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#30 コンピュータ技術者志望の人へ(2)⇒HP97を巡って 2,007年12月23日 [A8. つれづれなるままに…]

2,007年12月23日   ebisu-blog#030
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 コンピュータ技術者へのメッセージはebisu-blog#015に書いたが、これはその続編である。根室にはSEが一人もいない。コンピュータ・システムに係る仕事とは何なのか、それは会社の経営にとってどのような意味を持つのか、そういうことを知りたい根室の中高生に私の経験を開示しようと思う。
 私がどのようにシステムスキルを磨いたか、またシステム開発が会社の経営にどれほどの影響を与えるかについて、経験したことを書いておく。
 これからシステムエンジニアになろうと思っている人の参考にはあまりならないかもしれない。私がたどってきた道はあまりにもイレギュラーに思えるからである。しかし、SEになるための標準コースに乗っていなくても、システムスキルを身につける実例としては参考になるだろう。 要は熱意の問題である。どれほどの熱情を仕事に対してもてるか、そこにかかっている

【Programable Caluculator HP97との出会い】
 修士論文を書き終わり、博士後期課程へ行こうかどうしようか少しは迷った。学者の道を選ぶなら、私学ではなく国立大学の大学院を選択すべきである。もともと書きたいことを書き終わったら民間企業へ勤めるつもりでいたので、進学塾の専任講師を辞めて産業用エレクトロニクスの輸入商社S社へ勤めることにした。高校2年生のときから公認会計士の受験勉強をしていたくらいだから、経理関係の仕事には自信があった。経営感覚もすでに身についていた。どこをどうすれば儲かるのか、大学院へ進学する前、紳士服製造卸の小さな企業で、経理の仕事をすると同時に一年後には生産企画をすべて任されていたので経験済みだった。赤字を黒字にするのは簡単なことであった。昭和40年代後半は団塊の世代が社会人となったときで、ドイツの雑誌に載ったヨーロッパのファッションが一年後に日本でずいぶん売れた。その傾向が読めたので、生産企画は簡単だった。作った若向きの背広は飛ぶように売れた。そのお陰で古い在庫もみんな捌けてしまった。ドイツ語が読めたこととドイツの雑誌が会社にあったことが幸いした。

 S&Co社では入社と同時に社長を委員長とする財務委員会が設置され、その下に6つの経営改善を目的とする委員会(各担当役員が委員長)が設けられた。為替対策委員会、利益重点営業委員会、収益見通し分析委員会、長期経営計画委員会、電算化推進委員会、資金投資計画委員会である。メンバーはほとんどが役員と部長、利益営業重点委員会に有能な営業課長が一人だけいた。平社員は中途採用の私のみ。その平社員に仕事のほとんどが丸投げされた。ありがたかった。全力投球で仕事をした。仕事のスキルは実務を通じて加速的に磨かれた。
 為替管理や財務分析に統計計算が必要で、電卓でやっていたら、オーナー社長のSさんが米国出張の折に、例のHPの科学技術計算用のプログラマブル・キャリュキュレータを買ってきてくれた。1978年のことである。入社3ヶ月たっていなかったのではないだろうか。9月に入社してHP97をもらって、その次にプリンター付の卓上型のものを12月の米国出張で買ってきてくれたのだから、そこまでが3ヶ月とちょっとである。

