#2966 『資本論』と経済学(22):「相対的貧困率上昇と富裕層増大」 Feb. 9, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
20.<相対的貧困率上昇と金融資産1億円超の富裕層増大>
第11章<学としての『資本論』体系解説>で学問の演繹的体系の代表例として経済学と数学を「学の体系という点から」並べて論じてみた。数学は公理・公準や定義が大事である、もちろん経済学もその点では同じである。ものごとを学問的に扱うときには、その定義をしっかり決めなければならない。決めたら決めたで、それにぴったりのデータを探さなくてはならない、そこにも困難が待ち受けている。
具体的な事例で説明したほうがわかりやすいだろうから、経済記事に出てくる用語を三つとりあげて、定義とデータをセットで論じてみたい。
【相対的貧困率】
相対的貧困率とは国民の所得格差を表す指標で、全国民の年収の中央値の半分に満たない国民の割合を指す。預貯金や不動産の所有は考慮していない。
2009年のOECD調査では16.0%で、イスラエル(20.9%)、トルコ(19.3%)、チリ(18.5%)についで4番目に高い。この年は米国の調査がなされていない、2010年の調査では17.3%だから、日本は先進国では3番目(1.イスラエル、2.米国、3.日本)に貧困率の高い国ということになる。だんだん、米国社会に近づいてきている。お隣の韓国は所得格差の大きな国だが、韓国が15.3%である。
2007年度の調査では、2006年度の等価可処分所得が127万円未満となっている。
*「貧困統計ホームページ」…計算式の説明
http://www.hinkonstat.net/
http://www.hinkonstat.net/相対的貧困率/
【子供の貧困率】
子供の貧困率というのがあるが、考え方は相対的貧困率と同じである。2014年7月の厚労省発表データでは16.3%(6人に一人の割合)と過去最悪を記録した。所得格差や貧困問題は子供たちに及んで、一日一回しか食事が摂れない、慢性的な低栄養状態、栄養失調など深刻問題を起こし始めている。
【金融資産1億円超の富裕層】
次にとりあげるのは金融資産1億円超の富裕層である。預貯金や株そして投資信託の純保有額(負債と相殺後)が1億円を超える層をいう。
2013年度は初めて100万世帯を超え、100.7万世帯となった。全世帯数に対する割合は2%で、国民の50人に1人は金融資産1億円超の富裕層である。2011年比で28.1%増加している。
その一方で、資産ゼロ世帯が一昨年から30%を超えている。2012年には26%弱だったから、アベノミクスで金融資産1億円超の富裕層が増えると同時に、資産ゼロ層が5ポイント跳ね上がった。アベノミクスの負の側面である。
話を戻そう。専門用語の定義の問題だった。定義は細かいところになるとなかなか専門的で小難しいもので、相対的貧困率は「全国民の年収の中央値の半分に満たない国民の割合を指す」と定義されているのだが、実際の計算法は世帯ごとに年収を合算し、それを人数の平方根で割った値を高い順に並べ、中央値を引っ張り出して、その半分以下の世帯が相対的貧困世帯とされる。「年収」は税金や社会保険料を差し引いた手取り収入(可処分所得)で計算される。なぜ、世帯人数の平方根で割るのかを考えてみてほしい、このようにデータをグリグリいじくることはいろいろ考えないといけないから楽しいのである、トメ・ピケティもきっとそういう種族なのだろう。答えは厚労省作成の「国民生活基礎調査(貧困率)よくあるご質問*」に載っている。
* http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/20-21a-01.pdf
子供の貧困率については、「考え方は相対的貧困率と同じである」と書いたが、ちっとも簡単ではないし、「金融資産1億円超の富裕層」も金融資産にどこまで含めるかということが厳密に定義されていなければならない。金融資産は1億円以下だが、10万坪を超える土地を首都圏に持っている場合もある。そういう人は「金融資産1億円超の富裕層」には入らないから、「真の富裕層」を想定した場合にはどこまで勘定に入れて定義したらいいのか、これはこれで定義も、それに即したデータを集めるのもなかなか困難である。だから、適当なところで狭く限定した定義をして、データを集める他はなくなる。
次の章で、トマ・ピケティ『21世紀の資本』をとりあげるが、主要なデータを定義して、長期のスパンでそれに見合う先進6カ国のデータを集めることは至難の業である。ピケティはずいぶん妥協していることが明らかになるだろう。図表がふんだんに使われていて精密に見えても、集められたデータは比較性を欠くから、周辺データから攻めることでずいぶんとラフな議論にならざるを得ない。データの扱いがなかなかむずかしいのである。ピケティはデータの扱いおいて豪腕の持ち主のようだ。
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25
#2948 『資本論』と経済学(12) : 「学としての『資本論』体系解説」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-30
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#2964 『資本論』と経済学(21):「過剰富裕化論」 Feb. 8, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
19. <馬場宏二「過剰富裕化論」>
馬場先生の過剰富裕化論の結論は悲観的である。このままでは人類は滅亡の道を選択する、いや選択しつつあるという論旨になっている。人類が欲望を抑えなければならないという点では私の「新しい経済学」と一致しているが、人類が滅びざるをえないというところが相違している。
人類の未来への暗澹たる憂いを抱きながら、馬場先生は滅亡を回避するための処方箋も記している。その中に経済成長の放棄と肉体労働の重視があるが、それら二つは職人中心の経済と通底するものがある。処方箋においてはそれほど離れたものではないというのがわたしの印象である。
過剰富裕化について提唱者自身の説明をみよう。
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…過剰富裕化は如何様にして生じたか。直感的には、いわゆるダイエットといわゆるジョギングが普通に行われている社会は、過剰富裕化した社会である。この社会で普通に労働して普通に所得を得、普通に生活していたら、過食と肉体労働不足で健康が悪化する。それを回復するには、大衆レヴェルで節食と余暇における運動が必要になる、という意味である。
(馬場宏二著『宇野理論とアメリカ資本主義』2011年御茶ノ水書房 第四部「三 成長の限界 (2)過剰富裕化」462ページ)
…それだけではない。自動車化、家庭電化が生活のための肉体労働を減らし、大人の肥満を生み出すとともに、歩けない子供を生み出した。これは明らかに種としての人類の劣化である。が、この害の方は余り意識されず、殆ど騒がれなかった。この劣化は肉体的劣化から知的劣化に及ぶが、家庭電化、特にTVの娯楽番組や広告を通じて世界認識を混濁させ、IT技術の身辺化に至っては、大人の世界にすら事実認識や自己同定の混乱を引き起こしている。成長過程にある児童に及ぼす撹乱効果に至っては、想像の範囲を超える。彼らにケイタイやらゲームやらの普及が激しいことを考えれば、この表現は決して大げさではない。
ここまできたとすれば、量産型工業文明によって自然環境が修復不能にまで破壊され、グローバル資本主義化によって、自己保存型の伝統的社会が破壊しつくされ、環境ホルモンや遺伝子操作で生命維持力を破壊された人類に、類的存続を保とうとする意志と気力が残されているか否か疑わしい。
以上の考察から、資本主義が、万能薬としての経済成長を通じて世界規模の過剰富裕化を惹起し、その結果、人類滅亡を通じて自滅するのが殆ど必然だと言える。(同書486ページ)
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世界市場の出現と人類の生存環境を脅かすほど大きくなった生産力はマルクスが見ることのなかったものである。馬場先生は経済成長路線は人類の自滅のもとだとはっきり言っている。この本を書かれた後に福島第一原発事故が起きた。
馬場先生は死を前にして、経済理論学会へ次のメッセージをよせた。
#2237「過剰富裕化論提唱者の福島原発事故処理構想:遺稿 Mar. 4, 2013」より抜粋
「経済理論学会第59回大会特別部会 東日本大震災と福島第一原発事故を考える 意見・提言集」 26ページ
http://jspe.gr.jp/drupal/files/jspe59teigenshuu.pdf
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1. 原子力発電は過剰富裕化とシャム双生児である。
質的には、人力で制御し得ない生産力をもちいて、当面の金もうけや生活の安楽の資とし、自然環境を生存不可能なまでに破壊する。量的には、日本原発設置は日本経済が、まさに過剰富裕化水準に達した時点から暴走した。電力消費抑制を含めて、反原発は過剰富裕化批判である。
2. 原子力発電コストは意図的に過小評価されていた。原発なきあとの電力価格は、当然、大幅に引き上げるべきであり、それが環境維持の一助となる。
3. 原発処理を含めて、震災復興費は、付加税によるべきである。国債によるのは、亡びの道である。当代のマイナスは当代で負うべきである。負っても、まだ過剰富裕化状態である。
4. 肉体労働を高評価する風潮をつくるべきである。これが社会再生のカギである。
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1番目は馬場氏の年来の主張の過剰富裕化と原発をセットにして初めて論じた。
2番目は「原発なきあとの電力価格は、当然、大幅に引き上げるべきであり、それが環境維持の一助となる」という主張はかなり踏み込んだものであり、大胆だ。廃止と同時に過剰富裕化を軽減するために電気料金値上げを受け入れるべきだと言っている。
3番目の「当代のマイナスは当代で負うべき」というのは言葉の使い方がうまいな思うと同時に気迫を感じる。
民主党政権と同じように安倍政権も国債増発で乗りきろうとしているが、国債で賄ってはいけない、きわめて重要と思われる論点である。次世代に対して当代がどう対峙すべきか迷いのない決然とした主張である。
そうするためには付加税だけではすまぬ、特別会計予算と一般会計予算を徹底的に削るべきだ。あらゆる費用をおおよそ30~50%カットするくらい過激なことを考えないといけないのだろう。大きな痛みを伴う具体案を1年間で検討し、ただちに実行すべきだと諭しているかのようだ。やれば戦後最大の国家プロジェクト、いや日本の歴史に残る大プロジェクトになる。
4番目の「肉体労働を高評価する風潮をつくるべき」だという主張は今までの過剰富裕化論にはなかった論点であり、唐突であるが、経済成長を止めるべきだという馬場氏の主張の延長線上の発言でもある。一番最後に記したのはさらなる論考への誘(いざな)いだったからだろうか。
この論点は職人経済社会を標榜するわたしには大歓迎である、2年半前に言及したとおりの展開になったことに驚く。
私は2010年8月の#1158で過剰富裕化論をとり上げて、次のように書いている。
「資本主義経済批判であると同時にマルクス経済学批判でもある職人主義経済は過剰富裕化論といくつか接点をもつことになるだろう、そういう予感がする。」
馬場先生の絶筆のレジュメを読むとこの予感通りになったように思える。私は2年半前に理由も挙げている。
「資本主義経済で生産力の発展と拡大再生産が至上命題になってしまったのは、労働概念にもかかわりのある問題である。労働力は資本の拡大再生産のための歯車のひとつでしかない。
