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#3911 根室高校入試出願状況: Jan. 26, 2019 [71.データに基づく教育論議]

 平成31年度入試の出願状況が道教委から公表されました。
*http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/kki/h31tousyosyutugan00.htm
根室高校のページ:http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/kki/syutugan-z14.pdf

 根室高校普通科 128(120)
     商業科  26(40)
    事務情報科 7(40)
                *(カッコ内は定員数)


 定員200名に対して出願数合計161人です、こんなに大幅な定員割れは初めてでしょう。とくに事務情報科はニーズがなくなったようですね。40人の定員にたった7人しか出願者がいませんから、商業科に統合していい。根室花咲線のようなもので、利用者が少なくなれば廃線になります。事務情報科は工業簿記が選択できませんから、全商簿記検定1級が受験できません。就職にも進学にもとっても不利です。
 普通科は8名オーバーですが、道内の私立高校を併願受験している生徒もいるので、実質的なことをいうと定員割れでしょうね。


 釧路湖陵高校も41人もの大幅な定員割れ、釧路の「進学校」がこれではさらに深刻な学力低下が生じそうです。釧路と根室は子どもたちの学力に関しては共通の悩みを抱えているようにみえます。それでも釧路市教委と根室市教委が、共通の問題である子どもたちの深刻な学力低下を話し合うことはなさそうです。釧路・根室の共通の問題ととらえていないからかもしれません。根室釧路管内で共通の問題には、市教委も市役所も市議会も広域のプロジェクトをどんどん立ち上げるべきです。広い視野をもち、協働して具体策をまとめたらすばらしい。

 定員割れが常態化すると学力低下が進むので、高校で教える先生たちもたいへんです。根室高校は裁量問題ですから普通科120人の内で五科目合計点(300点満点)100点以下が50%を超えるのではと危惧します。普段の学力テストで120点の得点階層が裁量問題では100点前後になります。
 30年後の町を支えるのは子どもたちですから、高校定員割れが常態化し、地元に残る子どもたちの学力低下が進むのは根室の未来にとって赤信号です。
 子どもたち一人一人の未来も心配です。180点以下では安定した職に就くのはほんとうにむずかしいと思います。この階層はいまでは10%くらいしかいません。

 根室高校でセンター試験受験者は毎年20-30人程度のようです。この数字がどういうことか次回解説してみたいと思います。

<余談>
 12月に入塾した中3の生徒は一生懸命勉強して、点数が大幅に上がりました。行きたい高校へ入って部活三昧の生活をするためというインセンティブがしっかりあります。だからよく勉強してます。
 ところがずっと通っている生徒で得点が横ばいの3年生が1人います。お母さんと話し合って今週金曜日から週4日毎回3~4時間しごくことに決めました。嫌いな数学ですが、まず入試過去問を徹底的にやらせます。全分野は無理なので、とくに2次関数の問題を集中的にトレーニング。あとは得点のとり方を教えます。これから1か月、問答無用です。(笑)
 久々に釧路高専へ進学する生徒がいます。推薦合格が決まって喜んでました。電気のほうへ進みたいというので、金曜日から三角比の勉強に切り換えました。三角関数までやれるかどうかは本人次第。国立高専は60点未満が赤点なので、入学してからは厳しいのです。
 「先んずれば人を制す」


