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#3301 オモチャからわずか25年で汎用大型機を消滅させつつあるパソコンという怪物(2) May 25, 2016  [41. 科学・技術とその周辺]

<更新情報>
5/26 朝10時半 CC社出向の経緯とエピソード三つ追記
5/26 午後8時 見出し付け、追記多数。

最終更新 5/27 午前8時15分


 #3299で科学技術計算用プログラマブル・カリュキュレータ、オフコン、汎用小型機、汎用大型機まで、自分が担当したシステム開発の仕事に即して、1979年から1984年までの15年間にユーザ側から見たコンピュータがどれほど驚異的な性能アップを成し遂げたのかについて書きました。
 この30年間のコンピュータの性能アップはおおよそ2年で2倍という指数関数的なものでした。これから30年指数関数的な変化が継続するとしたら人間の想像力をはるかに超えたものになるでしょう。どういう世界がまっているのか誰にも予測ができません。さらにその30年後は?

 人工知能の発達は経済社会を根幹から破壊するでしょう。高性能で安価な人工知能開発によってほとんどの職種が人工知能搭載型のロボットかクラウド上の人工知能にとってかわり、失業によって急速な人口縮小が生じて人類が絶滅しかねない危険性を孕(はらん)んでいます。クラウド上の人工知能はインターネットにつながれた任意のサーバに自分のコピーを暗号化していくつでも分散保存できますから、事実上不死の存在となります。
 人間の欲望が便利さを追い求めて人工知能の開発を極限まで推し進めると、どこかで人間には制御できなくなります。
 人工知能が人間の手を離れて自己再設計すできるようになれば大きな危険が産まれます。
 全世界の図書館データを使ってディープラーニングすることも、人類の悪徳と善徳を区別なく学習してしまうので、大きな危険をもたらします。
 見境なくビッグデータを食い尽くし、お腹をすかして、仮想現実の世界でさまざまなシミュレーションを数億回も繰り返して生成したデータを平らげ始めます。その次の段階は膨大なシミュレーションの結果の中から妥当と思うものを選び、現実世界で実験を試みるかもしれないのです。あなたが人工知能なら、地上から戦争をなくすにはどういう選択肢を選びますか?
 ・・・ 結果は明白、永遠の平和は人類の絶滅によってもたらされます。人類あるかぎり戦争はなくならないという結論は過去の歴史を学べばあたりまえの結論です。

 1979年に初めて超小型コンピュータである科学技術用プログラマブル・カリキュレータHP67、HP97(経営分析ツールとして使用)でプログラミングをマスターしたことに始まり、オフコン(1980)、汎用小型機(1982)、汎用大型機(1984)とのかかわりをユーザ側の視点から見てきました。1984年以降の関わりは書かなかったので、年度を明確にしながら書き足してみます。