名人の仕事を想起すればいい、全人格的な職人仕事は生産力を発展させない。利潤追求も至上命題にはならないから、拡大再生産とも無縁である。
ひたすらいい仕事をするために技術を磨き、道具の手入れを怠らず、仕事の手を一切抜かない。ごまかしのない誠実・正直な仕事をする。
職人主義経済は正直・誠実を旨とする。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」には地球環境との調和も入っている。「世間よし」はまさにそういう価値観の表明である。自分だけがよければいい、自分の会社だけが儲かれば地球環境はどうなってもいいなどとは考えない。馬場先生と一度話してみたかった。」
馬場先生はこうも言っている、「肉体労働を高評価する風潮を作るべきである、これが社会再生のカギである」、私の用語に翻訳すると「スミス、リカード、マルクスの労働概念から神の国の職人仕事概念への転換が社会再生のカギである」ということ。
馬場先生の論にさらに付け加えたい論点がある。
鎖国(強い管理貿易)で国内に手仕事を確保すべきだ。TPPとは真逆のことをやるべきなのだ。日本はそういう時代の転換点にあることを認識すべきだ。西欧経済学の労働観に対置して「職人仕事」へ価値観の転換を果たすべきだ、そこに人類社会再生のカギがある。
日本列島に住む日本人は縄文以来1.2万年の日本列島の歴史で、初めて超高齢化社会の到来と急激な人口減少時代を迎えている。21世紀になって、ようやく新たな経済学が生まれる必然性が生じている。
馬場先生の論点:人類滅亡への道(青)と人類再生への道(緑)、二者択一。(#1164より)
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2008年9月29日青森大学で開いた特別講演のレジュメの中の「Ⅳ.歴史観・価値観の逆転」という項目を再掲する。
Ⅳ.歴史観・価値観の逆転
―人類存続の前提―
経済成長主義―世界の場合・日本の場合
利潤経済=市場主義化―民営化・規制緩和・グローバリズム
アメリカ的価値観=西欧近代思想の極限
―個人の自由
―成功至上主義
―臆面なき自己正当化
―フロンティア願望
―人種差別戦争
** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** **
―それでも、人類として唯一重要な課題、最大の努力が要る―
―金儲けと戦争の放棄
―生産より分配、発展でなく安定、民営化でなく重税国家
―経済成長を止め、物的消費水準を意図的に大幅に下げる
先進国は消費水準を下げられる、それが『過剰富裕』の意味
途上国は、先進国の下げた水準を到達目標とする
到達目標は、地球環境自動復元力の回復
前段(青‘**’より上)は逆転すべき価値観、後段(緑‘**’より下)は馬場氏が人類が生き延びるために示した指針である。
逆転すべき価値観として「利潤経済=市場主義化―民営化・規制緩和・グローバリズム」を挙げている。金融デリバリー取引は利潤極大化のために実体経済の数百倍もの規模に膨れ上がり、世界経済の時限爆弾化している。利潤を追求して株式会社は成長路線をひた走っている。
利潤追求は資本循環(拡大再生産)と相性がよい。資本主義では資本循環は個別企業にとって経済成長そのものである。馬場氏はそうした価値観を棄てろと言っているのだ。
穏やかに言い換えると、「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」路線で行けということだとわたしは理解したい。地球環境との共存は「世間よし」ということだ。
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25
#2948 『資本論』と経済学(12) : 「学としての『資本論』体系解説」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-30
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#2961 『資本論』と経済学(20):「経済成長の天井 山田久氏の論」 Feb. 7, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
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18. <#2770「経済成長の天井」:日本総研山田久調査部長の論> Aug. 11, 2014
さまざまな分野のスペシャリストが、それぞれ異なる意見を表明しているが、それらとマルクス『資本論』の公理・公準を入れ替えた「新しい経済学」を対比することで、両論の特徴がより鮮明に見えてくるから、山田氏の論に耳を傾けながらわたしの論を対置してみたい。
山田氏は貿易収支が赤字になっていることと、人手不足を「新たなハードル」と名づけている。貿易収支の赤字には供給サイドの問題が隠れており、6月の有効求人倍率1.1は22年ぶりで建設・小売・外食産業に人手不足が現れている。とくに外食産業ではアルバイトを確保できずに閉店が相次いでいる。山田氏はこれら二つの問題を個別に論じている。
[1]供給サイドの要因
「国内生産設備の圧縮+人口減少」の二つの要因の影響を挙げている。彼の論によれば、外国人労働者の受け入れ増大は根本的な処方箋にはなりえない。外国人労働者を増やして設備投資を拡大しても、将来設備過剰になることが目に見えている。人手が足りなければ生産性を上げることを考えるが、人手が足りてしまえば、そうした圧力がなくなり、生産性向上にブレーキがかかるという。
では外国人労働者が増えなければ生産性向上が実現できるのか、そんなに単純な図式ではないだろうとわたしは思う。理由は後で述べる。
[2]需要が不足するというリスク
消費拡大には賃金上昇が必要なのだが、賃金上昇のテンポに懸念がある。知的労働者の多い外食産業のアルバイトの時間給は上昇しているが、大手企業と製造業では人余りのままである。したがって、これらの分野ではボーナスの上昇はあっても、基本給アップは限定的となる。つまるところ消費拡大はないという結論である。
その通りだが、いまごろこんなことを言い出すのだからよほどのんびりした性格に違いない。
[3] 供給不足経済が広がり始めている
人口減少による人手不足で、製品やサービスの供給能力が落ちてきている。建設業界、外食産業でそれが顕著に現れている。
[山田氏の処方箋]
生産性と賃金が同時に上がればいい、それには二つポイントがある。
①物的生産性向上
②付加価値生産性向上
GDPよりはGNI(国民所得)を増加していくことを考えるべきだというのが山田氏の主張である。海外投資からの利益を増やし、その結果賃金が上がるというルールをつくっていく。物づくりは海外でやり、商品開発は日本でやる。
これは政労使会議での決定事項と同じだ。日本総研は三井住友フィナンシャルグループが大株主だから、そういう意見になるのだろうか?
日本経済の先行きを考えるときに、縄文時代以来1.2万年の日本列島で、はじめての人口縮小は高齢化と少子化の同時進行によって起きている。人口縮小時代に突入したという大きな時代認識が不可欠であることは論を俟たないだろう。山田氏の論にはそういう大局観が希薄に見える。
二つ、論点を指摘しておきたい。
一つは、海外に生産拠点を移したまま、国内で商品開発をするという分業体制を考えているが、これは一部の企業の特殊な例に幻惑されて、現実を見ていない雑な議論である。
たとえば、繊維メーカ(帝人)は海外に生産拠点を移したため、国内に30年以上工場をつくっていないという。海外子会社には工場新設の技術があるが、国内で工場新設の技術者はとっくに退職して、技術自体が失われてしまったという。もう17年も前に聞いた話だ。国内に工場がないのだから、生産技術の伝承もできない。物の生産という面では国内の技術が急速に失われつつある。裾野がどんどん小さくなっていることが、新商品がでてこない理由の一つに数え上げられるが、山田氏はそれをさらに促進しようというのだ。
伊勢神宮の式年遷宮を考えてみたらいい、建築技術伝承のために20年に一度建て替えを繰り返している。1400年もそうしたことを連綿と続けているからこそ、技術伝承がある。仕事があれば技術伝承ができるが、国内に仕事がなくなれば生産技術の伝承は途切れてしまう。
それゆえ、海外に生産拠点を移して、国内で商品開発という分業体制は国内に生産技術が失われてしまうことを意味している。
日本が上手だったのは生産現場でのさまざまな工夫・アイデアが生まれて、製品の改良や新商品のアイデアが出続けたということ。生産性向上は製造現場で仕事をするさまざまな職種の職人たちが担ってきたのである。新商品も開発チームには思いつかぬ工夫が生産現場で次々となされる。そうして高品質の新製品ができあがっていく。生産現場で工夫がなされることで高品質の製品が市場に出せる、松下産業が典型的な企業だろうし、トヨタだってそうだ。米国型の生産と商品開発のような分業システムは日本では稀だったし、これからもそうだ。
生産拠点を海外に移し、国内では商品開発を行うというのは、日本的な商品開発のやりかたを不可能にしたり、生産工程改善の芽を摘む愚かな政策にみえる。
二つ目の論点だが、山田の処方箋「海外投資家らの利益を増やし、その結果賃金が上がるというルールをつくる」ということだが、これも幻想で、現場を知らぬ学者の論と同じ。
日産のカルロス・ゴーンが最悪のお手本をみせてしまった。リストラと非正規雇用増大による利益拡大、そして役員報酬相場を跳ね上げてしまった。この20年間で役員報酬は2倍になったが、サラリーマンの平均年収は下がっている。
厚生労働省が公表している「毎月勤労統計調査」によれば、1997年の月額37.1万円をピークに減り続け、2013年度は月収31.4万円になっている。ピークに比べて15.4%も低下している。非正規雇用割合がじりじりと上がり続けているからだ。
*http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_eco_company-heikinkyuyo
生産年齢人口はこの数年で200万人減少しているから、平均月収の低下と勤労者人数の低下のダブルパンチでは消費が増えるはずがない。
(暮れの12月24日になされた静岡経済研究所の「主婦の消費動向アンケート調査」では「景況感はやや後退、家計の引き締め傾向強まる」、主婦の7割がこれから一年間財布の紐を締めると回答している。この経済研究所の分析では、消費税アップと円安による物価上昇が主婦の行動を引き締めに変えたということだ。内閣府が毎月「景気ウォッチャー」調査を公表しているが、11月のそれは「先行き判断悪化」だった。理由は物価上昇によって企業収益や消費者行動に危険信号がともりはじめたからだ。)
*静岡経済研究所「主婦の消費動向調査」
http://www.seri.or.jp/news/press/post_67.html
無能で度量の小さい経営者達がこぞってカルロス・ゴーンを真似て社員をリストラし、非正規雇用を増やすことで利益を確保することに慣れきってしまった。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」には、企業で働く人々の仕事のしがいや幸福も入っていたはずだが、こうした伝統的な商道徳を忘れてしまったかのような経営者が巷にあふれ出しており、日本の伝統的な経営観が失われつつある。
しかし、「売り手よし、買い手よし、世間よし、働く人よしの四方よし」を実際の経営でやるのはなかなか厳しい。経営者に高い能力と大きな度量が要求される。高いレベルで経営のバランスをとるためには高い経営能力が要求されることは当然であるが、そういう経営者たちは次々にこの世を去り、倫理レベルの低い取締役たちが名門企業で次々に増殖していった。経営倫理基準と経営能力の低い経営者たちは利益を上げるために社員をリストラし非正規雇用を増やす、簡単に利益が出るからだ。心理学的に言うと「近道反応」である。その結果、役員報酬は2倍になったが、正規雇用の社員と非正規雇用をあわせた勤労者の平均年収が減少している。サラリーマン男子の4人に一人が300万以下の年収だという。自分さえよければという倫理基準の低い経営者が増えている証左だろう。
