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#3914 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.43~53 Jan. 31, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-
4.行きたくない。死にたくない

Ⅱ-5.特攻隊員のニヒルと真実
Ⅱ-6.参謀軍令部の空しさ

Ⅱ-7.北浦空特攻志願
Ⅱ-8.指揮官みずから特攻へ
Ⅱ-9.生きて帰ったもの

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Ⅱ-4.行きたくない。死にたくない
 
 こういった話も語られている。
 
 油谷孝[立教大。偵察。大井空。松島空]『日和山有情
  『日和山有情︱石巻つつじ園の七十年』は、石巻の料亭「つつじ園」女将であった小松梅子氏が、 満八十歳のときに出版した自叙伝であり、油谷の文章はこの書物を紹介したものである。この料亭は、戦時中は松島海軍航空隊の予備学生たちのクラブになっていた。油谷はこの書物の一部を引いている。
 
 〇特攻さん 
 松島航空隊から特攻隊が出るようになったのは、昭和二十年春のことだった。
  「行きたくない。俺は死にたくない」志願しておきながら、私のところへ来てそういって泣く学生さんもいた。
  「何をいうの。みんな行くんだから、男だったら涙を見せないで行きなさい」 
 私は声を励まして叱った。慰めてあげたところで行かねばならないのだ。へたに同情してはかえってかわいそうだ。 
 泣きたいのは私だって同じだった。つつじ園を通じてせっかく学生さんたちと親子のような気持ちでつながりが持てたのに、いまここで特攻に行かれるのはつらい。出撃すればもう会えないのだ。ふつうの出撃ならば「どうかご無事で」と帰りを待つことができる。特攻さんにはそれがないのだ。 
 竹島栄吉中尉と向坊寿少尉が鹿島神社にお参りに来たのは四月十二日のことだった。つつじ園とは目と鼻の先だ。つつじ園で何次会目かの壮行会が行われた。
  「ママ、行ってきます」 
 その言葉に、
  「何食べたいの?」 
 私はそう聞くほかなかった。いいたいことがあんまり多いときには、案外、言葉というものは出てこないものだと思った。
  「アンコのたっぷりついたおはぎをたらふく食べてみたいな」 
 向坊さんがいった。
  「じゃあ、これから早速つくって、あす出撃する前まで基地に届けるからね」

  「ありがとう」 
 みんなが帰ると、つつじ園は総がかりでおはぎをつくりにかかった。夜を徹してつくった。つくり終えたのは明け方近くだった。 
 私は出来上がったおはぎを折箱に五つずつ詰め、桜の模様の入った掛け紙に包んで岡持ちに入れ、トシちゃんと二人で矢本基地に向かった。 
 朝早い電車で矢本へ行き、基地へ歩いた。衛門を入っておはぎを渡すと、私たちは指揮所へ通された。料理屋のおかみが指揮所へ通されるなどということは極めて異例だ。わが子と思う特攻さんの出撃を親に代わってここから見送ってやってくれ、ということだと私は解釈した。 
 午前九時、第二次特攻隊三十人が両側に整列する飛行士の間を敬礼しながら出てきた。先頭に竹島中尉、続いて向坊少尉、見知った顔が続々と続いた。 
 私はいつか「死にたくない」といって泣いた特攻さんを思い出した。泣いてはいけないと自分にいいきかせた。 
 第二次特攻隊は、三十人のうち十人が生還してきた。敵機の機銃掃射で飛行機をやられたため、出水基地から出撃できずに返ってきたのだ。雷撃に変更になったり、照明弾を落とす役目にまわって助かった人もいた。竹島さんも向坊さんも助かった人の一人だった。 
 松島航空隊からは第一次から第五次まで、偵察・操縦あわせて百二十五人の特攻さんが出撃した。そのうち何かの事情で生還したのは三十人ほどだった。三十人助かったというよりも、百人も死んだことのほうが胸にこたえた(「海軍十四期」第17号8頁)



Ⅱ-5.特攻隊員のニヒルと真実
 
8 特攻隊員はいずれもが同じく、非現実的世界から現実を祝福しているのではないか。 
これ以外に生き方がないのである。悲しい。だから、また誇りを感じていたに違いない。あえてニヒルに生きるとでもいったらいいのであろうか。彼らの真実の悲しみと、真実の偉大さが真摯に絡まり合っているとでもいうべきなのかもしれない。
  「帰る所なし」と詠った誓子の句は特攻搭乗員の心の一端に触れたすぐれた句であるが、搭乗員の 相反した心情の葛藤に触れていないところに、物足りないものがあるような気がする。この心情の奥の深さに関わらない点に。



Ⅱ-6.参謀軍令部の空しさ
 
 次々と心なき無残な特攻戦術を続行した参謀軍令部には、この作戦に涙したものがいたのであろうか。あるいは、無意味(ニヒル)を感じていたものが。が、何もなしえなかったのが彼らの実態であろう。 
しかし、彼らは不確かな非現実的の戦果より、むしろ現実の必死に関心していたかに見えるのが口惜しい。彼らは故障や事故で帰ってくる搭乗員たちをひどく嫌っていた。搭乗員たちとは違って、彼らは特攻の空しさと偉大さに無縁であったのだというほかはない。彼らは現実にはみずからニヒルに生きながら、じっさいにはそのニヒルを全く自覚しなかったとでもいったらいいかもしれない。


Ⅱ-7.北浦空特攻志願
 
船越国光[中央大。操縦。土浦空。北浦空。詫間空]「私の神風特別攻撃隊魁隊」
 
 水偵の北浦空が米艦載機の攻撃を受けたのは、二十年二月十六日であった。当日は朝からロケット弾や機銃掃射をうけて、数名の死傷者を出した。(…)対岸から格納庫や指揮所が轟音と硝煙につゝまれた凄惨な状況を見て、苛烈な戦局の前途を思った。(…)数日後、(…)分隊長の佐波大尉(海兵)は一同をねめ廻しながら曰く「ただ今から特攻隊を募集する!各自希望の気持の程度を書いて提出せよ」と小さな紙片を渡された。(…)悉くに予備士官とうとまれ軽視されるのが腹にすえかねていたので、この期に及んでまでも我々学生の忠誠心を探るかの言はまことに不快であった。戦後三十五年経った今日でも、あの日の屈辱的な言葉は忘れられない。 
 選考の経緯は今となっては知る術もないが二十八日講堂に全員整列、第一次特攻訓練員(二十五名)が抽出任命され、翌日から特訓がはじまった。学生一〇〇名中九十九名が志願した。一次にもれた私達大半は(…)無聊をかこっていた。一ヶ月経った三月三十一日夜半、私や鳥井等数名が従兵に起され、飛行長宇賀神少佐(青山学院)室に呼ばれた。伺候すると佐波大尉が侍立していていきなり「貴様らよろこべ!明日から飛行機に乗せる!」不思議にこの言葉は今日まで忘れていない。(…)話しを聞けば、一次隊員中に月余の特訓にも練度が上らず、精神面にも問題のある者があるので、貴様達を彼等と交替させる(…)とのことである。
  (…)後発の私達は(…)あわただしく先陣を見送ることになった。(…) 
 士官らしい処遇もなく、肉親や愛しい人との語らいの機会も与えられず、心技未熟、死生の悟諦なきまゝの必死行であったから、明日は我が身と思っても満されぬ空しさ、悲しさと憤懣に身が震え、帽を振りながら不覚の涙と慟哭は抑えることが出来なかった。 
 日頃大言壮語していた職業軍人が、いざという時には隊の指揮官でありながら平然として他に転出し、航法もロクにできない予備学生や予科練のみを、何故にやみくもに必死行に追いやったのか。運命とはいえ勝算皆無と知りながら黙々として出撃していった同期の心情を思うと、ただ余りにも不運の他なく憐憫の涙を禁じ得ない。
(「海軍十四期」第八号8頁) 
 
 こういう職業軍人は、軍紀を創ったかもしれない。が、特攻を平気でやり、自分は生きていられる人間を形成しうる素地を創ったともいえる。良い、悪いは歴史の判断に委ねられるべきであろう。 
 海兵と予備学生との関係あるいは対立について、書いている学生もいる。
 
杉村裕[東京大。操縦。谷田部空。戦闘機]は、昭和二十年五月谷田部制空隊、六月特攻隊、七月一日千歳空と転勤し、七月十日特攻訓練中事故死。


昭和二十年二月二十三日(谷田部空にて日記) 
 国分大尉より航空隊の生活のあり方、編隊長と列機との間柄についてお話あり一寸感激す。現在の俺達︱少くとも俺には︱左右にも上下にも意志の疎通が欠けているのは確かだ。(…) 
 梅本大尉より汝等は心構えにおいても、知識においても士官たる海軍搭乗員たる資格なしと叱らる。無念なり。又想う。現在の如く海軍が、兵学校出と予備士官などの差別対立を意識して形成している情況では、日本国の運命危ういかなと感ずる。
(『別冊あゝ同期の桜』53頁 注22)
 
 航海学校では特攻志願を変更した学生がひどい待遇を受けた話が伝わっている。 
 二分隊S学生は初回の昭和十九年十月、暮れの十二月、二度特殊兵器を志望しながら、家庭の事情を理由に、再度取り消しを申し出た。平瀬区隊長に、叩き斬ってやると追い回され、別室に隔離され、番兵までついたとのことである(『一旒会の仲間たち』213頁)。 
 もともと志願だから、意見を替えても良いはずである。本来からいえば、隊員が行かなければ、率先垂範、平瀬区隊長が行けばいいのである。何かしら、本来の軍事作戦とは違った趣きがあるような気がする。教育課程の予備学生を使うという基本方針が前提になっているかに思われる。 
 もっとも観点を換えていえば、一度決心したものをたびたび替えることが良いか、悪いかは別の問題である。人間の人格の問題であって、制裁の対象にはならぬのではないか。が、こんなことは戦後だからいえることで、 当時日本の軍隊では、こうしたことが普通とされていたところに、問題があるのであろう。 
 志望を変えたものへのこうした仕打ちは、〈不時着、あるいは、帰還したものへの仕打ち〉に通じているかもしれない。


