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#3908 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.19~27 Jan. 26, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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5.木枯らしと同じく、搭乗員たちは帰るところはなかったのか
 
 間もなく紹介してゆく彼らの多くの手紙や遺書が示しているように、彼らが納得して帰ろうとしているところは、あるいは祖国であり、あるいは故郷であり、あるいは両親であり、あるいは自分の生き方である。 
 殉国の熱意があり、自分自身の誇りがあり、家族の面目があり、父母への感謝あり、親不孝への謝りあり、別れの淋しさあり、兄弟姉妹への思い入れあり、友人たちへの惜別の気持ちが随所に溢れている。 
 しかもこれらの心情はいずれも一義的ではない。一義的に言い切ってしまうとかえって嘘になるといってもいい。本来は言葉に仕切れない奥底の心情の機微なのであろう。言葉にすると嘘になってしまうことがあるのは、このためであろう。 
 偉大なる決意の中には、必ずといってもいい、いい知れない哀しみがこだましている。逆にいえば、耐え難い不安悲しみの中には、なに人も及びがたい偉大な心情が息づいている。真の偉大さは悲しみの中に、あるいは耐え難い哀しみは、その中に隠れている偉大さと一体であるといってもいい。本当の偉大さは、あるいは逆に本当の哀しみは、それぞれがその逆のものの中に潜んでいるのである。 
 だから、偉大も、哀しみも、あるいはもっといえば人間の心情は何であれといってもいい、それぞれ矛盾したものの中に潜んでいて、そこで働いているのだ。一つだけ断言すると、それは本当のものでなくなってしまう。もっといえば、これだけだなどと言い切ってしまうと、何だか嘘っぽくなる。 
 特攻に出撃した搭乗員たちは、ほぼみんなが数々の矛盾した心情を生きている。この矛盾した声をそのまま聞き取ることが、後に残ったものの厳粛なつとめであるような気がしてならない。 
 左右のイデオロギーからする特攻論には、こうしたところが見られないことが残念である。搭乗員たちの心を見ていない虚しさが感じられてならない。彼らの心の奥底には、限りなく多様な心情、悩み、誇り、楽しみ、喜び、悔しさ、憤りが渦巻いているのだ。 
 山下久夫は、そうした搭乗員の一人である。大正十一年九月二十二日生まれ。関西大学法学部在学。神風特別攻撃隊第二正統隊員として南西諸島方面にて散華。百里原空の九九艦爆搭乗員。大井空偵察課程出身。
   「雲の中ゆ あまた群山 越えゆかば
    神かも山かも  富士の迫りくる
                山下久夫」  

  これは山下が百里原空第二回の特攻隊の一員として鹿屋基地についてから、(…)百里原に残っ
ていた我々宛に書き送ってくれたはがきにあったものである。萩原浩太郎『別冊あヽ同期の桜』219頁 注7
 
 次に彼の昭和二十年の三月二日(百里原空日記)『別冊あヽ同期の桜』一一〇頁 注8 を引用してみる。 
 今朝土井教官に修正を受けた。然し彼の人が自分の全生活を知ったら、数倍の修正を行ったであろう。 
厳に戒むべし。生命短き者、人に恥ずる行為をして可ならんや。積乱雲の如くもり上がって、天空に砕け散る者、なんで羞しい行為あらん。燃やせ短き男の生命。「千万人と雖も吾恐れんや」の言葉如何した。普通ならあるべき休暇もなく、戦備作業を行う我々 の意気旺ならず、この仕方なしの気持に俺もつり込まれはせぬか。この前の壮なる自覚による元気は何処へ行ったか。 
友の「やる気があるのは馬鹿だ」とかの言葉を聞くと、自分のことを言っている様に感じ、気遅れを感じ、戦勢利あらざる今日、以前に数倍せざるべからざる士気を念願しつつ、我の日常を憂い而も他人をひきずって行く勇気は、何処に埋没されたか。男が心の奥底よりの叫び何ぞ他人に左右されんや。人は吾が外物を衰えしめ得るが、然し勇気は断じて衰滅させることは出来ない。行け男子たる吾れ! 「国亡びて何の努力ぞや」亡びざる前の努力これに何倍するものぞ。努力せよ。短き命を思い 身を粉にせよ。労を惜しむ勿れ。
〝飛行機が有ったら〟これは国民凡ての願望であるが、我々搭乗員はこの願いで胸が一杯である。まして特攻隊が編成される秋哭かざるを得ない。優秀な青年が性能の劣れる飛行機に乗り、腹の爆弾と命を共にせんと必死の訓練を行うとき、悲憤の涙を禁ずることが出来ぬ。三月一日の朝の隊長の訓示の何ぞ声の悲愴なる。ハワイに、印度洋に、敵を震わせた隊長は、この劣性能の練習機に心命を托されるか、言葉なき表現、男の心、
男のみ知る。 