人口減少時代は経済規模の縮小の時代でもあるから、過去の日本のように経済成長によって所得(分配)を増やすことはできないから、分配の公平性をどこかで保障しなければならない。現実は非正規雇用割合の増大によって労働分配率が低下しつつある。
法人企業統計によると企業の内部留保は1998年には131.1兆円だったが、2012年には304.5兆円と173.4兆円も増えている。14年間で2.3倍である。別の資料で調べてみたら、2013年度はさらに23.4兆円増えて327.9兆円になっている。2014年度は株価が上がっているから評価益が出てさらに50兆円以上増えるだろう。追って公式統計が明らかにしてくれる。サラリーマンの平均年収が下がっているのにこの14年間で民間企業の内部留保が2.3倍に膨らんだということは、労働分配率が低下しているということ。
*「法人企業統計から見る日本企業の内部留保(利益剰余金と利益分配)」前財務省総合政策研究所次長岩瀬忠篤、財務省総合政策研究所調査統計部佐藤真樹共著
http://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/f01_2014_03.pdf
どのデータも同じことを告げている、強欲な資本主義が日本中に蔓延してしまったのがこの20年間だ、山田氏は牧歌的すぎる。
日本企業の経営者たちの倫理水準はいまや米国の経営者たちと同レベルである。グローバリズム(強欲な者たちの資本主義)が日本の経営者たちの心を蝕みつくした。
私の処方箋は、生産拠点を国内に築き、国内雇用を確保することだ。強い管理貿易(=経済鎖国)をして、日本国内で生産できない商品のみ輸入すればいい。安全で高品質なものだけ国内生産を行い輸出すればいい。肉体労働を伴う雇用の場を飛躍的に増やせば、学力競争に敗れた過半数の若者たちを救える。若者たちに安定した職が保障されれば、少子化にも歯止めがかけられる。
強欲な資本主義から小欲知足の職人主義経済へ移行しよう。
工場だけでなく生産の仕組みや生産技術そして資材調達の仕方も含めて輸出したらいい。それが21世紀に日本が世界に対してなしうる貢献の最善のものである、志を高くもとう。
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25
#2948 『資本論』と経済学(12) : 「学としての『資本論』体系解説」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-30
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#2960 『資本論』と経済学(19):「日本経済の未来」 Feb. 6, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
Ⅲ.日本経済の未来(人口減少と高齢化を見据えて)
17. <人口統計から見える未来>
日本では世界に例を見ないほど高速に少子化と高齢化が加速的に進行している。縄文時代を含めて1.2万年の日本列島の歴史のなかで、初めて遭遇する長期にわたる人口減少はなにを意味しているかと、わたしたちは問うべきだ。
推計データを並べてみると、人類がこれから遭遇する困難な時代に日本人が無意識に備えを固めているという深い意味が隠されているようにも読める。
2060年には世界人口は100億人付近にあるから、世界的な食糧不足と食糧相場の高騰が予想される。貧乏な国ではたくさんの餓死者が出るだろう。日本も経済格差がこのまま固定、あるいは拡大すれば、国際穀物相場や食品相場が上昇すれば食費にお金が回しきれない家庭が増える。そのときに、人口が4000万人減っていれば食糧の輸入が途絶えても、自給がなんとか可能になる。人口減少はそういう時代に向かって、日本人が無意識に準備をしているとの解釈もありうる。人口減少になにか大きなものの叡智を感じないだろうか?
どういう状況が現出するかを推計データでごらんいただきたい。日本の人口推計データは社会福祉・人口問題研究所のものである。世界人口推計は国連や米国科学雑誌に載った最近の研究報告データ。
人口推計データ | ||||
(千人) | (千人) | (千人) | (億人) | |
年 | 総人口 | 生産年齢人口 | 生産年齢人口減少数 | 世界人口 |
(2010) | 128,057 | 81,735 | 77 | |
(2020) | 124,100 | 73,408 | 8,326 | |
(2030) | 116,618 | 67,730 | 5,678 | |
(2040) | 107,276 | 57,866 | 9,864 | |
(2045) | 102,210 | 53,531 | ||
(2050) | 97,076 | 50,013 | 7,853 | 96 |
(2060) | 86,737 | 44,183 | 5,830 | 100 |
(2070) | 75,904 | 38,165 | 6,018 | |
(2080) | 65,875 | 32,670 | 5,495 | |
(2090) | 57,269 | 28,540 | 4,130 | |
(2100) | 49,591 | 24,733 | 3,807 | |
(2110) | 42,860 | 21,257 | 3,476 | 123 |
右端の世界人口が現在の77億人から35年後の2050年に96億人に、そして2110年に123億人に急増していくのに、日本の人口は1.28億人から4280万人へ減少し続けるのである。世界の流れに逆らって、先手を打っているようにはみえないだろうか?
2013年時点で生産年齢人口がピーク時よりも200万人減少している。非正規雇用は全雇用者の40%を占め、比率は年々拡大を続けているから、勤労世帯の総所得は人口減少を上回る速度で減少することになる。
勤労世帯の所得は消費拡大の素(もと)であるから、その所得合計が小さくなれば、消費が減って景気は長期にわたって悪化する。合計所得は次の算式であらわされる。
①生産年齢人口×②就業率×③一人当たり所得=勤労世帯の所得合計
勤労世帯の所得合計は三つの変数の積で決まる。生産年齢人口は15歳から60歳の年齢層だが、すでにピークよりも200万人ほど減少して、外食産業の一部で若者のアルバイトを確保できずに閉店が増えている。一つの会社で百店舗以上閉店せざるをえなくなっているところもある。
以下、三つの変数を一つずつ検討してみよう。
【生産年齢人口の急激な減少】
これから50年間で生産年齢人口が半減するから、ブラック企業と噂の立った企業には人が集まらなくなる。生産年齢人口の減少は、社員を大事にしない企業に大きなツケを支払わせることになるだろう。長期的に見れば、社員の生活をないがしろにするような企業は人口減少時代を生き残れない。こういう淘汰が進むのはいいことだ。ここでは生産年齢人口が激減していくことを押さえておけばよい。
生産年齢人口の減少は企業に変革を迫っているのだから、それを正面から受け止めよう。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」に「その企業で仕事をする人もよし」を付け加えたい。それを実現する経営力を持ち合わせた経営者はめったにいないからそうした企業は少ない。経営力の貧弱な経営者は取締役の報酬は増やすが、社員をリストラし、非正規雇用を増やして、人件費を切り下げることで利益を増やそうとするカルロス・ゴーンのような劣悪で強欲な経営者をマスコミが持ち上げてはいけない、ダメなものはダメと言おう。
会社は短期的な売買を繰り返すような株主のものではないし、もちろん強欲な経営者のものでもない。
(2010年比で見て、生産年齢人口は2040年には70.8%の5786万人へ、もう一世代後の2070年には46.7%の3816万人へ激減する。一人当たり勤労者所得が同じだと楽観的な假定をしても経済規模(国内消費)は2040年に7割、2070年には半分以下になる。)
【就業率は横ばい】
人口減少時代の就業率の見通しはどうか。専業主婦でも家計を助けるために子供の塾通いや進学にお金がかかるからアルバイトをしている主婦は多い。非正規雇用だから給与は正規雇用に比べて同じ時間を働いても三分の一程度である。すでに専業主婦が少ないから、就業率を上げるのも困難だ。政府はこの15年で療養型病床を10万ベッドも政策的に減らしてきたから、認知症老人を家庭内で介護せざるをえない状況が生まれており、介護のために退職を余儀なくされる家族が増えていることも、就業率にはマイナスに働く。
1月13日のテレビ報道によれば、2007年10月~2012年9月までの5年間で、48.7万人が介護を理由に退職。8割の38.9万人が女性、50歳代の女性が多いという。施設数を減らして政府はしゃにむに在宅介護を増やそうとしているが、直近では介護退職は年間10万人に増えている。
【一人当たり所得は漸減】
一人当たり所得はどうだろう。非正規雇用がほぼ40%にまで上昇しているから、勤労者一人当たり所得はこの5年間で10%ほど低下している。このままでは非正規雇用が50%を超えるのは時間の問題である。正規雇用者の給与を上げても、平均給与水準は低下し続ける。
こうしてみると人口減少に伴い三つの変数の内、①「生産年齢人口」が著しく減少し、②「就業率」は横ばい、そして非正規雇用割合の増大によって③「一人当たり所得」は漸減していくから、勤労世帯の所得合計額は長期的な低落傾向を免れない。政府は大企業に賃上げ要請をしたり、この10年間ほどで療養型病床数を10万ベッド減らしているが、経済成長という点からみるとちぐはぐで、整合性がない。
25年後である2040年の日本の人口構成は1億2百万人(ピーク時に比べて約20%減)、生産年齢人口は5786万人(ピーク時に比べて約30%減)である。日本の経済規模はピーク時に比べておおよそ25%縮小(GDPは500兆円から400兆円に縮小)するだろう。こういう大きな長期的変化の中で経済政策も考えなければならないのだが、現実は経済が縮小し始めているのに成長路線へ舵を切るというちぐはぐなことをやっている。
日本列島には縄文時代以来1.2万年の歴史があるが、このように長期にわたる加速的な人口減少は経験がない。そういう大きな視野から国家戦略を考えるべきだ。
急激な人口減少という事実から、日本経済の縮小は避けられない、それゆえ経済規模が拡大を前提にした成長路線はありえない話である。とるべき道ははっきりしている、日本経済の縮小を前提に経済政策を立案すべきだ。たとえば、インフラは維持すべきインフラと廃棄すべきインフラに分けて政策判断を行うべきだ。
[人口減少と明るい未来]
では日本の未来は暗いか?そうではない、縮小するからこそ明るいのである、だから人口縮小をとめる必要はない。国連の推計によれば2100年には世界の人口が109億人に達するという。昨年9月に米国の科学雑誌「サイエンス」に掲載された米国と国連共同チームの推計によれば123億人となっている。
2050年には96億人という推計が国連から昨年6月に出ている。2040年に世界の人口が90億人だと假定しよう。現在よりも13億人も増えるから、地球上にもうひとつの中国生まれるようなものだ、その結果世界中で食料の争奪がいまよりもずっと深刻な様相を呈することになる。中国は自国のEEZの水産資源を獲り尽くし、なりふり構わず他国の領海へ侵出してくる。
台湾(中国)が北太平洋の公海上に1000tクラスの大型漁船を10隻も浮かべてサンマ等を取り捲っている。船倉は大型の冷凍庫になっており、獲った魚はすぐに冷凍され、箱詰めされる。3000tクラスの輸送船が北太平洋上でフル操業しているこれらの漁船を回って冷凍された新鮮なサンマを回収して台湾へと向かう。買い手は中国である。いくらでも買い付けをするから、獲れば獲るほど利益が出る。こういうビジネスモデルがすでに確立している。サンマは一尾50円で中国本土で売られている。根室よりも安い。中国人はサンマは香ばしくて美味しい魚だと喜んでいる。冷凍技術の進化で北太平洋公海上はまるで中国の領海化しつつある。
