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#1075 古典派経済学及びマルクス経済学を超えて(3):職人仕事とはどういうものか Jun. 17, 2010 [A4. 経済学ノート]

  マルクスの「抽象的人間労働」に「職人仕事」を対置した。職人主義経済学体系の公理に措定すべき基本概念である。

 宮大工の仕事を例にとって職人の仕事とはどういうものかについて検討してみたい。材料は次の2冊の本である。
 『木のこころ 木のいのち<天>』西岡常一著(草思社、1993年)
 『木のこころ 木のいのち<地>』小川三夫著(草思社、1993年)

  大工も料理人もおよそ刃物を使う仕事は研ぎが基礎だ。刃物の切れ味が仕事の仕上がりに直接影響するからだ。それゆえ、大工の修業の一端が刃物を使う職人仕事すべてに共通する材料を与えてくれる。
 一緒に仕事をしたことのある大工の棟梁が言っていた。仲間の現場へ行って、後ろ手を組んで指先でそっと柱を撫でてみる、「ああ、腕を上げたな」それだけでわかると。表面の滑らかさを指先だ確認するだけで刃物がどの程度砥げているのか、腕前がどれほどなのかがわかる。
 宮大工の棟梁、西岡常一さんは次のように語っている。

「大工の修業の基礎は刃物研ぎですが、刃物研ぎのような基礎はすべてに通じるんですな。ですからここで時間をかけても損にはならん。むしろ納得がいくまでこの段階で苦労した方がいいんです。近道、早道はないんです。」『木のいのち 木のこころ<天>』83頁(西岡常一著)

 刃物研ぎが宮大工の修業の基礎である。西岡棟梁の説明が修業の一端を垣間見せてくれる。

 「ところが、大工の修業といいましたら違いますのや。先ず初めは見てるだけ。それならまだいいほうで、先輩のご飯を炊いたり掃除ですわ。ついで刃物研ぎ。これも長ごうかかりますな。とにかくどんな刃物でも十分に研げるまでやるんですから。そうでんな、少なくともニ、三年はかかりますかな。
 この間、本も新聞もテレビも見んでいいというんです。大工や建築の本も読まんでいいんです。このやり方に近道はないんです。もちろん、人間ですから覚える速度は違います。学校と違いますから、早く修得した人は先に進みますわ。だが、遅くったって構わんのです。覚えることが大事なんです。覚えな、前には進みません。覚えないまま進んでもしょうがないんです。そういう人はじっくりやるんですな。早く覚えて先にいったほうがいいということはないんです。むしろそういう人よりじっくり進んだ人のほうが、刃物なんかはいい切れ味になりますな。体が時間をかけて覚えこむんですな。時間をかけて覚えたことは忘れませんわ。こうした一見無駄なように思えることが大事なんですな。・・・その後、電気鉋しか使わんようになっても、手で道具を使うことのできる子どもは百パーセントの力を出します。」同書105頁

 弟子の小川三夫にこの通りのことを課している。刃物を研ぐ技を磨くと同時に職人としてのこころも育っていく。

「そこへもってきて小川は一生懸命でした。高校を卒業してからでしたんで、私は弟子入りするには遅すぎるということも言いましたんや。それでも夜遅くまで、寝ないで刃物を研いでいますのや。わたしが最初の一年は本も読まんでいい、テレビもラジオもいらん。とにかく刃物を研げと言いましたんや。それで夜も眠らんで研いでいる姿を見まして、これならモノになると思うて安心しましたわ。正直いって嫌がっている息子らに無理にあとを次いでもらわんでもいいと思いましたのや。そんなわけで自分んとこの息子やなく小川に後を継いでもらう形になったんです。」同書133頁

 なぜ修業が必要なのか、職人仕事は教えることができないのか、職人は育てるしかないということを西岡棟梁は次のように説明する。

 「先人の経験を言葉や知識として、それをもとにその上に築くということができんのです。経験は学べないんですな。経験は自分で初めから基礎を積んで載せていくしかありませんから、職人というのはたいへんです。ところが世の中のお母さんのなかには間違った方が多いですな。この子は頭が悪いから大工にでもしましょ、てなっことを言いまっしゃろ。それは考え違いでっせ。初めから自分で学はなならんのです。出来が悪いから職人に、というもんやないんです。出来が悪かったら、まあ、学校にでも行って、会社に入ったほうがいいですな。組織のなかやったら少しばかり根性なしでも首をすくめていたらなんとかなるでしょう。」同書87頁

