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#1073 古典派経済学及びマルクス経済学を超えて(2):労働概念に関するノート Jun. 14, 2010 [A4. 経済学ノート]

 マルクスの労働概念がその淵源が奴隷労働にあることを明らかにした。これはわたしと岡潔先生の假説であると言い換えてもいい。假説に基づいて別の経済学体系が組み上げられればいい。それが私の果たすべき役割だろう。

 日本人の労働は仕事であると同時に究極の遊びでもあり、ある種の真剣さ、もっと言うと全身全霊での没入を要求する。労働という概念では表せないので、別の用語を使いたい。わたしには「仕事」とい用語しか思いつかない。
 日本ではあらゆる仕事が職人仕事に包摂されてしまう。思いつくまま、いくつか挙げてみよう。

 江戸指物師
 文楽人形使い、頭師・・・
 能
 落語
 講談師
 詩吟
 浮世絵、絵師、彫師、刷り師
 宮大工、船大工、左官、石屋、漆屋、建具屋、内装職人、屋根職人(瓦屋、トタン屋根屋、柾屋)、鉄筋屋、鳶職人・・・
 庭師
 桶屋
 板前、コック
 楽器ごとの演奏者
 指揮者
 歌手(ソプラノ、テノール、バリトン、演歌、ボサノバ、タンゴ、シャンソン、カンツォーネ、ジャズetc )
 パン職人
 パティシェ
 和菓子屋
 ガラス職人
 外科医
 
 たいした数は思いつけないが、調べればいくらでも出てくるだろう(あとで補充すればいい)。能や文楽などの伝統芸能も職人に数えていいだろう。
 これらはさまざまに枝分かれしていく。たとえば板前やコックだって、料理の種類ごとに分かれる。中華、イタリアン、フランス、日本料理も京、関西、東京など地域ごとに分野が分かれるし、ふぐ、うなぎなど食材でも枝分かれして技術や使う道具が違う。大工も何を作るのかで分野が別れ、技術が別れ、使う道具も違ってくる。屋根屋だって、使う材料で技術が違う。トタン、瓦、茅葺屋根など。
 桶職人も飽きない仕事をみせてくれた。昔、青柳薬局の並びに桶屋さんがあった。お風呂や何かおおきな樽をつくっているのを飽きもせず、何時間も見続けた記憶がある。

 ここから多少の飛躍をしてみたい。工場労働者もこうした職人の伝統を忠実に受け継いでいると私は思う。宮大工は修業時代は仕事が終わると鉋の刃をひたすら砥ぐ。刃が砥石に吸い付いてしまうようになるまで身体に砥ぎの技術を覚えこませる。研ぎ澄ました刃で柱を削ってみる、表面は見た目も鏡のように滑らかだ。触ってみる。指先にツルツルに磨いたかのような木の感触が伝わってくる。大工の仕事の出来不出来は、刃物の切れ味が決め手だ。
 工場労働者も不断に自分の仕事の改善を考え、改良を繰り返す。それが心地よいからだ。もらう給料とは関係なしに精一杯の努力をする。労働ではなくアートがそこに生まれる。

 職人仕事とマルクスの工場労働者の労働との違いのひとつは、前者が単純労働に還元できないということだろう。名人の仕事を単純労働に還元することは不可能である。腕の悪い職人を100人集めても、1000人集めても、名人の仕事に匹敵する仕事はできるものではない。
 職人はつねに自分の技術を磨く、そしてその都度自分ができる限りの仕事をし、手を抜かず、正直に、誠実に仕事をする。
 見えないところにも手を抜かないし、他人が見ていなくても仕事の手を抜くことはない。この点も違う。職人仕事に仕事のチェックをする第三者は必要がない。もし、手を抜いたことがばれたらその職人は信頼を失い、その結果、仕事の依頼主を失う。不誠実な仕事をして長期的に得になることはなにひとつない。 
 人を出し抜いたり、だまして利益を手にすることは、最低の行為として非難される。どんなに私的利益が大きくても「してはならぬことはならぬ」のである。「三方よし」と職人仕事はまことに相性がよろしい。職人主義経済という車の両輪である。