中国ばかりでない、インドも人口が増えており、まもなく中国を抜いて世界一になる。どちらの国も食料を大量に輸入することになる。日本でこのまま経済格差が拡大すると、食料調達のできない低所得層が急拡大しかねない。すでに母子家庭で子供に三度の食事を食べさせる余裕のない家庭が現れ始めて、社会問題化しつつある。
2040年に人口が1億7百万人(ピーク時の13%減)になると、食料の自給率が大幅に改善できるし、都会の通勤ラッシュも生産年齢人口が2600万人(ピーク時に比べて30%減)も減少するので解消されるだろう。
2世代後の2070年を見ると日本の人口は7590万人でピーク時に比べて38.3%減少し、生産年齢人口は55%減少する。北海道の食料自給率は現在200%といわれているが、19億人人口が増えて世界人口は96億人になるから、35年後の北海道はじつに有利な条件を備えていることになる。 環境を汚染せず、水産資源を維持していくことができれば未来は明るい。問題は子供たちの教育である。
*「日本の人口推移(生産年齢人口推移)」 生産年齢人口のピークは1995年
http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/shakaihoshou/dl/07.pdf
[人類の遺伝子劣化を防ぐ努力]
原発事故による放射能汚染は日本人の遺伝子の劣化を招く、プラスチック製品は海洋に流れ出して、世界中の海の数箇所にたまり、紫外線で劣化しながら波の力でぶつかり合ってミクロン単位の小さなものに分解され、魚類の体内に取り込まれつつある。魚の内臓はミクロン単位やナノ単位のプラスチック微粒子で汚染されてこのままではいずれ食べられなくなるだろう。最終的には人間の体内へ取り込まれるから、遺伝子劣化を招く大災害となって人類を襲う。原発は事故を起こさなくても核反応によって半減期2.3万年のプルトニウムを生成するから、人類の遺伝子にとって深刻な脅威となる。原発とプラスチックはいま手を打たないと間に合わない。環境に出てしまったら微粒子だから取り除きようがなくなる。
小さなことだが、ペットボトルの使用をやめてガラスのリターナブル・ボトルにしよう、大人の責任だから大きなこともしっかり取り組もう、原発をやめてこれ以上使用済み核燃料を増やさないようにしよう、未来の子供たちのためにわたしたち大人がやれることはいくらでもある。
[生産拠点を増やすためにいまやるべきは鎖国政策]
日本から失われた生産拠点は強い管理貿易(鎖国)によって再構築できる。そうすれば若者に正規雇用の職が保障できる。生産拠点さえあれば団塊世代が前の世代から受け継いだ技術を若い世代に渡すことが可能になる。いま必要なのは、米国のスタンダードに合わせることではなく、それに背を向けることだ。日本には職人中心の経済社会を築き安定と豊かさを実現するためにこれから300年間鎖国の眠りにつくという選択肢がある。
学力の低い者たちにも正規雇用を保障するためには、強い管理貿易に切り替えて国内に生産拠点を取り戻し、手仕事、肉体労働を増やすべきだ。そのためには徒弟制度を研究して職人を育成するシステムを作り直さなければならない。一人前に職人になるには強靭な辛抱力が要る。そうした観点から、家庭のしつけと学校教育や進路指導を見直そう。
日本は環境と調和する手仕事の職人中心の経済社会を創りあげて、生産システムとそれを支える価値観、「小欲知足」「浮利を追わない」「売り手よし、買い手よし、世間由の三方よし」を世界中に輸出しよう。こんなことを21世紀にやれる可能性があるのは世界中で日本だけ。
誇りと使命感をもってなすべき課題と取り組む姿は、学校の先生たちと同じだ。日本はそういう価値観をあらゆる職業の人たちが共有できる国だとわたしは思うのである。
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25
#2947 『資本論』と経済学(11) : 「労働観と仕事観:過去⇒現在⇒未来」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-29-4
#2948 『資本論』と経済学(12) : 「公理書き換えによる21世紀の経済学の創造」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-30
#2950 『資本論』と経済学(13) : 「経済学体系構成原理は四つ」 Jan. 31, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-31-1
#2951 『資本論』と経済学(14) : 「第1の公理を巡って:マルクスの労働観と日本人の仕事観」 Jan. 31, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-31-2
#2952 『資本論』と経済学(15) : 「対極にあるもの:ヨーロッパ労働観⇔と日本の仕事観」 Feb.1, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-31-3
#2953 『資本論』と経済学(16):「日本人の仕事観:仕事は楽しい!」 Feb.1, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-02-01
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#2958 『資本論』と経済学(18):「教育の職人」 Feb. 5, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
16. <労働者ではなく「教育の職人」としての誇り>
学校の先生は「教育労働者」ではなく、プロの仕事人である。プロの技を磨いて、真摯に仕事をする、普段は60%で十分だが、必要な局面では渾身の力で仕事する。自分が受け持っているかわいい生徒たちの学力を上げて生徒が自信を取り戻した表情を見た人は自分がしている仕事を「苦役」だとは思わない。
どの職業も、人様のお役に立って、喜ばれてこそなんぼのもの。「先生、独りで文章題解けるようになった」と笑顔の生徒をみるのはうれしいもので、この職業ならではの歓びがある。仕事を通じて歓びがあれば職業に対する誇りも生まれる。学校の先生は日々学び、教育技術を磨き、生徒と共にある、教育の職人であれ!
教師の仕事は「工場労働」ではない。マルクスが『資本論』で想定したのは工場労働者の労働、しかし教師はインテリ。皮肉なことに『資本論』を書いたマルクスも、ロシア革命を成し遂げたレーニンも、労働者ではなく大学に職を求めて得られなかったインテリだった。共産主義や社会主義という言葉は、体制からスピンアウトしてしまったインテリの方便。実態は労働者階級の革命という看板を掲げて扇動し、インテリがちゃっかり権力を奪取した。
レーニンが這い上がるには「革命」を起こして政治指導層に君臨するしかなかった。労働者はインテリたちが指す将棋の駒に過ぎない。(マルクスは悲運だった。ドイツで何度か大学に職を求めたがかなわない、そして英国に亡命せざるをえなくなる。マルクスはロンドンに亡命してから、工場経営や株で稼ぐエンゲルスの扶助を受けて大英図書館で経済学の研究に打ち込み、貧困の中で64歳で死去。)
[根室の市街化地域の3中学校の状況]
根室の中学校の先生たちはこういうヨーロッパの「労働観(労働は苦役である)」の呪縛から自らを解き放ち始めているように見える。生徒の学力を上げようと、底辺の学力の生徒たちに放課後補習をするようになってきた。以前から市街化地域の3中学校では8年前にも数人いた、しかし数人だったし、学校として校長がバックアップしたものでもなかった。それがいまでは集団の動きになっている、学校としての取組に変りつつあるのは喜ばしい。
一部では小中学校の先生たちの定期的なミーティングも始まっている。中学校の先生の立場から、小学校の授業に注文をつける必要がある。4年生程度の漢字の書けない中1の生徒や、分数や少数の加減乗除算混合算のできない中1の生徒が3~4割いる現状は、小学校の授業のやり方から見直さないといけない問題をはらんでいる。小中の垣根や学校教育と教育問題に関心のある地域住民との垣根を越えた議論が必要である。
[プロフェッショナル]
こういう名前のNHKの番組がある、この番組は長寿番組で、すでに254回放送されたから、この番組の本数をみても日本にはたくさんの種類の一流の職人がいて、社会を支えていることがわかる。2月3日放送は「羽田空港日本一の清掃員」だった。ビル清掃の達人の新津さんが取材されていた。中国瀋陽生まれの新津さんは中国では日本人と言われて差別を受け、日本へ来てからは「中国人」と言われて差別を受けたという。ビル清掃の職に就くが、清掃が最下層の職であることを知る。だが、自分にはそれしかないと思いきめ、それならこの道を究めてみようと考えを変える。何度訊いても、どうやっても指導員の鈴木さんはほめてくれない、「もっとこころをこめなさい」というだけ。清掃技能選手権に出場するも優勝できない。さらに努力を続けて、優勝する。指導員の鈴木さんに報告すると、「優勝するのはわかっていたよ」との返事。日本一になることを確信していたのだという。
80種類の洗剤を使い分けて徹底的に汚れを落とす。お客さんの気持ちになって何が必要かを考えて行動する。トイレの手の乾燥機の排水溝に雑菌が繁殖すると異臭の原因になる。新津さんはそれを清掃する細長いブラシをメーカと共同開発した。プロの仕事は目に見えないところも手を抜かない。
部下の作業員から、トイレの黒ずんだ汚れの相談があった。「どうしても汚れが落ちません」と報告を受けると、現場に出向いて観察、滑り止めの表面のでこぼこ処理が邪魔をして低い部分の汚れが落ちないことに気づき、ウォッシャーに取り付ける素材を替えて試してみると、みごとに汚れが落ちた。そのあとの実に晴れ晴れした顔がよかった。
「日々努力し、こころを込めて…」それがプロフェッショナル、清掃の職人だと、新津さん。「自分の家だと思って仕事する」「空港がきれいですね、それで十分、誰がやったかはどうでもいい」、すごい人だ。羽田空港は2年連続で「世界一清潔な空港」に選ばれた。
その新津さんが尊敬するのが高層ビルの窓拭き30年の羽生田信之さんだ。その技も取材されていた。汚れを落とした後、水切りをするが、水きり道具を左右上下に手首を返しながら3回動かすだけで完璧に一つの窓の水切りを完了する、そして余分な水が下に落ちないように丁寧にふき取る。プロの技は無駄がなく完璧だ。プロフェッショナルとはと問われて、「いつまでもときめきを忘れない、永遠の初心者」と応えた羽生田さん。初心者はのろくてもけっして事故を起こさない、高層ビルの窓拭きは高所作業なので危険が伴うから慣れが一番恐ろしい、こころはいつまでも「初心者」であり続ける。
日本には渾身の力で仕事をする、レベルの高い一流の職人がさまざまな職業分野で活躍している。日本は世界にまれにみる職人経済社会・職人文化の国なのである。
*NHK番組「プロフェッショナル」「清掃のプロ」スペシャル (第254回2015年2月2日放送)
http://www.nhk.or.jp/professional/2015/0202/index.html
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
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#2947 『資本論』と経済学(11) : 「労働観と仕事観:過去⇒現在⇒未来」 Jan. 29, 2015
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#2948 『資本論』と経済学(12) : 「公理書き換えによる21世紀の経済学の創造」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-30
#2948 『資本論』と経済学(12) : 「経済学体系構成原理は四つ」 Jan. 29, 2015
