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#3438 フェルマーの最終定理と経済学(2):不完全性定理と経済学 Oct. 18, 2016 [97. 21世紀の経済社会 理論と理念と展望]

 数学ですでに判明している事柄、今回はゲーデルの不完全性定理を利用して、新しい経済学をチェックしてみます。
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  1931年、ゲーデルは『「プリンキピア・マテマティカ」および関連する諸体系における形式的に決定不可能な諸命題について』と題する本を出版した。この本の中に、いわゆる不完全性定理が含まれていたのである。この定理のニュ-スがアメリカに届いたとき、偉大な数学者のジョン・フォン・ノイマンはヒルベルト・プログラムに関する講義を急遽とりやめ、残りの講義をゲーデルの革命的な研究の議論にあてたのだった。
 ゲーデルが証明したのは、完全で無矛盾な数学体系を作るのは不可能だということだった。彼のアイディアは簡潔な二つの命題として表すことができる。

 第一不完全定理
 公理的集合論が無矛盾ならば、証明することも反証することもできない定理が存在する

 第二不完全定理
 公理的集合論の無矛盾性を証明する構成的手続きは存在しない

 ゲーデルの第一不完全性定理が述べているのは、要するに、公理の集合としてどんなものを使うとも、数学には答えることのできない問題が存在するということだ。完全性は決して達成できないのである。これに追い討ちをかけるように、第二不完全性定理はこう述べる。公理の集合として選んだものが矛盾をもたらさないと確信することは決してできない。つまり、無矛盾性は決して証明されないということだ。ゲーデルは、ヒルベルト・プログラムは遂行不可能だということを示したのである。
  『フェルマーの最終定理』p.184
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 経済学の公理として、とりあえず4項目を取り上げましたが、演繹的体系がそれでできあがったとしても、答えることのできない問題が存在するようです。そしてこの四項目の公理の無矛盾性は証明できないということが、数学の不完全性定理から言いうるようです。無矛盾性が本来証明不可能であれば、論理上矛盾がみつからないというあたりで十分と考えましょう。調べた限りで矛盾がないということは、無限に調べていったら矛盾があるかもしれない可能性を含んでいます。論理的な問題で、不可能がはっきりしているのですから、VRで職人主義経済社会を構想する作業では調べた限りで矛盾がなければ良しとします。気が楽になりました。

 やれるところまでやってみてから考えよということでいまのところは十分です。矛盾が出たら当初の4公理に戻って考えればよい、そして矛盾のない演繹体系が叙述できたとしても、ほんとうに矛盾がないかどうかは原理的に証明不可能だということです。
  矛盾の無いことがあらかじめ証明することができなくても、もし矛盾が存在すれば、実行に移した段階で明らかになりますから、その時点であたふたしながら考え、対処したらいいのです。

 そこで、公理を一歩進めて、思いつく仮定やアイデアを並べて、それらに矛盾がないかチェックして整理してみます。12項目挙げてみました。

 ●職人仕事が半分、人工知能のやる作業が半分という経済社会を想定します。
 ●商品生産社会であることは疑いがなさそうです。
 ●売っても減らないデジタル商品が消費の半分を占めていると仮定します。
 ●自国で消費するものは原則として国内生産、生産拠点と正規雇用の職を確保します。
 ●国内生産不可能なものだけ輸入します。ここからいえるのは国内産業を保護育成するための強い管理貿易制度の導入です。江戸時代の「鎖国」をイメージしてもらえばいいのではないかと思いますが、人の移動が自由であることが異なります。
 ●国内の土地の外国資本による新たな所有を禁じます。土地値下がり要因になるでしょう。
 ●所得格差や貧困の解消のために、トマ・ピケティの一定以上の財産保有へ累進的な財産税を課します。国内に大資本が存在しなくなるような過激な財産税はまずいのでほどほど。
 ●大資本が参入できる業種あるいはそのシェアーを制限します。健全な市場競争の確保が目的です。国際市場での競争は管理貿易で規制しますが、国内市場での国内企業同士の競争条件は整備します。
 ●国内企業株の外人投資比率を1/3以下に制限します。
 ●人工知能の利用について何らかの制限が必要になりますが、どういう基準を導入すればよいのかがわかりません。衆智を集めて議論するしかありません。
  ●知的財産権の制限:
  特許権と著作権の制限。特許権は30年が目安、大きな特許に関しては名誉や代償を考える。著作権の制限は新聞やテレビニュース報道が対象。これれは作業量が大きいのでワークショップ形式での作業が必要と考える。
 ●株式会社の社員持株会の持ち株比率に企業規模ごとのガイドラインを設定します。目安は中小企業は1/3、大企業は1/5。企業をそこで仕事をする人たちの手に取り戻すためです。

