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#4843 文頭副詞句について:思考のしかた Oct. 9, 2022 [5.1 脳の使い方]

<最終更新情報>10/11午前0時 デカルト『方法序説』科学方法「四つの規則」を追記

 文頭副詞句(節)を#4841#4842で採りあげました。面白そうなので、三つの情報ソースの上に私の思考が成り立っていることを説明しておきたいと思います。

 モクロ―君こと「元 後志のおじさん」は英語の達人ですが、彼がコメント欄に次のような定式化をしてくれたことがあります。
「Adv+S+V+…+Adv」
 文頭副詞句(節)の解説でした。彼の凄いところは、これが文の一般的な型であると主張しているところです。世間に流布しているのは、基本五文型で、文頭副詞句は副詞句を強調するために、通常の位置から移動して文頭に置かれている、つまり基本文型が変形されたものということ。元・後志のおじさんは考え方が真逆なのです。

 そこで思い出すのは大塚史学(西洋経済史の大塚久雄先生)と増田四郎先生(元一橋大学長)の学風の違いです。大塚史学が定式化が出発点で、それにそって史実を整理されているように見えるのに、増田先生は先入見を排して資料を丹念に読みこんで、そこから考えます。研究スタイルが実証的なのです。元・後志のおじさんのスタイルが増田先生に似ている、だから親近感がわいたのだろうと思います。院生たった3人の授業で1年間増田四郎先生の謦咳に接することができました、ラッキーだったとしか言いようがありません。
 学部のゼミの指導教官だった哲学の市倉宏祐教授は3年間、先生はサルトル実存主義とヘーゲルの国内トップレベルの研究者でした。晩年はパスカルの数学研究をしておられました。80年代にご自宅へお伺いしたときにはPROLOGというフランスのプログラミング言語でパソコンをいじっていらっしゃった。経済学を起点に数学へと興味を広げ、そしてシステム開発を仕事にしてきたわたしは、どこか恩師にスタイルが似ている気がしています。
 経済学史の大家である内田義彦先生はその著書『経済学の生誕』を使って講義してくれました。内田先生の書かれた本は岩波新書でも中身が濃いのです。経済学史家はここまで丹念に経済学書を読んでいるのかと驚かされます。新書版の本を書くときには3倍の量を書いて、それを1/3に削り込んでいると仰っていました。
 学部・大学院どちらも、それぞれの分野の大家である三人の先生の謦咳に接することができたのはとっても幸せでした。根室高校・商業科で学んでいた時には、公認会計士になるつもりで、二次試験用問題集で一生懸命に勉強していたのですが、大学へ入ってから、方向が変わりました。でも、経済学を深く学ぶほど、簿記の勉強をしっかりやったことが独自の視点を育てるのに役に立っていたことに気づかされます。株式会社は例外なく複式簿記で動いています。簿記理論を知らずに企業経営も経済も理解できるわけがありません。仕事は経営管理や経営改善、システム開発がメインでしたが、そこでも簿記や管理会計学そして原価計算の専門知識はとても役に立ったのです。人生、先のことなどわからないものです。その時その時を渾身の力でで駆け抜けたらいいだけですよ。後は天任せでいいのです。

 二つ目。大西泰斗先生のラジオ英会話を材料に英作文問題と解説集を12000題作成しています。A4判で1442頁あり、作成に2年間を費やしました。大西先生は、「説明ルール:説明は後ろに置く」と「指定ルール:指定は前に置く」の二つのルールで説明をしてくれます。文頭副詞句(節)は指定ルールの適用と理解できますので、そういう線に沿って高校生に説明を繰り返しています。英文のリズムが理解しやすいからです。