Ⅱ-8.指揮官みずから特攻へ
 
 これは海軍の話ではなくて、陸軍の将校の話であるが、部下のみを特攻に送るのをいさぎよしとせず、みずから特攻に志願した陸軍の教官がいる。 
 昭和二十年五月二十八日、第四五振武隊隊長として沖縄洋上に散華した藤井一中尉は、陸軍士官学校の出身ではない。下士官から将校になる少尉候補生二十一期出身。熊谷陸軍飛行学校で少年飛行兵の教官をしていたが、「お前たちだけを死なせはしない」と、みずから特攻志願。 
 妻と二人の幼い子も自決。藤井中尉の死の五ヶ月前に、入水。
  「私達がいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝っ て待っています」。 
 妻子の入水から五ヶ月後に、中尉は知覧出撃。そのときに、すでに亡くなっている二人の我が子にあてた遺書を残している。
 冷たい十二月の風の吹き荒ぶ日、荒川の河原の露と消えし命。母と共に殉国の血に燃ゆる父の意志に添って一足先に父に殉じた哀れにも悲しい然(しか)も笑っている如く喜んで母と共に消え去った幼い命がいてほしい。 
 父も近く御前達の後を追って行ける事だろう。厭がらずに今度は父の膝の懐でだっこして寝んねしようね。それまで泣かずに待っていて下さい。千恵子ちゃんが泣いたらよく御守しなさい。では暫く左様なら。 
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立てゝ御土産にして参ります。 
では一子ちゃんも千恵子ちゃんも、それまで待ってゝ頂戴。
(工藤雪枝『特攻へのレクイエム』中央公論新社、80〜81頁  注23



Ⅱ-9.生きて帰ったもの
 
 武田五郎が、予科練出身の回天隊員である横田寛が書いた『人間魚雷生還す』の中に、回天搭乗員として出撃し、生還した隊員に対して、次のように叱りつけた上官がいたことが書いてある、と紹介している。しかも公開の席上でである。
  「いつの出撃でも一本か二本(一人や二人ではない)、オメオメと帰ってくる。鉢巻を締め、日本刀をかざし、全員に送られて得意になって行くだけが能じゃない。出ていく以上、戦果をあげなけりゃ、なんにもならん。スクリューが回らなかったら、手でまわして突っ込め」
(「ああ回天」『一旒会の仲間たち』272頁)
 
 伊号三六潜水艦から出撃した回天搭乗員の久家稔[大阪商大]は、二回の出撃とも回天の故障で発進できず、三回目の出撃のときに発進の前にこう書き残している。 
 艇(回天)の故障でまた三人が帰ります。(…)二度目三度目の帰還です。生きて帰ったからといって、冷めたい目で見ないでください。(…)この三人だけはすぐ出撃させてください。最後にはちゃんとした魚雷にのってぶつかるために、涙をのんで帰るのですから、どうかあたゝかく迎えてください。お願いします。先にゆく私に、このことだけがただひとつ心配ごとなのです。(同書272頁)
 
 陸軍特攻隊では、帰ってきた搭乗員に、参謀がひどい仕打ちをしたことが伝えられている。叱りつけるはもとより、一箇所に集めて勅諭の筆写などを行わせた(参照高木俊朗『特攻基地知覧』〈帰ってきた特攻隊員を怒鳴る参謀〉)。 
 海軍では、こうした話は聞かないが、後に触れる四方中尉の話もあるし、八幡神忠隊で散華した大石政則が、その前にエンジン不調で出撃途中から引き返してきたことを、たいへん気にしていた。

 ただ、海軍の特攻にも、あまり芳しくない話が伝わっている。昭和二十年七月三十日に、中練宮古島の岡本晴年中佐は、もともと中練を使用する特攻には反対であった。にもかかわらず、特攻で出撃しながら、故障で帰ってきたもの、あるいは不時着したものを、卑怯者、臆病者呼ばわりし、そのものたちの中から中練五機の特攻隊を組織し出動させている。 
 しかも、彼はこの五機を特攻機として申請していない。自分が単なる殺人者であることを自覚していないことになりはしないか。ひどい指揮官もいたわけなのだ(参照森本忠夫『特攻』322〜324頁。角田和男『修羅の翼』399〜401頁  注24 )。

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注 22   『続・あゝ同期の桜』では60〜62頁。
注 23   中公文庫、2004年版では100頁。
注 24   この文章の出典として、森本忠夫『特攻』と角田和男『修羅の翼』が挙げられている。

  まず森本忠夫『特攻』を見てみると、単行本版(文藝春秋、一九九二年)268頁に次のよう な記述がある。  一部の中練特攻を出撃させていたものの、宮古島基地の岡本晴年中佐は、その後、上部 からの命令を巡って、言を左右にし、彼の在任中、特攻を出さなかったと言うのであった。 『龍虎隊』の『中練』特攻で散華していたのは上述の七人だけであった。彼らが、凛然と して敵艦に向かって体当たりを敢行し、沖縄の空に散って逝ったのは、しかしながら、司 令に「卑怯者」「臆病者」呼ばわりされたからでもあった。岡本晴年中佐の場合、一方で、 特攻隊員達を叱咤しながら、他方で、『中練』特攻に抵抗していたのは、当時の戦況の中で、 板挟みになっていた同中佐が、一時的にせよ、ある種の錯乱状態に陥っていたからであろ う。だが、それにしても、くやし泣きの中でただ死に場所のみを求めていた彼ら特攻隊員 の死は余りにも悲痛であった。(角田和男『修羅の翼』324〜326頁)
 
この記述を読むと、特攻帰還者を卑怯者・臆病者呼ばわりした「司令」というのは「岡本晴年 中佐」であろうと、多くの人は思うだろう。「一方で、特攻隊員達を叱咤しながら、他方で、『中練』特攻に抵抗していたのは、当時の戦況の中で、板挟みになっていた同中佐が、一時的にせよ、 ある種の錯乱状態に陥っていたから」と、岡本中佐の当時の心理状態まで丁寧に解説されている からだ。 
  では、森本が参考にした角田の著作では、この部分はどのように書かれているのか。 
単行本版の四〇〇頁に、「その(=中練特攻隊の)第一陣が宜蘭に着いた時の司令の訓示はひ どかった。訓示というよりも、ほとんど叱責に近かった。正に、臆病者、卑怯者扱いの訓示であ る」とあるが、この「司令」とは誰なのかが問題となってくる。 
 角田は予科練五期生から零戦搭乗員として活躍し、海軍中尉までになった叩き上げの軍人らし く、上官の個人名をあえて記述しない傾向があるが、これ以前の記述を読んでみると、「〔昭和 二十年〕二月五日、新しく第二〇五海軍航空隊が編成された」とあり、角田も二月五日付でこの 二〇五空に付属していた戦闘三一七飛行隊に編入されていることがわかる(384〜385頁)。 さらに、399頁に「中練特攻龍虎隊は、元は二〇五空の零戦搭乗員だったが、たびたびの故障 や不時着で破損機が多く、内地よりの機材の補充も乏しく、やむを得ず訓練中止となって高雄空 に保存されていた九三式中間練習機をもって体当たりをすることにしたもので…」とあり、これ らの記述から、この「司令」とは二〇五空の司令であると類推できる。そして、この二〇五空の 司令だった人物は、玉井浅一中佐である(秦郁彦編『日本陸海軍総合事典[第2版]』東京大学 出版会、二〇〇五年、二二八頁)。玉井は、二〇五空司令に着任する前は二〇一空副長で、山本 栄司令の負傷以降は司令代行として、大西瀧治郎のフィリピンでの最初の神風特攻隊の編成に立 ち会った人物である。390頁にも「玉井司令」という文言が登場するので、この「ひどい訓示 をした司令」は、岡本晴年ではなく、玉井浅一であるというのは間違いないだろう。角田の著作の中で、岡本晴年は「中練特攻龍虎隊」の節の末尾に、次のように登場する。
  「戦後三十年近く経って、宮古島基地指揮官の岡本晴年中佐は特攻作戦にはあまり積極的でな く、言を左右にして中佐の在任中は中練特攻は出されなかったと聞いた。したがって、龍虎隊の 生存者も多いらしく、戦記に残る戦死者の数は少ない」(401頁)。 
 つまり、玉井浅一と思われる「司令」が懲罰的な中練特攻隊を編成したにもかかわらず、実際 の戦死者が少ないのは、岡本中佐が特攻に積極的でなかったからであると、角田は述べているの である。岡本晴年という人物は、角田の著作では一貫して特攻に積極的でなかった様子がうかが えるのだが、森本の著作では、別個の人物である「司令」と「岡本中佐」を同一人物と捉えたため、 岡本を「板挟みになって」「錯乱状態に陥っ」ていた人物として描かざるを得なくなったようである。  岡本の経歴は玉井ほどは知られていないが、終戦直後の八月十八日には茨城県の神ノ池飛行場 で、桜花発案者の大田正一が、自殺を図るために零戦練習機に乗って東北方の洋上に消えていく のを、「飛行長の岡本晴年少佐」が見張塔から双眼鏡で確認している(秦郁彦『昭和史の謎を追 う(上)』文藝春秋、一九九三年、339〜340頁)。つまり、岡本晴年少佐は宮古島基地指揮 官から神ノ池飛行場の飛行長に転任し、終戦を迎え、いわゆる「ポツダム中佐」として軍歴を終 えたと思われるので、宮古島基地指揮官当時の階級は当然少佐だが、角田が「宮古島基地指揮官 の岡本晴年中佐」と記したのは、岡本の最終階級を書いたまでのことと思われる。

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市倉先生の翻訳された本です。ゼミで指導していただいたときに、この本を翻訳されていました。
ヘーゲル精神現象学の生成と構造〈上巻〉