 作業手順をもう一度確認します。これら12項目の仮定を、当初の四つの公理と矛盾がないかをチェック、そしてその後、ここにリストアップした12項目相互に矛盾がないかチェックします。矛盾があるとすれば、何が矛盾するのか細部を詰めます。こうして篩(ふるい)にかけて残った仮定が元の4公理のどれに所属するのか、あるいはどの公理の派生物なのかを判定します。その後、それぞれ3-5項目ぐらいの具体的な仮定に拡大して、同じ作業を繰り返してみます。四つの公理の妥当性もこうした作業の繰り返しでチェックできます。必要な編集(追加・削除)を行えばよい。
 お気づきでしょう、単純なものから複雑なものへというデカルトの科学の方法「四つの規則」の第3番目の援用です。確認しておきましょう。

 以下は「資本論と21世紀の経済学 3097-1」からの引用です。
**********************************
 『経済学批判要綱』(以下『要綱』と略記)流通過程分析や商品分析は「下向の旅」であり、『資本論』が商品の概念規定から始めるのは「上向の旅」である。これはデカルト『方法序説』1637年)にある「科学の方法 四つの規則」にあるものと同じだけでなく、数学書であるユークリッド『原論』とも方法論において同じものである。集合論をベースにした現代数学の体系化の試みである『ブルバキ 数学原論』(東京図書)も、『資本論』と共に公理的構成の厳密な演繹的体系構造をもつ。
 
デカルト「科学の方法 四つの規則」には次のような解説がある。

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デカルト『方法序説』ワイド版岩波文庫 「科学の方法 四つの規則」27ページ~
 
まだ若かった頃(ラ・フレーシュ学院時代)、哲学の諸部門のうちでは論理学を、数学のうちでは幾何学者の解析と代数学を、少し熱心に学んだ。しかし、それらを検討して次のことに気がついた。まず論理学は、その三段論法も他の大部分の教則も、未知のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つばかりだ。…以上の理由でわたしはこの三つの学問(代数学、幾何学、論理学)の学問の長所を含みながら、その欠点を免れている何か他の方法を探究しなければ、と考えた。法律の数がやたらに多いと、しばしば悪徳に口実を与えるので、国家は、ごくわずかの法律が遵守されるときのほうがすっとよく統治される。同じように、論理学を構成しているおびただしい規則の代わりに、一度たりともそれから外れまいという堅い不変の決心をするなら、次の四つの規則で十分だと信じた
 
第一は、わたしが明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は何もわたしの判断の中に含めないこと。
 
第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分別すること。
 
第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識まで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定しえ進むこと。
 
そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。
 
きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も完成する。それはわたしたちに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなにはなれたものでも発見できる、と。それに、どれから始めるべきかを探すのに、わたしはたいして苦労しなかった。もっとも単純で、もっとも認識しやすいものから始めるべきだとすでに知っていたからだ。そしてそれまで学問で真理を探究してきたすべての人々のうちで、何らかの証明(つまり、いくつかの確実で明証的な論拠)を見出したのは数学者だけであったことを考えて、わたしはこれらの数学者が検討したのと同じ問題から始めるべきだと少しも疑わなかった
*重要な語と文章は、要点を見やすくするため四角い枠で囲むかアンダーラインを引いた。
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デカルトが「三つの学問(代数学、幾何学、論理学)」といっているが、歴史的順序に従えば「論理学、幾何学、代数学」である。アリストテレス論理学とユークリッド幾何学、ディオファントス代数学(『算術』)を指していると見ていいのだろう。デカルト自身が『幾何学』を著しているが、これは解析幾何学(曲線や立体のいろいろな性質を代数記号を用いて座標系を導入して研究する分野、中学・高校で習う座標平面のこと。XYZ座標をデカルト座標という)である。『方法序説』訳注#8で確認したが、やはり論理学はアリストテレス論理学。これには弁証法も含まれるが、ソクラテスの「弁証法」であって、弁論術であり、ヘーゲルのそれとは異なる。デカルトは解析幾何学や哲学や論理学の研究をした上で、『方法序説』で自分の方法論を振り返って記述している。科学の方法とは何かということを、『幾何学』を書いた後で帰納的に考えているのである、はじめに方法論ありきではない。

**********************************

 マルクスは資本家的生産様式の経済社会の分析には、「下向の旅」(第一の規則と第二の規則)と「上向の旅」(第三の規則と最後(第四)の規則)をするのですが、共産主義社会の分析はしていません。理念を述べただけでした。だから、根本的な欠陥に気づくことがなかったのです。わたしたちはマルクスの轍を踏まぬようにちゃんとした作業手順でやってみます。
 科学の方法の「四つの規則」の3番目を使うと何が見えてくるのでしょう?世界で初めての大冒険というのに、なんだかスラスラ行き過ぎです。きっとどこかでまとめて大きな障害にでくわすのでしょう、楽しみにしていてください。山も谷もありますから退屈な旅にはなりません。


*資本論と21世紀の経済学 3097-1 ↓
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-08-02-2

*#3436 フェルマーの最終定理と経済学(序):数遊び  Oct. 13, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-10-12-1

 #3437 フェルマーの最終定理と経済学(1):純粋科学と経験科学 Oct. 15, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-10-15


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#3437 フェルマーの最終定理と経済学(1):純粋科学と経験科学 Oct. 15, 2016 [97. 21世紀の経済社会 理論と理念と展望]

〈 問題関心の中心 〉
 最初に、わたしの問題関心がどこにあるのか簡単に説明しておきます。経済学と数学の体系の類似に気がついたのは20代のころでした。そのあとマルクス『資本論』を超えるにはどうすればいいのか、折に触れて考えを深めてきました。奴隷労働に淵源をもつ西欧経済学は(工場)労働からの解放が究極の目標ですが、日本人の仕事観はまったく別物です。古事記の世界では神々すらも仕事をもっていますから、やるべき能力と意思があるのにやるべき仕事がないというのは、日本人にとってはコミュニティからの疎外そのものです。
  日本人の職人仕事観に基づく経済学は叙述可能なのか、あるいはそういう経済社会をどうやったら創造できるのかというのが問題関心の中心です。それは特殊日本的な経済社会でありながら、普遍性を獲得します。水が高いところから低いところに流れるようにです。結果として、グローバリズムに終止符を打つことになります。

〈 経済学の誕生とその時代背景、そして時代状況のズレ 〉
 18世紀に生まれた経済学は、機械を用いることで生産力の飛躍的拡大による消費拡大と人口増大、そして植民地の拡大を背景として生まれたものです。
 ところが、いま日本では縄文時代以来1.2万年の歴史で初めての人口縮小時代を迎えています。生産力も消費も縮小し始めています。そういう時代変化に対応して経済学も異なるものが出現しなければならないと考えます。