 三つ目。文頭副詞句(節)ではなく、「副詞相当語句advervials」という語彙を使うことがありますがこれは変形生成文法用語からの借りものです。生成文法の専門書と出遭ってかれこれ45年くらいになりますね。解説書ばかりでは飽き足らなくて、チョムスキー自身が書いた言語学に関する著作も読みました。文法工程指数の高い複文や句構造を基底文(simple sentence )に分解して意味をつかんでもらうことをしょっちゅうやっています。高校生に複雑な英文を解説するのに便利なツールだからです。
 これら三つの知識が溶けあって一つになっています。

 貪欲ですから利用できるものは何でも利用します。戦う相手の能力の一部をコピーしてしまうスライムのようなものです。生徒がスライムが主人公の漫画の本を貸してくれたことがあります。「先生、面白いから読んでみたら?」って、数冊もってきました。多かれ少なかれ、この漫画の主人公のスライムのようなことを誰もがしています。思考の多くは、対話や本やメディアを通じて脳に入力されている情報や、経験を通じて刻み込まれた記憶をベースになされているからです。

 このように大きく分けて、三つのソースを背景に、文頭副詞句(節)のある文章を読んでいます。最近は、いままで、ピンとこなかったことが大西先生の説明を適用すると、実に簡単であることが多いのです。
 モクロ―君の「Adv+S+V…+Adv」というのも、初めて見る定式化でしたから、数年前のことですが、斬新に私の目に映りました。「そういう事例は頻出しないだろうな」くらいがその時の率直な感想でしたが、PROMINENCE Ⅲを高校1年生の音読トレーニング授業に使ってみて、この教科書にはそういう文例の多いことに驚いているのです。VIVIDⅢにはこんなに頻出しません。会計情報システムに関する専門書にも医学専門誌にもネイチャーやサイエンスのような科学雑誌にも、医学専門書にも、言語学専門書にも文頭副詞句(節)が頻出するなんてことはありませんでした。だから、モクロ―君とは読んでいる分野があまり重なっていないとは感じてました。

 でも、こうした角度の異なる知識をインプットすることで、潜在意識の中でそれらが溶けあいます。「モクロ―君こと元後志のおじさん」の定式化も大西泰斗さんの説明ルールも、もう不可分のものになってしまっています。そういう溶けあった知識や経験をバックグラウンドにして、顕在脳が働きます。
 いままでぼんやりしていたことが焦点を結んだようにはっきり見えることが多くなります。全部が見えるわけではありませんよ、今まで見えなかった部分のうちのほんの一部分が見えるようになるということです。同じ脳の仕組みは誰にでもあります。

 こうして自分の思考様式を「内省」してみると、潜在意識に角度の異なる情報をインプットして、溶け合わせるということの大切さがわかります。それをベースにして潜在脳と顕在脳が思考しているのですから、そこが貧弱なら、思考もやせ細ったものにならざるを得ません。
 顕在意識をつかさどっている脳と潜在意識をつかさどっている脳という分類をしましたが、もちろん物理的にそれが独立しているわけではなくて、同じ脳が起きているときと眠ってしまったとき、あるいはその中間のまどろみの中では、どうもかなり違った働きをしているようだということなのです。それは交感神経系と副交感神経系働きとリンクしているようです。

 潜在意識の働きは眠っているときに最大になります。数学の問題が解けなくて、寝てしまいます。朝になったら解けているなんてことは、潜在意識の働きでしょう。眠っている間に、問題を溶かし込んで、いままでのデータベースとつながり、新たな知識ネットワークを創り上げて、解いているのです。起きている脳では思い込みで関連がつけられない事象同士が「ゆるく」なって、つながってしまいます。
 高校数学程度なら、一晩眠れば解決しますが、ライフワークにしている問題分野は何日も、何か月も、何年も、何十年も潜在意識にさまざまな分野の専門知識と経験を溶かし込まないと、解決のできないものがあります
 でもそうしていると、一見関係のなさそうな分野に相同性や相似性がはっきりと見えてきます
 赤字の会社を黒字にするときにも潜在意識の働きを利用してました。顕在意識レベルでは解決の道筋は見えてこないのです。もちろん必要な範囲の複数の専門知識や経験智があってのことです。潜在意識を使って大きなプロジェクトを動かしているときには、不安や心配はまったくありません。先が見えなくても心配いりません。必要な時間内にちゃんと道筋が見えてきます。顕在意識に比べて、潜在意識の働きはとてつもなく大きいのです。問題解決に駆使できる記憶の領域がケタ違いなのです。

