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「お付き合いさせていただいています」勘太郎 [82.言葉のアンテナ]

「お付き合いさせていただいています」勘太郎

 中村勘太郎が前田愛との交際を記者に問われて答えた言葉である。こういう言い回しは最近多い。

「させていただいて」は助動詞「させ」と「~してもらうの」謙譲語の「いただく」からなっている。「させ」はもともと使役の助動詞であったが、権力者が「~させる」意味から権力者に対する尊敬の意味が出てきたと受験参考書にはある。使役の対象が「させ」の前になければ尊敬であると書いてあった。

 いまはご結婚されている都庁の職員が結婚前に「紀宮様とお付き合いさせていただいています」というならよくわかる。皇族紀宮に対する尊敬語や謙譲語は自然な言い方となる。

 しかし、中村勘太郎の交際相手、前田愛は皇族ではない。前田愛に対する尊敬語であり、謙譲語ととれば文法上は誤用となるだろう。
 しかし、記者の背後にいる視聴者に対する、尊敬や謙譲だとすると辻褄は合う。むしろ、こういう用法のほうが多くなってきたのではないだろうか。
 助動詞「させ」が元々は使役の意味で使われてきたものが尊敬の意味をもつようになったように、話している当事者への尊敬や謙譲ではなくて、記者の背後にいる視聴者への尊敬や謙譲の意味をもつように変わりつつあるのだろう。

 言葉はこころを表現する道具の一つである。中村勘太郎には視聴者(=お客様)は「神様」という意識があると假定してみる。客商売には当たり前の前提条件である。歌舞伎役者として潜在的なお客様を大切にするという至極健全なこころの在り方だが、そうしたこころが言葉づかいに表れたと素直に受け止めたい。 

 2009年1月7日 ebisu-blog#478
  総閲覧数:62,230/408 days(1月7日11:30分

麻生首相リマ(ペルー)記者会見に思う [82.言葉のアンテナ]

麻生首相リマ(ペルー)記者会見に思う

 11月24日朝8時40分頃から記者会見が始まった。時事通信記者(日本人)の質問は国内問題、小沢党首との子どもの喧嘩じみたことのみを質問し、ペルーと日本の関係については質問がなかった。勉強不足か場を考えない不見識だ。ペルーでの記者会見だから少なくともペルーと日本の今後の関係に関する事項を一つは入れるべきだった。相手国に失礼だ。
 麻生首相の言い方にはふたつ気になることがある。ひとつは言葉の問題である。「汚染問題などなど」この“などなど”という言い方をよくやる。普通は“とうとう”とすべきで、それよりいいのは“など”である。実に聞きにくい。ひょとしたら踏襲を「ふしゅう」と読んだり、頻繁を「はんざつ」と読んだと、漢字の読みの能力に疑問符がついているが、常用漢字が読めないだけではなく日本語のセンスが悪い疑いがある。日本語の良書を読み、日本語のセンスを磨いてこなかった可能性ありだ。漫画ばかり読んでいるとこういうことになるのだろうか。わたしも少年マガジンをほとんど創刊号以来、ヤングジャンプも五十半ばまで読んでいたので、漫画を読むことに反対はしない。手塚漫画をはじめ千葉哲也、斉藤タカオなど漫画も質の高いものがあるからだ。しかし、漫画のみで、日本文学をぜんぜん読まないというのは賛成できない。
 もうひとつの気になることは話す時の姿勢である。演説の台があるが、そこに右肘を載せて話していた。いかにも姿勢が悪く、崩れた感じがする。かてて加えて使う言葉が品が悪いから余計に崩れて見えてしまう。あの話している姿を見ただけで聞いているほうは、どの程度の人間か判断ができてしまう。
 東北人が使う東北弁、大坂人が使う関西弁、北海道人がう使う北海道弁はそれぞれ土地の温かみのある言葉で、使う人間に温かみを付与するが、麻生首相の使う方言はその温かみが伝わってこない。なぜだろう。たとえば、「あらためるべきところは、改めにゃいかん」である。崩れた感じが伝わってきたのみ。
 話すときの姿勢は、何物にももたれかからずすっきりと立ち、自然に話すのが一番だろう。話し手の品性が話し方や話す内容にも現れてしまう。
 こうしてブログを書くことも気をつけろということだ。ブログの内容には人生観や価値観ばかりでなく品性までもがでる。他人のことばかり批判するのはいかがなものかという声が天から聞こえる。