 日本的職人仕事観を公理に措定するとまったく別の経済学が創造できることがすでにわかっています。そのうえで、拡大再生産や経済成長の否定、環境との調和や人口減少を前提にした経済学が構築可能かどうかという問題があります。欲望の際限のない拡大をベースにした資本主義経済から小欲知足の職人仕事観に基づく経済学の創造、それが理論的にどうであるのか、現実に建設可能なものかどうか、数学的にどのあたりまでチェックが可能なのかよくわかりませんが、チャレンジしてみたいのです。

〈 学の体系構成と公理について 〉
 原理的な話からはじめましょう。数学も経済学(本稿では体系構成を問題にするときに経済学とはマルクス『資本論』を指します)もその体系は演繹的体系で共通項があります。ただその概念の拡張の仕方には違いを認めます。場の拡張がなされることで、基本的な経済学の概念が抽象的なものから次第に具体性と現実性を帯びていきます。前の定理を前提にして次の定理が生み出されるのと類似しています。

 数学が純粋科学であるのに対して、経済学は経験科学ですから、現実にない経済社会について叙述するのは原理的に無理があります。だから、新しい経済学はVR(バーチャルリアリティ)として記述するしかありません。VRの世界で論理的に破綻がなければ、それをRの世界へ移すという選択肢が生まれます。

 ところで、公理的体系構成の出発点はいくつかの公理です。既存の経済学の公理の析出はカテゴリー「資本論と21世紀の経済学」に譲ります。結論だけ書くと、西欧の経済学は工場労働をその基礎においています。その淵源は奴隷労働ですから、労働からの解放が経済学の目的でした。マルクスとエンゲルスはそういう文脈で『共産党宣言』を書きました。だから、『資本論』と『共産党宣言』は車の両輪です。シャーシが唯物史観=階級闘争史観でしょう。西欧の価値観では労働は否定されるべきものです。そこを支えているのは西欧的な情緒でしょう。苦役からの解放という情緒は現代の日本人でも理解できます。
 ところが19世紀の生産力では、共産主義が実現できても労働者階級が労働から解放されることはありませんでした。飛躍的に増大したとはいえ、生産力がまだひとつの国家の国民を丸ごと労働から解放するだけに足る生産力は実現していませんでした、共産主義や社会主義を標榜しても、労働者階級はそのまま労働者であり続け、資本家にインテリが取って代わっただけです。共産主義は生産力を考えると、空想に過ぎませんでした。

 さて、公理に日本的仕事観を措定したとして、どのような経済学をVRとして叙述できるのかという問題のほかに、拡大再生産や経済成長の否定と環境への調和という条項を公理として措定できるかという問題があります。いくつかの公理を選択することで、理想とする経済社会をデザインすることになります。公理をデザインする作業は遺伝子操作に似ていますから、おそらくそれだけでは終わらない。酵素として蛋白質の分子レベルの働きも重要ですから、おそらく同種の問題が新しい経済学でも出てくるはず。大まかな「実務設計」や戦略が必要になるでしょう。PERT chart の概要を描くことができれば合格です。

 話をあまり拡大してもいけませんので、公理を4つ措定して議論を進めてみます。検討していく中で矛盾が生じたらり必要が出たら、公理の削除あるいは追加を試みます。何しろ誰もやったことのない作業ですから、試行錯誤になることはやむを得ません。

(1)日本的職人仕事観
(2)人口縮小
(3)環境との調和
(4)小欲知足
(5)適正利潤(「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」)...この条は2021年11月26日追記。物理学者夏目雄平先生とFBでGAFAについて議論していて気がつきました。