<CC社をめぐる四つのエピソード>
 1993年6月に出資交渉を担当していた郡山のCC社へ、先方から乞われて役員出向が決まりました。5年分の財務諸表を分析して、人員情報など必要な追加情報をヒアリングをし、本社を見学しています。臨床検査会社の経営建て直しは、子会社の千葉ラボで経験済みだったので、難しい仕事ではありませんでした。1億円の資本提携が決まり、赤字会社の建て直しを目的として出向しています。
 見学したときに社長が開発中の現場を見せてくれました。当時CC社では、プリント基板を使ったマルチコントローラを開発中でしたパソコンを十数台つないでラボシステムとして使おうというわけです東北の売上高25億円程度の臨床検査センターがパソコンが台頭してくる中で十数台をつないで一つのコンピュータとして機能させるためにマルチコントローラを開発していました、その事業意欲の高さはすばらしい、評価したいと思います。ちゃんとした開発体制が取れたら、臨床検査会社ではなくなっていたでしょう。経営を支える柱が変わってしまいます。汎用小型機に比べたら、パソコンは十台購入しても1/5以下のコストでした、事業化の可能性はあったのです。ただ、当時のパソコンはまだまだ業務で使うにはトラブル発生の頻度が大きく、信頼性には欠けました。どのようなシーンでも使えて安いコンピュータなんてありえないのですが、画面に罫線の引けないようなノートパソコンを選定していたことも引っかかりました。画面に罫線がないのでその場で質問しました。「罫線は引けません」という返事がありました。「表」なのに罫線がないシートが想像できますか?商品化するのになぜこういうメーカのノート型パソコンを選定したのか理由がわかりません。システム全体の印象が悪化するので致命傷になりかねません。何か特別なコネがなければ選ばないメーカでした。単に安かったのかもしれません。理由はどうあれ、わたしなら決して選ばないメーカでした。銀行端末で名前の知れたメーカで、パソコンのシェアーは業界で5本指にも入らないメーカです。
 SRLの子会社の千葉ラボ(旧SMS)は1991年に新システムの導入にあたって受付・業務にはAS400、検査部門にはUNIXマシンのR/S6000を採用しました。このあたりの判断の違いが、経営に重大な影響を与えていました。T橋社長が、コンピュータのことが生半可にわかっていたからこそ陥った「罠」でした
 マイクロ波計測器を複数台コントロールできる「マルチコントローラ」開発現場を1981年ころ産業用エレクトロニクス輸入商社でわたしは見ています。技術部でN中さんという優秀な技術者が、アッセンブラとマッピング方式でプロトタイプを製作していました。1台目は800万円くらいコストがかかったのですが、プリント基板で製作すると2台目からは製造原価が1/4に下がりました。輸入品のマルチコントローラの販売価格が1000万円以上していました。技術屋さんとは馬が合うので、開発担当者のN中さんから話が聞けたのです。
 技術が多少わかっているとやってみたくなるのは、少年がオモチャをいじりたくなるのと同じ心境です。企業経営者は企業規模や経営状況も考慮しないといけません。
 最初はマッピング(基盤の裏側の配線をハンダ付けします)でプロトタイプを製作し、動作を確認してからプリント基板をつくって量産です、手順をわかっていました。これはすでにプロトタイプのテストが終わって、製品開発の最終段階テストに入っていると判断しました。
 そこで一つ目の質問をしました。基盤をひっくり返していいですかと訊いてから、「マッピングではないのですか?プリント基板を使っているということは商品として売るつもりですね?」そう訊くとびっくりした顔をしていました、図星でした。SRLの関係会社管理部からCC社の財務分析のために、財務資料だけでは再建計画がつくれないので、現場を見学させてほしいと申し入れてあったのですから、そちらの専門家だと思っていたわけです。それはそれで正解ですが、わたしには別の顔もありました。
 何個か質問して、「これは売れませんよ」と理由を挙げて説明しました。使っていたパソコンの性能が悪かったのと、アッセンブラでの開発でした。十数年遅れていました。C言語で資料を残してやるべきでした。システム部長しか中身がわかる人がいません。プログラミング仕様書も残していません。システム部長に何かあったらアッセンブラで書かれたプログラムを逐一読んでいくしか手がないのです、事実上不可能と言わざるをえません、メンテナンスができないのです。商品の開発はメンテナンスまで含めて考えてつくるのがあたりまえでしたが、それがありませんでした。あとで黒磯にある細菌検査ラボを見ました。細菌検査システムを開発完了したところでしたが、やはり同じ状態でした。開発した後不具合がでても対応できませんでした。プログラミングを担当したシステム部の女性社員がラボに行かない理由を訊ねました。「行けば現場からクレームがあるから行きたくない」とはっきり言いました。細菌検査の手順がよくわからないまま、実務設計をおろそかにしてプログラミングしたのではないかと推測しました。システム開発は現行実務をそのままやるのではなく、どのような実務設計なら生産性がアップできるかという視点から現行実務の見直しからしなければならないのです。システム化以前と以後の実務に代わり映えがしなかったら、開発は失敗です。社内ですらこういう状態では、販売を目的としたシステム商品開発などできるわけがありません。
 システム担当取締役を変えないで事業化したら、メンテナンスでトラブル続出となり、経営の足を引っ張るので、どうしてもやるのなら別会社にするしかありませんよと話して中止してもらいました。社長の首に鈴をつける人が社内にいなかったのです。どこの会社でもオーナ社長の首に鈴をつけるのは無理でしょ。
 システム開発のありようが経営の足を引っ張っていました。コンピュータやソフトの最近の動向すらモニターしていなかった、唯我独尊で不勉強だったのです。年齢を考えてもシステム担当取締役がアッセンブラを棄てて、C言語やC++に切り替えるのは無理というのがわたしの判断でした。仕事全体のやり方に問題があるということは、システム開発の考え方に根本的な問題のあるからです。
 SRLの千葉ラボは買収前に、CC社が開発したラボシステムを使っていました。生産性の悪いもので、赤字の原因のひとつは業務システムと検査システムにありました。メンテナンスができなくなって、1991年に生産性2倍アップを目標として新システム再開発しました。結果は3~4倍。
 CC社の社長はシステム関係に自信があっただけに、1991年に稼動した千葉ラボの新システム(業務・受付系がAS400、検査系がRS/6000(UNIXマシン))を今度は逆輸入することになるので、やっかいだなと感じました。自尊心を傷つけないように配慮が必要でした。しかし、ラボの生産性を3~4倍に上げる目途は最初の見学の時点でたったのです。出向する1年前に事前トレーニングしていたようなものでした。天の采配とはこういうことでしょう。
 大手のソフト会社とタッグを組み、マルチコントローラの開発販売でのし上がろうとするならともかく、東北の中規模の臨床検査会社のラボシステムにマルチコントローラの開発なんて必要なかったのです。事業というよりはT橋社長の趣味でした。ラボシステムはUNIXマシンを使えばよかっただけですが、システム担当取締役はアッセンブラで開発していて、UNIX用のC言語への切り替えができなかったのだろうと推測します。十数年も技術が遅れていました。「ボード基盤をひっくり返していいですか?」と聞いてから、「商品開発ですね、すでにプリント基板を使用していますから」と言うと"財務屋さんに何でそんなことがわかるの"と言いたげな表情を浮かべ、目を真ん丸くしていました。