 2008年11月24日 ebisu-blog#415
  総閲覧数:50,603/363 days(11月24日9時16分)

推移をみながら慎重に・・・ [82.言葉のアンテナ]

  2,008年6月26日   ebisu-blog#211 
  総閲覧数: 18,400/213 days (6月26日12時10分) 

 東京は最低気温が20度を超えているが、根室の最低気温はここ数日5度~6度である。寒い日が続いている。朝夕の暖房が欠かせない。

 言葉のアンテナというカテゴリーでは二つ目のトピックス。採りあげるのは、「修学旅行生への出前講座 市長、継続の考え示す」と言うタイトルの記事(北海道新聞6月26日朝刊)の末尾の方に載った後期高齢者医療制度についての市長発言である。
 「高本氏が同制度の廃止を求めるべきだと迫ったのに対し、長谷川市長は「国に改善を要請しており、推移をみながら慎重に対応したいと述べた。一般質問はこの日で終了。26日は正副議長と、各派代表らが道議会道州制・地方分権特別委員会を傍聴するため休会し、27日に再会する」

 さて、次に採りあげるのはいささか旧聞に属するが、昭和59年に出版された井上ひさし著『私家版 日本語文法』(新潮文庫)である。井上さんは日本語に形容詞が少ないことの理由を考え、枕詞についてある結論に至る。
「わたしは形容詞が少なかったのは、「互ひに心持がよくわかって居た」からではなく、たがいに腹の底が知れないからこそではなかったか、という疑いに突き当たったのだが、そういう疑問を抱いては間違いだろうか。これもまた暴論の謗りをまぬがれないが、たとえば枕詞はその1例証ではないのか。塩舟はいつも帆を並べてくるとは限らないのに〈しほぶねの〉は常に〈並べ〉を修飾し、形容する。滝の瀬にも淀んだところがあるにちがいないのに〈たきつせの〉は必ず〈早し〉にかかる。・・・ある事物を就職し形容する言い方が常に同一でなくてはならない、このような約束事が重んじられ、しかもその数が850にも及ぶというのは、人びとの心持がぴたりと合っていたからではなくて、互いに相手の腹の底がわからず、それでは不安でたまらないので、そういう約束を決め、このときはこう、あのときはああとおもいこむようにしたのではないか。そしてこういう下地ができあがれば、もう形容詞はさほど多くなくてもことは済む―。事情は今でも同じで、大事件が出来すれば、ますあちこちでおずおずとものを言い、互いの胸の内が読めたところで、わーっと同じ事を叫びたてるわたしたちに、このやり方はそっくり受け継がれているもののようである。」

 この作家はよく物事を自分の目で見て、自分の頭で考えて発言し、人の意見に迎合したり、付和雷同することがないようだ。誤解があってはいけないので受験生諸君へ一言付け加えておきたい。この『日本語文法』は受験参考書としては役に立たないが、教養書としては一読に値する。受験勉強に飽きたときや、暇があったら読みたまえ。文庫本だからたったの438円で購入できる。 

 ところで、引用した記事中にもあるように、根室市議会は休会するという。市長や正副議長、各会派代表がどう議会の傍聴に行くらしい。根室支庁廃止に市議全員が反対しているという。北海道が赤字再建団体に転落しないために、道財政改革の一環として支庁統廃合を言い出している。こういう事情を踏まえ、根室支庁の振興局への格下げも致し方なしと思う市民は少なくないと思われる。こうしてブログを書いている私も仕方がないと考える一人である。

 釧路市議会は定員を30人に減らしたようだ。人口19万人で30人である。根室市議会は人口3万人で20人。人口比で見れば釧路の4倍の市議会議員がいる。
 根室支庁廃止にみるように意見が違わないのなら、市議がたくさんいる必要はない。市財政逼迫の折から10人で充分だろう。
 厳しい根室の財政事情を踏まえものを言いたい。自分の頭で物事を考え、多様な意見が議会で戦わされてこそ市議会は意味がある。付和雷同なら、市議定数は半分でよい。