 ここから話はフェルマーの最終定理の証明の跡をしばらくたどることになりますが、たどっているうちに経済学との接点が点々と出てきます、しばらくご辛抱ください。
 公理の説明が『フェルマーの最終定理』p.175に載っています。
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 数学者たちは古代ギリシャの昔から、定理や真理を一つ一つ積み上げてきた。そのほとんどは厳密に証明されていたが、三分法則などいくつかのものはしかるべく吟味されないまま利用されていたのである。いくつかの概念などは数学界の民間伝承のようになってしまい、かつてどのように証明されたのかを知るものはいなかった--- 一度は証明されたとしてだが。そこで論理学者は、すべての定理を第一原理から証明してみることにしたのだった。とはいえ、すべての真理は他の真理から演繹されなければならない。その真理もまた、もっと基本的な真理から証明されなければならない。このプロセスを繰り返すうちに、あまりにも基本的過ぎるため証明できない命題に行き着いた。それが数学における公理である。
 公理の一例として、"加法の交換法則"を見てみよう。交換法則は、mとnとを任意の数として、
   m+n=n+m
 であると述べている。この交換法則を含むいくつかの公理が自明とみなされ、具体的に数を代入してみれば実際に成り立つことは容易に確かめられる。これまでのところ、公理はあらゆるテストを乗り越え、数学の土台として受け入れられてきた。ところが数理論理学者は、公理から出発して数学をもういっぺんはじめから組み立てなおすという仕事に取り掛かったのである。算術の公理と、そこから出発して数理論理学者がどのように数学を再構築したかを補遺8に示す。
 最小限の公理から出発して、とてつもなく複雑な知識体系をまるごと再構築するというのは、時間のかかる、骨の折れる仕事である。このたいへんな作業に大勢の論理学者が参加した。
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 ユークリッド『原論』の公理は幾何学の公理ですから算術公理とは別物です。『原論』の公理・公準については「資本論と21世紀の経済学」で論じましたから、それもここに並べてみましょう。

 体系構成で最も重要な公理・公準はユークリッド『原論』では次のようになっています。


公準(要請) 次のことが要請されているとせよ。
1.       任意の点から任意の点へ直線を引くこと。
2.       および有限直線を連続して一直線に延長すること。
3.       および任意の点と距離(半径)とをもって円を描くこと。
4.       およびすべての直角は互いに等しいこと。
5.       および1直線が2直線に交わり同じ側の内角の和を2直角より小さくするならば、この2直線は限りなく延長されると2直角より小さい角のある側において交わること。 

公理(共通概念)
1.同じものに等しいものはまた互いに等しい。
2.また等しいものに等しいものが加えられれば、全体は等しい。
3.また等しいものから等しいものがひかれれば、残りは等しい。
4.また不等なものに等しいものが加えられれば全体は不等である。
5.また同じものの2倍は等しい。
6.またおなじものの半分は互いに等しい。
7.また互いに重なり合うものは互いに等しい。
8.また全体は部分より大きい。
9.また2線分は面積を囲まない。

                                   同書2頁より




 同じく学の出発点ではありますが、数学の公理と経済学の公理にはなにか大きな違和感があります。純粋科学の公理と経験科学の公理はもともと異質なものであるのかもしれません。この点について別途取り上げる必要を感じます。でも、ちょっとだけ書いておきます。マルクスが分析したのは目の前にある19世紀の資本家的生産様式の経済社会であって、共産主義の経済社会ではありませんでした。経済学は経験科学ですから、これから来る経済社会を記述することは不可能だったわけです。共産主義社会に関しては理念を述べるだけしか手段がありませんでした。人類全部を労働から解放するだけの生産力を人類が手にするのは、二百数十年後のことになるので、絵に描いた餅=幻想に過ぎませんでした。社会思想家のサン・シモンを空想的社会主義者と批判しましたが、マルクスもまた別の意味で「空想的共産主義者」だったのです。
 ここには原理的な問題があります、未来に来る経済社会を経験科学としての経済学は叙述できないという問題です。言い換えると、そういうことをするためにはどういうツールあるいは学問がありうるかという問題です。この問題は、とりあえず、ここでは保留しておきます。
 これを読んでいる皆さんは世界で初めての議論に立ち会っています、書いているわたしもなんだかとっても面白そうでわくわくしてきました。先は見えませんが、一つ目のドアを開け、真っ暗闇の中を歩き始めたことだけは慥かなようですから、躓いて何度も転ぶでしょう。(笑)