ヘーゲル精神現象学の生成と構造〈上巻〉

  • 作者: イポリット
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1972/10/30
  • メディア: 単行本
ヘーゲル精神現象学の生成と構造〈下巻〉

ヘーゲル精神現象学の生成と構造〈下巻〉

  • 作者: イポリット
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1973/05/30
  • メディア: 単行本


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#3913 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.38~43 Jan. 31, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-1.特攻とは
Ⅱ-2.恬淡(てんたん) その二
Ⅱ-3.はっきりと特攻に疑問を抱いていた搭乗員もいる

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Ⅱ-1.特攻とは
  〈特攻〉において決して忘れてはならないことは、搭乗員たちがさまざまな思いを抱いて帰るとこ ろを求めていたということである。彼らが国に殉ずる思いを抱きながら、家郷に心を残して出撃していったことは、思えば当然のことである。死を前提とした作戦は、決して作戦ではない。人間を爆弾とする殺人命令である。 
 戦争は勝つため、国を守るためのものである。攻撃の成果そのものにはっきり成算があるわけでもないのに、ただ搭乗員の死を賭した壮烈な心情に甘えて、多くの特攻機を出動させたことは、どう見ても真に軍人たるもののなすべきこととは思えない。 
 結果的にいえば、若者の壮烈な死を正面に出して一億を感動させることで、軍人たちがみずからの敗戦の責任を隠蔽する一つのパフォーマンスに過ぎなかったともいえなくもない。これはもはや戦闘行為ではない。世界の戦争で特攻が正式に作戦とされたことは一度もない。特攻は、前線に出ない指揮官が継続的に部下を殺し続けた非人間的作戦である。まともなひとなら誰でもが、ちょっと考えれば分かることである。何故こんなことが行われたのか。これがまさしく特攻問題の最高の課題点である。 
 しかしまた、他方からいうと、何故搭乗員たちは粛々と特攻機に乗って出撃していったのか。前の章では、彼らの葛藤に満ちた文章を見ていただいたが、実はそうした葛藤を微塵も見せていない搭乗員たちがいたことも事実なのである。じじつ、何のてらいもなく、もくもくと出撃していった人たちがいる。


 佐々木八郎[東京大経済学部。南西諸島で散華。神風特別攻撃隊第一昭和隊]の文章には次のようにある。 


〔昭和十八年〕六月十一日
  (…)反動であろうとなかろうと、人として最も美しく崇高な努力の中に死にたいと思う。形 に捉われることを僕は欲しない。後世史家に偉いと呼ばれることも望まない。名もなき民として
自分の義務と責任に生き、そして死するのである。
(『あゝ同期の桜』20〜21頁  注18
 
 佐藤光男[専修大経済学部。

 昭和二十年四月十六日、南西諸島特攻死。神風特別攻撃隊第四昭和隊]は私と土浦で一緒になった。彼の最後の日記から引用する。

昭和二十年四月十一日(谷田部航空隊にて日記) 
本日待機命令下ル。 
 荷物ノ整理、散髪ヲシ、遺髪ヲ取ル。入浴シテ帰リ、酒ノ用意ヲシテイルト進出者集合ノ命ニヨリ集合シ、明日ノ進出ニツイテノ注意アリ。外出ガユルサレ、土浦ニ出テフラレル。
四月十六日朝目ヲ覚ス。寒シ。草村少尉ノ練戦ヲ主トスル隊ハ泊地攻撃、西村少尉ノ四機ハKDB 注1 注 攻撃
ニ行クコトニナル。残ルハ丸茂中尉ノ小隊ト、貞方少尉ノ小隊、計八名ナリ。ソノ八名モ、今晩ハイナイコトト思ウ。昭和隊三人組、水戸三人組ノウチ、小生一人残ル。コレニテ戦闘記録ノ如キモノヲ終ル。サヨウナラ。
(同書137〜138頁、140頁 注20
 
 佐藤光男君は、全くこういう人であった。土浦空では、同じ分隊、同じ班であった。何のハッタリ
もなく、淡々と仕事を果たす。まれに見る好漢であった。彼がみずから「戦闘記録の如きもの」と呼
んだこの文章は、恐らく彼にとっては遺書のつもりだったのではなかろうか。遺書をこうした形でし
か書かないのが彼なのだといってもいい。淡々たる文章の中に、わずかに望郷の念を滲ませている箇
所があることなど、いかにも彼らしい。



Ⅱ-2.恬淡 その二
 
 搭乗員には、概して恬淡の気があることは否定できない。ただ、出水に出撃する同期生を見送るたびに、今までおしゃべりで何やかやとざわついていた人々すべてが、いつの間にか淡々と愚痴一つ洩らすことなく動いていたことは忘れられない。
 
 もちろん端的に恬淡を強調している人々ばかりではない。搭乗員はさまざまな形で特攻に対処している。

 じじつ、恬淡の背後にあるものをさまざまに語っている人々もいる。黙って任務を引き受けて、昭 和十九年の十一月に特攻第一号として出撃した関行男大尉にしてからが、特攻が決まってから何日か後に特派員に取材されたとき、「じっさいに俺が征くのは、馬鹿な話だ。優れた搭乗員が、一回きりの自爆出撃とは。何回でも出撃し戦果を期待できるのに、効果の点からも無駄の話だ」と語ったという注21  。 
 これを聞いた特派員はこれをすぐ記事にした。しかし、検閲で禁止。関は黙って恬淡と出撃したことになる。これは戦後初めて伝えられた話である。


Ⅱ-3.はっきりと特攻に疑問を抱いていた搭乗員もいる
  「死にたくない」と言った言葉を残している搭乗員もいる。生き残った予備学生が、散華した友を 偲ぶ言葉に触れておこう。
 
 相馬昂[慶応大経済学部。偵察。第十二航空戦隊二座水偵隊] 
 相馬の出撃については、土浦空、徳島空、天草空と一緒であった相良輝雄[同志社大。偵察]はこう話している。

 
 出撃前夜に同室の相馬少尉(…)と酒を飲み交わしながらの彼の述懐がいまだに南海の底から聞こえて来るようだ。「ナア、相良少尉、今まで誰にも云わなかったが、明日までの命なれば俺は云う︱死にたくないとね︱たった一人のオフクロを残してどうして死ねるかってんだ。兄貴もラバウル空戦で散ったしさ。海軍の指導者はなんてムゴイ戦法を発明したんだろう!俺たちみたいな前途有望の青年たちを徒らに死なせて…」。それは人間性を主張する正直な無垢なそして勇気を要する叫び声であったし、苦笑いしながら落ちる涙も拭わない彼の面影が崇高な印象を残して現に私のアルバムに貼られてある。死者には死水と云う習わしなのか、明くる出撃当日は征く者と残る者は対面整列して水盃と固い握手を交わす最後の一刻、そして静寂を破って皆の口から荘厳な合唱は   
  此の一戦に勝たざれば   
  祖国の行手如何ならむ     
  撃滅せよの命受けし   
  ああ神風特攻隊   
  送るも征くも今生の 
  訣れと知れどほほえみて
  爆音高く基地を蹴る
  ああ神風特攻隊 
 特攻機が編隊を組んで沖縄目指して満月の空にはばたくのである。通信室に駆け込んで腕時計とチャートをにらめっこの居残り組はやがて数時間後に花と散る運命の戦友の武運を祈る。敵制空圏内に到達したのか、矢継ぎ早に送信して来る「モールス」は上空からキャッチした敵艦隊の配形や艦種名の偵察報告であり、最後に「我今より任務遂行す」の符号は電鍵を押さえたままの「ツー」と耳に伝われば、全身に鳥肌が立ち十数秒して連絡途絶えた。その時は機もろとも猛然の体当たりかさもなくば不運ながら空中に散った瞬間で、万感胸に迫りただ沈思黙禱して冥福を祈るのみ。
(「海軍十四期」第一九号22頁)


==========
注 18  
二〇〇三年版では二一頁。
注 19  
KDBは海軍の軍隊符合(部内のみで使用された略号や記号)の一つで、機動部隊のこと(中 村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社NF文庫、二〇〇七年、二三九頁参照)。この場合は 米軍機動部隊を指す。
注 20  
二〇〇三年版では、それぞれ一五四〜一五五頁、一五七〜一五八頁。
注 21  
この関行男大尉の談話の出典は不明。Ⅳ︱ 15 .にも同じ談話が登場。関行男が同盟通信特派員 小野田政に語った内容は、森史朗『特攻とは何か』文春新書、二〇〇六年、八七頁に紹介されて いる。「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら、 体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に五〇番(五〇〇キロ爆弾)を命中させる自信がある」。
注 22   『続・あゝ同期の桜』では六〇〜六二頁。
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<ebisuコメント>
 青字部分とアンダーラインはebisuが付した。市倉先生自身が土浦飛行場で一緒だった佐藤光男について書いているからだ。土浦飛行場は落下傘部隊員だったオヤジも訓練で何度も行ったことがあったようだ。6発のエンジンをもつ飛行機をみなかったかと訊いたら「あった」と答えた。飛んだところは見たことがなかったと付け加えた。米国本土を爆撃できる航続距離の長い6発の爆撃機を開発していたが、制空権を失っているから、完成しても戦局には影響がなかっただろう。

 佐藤光男のように淡々と征った者、相馬少尉のように出撃前夜に戦友へ本音を告げた者もいた。兄がラバウルの航空戦で戦死、そして自分が特攻隊で征かねばならぬ、お袋一人残して死ななければならぬ特攻作戦の理不尽さと詰(なじ)っている。このばかげた作戦を立案した軍令部を許しがたいという心情が吐露されている。それでも命令に従い、征くのである。
 市倉先生はこの原稿を書きながら何度も涙を流していたに違いない。
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現代フランス思想への誘い―アンチ・オイディプスのかなたへ

現代フランス思想への誘い―アンチ・オイディプスのかなたへ

  • 作者: 市倉 宏祐
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1986/04/30
  • メディア: 単行本

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#3912 根室高校大学進路実績データを読む Jan. 28, 2019 [71.データに基づく教育論議]