 潜在意識の働きを、それを観察しているさらに高次の意識を創り上げることで、観察できるようになります。顕在意識も潜在意識もそれよりも高い次元で、観察できます。人間の意識は、そうした「考えている」という実体を自覚することでその上のメタ認識レベルの意識が産み出せるようにできています。だから、わたくしの意識に特有のことを述べているのではなく、かなり人間の意識一般の仕組みについて述べているのだろうと思っています。

 学問体系を考えるときに、マルクス『資本論』とデカルト『科学の方法 四つの規則』そしてユークリッド『原論』に体系としての相同性が見えてきました。これら二つの異分野の学問は、学の体系としては演繹的体系という共通の祖先をもっているということ。もっと端的に言うと、経済学の学としての体系が見えたということです。それは次の課題を生みだしました。マルクスを超える経済学、限界を向かえている株式会社形態での資本主義を超える公理は何かという問題、つまり、アダムスミス『国富論』『道徳感情論』やディビッド・リカード『経済学及び課税の原理』、そして近代経済学を越えられる新しい経済学の公理は何かという問題に置き換えられます。
 マルクスの経済学の公理には「工場労働」が措定されています。その淵源は奴隷労働なのです。したがって、マルクスにとっては労働は忌避すべきものとなります。そして同時に職人仕事は『資本論』の対象外となってしまいます。
 日本にもドイツにも職人文化があります。ドイツにはマイスター制度という制度まであります。職人仕事という価値観が日本経済の奥底を流れています。だから、工場労働ですら、日本では職人仕事化してしまいます。オフィスワークも新幹線の車内清掃作業も職人仕事という点から見ると同じことです。あたらしい経済学の芽をわたしはそこに見ています。
 11月中には故郷を離れて、東京へ戻りますが、ライフワークに整理をつけるつもりです。必要な情報と経験は20年以上も前に潜在脳で溶け合っています。酒造りと一緒ですね、発酵と数十年の熟成期間が必要でした。(笑)

<余談-1:チョムスキーとデカルト
 チョムスキーはデカルトの信奉者です。チョムスキーは普遍文法を考える際にデカルト『方法序説』の科学の方法四つの規則を適用しています。これはわたしと同じです。わたしはさらにユークリッド『原論』との相同性も見ています。わたしは、数学を教える際に、デカルトの科学の方法「四つの規則」を適用して教えています。
 チョムスキーとなんとなく相性がいいと思っていましたが、いま理由がわかりました。方法論で共通していたのです。デカルト『方法序説』という共通の祖先(=原型:思索のタイプ)をもっているようです。

*#3509より引用

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<デカルト 科学の四つの規則>まだ若かった頃(ラ・フェーレシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数を、少し熱心に学んだ。この三つの技術ないし学問は、わたしの計画にきっと何か力を与えてくれると思われたのだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。ます論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、道のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり、余計だったりするものが多くまじっていて、それらを選り分けるのは、まだ、下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を彫り出すのと同じくらい難しい。次に古代人の解析と現代人の代数は、両者とも、ひどく抽象的で何の役にも立たないことだけに用いられている。そのうえ解析はつねに図形の考に縛りつけられているので、知性を働かせると、想像力をひどく疲れさせてしまう。そして代数では、ある種の規則とある種の記号にやたらとらわれてきたので、精神を培う学問どころか、かえって、精神を混乱に陥れる、錯雑で不明瞭な術になってしまった。以上の理由でわたしは、この三つの学問(代数学・幾何学・論理学)の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければと考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがずっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという、堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた 第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく速断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、なにもわたしの判断の中に含めないこと。 第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。 第三に、わたしの思考を順序に従って導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。
 そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
 きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった
  デカルト『方法序説』 p.27(ワイド版岩波文庫180 *重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。
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(4)単純なものから複雑なものへ=順序の想定
 より単純なものから複雑なものへという順序を想定することは知識の整理にとって大切なことです。科学の方法四つの規則の第三がそうした方法(=上向法)を示唆しています。学問においてはもっとも大事なことなのですが、これはまた別の機会に書きます。
 「資本論と21世紀の経済学」というカテゴリーが弊ブログにありますが、経済学に関してはそこに書き溜めてあります。

