3部をエンゲルスがまとめたのだから、これは体系構成研究から除外してよい。
 旧構想をそのまま踏襲したということは、経済学体系がどうあるべきかをエンゲルスが読み取ることができなかったことを意味している。エンゲルスが元にしたマルクスの資本論構想は1858年の『要綱』で示されていたものである。フランス語版の出版が1872年だから14年も間がある。
 
フランス語版編集時点で全体の見通しがあったかどうかはわからない。マルクスは構想を大きく変えたか、見通しがまったく立たないままだったかのどちらかだが、資本論第2部の編集方針については何も書き残していない。それゆえわたしたちは『要綱』『資本論初版』そしてマルクスが編集を直接指示したフランス語版の「第一部」の内容から、内在的な論理に従って体系構成がどうあるべきかを読み取らなければならない。

 
 ヨーロッパの学問の伝統という点からは、科学の方法(=人文科学をも含む学問の方法)にはアリストテレス論理学とユークリッド「原論」が燦然と輝いている。経済学の体系構成を考えるということは、そういうヨーロッパの学問の線上にマルクス『資本論』を措定したときに何が見えてくるのか、という問題でもある。
 
『資本論』は経済学的概念の構造物なのだが、書かれた文章から使われているいくつかの概念の関係を抽象的な構造物としてイメージするのはむずかしい。言葉をイメージに変換するのにハードルが一つあり、さらにそのイメージを今度は別の具体的な言葉に変換して説明するために、もう一つのハードルが待ち受けている。
 
ひょんなことから、ユークリッド『原論』を読み、数学の体系と経済学諸概念の体系が似ていることに気がついた、これなら、アナロジー(類推)が可能だし、説明も楽になる。 修士論文を書いているときにそのことに気がついていたら、大学に残る決意を固めただろうが、不勉強で気がつかなかった。


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25


経済学 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 

#2941 『資本論』と経済学(6) : 「マルクス著作の出版年表」 Jan. 29, 2015   [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


5. <マルクス著作の出版年表>

1843年『ユダヤ人問題に寄せて』25歳
 
本のタイトルにユダヤ人とあるので、マルクスの出自と生年および没年に触れておく。「父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクスドイツ語版[5][6]。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスボルク(Presburg)[5]。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり・・・」ウィキペディアより (181855日生まれ、1883314日死亡、64歳)

1844年『経済学・哲学草稿』26
1847年『共産党宣言』29歳 (エンゲルスと共著)
1858
年『経済学批判要綱』401939年に出版された。日本語版初版は1959
1859年『経済学批判』41
1863年『剰余価値学説史』45
1867年『資本論初版』(第一部のみ、第二部は1885年にエンゲルスが、第三部は1894年に出版された)49

「この第2部と第3部の草稿についてマルクスは1866年の段階でエンゲルスに宛てて、「でき上がったとはいえ、原稿は、その現在の形では途方もないもので、僕以外のだれにとっても、君にとってさえも出版できるものではない」と手紙に書いたほどであった。

1872年『資本論フランス語版』54歳:ラシャトル版ともいう。
 「「まったく別個の科学的価値を持つ」と(マルクスが)自分で称するほどに納得できる版となった「フランス語版」が出版されたのはようやく1872 - 1875であった。」
1873年『資本論第2版』
1883年『資本論第3版』(フリードリッヒ・エンゲルス)

 事細かに編集を指示したフランス語版の出版から死ぬまで11年間あったが、マスクスは資本論第2部の編集に手をつけていない。未整理の膨大な草稿が残されたことから考えると、混乱のまま、人生の終わりを迎えたように思える。

 [経済学の研究深化と共産主義イデオロギーの破綻]
 
ヘーゲル弁証法では乗り越えられないところに自分が立っていることにマルクスは気がついていたのではないだろうか。いまさらヘーゲル弁証法ではダメだとは言えない、それを言えば階級闘争史観(唯物史観)も破綻してしまうから、共産主義の理論的な支柱が倒壊するから、マルクスはだんまりを決め込むしかなかったのではないか。晩年のマルクスは著作を書かなくなっていた、そうした空白の期間の理由も、方法論の破綻を考えると当然のことに思える。
 
『経済学批判要綱』(1858年)段階での流通過程分析を通じて、価値形態研究の深化と併行して商品分析によって経済学諸概念の関連の整理がなされていく。マルクスは経済学の基本概念をいじくり回しているうちにしだいに整理がついて、ごく自然に演繹的な順序で経済学を叙述する方向へと舵を切ってしまったのであるが、そのことが学としての経済学の体系構成に混乱と疑義を抱く素(もと)となってしまった。たとえて言うと、ヘーゲル弁証法という水先案内人がいない海に漕ぎ出してしまったのである。水先案内人もいない、羅針盤すらもたずに、未知の海域にマルクス丸は漂流し始めていた。
 