<採取更新情報>
1/30朝9:40更新

  a b c 合計 d e f g h
H27年度 23 50 41 114 56 193 46 29.0% 23.0%
H28年度 14 54 12 80 49 188 41 26.1% 20.6%
H29年度 11 36 8 55 44 146 29 30.1% 22.4%

 a: 国公立合格者数
 b: 道内私大合格者数
 c: 道外私大合格者数
 d: 大学への進学者数
 e: 学年総人数
 f: 市内就職者数
 g: 大学進学率 g=d/f (%)
 h:  大学進学率 根室西高校の生徒数を50人として分母に加算し、進学率を計算した

 大学合格者の数の「合計」と「大学進学者数」には大きな差異があるが、これは卒業生の合格を算入しているか、複数合格の場合進学先ではない大学もカウントしているからだろう。どちらかわからない。1浪の札医大合格者をカウントしていたことはあった。実態を明瞭にするために分けて表示してもらいたい。
 大学進学率は全国平均値では50%であるから、根室は全国平均の半分に満たない。地元に大学もないので、教育に関心が薄いようだ。

  3年間の変化のポイントを箇条書してみたい。
●国公立大合格者数が半減した
●道内私大への合格者が3割減少した
●道外私大の合格者が8割減少している
大学進学者数は毎年逓減しており56人から44人へ
偏差値50以上の大学へ進学するには、中学時代の成績が上位10%に常時入っていなければならない。
大学進学率は落ちていないように見えるが、分母に根室西高校を含めると、その比率は20%前後にすぎぬ
●市内就職者数が46⇒41⇒29人へ激減している

 大学進学者数はabcに分類されていないので実際の内訳数字が不明であるから「合格者数」で論ずるしかない。
 道外大学合格者数が激減(8割減)したのはどういうことだろう?進路指導室が分析して公表してくれたらありがたい。
 中学校の学力テストデータの得点分布の推移をみていると、進研模試で全国偏差値50前後の生徒層が激減していることがわかっている。500点満点だと400点を超える層が市街化地域の3校では1-5人程度しかいなくなっている。それが大学合格実績に反映しはじめたというのがわたしの意見である。

 学力低下を食い止めるには実態をデータで把握し、そのデータを分析することで具体的な対策を立案することが不可欠ではないだろうか?

 市内企業への就職者数がついに20人台に落ちた。若者が地元企業を見放しつつあると考えたほうがいい。地元企業は都会の企業並みに経営改善をしないと、地元から人の採用ができなくなる。具体的にいうと、東京証券取引市場に上場できるようなオープン型経営に舵を切れということ。なんてことはないよ、当たり前のことを当たり前にやるだけ。たとえば、①経理規程を作り、会社のお金と個人のお金を区別する、②退職金規程をつくりその分のお金を毎年引き当てし、預金として別途管理する。年度末にはいまやめたら退職金がいくらになるのか一人一人に文書で通知する、そこまでやれたら従業員は安心して定年まで仕事してくれるよ。③予算制度を導入して予算達成した場合の賞与を従業員へ公表する。④決算を従業員へ公表する。⑤業務規程や会社の諸規程を従業員一人一人へ渡す。
 どれもこれも全国レベルで優良といえる会社としては当たり前のことだ。根室のローカル基準にしがみついて、決算書さえ従業員に公表しないようでは、全国レベルから見たら、とっても劣悪な会社に見えてしまうよ
 ところで中国人やベトナム人の雇用は経営改革のできない企業からはじまっているのではないか?
 管理団体に一人3-5万円のお金が落ちるような仕組みになっているというから、100人のベトナム人が根室で雇用されたら毎月300-500万円のお金が管理団体に落ちるということ。根室市では根室商工会議所がその業務を担っている。人材派遣会社へ衣替えしたようなもので、商工会議所の性格を変えかねない危ない仕事だ。
 外国人の雇用拡大は地元企業の経営改革が進まぬことと車の両輪をなしている。その車はとこへ向かって走っているのか。50年前に根室にあった北海道最大の水産加工工場を有し1000人の従業員を抱えていた日本合同罐詰と同じ轍を踏んではいないか?
 経営者が従業員へ夢を語り、その実現に邁進できれば、その会社の人たちは喜んで働くだろう。広い視野でものごとを見て、長期的にどうすべきか、ビジョンをもって対処してもらいたい

<センター試験受験者数と平均点>
 センター試験は過去3年間の受験者数が56-58万人ですから、その学年総数を120万人とすると48%が受験していることになります。
 2018年度と2019年度の根室高校の受験者数は国語と英語が27人、数ⅠAが24人数ⅡBが22人です。根室市内では1学年230~240人ほどですから12%しか受験していないのです。全国平均値の1/4です。センター試験を受験できるレベルの学力の生徒が全国平均の1/4ということ。
 つまり上位10%と全国平均では上位48%の平均値を比べることになります。国語は0.8点全国平均値よりも高いが、数ⅠAは-6.5点、数ⅡBは-7.2、英語筆記が-16.1点、英語リスニング-3.1点です。
 根室高校生の平均値と全国平均値を並べてみます。
             根室  全国
  国語      118.6 117.8
  数ⅠA       55.1   61.5
  数ⅡB       49.2  56.3
  英語筆記     109.5 125.5
  英語リスニング 28.4    31.9

 上位10%の平均値と上位40%の平均値にどれくらいの差があるのか、市街化地域のC中学校学力テスト総合Cのデータで計算してみます。「階級値×人数」で得点合計を計算しました結果、平均点は119.2点となり、実際の値が117.3点ですから、誤差は1.9点ですから無視していいでしょう。なお、この学校の学力テスト総合C受験者数は39人です。
 上位4人(10%相当)の平均点  195点
 上位17人(40%相当)の平均点 159点
上位10%と上位40%では平均点の差が36点もあります。
 このことから、根室高校でセンター試験を受験した成績上位10%の生徒の平均点と全国平均は、根室高校生のほうがはるかに高く出て当たり前なのです。実際は数学と英語が大きなマイナスで惨憺たる結果でした。事態は深刻です。根室の教育関係者は全国標準の物差しで、子どもたちの学力を判断して、適切な教育政策や、授業、補習授業の立案をしていただけたらありがたい


 全国レベルという物差しで計測したらどういう評価になるのかという視点が根室人に欠けていますそれは子どもたちの学力にとどまりません。地元企業も同じです。「井の中の蛙」はそろそろ卒業しましょう。

 いま根室の子どもたちの学力が全国レベルでどういうことになっているのか、データを具体的につかみ、議論しすべきではありませんか。市教委も、市議会も、市長も、商工会議所や中小企業家同友会、ロータリークラブなどの地元経済界、みなさんこぞって議論すべきです。子どもたちの学力は、根室の町のそして地元経済界の未来にかかわる重大な問題なのですから。

 昨年度の入試や今年の入試を五科目合計点180点で足切りしたら、根室高校へ入学できるのは20人いるかな?標準問題で入試をやってもそれくらいな人数です。13年前は60人くらいいました。
来年度の受験者は高校入試が根室高校のみとなった最初の学年ですから、来年以降はセンター試験受験者数がおそらく20人を割ります。センター試験受験者数が10%を切りそうです。

<センター試験受験者数の推移>
2018年27人⇒2019年21人⇒2020年15-18人?


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使った資料:
①「進路決定状況」:http://www.nemuro.hokkaido-c.ed.jp/index.php?page_id=31
②「選択肢 平成30年度号外1/24」進路指導部「進路だより」
③C中学校「学力テスト総合C得点通知表」
④センター試験受験者数の推移:https://www.dnc.ac.jp/center/suii/suii.html
 

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#3911 根室高校入試出願状況: Jan. 26, 2019 [71.データに基づく教育論議]

 平成31年度入試の出願状況が道教委から公表されました。
*http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/kki/h31tousyosyutugan00.htm
根室高校のページ:http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/kki/syutugan-z14.pdf

 根室高校普通科 128(120)
     商業科  26(40)
    事務情報科 7(40)
                *(カッコ内は定員数)


 定員200名に対して出願数合計161人です、こんなに大幅な定員割れは初めてでしょう。とくに事務情報科はニーズがなくなったようですね。40人の定員にたった7人しか出願者がいませんから、商業科に統合していい。根室花咲線のようなもので、利用者が少なくなれば廃線になります。事務情報科は工業簿記が選択できませんから、全商簿記検定1級が受験できません。就職にも進学にもとっても不利です。
 普通科は8名オーバーですが、道内の私立高校を併願受験している生徒もいるので、実質的なことをいうと定員割れでしょうね。


 釧路湖陵高校も41人もの大幅な定員割れ、釧路の「進学校」がこれではさらに深刻な学力低下が生じそうです。釧路と根室は子どもたちの学力に関しては共通の悩みを抱えているようにみえます。それでも釧路市教委と根室市教委が、共通の問題である子どもたちの深刻な学力低下を話し合うことはなさそうです。釧路・根室の共通の問題ととらえていないからかもしれません。根室釧路管内で共通の問題には、市教委も市役所も市議会も広域のプロジェクトをどんどん立ち上げるべきです。広い視野をもち、協働して具体策をまとめたらすばらしい。

 定員割れが常態化すると学力低下が進むので、高校で教える先生たちもたいへんです。根室高校は裁量問題ですから普通科120人の内で五科目合計点(300点満点)100点以下が50%を超えるのではと危惧します。普段の学力テストで120点の得点階層が裁量問題では100点前後になります。
 30年後の町を支えるのは子どもたちですから、高校定員割れが常態化し、地元に残る子どもたちの学力低下が進むのは根室の未来にとって赤信号です。
 子どもたち一人一人の未来も心配です。180点以下では安定した職に就くのはほんとうにむずかしいと思います。この階層はいまでは10%くらいしかいません。