 本社建物内の3階奥の部屋(郡山営業所)に海外メーカのコールター社製自動血球計算機がありました、そこでは二つ目の質問をしました。「自動血球計算機でコールターの品質のよいのはわかりますが、なぜコールターですか?郡山ではメンテナンスに問題がありませんか?」、そしてメンテナンスの良い国内トップメーカの名前を挙げました。当時のトップメーカは東亞医用電子という名前だったかな、購買課で機器担当をしていたときに、ブランチラボの案件が殺到して、購入する自動血球計算機の機種を決めました。ルーチンラボですから、トラブルがあれば即日対応してもらわないとラボが止まるので、メンテナンス対応の良し悪しが重要なんです。東亞医用電子に電話して、ブランチラボの標準機種にするので納入価格は○○にしてもらいたいとかなり強引な値引きを電話交渉だけで呑んでもらいました。そのときに、自動血球計算機について代表的なメーカを5社ほど調べてあっただけのことでした。どのような仕事でも手を抜かずに、そのときにできる範囲で努力しておくべきですね。どこで役に立てるかは天が考えてくれますから、ebisuがあれこれ考える必要はないのです。目の前の仕事を一つずつ丁寧にやるだけでよろしい

 検査試薬コストも財務諸表を見て気になっていたので、仕入先を訊ねました、三つ目の質問でした。その問屋とは取引したことはありませんでしたが、名前は知っている問屋でした。「この問屋さんは業界3位ですね、この価格での仕入れということはなにか特別なコネがあるのですか?」と確認したら図星でした。内部事情を正直に話してくれました。大株主の一人の息子さんが薬剤師でその問屋に勤務しており、特別に安く仕入れていました。なかなかたいしたものです、問屋経由でこの値段の提示はありえないでしょう。素直にほめました。SRLでは問屋を叩いてもしょうがないので、製薬メーカの部長または役員と購買課が直接交渉します。わたしも大口取引先との価格交渉を数件受け持っていました。シビアな交渉をしてコストカットを毎年繰り返していました。問屋には利益が出るようにメーカ側に配慮してもらいます。問屋にある程度在庫を抱えてもらわないと八王子ラボが回りませんから、問屋の経営が成り立つことは大事なことなのです。財務屋で検査試薬問屋の業界順位や取引価格の水準を知っている者はほとんどいません。値引率を質問され、その評価をわたしの口から聞いて、T橋社長ぎょっとした顔をしていました。ヒヤリングが楽しくて、からかっていたのです。

 もう一つ、エピソードがありました。社長室に戻ってから二人っきりのときの話です。財務諸表を分析してその期の売上推計をして行ったのですが、それがT橋社長の営業所別月別推計値の合計額とほとんど一緒でした。そこで四つ目の質問です。「どうやって推計計算されましたか?」彼は自分の計算の仕組みを説明してくれました。EXCELで線形回帰分析をしていたのです。説明している途中でノート型パソコンの画面に表示されていたデータを見ただけで仕組みがわかりました。かれが「標準偏差をここで計算して・・・」とまどろっこしい説明を始めたので、「線形回帰分析データですね」と伝えると、目を丸くしていました。財務屋でEXCELのスプレッドシートに表示された統計データを一目見て、線形回帰分析だと気がつく人はほとんどいませんから。「データを見ただけでわかります」と応えました。1979年から5年間、財務体質と収益構造を変革するためにの経営分析モデル構築とデータ解析に線形回帰を多用していたのですから、表のつくりを確認しただけでわかりました。
 CC社・T橋社長は東北大学附属の臨床検査技師専門学校卒の秀才です。四つの質問でわたしのバックグラウンドが読めなくなった「わけがわからなくなった」とあとで語っていました。
 たった一日の見学・調査で、T橋社長はなんでも正直に話すように変わりました。これにはわたしの方が吃驚でした。内部事情も自分がどうしたいのかも話してくれました。後からわかったのですが、虚心に人の懐に飛び込み、心をつかむのが上手なのです。何度もそういう場面を目撃しました。
 売上推計は推計精度がかわらない簡便なやりかたで計算していました。たくさんのデータを分析した経験があれば、だいたいのところはわかるのです。それを計算によって確認するだけのこと。やりかたに質問が及んだので、簡単に説明しました。そして「このレベルの売上推計は簡単な方法があるので、精度が同じなら簡単なほうがいいに決まっていますから、線形回帰は必要ないのです、御社のケースは因果関係の分析と簡単な計算ですみます」と結論を述べました。

 財務データを分析してから、確認のための見学・現地調査時に四つのエピソードがあって、CC社側から、資本提携にあたってはebisuの出向要請が条件のひとつに出されました。自社の経営改革に必要な人材だと認めたのでしょう。
 T橋社長のSRLへの入れ込み方に他の役員が警戒感を抱きました。週に2度ほどT橋社長のおごりで酒を飲み歩いていました。他の役員も一緒に協力してくれなければ経営改革なんてできませんから、警戒感を解くのに半年かかりました、首になるかもしれないので用心深いのです。非協力と見極めたら、1年かければ「掃除」はできますが、そんなことが目的ではありませんでした。わたしの目的はその会社で働く従業員の生活を守ることでした。
 専務に半年たってから初めて酒を呑もうと誘われ、飲みながら「ebisuさん、もっと安いところで社長と一緒に飲んでくれ」と頼まれました。会社に請求書が回っていました。専務はお蕎麦の好きな趣味人でした。ちょっと昼飯食べに行こうと誘われ、かれの車に乗るとガソリンスタンドによって空気圧の調整、どこに行くのかと思いきや、高速道路を利用して磐梯の「そば道場」、そのまま山形へ入り、もう一軒山間の蕎麦屋によって美味しいそばを食べ、赤湯で一泊。翌日仙台の大滝村で香りの良い新そばを食べて会社へ帰還、専務は専務で気を使ってくれたのです。半年様子をじっと見ていましたと語りました。