1935年にブルバキの名前ではじまった集合論を基礎にした現代数学の総合化の試みですら、その体系的な叙述はいまだに完成していない。マルクスが個人で一つの経済学体系を完結できなかったのは無理もないことに思える。
 
そのうえに世界市場は資本論初版の時点ではいまだ存在していなかったし、世界市場論はそれだけをとっても個人でできる仕事量ではない。実証研究の深化をまたなければ書けない代物なのである。数えてみたら、『ブルバキ 数学原論』は東京図書から翻訳書で36冊出版されている。現代数学は体系化にこれほど膨大な冊数とそれに見合う仕事量を要求している。


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25

 #2936 『資本論』と経済学(2):「1.経済現象と日本の国益」 Jan. 26, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-26

 #2937 『資本論』と経済学(3):「円安はいいことか?80⇒120円/$の威力」 Jan. 27, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27

 #2938 『資本論』と経済学(4) : 「経済学とは?」 Jan. 27, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-1

 #2939 『資本論』と経済学(5) : 「『資本論』の章別編成」 Jan. 27, 2015  
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-2

 #2941 『資本論』と経済学(6) : 「マルクス著作の出版年表」 Jan. 29, 2015   
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-1

 #2942 『資本論』と経済学(7) : 「デカルト/科学の方法四つの規則」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-28-2

 #2943 『資本論』と経済学(8) : 「ユークリッド『原論」 Jan. 29, 2015   
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29

 #2944 『資本論』と経済学(9) : 「何をやりつつあったかは残された文献に聞け」 Jan. 29, 2015    
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-1

 #2945 『資本論』と経済学(10) : 「プルードン「系列の弁証法」 Jan. 29, 2015    
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-2

 #2947 『資本論』と経済学(11) : 「労働観を時間座標系においてみる」 Jan. 29, 2015     
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-4




にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 

#2939 『資本論』と経済学(5) : 「『資本論』の章別編成」 Jan. 27, 2015  [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


4. <『資本論』の章別編成>
 
 マルクスが書き残したのは資本論第1巻第1部のみである。第2部と第3部は膨大な原稿からエンゲルスが編集したものであり、マルクスの手になるものではないから、ここでは資本論第1巻第1部全体を俯瞰しておけば十分である。

----------------------------------------
1部 資本の生産過程
 第1篇 商品と貨幣
  第1章        商品
  
第2章        交換過程
  
第3章        貨幣または商品流通

 
2編 貨幣の資本への転化
  第4章        貨幣の資本への転化
  
第5章        労働過程と価値増殖過程

  第3編 絶対的剰余価値の生産
  
第6章        不変資本と可変資本
  
第7章        剰余価値率
  
第8章        労働日
  
第9章        剰余価値率と剰余価値量

 第4編 相対的剰余価値の生産
  
第10章     相対的剰余価値の概念
   
第11章     協業
   
第12章     分業とマニュファクチュア
   
第13章     機械と大工業

第2部            資本の流通過程第3部           

第3部   資本主義的生産の総過程
----------------------------------------
 
 
わたしの問題関心は、『資本論』という一つの経済学体系がどのような構成をもつのか、マルクスは経済学の体系をどのような道筋で描こうとしたのかにある。展開の系列を簡潔に並べると、それは1巻の編のタイトルを順に並べるということになるであろう。

 商品と貨幣⇒貨幣の資本への転化⇒絶対的剰余価値の生産⇒相対的剰余価値の生産

 つねに前者の展開が後者の展開の前提条件になっている。「商品と貨幣」を描いて、次に商品の発展形態である貨幣が資本へ転化する。資本は絶対的剰余価値を生み出し、次いで、労働日の内の必要労働時間と剰余労働時間の割合を変化させることで相対的剰余価値の生産を論じている。絶対的剰余価値の編では固定されていた必要労働時間と剰余労働時間の割合を可変とするのである。いままで一定の濃度の食塩水を論じてきたのを、今度はさまざまな濃度の食塩水があることを論ずるのである。ここでも単純なものから複雑なものへという展開順序が守られている




*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25
 

 #3015 人工知能の開発が人類滅亡をもたらすホーキング博士(資本論と経済学-補遺1) Apr. 2, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-04-02

経済学 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 

#2938 『資本論』と経済学(4) : 「経済学とは?」 Jan. 27, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


