SSブログ

#2072 炎天下23kmの競歩遠足(啓雲中学校):北方領土遠望競歩のススメ Sep. 1, 2012 [87.根室の話題]

 8月31日、啓雲中学校では全校生徒参加の競歩遠足があった。学校からノサップ岬まで、オホーツク海側を23km歩いていく。光洋中学も青少年センター前からノサップ岬まで毎年全校生徒が歩き通している。もちろん、体育系のブカツの生徒は走りとおす者が毎年いる。ノサップ岬からの帰路はバスだ。「先生、1号車に乗ったよ」そう報告する顔が自慢げだ。
太平洋側のコースと違って車の通行がほとんどないから歩きやすい。半分はebisuのサイクリングコースだ。

 東に向かって歩くから、太陽が南側から照らし続けるので、体側面の右側が陽に焼ける。二の腕を歩くときに振るから、外側が集中的に日焼けする。足のかかとのところは、右足の外側と左足の内側に靴下の線がはっきりついている。みんなマッカッカだ。
 長袖を着ていれば腕の日焼けは防げただろう。風があったので帽子はなしだから、顔も真っ赤だ。
 啓雲中は毎年この競歩遠足をやっている。距離が長いから、やり遂げた実感も大きいだろう。
 ブカツの生徒たちは走りとおす者もいる。帰りはノサップからバスだ。数日間はお風呂にはいるとひりひりするだろうな。
 太平洋側は霧が出ていたのに、オホーツク海側はめずらしく晴れていた。正午に庭の寒暖計を確認したら29度だった。

 釧路と根室は、最近2週間は30年来の酷暑だという。日射病で倒れるものはいなかったようだ。歩きあるいは走りながら水を飲むのがあたりまえになっているのがいい。

  啓雲中学校の校長先生が根室高校へ入学する数年前のことだが、このような炎天下・無風状態のマラソンで死者が出たことがある。
 毎年恒例だった男子20km(太平洋側を下り、ゴルフ場方向へを左折し牧の内から女子コースに合流)、女子10km(牧の内T字路までの往復)のマラソンで、女子一人が日射病で倒れ亡くなった。不幸な事故だったが、炎天下でのマラソン実施はムリがあったことも事実で、校長先生は翌年異動になった。
 あのころは「水を飲んではいけない」と根性論が常識の時代で、水を飲むのは軟弱者だった。わたしはもちろん軟弱者で、暑さに負けて途中の牧場2箇所で冷たい井戸水をたらふく飲んだ。合計1.8リットルぐらい飲んだだろう。胃にたっぷり水が入ってしまっては走れるわけがない。「ebisu、水飲むのか?俺も一緒に飲もうっと」とコースを外れて井戸のほうへ歩く私に付き合う奴も何人かいた。北の勝に勤めるYはマラソンが得意で我慢強いから水を飲まずに走りとおした。もちろん全校男子500人中10番以内だっただろう。マジメで馬力のある奴だ、性格は還暦を過ぎても変わらず高校時代のまんま、変わらないから"性格"なのだろう。仲間内では本名ではなくニックネームで呼んでいるが、本名だと勘違いしている人が多いかも知れぬ。
 体育祭はクラス対抗でマラソンの点数が一番大きい。2時間以内に入れば加点で、オーバーするとその分数に応じたペナルティ(減点)が課せられた。だからみんな相当ムリをして走ったのである。わたしは10分オーバーだった。先生の言いつけをよく守る真面目な生徒が十人前後が日射病のためゴール付近で意識を失い市立病院で手当てを受けた。1学年下のebisuの女房殿も水を飲まずに真面目に走って、ゴールに入ったとたんに日射病で意識をなくした一人である。マジメに走らないと全校生徒10番以内には入れない。