 さて、学の出発点としてわたしが措定した4つの公理は、すべて日本的情緒に基づくものです。したがって、そこから生み出される新しい経済学は日本的情緒というオーラをまとった経済学ということになるでしょう。それが全人類に普遍性をもつか否かを検討するのはずっと後になります。叙述を進めていけば自然に答えが出るはずです。
 
〈 厄介な問題の出現 〉
 人工知能が2040年ころに人間の知能を超えます。人工知能の性能は指数関数的に向上するので、このままでは百年以内に人間は働く必要がなくなります。マルクスが願った全人類を労働から解放するということが現実問題に変わります。それが人類にとって幸福をもたらすものか、絶滅という災厄をもたらすものかを見極め、対応しなければなりません。人工知能はいずれ自己を再設計して人間の手を借りずに性能向上を自動的にやり遂げます。そうなったら、人間のコントロールを離れ、人工知能は「神」のごとき存在となるでしょう。絶対的な平和は人類の絶滅のよって訪れます、人工知能がそういう選択をしないという保証があるのでしょうか?いいえ、どこにもありません。ディープラーニングで、たくさんの書籍を入力・学習した人工知能が、ナチスのごとき発言をして実験計画が取りやめになりました。まもなく人類がいままでに積み上げてきた文字情報や画像・映像情報がデジタル情報に変換されてネット上に存在することになるので、人工知能がすべてを読み込み学習し、自分で物事を判断するようになります。どういう価値観を創りあげて、判断を下すのか人間には皆目見当がつきません。
 別の現実的な懸念もあります。汎用人工知能の量産・普及で失業が増大し、人類は急激な人口縮小に追い込まれますから、新しい経済社会の創造は時間とのシビアな戦いを強いられます。

 いくつかのプログラムが連動して動くことで、予測を超えた結果が出た例が、『フェルマーの最終定理』p.363に出てきます。
 チェスのソフトが世界チャンピオンを負かし、将棋ソフトが羽生善治七冠王を破るようなことが既に起きています。
 2040年頃には汎用人工知能が出現して、人間の知能全般を超える存在となります。量産によって急激なコストダウンが起き、マルクスの共産主義が夢物語ではなくなります、限りなく1に近い確率で「悪夢」となるでしょう。著名な宇宙物理学者のホーキング博士も人工知能の未来が人類を絶滅に追い込む可能性を懸念しています。

< まとめ-1 >
a-1:18世紀に成立した経済学は、蒸気機関による生産力の増大、人口増大、消費増大、拡大再生産、経済成長を前提として発展してきた。その後、電気の発明やコンピュータの普及、通信交通手段の発達で経済は様変わりした。商品についてもコピーしても劣化しないデジタル商品が現れた。デジタル商品は経済のありようを根底から変えてしまう可能性を秘めている。

a-2:21世紀の日本経済の現実は人口減少、生産力の維持、経済縮小であるが、それにふさわしい経済学が生まれていない。

a-3:数学が純粋科学であるのに対して、経済学は経験科学であるから、来るべき経済社会について、既存の経済学は無力である。

a-4:数学も経済学も演繹的体系であると仮定すると、その根底にあるのは公理である。純粋科学の公理は定理相互の関係によって論理的に決まるり、既存の経済を対象にした経済学も基本的な経済学的諸概念相互の関係で論理的に公理を決めることができる。しかし、未来に来るべき経済社会については、それをデザインするという観点から、いくつかの公理を情緒で選択することになるだろう。

a-5:マルクスが分析したのは19世紀の経済社会であり、共産主義経済社会ではなかった。労働=苦役からの人類の解放という彼の情緒は同時に西欧に共通した価値観に基づいている。工場労働の淵源は奴隷労働にある。人類全体を労働から解放するような生産力も方法も19世紀には夢想すらできなかったが、いまは数十年後にそれを夢見ることが可能である。人工知能の発達がそれを可能にするだろう。それは最小限に見積もっても、大量の失業を生み出すことで、人口の急激な縮小を世界規模で引き起こす。そして人類絶滅の強い懸念も生じさせることになる。

