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ユークリッド原論と二人のN君 [A8. つれづれなるままに…]

 2,007年12月19日   ebisu-blog#028
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【ユークリッド原論】
 『原論』を購入したのは70年代の後半だった。いまは絶版になっている。世田谷区代沢のNM君に数学への好奇心を掻きたてたくて購入したものだ。アマゾンドットコムでいまみると、古書扱いで4万円近い値段がついている。良書が絶版になり、手に入りにくくなるのは残念なことだ。
 k中学3年生のNK君(簿記3級合格者)から、市立図書館に行って探したがなかった、学校帰りに寄るから読ませて欲しいとの申し出があった。どういうわけか世田谷のN君と根室のN君、同姓である。そして同じ本を読んでいる。日本中を探してもユークリッド『原論』を読んでいる中学生はほとんどいないだろう。本そのものが絶版になってしまっており、手に入らない。不思議なもので読むべき人間に奇跡的な確率で読むべき本が廻ってくる。神の御業、天の采配、などという言葉で形容するしかないではないか。運命を感じるのは私だけだろうか。NK君は一昨日、第48章の三平方の定理まで読んでいた。今日まただいぶ読み進んだ。好奇心の旺盛な、ユニークな中学生へと変容しつつある
 東京のNM君は、小学校4年から北里大学医学部へ合格するまで、ある事情があってご両親から強く頼まれて進学塾講師をやめた後も個人的に教えた生徒である。塾をやめるときに他にももう一人強い依頼のあった生徒がいた。今でも苗字は覚えている。こちらは国会議員秘書の娘であったが、NM君を優先しなければならなかったので、手が廻らない、そういうわけでお断りした。
 NM君は、数学を私が、英語は早稲田大学大学院哲学研究科のE*さんのコンビで教えていた。かれは学部時代に根室へ来て駅前のニューモンでエスカロップを食べたことがあると言っていた。世の中狭いものだとあの時思った。学部を卒業して数年仕事をしてから大学院へというコースは私と共通する。
 彼も面白い仲間の一人である。哲学の勉強をするのに、ラテン語やギリシャ語から始めていた。理屈はわかるが、そこまで遡って徹底する男も珍しい。荻窪の古い一軒家に細君と男の子と住んでいた。NM君と招待されて鎌倉の彼の家へ遊びに行った事がある。門から家が見えなかった。戦後、進駐軍の高官の邸宅として建てられ、その後ロッキード事件で国会で証人尋問された小佐野賢治の別荘であったらしい。小佐野は田中角栄の盟友である。広い車庫には外車が2台と国産車が1台並んでいた。そのようなお坊ちゃんなところは微塵も見せない奴だった。気取りがまったくなかった。親の後を継いで会社を経営するつもりはまったくない。どうも私の周りにはこういう一風変わった間がところどころで現れ、気があってしまう。千葉県庁の医療行政トップのK氏もそうしたうちの一人かもしれない。学部時代には学校の帰り道、新宿・池袋でディスクジョッキーのある喫茶店で暇を潰したなかに新井君というのがいた。あの頃はドック・オブ・ザ・ベイという曲がはやっていた。大学2年のときに考えられないことが続き、2度にわたり、数十億円の資産を相続することになった。数奇な運命を歩んだその男のエピソードも、そのうちに書くことがあるかもしれない。
 ひとつだけ紹介しておこう。あるときこんな事を私に言った。「○○、このごろ回りの皆がおかしいんだ。いままで話したこともなかった奴らが友達面して近寄ってくる。口の利き方まで違うんだ。変わらないのは○○だけだ」。金が人を引き寄せるのであって、自分本来の力とは別の力であることだけははっきり意識していた。財界人の集まりの俳句の会に入って、いつもできの悪い句をひねっていた。無理もない。にわかに俳句の創作をはじめたばかりで、季語すらよくわからなかったのだから。すこしは上達したかな?埼玉銀行に就職したところまでは知っているが、その後の付き合いはない。懐かしい友人の一人である。

 まあ、とにかく、こうして同じ苗字のN君二人が23年の時を隔てて同じユークリッド『原論』を読んでいる。 さて、啓雲中学のN君はどういう進路へ進むことになるのだろう。この本を読んだ生徒は何かが変わる予感がする

 話しはまたちょっと飛躍する。一つの体系として完全に記述された学は数学しかない。ついで経済学が体系化された学問として2番目にあげられるかもしれない。フロイト心理学もいくぶんか体系的構造をもってはいるが、違う。ユークリッド原論とマルクス『資本論』を比べてみると面白い。マルクスは学の端緒を抽象的人間労働に置いた。体系の公理公準である。じつはここに欧州経済学=古典派経済学の落とし穴がある。古典派経済学の労働は農奴の労働を基礎においており、世界的な普遍性がないのである。人間疎外は工場労働者の労働が農奴の労働にその淵源をもつことから生じる。古典派経済学の「労働」概念は農奴の労働に端を発して工場労働者の労働に至る。日本にはヨーロッパ的な意味での農奴は存在しない。農民にはかなりの自治が許容され、たとえば里山は村落の共同管理になっていた。
 日本人の労働は農奴の労働とはまったく別物である。たとえば、刀鍛冶の仕事は古典派経済学的な「労働」とは言えない。名人の仕事は農奴の労働や工場労働者の労働には還元できない。つまり、単純労働と時間の関数としては定義できない種類のものである。文化的にも日本には通用せざる概念である。この学(問体系)の端緒を入れ替えるとまったく別の経済学体系が出来上がる。このことに気がついている経済学者はまだ世界中に誰一人としていないだろう。学問研究には鋭い感性と問題意識のユニークさが重用である。ベストセラー「国家の品格」の著者である数学者の藤原正彦さんはそれを「日本的情緒」という言葉で表現している。
 ヒルベルトの『幾何学基礎論』リーマンの『幾何学の基礎をなす假説』も興味があればN君に読ませたい本だ。

 中学から高校時代は、自分の意識や努力次第ではあるが、吸収力が人生の中で一番巨大になるときかもしれない。そういうときに質の良い古典と格闘すべきだ。N君はどの分野に進むことになるのか予測がつかないが、どの分野を選択しても群を抜くポテンシャルをいま養うべきだ。長い人生のうちで、いましかないだろう。各校に少なくとも1学年5人はポテンシャルの高い優秀な生徒がいる。たかが個人がやること、たいしたことは出来ないし、教える人数もごく小数だけに限られる
 根室の町はピンチだ。近い未来の破綻は避けようもなくなってしまった。どのような手を打とうが、もう間に合わないところにまで来てしまった。「根室市の財政と教育の現状」ebisu-blog#016で書いたように、市の財政破綻による衰退は、運命として受け入れるしかないだろう。しかし、30年後の根室の未来を変える可能性をもつ優秀な生徒たちの潜在的能力の開放はできるかもしれない。50歳を超えての根室への帰還は「天の采配」の一つだろう。ただひたすら自分の使命を果たすのみ。

 ニムオロ塾は面白い塾だ! 

[注]* googleでEさんを検索してみた。『図説 古代ローマの戦い』、『メディチ家の盛衰』、『オリバーストーン』などの翻訳を手がけている。どうやら翻訳家として活躍しているらしい。そちらのほうの才能を活かしたのか。どの本も分厚く彼らしい選択だ。なつかしき時代に乾杯!
 


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