 面白いのは、その道の技を極めるという姿勢があらゆる種類の職人に共通していることである。技を極めた人は「名人」とされる。それは仕事に限らない。名人は趣味の世界や武道の世界にもいる。こういう点から見ると、仕事と趣味の間に区別がなくなる。仕事と趣味には共通した何かが流れている。どちらもその技倆があがれば、上級者からみればはっきりそれがわかる。「免許皆伝」がそれぞれの分野にはあり、技を極めた人を名人という。
 日本人は何かの分野に分け入れば、その技倆を徹底的に磨くことに喜びを見出す民族のようである。それがどこから来ているのかは知らないが、事実としてそうなのである。
 
 いったん仕事を終えてしまうと、それを上級者がみれば、その時点での職人の技倆のほどが知れる。いつまでも腕の上がらない者は軽蔑される。それゆえ、技倆が未熟の者は仕事の手が抜けない。仕事をする都度、その技倆を上げ続けることを要求されるのである。そして、そうした課題を自らに課して仕事をする。職人仕事には、嘘やゴマカシの入る余地がない。手を抜いたトタンに作品のできに現れてしまう。

 箇条書きにすると次のようになる。
①職人は自らの技倆を不断に磨く
②職人は仕事の手を抜かない、仕事をごまかさない
③自分の技倆が上がることは喜びである
④職人の仕事の上達は技倆を磨くことで達成されるので、趣味や武道と違いがない
⑤あらゆる種類の名人が社会的に尊敬されている

 日本人は労働から解放される(自由になる)必要がない。労働は束縛ではなく、自己実現や自己表現の一形態ですらあるから、マルクスの「疎外」概念は職人仕事に関する限り成立しえない。
 そして名人の仕事を単純労働には還元することはできない。単純労働をどれほど積み上げても名人の仕事に匹敵する質的高さは実現し得ないのである。

 さて、単純な交換過程を想定したときに、商品の価値はどういう理屈で決定されることになるのだろう。マルクスは労働時間という尺度を導入し、単純労働と労働時間の積で商品の価値を定義した。
 数学的には労働の質に数量的な尺度をつけていけば、時間とそれに費やされた仕事の質の関数として商品価値を定義できるだろう。その場合に、すべての職種に渡って名人仕事を基準としてランク付けする方法と、標準的技能を想定して職種ごとに仕事をランク付けする方法が考えられる。
 問題になるのは名人の仕事である。名人の仕事とそうではない一人前の職人の仕事は比較可能性がない。質的な評価は無限大となるから、名人の仕事はその価値を労働時間の関数としては定義できないのである。
 ここが「単純な交換関係」のところの難所となるだろう。プランA、プランB・・・いくつか検討せざるを得ない。名人の仕事は買い手の評価というものが基本になる。それゆえその価値に限度はない。

 名人になるまで、あるいはある程度まで技倆を磨くのに標準的にはどれくらいの年数を要するのかが職種ごとにリストされなければならない。おおむね、あくまでもおおむねの話だが、一人前の職人と言えるまで10年、名人になるには30年の修業を必要とするだろう。「概念的」にはこの程度の押さえで十分だ。

 細かい議論は別にして単純な交換過程が記述できたとしよう。次になすべきことはそれを媒介するもの、貨幣の規定である。マルクスは貨幣について第一、第二、第三規定の3つを用意している。この辺りは大丈夫そうだ。
 違いが出るのは「職人仕事」と資本の関係だろう。「売り手よし、買い手よし、三方よし」という倫理基準がある限り、対立関係にはならない。
 そして企業活動の目的は利潤の極大化ではなくなる。「売り手の利益、買い手の利益、世間の利益」のバランスがつねに求められる。この点の相違が一番大きいのかもしれない。
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」の商売が基本になれば、サブプライムローンのような経済弱者、学力弱者をだますような企業活動はなされなくなる。長期的な信頼維持を基準とした営商売がなされる。
 安心できる、信頼をベースにした経済社会があなたにも見えて来たのではないだろうか。


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