a-6:日本的情緒に基づき、公理を4つ選択した。
(1)日本的職人仕事観
(2)人口縮小
(3)環境との調和
(4)小欲知足

a-7:来るべき経済社会をデザインし、それを経済学体系として叙述できるかという問題が浮かび上がった。きわめて原理的な問題なので、これについては『フェルマーの最終定理』を手がかりに、論及を進めることになる。

a-8:叙述可能として、VRの世界の経済社会を分析するのか、VRの世界で目標とする経済社会を実現するにはどのような戦略がありうるのか、シミュレーションをしてみることができそうです。デザインしたVRの経済社会あるいは経済学に論理的な破綻のないことと、実現可能性の問題があります。
 VRといっても、それは脳内に限定した話ですから、目で見ることも指で触ることもできません。百年後の人工知能接続型ゲーム機ではそういう大掛かりな社会実験がVRの世界で可能になるのでしょう。まるでSAO(ソードアート・オンライン)の世界です。

a-9:人工知能の指数関数的な進化が人類を絶滅の危機に陥れる。これを防ぐには飽くことのない便利さの追求やや際限のない欲望の追求にブレーキとなる価値観やそれに対応する安全な経済学が必要となる。現在の経済学は人工知能の進化を加速し人類の存在を脅かすことになる。

 いまやれることは、モジュラー形式の問題を楕円方程式の問題に還元して解決する、あるいはその逆のようなことです。数学と経済学では世界中で誰もやったことがないのですから、うまくいく保障はいまのところまったくありません、だから楽しい。
 うまくいくことがはっきりしている仕事は魅力がありません。いつかは誰かがやることになりますが、わたしでありたい。(笑)


*#3436 フェルマーの最終定理と経済学(序):数遊び  Oct. 13, 2016
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*資本論と21世紀の経済学 3097-1 ↓
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フェルマーの最終定理―ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで

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フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

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#3436 フェルマーの最終定理と経済学(序):数遊び  Oct. 13, 2016 [97. 21世紀の経済社会 理論と理念と展望]

 「1~100までに素数はいくつありますか」とか、「1~100までの数字を書いたカードがあります。素数のカードを引く確率を求めなさい」、こういう問題を中3や中2に出題したら、いったい何割の生徒が正解するか試してみたい気がします。こういう遊びをふだんしている生徒はとっても少ないように感じています。いくつあるのか数えてみてください。わたしはおっちょこちょいですから、1個くらい見落とす可能性があります。あなたは大丈夫ですか?

 さて、百までの素数(1と自分自身以外に約数のない数で、1は除く)を並べてみました。

 2=1+1
 3=1+2
 5=2+3
 7=3+4
 11=5+6
 13=6+7
 17=8+9
 19=9+10
 23=11+12
 29=14+15
 31=15+16
 37=18+19
 41=20+21
 43=21+22
 47=23+24
 53=26+27
 59=29+30
 61=30+31
 67=33+34
 71=35+36
 73=36+37
 79=39+40
 83=41+42
 89=44+45
 91=45+46
 97=48+49
 ・・・・・

 あれ、26個ありますね、百までの自然数の中に素数は25個しかありません。1個だけ素数でないものが混じっていますから、見つけてください。(10/14午後5時半追記)

 百までの素数を並べてみたら、2以外の素数は連続する自然数の和で表せることがわかります。それでは、すべての素数が連続する自然数の和で表せるでしょうか? (⇒中2レベルの証明問題)

 数字は面白い。秘密がいっぱい隠されています。藤原正彦・小川洋子共著『世にも美しい数学入門』p.131には素数に関する「ゴールドバッハの問題」というのが載っています。「6以上の偶数はすべて二つの素数の和で表せる」というものです。