【S&Co社(現ST社)の成り立ち】
 S氏は慶応大学大学院経済学研究科をでた背の高いスマートな2代目社長だった。少し厚めの眼鏡の奥に人のよさげな目が印象的だった。専攻は西洋経済史が経済学史だったと思う。応募書類を出していたので断りに行った折に、経理担当役員のN氏がとにかく社長に会って行けと15分くらい話したときの記憶だ。はっきりとは覚えていない。自分とは専攻が違うことだけははっきり覚えている。わたしより一回りくらい年上である。断りに行ったのになぜその会社に勤めたか?制御用コンピュータがごろごろしていたからである。ここに勤務すれば使えるかもしれない、これからはエレクトロニクスの時代だ、そう感じて心変わりした。
 初代は戦後の財閥解体(三井合同)にタッチした人で、リストラをやったあと、自分が残ることを潔しとせずに、退職した。つまり、自分が辞職することを前提にしてリストラを断行した男である。サムライである。最近のリストラは社長も人事担当役員も辞めない。管理職や一般社員を平気でリストラして、自分が生き延びることを恥ともしない下劣な輩が多い利益をあげる智慧がないから経費中の最大項目である人件費を狙い撃ちにするのが流行りだ。日産のカルロス・ゴーンは日本人ではないからどのようなことをやろうが勝手だ。もてはやしたマスコミが悪い。弱いものを蹴落として強いものが生き残ることを日本の伝統的価値観では卑怯という。いじめも卑怯な行いである。中学校や高校でなされる陰湿ないじめを非難できる上場企業役員が日本に何人いるだろうか。こうした価値観からみると、経団連は卑怯者の巣窟にみえる。この十数年流行のリストラ経営は、およそ日本の伝統的価値観とは相容れないと私は思うそれに較べると、S社初代社長の潔さは日本の伝統美に輝いている。まれにリストラを担当した人事部長が退職する事例があるようだが、担当役員がやめたという話は聞かない。職位が上になるほど執着が出るらしい。職位が上がるほど地位と金銭に執着も強くなり恥知らずになるのが人の常である。

 話しは別の会社(SRL)に飛ぶが、K氏は東証一部上場会社の社長でありながら、その地位に執着しなかった稀に見る傑物である。ここは日本、絶滅危惧種かもしれないが、そうした人がまだ生き残っている。数少ない執着を棄てえた人として、私は道元、一休宗純、良寛が大好きである

 残念ながらS社創業社長にはお目にかかったことはない、入社したときにはすでに故人だったからだが、その精神は初代の薫陶を受けた役員全員に受け継がれていた。
 初代はスタンフォード大学を卒業した人であり、HP社の創業者であるヒュ-レットとパッカード両名と同窓であった。そういう縁で、昭和23年にIBMに次ぐ米国名門エレクトロニクス会社、HP社の日本総代理店からこの会社はスタートした。輸入商社としては歴史のあるズジの良い会社である。営業担当常務のこれまたKaさん、上司でもあった管理部担当役員のMさん、途中でおやめになったが最初の上司の経理担当役員のNさん、防衛庁担当のFさん、それぞれ実に人情味溢れる役員がそろっていた。小さい会社のわりには役員レベルの人材がしっかりした良い会社だった。臨床検査会社のS社とはこの点で大きな差があったと言わざるをえない。会社の規模の大小では語れないもののひとつが、役員の人物である

【HP97とマニュアル】
 HP-97は小さな磁気カード、1cm×7cm、でデータの記録やプログラムの保存のできる科学技術計算専用の小型コンピュータである。電源を切ってもロードしたプログラムやデータは消えない。データ入力はエンター・キーを押す。三角関数や指数関数、対数関数機能はもちろんのこと表示の仕方もエンジニアリング、サイエンティフェック、フィックスと三タイプ桁数指定で選択できる優れものである。なによりプログラム可能なところが便利だった。
 HP社の製品のの素晴らしいところは、英文マニュアルが実にわかりやすくかつ完璧にできているところにある。興味があって、取扱商品に添付されてくるマニュアルをいくつか読んだことがあるが、HP社ほどの完成度の高いものはひとつもなかった。マイクロ波計測器のコントローラーとしてHP社製のコンピュータが搭載された製品が多かった。この当時はたとえばコモドール社のパソコンはマニュアルはもとより、キーさえすぐに駄目になった。押しても上がってこなくなるのである。国産のパソコンは出始めたばかりで、マニュアルどおりに操作しても動かない場合があることがあった。そしてわかりにくい。マニュアルを作る技術がまだ蓄積されていなかった。
 当時のコンピュータ英文マニュアル200ページが2冊、これを読みながら1週間で使いこなしたら、その2ヶ月くらい後に、少し大型の卓上型のものを買ってきてくれた。プリンターつきであった。これは当時22万円する科学技術計算専用のキャリュキュレータである。ありがたかった。S社長にいまでも感謝している。一日がかりで計算していた統計計算業務がプログラミングすることで、データ入力だけで済む。データの入力とチェックをするだけで好いので、30分ほどで作業が終わるようになった。余剰となった7時間は他の開発業務や経営改善に使える。