 一緒に仕事をしたことのある棟梁は5人弟子入りして残ったのは自分一人だけだったと過日を振り返ったことがある。冬でも彼は軍手をしない。一度理由を聞いてみた。修業時代に親方にこう言われたというのだ。
「手と仕事とどっちが大事だ?」
それ以来、大工仕事中に軍手はしない。鋸を引くにも微妙に手の感覚が違うんだそうだ。軍手をして仕事をしたらいい仕事にならない。修業時代に親方に言われたことがよほどこころに響いたのだろう。心底から納得したから70を過ぎて棟梁を引退し、営繕仕事をするときにも軍手をはかない。とっくに親方は亡くなっているのだろうが、親方が見ていなくても、他人が見ていなくても、いい仕事をするために愚直に軍手をはかない。技と同時に職人のこころを親方から受け継いでいた。

 宮大工は仕事を選ぶ。たとえば、一般住宅建築の仕事はやらない。神社仏閣の仕事が入らなくても、貧乏しても一般住宅建築は請け負わない。一般住宅をやると、仕事の腕がなまるらしいのだ。使う道具も違うし、材料も違う。たとえば宮大工は数百年あるいは千年以上も生きてきた木材を使う。最高の木材を使い、材木それ自身がもっている癖を生かして使うのが宮大工の仕事である。一般住宅でそのような材料を使うことはない。
 腕がなまるような仕事は請けない。原理原則がはっきりしている。すくなくとも儲けるためだけに仕事をしているのではない。それ以上の何かを仕事に見出している。しかもそれこそが最重要なのである。儲けに優先する価値がある。それを身体に叩き込むのが修業だ。技術の練磨を通してこころを磨く、つまり修業とはやっていいことと悪いことを区別する心を練るのだろう。こころを練りながら、技術を磨く、職人にとってこの二つは不可分なのである。

 ひたすらいい仕事をするにはどうすべきか、それのみを考える。職人は完璧な仕事をして当たり前、いい仕事をすることが職人の命だ。損得を考えながら手間を調節するというような仕事の仕方はない。自分が携わった建物が地震にも耐えて千年もつのかをつねに自分自身に問う。ゴマカシや奢りの入る余地のない仕事の姿勢、それが職人の仕事だ。

 「学校と違って、百点を取ったら偉いというのとは違いますのや、仕事は。百点を取るのが当たり前なんです。」同書108頁

 「職人は思い上がったら終わりです。ですから弟子を育てるときに褒めんのでしょうな。」同書110頁

 職人の素晴らしいところだ。報酬の多寡に関わらず手抜きのない完璧な仕事をするのが職人であり、そういう働き方をすることが各人に求められるのが職人主義経済社会である。利潤追求に最高の価値を置く古典派経済学や『資本論』の資本主義世界とはまったく別の価値基準で動く経済社会である

 日本にはまだそういう職人や価値観が伝統として受け継がれている。宮大工の仕事は法隆寺や東大寺を考えても1300年の歴史がある。東大寺の大仏もまた世界最大の鋳造大仏である。この技術水準もすさまじい。当時の職人仕事を現代技術では復元できないという。
 出雲大社はその昔、東大寺の3倍の高さがあったという。ここにもそれを造った職人たちがいた。日本は木造建築から見ると千数百年職人の国である。職人の原点が縄文期の土器製作にまでいきつくとしたら、日本列島は数千年の職人仕事の歴史と伝統をもつことになる

 そろそろ倫理的にもレベルの低いグローバリズムに代表される「資本主義」というお仕着せの衣服を脱ぎ捨てようではないか。
 世界中に職人主義経済のお手本を示すことができるのは日本人だけであり、それが日本民族の役割だ。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」という商道徳もこのような職人文化から必然的に派生する倫理の一つだろう


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