 支庁統合案に自民党は党議拘束をかけたようだ。財政再建案のひとつだから重用政策である。地元選出の松浦宗信道議は党議拘束をはねつけても自分の主張を貫くだろうか。意見は違ってよい。大事な30歳以降にしっかりした仕事の経験がなさそう(この点は民主党の仲野ひろ子国会議員も同じ)なのが不安であるが、信念を貫くことができたら成長を期待して次の選挙でわたしはもう一度松浦君へ投票しよう。根室からひとりぐらい確固たる信念をもった政治家が現れて欲しいと一縷の望みを抱きながら。

 前回書いた根室支庁統廃合案へのブログであるが、支庁統合案への賛成理由を道財政立て直しの観点から具体的に書いてあるので再読していただければ幸いである。北海道が財政再建団体になったときのことを想像してほしい。夕張市役所や小中学校、病院で起きたことが北海道庁や道立高校、道立病院で起きる。そうした危機的事態の到来を回避するための政策の一つが支庁統廃合案である。
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2008-05-31


気になる言葉づかい [82.言葉のアンテナ]

  2,008年6月24日   ebisu-blog#210 
  総閲覧数: 18,061/210 days (6月24日12時50分) 

 お昼のテレビニュースで米国が北朝鮮のテロ指定解除をするというニュースが流れた。町村官房長官は米国がまもなく指定解除をするという見通しを述べた。
 続けて高村外相は直ちに指定解除意味するものではないと発言し、核申告の内容をみてから慎重に解除すべきだと述べた。町村官房長官とは見解が違う。
 米国は26日にも議会に指定解除を報告すると明確に発言しているのだから高村の説明は希望的観測に基づく主観で国民に対する正直な説明にはなっていない。そして高村外相は「テロ指定解除は慎重にすべきだと(米国ライス国務長官に)申し上げる」と発言している。
 この「申し上げる」という言葉づかいが引っ掛かった。「言う」の謙譲語である。自分の方を卑下して相手を持ち上げる言葉づかいである。海外からも、国内からも、米国が宗主国かのように日本は何でも米国に追従すると思われている。安全保障会議の常任理事国入りも米国の票を1票増やすだけと揶揄される有様である。
 米国に対して一国の外相が謙譲語を使うのは常識がなさ過ぎる。高村自身、小泉元首相の米国追従政策を批判*していた時期がある。自分が外相になれば言うことが違うのか。節操のかけらもない軽い人物と思われても仕方がないだろう。
 一国の外相という立場にあるものは言葉づかいに常に気を配るべきだ。残念ながら高村外相には日本国民に対して「ご説明申し上げる」というへりくだった気持ちはないようだ。米国に対して堂々と苦言を呈する気概もない。いったい彼はどこの国の外相か。

 高村外相ほどではないにしても、人は多かれ少なかれ社会の中で何らかの役割をもって暮らしている。その役割にふさわしい言葉づかいを心がけたいものである。「他人の振り見て我が振りなおせ」、「以て他山の石となす」、他人事と思ってはいけないのだろう、あなたも私も。

*2005年11月28日「小泉首相が最近、日米首脳会談で米国に偏向された外交政策路線を露骨に現した」ことへの高村氏のコメントが下のアドレスに載っている。その論旨は対米一辺倒は困るので、アジア各国にも多少目を向けておくべきだというもので、いかなる場合でも対米協調を基本とするところは小泉元首相と同じである。
 アジアへの目配せどころか、日本国民の拉致問題への怒りすら米国の方針転換にうろたえ忘れてしまうていたらく。米国が拉致問題を置き去りにしてしまえば、慌てて日本の利害は引っ込め、米国追従してしまう。品格もへったくれもあったものではない。拉致問題を解決しない限りテロ国家の指定解除はないと言っていた手前、どうしてよいのかわからず慌てて「申し上げる」なんて言葉をつかってしまった。そのような心の動揺が思わざるところで本音を垣間見せてしまったと言っては意地が悪すぎるかな?
http://www.geocities.jp/savejapan2000/korea/k467.html

寒い、6月24日21時30分、気温は5.2度、雨が降っている。


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