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#2942 『資本論』と経済学(7) : 「デカルト/科学の方法四つの規則」 Jan. 29, 2015    [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]


6. <デカルト/科学の方法四つの規則とユークリッド『原論』>

 流通過程分析や商品分析は「下向の旅」であり、商品の概念規定から始めるのは「上向の旅」である。これはデカルト『方法序説』1637年)にある「科学の方法 四つの規則」にあるものと同じ。数学書であるユークリッド『原論』と方法論において同じものである。集合論をベースにした現代数学の体系化の試みである『ブルバキ 数学原論』も公理をベースにした演繹的体系構造をもつ。
 
デカルト「科学の方法 四つの規則」には次のような解説がある。
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デカルト『方法序説』ワイド版岩波文庫 「科学の方法 四つの規則」27ページ~

 
まだ若かった頃(ラ・フレーシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数学を、少し熱心に学んだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。まず論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、未知のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つばかりだ。…以上の理由でわたしはこの三つの学問(代数学、幾何学、論理学)の学問の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければ、と考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがすっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた
 
第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は何もわたしの判断の中に含めないこと。
 
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分別すること。
 
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定しえ進むこと。
 
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった*重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。
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デカルトが「三つの学問(代数学、幾何学、論理学)」といっているが、歴史的順序に従えば「論理学、幾何学、代数学」である。アリストテレス論理学とユークリッド幾何学、ディオファントス代数学(『算術』)を指していると見ていいのだろう。デカルト自身が『幾何学』を著しているが、これは解析幾何学、中学生で習う座標平面のこと。訳注#8で確認したが、やはり論理学はアリストテレス論理学だ、これには弁証法も含まれるが、ソクラテスの「弁証法」であって、弁論術であり、ヘーゲルのそれとは異なる。デカルトは解析幾何学や哲学や論理学の研究をした上で、『方法序説』で自分の方法論を振り返って記述している。はじめに方法論ありきではない。

 哲学者であり数学者、物理学者でもあったデカルトがフランス語で書いた著作をマルクスが読んでいたかどうかはわからないが、『経済学批判要綱』(以下、『要綱』と略記)にも『経済学批判』にも『資本論』にも、わたしが読んだ限りでは、体系構成についてデカルトから学んだという記述は1行もない、もちろんユークリッド『原論』への言及もない、どちらとも接点はなさそうである。数に関して言うと『資本論』は有理数の四則演算だけで無理数は使われていない、そして『資本論』の約百年も前にできた微分積分も使われていないこととあわせ考えると、マルクスは数学への興味が薄かったと判断していい。
 
微積分にすら関心がなかったくらいだから、経験科学の分野である経済学全体が、そうではない純粋数学の体系化と同じ演繹的な方法で叙述可能だという自覚も見通しも当時のマルクスにはなかったとわたしは推定する。1部だけでもフランス語版だけでなく、英語版の訳者へのマルクスの編集指示書が存在しており、それすらずいぶん無視したくらいだから、エンゲルスに余裕がなかったことは事実だろう。第2部以降は悪筆のマルクスが残した膨大な遺稿から、『要綱』デッサン通りに第2部と第3部をエンゲルスがまとめたのだから、これは体系構成研究から除外してよい。
 旧構想をそのまま踏襲したということは、経済学体系がどうあるべきかをエンゲルスが読み取ることができなかったことを意味している。エンゲルスが元にしたマルクスの資本論構想は1858年の『要綱』で示されていたものである。フランス語版の出版が1872年だから14年も間がある。
 
フランス語版編集時点で全体の見通しがあったかどうかはわからない。マルクスは構想を大きく変えたか、見通しがまったく立たないままだったかのどちらかだが、資本論第2部の編集方針については何も書き残していない。それゆえわたしたちは『要綱』『資本論初版』そしてマルクスが編集を直接指示したフランス語版の「第一部」の内容から、内在的な論理に従って体系構成がどうあるべきかを読み取らなければならない。

 
 ヨーロッパの学問の伝統という点からは、科学の方法(=人文科学をも含む学問の方法)にはアリストテレス論理学とユークリッド「原論」が燦然と輝いている。経済学の体系構成を考えるということは、そういうヨーロッパの学問の線上にマルクス『資本論』を措定したときに何が見えてくるのか、という問題でもある。
 
『資本論』は経済学的概念の構造物なのだが、書かれた文章から使われているいくつかの概念の関係を抽象的な構造物としてイメージするのはむずかしい。言葉をイメージに変換するのにハードルが一つあり、さらにそのイメージを今度は別の具体的な言葉に変換して説明するために、もう一つのハードルが待ち受けている。
 
ひょんなことから、ユークリッド『原論』を読み、数学の体系と経済学諸概念の体系が似ていることに気がついた、これなら、アナロジー(類推)が可能だし、説明も楽になる。 修士論文を書いているときにそのことに気がついていたら、大学に残る決意を固めただろうが、不勉強で気がつかなかった。


*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25


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