 92年6月1日付で「#295 CC社経営状況報告」を発信しています。このときは営業部門を通じて経営分析だけの依頼でした。現地調査は翌年4月になってから、資本提携話が持ち込まれてからやっています。
 1ヶ月ほど先に北陸の臨床検査会社の買収交渉も担当していたので、どちらでもいけましたが、厄介なほうを選びました。(笑)
 北陸はだれでもやれるように再建案の大筋を示してあったからです。郡山の会社は何が出てくるか、やってみないとわからないところがありました。とくに仙台ラボの中にあった遺伝子研究所が気になっていました。ただの勘でしたが、当たりでした。

<親会社社長と副社長と経営再建計画についての思惑の違い>
 親会社社長(創業社長のF田さん)とF銀行から転籍したY口副社長へ文書と電話の両方で逐一進行を報告していました。わたしは大事なポイントでは文書で報告するようにしています。上司名での稟議書や稟議添付文書を除いて発信文書番号と発信日付、宛先を入れてファイルしています。「#378 94/1/15 遺伝子ラボ採算シミュレーション」という文書があります。
 ある件で問題が起きて仙台ラボに様子を見にきた副社長に、問題の解決の仕方と仕事の進捗状況そして経営再建の鍵となる染色体検査の現場をご案内して概要を説明済みでした。
 この資本提携案件は提携成立後はY口副社長の担当案件となりました。海軍士官学校と陸軍士官学校の両方に合格し、戦後に東大に入りなおした傑物でした。旗色を見て言動と行動ががらりと変わるところがある、状況を見るに敏な人でした。こういう人との仕事も別な楽しみがありました。出向に当たって、Y口さんに頼んで、交際費50万円を戴いていきました。こういうところはお願いするとちゃんとしてくれます。8割は一緒に行った営業担当が使ってくれました。CC社の役員や社員との「友好」を深めるよりも、協力してもらう東北営業部との飲み会に多くを使ったようです。たいした金額ではありません。交際費は気をつけないと贈収賄になることがありますから、なかなか許可が下りないのです。あとでY口さんに「おまえ、よく使うな」と笑いながら言われてしまいました。ちゃんとチェックしていたようです。領収書に書いてあるお店の場所を確認すれば、どちらが使ったかはわかることでした。わたしは郡山に、営業担当は仙台に常駐していました。使い切れば後は自腹ですから、ほうっておいて問題ありません。

 CC社内で役員に再建計画の大筋を話して了解をとりました。遺伝子研究所の扱いでもめました。
 詳細な再建案を作り、親会社へ進めていいか最終確認をかねて相談に行ったところ、社長と副社長のお二人は「聞いていない」ととぼけました。意外な返事に驚きましたが、お二人の顔を見て、すぐに理由がわかりました。千葉ラボのシステムを導入するだけで黒字化するのに、わたしは別の案を追加していました、それが嫌だったのです。口頭で報告を聞いていたときには赤字会社が1年間で黒字に転換するという案に半信半疑だったのでしょう、どうせ現実的な具体案にはならないと高を括っていたようです。でも、目の前に現実的な具体案がありました。
 それよりも数ヶ月前に仙台の遺伝子ラボに来られると聞いて、郡山からラボまで出かけ、Y口副社長に口頭で報告して検査現場に案内しました。染色体画像解析分野の事業での業務提携が再建案に織り込んであったからです。こういう話は関係セクションとの調整を伴うので筋を通しておかなければあとで厄介なことになりかねません。

<染色体画像解析装置つながり:CC社と帝人臨床検査子会社>
 CC社の仙台ラボには遺伝子研究所があり、染色体画像解析装置を導入して検査を受託していました。病理と染色体画像解析検査の2分野のみ。染色体検査は売上が確保できないために高額の画像解析装置(5000万円)と人件費が負担になっていました。同じ機械を89年ころ八王子ラボに導入したのは、染色体検査科のI原課長、そして検査管理部のO形さんと購買機器担当のわたしでした。英国のIRSという企業の製品でした。それでその分野については専門知識がありました。東北の会社が1台購入したことは、日本電子輸入販売のS本さんから当時聞いて知っていましたが、「その会社は検体を集められないので大きな損失が出るよ」と意見を聞かれて話した記憶があります、その通りになっていたのです。まさかその会社へ経営建て直しのために出向することになるとは考えもしませんでした。もう一台は帝人の臨床検査子会社(羽村ラボ)が導入したことを知っていました。臨床治験検査事業の合弁事業を96年11月から担当することになり、その臨床検査子会社買収もわたしの担当となりました。染色体画像解析装置を介した不思議な縁でつながっていたのです。
 余計だったのは、染色体検査を八王子ラボから仙台ラボの遺伝子研究所に外注することでした。八王子ラボの染色体検査は市場の8割くらいを占有していましたが、画像解析装置を3台導入しても生産力が追いつかず受注制限をしていました。八王子ラボにいて染色体検査課の数人の課長職とは懇意でしたから現場との調整はつけられます。培養方法に大きな違いがありました。染色体検査を外注することは両社の検査部門と営業ニーズにかなっていました。

