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#3907 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.17~19「特攻の死の意味」 Jan. 24, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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4.特攻の死の意味
 
逆に、搭乗員の方から考えてみると、搭乗するものは特攻では自分が死ぬ。自分が無になる。無になると何が残るのか。何も残らないのではないか。そこを国が残ると説明する。ところが、国は自分ではない。自分の次元を超えたものであり、一つの〈意味〉でしかない。
 
軍令部が国に殉ずる死を志願させ、この志願を納得させることは、この〈意味〉を本人の生命(実質)と思いこませることである。意地悪くいうと、〈この題目〉を〈こちらの生身〉と思い違いさせることであるといってもいい。
 
本当に特攻がじっさいに救国不可欠の行動でないのであれば、題目によって搭乗員(こちら)を殺し、上層命令者(あちら)が自分に都合の良い戦功を誇るだけのことである。しかし、特攻のじっさいの成果と効力が明確に説明されたことはない。
  〈真に検討し尽くした救国の案〉でない限り、命令者が搭乗しない(死なない)特攻作戦は、極言 すれば一つの殺人でしかない。この点を間違えると、〈搭乗者〉の心情と戦果とを〈命令者〉にはなむけするだけのものとなる。真偽のほどは定かではないが、特攻を推進した大西滝治郎の顕彰碑が建っているという話を聞いたことがある。どこかが狂っているような気がする。
 
戦争には突飛な発想は許されない。多くのひとの地道な協力努力が何より大切であり必要なのだ。突飛な発想は最後の玉砕か、敗戦覚悟かの二者択一の道でしかない。特攻は二度と用いられてはならない。少なくとも命令者が搭乗しない特攻作戦は決して用いられてはならない。最後まで特攻作戦に関わりを持っていた黒島亀人参謀は、真珠湾攻撃を作戦した人物といわれている。未曾有の突飛な航空機作戦によって、大勝利を納めたのだと思っていたのかもしれない。しかし、じつはそれが突飛でなく、航空機が次代の海戦の主流になることを先取りしていたのだ。しかし、本人はこのことには全く気づいていない。だから、真珠湾以後の作戦では、適切な航空作戦を誤り、制海権、制空権を失い、爾後の対米海戦では連戦連敗を喫している。先を見ていたのに、本人は思いつきと思っていたことでもあろうか。
 
制海権、制空権がなければ、人員そのものを兵器にする〈突飛〉な全軍特攻作戦が、軍令部の窮極な作戦となるほかはなかったのだといってもいいかもしれない。これを了承した〈軍令部の頭脳〉を疑うほかはない。
 
昭和十八年十月には、黒木大尉、仁科中尉による人間魚雷の意見書提出(書面は殉国の熱意に溢れているが、当時の感覚からしても常人の感覚を超越している文章である感がある)。
 
昭和十九年一月二十日に黒島亀人大佐はこれに兵員帰還を付記して天皇の裁可を得るが、脱出装置が技術的に未完で採用の決定は見送られる 注6 。
 
昭和十九年四月に、軍令部が「作戦上、急速に実現を要する兵器」として七種類の特攻兵器を提示。同年五月、一〇八一空の大田正一少尉が、人間爆弾(後の桜花)の構想開示。六月には、岡村基春大佐が「体当たり機三〇〇機よりなる特殊部隊」の指揮官たることを求める意見具申。その後、源田実の強力な推進運動によって、桜花の採用が実現した気配がある(源田の特攻作戦推進運動については、生出寿 『一筆啓上瀬島中佐殿』一二九頁〜一三五頁)。しかし、戦後、源田は、自分は戦闘機隊専門で、特攻関係のことは知らぬと言い通している(同書参照。なお、大西による比島の最初の特別攻撃の際、軍令部が送った電文(敷島隊、朝日隊など名前入り)を、源田は特攻隊編成の七日前にすでに日本にいて自筆で書いている。真偽はどうなのであろうか)。
 
大田によって発案された桜花は、その後脱出装置なきまま兵器として採用決定。その決定とほぼ時を同じくして、人間魚雷も脱出装置なきまま認可採用。以後、続々と特攻兵器は瞬く間に採用決定され、全海軍の主要兵器となる。特攻作戦の成立には、桜花の採用が大きな役割を果たしたと考えられる。