【さまざまなプログラミング言語の経験】
 これを足場に逆ポーランド型のプログラミングをマスターし、ついでオフコンのプログラミング言語(COOL)(ダイレクトアドレッシング⇒アッセンブラに近い言語)をマスターした。その後、プログレスⅡというコンパイラー言語も使ってみた。プログラミング・スキルと開発関連諸技術の修得は納期管理システムや為替管理システム開発に大変役に立った。もちろんシステム開発関係の専門書を原書を含めて30冊以上読み、実務でスキルを磨いた。特に役に立ったのはNECが編集したシステム開発関係の本であった。シリーズで5冊程度でていた。岩波書店からコンピュータ講座が二回出版された。その両方も8割がたは読んでいる。次々に本を読み、実務で試してみることでスキルを磨いた。
 S社では東北大学の助教授を招聘して、マイクロ波やミリ波に関する講義を毎月開いていた。総代理店契約のある会社50社からは毎月のようにエンジニアが来て、新製品の説毎回を開いていた。これらの講義や説明会にほとんど出席した。マイクロ波やミリ波のディテクターとデータ処理用コンピュータで製品のほとんどが構成されていたから、コンピュータが理解できれば新製品の半分は理解できる。
 こうして制御用コンピュータに関する知識やディテクターや半導体回路に関する知識が蓄積されていった。「門前の小僧習わぬ経を読む」、習わないでも読めるようにななるのに、毎月教えてくれるのだから、どんなに頭が悪くっても覚えないほうが不思議だろう。大事なのは熱意だ。取扱商品についてとことん知ってやろうという熱意だ。こうして5年間のうちに統合システムの外部設計ができるほどシステムスキルが向上していた。ちなみに最近興味がある言語はC++である。これから勉強しようとする人にはC++を薦めたい。

【現実離れしたアカディミズム、日本の会計学者と原価計算学者】
 会計システムに関しては翻訳書がないので原書で読んだ。日本の会計学者はコンピュータの知識がない。だから会計学とコンピュータの分野のクロスしたフィールドはこなせる人がいないのが実情である。原価計算分野も同じである。経理や原価計算をコンピュータを使わないでやっている上場企業は皆無である。にもかかわらず現実離れした議論をしているのが学会の実情である。したがって、日本の会計学者や原価計算学者は実務がまったくできない。米国のこの分野の学者が企業と大学を行ったり来たりしているがこのようなことは日本では不可能である。
 余談である。あるとき、原価計算学会に入ろうと思い、事務局へ電話した。大学院で会計学関係を専攻していないと学会員にはなれないという。理論経済学で学位をもっているがだめかと念を押したが、入れてもらえなかった。莫迦な話しである(元一橋大学学長の増田先生の推薦をもらえば問題が解決しただろう。今頃気がついた)。一橋大学岡本清さんの原価計算論がこの20年来版を重ねている。その前は番場嘉一郎さんの原価計算が標準書だった。しかしこれらの原価計算にはコンピュータシステムの話しが一行もでてこない。番場さんの時代はしょうがない。しかし岡本さんの場合はコンピュータ時代の著作である。現実をまったく見ていないはっきりいって学者としてはぼろきれ同然である。学習指導要領のみを見て目の前の生徒の現実の学力を見ようとしない中学校の先生と同じである。しかし、一ツ橋には素晴らしい先生もいる。個人的に散っているのは、元学長であった西洋経済史の泰斗、増田四郎先生である。たった3人の授業で増田先生とリストの『国民経済学体系』を一年かけて読んだことがある。幸せな時間であった。増田先生の授業とお人柄については別稿で書こうと思う。専修大学の内田義彦先生も洞察の深い学者である。書かれた本にもそれが現れている。先生の書かれた岩波新書は油断のならない本である。たんなる入門書ではけっしてない。このお二人の先生は経済学者としては一流であると私は思う。
 米国会計学についても2冊本を読んだ。これはS社長が米国出張の折に買ってきてくれたものだ。どちらも700ページを超えるハードカバーである。1冊は今手元にある。"Management Accounting", (ISBN 0-201-15870-1)である。欧米50社の総代理店だったから、それぞれの会社から年次報告書が送られてくる。全部に目を通せる管理部に所属していたので、社内の予算や長期計画も米国基準で作成していた。会計情報システム関係では"Accounting Information System"という本が役に立った。この種の本はいまだに一冊も翻訳すらされていない。オラクル社のパッケージ説明会も役に立った。輸入商社に5年間いたお陰で国際通貨制度や外国為替について実務を含めてずいぶんと知識が増えた。これらすべての知識がまったく業種の違う臨床検査会社での仕事に生きてくる。マイクロ波や制御用コンピュータまで医療検査機器の理解に役に立った。こうした知識がないと原価計算すらいい加減なものになりかねない。
 