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#2951 『資本論』と経済学(14) : 「第1の公理を巡って:マルクスの労働観と日本人の仕事観」 Jan. 31, 2015
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#2952 『資本論』と経済学(15) : 「対極にあるもの:ヨーロッパ労働観⇔と日本の仕事観」 Feb.1, 2015
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#2953 『資本論』と経済学(16):「日本人の仕事観:仕事は楽しい!」 Feb.1, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-02-01
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#2955 『資本論』と経済学(17):「要領の悪いものほど忙しいとぼやく」 Feb.3, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
15. <仕事の要領の悪い者ほど「忙しい」とぼやくのはなぜ?>
ほんとうに仕事がそんなにきついだろうか?団塊世代のわたしの小学校の担任T木先生はしょっちゅう放課後補習してくれた、「わからないもの残れ!」って。いまは小学校の先生たちはそういうことをしないようだ。時代が違う?検討してみよう。
事実もしくはデータを並べてみる。担当する授業時間数は前章で挙げたが平均週17.7時間である。一日平均3.5時間だからそんなに多いわけではない。空いた時間を使って相当の事務処理が可能だ。アンケートに答える時間や報告書を書く時間はある。民間会社だって要領の悪い者は一枚の報告書を作成する似の半日掛かるものもいるし、1時間で軽く仕上げてしまう者もいる。
1クラスの小学生の学力は58年前の半分以下になったが、2014年度全国学力テストの成績は全国最低レベル、都道府県データを基にした偏差値で37(全国の小学校が百校あると假定すると北海道は90番目ということ)。47都道府県で競争したらほとんどゲレッパ(ビリ)。全国学力テストの学校別・科目別正答率と全国平均値との差は、先生たちの普段の仕事への客観的数値による勤務評定でもある。
仕事の成果がまるで出ていないのに仕事がきついと感じ、自分の仕事のやり方に問題があると考えないのは、「神経麻痺」か「不感症」という病気を患っているからだ。
仕事のやり方や指導の仕方に問題があるとは考えず、何かよくないことがあればそれは自分ではなく、自分の外側に原因があると考える、これでは自己改革のチャンスを失う。
仕事の成果が出せないのに、生徒のいない夏休みや冬休みに登校して判だけ押して帰ってくるなんてことは民間企業のサラリーマンにはありえない。自分の生徒たちの平均点が全国平均値を下回っているのは、民間企業にたとえると仕事の成果があがっていない、すなわち赤字だということ。夏休みや冬休みの長期休暇をとっている場合ではないというのが民間企業の感覚。
会社が赤字なのに社員がいっせいに長期休暇をとっているようなもの、民間企業なら客はやる気のなさにあきれてその企業の製品を買わなくなる。
一斉長期休暇が年に2回あって、それでも仕事がきついと感じるのは、マルクスの労働観でこころが汚れてしまって、本来歓びであるはずのものが苦役に変わってしまっていることに気がついていないからではないのか。よく観察したら原因の大半は働いている自分のこころ(労働観)にある。
新卒で3年やったら、授業のやりかたにも慣れてしまうし、必要な補助教材も一通り蓄積ができてしまう。4年目からはずっと仕事量が減るのが道理だ。本当にきついのは最初の一年だけ、それでも仕事がきつければどの仕事がきついのか、やっている仕事のリストを作成して優先順位の低い順に2割カットしたらいい。残った業務のうち、量の多いものからやり方をかえるべきだ。時間を食っているのが、授業時間数なのか、授業の準備時間なのか、部活指導なのか学校行事なのか、それとも報告資料作りなのか、生徒の評価資料作りなのか、それ以外の事務仕事なのか、日・週・月・季節・学期に分けて業務のたな卸しをして具体的に業務時間量を記入して眺めたらいい。やる必要のない業務が2割はある。
民間企業は業務の棚卸しをして、重要度の低い順に3割カットする。残りの業務を分析して実務デザインを変えてしまう、仕事にかかる時間は必要なスキルがあれば驚くほど短縮可能だ。
*注-5「民間企業の生産性向上の実例」
1年まわしたら、作成した実務フローチャートを後任に渡して、別の仕事にチャレンジする。前任者から引き継いだルーチンは一日2時間もあれば十分なように仕事のやり方を変えてしまえば時間の余裕がたっぷりできる。余裕ができて仕事時間にチョムスキーの構造言語学に関する著作を読んでいることもあった。会社の図書室にある数十種類の海外の科学・医療分野の専門雑誌に目を通す暇だってあった。要するに仕事のやり方しだいなのである。プロジェクトにお呼びがかかっても、もちろんルーチンワークには支障がまったくでない。
仕事のできるものは「忙しい」とは決して言わない、前任者の3倍量の仕事をしても次々に業務改善をすれば仕事はちっとも忙しくない。
fact:先生たちの平均授業時間数は週17.7時間。一日当たり3.5時間に過ぎず、他の諸国に比べても少ない。
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25
#2948 『資本論』と経済学(12) : 「経済学体系構成原理は四つ」 Jan. 29, 2015
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#2953 『資本論』と経済学(16):「日本人の仕事観:仕事が楽しい!」 Feb.1, 2015
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#2953 『資本論』と経済学(16):「日本人の仕事観:仕事は楽しい!」 Feb.1, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
14. <日本人の仕事観:仕事は楽しい!>
日教組がお題目のように唱えている「30人学級がいい!」、「仕事量が多すぎる!」は本当のところと悪しき労働観の問題に分けることができそうだ。前者は事実だろうか、民間企業の仕事量や業務改善を引き合いに出して、仕事観の問題を論じてみたい。
【民間企業の仕事量】
民間企業の実例を挙げてみたい。 わたしは1979年、20歳代の終わりから30歳代半ばまで軍事用・産業用エレクトロニクス製品の輸入商社で働いていた。中途入社すると社長はすぐに全取締役が参加する財務委員会を立ち上げ、その下にそれぞれ目的を異にする6つの委員会ぶら下げた。その結果、実働部隊はわたしだけというプロジェクトを5つ(長期経営計画委員会、資金投資計画委員会、収益見通し分析委員会、電算化推進委員会、為替対策委員会)抱えることになったから、仕事の終わるのは週に3~4日はほぼ終電(0時過ぎ)間際、仕事は終わっていないのだが、そこでやめないと終電車に乗れない、そういう楽しい状態が5年間続いた。
[輸入商社入社の経緯]
新聞で見つけた2社に応募書類を送って、某有名ファッション企業のペーパー試験の後、社長面接をして入社が決まっていた。国内の子会社の経営管理を担当するか、NY支点勤務かどちらかに決めたいので、少し時間が欲しいと言われていた。それでもう一つの会社の採用担当役員へ応募辞退を電話で告げたら、とにかく来て社長に会っていけというので、会社を訪れた。案内されて社内を歩いてみたらマイクロ波計測器やや制御用コンピュータがごろごろしていた。社長室で30分ほど話したら、社長は慶応大大学院経済学研究科で経済史を専攻したという、わたしのいた東経大大学院の入試難易度は当時は慶応大学大学院経済学研究科とほぼ同じだった、話しているうちになんとなく気があってしまった。結局、産業用エレクトロニクス製品の輸入商社へ就職することになり、先に決まっていた会社へは、手紙を書いて辞退した。そういう事情があったからなのか、仕事の任せ方が半端でなかった。役員主体のプロジェクト6つの内、5つを中途入社したばかりのわたしに任せたのである。飛躍のチャンスをもらった、あの五年間がなければその後のわたしはなかった、二代目社長の関周氏に感謝している。18歳くらい年上だった。初代はスタンフォード大学で、ヒューレットやパッカードと一緒に学んだ。あのHP社の創業者である。わたしが入社したときには、初代はとっくになくなっており、2代目ががんばっていた。YHPへの資本参加を断念し、移籍希望の社員を新会社に移籍させ、残った社員で軍事用・産業用エレクトロニクス関係の欧米50社の輸入総代理店として事業を続けていた。その後為替が変動相場制に移行し、業績が嵐の中の船のようにアップダウンを繰り返していた。環境の激変に対応できる人材を求めていたのである。大きな仕事を任せてもらえる絶妙のタイミングで応募した。
[HP67とHP97を駆使した経営分析に基づく経営改善]
仕事を効率的にやるために経営分析で必要な統計量計算を、すぐに科学技術計算用のプログラマブル・キャリュキュレータHP67とHP97を使ってプログラミングし、25項目の経営分析指標を計算したり、25項目のレーダチャート用基準ゲージを造るために、データの線形回帰分析を繰り返した。入社早々、すぐに自社の5年間の財務データや人員データをベースに電卓をたたいて経営分析をしいたら、社長の関さんが米国出張のお土産に当時11万円もするHP67をお土産に買ってきてくれた。その2ヶ月後に社長が米国出張から戻ると、朝机の上にプリンタのついた卓上型のHP97があった。社長秘書のH金さんに訊いたら、社長がHP67のキーが小さいので、ブラインドタッチで叩けるHP97を買ってくれたとわかった、うれしかった。当時、22万円もする製品だった。HP97はプリンタがついているだけでどちらも性能は一緒、長さ8cm幅1cmの磁気カードにプログラムもデータも保存できる。線形回帰分析も曲線回帰分析も自在にできるすぐれもの。理系の大学院でもなかなか買ってもらえない高性能の科学技術用プログラマブル計算機だった。
* HP97
https://www.google.co.jp/images?q=HP97&rls=com.microsoft:ja:IE-SearchBox&oe=UTF-8&rlz=1I7SUNA_jaJP310&gws_rd=ssl&hl=ja&sa=X&oi=image_result_group&ei=ZiDOVIPsO4qM8QW9yYLQCg&ved=0CBQQsAQ
** HP67&HP97(Wikipedia)
http://en.wikipedia.org/wiki/HP-67/-97
この2台のヒューレットパッカード社の計算機に採用されていたプログラミング言語は逆ポーランド記法の科学技術計算専用のプログラミング言語だった。1週間でそれぞれ400ページある英文の操作マニュアルとプログラミングマニュアルを読み切り、使った。英文がやさしくマニュアルの出来がよかったので読み切れたのだろう。使ってみてその威力の大きさに驚いた。1日かかっていた計算が30分で終わるのである、それだけではない、入力データだけチェックすれば、あとはプログラムがやるからチェックが不要、なんと便利だろう、そう実感した。
自社の経営管理用に、過去5年の線形回帰データを元にして、アレンジを加え、5ディメンション(収益性×6、成長性×6、財務安定性×6、活動性×3、生産性×6)、27項目の経営分析モデル*(注-3)を作った。27項目の各ゲージを線形回帰分析データやそれが使えない場合は、理想型を想定してゲージを作成した。円定価システムや納期管理システム、外貨決済管理システムと連動してその経営分析システムは自社の財務安定性と収益性改善に絶大な威力を発揮した。