<余談:根室商業>
 昨年の忘年会の席でのことだが、となりに釧路の教育を考える会の会長が座っていたので、四方山話になった。会長は釧路江南高校⇒北大⇒釧路市役所⇒経済部長⇒教育長という経歴の人である。団塊世代のebisuよりも一回り年長である。その会長が、自分たちの世代では釧路から根室商業へ進学した者たちがいるというのである。そのころは釧路湖陵よりも根室商業のほうがまぶしかったとおっしゃった。
 ebisuのオヤジの年代の歯科医の先生たちは根室商業から歯学部へ進学している、中には新聞に時代小説を連載するF先生や作詞をするT先生もおられた。昭和30年代には根室信金の幹部職員は大半が根室商業出身だった。
 こういう歴史と伝統は潰えて久しい、さみしい気がする。事務情報科がなくなってもわたしには何の感慨もないし、消えて当然だとも思っている。最初からニーズに乏しい科だった、広葉樹が秋になって葉を枯らすように、枝から落ちてゆくのだろう。
 日商簿記1級を教えられる先生とプログラミングや情報処理のベテランの先生を年収1000万円で雇えたら、根室高校商業科は全道ナンバーワンになるだろう。五種目1級取得者が量産できる。岐阜商業は日本商工会議所簿記能力検定試験1級合格者を毎年十数名輩出している。そういう高校が北海道にも一つあったら楽しいだろう。地域の活性化にも資するにちがいない。高校生で日商簿記能力検定1級合格者はそのほとんどが税理士試験に3年で合格できるだろうし、大学進学にも有利になる。高校生で日商簿記1級合格するような生徒の3人に一人は公認会計士2次試験にも合格できるからである。専修大学が昨年度12人(卒業生を入れると21人)が公認会計士2次試験に合格している(ニュース専修577号)。どこの大学でも資質の高い学生を囲い込み、公認会計士2次試験の合格者を増やしたいのである。日商簿記の力検定試験1級合格者に推薦枠のある学校が少なくないだろう。そして、大卒で日商簿記1級合格なら、一部上場企業の経理部門へ就職できる。募集してなくても、人事部や履歴書を出して、中途採用するときにはぜひ連絡くださいと書いておけばいい。
 (なお、全商簿記実務検定1級は日商簿記能力検定2級相当、日商のほうは記述式問題が出るの論理的な文章が書けるように答案練習が必要なので合格者がすくない。根室高校で日商簿記1級合格者はまだいない。ebisuも高校3年の6月検定を受験したが15点ほど足りなかった。)
 

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#3910 大坂なおみ 全豪オープン優勝 Jan.26, 2019 [87.根室の話題]

 放送をずっとみていた、強くなった、技術も精神面も。
 わずか数か月でこんなに成長するんだ。
 そして世界ランキング、ナンバーワン、たいしたものだ。おめでとう。

 話すとめんこい!

 根室の町も各分野に若者が擡頭してもらいたい。

 
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#3909 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.27~35 Jan. 26, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]



6.恬淡(てんたん:物事に拘泥しない様) その一
 
 特攻の死を恬淡と受けとめる搭乗員の記事としては、当時の山梨日々新聞(昭和二十年五月十七日)
に、「遺書は要らんよ 戦艦と決めた 初志貫徹のその前夜 郷土の神鷲 小田切少尉」という見出しで記事が載っている。その最後のところを引用しておく。
 「貴様故郷へ最後の手紙を書いたか」と堀江少尉が尋ねると、「いや、まだです。書く事がない
ですよ。何と書いてよいか解らんし、それに親には私情が多いから攻撃参加の手紙を見たら戦死
確認が発表される迄は気をもむでしょうからね。書いて親に余計な心配をさせない方がいいと思
います」と答えたのは小田切少尉だった。ふと真剣な影が浮んで消えたが後は相変わらず微笑を
含んだ柔和な表情だった。夜が明けて愈々出撃の時が来た。記者が感激をこめて帽をふると若い
小田切、堀江少尉、そして更に若い村田二飛曹の右手左手がさっと上り、「行って来ますぞ」「やっ
て来ます」と決意をこめて云った。小田切機がその初志を貫き沖縄周辺の敵艦船一隻を屠り去っ
たのは十一日午前九時十八分だった。
中込一善[要務。鹿児島。高警]「小田切大尉出撃︱生々しく伝える当時の報道︱」「海軍十四期第18号17頁)
 
 他方では、酒との深いつき合いに心を休めて、全く別の感慨を持っている予備学生もいる。
 
 森丘哲四郎[東京農大。神風特別攻撃隊第五七生隊。南西諸島方面にて特攻死]

 〔昭和二十年〕三月一日(元山空での日記)
  (…)
 
 二月初め卒業した橋本二飛曹[乙飛十八期、五月一四日第八七生隊隊員として特攻戦死]が再び着任し来れり。また新任の十三期少尉が続々着任しあり。
 五分隊の宮武一家、誰に恐れを感じようか。巡検後、五分隊総員にて一杯の盃を交わすこと数
時。従兵の修正[鉄拳などによる訓戒的制裁の海軍名称]、主計科先任下士の修正、五分隊の酒
の量は何時でも出すように。元の第九分隊、今の第十分隊[予科練]総員起し、学生長[松藤大
治]の名の下に修正す。若き搭乗員の魂、礼節を注意せり。 
 毎日の如く飲酒す。酒は強くなった。
(森岡清美『若き特攻隊員と太平洋戦争』一一九〜一二〇頁)
 