 6=3+3
  8=3+5
 10=3+7
 12=5+7
 14=7+7=3+11
 ・・・
 美しいでしょ!
 暇があったら100までの偶数を書き出して、やってみたらいかが?一番最後の偶数は100ですが、次のように書けます。
 100=2+3+5+7+11+13+17+19+23
       =3+97=11+89=17+83=19+91=29+71=41+59=47+53

  100だけでも何通りに書き分けられるのでしょう。項数が一番多いのは9項、和で表すので一番少ないのは2項です。8項では何通りの書き分けがあり、7項では、6項では、・・・、2項では7通り、こういう退屈しのぎを日がな一日やっていたらきっと惚(ぼ)けません。(笑)

 この本にはさまざまな数が解説してあります、「友愛数」や「完全数」というのもあります。220と284が友愛数です。自分自身を除いた約数の合計が相互に相手の数になるのが「友愛数」です。では、220と284の次に現れる友愛数はいくつといくつでしょう。
 名前を横に並べて書いたら、縦に読んでもお互いの名前になる、そういう組み合わせもありますが、これはなんと名づけたらよいのでしょう、「友愛ネーム」、そういう偶然にある日気がついたら赤い糸でつながっているような気がしませんか。実際には頻度が大きそうです。2文字の名前でお尻の一字と頭の一字が共通ならそうなります。
 「友愛ネーム」なんてことは書いてありませんが、数字に関する謎が盛りだくさんです、興味がわいたら本を買って読んでください。地域活性化のために地元の本屋さんを利用しましょう。
 

  最初はここまでのつもりでした。ところがひょんなことに気がつき、タイトルも替えました。ものは序(つい)でと申しますから、次回は「フェルマーの最終定理」と経済学を取り上げます。まったく関係がなさそうですが、接点は見つかるでしょうか?

 フェルマーの最終定理を説明しておきましょう。

 x^n + y^n = z^n

  n=2 のときはピタゴラスの定理だから、整数解のあることがわかります。フェルマーもここから始めました。
 (3, 4, 5)、(5, 12, 13)、(8,15,17), (9,12,15), (12,16,20)... 
 どうやら無限にありそうです。

 では、n=3のときは?n=4のときは、n=5のときは、.....
 フェルマーの最終定理はnが2よりも大きいときに整数解が存在しないというものです。
 あまたの数学者がn=3のときの整数解を見つけようと努力しましたが、誰も見つけられません。フェルマーは、いままでだれも見つけられないのだから、整数解はないと考えたのです。このフェルマーの予想は、約300年間証明されませんでした。世界中の数学者が証明に挑戦しては敗れていったのです、まさに屍累々です。

 まったく関連のない楕円方程式とモジュラー形式が同一のものであることを予想したのは、日本人の数学者でした、谷山=志村予想と呼ばれています。ワイルズが谷山=志村予想を足がかりにして、楕円方程式の領域とモジュラー形式の領域の統一をどのように成し遂げ、フェルマーの最終定理を証明したのかは『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン、青木薫訳 新潮社)に詳しく書かれています。
 わたしの関心は、学の体系構成という観点から見たときに、経済学と数学が同じものであるということにあります。一見無関係の領域に同型性を見つけたという点では、谷山=志村予想と同じ発見であるかもしれません。
 カテゴリー「資本論と21世紀の経済学」にまとめてありますが、数年後にコンパクトにして第3版をアップするつもりです。

 ところで、この本の第Ⅵ章にガロアが出てきます。1969年にインフェルトの『ガロアの生涯』を読んだことがあり、懐かしさが甦りました。話の焦点が異なるので、面白く読めました。


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フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

  • 作者: サイモン シン
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/05/30
  • メディア: 文庫

ガロアの生涯―神々の愛でし人

ガロアの生涯―神々の愛でし人

  • 作者: レオポルト インフェルト
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2008/08
  • メディア: 単行本

世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書)

世にも美しい数学入門 (ちくまプリマー新書)

  • 作者: 藤原 正彦
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/04/06
  • メディア: 新書

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

  • 作者: 小川 洋子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/11/26
  • メディア: 文庫


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