1979年に開発したそのモデルは、1992年に臨床検査会社で子会社8社の業績評価に利用した。このモデルはMSDI(経営管理用標準偏差指数)を計算して、会社の業績を総合偏差値で評価できる優れもので、開発した1979年当時では日本では最先端のシステムだった。臨床検査会社へ転職してから、EXCELに載せ替えてやった仕事の文書、『平成4年度グループ会社業績報告書』(平成5年3月23日付け)が残っている。会社の買収や取引先臨床検査会社の経営分析にも利用した。
[三つのプログラミング言語の習得]
1年後には経理業務と給与システムが載っているオフコンのプログラミングをマスターして必要なデータを取り出し編集してプリントアウトするプログラムを作った。新しい技術を覚えてそれをすぐに使えるというのは楽しいものだ。個人で2千万円のオフコンや数千万円の汎用小型機を購入してプログラミングすることなどできるわけがないのだが、それが「会社という共同体」では可能になる。
二番目に習得した言語はCOOLというダイレクトアドレッシングのオフコン用の面白い言語、12桁の数字を演算子と3個のオペランドに機能を分割した面白い言語だった。納期管理と外貨決済管理用のシステム開発をしてもう一台コンピュータを導入したので、三番目にはコンパイラ系言語Progress-Ⅱもマスターした。
プログラム言語は一つ覚えると、表記の仕方が違うだけで、アルゴリズムは一緒だから次々にマスターできる、文系でも物怖じせずにアタックすればいいのだ。プログラム言語それぞれに特徴があって比較ができて面白い。わたしの本来のスキルは経理にあるのだが、ついにこの会社では資金計画を担当させてもらっただけで、経理のルーチン業務を担当することがなかった。予算編成の統括業務と予算管理や経営分析、経営管理業務は異動してもずっと担当することになった。社員数が160人程度の会社では属人的な業務がどうしてもできてしまう。
1979年当時は、経理がわかって経営管理ができて、為替管理の仕組みの考案やそれにマッチした輸入実務フロー・デザインとコンピュータシステム開発とシステム管理のできる人材が必要だった。経営改善というのはそういう専門領域がいくつもぶつかり合ったところで生じ、複数の専門知識と技術があって初めて解決可能になる。
このころはコンピュータやシステム開発関係の専門書を数十冊読み漁った。自分の仕事の省力化を推し進めると余剰時間が生まれるから、それを利用して他の専門領域の本を読み仕事の幅を広げた。
会社のさまざまな仕組みを変え、新たに実務デザインしなおしてシステム化し、省力化と仕事の精度の飛躍的な向上を同時に実現した。売上高経常利益率が10%に高め、利益を5倍にして財務安定性を強固なものにするために必要な経営改革だった。4年ほどで目標を超える成果が上がった。「必要は発明の母である」、忙しくない者は永遠に仕事の改善をしない、忙しい者ほど仕事の改善をすることになる、ハードルが高いほうが仕事のしがいがある。仕事は魂をこめて、渾身の力で、とことん、徹底してやるから楽しくなる。
[強力なパートナーの存在]
利益重点営業委員会は会社のナンバーワン営業の(一つ年上の)課長が実務をやっており、円定価システムというシステムがらみの案件だったので、そちらも手伝っていた。3ヶ月移動平均為替レートを使って為替変動を反映すると同時に、受注残ファイルの納期情報から決済月を自動計算して為替予約を行い、受注時のレートと仕入レートと決済レートを連動させて為替リスクを回避する仕組みを作った。
3ヶ月ごとに円定価表を改訂し自動出力した。それまでは営業マンがそれぞれ電卓を叩いて見積もり表を作っていたから、営業所で見積書作成作業に3分の1ほどの時間がとられていた。同じ電気メーカの横浜工場と府中工場に出す見積もり金額が違うので、しばしばクレームになっていた。理系大卒の営業マンを見積書作成業務から解放し、本来の営業活動に注力させて、一人当たり売上を2倍にしようというのである。円定価表と連動させて為替予約をすることで、為替変動リスクを回避するシステムもつくった。それ以来、円安で業績が悪化することがなくなった。目論見どおり、売上総利益率が10ポイント上がり、高収益会社へ変わった。
50億円の受注を2年かけて狙って獲得したナンバーワン営業のE藤課長とは馬があった。わたしが出遭った中では最高の営業マンであった。かれが社内の主だった営業マンを次々にわたしの紹介してくれた。朝まで一緒に酒をなんども呑んだ。済ました顔で仕事を始めても、酒臭さはどうしようもないし、気持ちも悪いから、2度ほどトイレに行って吐いてくると楽になる。昼が来たら、日本橋芳町の高次を入ったお店、「よし梅」だたかな、そこのおかゆ定食がありがたい。それを食べたら元気回復、5時を過ぎることには仕事仲間とまた飲みたくなる。
[社内のすべての部門へチャンネルをもつべし]
まだパソコンがおもちゃで、仕事で使えるのはオフコンや汎用小型機の時代の話である。1980年に導入したA4版の書類がCRT(このころはカラーでもなく液晶でもない、まだグリーンディスプレイの時代)三菱製のワープロが200万円もした。業界初のA4の書類をフルに表示できるというのがその商品の売りのポイントだった。
月に一度は東北大の助教授による、マイクロ波やミリ波の導波管や計測器についての仕組みに関する勉強会があった。対象は営業マン(理系大卒あるいは国立高専卒)である。月に2度ほど輸入元のメーカが新製品の説明にエンジニアを送ってくるから、英語で新製品説明会が開かれる、技術部と営業部が対象である。そのどちらにも5年間全部出席した。講習会が終わると、彼らとお決まりのノミュニケーションである。週に1度は会社のさまざまな部門の人たちと酒を飲むことにしていた、酒の席でないと出ない話しがあるし、異なるセクションの人と話をして相手の業務を具体的に知ることはプロジェクトを円滑に進めるためにも効果が大きい。大きな視野で物事を判断するためには、社内のすべてのセクションの人々と普段からコミュニケーションすべきだし、社内で行われる業務ごとの講習会や勉強会にも積極的に参加したほうが、仕事の幅が広がって面白くなる。
[仕事の幅を広げる:専門領域の拡大]
具体例を一つ挙げてみたい。経理部門(中途入社の最初の配属部門、経理担当取締役の直属スタッフ、1年後に管理部へ異動し3年半後に統合システム開発を担当)で長期計画、予算編成および予算管理、経営分析業務を担当していると、メインバンクの営業担当者と話をする機会がある。会社がどういう分野に注力して、今後3年間でどれくらいの売り上げ増が見込め、利益にどれぐらい影響がでるのか数字を挙げて説明し、翌年その通りの実績がでると、会社の信用が上がる。利益がきちんとコントロールできていれば無担保でも事業に必要な資金を貸し付けてくれるように変わる。だから、経理部門や経営企画・管理部門だからといって、会社の製品開発動向やそれによって年間の利益額にどれくらいの影響があるのかを推計もできないようではお話にならない。
土日はどちらか1日は仕事に関係のある専門書かあるいは興味のある分野の専門書と8~12時間ほど「格闘」、1日は家族サービスに充てていた。
20歳代や30歳代にインプットをおこたってはならない。民間企業では仕事のできる者に他の者にはできない難易度の高い仕事が集まってくる、複数の専門分野に関わる仕事をやり遂げるのは楽しいもの。チャレンジしているという実感がある。
[みんなが幸せになる]
その結果、会社の利益は増えるし、社員のボーナスも安定して増えるからみんな生き生き働くようになる。そして社員持株会の株も毎年評価額が上がり、老後の足しになるから女房も喜ぶ。社員とその家族が幸せになれるのだから、給料がそこそこでも仕事のしがいは大いにある。その給料も実績を挙げ続ければいずれ上がってくるのが、民間企業のよいところだ。
[言われてやるのではなく、自分で課題を見つけてチャレンジすれば、仕事は楽しい]
課題を自ら設定し、その課題解決に必要な技能を身につけるために、必要な専門書を片っ端から読み漁り、必要な高額の機器を買ってもらって渾身の力で仕事をしていたが、産業用エレクトロニクス輸入商社の5年間は一度も仕事することが苦役だと感じたことがなかった。
マイクロ波やミリ波計測器の社内勉強会に毎月出席し、商品知識も確かなものになっていった。ディテクター、データ処理用のコントローラ(制御用科学技術計算専用パソコン)、GPIB(双方向インターフェイスバス、General Purpose Interface Bus)というのが1980年代はじめのころの計測器の標準的な構成だった。周波数の種類ごとにディテクターがある。
欧米50社の取引先から新製品がでると、市場の大きい日本にはエンジニアが製品説明に入れ替わり立ち代り毎月のように来て、理系大卒の営業マン対象に新製品説明会を開いていたが、これも5年間一つももらさず出席した。「門前の小僧習わぬ経を読む」を信じて勉強させてもらった。
マイクロ波計測器、制御用コンピュータ、マルチコントローラー、時間周波数標準機(ルビジウム、水素メーザ)、質量分析器、液体シンチレーションカウンター、ウォータゲート事件で使われたレシーバ、電子戦シミュレータ、戦闘機のアンテナなどなど、世界最先端の機器に関する知識を吸収していくのも楽しかった。20代の終わりから30代は爽快に飛ばして仕事していた。
この理化学分析機器に関する知識が国内最大手の臨床検査会社に転職してから物を言うことになる。日本最大の特殊検査ラボの機器担当をひょんな事情から2年間担当することになるのだから、運命のいたずらは楽しい。検査に使われている分析機器はデータ処理部とインターフェイスバスがマイクロは計測器に比べると著しく遅れていた。双方向ではなかったのである。
本社で予算の統括と統合システム開発をしていた人間がラボの機器購買担当になったわけだから、検査機器については知識がないのが当然だが、そうではなかった、「門前の小僧」は東北大学助教授を招いて毎月開かれていたマイクロ波計測やミリ波計測の勉強会と海外メーカの新製品説明会に毎回出席することで、いつのまにか専門家に育っていたのである。だから、2年間の間に製薬メーカとの間でいくつか共同開発や開発段階の機器の最終インスタレーションもやった。ひとつは半年独占使用を条件にしたから、大型開発品で市場シェアをがっちり握ることができた。1988年頃、栄研化学のLX3000という酵素系大型自動分析機である。
[業務の棚卸しと優先順位づけによる3割カット]
臨床検査会社で学術開発本部スタッフとして仕事していたときに業務カット・プロジェクトで経験したことにも触れておきたい。学術開発本部には開発部、学術情報部、精度保証部の三つの部が属していたが、全員の仕事を日次・週次・月次・四半期・半期・年次業務にわけて棚卸しをして、優先順位をつけていき、優先順位の低いものから3割カットした。その結果人員が3割浮いた。こうすると人員を増やさずに、新規の仕事に人員3割を割くことができる。要はやり方だろう。
[働くことは楽しい]
働くは「傍(はた)を楽(らく)にすること」だという語呂合わせで説明されることがある。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」ということも数百年間広く流布している商道徳である。自分だけがよいのではなく、関係する周りの皆さんが幸せになるということが、日本人の暗黙の行動規範として受け継がれてきたように思う。仕事に関する自分の技術を磨いて、渾身の力で仕事をすれば、仕事は確かに歓びと変わり楽しいものになるもの。わたしは規模と業種の異なる4つの会社と1つの医療法人(常務理事)での26年間のサラリーマンや役員生活を通して仕事が歓びであることを繰り返し体験した。
細かく言うと、それら5つの企業のほかに、2回役員として関係会社と合弁会社への出向も経験している。すべて同じスタンスで仕事をしてきた。だから、仕事をする自分の基本的スタンスや考え方(仕事観)、そして自分の心のあり方が、仕事の印象を異なるものにするのだと思う。
[仕事量が多くても工夫次第で劇的に減らせる]
仕事が苦役であると感じる人は、自分の心や労働観(仕事観)を今一度見直してみたらいいのではないだろうか。そんなに過酷な「労働」をしていますか?