 下級者を修正すると称して殴ることは、海兵の思慮のない仕方だと言わざるをえない。後に触れるが、十三期も十四期に対して、修正を繰り返した人たちがいたが、十四期には幸いに後続の後輩たちがなく、殴る行為は会報にもほとんど載っていない。ところが、思わぬところでこの海兵の殴る伝統を体現しているものがいたわけなのだ。海軍の伝統は生きてゆくということなのか。郷にいっては郷に従うということなのであろう。何か寂しい気がする。森丘哲四郎の残された日記の最後は次のようになっている。

 四月一日 
 出撃の日だ。(…)学生教程卒業。記念撮影を行なう。 
 九時発進、晴なるも黄砂極めて深く、視界五〇〇メートル。十時、飛行隊発進待て。(…)愛機に必要物品を搭載す。人形は座席前に全部吊した。多くの戦友の涙ぐましき助力を得て準備完了せるも、黄砂いまだ深く、十二時飛行隊発進中止となる。 
 一日の生命の長を、元山にて得たわけである。今の心境にては、ただ速かに皆と別れたい感じ
である。喜びも悲しみもなく、考えもない。ただ無である。無。 
 私の美しき心の表現となさんために作り来たこのノートも、四月一日の夜をもってすべてが失
われたり。即ち酒だ。酒、酒、酒。
   (『あゝ同期の桜』181〜182頁注13)
 
 一方には、遺族や友人や恋人との関わりが多く残っているものもいる。 
 旗生良景の場合を引用する。京都大経済学部にいて、南西諸島方面にて特攻死。神風特別攻撃隊八幡神忠隊。

 昭和二十年四月十六日(串良基地にて日記) 
 今日はまだ生きております。昨日父さんにも母さんにも、兄、姉にも見送って頂き、全く安らかな気持で出発できました。T子にもお逢いになった由、本日川村少尉より依託の手紙で知りました。皆何と感じられたか知りませんが、心から愛した、たった一人の可愛い女性です。純な人です。私の一部だと思って、いつまでも交際して下さい。葬儀には、ぜひ呼んで下さい。
(…)
  ここは故郷の南端の地、春はようやく更けて、初夏の迫るを覚えさせられます。陽の光和やかに、緑濃き美しき故郷を敵機に蹂躙される無念、やる方なし。この地、父母の在す故郷を、死をもって護らんと、いよいよ決意を固くしております。 
 お父さま、お母さま、本当に優しく、心から私を可愛がって頂きましたこと、有難くお礼申します。この短い文の中に、私のすべての気持を汲んで下さい。これ以上のことを言うのは、水臭く、妙な感じがすると思います。私は一足先に死んで行きますが、私が、あの弱かった私が、国家のために死んで行けることを、喜んで下さると思います。長い間お世話になって、何一つ父さん、母さんに喜んで頂くようなことも致しませず、誠に相済まぬと思っております。私の死は、せめてもの御恩返しだと思って下さい。 
 兄さん。長い間有難うございました。優しく和やかに、私を育てて下さいましたこと、感謝します。後のこと、よろしく願います。私は心安らかに好機を待つだけです。 
 嫂さん。兄さんと仲良くして下さい。兄さんが応召にでもなったら、また一骨でしょうが、国家のため旗生家のため、奮闘して下さい。 
 良和ちゃん。詳しいことは、兄さんやお父さん、お母さんから聞いたことと思う。体を第一、次に勉強だ。立派な日本人になって、兄さんの後を継いでくれ。国家を救う者、これからの日本を背負う者は、良和ちゃんたちだよ。敵が、九州の南まで来ていることを思って、毎日々々、一生懸命やることだ。日本の宝だよ、良和ちゃんは。兄さんの最後の言葉を、無にしないようにしてくれ。最後の瞬間まで戦える、強健な身体と精神の養成に努めよ。お父さん、お母さんに、あまり心配かけるな。 
 和子ちゃん。日本人らしい女になれ。強く優しい女性となれよ。良い母親となり、良い子を生んで日本の宝となせ。兄さんの代りに、お父さん、お母さんに、孝行してくれ。 
 おばあさん。小さい時から大変お世話になりました。這い回っていた私も、こんなに大きく、弱かった私もこんなに強くなり、お国のために死んで行きます。おばあさんより先に死のうとは、思いもしませんでしたよ。あまりやかましく言わず、のんびり生き長らえて下さい。いろいろ有難うございました。
 