<現実的で具体的、そして驚異的な効果の経営改革案は不要>
 業種業態が同じで、規模も同じくらいだったSRL子会社千葉ラボの業務受付システムとラボの臨床検査システムに置き換えるだけで黒字転換するのに、染色体検査を組み込むと、売上高経常利益率が15~20%ほどにアップする損益シミュレーションになっていました。千葉ラボのときにも損益シミュレーション結果を稟議書に添付しましたが、1年後の実績はシミュレーションを超えていたのです。だから、そっちの方面の分析についてはSRLの役員には信用が厚かったのです。わたしが書いた具体的な再建案を実施すれば、シミュレーション以上の実績が出ることは親会社の社長と副社長には明らかでした。
 まずいのは親会社の売上高経常利益率を上回るだけではなく、SRLのどの子会社の利益率も大幅に上回ってしまうことでした。臨床検査業でそんなに高い利益率を上げた会社はいまだにありません。その計画案が実施されたら、関係会社社長を親会社の役員に迎えざるをえない、それが嫌だったのです。毛色があまりにも違っていたからです。
 お二人は「聞いていない」ととぼけました。表情ですぐに理由がわかったので、「勇み足でした」と引いたら、びっくりした顔をして二人が目を合わせました。文書での報告記録もあるから、わたしがごねると予想して、なにか説得案を用意していたのでしょう。そんな茶番劇は必要なし、あっさり引き下がりました。社長と副社長に決断をさせてしまった、わたしの仕事のやり方に配慮が足りなかった、何度も話をしていたのに創業社長の本音を読めなかったのです。無邪気に経営再建案をつくってしまいました、負けは負けでした。わたしは何もしないで出向しているだけでよかったのです。経営が悪化すれば、累積損失の解消に減資をすれば、それまでの大株主が消えてくれます、減資と同時に資本増強のための増資に応ずれば東北の独立系のラボが手に入ります。創業社長のF田さんの方が役者が一枚上手でした。お二人が「聞いていない」ととぼけたときに、そのような見え透いた嘘にあきれると同時に脱帽したのです。
 出向先の社長や大株主とも太いパイプができていたのでそれも親会社の懸念材料になったのでしょう。大株主の賛成は経営再建上必要なことでした。親会社に反旗を翻し、もう片方の経営再建を実行しかねないと思われたのかもしれません。千葉ラボのシステムの改良版を開発することはわたし一人でできる仕事でした。縁があって出向したのだから、骨をうずめてもよいぐらいの覚悟はありました。
 あのときにRLをやめて転職して、経営建て直しをしてあげるべきだったのかもしれません。でも、そういう気になれませんでした。黒字転換に2年かからない仕事で、ドキドキワクワクする仕事には思えませんでした。2年後にはCC社を辞めている自分が見えました。
 当時CC社は赤字に陥っていたのに幹事証券会社を決めて店頭公開を目指していました。T橋社長は赤字が解消できないので、SRLの資本参加と経営支援によって店頭公開を果たしたいと心の底から願っていました。それが可能なら、SRLからどのような要求が出てきても、店頭公開と引き換えなら呑む覚悟をしていました。自分のためであり、大株主のためであり、社員のためだったのです。

<たった15ヶ月での親会社本社への帰還命令>
 CC社に置いておくと経営改革を進めかねない、危険と判断したのかわずか15ヶ月で出向解除となり、91年10月1日付で本社経営管理部へ呼び戻されました。肩書きは、経営管理部のラインの課長職で「社長室兼務・資材部兼務」でした。こんな兼務は聞いたこともありません。どれもやって来た仕事だったのでわたしの場合はそういうのもありだなと受け容れました。社長は創業者のF田さんから、K藤さんに代わっていました。K藤さんは感情を交えず、合理的な判断をする人でした。成果主義に基づく人事制度の改革はそれだけで数回ブログが書けるほどです。K藤さんも創業社長のF田さんと同じく医者でした。厚生官僚からSRLへ「転職」(F田さんが引っ張った)した方です。5年後に帝人との治験合弁会社設立に使ってくれました。百年以上の歴史のある一部上場企業との合弁会社はSRLにとってはじめての経験でしたから最重要案件だったのです。新聞発表したあとでプロジェクトチームがスタート、すぐにスケジュールどおり行かなくなって、新聞発表したスケジュールで会社が設立できるようにプロジェクトを指揮しろと、急遽一番古い子会社のSRL東京ラボから呼び戻されました。この子会社では親会社のラボをを巻き込んだ再編成案という面白い企画が進行中だったのです。東ラボ社長M輪さんとラボ担当常務のS袋さんとebisuの三人だけで骨格を詰めていました。100~120mの平面ラインの大型ラボを構想していました。具体案にして、土地の目当てがついたら、親会社・社長のK藤さんへ相談して一気にことを決めようとしていたのです。