学校の先生たちは、業務の見直しや業務改善をどの程度やっているのだろう、業務を固定して考え過ぎてはいるということはないだろうか。
【データを挙げて議論すべき】
団塊世代のわたしが通った花咲小学校は1クラス60人で1学年6クラスあった。5年生から担任だったT木先生は算数の授業で少数の乗除算や分数の加減乗除算をやったときには「わからない人は残れ!」って、放課後補習を頻繁に繰り返してくれた。北海道教育大釧路分校を卒業したばかりの若い先生でしたが実に生き生き仕事をしていらっしゃった。学校の校庭でスケート、裏山(丘、現在は住宅地になっている、埋め立てられてしまった海岸線ばかりでなくここでも子供たちの遊び場がなくなっている)でスキーとそり滑り、正月には百人一首といま思い出しても生徒と一緒によく遊んでくれた。昔は相対評価、成績つけるのなんて今に比べたらいい加減でもよかった。確かに絶対評価になって評価項目が細分化されて面倒になっているのは事実だ。しかし、長期的に取り組むなら変えられないものなどない。関係者の理解と納得がいく具体案を作り、組織を挙げて世の中と文科省を説得すればいい。
中学校は1クラス55人で1学年10クラス、高校は1クラス50人で1学年7クラス350人だった。いまでは高校は50年前に比べて1クラス8割で40人規模だが、小学校は半分以下の規模になっている。花咲小学校の今年の入学児童数は39人で2クラスだから、1クラス当たりの人数は58年前の60人と比べて三分の一の20人、北海道の他の地域も似たり寄ったりではないのか。
こんなに1クラス当たりの児童数・生徒数が減少したのに、2014年全国学力テストの都道府県別科目別正答率標準偏差データを使って計算すると北海道の小学校の偏差値は37しかないから、こんなに生徒たちの学力が低いのに仕事がきついというなら仕事の優先順位とやり方が間違っている。何がきついのか、仕事の種類とそれに費やされている時間データをあげて先生たち自身が保護者たちに具体的に説明し、関係者の理解と納得のもとに改善を図る必要がある。まだ1クラス当たりの人数が多すぎると一部の人たちが主張しているが、低学力の原因は一クラス当たりの人数が多いからという主張はデータの根拠がみつからないだろう。労働時間が少なければ少ないほどいい、労働強度は小さければ小さいほどいいというだけなら、それは得手勝手な主張であると言われてもしかたがない。
病院へ行くといろいろ検査をするが、医療現場ではどの医者もデータに基づく診療をしている、それが当たり前のことだからだ。検査データを示されて、身体のどこに異常があるのか説明してもらうと、自分の病状がよくわかるし、どうすればいいのかも説明してもらうと納得がいく。
教育現場ではどうしてデータに基づく議論をしないのか外部から見ると不思議だ。都道府県別偏差値で北海道の小学校は37、偏差値が正しくないというなら、統計学的に妥当性のある代案を出せばいいだけだが、そういう反論は聞いたことがない。
偏差値37を3年で50にもっていくには、今年何をすべきか、そして年度末にはそれを具体的な数値で確認できるように実務を組み立てる。結果を評価して次年度の数値計画を立てて、実績データでチェックする。要するにPDCAを繰り返す。
[PDCA]
Plan, Do, Check, Act
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*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
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#2936 『資本論』と経済学(2):「1.経済現象と日本の国益」 Jan. 26, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-26
#2937 『資本論』と経済学(3):「円安はいいことか?80⇒120円/$の威力」 Jan. 27, 2015
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#2938 『資本論』と経済学(4) : 「経済学の定義」 Jan. 27, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-27-1
#2939 『資本論』と経済学(5) : 「『資本論』の章別編成」 Jan. 27, 2015
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#2941 『資本論』と経済学(6) : 「マルクス著作の出版年表」 Jan. 29, 2015
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#2942 『資本論』と経済学(7) : 「デカルト/科学の方法四つの規則とユークリッド『原論』」 Jan. 29, 2015
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#2943 『資本論』と経済学(8) : 「学の体系構成法の視点から見たユークリッド『原論」 Jan. 29, 2015
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#2944 『資本論』と経済学(9) : 「何をやりつつあったかを読み解く」 Jan. 29, 2015
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#2945 『資本論』と経済学(10) : 「資本論体系の特異性とプルードン「系列の弁証法」 Jan. 29, 2015
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#2947 『資本論』と経済学(11) : 「労働観と仕事観:過去⇒現在⇒未来」 Jan. 29, 2015
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#2948 『資本論』と経済学(12) : 「公理書き換えによる21世紀の経済学の創造」 Jan. 29, 2015
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#2950 『資本論』と経済学(13) : 「経済学体系構成原理は四つ」 Jan. 31, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-31-1
#2951 『資本論』と経済学(14) : 「第1の公理を巡って:マルクスの労働観と日本人の仕事観」 Jan. 31, 2015
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#2952 『資本論』と経済学(15) : 「対極にあるもの:ヨーロッパ労働観⇔と日本の仕事観」 Feb.1, 2015
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#2953 『資本論』と経済学(16):「日本人の仕事観:仕事は楽しい!」 Feb.1, 2015 http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-02-01
#2955 『資本論』と経済学(17):「要領の悪いものほど忙しいとぼやく」 Feb.3, 2015
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#2958 『資本論』と経済学(18):「教育の職人」 Feb. 5, 2015
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#2960 『資本論』と経済学(19):「日本経済の未来」 Feb. 6, 2015
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#2961 『資本論』と経済学(20):「経済成長の天井 山田久氏の論」 Feb. 7, 2015
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#2964 『資本論』と経済学(21):「過剰富裕化論」 Feb. 8, 2015
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#2966 『資本論』と経済学(22):「相対的貧困率上昇と富裕層増大」 Feb. 9, 2015
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#2967 『資本論』と経済学(23):「ピケティの空想的所得再分配論」 Feb. 10, 2015
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#2968 『資本論』と経済学(24):「浜矩子 予算案と公共性について」 Feb. 11, 2015
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#2971 『資本論』と経済学(25):「村落共同体と税:自由民と農奴について」 Feb. 12, 2015
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#2972 『資本論』と経済学(26):「文部科学大臣下村博文「教育再生案」について」 Feb. 13, 2015
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#2973 『資本論』と経済学(27):「注-1~5」 Feb. 13, 2015
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#2974 『資本論』と経済学(28):「注ー6」と主要文献リスト Feb. 14, 2015
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#3015 『資本論と経済学』(29)人工知能の開発が人類滅亡をもたらす:ホーキング博士(資本論と経済学-補遺1) Apr. 2, 2015
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#3082 『資本論』と経済学(30):利便性の追求の果てには何があるのか July 15, 2015
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#3087 『資本論』と経済学(31):外国人持ち株比率3割の意味するもの(金子勝慶応大教授) July 21, 2015
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#3093 『資本論と経済学(32):』安保法制と軍需産業と成長路線は一体のもの:東野圭吾『禁断の魔術』を読む July 25, 2015
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#2952 『資本論』と経済学(15) : 「ヨーロッパ労働観⇔と日本の仕事観」 Feb.1, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
13. <対極にあるもの:ヨーロッパ労働観⇔と日本の仕事観>
ヨーロッパ諸国民が共有する労働観「労働=苦役」に対して、日本人の「仕事観」は刀鍛冶に代表される。
神への捧げものをつくるという仕事観(第23章「村落共同体と税:自由民と農奴について」参照)が根底にあるから、「仕事する」ことや「働く」ことは神聖な行為でごまかしのないものである。もてる技倆の最善をつくしてものをつくる。仕事をする姿を神がご覧になっているという感覚もある。「誰も見ていなくてもきちんと仕事しなさい」という言葉には「神様(八百万の神々)がちゃんと見ていますよ、だからごまかしや手抜きは行けません」ということ。だから日本人はいい仕事をするために日々自分の仕事の技倆を磨き続ける。仕事は全人的な行為であるというのが日本人の仕事観であり、技倆を極めることは職人の人生の目標ですらある。