 根室高校でセンター試験受験者は毎年20-30人程度のようです。この数字がどういうことか次回解説してみたいと思います。

<余談>
 12月に入塾した中3の生徒は一生懸命勉強して、点数が大幅に上がりました。行きたい高校へ入って部活三昧の生活をするためというインセンティブがしっかりあります。だからよく勉強してます。
 ところがずっと通っている生徒で得点が横ばいの3年生が1人います。お母さんと話し合って今週金曜日から週4日毎回3~4時間しごくことに決めました。嫌いな数学ですが、まず入試過去問を徹底的にやらせます。全分野は無理なので、とくに2次関数の問題を集中的にトレーニング。あとは得点のとり方を教えます。これから1か月、問答無用です。(笑)
 久々に釧路高専へ進学する生徒がいます。推薦合格が決まって喜んでました。電気のほうへ進みたいというので、金曜日から三角比の勉強に切り換えました。三角関数までやれるかどうかは本人次第。国立高専は60点未満が赤点なので、入学してからは厳しいのです。
 「先んずれば人を制す」


<余談:根室商業>
 昨年の忘年会の席でのことだが、となりに釧路の教育を考える会の会長が座っていたので、四方山話になった。会長は釧路江南高校⇒北大⇒釧路市役所⇒経済部長⇒教育長という経歴の人である。団塊世代のebisuよりも一回り年長である。その会長が、自分たちの世代では釧路から根室商業へ進学した者たちがいるというのである。そのころは釧路湖陵よりも根室商業のほうがまぶしかったとおっしゃった。
 ebisuのオヤジの年代の歯科医の先生たちは根室商業から歯学部へ進学している、中には新聞に時代小説を連載するF先生や作詞をするT先生もおられた。昭和30年代には根室信金の幹部職員は大半が根室商業出身だった。
 こういう歴史と伝統は潰えて久しい、さみしい気がする。事務情報科がなくなってもわたしには何の感慨もないし、消えて当然だとも思っている。最初からニーズに乏しい科だった、広葉樹が秋になって葉を枯らすように、枝から落ちてゆくのだろう。
 日商簿記1級を教えられる先生とプログラミングや情報処理のベテランの先生を年収1000万円で雇えたら、根室高校商業科は全道ナンバーワンになるだろう。五種目1級取得者が量産できる。岐阜商業は日本商工会議所簿記能力検定試験1級合格者を毎年十数名輩出している。そういう高校が北海道にも一つあったら楽しいだろう。地域の活性化にも資するにちがいない。高校生で日商簿記能力検定1級合格者はそのほとんどが税理士試験に3年で合格できるだろうし、大学進学にも有利になる。高校生で日商簿記1級合格するような生徒の3人に一人は公認会計士2次試験にも合格できるからである。専修大学が昨年度12人(卒業生を入れると21人)が公認会計士2次試験に合格している(ニュース専修577号)。どこの大学でも資質の高い学生を囲い込み、公認会計士2次試験の合格者を増やしたいのである。日商簿記の力検定試験1級合格者に推薦枠のある学校が少なくないだろう。そして、大卒で日商簿記1級合格なら、一部上場企業の経理部門へ就職できる。募集してなくても、人事部や履歴書を出して、中途採用するときにはぜひ連絡くださいと書いておけばいい。
 (なお、全商簿記実務検定1級は日商簿記能力検定2級相当、日商のほうは記述式問題が出るの論理的な文章が書けるように答案練習が必要なので合格者がすくない。根室高校で日商簿記1級合格者はまだいない。ebisuも高校3年の6月検定を受験したが15点ほど足りなかった。)
 

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#3910 大坂なおみ 全豪オープン優勝 Jan.26, 2019 [87.根室の話題]

 放送をずっとみていた、強くなった、技術も精神面も。
 わずか数か月でこんなに成長するんだ。
 そして世界ランキング、ナンバーワン、たいしたものだ。おめでとう。

 話すとめんこい!

 根室の町も各分野に若者が擡頭してもらいたい。

 
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#3909 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.27~35 Jan. 26, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]



6.恬淡(てんたん:物事に拘泥しない様) その一
 
 特攻の死を恬淡と受けとめる搭乗員の記事としては、当時の山梨日々新聞(昭和二十年五月十七日)
に、「遺書は要らんよ 戦艦と決めた 初志貫徹のその前夜 郷土の神鷲 小田切少尉」という見出しで記事が載っている。その最後のところを引用しておく。
 「貴様故郷へ最後の手紙を書いたか」と堀江少尉が尋ねると、「いや、まだです。書く事がない
ですよ。何と書いてよいか解らんし、それに親には私情が多いから攻撃参加の手紙を見たら戦死
確認が発表される迄は気をもむでしょうからね。書いて親に余計な心配をさせない方がいいと思
います」と答えたのは小田切少尉だった。ふと真剣な影が浮んで消えたが後は相変わらず微笑を
含んだ柔和な表情だった。夜が明けて愈々出撃の時が来た。記者が感激をこめて帽をふると若い
小田切、堀江少尉、そして更に若い村田二飛曹の右手左手がさっと上り、「行って来ますぞ」「やっ
て来ます」と決意をこめて云った。小田切機がその初志を貫き沖縄周辺の敵艦船一隻を屠り去っ
たのは十一日午前九時十八分だった。
中込一善[要務。鹿児島。高警]「小田切大尉出撃︱生々しく伝える当時の報道︱」「海軍十四期第18号17頁)
 
 他方では、酒との深いつき合いに心を休めて、全く別の感慨を持っている予備学生もいる。
 
 森丘哲四郎[東京農大。神風特別攻撃隊第五七生隊。南西諸島方面にて特攻死]

 〔昭和二十年〕三月一日(元山空での日記)
  (…)
 
 二月初め卒業した橋本二飛曹[乙飛十八期、五月一四日第八七生隊隊員として特攻戦死]が再び着任し来れり。また新任の十三期少尉が続々着任しあり。
 五分隊の宮武一家、誰に恐れを感じようか。巡検後、五分隊総員にて一杯の盃を交わすこと数
時。従兵の修正[鉄拳などによる訓戒的制裁の海軍名称]、主計科先任下士の修正、五分隊の酒
の量は何時でも出すように。元の第九分隊、今の第十分隊[予科練]総員起し、学生長[松藤大
治]の名の下に修正す。若き搭乗員の魂、礼節を注意せり。 
 毎日の如く飲酒す。酒は強くなった。
(森岡清美『若き特攻隊員と太平洋戦争』一一九〜一二〇頁)
 
 下級者を修正すると称して殴ることは、海兵の思慮のない仕方だと言わざるをえない。後に触れるが、十三期も十四期に対して、修正を繰り返した人たちがいたが、十四期には幸いに後続の後輩たちがなく、殴る行為は会報にもほとんど載っていない。ところが、思わぬところでこの海兵の殴る伝統を体現しているものがいたわけなのだ。海軍の伝統は生きてゆくということなのか。郷にいっては郷に従うということなのであろう。何か寂しい気がする。森丘哲四郎の残された日記の最後は次のようになっている。

 四月一日 
 出撃の日だ。(…)学生教程卒業。記念撮影を行なう。 
 九時発進、晴なるも黄砂極めて深く、視界五〇〇メートル。十時、飛行隊発進待て。(…)愛機に必要物品を搭載す。人形は座席前に全部吊した。多くの戦友の涙ぐましき助力を得て準備完了せるも、黄砂いまだ深く、十二時飛行隊発進中止となる。 
 一日の生命の長を、元山にて得たわけである。今の心境にては、ただ速かに皆と別れたい感じ
である。喜びも悲しみもなく、考えもない。ただ無である。無。 
 私の美しき心の表現となさんために作り来たこのノートも、四月一日の夜をもってすべてが失
われたり。即ち酒だ。酒、酒、酒。
   (『あゝ同期の桜』181〜182頁注13)
 
 一方には、遺族や友人や恋人との関わりが多く残っているものもいる。 
 旗生良景の場合を引用する。京都大経済学部にいて、南西諸島方面にて特攻死。神風特別攻撃隊八幡神忠隊。

 昭和二十年四月十六日(串良基地にて日記) 
 今日はまだ生きております。昨日父さんにも母さんにも、兄、姉にも見送って頂き、全く安らかな気持で出発できました。T子にもお逢いになった由、本日川村少尉より依託の手紙で知りました。皆何と感じられたか知りませんが、心から愛した、たった一人の可愛い女性です。純な人です。私の一部だと思って、いつまでも交際して下さい。葬儀には、ぜひ呼んで下さい。
(…)
  ここは故郷の南端の地、春はようやく更けて、初夏の迫るを覚えさせられます。陽の光和やかに、緑濃き美しき故郷を敵機に蹂躙される無念、やる方なし。この地、父母の在す故郷を、死をもって護らんと、いよいよ決意を固くしております。 
 お父さま、お母さま、本当に優しく、心から私を可愛がって頂きましたこと、有難くお礼申します。この短い文の中に、私のすべての気持を汲んで下さい。これ以上のことを言うのは、水臭く、妙な感じがすると思います。私は一足先に死んで行きますが、私が、あの弱かった私が、国家のために死んで行けることを、喜んで下さると思います。長い間お世話になって、何一つ父さん、母さんに喜んで頂くようなことも致しませず、誠に相済まぬと思っております。私の死は、せめてもの御恩返しだと思って下さい。 
 兄さん。長い間有難うございました。優しく和やかに、私を育てて下さいましたこと、感謝します。後のこと、よろしく願います。私は心安らかに好機を待つだけです。 
 嫂さん。兄さんと仲良くして下さい。兄さんが応召にでもなったら、また一骨でしょうが、国家のため旗生家のため、奮闘して下さい。 
 良和ちゃん。詳しいことは、兄さんやお父さん、お母さんから聞いたことと思う。体を第一、次に勉強だ。立派な日本人になって、兄さんの後を継いでくれ。国家を救う者、これからの日本を背負う者は、良和ちゃんたちだよ。敵が、九州の南まで来ていることを思って、毎日々々、一生懸命やることだ。日本の宝だよ、良和ちゃんは。兄さんの最後の言葉を、無にしないようにしてくれ。最後の瞬間まで戦える、強健な身体と精神の養成に努めよ。お父さん、お母さんに、あまり心配かけるな。 
 和子ちゃん。日本人らしい女になれ。強く優しい女性となれよ。良い母親となり、良い子を生んで日本の宝となせ。兄さんの代りに、お父さん、お母さんに、孝行してくれ。 
 おばあさん。小さい時から大変お世話になりました。這い回っていた私も、こんなに大きく、弱かった私もこんなに強くなり、お国のために死んで行きます。おばあさんより先に死のうとは、思いもしませんでしたよ。あまりやかましく言わず、のんびり生き長らえて下さい。いろいろ有難うございました。
 