 現市長の長谷川先輩も男子20kmマラソンを走った一人だろう。あの学年では野球部キャプテンが総番長Sさん、そして総番には代々伝わった仁義の口上があった。わたしは高校生になったときに、5学年先輩のご当人にその仁義の実演を見せてもらったことがある。腰を落として右手を前に、左手を後ろにして、「お控えなすって、さっそくお控えなすってくださってありがとうさんでござんす、手前生国発しますところ・・・」とすらすら出てくる調子のいい台詞は仁侠映画を見ているようでかっこよかった。一つ先代の総番から伝えられたものを練習して覚えていたのだろう。台詞をとちったら命がなくなってもしょうがないようなことを言っていた。私たちの代では友人のKが総番だったが、この仁義は伝わっていなかった。一つ上の総番も知っている人だが、仁義は伝わらなかった。ひょっとしたら5学年上のSさんが仁義口上伝承やめたのかもしれない。あいつは優しい男だった。トッポイ番長グループを10人くらい従えて街中を歩くのを中1か中2のときにみた記憶がある。総番が一番前を歩き、一歩下がって副番がそしてその他が続いた、統率がとれケジメがしっかりしていた。
 ある政治勢力の関与で私たちの一代前で番長グループの形がぐちゃぐちゃに崩れてしまい、同期の総番のKが制度を廃止した。郡部出身の友人AがKとともに重要な役割を果たした。組織解体だから番長グループ内部でもめないはずがない、群れていなければやっていけないひ弱な奴らもいたのである。数人強気のはねあがりがいてもめたが、Kはそのまま押し通した。副番三人が文句を言わなかったのは総番の器のなせる業、器の小さいはねあがり数人についていくものなどいなかった。人格の差で勝負がついたといえるだろう。
 2年生の時には先輩の番長グループと抗争事件があり、7対13、先輩グループが後輩グループにぼこぼこにされ、北海道新聞に掲載されて、学校側の知るところとなり、全員停学処分されたことがあった。動員をかけても3年生の番長グループは人数が集まらなかったのだろう。羅臼から来ていたAもそのときの停学組みで、下宿で外出もできずに謹慎中だったから、停学期間中は毎日遊びにいって2時間ほど花札につきあった。定期テストの前日まで家の仕事の手伝いが終わってから夜9時頃に行って花札三昧、同級生には面白い奴らが多かった。
 Kは5代前のSさんとどこか似たところがあった。おそらく二人に面識がなかっただろう。同じ野球部だということと、本音はやさしい男だということが共通項だ。人間に魅力がないとどんな組織でも人はついていかぬものだ。そして総番はどんなタイプの人間とでも付き合える器の大きさも必要なのである。学力と同じくらい人間力、器の大きさといったものが大事だ。後輩たちの中にそういう人物が見当たらなかったことも、総番制度廃止の遠因だったかも知れぬ。ただの不良が総番になったら最悪である。そういう最悪の事態を回避しようという暗黙の合意が同期の友人たちの中にあったのだろう。
 わたしたちの時代にそういう人材がたまたま揃ってしまった。副番の一人は私と同じ大学を出て某テレビ局の取締役東京支社長を長く勤めて、定年になって子会社社長に転出した。もう一人の副番も大学を卒業して定年まで仕事をしていた。東京を離れる半年ほど前に有楽町駅付近でたまたますれ違ったことがあった。ボンボン育ちで狡さのまったくないいい奴である。副番はもう一人おり、小学校の同級生だった、こいつは大阪の某有名運輸会社に就職した。総番・副番三人とも一つの会社から動かなかった、これも面白い。当時はおっとりしているように見えた私のほうが転職を繰り返したのだから、わからぬものだ。四人はお互いに外見とは異なる相手の本性がわかっていたのかも知れぬ、感覚の鋭いところがあった。渦中にいた数人しか知らぬ話しがいくつもある。昔話はこれぐらいにしておこう。

 ともかく、翌年から体育祭のマラソンはなくなった。きちんと管理してやればなんともないことなのに残念だ。伝統の女子10km、男子20kmマラソンを復活する校長先生は現れないか?太平洋・オホーツク海周遊コースの「52km北方領土遠望競歩」を考えてみたが距離が長すぎてダメだから、オホーツク海側を原生花園まで往復すれば30kmぐらいのコースがいいのではないか。時速5km、少し早足で歩いて6時間、やり通した実感はあるだろう。運がよければ国後島を眺めながらの「30km北方領土遠望競歩」となるだろう。 将来、都会で地震にあい交通機関がストップしても、30km歩いた経験があれば役に立つ。自分が歩きとおせる限界がどの程度なのか見当がつけられる。経験のあるものとないものでは、こういう非常時の判断に大きな差がでるものだ。

 一部の元気のよい生徒は走るが、大半は歩くから、水を飲みながら友だちをお喋りして歩き通せば、楽しいイベントだ。もちろん、日射病で倒れた生徒はいない。
 疲れているはずなのに、来週中間テストがあるので、英語の授業中は気合が入っていた、あの元気はうらやましい。


にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 根室情報へ
にほんブログ村


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0