【防衛庁との関わり】
 S社は売上の60%が最終ユーザ防衛庁であるから、実質的には軍需製品を主力商品とする商社だった。もちろん防衛庁からの天下りも数人いた。最近問題になった守屋防衛事務次官の問題は、防衛庁の構造的な問題であり、防衛庁御用達の商社はどこも同じようなことをやっているはずである。私は防衛庁出身の取締役F氏や営業担当常務に可愛がってもらってので、いろいろ知っていることがある。陸軍中野学校出身者も顧問でいた。隣の席で一年ほど仕事をさせてもらい、戦時中の中国潜入体験など本人彼でなければ聞けない話を、昼食をご一緒しながら聞くことができた。機会があればそうした話しの一部を書くかもしれないが、80年前後のことでいささか旧聞に属する。しかし防衛庁との取引に関する構造は今でもかわらないと思う。防衛庁との取引はある操作によって利益率が高い。F取締役も、T特定営業部長も、在職中に亡くなっているので、もう書いても差し支えないだろう。当時課長のIさんはひょっとしたら在職している可能性があるので書かない。ソ連大使館から数人が社長を訪ねてきたことがある。カタログで良いから欲しいというのだ。もちろんミリタリー製品に関係のあるものである。こんなに公然と情報収集活動をするのかと驚いた。日本はスパイ天国である。

【すべての出発点はHP97】
 80年代初めころに輸入商社の「統合システム開発」を担当できたのも、大手臨床検査会社の統合システム開発を担うことができたのも、元はといえば進学塾の時代に目にした、あのキャリュキュレータ、HP97が出発点だった。

【統合システムの利益への影響】
 為替差損の出ない仕組み、常に為替差益が出る仕組みは20年以上たった今でも有効である。販売定価レートと仕入レートと決済レートを連動させ、為替予約と組み合わせることで為替リスクを回避しただけではなく、つねに為替差益が出るような仕組みを構築した。売上総利益率も28%から38%へとあげることができた仕事の仕組みを変えただけで、売上高40億円の企業で年間5億円近い利益が増えた。為替管理や納期管理システムを円定価表作成システムと連動させた。

【凄腕営業課長Eさん】
 この円定価表システムは、営業担当課長Eさんの手柄である。彼ほど凄腕の営業マンは見たことがない。彼にはこんな実績がある。T社から10年にわたって総額50億円の受注を獲得した。会社の年間売り上げを軽く上回る。会社はその当時売り上げ不振にあえいでおり、受注金額の1%を報奨金としてだしていたが、Eさんの桁外れの受注でやめてしまった。営業マンとしてすごいだけでなく、管理職としてもよく仕事を観察・分析していた。彼との仕事は楽しかった。独立しようと誘われたことがあった。一緒にやれば面白いベンチャー経営が経験できたかもしれない。しかし、担当している仕事があまりにも面白くて、会社を辞める気は起きなかった。型破りな性格が酒の飲み方にも現れていた。第3営業部長のSさんともよく飲んでいた。この人も味のある人だった。辞めた一月後くらいだったか、ある会社を紹介してくれる電話があった。そのときにはもう臨床検査会社へ転職が決まっていた。日商岩井から来ていた部長も転職先を紹介する連絡をくれたが、これもすでに決まっていたので意に添えなかった。実に、実に、人情味溢れる人たちが何人もいた。
 円定価システムと為替管理や納期管理を連動させた仕組みは営業課長Eさんの協力なしには不可能だっただろう。いくつかの企業を渡り歩いたが、営業ナンバーワンをあげろといわれればE課長である。
 彼とはよく酒を飲んだ。仕事が終わると誘いに来る。ちょっと、「30分だけ」という誘い方である。もちろん飲み始めると終電ぎりぎりになっている。何度か家へ帰れないこともあった。たまにだが、べろんべろんになって赤い顔で出社することがあった。朝まで自分の部下と飲んでいる。面倒見が良いのは確かであるが、酒も度外れて好きだった。上野の駅の中に「越乃寒梅」を飲ませる店があった。マグロの刺身とセット販売でコップ酒一杯が1000円だった。あの当時の越乃寒梅は旨かった。いまは別物というしかない。まったく味が違う。