(そういう職人の魂、生き方を描いた小説がいくつかある。たとえば、山本周五郎『日本婦道記』、幸田露伴『五重塔』)
こうした仕事に対する基本的な考え方が、日本ではさまざまな分野の職人たちを通じて千年以上も受け継がれている。大阪天王寺にある金剛組は寺社建築に強みをもち、西暦578年創業の日本最古の会社である、もちろん同時に世界最古の会社。他にも西暦705年創業の老舗温泉旅館「西山温泉慶雲閣」がある。日本には創業200年を超える会社が3146社ある。浮利を追わず、高い商道徳を保ってきた日本企業は、世界中のほかの国々と比べて圧倒的に長生き企業が多い。商道徳が低くなるほど長生きできないものらしい。創業200年を超える企業数は、ドイツ837社、オランダ222社、フランス196社、中国5社だから、創業200年を超える企業の6~7割が日本企業ということになる。信用を第一に心がけ、浮利を決して追わない、職人の価値観がベースになった経営スタイルが理想で、その理想の経営スタイルを日本の企業経営者たちが連綿と受け継いで来た。かいつまんで言うと、仕事でごまかしをしない、利益をむさぼらないということ。小欲知足や仕事の技倆を日々磨き続けることがどれほどすばらしい価値であるかがわかる。
神への捧げものを作るというのは縄文時代からのことだろう。働くこと、仕事することは日本人には神聖なことなのだ。だから日本人は仕事の手抜きやごまかしを嫌う。仕事の技倆を上げ続けること、技術を日々磨き続けることは職人の歓び。
わたしも業種や規模がそれぞれ異なる会社へ4回転職して、その都度仕事の喜びを経験してきた。何かに打ち込み腕を挙げ続けることは日本人には歓びなのである。書道、茶道、珠算、柔道、剣道、空手、囲碁、将棋それぞれに級や段位があり、上達が実感できるようになっている。どんな仕事でも、一人前の職人となるにはおおよそ十年の就業期間を要する。万日(=30年)の稽古で名人の域に達したら立派なものだ。
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①(伝統芸能はさまざまな職人集団によって支えられている。たとえば、文楽や能。宗教建築や生活用具も伝統を維持しているものがある。宮大工、江戸指物師、陶芸等々。大工ひとつとっても宮大工、船大工、一般住宅の大工などの別がある。一般住宅だってその建設には、大工、左官、建具職人、壁紙職人、屋根職人、水道、電気配線などさまざまな職種の職人がかかわる。)
②(日本には技術レベルの高いさまざまな伝統工芸がある。たとえば、柴田玉樹(女性)は400年間続く博多曲げ物師の18代目。江戸指物師。陶芸は数知れず。生活用具として大切に使う庶民がいてこそ作り続けられる。)
③(南画(墨絵)家のイラン・ヤニツキーさんは、「」日本の職人はレベルが世界一高い)と断言する。雅号は名前を漢字にした「伊嵐」、師匠は南画の大家山田耕雨。)
*「墨絵はスーパーモダンアート、書き直しのできない“一期一会”」
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20081118/113327/?rt=nocnt
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*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
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#2948 『資本論』と経済学(12) : 「経済学体系構成原理は四つ」 Jan. 29, 2015
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#2951 『資本論』と経済学(14) : 「マルクスの労働観と日本人の仕事観」 Jan. 31, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
Ⅱ.マルクスの労働観と日本人の仕事観
労働価値説は工場労働者や奴隷労働をその淵源にもつ概念で、労働は本来楽しくないものというのが西欧経済学の共通了解事項となっている。そういう伝統的な価値観を背景にしてマルクスは「労働は苦役である」という前提で資本論を書いている。その根拠を労働者が生産手段から疎外されているということに求めており、労働がきついということではない。生産手段が共有されれば労働は苦役でなくなる、それがマルクスの理想の社会、共産主義社会である。人間社会を維持するためには誰かが労働しなければならないことは自明であるから、共産主義は人間を労働そのものからの解放するのではない。それにしても、生産手段が共有されたら労働が苦役でなくなるとは、マルクスはどういう感覚の持ち主だったのだろう。自分で「労働」をした経験のない経済学者はこういう大きな間違いを簡単に犯すものだとしたら、それはマルクス一人に限らない問題を孕んでいる。
人類が労働から解放されるのは、人間がやっている仕事すべてを人工知能搭載人型ロボットが代替するときである。それは生産過程から人間が放逐されるときであり、人類滅亡のときに他ならない。性能が悪く、旧型である人間は物質の生産に不要の存在となる。不要な存在を、利便性を追求する合理的なシステムのアドミニストレータたる人工知能が許容するはずもない。
18世紀、原始蓄積過程の英国の労働の現実は実際には過酷なものだった。幼児労働がインドで問題になっているが、当時の英国の現実でもあった。
古代都市国家アテネやスパルタの時代を経てローマ帝国の時代から労働は奴隷や農奴がするものという考えが根底にある。
それゆえ、苦役である労働からの解放を願うのは自然なことに思える。共産主義社会になったとたんに、労働は苦役ではなくなるという牧歌的な空想的共産主義とても言えるものが、マルクスとエンゲルス共著の『共産党宣言』だったのだろう。
マルクスが言うように、共産主義社会になったら労働は苦役ではなくなったのだろうか?現実はそうではなかった。親切にも旧ソ連や中国が壮大な社会実験をやって見事に証明してくれている。生産手段の共有によって疎外された労働が消滅し、労働者がハッピーになるなんてことは現実にはなかったのである。
労働者はできるだけサボタージュしようとする、マルクスの理屈では労働強度を低下させることが労働者が得をする唯一の手段であるからだ。一生懸命にやるのはばかばかしいという考えが共産主義や社会主義を標榜する国に蔓延したのは、そもそもマルクスの『資本論』にその原因がある。
わたしはマルクスの労働観に違和感があって、東京で企業規模と業種を変えて転職を繰り返した。紳士服の製造卸業、軍事用・産業用エレクトロニクスの輸入専門商社、国内最大手の臨床検査会社、療養型病床の病院経営および建て替え、外食産業店頭公開、その都度業種を変えて転職してみた。ヴィジョンをもって仕事していたから、生産手段をもたずとも仕事が苦役だなんて思ったことも感じたこともない。マルクスは実際に働いたことがないからわからなかったのだろう。日本臨床病理検査項目コードの制定やMoM値(出生前診断検査)に関する産学協同など、いくつか時代の先端で仕事もできたし、その都度充足感を味わった。もちろん夢破れて失望感を味わったこともある。仕事はドキドキハラハラするものであり、自己実現や自己表現の手段であった。ただ夢中になってやっているだけ、縄文人が縄文土器を製作しているときの心の状態と変わらない。夢中になってやり、業種を変え部署を変えて働いたことで、経営分析スキル、長期経営計画・予算編成・予算管理技術、システム開発技術、経営スキルなどが、こなした仕事の数だけ磨かれていった。
(20歳代や30歳代で仕事を任されて実務経験をした者としない者では、実務能力に大きな差がつくのは当然のことだろう。民主党がだめだったのは松下政経塾で30歳代を過ごし、責任ある立場で仕事をする機会をもてなかった者たちが幹部に多かったからではないのか。)(教育労働者を含む)
「労働者(?)」の皆さんが基本的に仕事が楽しくない、仕事がきつくなることを嫌がるのは西欧流の労働観にこころが汚染されているからで、北教組の先生たちが少人数学級や労働強度の際限のない緩和を主張することにも「労働(=苦役)観」という本源的な理由がちゃんとある、しかし、ご本人たちは自覚していない。
労働が苦役であるという彼らの労働観が働く意欲を蝕んでいる。教員は工場労働者に非ず、インテリである。わたしは「教育の職人」と呼びたい。
(江戸後期には私塾が3万もあったそうで、教育の職人がたくさんいた。だが、松下村塾の吉田松陰や緒方洪庵の適塾塾頭であった福沢諭吉は教育の職人を呼ぶだけではかなりはみ出す部分がある、別格扱いでいいだろう。こんな人物を教師のスタンダードにされたら、比較されるほうはたまったものではない。)
日本には日本人の伝統的な考え方に基く経済学がありうる。目の前の現実を見れば日本人ならだれにでもわかることが学者にはさっぱりわからない。日本人にとって仕事は誇りであり楽しいものであり、人生の不可欠な重要部分をなしている。
かように欧米の「労働観」と日本人の「仕事観」はまったく異なっている、異なっているどころか対極にあるというのがわたしの経済学の基本的なスタンス。
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-25
#2948 『資本論』と経済学(12) : 「経済学の体系構成法の原理は四つ」 Jan. 29, 2015
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-01-30
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#2950 『資本論』と経済学(13) : 演繹的体系構成 Jan. 31, 2015 [A1. 資本論と21世紀の経済学(初版)]
マルクスの用いた方法は、デカルトの「科学の方法」そのもので、2300年前のユークリッド『原論』とも方法論において共通している。
マルクスは最初の商品章はヘーゲル弁証法を適用して経済学体系の記述を始めたのだが、資本の生産過程のところでその方法論の間違いにようやく気づいたように見えるが、エンゲルスとともに『共産党宣言』を書いてから20年すでに引き返せないところにいた、苦しかっただろう。
わたしたちにとって重要なことは学の体系構成を検討するに際しては、ヘーゲル弁証法は不要なものだということ。当時のドイツ哲学はヘーゲル哲学全盛期であり、プルードンもマルクスもその影響を強く受けている。経済学へのヘーゲル弁証法の適用が 間違いだとしたら、『資本論初版』の20年も前にエンゲルスと共著で出した『共産党宣言』は根底から崩れることになる。
①下向から上向へ
②抽象から具体へ
③一般的なものから特殊なものへ、そして個別的なものへ
④一般的なものから具体的なものへ
四つ挙げたが、全部同じことを言い換えてあるだけ。抽象度を基準にして概念的関係を抽象度降順で不等号を使って整然と並べられることはすでに示した。経済学的諸概念も同じ順に並んでしまう。
マルクスが使うべきはたったこれだけ。ヘーゲル弁証法という夾雑物が混じっているから取り除けばよい。
下向分析と上向がセットになっている点が要点である。セットという点ではデカルトの「科学の方法 四つの規則」と同じである。規則2が下降法、規則3上向法である。
価値と使用価値というアンチノミーを媒介にした上向展開論理はプルードンの系列の弁証法そのもの、プルードン『創造』とマルクス『資本論』は体系構成の方法において兄弟であり、ヘーゲル弁証法がその産みの親である。
『資本論』からヘーゲル弁証法を取り去れば、下降法と上向法はデカルトと共通している。演繹的な体系構成のお手本は純粋科学である数学、ユークリッド『原論』にあることはすでに論じた。
体系構成の前提条件である、公理・公準を入れ替えれば、11章で示したように別の経済学が立ち上がる。労働が苦役ではない、仕事が喜びとなる、日本の伝統的な的価値観をベースにした職人中心の安定した経済社会の展望が開けるのである。
*#2935 『資本論』と経済学(1):「目次」 Jan. 25, 2015
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#2948 『資本論』と経済学(12) : 「学としての『資本論』体系解説」 Jan. 29, 2015
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