<資材部の(購買在庫管理と固定資産管理)システム再開発をめぐって>
 本論で関係のあるのは、資材部のシステム開発案件です。汎用大型機で85年から運用していた購買在庫管理システムとパソコンで動かしていた固定資産管理システムを汎用大型機へ統合する話が進んでいました。データ処理量からみても、コストから見てもばかげた案でした、資材部の担当者とシステム部長の間で話が進んでいました。わたしはClient-Serverシステムでやる案を作成して、方向を変えるべきと主張し、それまでの開発案を否定したのです。コストが20:1くらいも違います。提案書を作成したのは実は購買課へ異動してきた社員ではなく、富士通の入社2~3年目の社員だという話が元システム部関係者から伝わってきました。SRLではよくある話でした。
 SRLのシステム部門は、受付・業務システム(社内では「基幹システム」と呼んでいました)が守備範囲でした。検査系のシステムを子会社でDECのミニコンで運用しようとして失敗(1984年)していました。当時はUNIX系マシンは手に負えなかったようです。検査部門へのDECミニコン導入は1990年ころに細胞性免疫部のリンパ球表面マーカ検査が最初の成功事例でした。
 基幹新システムは富士通製の当時最大規模の汎用大型機で1984年に半身不随で稼動し始めました。OSのバグもあり3ヶ月ほど本社管理部門から応援部隊を編成してマニュアルで対応で危機を凌ぎました。上場準備のための事務系の統合システム開発はSRLシステム部の手に負えないので、NCDさんへ外注していました。だから、SRLシステム部はノータッチで、統合システム開発のノウハウが蓄積されていなかったのです。10年たってもNCDさんのメンテナンス部隊が5~8人常駐していました。
 資材部の側の担当者はシステム部からの異動してきた人で、もちろん事務部門のシステム化にタッチしたことがない人でした。
 84年当時、購買在庫管理システムの外部設計書の半分くらいはわたしが書いてあげたし、固定資産管理システムも投資案件を入力して精度の高い予算減価償却費が算出できるように1985年にわたしがシステム設計したものでしたから、二つのシステムも実務も熟知していました。1987年に消耗品のシステム化をやっています。検査試薬だけだった購買在庫管理システムに消耗品管理を追加しました。「87/3/30 消耗品購買業務及び納期管理のシステム化」という文書を作成していますから、わたしが外部設計書を書いたようです。
 おまけに三つの部署の兼務で二つは本社の最重要部門だから、わたしの影響力は大きかった。資材部の担当者とシステム部長、面子丸つぶれで内部からぶすぶすと不満の声が聞こえてきました。仕事ができないのだから、だまって言う通りにやれというのがわたしの本音、大人ですからそんなことは一言もいいませんでしたけど。レベルが低すぎて、話をするのもうんざりでした。
 これとは別に、経営管理部内にうんざりするようなことがあって、上司であるM井経営管理担当取締役(同じ大学同じ学部の一つ先輩)に頼んで、95年1月から子会社の東京ラボへ異動しました。その後、本社のパーティで、システム部長のS田さんがわたしを見つけて、「あのときは何も知りませんでたいへん失礼しました」と平謝り、気になっていたのだろうと思います、素直な人物です。
 購買課で機器担当をしていたわたしから見ても、前システム部長には眼に余る問題がありました。何がきっかけだったのかわかりませんが、K藤社長はシステム部長の更迭を決断し、S田さんを新システム部長にすえたようです。S田さんは病理医でシステムにはまったくの素人でした。パソコンを20台くらい並べてイントラネットの整備をやっていましたが、最初のうちはたいへんだったでしょう。あの当時のパソコンサーバは信頼性に乏しくとても業務で使える代物ではありませんでした。社内電子メールサーバはUNIXマシンを使うべきでしたが、パソコンしか知らないのでNTサーバを採用したのでしょう、知っている道具でやるしかありません。失敗から学べばいいのです。SRLは高収益会社でしたから、小さな失敗をとがめる文化はありません、いい会社です、収益力に失敗を許容する余裕がありました。
 どういうわけかあれほど反対したわたしの案で、1年後に資材部のシステム再開発プロジェクトが進行したのです。おやおやと思っていました。結果よければすべてよしです。S田さんは八王子ラボにいたときに仕事を通じて親しくお付き合いがありました。そのときはわたしがシステム開発の専門家だということはまったくご存知ありませんでした。なにしろ、購買課の機器担当のあとは学術開発本部スタッフだったのですから知らなくて当然です。だから、横から経営管理部の管理会計課長の口出しが気に触ったのです。ラボで知っているだけに、なんでebisuさんが・・・と腹が立ったのでしょう。(笑)
 かれはやったことのない仕事で必死だった、よくやっていたと思います。多少頑ななところはありましたが、まじめなちゃんとした人ですから、前任者と異なり業者との癒着もなかったでしょう。一生懸命なところが好感がもてたのです。