【臨床検査会社と統合システム】
 Kさんが大手臨床検査会社の社長をしていたときに、原価計算システムを核に、予算管理システムを利益管理システムに作りかえれば利益が10%、60億円増える可能性のあることを話したことがある。Kさんは仕組みを変えただけで利益が出るはずがないと、経営者として常識的でもっともな判断を述べた。だからそれ以上わたしはこの件については彼には話さなかった。わからないのは無理もないと思ったからだ。千葉ラボの黒字化や過去にタッチした仕事を一つ一つ説明すればあるいは説得できたかも知れない。面倒くさかった。別に急いでやる必要もないとも感じていた。
 仕組みを変えることのうちには、もちろん生産ラインもまったくべつのものにする構想がある。常識的な仕事にはもともとあまり興味がない性質である。不可能とか誰もやったことのない仕事を好んでやってきた。「統合利益管理システム」はあらゆる部門の仕事のやり方が一変するので、実務設計が命である。練馬の子会社でやるつもりだった。200メートルに拡張しうるような100メートルの直線の生産ラインをもつラボをつくることが絶対要件だった。これができれば、、まず業界2位の会社を叩き潰し、吸収合併できる。そのあとに本社ラボを飲み込む、つまりグループ全体のラボの再編に先駆けて既成事実と、実績を作ってしまえば勝負はついたも同然となる。社長のMさんにはラボ建設構想だけを話し、なしくずしで本社ラボを呑み込んでやろうと、数十億円の稟議を起こす寸前に、本社へ呼び戻された。社長のkさん直々の命令で、特命委任を受けてのテイジンとの合弁会社への出向だった。

【赤字合弁会社の黒字化】
 赤字部門の合弁会社化だったから、これはこれで面白い仕事である。与えられたのは目標とその期限のみ、達成手段については全権委任ということで了解をもらった。K社長へ社内メールで頻繁に業務報告を行った。出向前に約束した仕事は約束の期限内に赤字会社の黒字化というおまけをつけて完了した。黒字化の仕事は応用生物統計の専門家のM君とシステムのK君、そしてシステムのW君に帰せられる。わたしは担当役員としてコーディネートしただけである。20億円弱の売上の会社で、この仕事だけで粗利益が年間2億円から3億円増えた。新たな分野の仕事を開発したので、その効果は10年間は続く。

【郡山の会社への出向、赤字会社の建て直し】
 同じことは93年ころだろうか、郡山の会社へ役員出向したときにもあった。染色体検査に係る件で、4億円前後(売上は25億円規模の会社)の利益を増やす具体案を本社にもっていった。事前に話して了解をもらっていた。こういうところは用意周到である。ここをミスしたらすべてが崩れる。副社長にはある件で貸しを作ってあった。一緒に行った役員が大きなミスをした。それにY副社長が一枚かむ寸前のところを止めた経緯があった。
 当時は創業者であるFさんが社長だった。Fさんと副社長のYさんを前において、持参した資料の説明を始めると、二人でそのような話しは初めてだという。事情がすぐに飲み込めたので、こちらの早とちりでしたと一言言っただけで、その案を没にした。
 当然わたしが猛然と反論することを予期していたはずで、二人は驚いた顔で、お互いの顔を見合わせていた。「なぜ反論しない、そのためにふたりで口裏は合わせたし、答えも用意してある」そんな表情だった。F社長とは八王子ラボにいたときに私の席の背中が社長室の壁だった。北陸のあるラボの買収でも役割分担をして一緒に仕事をした。米国V社の買収でも一緒だった。とくに郡山の会社の件では、交渉ごとがあって、二人っきりで日本合同ファイナンスへ出向いたことがある。F社長のことも人物氏シーズでいつか書くだろう。何せ、現役社長で会社を2社上場させた唯一の人物であり、まれにみる自己管理の徹底した人だからだ。本来は小児科医である。
 もって行った案を実行すると、子会社・関係会社十数社の中で業績が一番よくなってしまう。当然郡山の会社の社長はグループの中で大きな発言権を持つことになる。それが嫌だったのだろうと表情から即座に理解できた。本社を凌ぐ売上高経常利益率になる。試算によれば売上高経常利益率が15%を超える。そして私の利益に関する試算は常に固め、つまり最小値である。97%の確率でできると思ったことしか言わない。実績は必ずそれ以上に出る。本社も利益が増える。ある検査分野でそれまでも寡占状態なのに、圧倒的なシェアーを握ることになる。実行していればその分野の市場占有率は90%に達しただろう。