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<ebisuメモ>
 第14期学徒出陣、ゼロ戦パイロットで同期の多くが散華しました。本書は市倉宏祐先生が70歳になってから書き残した貴重な記録であると同時に、軍隊組織の理不尽さと敗戦の原因分析を滑走路の縁に座って、在りし日の自分たちを眺めて書いているように見えます。
 先生自身は次のように述べておられます。
イデオロギー解釈は、いずれも自分の好悪利害から特攻の事実のみに注目し、その事態の本質を素通りする。その事態を生きた人間を見過ごしている。… 何よりも、人間の哀歓の観点に焦点をおいて、搭乗員たちの言葉に接してゆくことにしたい。」
 編集委員代表の専修大学教授伊吹克己さんの好意により本の電子ファイルをいただきました。全文アップするのでたくさんの人に読んでもらいたいと願っています。

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#3906 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』P.14~16 Jan. 24, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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1.搭乗員たち
 
誓子が詠ったように、搭乗員たちは全く帰るところはなかったのであろうか。搭乗員の思いは確かに共通するところはあるが、細かく彼らの心情を推し量るとき、各人によってまちまちである。また、それぞれの場合のこととなると、異なる心情を覗かせていることさえある。あるいは、同じ言葉が別の意味を垣間見せていることさえもある。
 
ただ、共通していえることは、誰もが死に対面したときのそれぞれの思いを静かに伝えようとしているということであろう。遺書や手紙の文字の背後にあるものを感じとってほしい気がする。


2.軍令部の特攻への提言
 
まず、特攻作戦の採用について、よく知られている歴史的なことを簡単に述べておかねばならない。次のような経過が知られている。
 
昭和十八年三月に、竹間忠三大尉が人間魚雷に関する書簡を軍令部に進言。六月には、城英一郎大佐が二五〇キロ爆弾を搭載突入する艦爆艦攻の特殊航空隊の編成を開陳。これは練度の不足を人間で補うことであり、ほんとうは練度を上げたり、兵員を補充すべきことが本筋であるが、もはや軍令部、あるいは戦争指導部が現実の戦況を直視する能力を失って、敗戦の実態を自覚していないことを示している。 
もともと、特攻が殺人行為であって戦争行為でないことが自覚されていない。この海軍将校団の見解はどこに由来するのか。少なくとも日露戦争の東郷平八郎は、人命が絶対的に保証されない作戦を認めていない。この海軍上層部の頽廃がどこに起因するのかは、正確に結論するほどの資料はない。今はこの作戦に参加した人々の経験から、せめてそのかすかな兆候側面を類推するほかはない。
 
七月には、黒島亀人、中沢佑大佐が特攻兵器採用を求めている(公刊戦史)。八月には、モーターボート爆弾、戦闘機衝突戦法などの突飛な方法が模索されている。黒島は昭和十八年八月六日に軍令部で、今後の海軍戦備を決める会議で、「突飛意表外の方策によって、必殺の戦を行う必要がある」と強調している(別冊歴史読本『玉砕戦と特別攻撃隊』三二頁 注4 )。
 
こうした議論を背景として海軍では全軍の企画としてさまざまの特攻兵器が作成されることになってくる。
  
桜花(マルダイ)  
航空機から落とす爆弾に、人間が搭乗して目的物に突入するもの。いくどか作戦に使用されたが、この爆弾を運ぶ航空機が低速のため大きな効果を出せなかったようである。
  
回天 
人間が魚雷に搭乗して、敵艦船に突入する兵器。初めは泊地停泊の艦船が目標となったが、後には泊地が警戒厳重となり、潜水艦が洋上で発見する艦船が目標となった。
  
震洋 
爆薬を装備したモーターボート。米軍のフィリッピン上陸作戦には少なくともおよそ千隻に及ぶ震洋が玉砕している 注5 。正確な戦果は不明である。
  
蛟竜 
乗員五名の小型潜水艦。戦果は不明。

海竜 
二人乗り小型潜航艇。建造数二二四隻。実戦無し。
  
伏竜 
酸素ボンベを背負って海中を歩行して、上陸せんとする敵艦艇を棒機雷を用いて爆破する。兵器としての完成度不十分なところあり。取り扱いが難しく実戦には使われていないようである。訓練事故も多かったと聞いている。
 