(同書166〜169頁注14
 
 姉弟や友人への書簡が、人柄を偲ばせる文章を残している隊員たちもいる。
 重信隆丸は、龍谷大文学部哲学科。沖縄中城湾特攻死注15 。神風特別攻撃隊琴平水心隊。

 昭和二十年五月二十七日(託間航空隊から書簡) 
 全く意地悪ばかりして申訳けない兄だったね。許してくれ。が、いよいよ明日は晴れの肉弾行だ。意地悪してむくれられたのは、今から思えばみんな懐かしい思い出だ。お前も楽しかった思い出として笑ってくれ。兄さんが晴れの体当りをしたと聞いても、何もしんみりするんじゃないよ。兄さんは笑って征くんだ。 
 およそ人生とはだね、エッヘン! 
 大きなあるものによって動かされているのだ。小さな私たちの考えも及ばない大きな力を持つあるものなのだ。それは他でもない、お前の朝夕礼拝するみ仏様なのだ。死ぬということはつらいというが、「何でもない。み仏様のなされることだ」と思えば、何も問題でなくなるのだ。欲しいと思うものが自分のものにならなかったり、別れたくないもの、例えば兄さんに別れたくなくったって、明日は兄さんはお前なんかまるで忘れでもしたかのように、平気であっという間に散ってゆくのだ。そしてちょうどお前のような境遇の人は、今の日本はもちろん、世界中のどこにでも一杯なのだ。 
 また兄さんは、特攻隊に入ってしばらく訓練したが、兄さんの周囲では特攻隊と関係のない長命すべきように思える人が、ぽつりぽつりと椿の花のおちるように死んで行った。大体分るだろう。この世は「思うがままにゆかないのが本当の姿なのだ」ということが。簡単に言えばちょっとまずいが、無常が常道の人生とも言えよう。ともかく、何も心配することなんかこの世にはないのだ。明るく朗らかに紡績に励み、勉強し、立派な人間になってくれ。それがとりも直さずお国への最も本当の御奉公なのだ。兄さんは、それのみを祈りつつ征く。 
 難しそうなことをいろいろ書いたが、兄さんもいろいろこれまで考えた挙句、つい最近以上書いたような心境になったのだ。お前もなかなか本当の意味は分り難いと思うが、折にふれてこんなことを考えていたら、いつか分ることだ。朝夕お礼をすることを忘れないように。しみじみ有難く思う時が必ずくる。お父さんはじめお母さんも相当年をとられたことだから、よくお手伝いをしてあげてくれ。姉さん、昭を頼む。元気に朗らかにやるんだよ! 
 仏様のことを時々考えろと言ったって、仏様とはしんみりしたものとは全く関係のないものだよ。以下取急ぎ断片的に書く。
  一、運動は必ずやるべきだ。精神爽快となる。
  一、守神(マスコット)を頼んではあったが、手に入らなくても、何の心残りも無し。雨降れ
ば天気も悪しだ、ワッハッハハ……。 
  一、よく読書すべし。
 