【統合システムは実務を一変させ、瞬時に赤字会社を黒字化する】
 赤字会社が仕組みを変えることであっというまに超優良の黒字会社へと変わってしまうことは現実の話である。いくつか経験があった。経験のないものには理解できないだろう。仕組みといっても、この郡山の会社の場合は染色低検査の自動化や、検査前処理作業手順に詳しくなければ構想のしようもない。たまたま必要なすべての知識が質の良い経験とともにそのときの私に揃っていたということである。染色体検査の自動化及び画像解析装置導入に購買機器担当としてタッチしたし、学術開発本部で沖縄米軍より要請のあった出世以前検査(それ自体は血液検査だが、確認検査に羊水染色体検査が関わりがあった)などの経験なしには不可能だっただろう。
 赤字会社を黒字にするには常に複数の専門分野についての知識と経験が必要となる。千葉ラボのシステム開発には関係会社管理部の千葉ラボ新システム開発担当としてタッチした。このシステムで赤字会社が黒字化した。千葉ラボは三井物産から買収した会社である。その黒字化に手こずっていた。40代で癌で亡くなった同僚のKaがわたしが常勤役員で担当すれば一年で黒字化できるだろうと当時話していた。千葉ラボの兼務社長はKaの推薦を拒否した。しかし、運命は数年後に私をこの仕事に就けた。Kaの予言したとおりの結果になった。ある社内の人間から「あの稟議書はあなたが書いたのでしょう。いままでシステム関係の稟議書は何を言っているのかわからなかったが、はじめたすっきりわかりやすい稟議書でした」と電話をもらった。稟議には新システムの機能の説明のほかに、導入後の損益シミュレーションが添付してあった。そして結果はシミュレーションを超えた。本稼動2ヵ月で月次決算レベルで黒字に転換したのである。

 話しは小さなプログラマブル・キャリュキュレータだった。国内最大手の臨床検査センターで沖縄米軍の依頼で出生前診断システム開発をしたときも、データ解析にこのキャリュキュレータが役に立った。カーブ・フィッテイング・プログラムが使えなければ出来ない仕事だった。慶応大学産科研究室との共同研究による出生前診断検査の日本標準値(MoM値)構築も不可能だった。このプロジェクトの成果はすべて慶応大学医学部に帰せられている。インターネットで検索すればでてくる。この仕事は学術営業のS君と生物統計のF君と学術開発本部の私がバックアップした。検体の提供と学会発表が慶応大学医学部の役割であった。社会的に意義のあるプロジェクトなので検査はすべて無料にした。3000万円以上かかったはずである。製薬メーカには研究成果であるデータを使用する許可を与え、その代わりに使用する試薬をただで提供してもらった。
 関係会社の経営分析にもパソコンの性能が向上するまで、この計算機は役に立った。15年以上前にEXCELに載せ替えた。開発してからほぼ30年経つが、レーダチャートと総合偏差値評価による経営分析は、いまでも最先端の分析手法である。基本統計量と簿記や経営に関する専門知識があれば誰にでも考え付く簡単な方法である。しかしこれら異なる分野の専門知識を合わせもつ者がほとんど存在しないのもわが国の現状ではないだろうか。HP97はわたしの仕事の幅を大きく広げる契機になった懐かしい計算機である。


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