3. <経済学とは?> 

 経済学を云々する前に、そもそも「学」あるいは「学問」とはなんだろうか?日本語では経済学は社会科学の一分野とされており、自然科学と対置される。英語はscience(科学)、ドイツ語ではdie Wissenshaftという語を充てている。英語のscienceという語に「学問」の訳語を充てることにすくなからぬ違和感があるので、国語辞典の定義を参照する。
学問:一定の原理によって説明し体系化した知識と理論的に構成された研究方法などの全体をいう語。(中世・近世には「学文」とも書かれた) 
人文科学:広く人類の創造した文化を対象として研究する学問。哲学・文学・史学・語学などが入る。文化科学。   『大辞林』
 辞書に分類が載っていないが、日本では学問を三分類(人文科学・自然科学・社会科学)している。どれも「科学」の語がついている。人間の文化に関する学問だから人文科学というのだろう。Scienceは「自然科学」だと思っていたが、もっと意味が広いようだ。 
 英語のscienceの項をCambridge Advanced Learner’s Dictionaryで引くと、次のような説明がある。
science: 1. (knowledge from) the systematic study of structure and behaviour of the physical world, especially by watching, measuring and doing experiment, and development of theories to describe the results of these activities.: pure/applied science.2. a particular subject that is studied using scientific methods: physical science. Economics is not an exact science. (経済学は厳密科学ではない)1. 物質界の構造と性質に関する体系的な研究(からえられた知識)、とくに観察・測定・実験によって裏付けられたもの。そしてそれらの(研究)活動(観測・測定・実験)結果を包摂して記述する進化した理論(からえられた知識)
2. 科学的な方法を用いて研究されている特定の学科目: 物理科学。(物理学はphysics
 「純粋科学の物理学」と「経済学」とは異なるというのが英語のscienceという語の基本的な定義と感覚。まるで注文したかのように、面白い用例が載っている、「経済学は厳密科学ではない」というのがそれだ。
 CALDの説明では科学を「物質界の構造と性質に関する体系的な研究」として、純粋科学と応用科学に分類している。対象は「物質界=physical world」であって、これでは人間の文化は対象外になってしまう、この定義では人文科学を含めることができない、おかしい。Oxfordを引いてみたら、4番目の定義に探しているものが見つかった。
Science: 4 [singular] a system for organizing the knowledge about a particular subject, especially one concerned with aspects of human behaviour or societya science of international politics
 この定義には人文科学が入っている。でも4番目だから「広い意味」でのscienceということ、基本的には英語でscienceは自然科学を意味している場合が多い。
 
人文科学を英和辞典で引くと、the humanities, human science, literal artsの三つが載っている(ジーニアス『和英辞典』)。英語のscienceに対置される語はarts(芸術・技術・人文)やtechnology(技術)である。芸術・技術と対比される(狭義の)scienceとそれらを含んだ上位概念としての(広義の)scienceがあると了解しておきたい。ついでだから後で何度も出てくる「職人」もartに関係しており、派生語にartisan(職人)がある。何年もの修業によって確かな技術を身につけた者がartisan(職人)である。
 
CALDは、経済学は科学でなくある種の技術であるといいたいようだ。科学を狭義に捉えたらそういうことになる。確かにケインズの有効需要政策は政策技術論であるし、乗数理論は数学の応用である。リフレ派の主張するマクロ経済理論や計量経済学も技術論か数学の応用に属するから、事実として認めたい。
(ケインズ辺りから経済学は科学ではなく、技術(政策)論の分野に重点を移し、特定の経済現象に潜む法則性やメカニズムが経済政策に利用できるに足るだけわかればいいということになった。1929年の大恐慌後の経済立て直しのために、経済学が利用され、公共事業で有効需要を増すことで景気回復を図った。ところが、公共事業に乗数効果が小さいことはすでに証明済みで、巨額の財政赤字の原因となり、いずれ経済を破壊する副作用をもつことが経験的に知られている。)

 
では、ドイツ語のdie Wissenshaftはどうだろう。Wissenは「知」や「知識」を意味しており、shaftは抽象名詞語尾であると辞書(相良『ドイツ語大辞典』)にある。
 
『漫言翁 福沢諭吉』『続漫言翁 福沢諭吉』『明治廿五年九月のほととぎす』の著者、遠藤利國氏から128日にsciencedie Wissenshaftに関するコメントをメールでもらったので紹介・追記する。もともと哲学が専門だから、こういう話題には適確な解説をしてくれる。あいまいなところや調べ切れていないことを教えてもらえる、ブログはこの辺りが便利でありがたい。
基本的にはこの二つの言葉は意味するところは同じで現に独英辞典でWissenschaftの項をひくとscienceとなっています。かつてscienceにも学問という意味を持たせていた時代がありました。多少古い英和辞典には<学問全般(廃)>としてあるものもあります。scienceはラテン語の動詞scio(知る、理解する)に由来する言葉で、名詞はscientia(知識、学、原理、理論等)となります。英語とフランス語ののscienceはこのラテン語が語源です。ではドイツ語ではなぜWissenschaftになったのかといえばscioに相当するwissenという動詞があったので、それに名詞をつくる語尾を加えたということなのでしょう。ヨーロッパの言語はラテン語を語源とする語と自前の語が共存していますが、これは漢字の音読みと訓読みの違いと思えば当らずといえども遠からずといったところでしょうね。
日本ではscienceに科学というニュアンスがつよくて学問全般という意味合いが希薄に感ぜられるのは、明治以降の学問移入の歴史によるものかもしれませんね。日本語で学問といえば江戸までは儒学でしたが、明治以降はデカンショになってしまい英語で学ぶ学問は影が薄くなってしまったことが尾を引いているのかもしれません。