 幾ら書いても際限なし、ではさようなら。お元気で。  
  妙子殿
(同書146〜147頁注16
 
 父母のこと、国のことをいつも念頭に置いていた搭乗員は数多い。父母と国のことを考えながら、
覚悟し精進している姿が痛ましい。

 
 諸井国弘の文章をあげておく。彼は、国学院大文学部史学科。南西諸島方面にて特攻死。神風特別
攻撃隊第五筑波隊。

 昭和二十年三月十四日(筑波航空隊にて日記) 
 今日は、ふと日記を書く気持になった。外はしとしとと、小雨が降っている。バスに行く時、小雨に煙る外を見た時、何ともいえない淡い淋しい想い出が、ぼーっと頭に浮んできた。死という最も厳粛な事実が日一日と迫って来る今日、何を言い、何を考えよう。ともすればデカダンにならんとするわが心を制し、強く正しく
導いて行くものは、この俺の心の奥の奥にある神である。しかしまた、ある一面においては自分の心は、良いデカダンにならんことを欲している。それはこの自分の赤裸々な姿を、心を、表わして見たい。若い人生の最後において。しかし今は、何だかまだそれが恐ろしいような気もする。だがこの一日々々の貴重な時、自分の心の中のある二つのものが相争うようなことは、考えて見れば実にもったいないことである。しかし最後まで、これで良いのかも知れない。 
 今日母上より葉書を頂く。忘れよう忘れようとして、なかなか忘れられない家のこと。このなつかしいわが家も、国家あってのわが家。国家なくして何のわが家ぞ。今正に国家危急存亡の秋、この祖国を護るのは誰か、我をおいて他に誰があろう。この頃は以前のように、過去に対する憧憬なんてものは、なくなってしまった。と言って未来は、目の先にちらついているもの以外には、何もない。 
 静かな諦念か。夢、夢……夢の一語につきるような気がする。
   (同書184頁注17

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注 12 :2003年版では139頁。

注 13 :2003年版では206頁。
注 14 :2003三年版では188〜191頁。
注 15 : 『あゝ同期の桜』2003年版164頁および『学徒特攻その生と死』448頁では「南西諸 島方面」となっている。
注 16 :2003年版では164〜166頁。
注 17 :2003年版では209〜210頁。



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#3908 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.19~27 Jan. 26, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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5.木枯らしと同じく、搭乗員たちは帰るところはなかったのか
 
 間もなく紹介してゆく彼らの多くの手紙や遺書が示しているように、彼らが納得して帰ろうとしているところは、あるいは祖国であり、あるいは故郷であり、あるいは両親であり、あるいは自分の生き方である。 
 殉国の熱意があり、自分自身の誇りがあり、家族の面目があり、父母への感謝あり、親不孝への謝りあり、別れの淋しさあり、兄弟姉妹への思い入れあり、友人たちへの惜別の気持ちが随所に溢れている。 
 しかもこれらの心情はいずれも一義的ではない。一義的に言い切ってしまうとかえって嘘になるといってもいい。本来は言葉に仕切れない奥底の心情の機微なのであろう。言葉にすると嘘になってしまうことがあるのは、このためであろう。 
 偉大なる決意の中には、必ずといってもいい、いい知れない哀しみがこだましている。逆にいえば、耐え難い不安悲しみの中には、なに人も及びがたい偉大な心情が息づいている。真の偉大さは悲しみの中に、あるいは耐え難い哀しみは、その中に隠れている偉大さと一体であるといってもいい。本当の偉大さは、あるいは逆に本当の哀しみは、それぞれがその逆のものの中に潜んでいるのである。 
 だから、偉大も、哀しみも、あるいはもっといえば人間の心情は何であれといってもいい、それぞれ矛盾したものの中に潜んでいて、そこで働いているのだ。一つだけ断言すると、それは本当のものでなくなってしまう。もっといえば、これだけだなどと言い切ってしまうと、何だか嘘っぽくなる。 
 特攻に出撃した搭乗員たちは、ほぼみんなが数々の矛盾した心情を生きている。この矛盾した声をそのまま聞き取ることが、後に残ったものの厳粛なつとめであるような気がしてならない。 
 左右のイデオロギーからする特攻論には、こうしたところが見られないことが残念である。搭乗員たちの心を見ていない虚しさが感じられてならない。彼らの心の奥底には、限りなく多様な心情、悩み、誇り、楽しみ、喜び、悔しさ、憤りが渦巻いているのだ。 
 山下久夫は、そうした搭乗員の一人である。大正十一年九月二十二日生まれ。関西大学法学部在学。神風特別攻撃隊第二正統隊員として南西諸島方面にて散華。百里原空の九九艦爆搭乗員。大井空偵察課程出身。
   「雲の中ゆ あまた群山 越えゆかば
    神かも山かも  富士の迫りくる
                山下久夫」  

  これは山下が百里原空第二回の特攻隊の一員として鹿屋基地についてから、(…)百里原に残っ
ていた我々宛に書き送ってくれたはがきにあったものである。萩原浩太郎『別冊あヽ同期の桜』219頁 注7
 