(同書166〜169頁注14
 
 姉弟や友人への書簡が、人柄を偲ばせる文章を残している隊員たちもいる。
 重信隆丸は、龍谷大文学部哲学科。沖縄中城湾特攻死注15 。神風特別攻撃隊琴平水心隊。

 昭和二十年五月二十七日(託間航空隊から書簡) 
 全く意地悪ばかりして申訳けない兄だったね。許してくれ。が、いよいよ明日は晴れの肉弾行だ。意地悪してむくれられたのは、今から思えばみんな懐かしい思い出だ。お前も楽しかった思い出として笑ってくれ。兄さんが晴れの体当りをしたと聞いても、何もしんみりするんじゃないよ。兄さんは笑って征くんだ。 
 およそ人生とはだね、エッヘン! 
 大きなあるものによって動かされているのだ。小さな私たちの考えも及ばない大きな力を持つあるものなのだ。それは他でもない、お前の朝夕礼拝するみ仏様なのだ。死ぬということはつらいというが、「何でもない。み仏様のなされることだ」と思えば、何も問題でなくなるのだ。欲しいと思うものが自分のものにならなかったり、別れたくないもの、例えば兄さんに別れたくなくったって、明日は兄さんはお前なんかまるで忘れでもしたかのように、平気であっという間に散ってゆくのだ。そしてちょうどお前のような境遇の人は、今の日本はもちろん、世界中のどこにでも一杯なのだ。 
 また兄さんは、特攻隊に入ってしばらく訓練したが、兄さんの周囲では特攻隊と関係のない長命すべきように思える人が、ぽつりぽつりと椿の花のおちるように死んで行った。大体分るだろう。この世は「思うがままにゆかないのが本当の姿なのだ」ということが。簡単に言えばちょっとまずいが、無常が常道の人生とも言えよう。ともかく、何も心配することなんかこの世にはないのだ。明るく朗らかに紡績に励み、勉強し、立派な人間になってくれ。それがとりも直さずお国への最も本当の御奉公なのだ。兄さんは、それのみを祈りつつ征く。 
 難しそうなことをいろいろ書いたが、兄さんもいろいろこれまで考えた挙句、つい最近以上書いたような心境になったのだ。お前もなかなか本当の意味は分り難いと思うが、折にふれてこんなことを考えていたら、いつか分ることだ。朝夕お礼をすることを忘れないように。しみじみ有難く思う時が必ずくる。お父さんはじめお母さんも相当年をとられたことだから、よくお手伝いをしてあげてくれ。姉さん、昭を頼む。元気に朗らかにやるんだよ! 
 仏様のことを時々考えろと言ったって、仏様とはしんみりしたものとは全く関係のないものだよ。以下取急ぎ断片的に書く。
  一、運動は必ずやるべきだ。精神爽快となる。
  一、守神(マスコット)を頼んではあったが、手に入らなくても、何の心残りも無し。雨降れ
ば天気も悪しだ、ワッハッハハ……。 
  一、よく読書すべし。
 
 幾ら書いても際限なし、ではさようなら。お元気で。  
  妙子殿
(同書146〜147頁注16
 
 父母のこと、国のことをいつも念頭に置いていた搭乗員は数多い。父母と国のことを考えながら、
覚悟し精進している姿が痛ましい。

 
 諸井国弘の文章をあげておく。彼は、国学院大文学部史学科。南西諸島方面にて特攻死。神風特別
攻撃隊第五筑波隊。

 昭和二十年三月十四日(筑波航空隊にて日記) 
 今日は、ふと日記を書く気持になった。外はしとしとと、小雨が降っている。バスに行く時、小雨に煙る外を見た時、何ともいえない淡い淋しい想い出が、ぼーっと頭に浮んできた。死という最も厳粛な事実が日一日と迫って来る今日、何を言い、何を考えよう。ともすればデカダンにならんとするわが心を制し、強く正しく
導いて行くものは、この俺の心の奥の奥にある神である。しかしまた、ある一面においては自分の心は、良いデカダンにならんことを欲している。それはこの自分の赤裸々な姿を、心を、表わして見たい。若い人生の最後において。しかし今は、何だかまだそれが恐ろしいような気もする。だがこの一日々々の貴重な時、自分の心の中のある二つのものが相争うようなことは、考えて見れば実にもったいないことである。しかし最後まで、これで良いのかも知れない。 
 今日母上より葉書を頂く。忘れよう忘れようとして、なかなか忘れられない家のこと。このなつかしいわが家も、国家あってのわが家。国家なくして何のわが家ぞ。今正に国家危急存亡の秋、この祖国を護るのは誰か、我をおいて他に誰があろう。この頃は以前のように、過去に対する憧憬なんてものは、なくなってしまった。と言って未来は、目の先にちらついているもの以外には、何もない。 
 静かな諦念か。夢、夢……夢の一語につきるような気がする。
   (同書184頁注17

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注 12 :2003年版では139頁。

注 13 :2003年版では206頁。
注 14 :2003三年版では188〜191頁。
注 15 : 『あゝ同期の桜』2003年版164頁および『学徒特攻その生と死』448頁では「南西諸 島方面」となっている。
注 16 :2003年版では164〜166頁。
注 17 :2003年版では209〜210頁。



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#3908 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.19~27 Jan. 26, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

  本欄の左にあるカテゴリー・リストにある「0. 特攻の記録 縁路面に座って」を左クリックすれば、このシリーズ記事が並んで表示されます。
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5.木枯らしと同じく、搭乗員たちは帰るところはなかったのか
 
 間もなく紹介してゆく彼らの多くの手紙や遺書が示しているように、彼らが納得して帰ろうとしているところは、あるいは祖国であり、あるいは故郷であり、あるいは両親であり、あるいは自分の生き方である。 
 殉国の熱意があり、自分自身の誇りがあり、家族の面目があり、父母への感謝あり、親不孝への謝りあり、別れの淋しさあり、兄弟姉妹への思い入れあり、友人たちへの惜別の気持ちが随所に溢れている。 
 しかもこれらの心情はいずれも一義的ではない。一義的に言い切ってしまうとかえって嘘になるといってもいい。本来は言葉に仕切れない奥底の心情の機微なのであろう。言葉にすると嘘になってしまうことがあるのは、このためであろう。 
 偉大なる決意の中には、必ずといってもいい、いい知れない哀しみがこだましている。逆にいえば、耐え難い不安悲しみの中には、なに人も及びがたい偉大な心情が息づいている。真の偉大さは悲しみの中に、あるいは耐え難い哀しみは、その中に隠れている偉大さと一体であるといってもいい。本当の偉大さは、あるいは逆に本当の哀しみは、それぞれがその逆のものの中に潜んでいるのである。 
 だから、偉大も、哀しみも、あるいはもっといえば人間の心情は何であれといってもいい、それぞれ矛盾したものの中に潜んでいて、そこで働いているのだ。一つだけ断言すると、それは本当のものでなくなってしまう。もっといえば、これだけだなどと言い切ってしまうと、何だか嘘っぽくなる。 
 特攻に出撃した搭乗員たちは、ほぼみんなが数々の矛盾した心情を生きている。この矛盾した声をそのまま聞き取ることが、後に残ったものの厳粛なつとめであるような気がしてならない。 
 左右のイデオロギーからする特攻論には、こうしたところが見られないことが残念である。搭乗員たちの心を見ていない虚しさが感じられてならない。彼らの心の奥底には、限りなく多様な心情、悩み、誇り、楽しみ、喜び、悔しさ、憤りが渦巻いているのだ。 
 山下久夫は、そうした搭乗員の一人である。大正十一年九月二十二日生まれ。関西大学法学部在学。神風特別攻撃隊第二正統隊員として南西諸島方面にて散華。百里原空の九九艦爆搭乗員。大井空偵察課程出身。
   「雲の中ゆ あまた群山 越えゆかば
    神かも山かも  富士の迫りくる
                山下久夫」  

  これは山下が百里原空第二回の特攻隊の一員として鹿屋基地についてから、(…)百里原に残っ
ていた我々宛に書き送ってくれたはがきにあったものである。萩原浩太郎『別冊あヽ同期の桜』219頁 注7
 
 次に彼の昭和二十年の三月二日(百里原空日記)『別冊あヽ同期の桜』一一〇頁 注8 を引用してみる。 
 今朝土井教官に修正を受けた。然し彼の人が自分の全生活を知ったら、数倍の修正を行ったであろう。 
厳に戒むべし。生命短き者、人に恥ずる行為をして可ならんや。積乱雲の如くもり上がって、天空に砕け散る者、なんで羞しい行為あらん。燃やせ短き男の生命。「千万人と雖も吾恐れんや」の言葉如何した。普通ならあるべき休暇もなく、戦備作業を行う我々 の意気旺ならず、この仕方なしの気持に俺もつり込まれはせぬか。この前の壮なる自覚による元気は何処へ行ったか。 
友の「やる気があるのは馬鹿だ」とかの言葉を聞くと、自分のことを言っている様に感じ、気遅れを感じ、戦勢利あらざる今日、以前に数倍せざるべからざる士気を念願しつつ、我の日常を憂い而も他人をひきずって行く勇気は、何処に埋没されたか。男が心の奥底よりの叫び何ぞ他人に左右されんや。人は吾が外物を衰えしめ得るが、然し勇気は断じて衰滅させることは出来ない。行け男子たる吾れ! 「国亡びて何の努力ぞや」亡びざる前の努力これに何倍するものぞ。努力せよ。短き命を思い 身を粉にせよ。労を惜しむ勿れ。
〝飛行機が有ったら〟これは国民凡ての願望であるが、我々搭乗員はこの願いで胸が一杯である。まして特攻隊が編成される秋哭かざるを得ない。優秀な青年が性能の劣れる飛行機に乗り、腹の爆弾と命を共にせんと必死の訓練を行うとき、悲憤の涙を禁ずることが出来ぬ。三月一日の朝の隊長の訓示の何ぞ声の悲愴なる。ハワイに、印度洋に、敵を震わせた隊長は、この劣性能の練習機に心命を托されるか、言葉なき表現、男の心、
男のみ知る。 