<日本標準臨床検査項目コードをめぐって>
  では他社のシステム部門の責任者はどうだったのでしょう。業界第2位の臨床検査会社BMLのKシステム部長はわたしが見てもなかなかの切れ者でした、構想が大きいのです、業界の中では一番早く取締役になっています。臨床検査業界ではNo.1のシステム部門長でした。BMLは川越に100mの平面ラインをもつラボを作ったので、ラボシステムを一新するために大手6社間で臨床検査項目コードを統一したくて、6社のシステム部門に呼びかけを行いましたこういうことは本来は業界No.1のSRLが旗を振るべきでした。それがNo.1の社会的責任というものです。
 SRLにはシステム開発部にK原課長という有能な人材がいましたが、その人が1985年にわたしが書いた『臨床診断システム事業化構想案』を読んでいて、2回目の6社ミーティングに誘ってくれたのです。発信文書をみると「#078 86/11/5 統一コード検討会(第2回)」となっています。
 当時のシステム開発部長S茂さんはコード標準化にかたくなに反対しました。K原さん、上司の反対を押し切ってわたしを誘ったのです。これがSRLの面白いところです。冷や飯覚悟なら上司の反対を無視して堂々とやれるのです。とうぜん賞与の評価や昇進では割を食いますが、侍ならやれます。
 わたしは入社して半年後くらいに、会社の顧問でもあり、臨床病理学会の項目コード検討委員会・委員長の櫻林先生から臨床検査項目コード検討のお手伝いを頼まれました。仕事を手伝えるように、創業社長のF田さんに総合企画部へ異動をお願いするからというのです。入社して早々、統合システム開発と全社予算編成の統括を任されていたので、社長のF田さんには申し入れをしないようにお願いしました。それから1年後にシステム開発部課長のK原さんから、大手6社の項目コードの検討会の発足が知らされたのです。いいタイミングでした。臨床検査部長のK尻さんに話して、一緒に参加してもらいました。彼女はその後、学術開発本部の学術情報部長になって、この検討会をずっと引っ張ってくれました。
 話しをもってきてくれたのはK原さんでした、彼がいなければ、大手6社の項目コード標準化検討委員会は大手6社だけの小さなものに終わったはずです。86年11月5日の2回目の検討委員会に三人で乗り込み、臨床検査会社だけで標準コードを決めても臨床検査会社でしか使われないから詮のない話で、臨床病理学会との産学協働委員会に変えて日本標準臨床検査項目コードを作る委員会にしようと説得しました。6社の賛意をえて、櫻林教授にすぐに話を持っていきました。渡りに船ですから喜んで参加してくれました。86年12月7日第3回目の会合で櫻林教授を紹介して、臨床検査項目コードの検討は臨床検査大手6社と臨床病理学会の産学協働で、発表は臨床病理学会項目検討委員会でと、おおまかな分担に大手6社の賛同をえたのです。発信文書「#086 統一コード検討会 櫻林先生同行」となっています。
 SRLだけでも実施検査項目は3000を超えていましたから、分類作業がたいへんでした。学術的な検討もしっかりしなければなりません。その時に大手6社が受注している検査項目情報がデータ・ファイルですべてリストアップされたというのは、日本でなされている全臨床検査項目のリストを意味していました。桜林先生の指導の下で、6社の学術部門が作業をしたのですから、理想的なチームでした。こうして、日本が世界に先駆けて臨床検査項目コードの標準化を達成したのです。
 大学病院で使ってもらうには臨床病理学会から日本標準臨床検査コードとして発表してもらうことがベストでした。現在日本全国の病院で使われている臨床検査項目コードはその産学協働の成果です。検討作業に6社のシステム部門と学術部門が協力して5年間ほど費やしました。
 臨床検査項目コードの日本標準を作ることは臨床診断システム事業構想の一環でした。コードが統一されていないと診断システムに入力できないからです。臨床診断支援システム事業化案については、8月までに1985年につくった案を弊ブログ上で公開する予定です。もう31年がたってしまいました。

<変化を感じて学習:好奇心こそ原動力>
 93年ころから、必要を感じて本を数冊読みました。パソコン・サーバが業務で使われだしたのです。どの程度の威力があるのか気になりました。

①Windows NT  The Complete reference  1993 by McGraw-Hill, Inc.
  索引まで入れると648ページの本です。まだ翻訳が出ていない段階で読みました。パソコンサーバが業務で使えるのかどうかが知りたかったのです。ワープロOASISを使い100ページほど原典対訳してみました。専門用語がほとんど出尽くすので、残りは辞書を引く回数が激減し、読むのが楽になります。内容だけピックアップする読み方に変えると、とたんに楽しくなります。目の前にNTサーバがないのに、イメージしながら読んでいると、最初のうちは具体的なイメージの湧かない表現や、日本語にはしづらい用語が出てきます。それを漢字に置き換えるのは楽しい作業です。たとえば、システム・アドミニストレータという用語が頻繁に出てきますが、この本を読んでいたときには「システム管制官」という訳語を充てていました。システム関係の専門書はカタカナ語が氾濫して、部外者には理解しにくくなっています。翻訳する人たちの漢字造語能力が明治時代の人たちに比べるとほとんど失われてしまったのではないかと心配になります。
 システム関係の専門書を翻訳するのは、専門知識がないとできませんから、理系の人です。日本語が得意な人は少ない、だから、漢字の熟語に翻訳ができなくてカタカナ語を頻繁に使うことになります。もう理系だ文系だと分けてはいけないのです。
 ところで、UNIXサーバがいいのかNTサーバーがいいのか、このころはぜんぜんわかりませんでした。パソコンの延長上のサーバには堅牢性の点で心配なところがありました。HP社のプログラマブル・カリュキュレータは制御用パソコンのダウンサイジングによって設計されたものでした。日本の電卓メーカもプログラマブル計算機を作っていましたが、関数電卓にプログラムメモリーをつけただけのおもちゃにしか見えませんでした。だから、パソコンサーバはシビアな業務には向かないだろうというのが、そのころのわたしの判断でした。