  デカンショの件(くだり)は説明が必要ですね。デカルト、カント、ショーペンハウエルの三人の哲学者のことですが、デカルトはフランス人、カントとショーペンハウエルはドイツ人、つまり幕末から明治初期にかけては洋学の主流は英米の経験論だったのが次第にデカルトに始まる大陸の合理論、とくにドイツ哲学にとってかわられたという事情を述べたのでしょう。

 「知る」という語幹では英語のscienceとドイツ語のdie Wissenshaftはラテン語由来で同じ意味だった。
雑然とした知識の寄せ集まりではなく、整然とした知識体系がdie Wissenshaftの語感であり、人文科学・自然科学・社会科学すべてを包摂する概念である。マルクスがdie Wissenshaftというドイツ語のイメージで、整然とした体系構成をもつ経済学を考えていたのだろう。

 
 経済学がいかなる学問であるかについて、さらにCALDと「大辞林」の説明を見よう。
--------------------------------------------------
economics: the way in which trade, industry or money is organized, or the study of this.経済学とは貿易、産業あるいは通貨を系統立てて叙述する方法、あるいはその研究をいう。 

経済学:人間社会の経済現象、特に財貨・サービスの生産・交換・消費の法則を研究する学問。法則を抽出する理論経済学、理論の応用である政策学、経済現象を史的に捉える経済史学に大別される。『大辞林』
--------------------------------------------------

 
体系的に整序されたものが経済学だとしても、それは純粋数学のような体系をもちうるのかという議論はなされたことがない。『大辞林』は理論経済学を「法則を抽出する」ものと定義しているが、これは自然科学の物理学における法則(たとえば、万有引力やE=mc^2)を想定してのことだろうから、体系の叙述の方法は問わないことになる。万有引力の法則やE=mc^2が実験結果や観測によって証明されればいいだけである。
 
では、なぜ学の体系構成を意識した分類がなされていないのだろうか、それは純粋数学のほかに事例が一つもないからだ。純粋数学だけは他の諸科学とはまったく別物だという思い込みがあり、経済学が数学と似たような体系構成が可能なはずがないと経済学者も思い込んでいる。だが、そうした思い込みは正しいのだろうか?
 
経済学は実証科学だというのが多くの経済学者に共通した理解である。たとえば、経済史の分野で著名な学者に増田四郎先生(元一ツ橋大学・学長)がいる。38年前に院生3人で特別講義をお願いしたら、リスト『経済学の国民的体系』を読もうということになり、月に一度くらいの頻度で授業の後に、国分寺駅近くのビル4階のガラス張りの眺めのよいお店でビールをご馳走になりながらお話を聞いた。その折に、イタリア留学から帰ってきたお弟子さんの阿部謹也氏のことを、目を細めて何度も話してくれたから、阿部謹也著『中世の窓から』もそのときに増田先生の著作数冊とともに読んだ。阿部氏はその後、ヨーロッパ中世に関する本をたくさん書いているからイタリア留学中に目を通した中世の文献資料からえたものが大きかったのだろう。増田先生は阿部氏の研究スタイルが気に入っていたようだ。阿部氏は後に一橋大学長になっている。もちろんお二人とも優れた実証研究者である。
 
テレビによく出演して反原発をコストの面から具体的な数字を挙げて理詰めで解説する慶応大学経済学部の金子勝教授もまた違った学風の実証研究者である。世の中の経済学者は理論経済学者の一部を除けば他はすべて実証研究者と言ってよいだろう。たくさんのデータや資料を読み込んで、そこから帰納的に規則性や法則性を抽出する。抽出した法則は假説であり、それをまたデータで論証するというのが、オーソドックスな研究スタイルとなる。
 
観測データ⇒規則性を帰納的に抽出⇒假説設定(&未知の特定現象の予言)⇒実データで検証

 後で、馬場宏治先生の過剰富裕化論を取り上げるが、馬場先生は理論経済学者であると同時に、米国経済のすぐれた実証研究者でもあった。経済学が数学と同じタイプの演繹的体系構成をもつ学問であるという理論経済学者は残念ながらわたしのほかはいまのところ一人もいないから、数の上からは絶望的なほど分が悪い、はっきり言って数の上では勝ち目がない。しかし、「学」のタイプとしては二種類あることは事実なので、二つの見解を並べて対比してみたい。