 生徒から質問のある都度、こうした4つの観点から具体的に繰り返し説明しています。数学を通じて、普遍的な学問のやり方を教えているつもりです。
 数学は他のさまざまな学問に深く関わっています。成績上位生は数学の勉強を通じて学問全般に視野を広げる努力をしてください。


<余談-2:ビリヤードの三人の先生>
 ビリヤードは小学生の時から高校生まで、昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生の技を毎年目の前で見る機会がありました。東京へ行ってからは、平成天皇のビリヤードコーチだったスリークッション世界チャンピオンの小林先生に数年常連会の一員として、図面を描いていって何度か質問に答えていただきました。小林先生の後は皇族のビリヤードコーチは町田正先生に変わりました。その町田正先生のお父さんが八王子でビリヤード店を営んでいたので、SRL八王子ラボ勤務の時に、何度も通いました。プロ用のトレーニングメニューを惜しげもなく伝えてくれました。そこには素振り用の鉄のキューがありました。マッセ練習用の特注の小さなテーブルも。町田正さんのL字マッセは世界で彼しかできない技ですが、鉄のキュ―を使った素振りと、特注のマッセトレーニング用のテーブルがないと修得できない技です。町田正さんと3ゲームだけ、ボークライン・ゲームをしたことがあります。ボークラインの日本チャンピオンですから、散々な負け方をしましたが、目の前で彼の技をしっかり見ました。技を見て、何度も繰り返して自分のものにできなければそれは才能がないのです。坦々とトレーニングを積むうちにコツがわかってきます。何百回も何千回もやっているうちに自然にわかってきます。大工さんの徒弟修業と一緒です。親方の仕事を見て、何度も何度も試してみて、遂にはコピーできなければそれだけの人です。それはそれでいい。一心不乱に取り組む人だけがマスターできます。わたしにはとてもできませんでした。
 何が言いたかったのかというと、ビリヤードでも、日本のトップレベルの3人の先生に教えを乞う機会に恵まれたということ。幸運の持ち主です。(笑) この三人の先生に習う機会のあった人は他にはいないでしょう。吉岡先生も小林先生も町田正先生のお父さんも、皆さんとても親切にしてくれました。どういうわけかお会いしてすぐにそうなったのです。理由はキューの切れがよかったからではないかと思います。一流のプロはそういうところを見抜いてくれていた。これは天性のものです、自惚れかな?
 吉岡先生、19歳の時に彼女と札幌駅前の大通りを歩いていたら、「としぼー」と大きな声で呼ばれたので振り向くと、にこにこして、肩を叩いて「献血していけ」とおっしゃる。ライオンズクラブで献血の呼びかけをしていました。もちろん、否やはありませんからすぐに献血しました。そのときの献血手帳は東京の親戚のおじさんが神田駿河台の日大病院で癌の手術をするときに役に立ちました。

 すばらしい先生たちに出遭えるように天が采配を振るっていてくれていたのではないかと勘違いしそうです。生徒達にそういう先生であるのかと問われたら、そうありたいと答えるのみ。


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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2001/01/16
  • メディア: 単行本

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