 もののふは かくこそ散らむ 深山奥の 
   葉陰の桜の ちるが如くに 

昭和二十年三月十四日(百里原航空隊にて日記) 
 父上に。(…) 
 一度お会いする機会を得ましたことは、久夫の最も幸福とするところであり、また父上の老いられたお顔を見て、感慨無量のものがありました。推察するところ、忠誠を教え下さるも、わが子は必ず生きて帰る、否、生きて帰ることを祈って下さるお心を拝し、胸をかきむしられる思いが致しました。長男の私ゆえ父上のかかる思いをお察しすることは、堪えられぬものがありました。国が生死の岐路に立つとき、私も敢然奮闘死闘するつもりであります。 
 父上への孝養は、利良に頼みます。どうか父上、私は四つの時に死んだものとおぼしめされ、利良を立派にお育て下さるよう切にお願いします。女々しいことを書いて申訳けありません。利良が立派に私に代わってお仕えし、多幸な生涯を送られることを切に念じております。
 
 母上へ。 
 父上と会った節、母上は私が書いた如く、時を待つと言われて来られませんでした。会わなかったのを残念がって下さいますな。久夫は、いつまでも母上のそばにおります。母上とともに弥陀の下におります。 
 お国の大事、いつも搭乗員たる私らは、覚悟はしております。再び母上と会う機会は、ないものと思います。また遠いところへ、会いに来て下さいますな。母上のお心に感泣しつつも、こんなことを書かねばならぬほど日本は切迫しております。
  (…)
 照一も多分、戦死することでしょう。かわいい弟、私はいつも喧嘩をしていたせいか、離れると一層かわいく感じます。彼も幼にして、国難に殉ずることでしょう。その後は利良のみ、父上、母上への孝養を頼みます。

 
 母上が私の写真を見て武運を祈られるそのお言葉、殊に三月一日に着いたその夜のことを妹が書いておりますが、全く泣けてきます。   (『あゝ同期の桜』一八五〜一八六頁 注9)
 
 山下久夫の書いたものをたどると、彼は自分のこれまでの生き方と関係づけ、自分を確かめながら、国家に殉ずる特攻隊員の誇りと、家族と別れる哀しみを交錯させている。多くの搭乗員が何らかの形でこの問題に触れている。 
 特に彼においては、仏門の家柄が、大きな点で彼の気持ちを支えている。家との繋がりの深さがしみじみと胸を打つ。出撃の数日前に、同僚と共に自分の家の上空を飛び、別れ際に数珠を友達に託している。その友人が何十年か後に、彼の寺を訪ね、当主にその数珠をお返ししている。 
 山下久夫は大学のことにあまり触れていないが、生活が出身学校に多く関係しているものもいる。

 市島保男は、早稲田大学商学部から学徒出陣し、南西諸島方面にて散華。神風特別攻撃隊第五昭和隊に所属した。徴兵以前の日記から引用してみる。
昭和十八年十月十五日〔徴兵以前〕十時半から学校で壮行会を催してくれた。戸塚球場に全校生徒集合し、総長は烈々たる辞を吐き、我等も覚悟を強固にす。
   
   なつかしの早稲田の杜よ。   
   白雲に聳ゆる時計塔よ。いざさらば!
 
 我ら銃を執り、祖国の急に身を殉ぜん。我ら光栄に充てるもの、その名を学生兵。いざ征かん、国の鎮めとなりて。記念碑に行進を起すや、在校生や町の人々が旗をふりながら万歳を絶叫して押し寄せてくる。長い間、心から親しんだ人達だ。一片の追従や興奮でない誠実さが身に沁みて嬉しい。思わず胸にこみ上げてくるものがある。図書館の蔦の葉も、感激に震えているようだ。静寂なる図書館よ。汝の姿再び見る日あるやなしや。総長のジッと見送ってくれたあの慈眼、佐藤教授の赤くなった眼、印象深い光景であった。学半ばにして行く我らの前には、感傷よりも偉大な現実が存するのみだ。この現実を踏破してこそ、生命は躍如するのだ。我は、戦に! 
建設の戦いに!解放の戦いに!学生兵は行く!いざさらば、母校よ、教師よ!
   (同書13〜14頁注10

 
 こういった文章を読んでいると、散華した特攻隊員たちは町の人々との繋がりが彼の祖国に繋がっていると思っている。街や人と関係のないものには、とりわけ国家を感じていない。ただ、自分を感じているだけである。
〔昭和十八年〕十月十九日 
 航空部の壮行会が、五時から雅叙園で開かれた。六時過ぎても、なかなか集らない。この部は理工科系統が多いので、大局に影響がない。ますます発展せんことを祈る。隣りでもH大の連中が騒いでいた。僕らも騒ぎ騒がれたが、心から楽しく騒げなかった。出る者より、残る者の方が楽しそうに騒いだ。勿論、行を壮んにする気だろうが、何かしら空虚な気持がした。今、時ここに至っては、我らが御盾となるのは当然である。悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め、己れの姿を視つめ、古の若武者が香を焚き出陣したように、心静かに行きたい。征く者の気持は皆そうである。周囲があまり騒ぎすぎる。来るべきことが当然来たまでのことであるのに。
   (同書14頁注11
 
彼の最後の文章は次の通り。

〔昭和二十年〕四月二十九日 
 今日の佳き日は、大君の生まれ給いし佳き日なり。谷田部を出る時は、今日まで生き永らえる
とは夢にも思っていなかった。昨日あのまま出撃しおらば、今やあるなし。実に人間の生命など
は、考えるとおかしなものである。 
 〇六三〇より一〇一五まで空襲。専らB 29 にて、小型機は最近一向来襲せず。
 空母を含む敵機動部隊、前日とほぼ同様の位置に来る。神機まさに到来。一挙に之を撃滅し、もっ
て攻勢への点火となさん。 
 一二一五 搭乗員整列。進撃は一三〇〇より一三三〇ごろならん。 
 空は一片の雲を留めず。麦の穂青し。 
 わが最後は四月二十九日、一五三〇より一六三〇の間ならん。
   (同書一二四頁 注12
 
 彼自身は特攻作戦が強行される事態に何の疑いも抱いていない。家郷に思いを残しているが、特攻
の死を恬淡と受けとめている。文章に乱れがないことが、何とも清々しい。こんなに正面から現実を
素直に受けとめる学生もいたのである。静かに粛々と沖縄に突っ込んで死んでしまったのである。何
とも残念である。

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注7  『別冊あゝ同期の桜』は『続・あゝ同期の桜』のタイトルで再刊されており(海軍飛行予備学 生第十四期会編、光人社、一九九五年)、その版では261〜262頁。
注8  『続・あゝ同期の桜』では128〜130頁。
注9    2003年版では211〜213頁。
注 10  2003年版では12〜13頁。
注 11  2003年版では13〜14頁。
注 12  2003年版では139頁。 
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#3907 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.17~19「特攻の死の意味」 Jan. 24, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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4.特攻の死の意味
 
逆に、搭乗員の方から考えてみると、搭乗するものは特攻では自分が死ぬ。自分が無になる。無になると何が残るのか。何も残らないのではないか。そこを国が残ると説明する。ところが、国は自分ではない。自分の次元を超えたものであり、一つの〈意味〉でしかない。
 
軍令部が国に殉ずる死を志願させ、この志願を納得させることは、この〈意味〉を本人の生命(実質)と思いこませることである。意地悪くいうと、〈この題目〉を〈こちらの生身〉と思い違いさせることであるといってもいい。
 
本当に特攻がじっさいに救国不可欠の行動でないのであれば、題目によって搭乗員(こちら)を殺し、上層命令者(あちら)が自分に都合の良い戦功を誇るだけのことである。しかし、特攻のじっさいの成果と効力が明確に説明されたことはない。
  〈真に検討し尽くした救国の案〉でない限り、命令者が搭乗しない(死なない)特攻作戦は、極言 すれば一つの殺人でしかない。この点を間違えると、〈搭乗者〉の心情と戦果とを〈命令者〉にはなむけするだけのものとなる。真偽のほどは定かではないが、特攻を推進した大西滝治郎の顕彰碑が建っているという話を聞いたことがある。どこかが狂っているような気がする。
 
戦争には突飛な発想は許されない。多くのひとの地道な協力努力が何より大切であり必要なのだ。突飛な発想は最後の玉砕か、敗戦覚悟かの二者択一の道でしかない。特攻は二度と用いられてはならない。少なくとも命令者が搭乗しない特攻作戦は決して用いられてはならない。最後まで特攻作戦に関わりを持っていた黒島亀人参謀は、真珠湾攻撃を作戦した人物といわれている。未曾有の突飛な航空機作戦によって、大勝利を納めたのだと思っていたのかもしれない。しかし、じつはそれが突飛でなく、航空機が次代の海戦の主流になることを先取りしていたのだ。しかし、本人はこのことには全く気づいていない。だから、真珠湾以後の作戦では、適切な航空作戦を誤り、制海権、制空権を失い、爾後の対米海戦では連戦連敗を喫している。先を見ていたのに、本人は思いつきと思っていたことでもあろうか。
 