 次に彼の昭和二十年の三月二日(百里原空日記)『別冊あヽ同期の桜』一一〇頁 注8 を引用してみる。 
 今朝土井教官に修正を受けた。然し彼の人が自分の全生活を知ったら、数倍の修正を行ったであろう。 
厳に戒むべし。生命短き者、人に恥ずる行為をして可ならんや。積乱雲の如くもり上がって、天空に砕け散る者、なんで羞しい行為あらん。燃やせ短き男の生命。「千万人と雖も吾恐れんや」の言葉如何した。普通ならあるべき休暇もなく、戦備作業を行う我々 の意気旺ならず、この仕方なしの気持に俺もつり込まれはせぬか。この前の壮なる自覚による元気は何処へ行ったか。 
友の「やる気があるのは馬鹿だ」とかの言葉を聞くと、自分のことを言っている様に感じ、気遅れを感じ、戦勢利あらざる今日、以前に数倍せざるべからざる士気を念願しつつ、我の日常を憂い而も他人をひきずって行く勇気は、何処に埋没されたか。男が心の奥底よりの叫び何ぞ他人に左右されんや。人は吾が外物を衰えしめ得るが、然し勇気は断じて衰滅させることは出来ない。行け男子たる吾れ! 「国亡びて何の努力ぞや」亡びざる前の努力これに何倍するものぞ。努力せよ。短き命を思い 身を粉にせよ。労を惜しむ勿れ。
〝飛行機が有ったら〟これは国民凡ての願望であるが、我々搭乗員はこの願いで胸が一杯である。まして特攻隊が編成される秋哭かざるを得ない。優秀な青年が性能の劣れる飛行機に乗り、腹の爆弾と命を共にせんと必死の訓練を行うとき、悲憤の涙を禁ずることが出来ぬ。三月一日の朝の隊長の訓示の何ぞ声の悲愴なる。ハワイに、印度洋に、敵を震わせた隊長は、この劣性能の練習機に心命を托されるか、言葉なき表現、男の心、
男のみ知る。 

 もののふは かくこそ散らむ 深山奥の 
   葉陰の桜の ちるが如くに 

昭和二十年三月十四日(百里原航空隊にて日記) 
 父上に。(…) 
 一度お会いする機会を得ましたことは、久夫の最も幸福とするところであり、また父上の老いられたお顔を見て、感慨無量のものがありました。推察するところ、忠誠を教え下さるも、わが子は必ず生きて帰る、否、生きて帰ることを祈って下さるお心を拝し、胸をかきむしられる思いが致しました。長男の私ゆえ父上のかかる思いをお察しすることは、堪えられぬものがありました。国が生死の岐路に立つとき、私も敢然奮闘死闘するつもりであります。 
 父上への孝養は、利良に頼みます。どうか父上、私は四つの時に死んだものとおぼしめされ、利良を立派にお育て下さるよう切にお願いします。女々しいことを書いて申訳けありません。利良が立派に私に代わってお仕えし、多幸な生涯を送られることを切に念じております。
 
 母上へ。 
 父上と会った節、母上は私が書いた如く、時を待つと言われて来られませんでした。会わなかったのを残念がって下さいますな。久夫は、いつまでも母上のそばにおります。母上とともに弥陀の下におります。 
 お国の大事、いつも搭乗員たる私らは、覚悟はしております。再び母上と会う機会は、ないものと思います。また遠いところへ、会いに来て下さいますな。母上のお心に感泣しつつも、こんなことを書かねばならぬほど日本は切迫しております。
  (…)
 照一も多分、戦死することでしょう。かわいい弟、私はいつも喧嘩をしていたせいか、離れると一層かわいく感じます。彼も幼にして、国難に殉ずることでしょう。その後は利良のみ、父上、母上への孝養を頼みます。

 
 母上が私の写真を見て武運を祈られるそのお言葉、殊に三月一日に着いたその夜のことを妹が書いておりますが、全く泣けてきます。   (『あゝ同期の桜』一八五〜一八六頁 注9)
 
 山下久夫の書いたものをたどると、彼は自分のこれまでの生き方と関係づけ、自分を確かめながら、国家に殉ずる特攻隊員の誇りと、家族と別れる哀しみを交錯させている。多くの搭乗員が何らかの形でこの問題に触れている。 
 特に彼においては、仏門の家柄が、大きな点で彼の気持ちを支えている。家との繋がりの深さがしみじみと胸を打つ。出撃の数日前に、同僚と共に自分の家の上空を飛び、別れ際に数珠を友達に託している。その友人が何十年か後に、彼の寺を訪ね、当主にその数珠をお返ししている。 
 山下久夫は大学のことにあまり触れていないが、生活が出身学校に多く関係しているものもいる。

 市島保男は、早稲田大学商学部から学徒出陣し、南西諸島方面にて散華。神風特別攻撃隊第五昭和隊に所属した。徴兵以前の日記から引用してみる。
昭和十八年十月十五日〔徴兵以前〕十時半から学校で壮行会を催してくれた。戸塚球場に全校生徒集合し、総長は烈々たる辞を吐き、我等も覚悟を強固にす。
   
   なつかしの早稲田の杜よ。   
   白雲に聳ゆる時計塔よ。いざさらば!
 