     経済学は経験科学である「純粋に理論を探求する科学に対し、経験的事実を対象として実証的に諸法則を探求する科学。実証科学」 …『大辞林』 経験科学は観察から得られたデータのみに依拠し、そのデータ群の中から諸法則を帰納的に導き出し、それを假説としてデータで実証する。
     経済学は数学のような規範学であるさまざまなデータから帰納的に法則が導かれるのではなく、経済学は数学のように演繹的な体系構造をもつ。

 
経済学が経験科学であるという立場の対極にあるのは、経済学は数学と同じ独立した演繹的な体系構造をもつ学問という立場である。後述するが、マルクスが『資本論』でやって見せた。後にも先にも、数学以外の分野で、このようなことを試みた学者はプルードンとマルクス以外にはない。 

 
[時代状況の違い]
マルクスの時代(国民国家成立による帝国主義の時代の幕開け)と現在は大きく異なる。当時はなかったものをいくつかランダムに挙げてみる。
①多国籍企業
②グローバリゼーション
③コンピュータ
④インターネット
⑤いくら売っても減らない商品の出現。たとえばCDDVD、ゲームソフト、さまざまな名簿情報等々、これらはデジタルコピーすればまったく同じ品質のものがいくらでも生産できる。 

 
マルクスはサイバー空間や今日のスケールの世界市場を知らない。マルクスの時代の資本主義経済社会と現在の資本主義経済社会は異なる発展段階にある経済社会と見るべきで、21世紀の経済学は①~⑤も網羅しなければならない。サイバー空間が加速的に拡大して、現実空間に多大な影響をあたえている現実を経済学は包摂する必要がある。機械とコンピュータとネットワークの融合した21世紀を、わたしは2次産業革命の時代とネーミングする。わたしたちはその渦中にいるから、大きく時代が変わるのをなかなか意識できない。30年後に振り返ってみたときに2000年を境に産業社会が大きく変わったことに気がつくのだろう。
 少子化と高齢化の同時進行による人口縮小という時代の大きな転換点に立っているからこそ、いま経済学は何かとその意味を問う必要がある。経済学が経験科学であることは多くの経済学者の業績がそれを証明しているから議論の余地がない。では経済学は演繹的な体系足りうるのか? 


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25

 #3015 人工知能の開発が人類滅亡をもたらすホーキング博士(資本論と経済学-補遺1) Apr. 2, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-04-02


経済学 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 

#2937 『資本論』と経済学(3):「円安はいいことか?80⇒120円/$の威力」 Jan. 27, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


1.      <円安はいいことか?:80120/$の威力>

 団塊世代のわたしが大学3年のときの時事英語の授業は土曜日午前中で、前日に発行された毎日ディリーニュースの社説をテクストにとりあげていた。夏休み明けの最初の授業の社説に載っていた、‘foreign exchange rate’ という用語を先生は「外国交換比率」と訳した、生徒から「なんのことか先生はそれでわかるんですか?」と質問され「???」、英単語を一つずつ日本語に置き換えただけ、先生は経済専門用語を知らず外国為替の仕組みについても知識がなかった。ところが扱った記事は固定相場制の終焉と変動相場制の幕開け告げる通貨制度変更に関する社説だった。
 
周辺知識やある程度の専門用語に関する知識がなければ英文の経済記事は読めない、それは医学記事でも、会計基準に関する記事でも同じことである。
 
“外国為替相場”という日本語を知っていたら、通貨市場での各国通貨の交換比率=相場だと見当がついたのではないだろうか。日本語は便利だ。基本漢字がわかっていれば理解できる専門用語が多い。しかし「為替」は使われている漢字から意味がつかみにくい専門用語だから、金融関係の人以外は馴染みがない言葉だろう。たまにはこういうものがある。

為替:手形や小切手によって、貸借を決済する方法。離れた地域にいる債権者と債務者の間で貸借を決済する場合、遠隔地に現金を輸送する危険や不便を避けるために使われる。中世では「かわし」といい、銭のほか米などの納入・取引に利用された。…『大辞林』


  為替は日本の発明である。起源は中世だが、江戸期には商取引ばかりでなく、庶民がお伊勢参りにも大きな現金を持ち歩かず、為替を利用して現地でお金を受け取るというようなことが普通になされていた。江戸の両替商にお金を払って為替証書を手に入れ、それをもって旅行して大阪の両替商で金を受け取る。中世も江戸時代も大金を持ち歩くと山賊や盗賊に襲われるリスクが大きい時代だった。証書を交わすから「交わし」といったようだ。国内で行われるのを内国為替、海外との取引決済を現金授受を介さずにやる仕組みを「外国為替」という。その際に使われる二国間の通貨の交換比率(相場)を、外国為替相場という。為替制度は「日本原産」である。
 