制海権、制空権がなければ、人員そのものを兵器にする〈突飛〉な全軍特攻作戦が、軍令部の窮極な作戦となるほかはなかったのだといってもいいかもしれない。これを了承した〈軍令部の頭脳〉を疑うほかはない。
 
昭和十八年十月には、黒木大尉、仁科中尉による人間魚雷の意見書提出(書面は殉国の熱意に溢れているが、当時の感覚からしても常人の感覚を超越している文章である感がある)。
 
昭和十九年一月二十日に黒島亀人大佐はこれに兵員帰還を付記して天皇の裁可を得るが、脱出装置が技術的に未完で採用の決定は見送られる 注6 。
 
昭和十九年四月に、軍令部が「作戦上、急速に実現を要する兵器」として七種類の特攻兵器を提示。同年五月、一〇八一空の大田正一少尉が、人間爆弾(後の桜花)の構想開示。六月には、岡村基春大佐が「体当たり機三〇〇機よりなる特殊部隊」の指揮官たることを求める意見具申。その後、源田実の強力な推進運動によって、桜花の採用が実現した気配がある(源田の特攻作戦推進運動については、生出寿 『一筆啓上瀬島中佐殿』一二九頁〜一三五頁)。しかし、戦後、源田は、自分は戦闘機隊専門で、特攻関係のことは知らぬと言い通している(同書参照。なお、大西による比島の最初の特別攻撃の際、軍令部が送った電文(敷島隊、朝日隊など名前入り)を、源田は特攻隊編成の七日前にすでに日本にいて自筆で書いている。真偽はどうなのであろうか)。
 
大田によって発案された桜花は、その後脱出装置なきまま兵器として採用決定。その決定とほぼ時を同じくして、人間魚雷も脱出装置なきまま認可採用。以後、続々と特攻兵器は瞬く間に採用決定され、全海軍の主要兵器となる。特攻作戦の成立には、桜花の採用が大きな役割を果たしたと考えられる。

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<ebisuメモ>
 第14期学徒出陣、ゼロ戦パイロットで同期の多くが散華しました。本書は市倉宏祐先生が70歳になってから書き残した貴重な記録であると同時に、軍隊組織の理不尽さと敗戦の原因分析を滑走路の縁に座って、在りし日の自分たちを眺めて書いているように見えます。
 先生自身は次のように述べておられます。
イデオロギー解釈は、いずれも自分の好悪利害から特攻の事実のみに注目し、その事態の本質を素通りする。その事態を生きた人間を見過ごしている。… 何よりも、人間の哀歓の観点に焦点をおいて、搭乗員たちの言葉に接してゆくことにしたい。」
 編集委員代表の専修大学教授伊吹克己さんの好意により本の電子ファイルをいただきました。全文アップするのでたくさんの人に読んでもらいたいと願っています。

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#3906 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』P.14~16 Jan. 24, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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1.搭乗員たち
 
誓子が詠ったように、搭乗員たちは全く帰るところはなかったのであろうか。搭乗員の思いは確かに共通するところはあるが、細かく彼らの心情を推し量るとき、各人によってまちまちである。また、それぞれの場合のこととなると、異なる心情を覗かせていることさえある。あるいは、同じ言葉が別の意味を垣間見せていることさえもある。
 
ただ、共通していえることは、誰もが死に対面したときのそれぞれの思いを静かに伝えようとしているということであろう。遺書や手紙の文字の背後にあるものを感じとってほしい気がする。


2.軍令部の特攻への提言
 
まず、特攻作戦の採用について、よく知られている歴史的なことを簡単に述べておかねばならない。次のような経過が知られている。
 
昭和十八年三月に、竹間忠三大尉が人間魚雷に関する書簡を軍令部に進言。六月には、城英一郎大佐が二五〇キロ爆弾を搭載突入する艦爆艦攻の特殊航空隊の編成を開陳。これは練度の不足を人間で補うことであり、ほんとうは練度を上げたり、兵員を補充すべきことが本筋であるが、もはや軍令部、あるいは戦争指導部が現実の戦況を直視する能力を失って、敗戦の実態を自覚していないことを示している。 
もともと、特攻が殺人行為であって戦争行為でないことが自覚されていない。この海軍将校団の見解はどこに由来するのか。少なくとも日露戦争の東郷平八郎は、人命が絶対的に保証されない作戦を認めていない。この海軍上層部の頽廃がどこに起因するのかは、正確に結論するほどの資料はない。今はこの作戦に参加した人々の経験から、せめてそのかすかな兆候側面を類推するほかはない。
 
七月には、黒島亀人、中沢佑大佐が特攻兵器採用を求めている(公刊戦史)。八月には、モーターボート爆弾、戦闘機衝突戦法などの突飛な方法が模索されている。黒島は昭和十八年八月六日に軍令部で、今後の海軍戦備を決める会議で、「突飛意表外の方策によって、必殺の戦を行う必要がある」と強調している(別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』三二頁 注4 )。
 
こうした議論を背景として海軍では全軍の企画としてさまざまの特攻兵器が作成されることになってくる。
  
桜花(マルダイ)  
航空機から落とす爆弾に、人間が搭乗して目的物に突入するもの。いくどか作戦に使用されたが、この爆弾を運ぶ航空機が低速のため大きな効果を出せなかったようである。
  
回天 
人間が魚雷に搭乗して、敵艦船に突入する兵器。初めは泊地停泊の艦船が目標となったが、後には泊地が警戒厳重となり、潜水艦が洋上で発見する艦船が目標となった。
  
震洋 
爆薬を装備したモーターボート。米軍のフィリッピン上陸作戦には少なくともおよそ千隻に及ぶ震洋が玉砕している 注5 。正確な戦果は不明である。
  
蛟竜 
乗員五名の小型潜水艦。戦果は不明。

海竜 
二人乗り小型潜航艇。建造数二二四隻。実戦無し。
  
伏竜 
酸素ボンベを背負って海中を歩行して、上陸せんとする敵艦艇を棒機雷を用いて爆破する。兵器としての完成度不十分なところあり。取り扱いが難しく実戦には使われていないようである。訓練事故も多かったと聞いている。
 
何でこんな気違いじみた兵器が軍令部全体で採用されることになったかが、何よりも問題であろう。


3.考察不十分
 
もともと、「突飛」とは何を意味するかを真剣に考えていない。さらにどうしてこの必殺動員が許されるのか。また本当に日本軍を勝利に導くのか、どうかも十分に勘案していない。必殺であっても、必ずしも勝利を保証するとはいえない。練度や兵器の性能や兵力の多寡が比較されなければ、必殺は単に心構えの強調にとどまり、実効ある戦術とはいえないであろう。
 
この見識を持たないことが、最後まで特攻に固執し、しかもこれを救国の特効薬と信じ込んでいたふしがある。参謀命令者みずからは搭乗せず、結局は兵員兵器を一度限りのものとして消耗してゆくだけのこととなった。戦況の進展と共に兵器の不足が痛切な問題になってゆくことになる。



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#3905 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.10~12 Jan. 24, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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3.一つの伝聞
 
NHKから再三の出演依頼を受けながらも、誓子は難聴を理由に辞退してきた。九十歳のとき、やっと平成三年に自宅の句会の生中継に応じた折りのことである。「先生のこれまでの莫大な作品から、お好きな句を三句挙げて下さい」と乞われて、皆が固唾を呑んで注目していると、彼の口からまず出たのは、この句であった、という話が伝わっている。
 
これは一つの伝聞である。誓子自身がこの間の経過を明確に語っているわけではない。あるいは、彼自身はいつしか知らぬまに木枯らしの悲哀に特攻を重ね合わせていったのかもしれない。いやそれ以上に読者たちがこの悲哀と絶望感を結びつけて納得していったというほうが、事実に近いかもしれない。じっさいにこうした解釈を提起している人もいないわけではない。
 
が、特攻を木枯らしとすれば、特攻は確かに帰るところがないかもしれない。が、神風特攻隊は単なる木枯らしでしかないのか。戦後、特攻が虚しい木枯らし程のものとしか考えられなくなってきた時代が来たとき、この句が深く注目されたのかもしれない。
 
そのとき、読者たちが、戦後の特攻の見方をそのままこの句によせたのではないのか。あるいは、また誓子みずからがそう信じこんだことがあったのかもしれない。誓子自身が特攻とこの句との関わりを何かしら感じとっているかに見える言葉が、彼自身に全くないわけではない。
 
搭乗員の虚しい死にのみ注目して、彼らの心情に無縁であれば、特攻の事実のみをみて、その奥を洞察しないことになりはしないか。事態だけを見て、その事態を実際に生きていた人間そのものを、見ていないことになりはしないか。
 
木枯らしが(あるいは、特攻隊員が)全く帰るところがないとは、恐らく生きる道がないということであろう。つまり、死しかないということであろう。が、ではじっさいの搭乗員たちは死をどう考えていたのか。いやまた、搭乗員には帰るところは本当にどこにもなかったのか。彼らはそもそもいったいどこへ往ったのか。死とは一体どこであるのか。
 
もともと、この句が広く受け容れられたのは、隊員たちを単なる左右のイデオロギー解釈(あるいは尽忠の士と誉め称え、あるいは無駄死にしたにすぎないと無視する解釈)を踏み越えて、特攻に投じた搭乗員たちの人間の悲哀に踏み込んでいるからなのだ。イデオロギー解釈は、いずれも自分の好悪利害から特攻の事実のみに注目し、その事態の本質を素通りする。その事態を生きた人間を見過ごしている。
 
が、この誓子の句にして尚奥底の人間そのものを見ていないとすれば、人間のどこを見ていないかが問題となるであろう。外から搭乗員の非運と、悲しい廻り合わせを詠嘆し、見ているだけではないか。本当に絶唱であるのか。イデオロギー解釈より事態を捉えているが、特攻の本来の姿を見ていないところでは、同じかもしれない。何かが欠けている感がする。何が欠けているのか。
 
何よりも、人間の哀歓の観点に焦点をおいて、搭乗員たちの言葉に接してゆくことにしたい。



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