何でこんな気違いじみた兵器が軍令部全体で採用されることになったかが、何よりも問題であろう。


3.考察不十分
 
もともと、「突飛」とは何を意味するかを真剣に考えていない。さらにどうしてこの必殺動員が許されるのか。また本当に日本軍を勝利に導くのか、どうかも十分に勘案していない。必殺であっても、必ずしも勝利を保証するとはいえない。練度や兵器の性能や兵力の多寡が比較されなければ、必殺は単に心構えの強調にとどまり、実効ある戦術とはいえないであろう。
 
この見識を持たないことが、最後まで特攻に固執し、しかもこれを救国の特効薬と信じ込んでいたふしがある。参謀命令者みずからは搭乗せず、結局は兵員兵器を一度限りのものとして消耗してゆくだけのこととなった。戦況の進展と共に兵器の不足が痛切な問題になってゆくことになる。



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#3905 市倉宏佑著『特攻の記録 縁路面に座って』p.10~12 Jan. 24, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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3.一つの伝聞
 
NHKから再三の出演依頼を受けながらも、誓子は難聴を理由に辞退してきた。九十歳のとき、やっと平成三年に自宅の句会の生中継に応じた折りのことである。「先生のこれまでの莫大な作品から、お好きな句を三句挙げて下さい」と乞われて、皆が固唾を呑んで注目していると、彼の口からまず出たのは、この句であった、という話が伝わっている。
 
これは一つの伝聞である。誓子自身がこの間の経過を明確に語っているわけではない。あるいは、彼自身はいつしか知らぬまに木枯らしの悲哀に特攻を重ね合わせていったのかもしれない。いやそれ以上に読者たちがこの悲哀と絶望感を結びつけて納得していったというほうが、事実に近いかもしれない。じっさいにこうした解釈を提起している人もいないわけではない。
 
が、特攻を木枯らしとすれば、特攻は確かに帰るところがないかもしれない。が、神風特攻隊は単なる木枯らしでしかないのか。戦後、特攻が虚しい木枯らし程のものとしか考えられなくなってきた時代が来たとき、この句が深く注目されたのかもしれない。
 
そのとき、読者たちが、戦後の特攻の見方をそのままこの句によせたのではないのか。あるいは、また誓子みずからがそう信じこんだことがあったのかもしれない。誓子自身が特攻とこの句との関わりを何かしら感じとっているかに見える言葉が、彼自身に全くないわけではない。
 
搭乗員の虚しい死にのみ注目して、彼らの心情に無縁であれば、特攻の事実のみをみて、その奥を洞察しないことになりはしないか。事態だけを見て、その事態を実際に生きていた人間そのものを、見ていないことになりはしないか。
 
木枯らしが(あるいは、特攻隊員が)全く帰るところがないとは、恐らく生きる道がないということであろう。つまり、死しかないということであろう。が、ではじっさいの搭乗員たちは死をどう考えていたのか。いやまた、搭乗員には帰るところは本当にどこにもなかったのか。彼らはそもそもいったいどこへ往ったのか。死とは一体どこであるのか。
 
もともと、この句が広く受け容れられたのは、隊員たちを単なる左右のイデオロギー解釈(あるいは尽忠の士と誉め称え、あるいは無駄死にしたにすぎないと無視する解釈)を踏み越えて、特攻に投じた搭乗員たちの人間の悲哀に踏み込んでいるからなのだ。イデオロギー解釈は、いずれも自分の好悪利害から特攻の事実のみに注目し、その事態の本質を素通りする。その事態を生きた人間を見過ごしている。
 
が、この誓子の句にして尚奥底の人間そのものを見ていないとすれば、人間のどこを見ていないかが問題となるであろう。外から搭乗員の非運と、悲しい廻り合わせを詠嘆し、見ているだけではないか。本当に絶唱であるのか。イデオロギー解釈より事態を捉えているが、特攻の本来の姿を見ていないところでは、同じかもしれない。何かが欠けている感がする。何が欠けているのか。
 
何よりも、人間の哀歓の観点に焦点をおいて、搭乗員たちの言葉に接してゆくことにしたい。



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