日本語でも専門用語には漢字の字面からわからないものが少しだけあるが、英語は殆どが見当つかない、例を挙げてみよう。Leukocyteをみてすぐに意味がわかる人は、医療関係の仕事に従事辞している人だろう。Leukoは白を意味するラテン語かギリシア語で、cytoは細胞や球を意味する。white blood cellと書けば誰でもわかる。日本語で白血球と書いてわからない中学生はいないが、米国では普通の中学生はleukocyteleukemiaの意味を知らない。
 
英語の専門用語はギリシア語やラテン語の接頭辞や語幹や接尾辞からできているから、「一般人」には理解しづらい、その点日本語はよくできている。誰でも知っている基本漢字で専門用語が組み立てられているから、2000字あまりの基本漢字(たとえば、常用漢字は2136文字)の意味さえしっかり押さえておけば、類推ができる専門用語が殆どである
 
このことから、義務教育を終えたら専門書が読めるという基礎学力を前提に、小学校で1000字、中学校でさらに1000字、合計2000字を中学校卒業までに漢和辞典で調べ終わるという具体的な目標ラインを生徒に示していいのではないか
 
さて、具体的なやり方について一言書いておく。調べた語に線を引き付箋をつけさせれば、付箋が増えていくのが楽しくて、教科書だけでは飽き足りずに、知らない語彙の出てくるような本を読むとか、漢検問題集にトライして新語に出遭う機会を増やしたくなる。漢和辞典や国語辞典が付箋だらけになるのは楽しい。
 
極論を言うと、基礎学力がしっかりしていれば高卒でもたいがいの専門書は読める。団塊世代までは、高卒でも基礎学力の点で大卒に引けをとらない者が一定の割合でいた。社会人になったときに仕事に関連する専門書を読んで理解できるかどうかは、その人のその後の人生を分けることになる。基礎学力が低ければ、大卒だって仕事で必要な専門書を読むのに支障をきたす、基礎学力の威力侮るべからず。わたしは、専門書を独力で読みこなすことのできる学力を「社会人に必要な基礎学力」と定義したい。
 さて、本題は為替相場が円安になっていることだった。1222日に120/$を超えた。第二次安部政権の誕生は20121226日のことである。その直前201211月は80/$だったから、2年と2ヶ月前に比べて50%の円安80/$120/$を比べてみても生活実感がわかないから、生活実感のある商品、ガソリン価格で考えてみたい。ガソリン価格は当時レギュラーだと148/だった。11月にガソリンを入れたときには151/(レギュラー)だったのが、1226日には141/117日には131/ℓ。原油価格(ブレント)は201211月に108$/バーレルだったが、201411月は78$である。12月に入って60$台を動いている。NY原油先物市場は20151550$を割り込んだ。

====================================================================================
問題:為替レートが2年前の80/$のままで原油が60$/バーレルだったとしたら、ガソリン価格がいくらになる?
 (a barrel of oil is equal to 159 litres )(計算式は脚注にある)
====================================================================================

 簡単な比例式でだいたいのところがつかめる、計算精度としてはそれで十分だ。比例式は昨年から小学校6年生で習うように変わった。こういう円安の影響を自分で確かめるためにも小学校6年あるいは中学1年程度の基礎学力がなければならない。社会人となって生き抜くためにも中学卒業程度の基礎学力は身についていなければならない。住宅ローンだって売り手や金融機関の営業の言いなりではいけない、自分で条件をいくつか変えて計算して確認しなければ、10年たたないうちに自己破産の憂き目に遭いかねない。
 リーマンショックで問題になったサブプライムローンは、プライムローンで借り入れができない低所得者向けの金利の高いローンであるが、銀行と不動産金融会社がグルになって低所得層を狙い撃ちにしたものである。自分で借金返済の計算ができない低学力層は結局だまされて、彼らの餌食となった。自分で計算して確認できるだけの基礎学力があれば自己破産が防げたし、リーマンショックも起きなかっただろう。不動産担保ブプライムローンは貧困と無知に付け込む商法だった。日本ではそういう商法は嫌われる。伝統的な商道徳では「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」である。


 計算結果は44.4%の値下がりで、レギュラーだと72.2/$ということになる。私たち日本国民は円安によってバカ高いガソリンの購入を余儀なくされていると言うこと。灯油(12月請求分が98/㍑)も同程度値下がりしただろう。日銀の円安誘導がどれほど国民生活にダメージとなっているかを理解するには、為替相場と物価の関係、すなわち経済に関する若干の知識と基礎学力(読み・書き・そろばん)が必要である。
 
あてにはならないが、専門家の予測によると、中国やインドそして欧州の景気が悪いので需給が緩み2015年度は60$台を推移するという。

(米国のシェールガスやシェールオイルは長期的には多少問題ありだ。ひとつの油田やガス田の生産量が10年で100分の1に減少することと生産に水が必要なのだが、水利権の事情が米国は特殊で新規参入組みは渇水期には取水できない。) 