 もののふは かくこそ散らむ 深山奥の 
   葉陰の桜の ちるが如くに 

昭和二十年三月十四日(百里原航空隊にて日記) 
 父上に。(…) 
 一度お会いする機会を得ましたことは、久夫の最も幸福とするところであり、また父上の老いられたお顔を見て、感慨無量のものがありました。推察するところ、忠誠を教え下さるも、わが子は必ず生きて帰る、否、生きて帰ることを祈って下さるお心を拝し、胸をかきむしられる思いが致しました。長男の私ゆえ父上のかかる思いをお察しすることは、堪えられぬものがありました。国が生死の岐路に立つとき、私も敢然奮闘死闘するつもりであります。 
 父上への孝養は、利良に頼みます。どうか父上、私は四つの時に死んだものとおぼしめされ、利良を立派にお育て下さるよう切にお願いします。女々しいことを書いて申訳けありません。利良が立派に私に代わってお仕えし、多幸な生涯を送られることを切に念じております。
 
 母上へ。 
 父上と会った節、母上は私が書いた如く、時を待つと言われて来られませんでした。会わなかったのを残念がって下さいますな。久夫は、いつまでも母上のそばにおります。母上とともに弥陀の下におります。 
 お国の大事、いつも搭乗員たる私らは、覚悟はしております。再び母上と会う機会は、ないものと思います。また遠いところへ、会いに来て下さいますな。母上のお心に感泣しつつも、こんなことを書かねばならぬほど日本は切迫しております。
  (…)
 照一も多分、戦死することでしょう。かわいい弟、私はいつも喧嘩をしていたせいか、離れると一層かわいく感じます。彼も幼にして、国難に殉ずることでしょう。その後は利良のみ、父上、母上への孝養を頼みます。

 
 母上が私の写真を見て武運を祈られるそのお言葉、殊に三月一日に着いたその夜のことを妹が書いておりますが、全く泣けてきます。   (『あゝ同期の桜』一八五〜一八六頁 注9)
 
 山下久夫の書いたものをたどると、彼は自分のこれまでの生き方と関係づけ、自分を確かめながら、国家に殉ずる特攻隊員の誇りと、家族と別れる哀しみを交錯させている。多くの搭乗員が何らかの形でこの問題に触れている。 
 特に彼においては、仏門の家柄が、大きな点で彼の気持ちを支えている。家との繋がりの深さがしみじみと胸を打つ。出撃の数日前に、同僚と共に自分の家の上空を飛び、別れ際に数珠を友達に託している。その友人が何十年か後に、彼の寺を訪ね、当主にその数珠をお返ししている。 
 山下久夫は大学のことにあまり触れていないが、生活が出身学校に多く関係しているものもいる。

 市島保男は、早稲田大学商学部から学徒出陣し、南西諸島方面にて散華。神風特別攻撃隊第五昭和隊に所属した。徴兵以前の日記から引用してみる。
昭和十八年十月十五日〔徴兵以前〕十時半から学校で壮行会を催してくれた。戸塚球場に全校生徒集合し、総長は烈々たる辞を吐き、我等も覚悟を強固にす。
   
   なつかしの早稲田の杜よ。   
   白雲に聳ゆる時計塔よ。いざさらば!
 