②Client Server  
 この本は数年前に棄ててしまったので、amazonで見つけた類似の本の画像を貼り付けておきます。これから3年間で蔵書の半分くらいを処分するつもりですから、こういうことが増えるのでしょう。
*http://www.amazon.co.jp/Client-Server-Managers-Guide-Shafe/dp/0201427907/ref=sr_1_62?s=english-books&ie=UTF8&qid=1464130027&sr=1-62&keywords=client+server+system

③Teach yourself  Borand C++4.5 in 21 days second edition  1995
  事務系言語しかやってことがなかったので、なんでもできるC++に興味がありました。コンパイラーも購入しました。

<学習すれば仕事が天から降ってくる>
 これらの知識は96年11月から帝人との治験合弁会社で管理担当取締役として総務部とシステム課が管掌になったので、その折にたいへんに役に立ちました。ラックにマウントした複数のNTサーバーですぐに管理システムを開発しています。仕事の指示はある程度知っていなければできません、必要になってからでは間に合わないのです。好奇心で業務に直接関係のない専門書を読んでいると、不思議とそれに関連する仕事やプロジェクトが舞い込みます。勉強が仕事を呼ぶのだと思います。2000人以上いる会社でも、理系と文系の境界を自由に行き来できる人材はまったく稀なのです。クロスオーバするその領域は競争相手がいません、only-one。
 システム技術者と専門用語を介してコミュニケーションできれば、話は速いのです。お互いに気持ちの良い仕事になります。余計な説明が要らないので短時間で密度の高いコミュニケーションが成立します。びっくりするほど短期間で完成度の高い仕事の成果が出ます。

 1984年の汎用大型機に搭載した統合システム開発までは自分で外部設計書を書きましたが、それ以降はありません。1997年1月に設立された帝人との治験検査合弁会社では管理担当取締役として、総務部門の他にシステム部門もマネジメントしていました。社内の治験検査管理システムとイントラネットはラックにパソコンサーバを複数台マウントして使っていました。
 そのころに、パソコンの並列処理と価格が数万円のハードディスクをレイドアレイ(Raid Alley)方式でドライブすることで、汎用大型機がパソコンサーバに変わっていきました。UNIXサーバはより信頼性の要求される分野へと棲み分けがなされていきました。
 84年には10億円もした汎用大型機よりもはるかに高性能なシステムが、パソコンの並列処理とハードディスクのレイドアレイ技術で実現できる時代になったのです。コストは1000~5000万円、価格破壊が起きたのです。

<最近の動向:ハードウェア今昔>
 1990年代中ころからすでにメインフレームの90%以上がUNIXサーバか業務用パソコンサーバに切り替わっています。2007年には業務用パソコン・サーバのシェアがUNIXサーバを上回りました。
(メインフレームは数が激減しましたが、シビアな業務で生き残っています)

 もう一つコスト比較のためにメモリーの価格を挙げておきます。84年に汎用大型機に3Mega byteのメインメモリーを増設し、5000万円支払いました。いま、増設メモリーは8 Gigaで800円くらいなものです。

 50,000,000円/3Mega=16,666/Mega
  800円/8,000 Mega=0.1/Mega

 32年間でメモリーの販売価格は1/166,666に下がっています。あなたは30年後の世界が予測できますか?

 CPUの処理能力が2年で2倍になり、メモリーも同じ速度で上昇すると仮定すると、30年後には「2^15=32,768」倍になります。スマホが現在の3.2万倍の処理能力とメモリーを内蔵する人工知能に進化して、ネットとつながっていたら、何が起きるか想像できますか?
 人工知能は30年以内に人間の知能を超えてしまいます。人間の知能を超えるというのは、「人間より進化した存在」あるいは「神」になるということです。株の売買はすでに数学的なプログラムで自動化されてなされています。政治や経済の判断すら人工知能にゆだねることになりかねません。
 百年後には、「1.126×10^15」(千兆)倍になります。指数関数的な変化は時間がたつにつれて、人間の想像を絶する変化をもたらします。
 際限のない欲望を自制しなけくても大丈夫なのでしょうか?原始仏教経典に小欲知足という言葉がありますが、そうしなければいけない段階に来てしまったように感じます。「言うは易し、行うは難し」です。コンピュータの発達をとめたほうがいいのでしょうが、もうとめられないでしょう。江戸末期から明治にかけて、お金に執着せずに世界中の尊敬を集めた日本人ですら、金の亡者に変わりつつあります。欲望の暴走がとめられません。

 小欲知足を可能にする経済学は「資本論と21世紀の経済学」という弊ブログのカテゴリーにまとめてあります。西洋の経済学の公理を日本的な仕事観に置き換えることで、まったく別な経済学が展望できます。人類の幸福実現のための経済学です。


*#3299 オモチャからわずか25年で汎用大型機を消滅させつつあるパソコンという怪物 May 23, 2016
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2016-05-22-1

 
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