 我ら銃を執り、祖国の急に身を殉ぜん。我ら光栄に充てるもの、その名を学生兵。いざ征かん、国の鎮めとなりて。記念碑に行進を起すや、在校生や町の人々が旗をふりながら万歳を絶叫して押し寄せてくる。長い間、心から親しんだ人達だ。一片の追従や興奮でない誠実さが身に沁みて嬉しい。思わず胸にこみ上げてくるものがある。図書館の蔦の葉も、感激に震えているようだ。静寂なる図書館よ。汝の姿再び見る日あるやなしや。総長のジッと見送ってくれたあの慈眼、佐藤教授の赤くなった眼、印象深い光景であった。学半ばにして行く我らの前には、感傷よりも偉大な現実が存するのみだ。この現実を踏破してこそ、生命は躍如するのだ。我は、戦に! 
建設の戦いに!解放の戦いに!学生兵は行く!いざさらば、母校よ、教師よ!
   (同書13〜14頁注10

 
 こういった文章を読んでいると、散華した特攻隊員たちは町の人々との繋がりが彼の祖国に繋がっていると思っている。街や人と関係のないものには、とりわけ国家を感じていない。ただ、自分を感じているだけである。
〔昭和十八年〕十月十九日 
 航空部の壮行会が、五時から雅叙園で開かれた。六時過ぎても、なかなか集らない。この部は理工科系統が多いので、大局に影響がない。ますます発展せんことを祈る。隣りでもH大の連中が騒いでいた。僕らも騒ぎ騒がれたが、心から楽しく騒げなかった。出る者より、残る者の方が楽しそうに騒いだ。勿論、行を壮んにする気だろうが、何かしら空虚な気持がした。今、時ここに至っては、我らが御盾となるのは当然である。悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め、己れの姿を視つめ、古の若武者が香を焚き出陣したように、心静かに行きたい。征く者の気持は皆そうである。周囲があまり騒ぎすぎる。来るべきことが当然来たまでのことであるのに。
   (同書14頁注11
 
彼の最後の文章は次の通り。

〔昭和二十年〕四月二十九日 
 今日の佳き日は、大君の生まれ給いし佳き日なり。谷田部を出る時は、今日まで生き永らえる
とは夢にも思っていなかった。昨日あのまま出撃しおらば、今やあるなし。実に人間の生命など
は、考えるとおかしなものである。 
 〇六三〇より一〇一五まで空襲。専らB 29 にて、小型機は最近一向来襲せず。
 空母を含む敵機動部隊、前日とほぼ同様の位置に来る。神機まさに到来。一挙に之を撃滅し、もっ
て攻勢への点火となさん。 
 一二一五 搭乗員整列。進撃は一三〇〇より一三三〇ごろならん。 
 空は一片の雲を留めず。麦の穂青し。 
 わが最後は四月二十九日、一五三〇より一六三〇の間ならん。
   (同書一二四頁 注12
 
 彼自身は特攻作戦が強行される事態に何の疑いも抱いていない。家郷に思いを残しているが、特攻
の死を恬淡と受けとめている。文章に乱れがないことが、何とも清々しい。こんなに正面から現実を
素直に受けとめる学生もいたのである。静かに粛々と沖縄に突っ込んで死んでしまったのである。何
とも残念である。

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注7  『別冊あゝ同期の桜』は『続・あゝ同期の桜』のタイトルで再刊されており(海軍飛行予備学 生第十四期会編、光人社、一九九五年)、その版では261〜262頁。
注8  『続・あゝ同期の桜』では128〜130頁。
注9    2003年版では211〜213頁。
注 10  2003年版では12〜13頁。
注 11  2003年版では13〜14頁。
注 12  2003年版では139頁。 
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