 
円安というのは日本の国力の低下、円高は日本の国力の上昇と考えたらいい

 
 円安を経済政策の柱に据えるということがどんなに莫迦げた政策かは、国益の観点から考えてみたらわかる。円安は日本の国力を弱体化させるということと同義である
 
米国はいつでも「強いドル」を標榜している、それが国益にかなうからだ。ドル高になれば米国政府と米国民は世界中から資源や製品を安く買うことができる。ドルが半値になったら米国は同じ量の資源や製品を買うのに2倍のドルを支払わなければならない。
 
日本がゼロ金利と異次元の量的緩和をして円安を演出してくれたから米国政府と米国民は大喜びだ。しかも余剰のドルで米国財務省証券を100兆円も購入してくれている。日本が稼いだお金はドルとなって米国にそっくり戻っている。これほどお人よしの国民は世界中に中国人と日本人だけ。米国財務省証券を買わずに金を買うべきだ。
(金の価格:1975年は200$以下、2014年は1266$
 
円安が日本国民生活にとっていいわけがない、輸入品の価格は安倍政権前に比べて円価換算ですでに1.5倍に上昇している。釧路港に陸揚げされる米国産穀物飼料は1.5倍になって、乳価は上がらず、酪農家は泣いている。輸出産業の一部の好業績の背後で輸入産業は製品の値上げをせざるをえなくなり、売上数量が激減、中小企業はコストアップ分を製品価格に転嫁できずにあえいでおり、とても賃上げどころではない。景気が好いのは全産業の12%を占める輸出産業のそれも一部だけである。トヨタ本体とトヨタの取引企業の業績を代表例としてみたら、事情が呑み込める。

------------------------------------

【トヨタ自動車と下請けの事例】
#2892より抜粋(加筆修正済み) 嘉悦大学大学院ビジネス創造研究科黒瀬直宏教授の論を紹介

 
大企業の好業績が中小企業に及んでいないのは、大企業が生産拠点を海外に移してしまったからである。円安の恩恵を受けているのはGDP12%を占める輸出産業の一部だけ。
 
たとえば、トヨタグループ16社の70%2013年度の売上が2007年度の売上に達していない。トヨタは10-3月期の取引については部品単価の切り下げを求めないことに決めた。
 
トヨタの2次下請け以下は国内に3万社ある。トヨタ本社だけが史上最高額の利益(2014年度当期純利益額は18230億円、前年比2倍)を更新して、子会社、関連会社そして取引先企業が青息吐息では社会的な批判をまぬがれないから、先手を打ったということ。
 
取引先に毎年単価切り下げを求め続けてきた「トヨタ看板方式」が結果として、取引先の競争力と売上増大には寄与したが、2008年度以降は取引先の業績を圧迫するのみで、このまま取引先が倒れていけば高品質で低単価の部品供給先を失い、長期的にみればトヨタ本体が傾くことぐらいはトヨタの取締役ならずとも想像がつく。
 
トヨタ一社を見ても大手輸出企業の好業績が3万社ある関連会社や取引先にはまったく及んでいないことがわかる。安倍総理の説明ではトリクル・ダウン(trickle down effect*)で川下の中小企業の景気がよくなるはずだったのではないか、事実はまったく違っている。
(安倍総理は経済音痴ですから、安倍政権の経済政策ブレーンの浜田宏一内閣参与に問題があるのでしょう。小泉政権時の竹中平蔵並みかもしれません。労働規制を解除してちゃっかりリクルート社の会長に納まっている。竹中氏が金融実務がわからないので手下に使っていた元日銀マンの木村剛は、日本振興銀行刑事事件で2010年に有罪判決がでている。)

 
人口減少が始まったのと、生産年齢人口が総人口よりも加速的に減り始めたので、国内市場が急激に縮小しだしたのが痛手。トヨタの国内乗用車生産台数は2007年度の3849353台がピーク、2014年度は300万台ぎりぎりになる。若者が少なくなっているうえに、車は要らないという若者が増えているのだから、乗用車の国内市場は急激に縮小しつつある。

*trickle down effect: 「富める者が富めば、貧しい者にも富が滴り落ちるとする経済理論。サプライサイド経済学の中心思想とされる」。サプライサイド・エコノミクスとは、供給力を強化することで経済成長できるという牧歌的な経済理論。

 
2014510日の日本経済新聞記事によると「トヨタ自動車は、201458日に開いた20143月期(2013年度)の連結決算の発表会場で、年間の国内生産台数について「今後も300万台をめどに維持していこうと考えている」(同社取締役副社長の小平信因氏)と語った。…2013年度の国内生産台数は3356899台…2014年度の国内販売台数の見込みは221万台だから、「需要のあるところで造る」という現地生産の基本を踏まえると、国内生産は約100万台の“過剰生産”とみることもできる。