 我ら銃を執り、祖国の急に身を殉ぜん。我ら光栄に充てるもの、その名を学生兵。いざ征かん、国の鎮めとなりて。記念碑に行進を起すや、在校生や町の人々が旗をふりながら万歳を絶叫して押し寄せてくる。長い間、心から親しんだ人達だ。一片の追従や興奮でない誠実さが身に沁みて嬉しい。思わず胸にこみ上げてくるものがある。図書館の蔦の葉も、感激に震えているようだ。静寂なる図書館よ。汝の姿再び見る日あるやなしや。総長のジッと見送ってくれたあの慈眼、佐藤教授の赤くなった眼、印象深い光景であった。学半ばにして行く我らの前には、感傷よりも偉大な現実が存するのみだ。この現実を踏破してこそ、生命は躍如するのだ。我は、戦に! 
建設の戦いに!解放の戦いに!学生兵は行く!いざさらば、母校よ、教師よ!
   (同書13〜14頁注10

 
 こういった文章を読んでいると、散華した特攻隊員たちは町の人々との繋がりが彼の祖国に繋がっていると思っている。街や人と関係のないものには、とりわけ国家を感じていない。ただ、自分を感じているだけである。
〔昭和十八年〕十月十九日 
 航空部の壮行会が、五時から雅叙園で開かれた。六時過ぎても、なかなか集らない。この部は理工科系統が多いので、大局に影響がない。ますます発展せんことを祈る。隣りでもH大の連中が騒いでいた。僕らも騒ぎ騒がれたが、心から楽しく騒げなかった。出る者より、残る者の方が楽しそうに騒いだ。勿論、行を壮んにする気だろうが、何かしら空虚な気持がした。今、時ここに至っては、我らが御盾となるのは当然である。悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め、己れの姿を視つめ、古の若武者が香を焚き出陣したように、心静かに行きたい。征く者の気持は皆そうである。周囲があまり騒ぎすぎる。来るべきことが当然来たまでのことであるのに。
   (同書14頁注11
 
彼の最後の文章は次の通り。

〔昭和二十年〕四月二十九日 
 今日の佳き日は、大君の生まれ給いし佳き日なり。谷田部を出る時は、今日まで生き永らえる
とは夢にも思っていなかった。昨日あのまま出撃しおらば、今やあるなし。実に人間の生命など
は、考えるとおかしなものである。 
 〇六三〇より一〇一五まで空襲。専らB 29 にて、小型機は最近一向来襲せず。
 空母を含む敵機動部隊、前日とほぼ同様の位置に来る。神機まさに到来。一挙に之を撃滅し、もっ
て攻勢への点火となさん。 
 一二一五 搭乗員整列。進撃は一三〇〇より一三三〇ごろならん。 
 空は一片の雲を留めず。麦の穂青し。 
 わが最後は四月二十九日、一五三〇より一六三〇の間ならん。
   (同書一二四頁 注12
 
 彼自身は特攻作戦が強行される事態に何の疑いも抱いていない。家郷に思いを残しているが、特攻
の死を恬淡と受けとめている。文章に乱れがないことが、何とも清々しい。こんなに正面から現実を
素直に受けとめる学生もいたのである。静かに粛々と沖縄に突っ込んで死んでしまったのである。何
とも残念である。

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注7  『別冊あゝ同期の桜』は『続・あゝ同期の桜』のタイトルで再刊されており(海軍飛行予備学 生第十四期会編、光人社、一九九五年)、その版では261〜262頁。
注8  『続・あゝ同期の桜』では128〜130頁。
注9    2003年版では211〜213頁。
注 10  2003年版では12〜13頁。
注 11  2003年版では13〜14頁。
注 12  2003年版では139頁。 
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