 
 25年後の2040年には購買年齢層の生産年齢人口が5786万人に減少するから、このままでは国内販売台数は120万台を割るだろう。日産が2014年度の国内販売台数が100万台を割りそうだが、それに近い規模になる。国内の生産拠点が品質改善の素であるから、国内生産台が半減したら新車開発力が大きく低下する。トヨタを支えているのは3万社もある下請けである。仕事量が激減すれば廃業が増える、優秀な下請け企業が廃業していけば、高機能部品の安価な調達ができなくなる。下請けの経営が立ち行かなくなって高性能で品質が安定した部品供給が細れば、トヨタ車の信頼性も揺らぐことになる。
 記事中の「2013年国内生産台数」には乗用車にトラック・バスの合計台数になっているので、わたしが書いた「乗用車生産台数300万台」とはベースが違うことに注意。トラック・バスはおおよそ30万台弱の生産量である。黒瀬教授の論は牽強付会なところがあるので要注意。データを調べてみたら、トヨタ連結ベースの決算は2007年度が特別によくて、その後3割も売上が落ちている。

     
2007
年度 売上高26.3兆円、純利益1.72兆円 117.75/$
   
2008年度 売上高20.5兆円、純損失4369億円 103.35/$
   
2009年度 売上高18.9兆円、純利益2094億円 93.57/$
   
2010年度 売上高18.9兆円、純利益4081億円 87.77/$
   
2011年度 売上高18.5兆円、純利益2835億円 79.80/$
   
2012年度 売上高22.1兆円、純利益9621億円 79.79/$
   
2013年度 売上高25.7兆円、純利益8609億円 97.59/$
   
2014年度 売上高26.5兆円、純利益2.0兆円。 120.66/$20141229日) 

 
このデータから言えることは、連結決算ベースのトヨタの売上高は為替レートの影響を無視できないということ。たとえば、2007年度と2008年度が同じ為替レートだとすると、2008年度の売上高は、次の計算になる。
   20.5兆円×117.75÷103.3523.35兆円
 もちろん、国内売上は為替レートに関係がないから、米国などの外貨売上分が換算されているに過ぎない。トヨタは海外売上のシェアが高いから、為替レートの影響の概要を掴まえるにはこれで十分だ。2008年、2009年と、2010年、2011年と続いた円高が円価換算売上高の撹乱要因となっている。同じような計算を2011年度と2012年度に適用すると、2007年度の売上高を上回る。

   18.5兆円×117.75÷79.8027.3兆円(2011年度)
   22.1兆円×117.75÷79.7932.6兆円(2012年度)

 
2014年度の売上高26.5兆円は円安で円換算売上高が膨らんだだけのことだ。売上高の実質的な内容は2012年度や2013年度よりも悪い。
 
ドルベースの連結決算では2012年度の売上高が最高額を記録している。2014年度がドルベースでは売り上げ減少なのに利益が増えているのは、国内生産で輸出されるのが100万台(完成車ベース)ほどあるほかに、高機能部品の輸出が寄与しているからだろう。大企業(トヨタ本社)がコスト低減を要求して中小の取引先企業をいじめているという構図は確かにあるだろう。しかしイレギュラーなデータを何もコメントせずに取り上げて、読み手が判断を誤るような「誘導」は慎むべきである。

 
 さて、黒瀬教授の論に戻ろう、かれはトヨタの子会社・関連会社や取引先企業3万社の売上が2007年度の売上数値を回復していないことを指摘しているのだが、2007年度をピークとしてトヨタ本体の売上自体が2013年度まで回復しないのだから、グループ各社への発注数量も減っていて当然で、トヨタ取引先の売上が減るのも当たり前だということ。特筆すべきことは、2009年に米国で起きたレクサスの事故訴訟で売上が一時的に激減したということ。
 たまにこういうことがあるから他
人の論を鵜呑みにしてはいけない、自分で元データを確認する必要がある。信用に足る学者の場合はその限りにあらず。

 *「トヨタ自動車75年史」より
http://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/automotive_business/production/production/japan/production_volume/index.html
**

外国為替の推移 (「世界経済のネタ帳」より)
http://ecodb.net/exchange/usd_jpy.html
------------------------------------


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25

 #3015 人工知能の開発が人類滅亡をもたらすホーキング博士(資本論と経済学-補遺1) Apr. 2, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-04-02

<計算式と答え>

   131 : x = 108 : 60   
  
131(円/㍑)×60$÷108$=72.8(円/㍑)



経済学 人気ブログランキング IN順 - 経済ブログ村

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村 


前の10件 | 次の10件 A1. 資本論と21世紀の経済学(初版) ブログトップ