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#4244 ビリヤードのタップの調整の技と世界最高のチョーク、そして勉強法 May 8, 2020 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

<ビリヤードの思い出:タップの調整>
 わたしはビリヤード屋の息子、小学校へ入学する前からビリヤード台の上で遊んでいました。小学生の低学年からお客さんたちとビリヤードして遊んでもらいました。じきに店番を手伝うようになり、中学生のころは独りでもお客さんたちをさばけるようになっていました。小学生のときには床に就いても頭の中にビリヤード台が浮かんで、そこで球を撞いています。「エアー」でというか「バーチャル空間」でビリヤードできるようになっていました。それで球の配置を変えてトレーニングできるんです。中学生の時にその技が学習に使えることに気がつきました。集中して授業を聞いていると、授業を聴いた後に黒板の文字と先生の説明の言葉が脳内に再現できることに気がつきました。それからは勉強が楽になりました。授業の合間の数分間に目をつむり、頭の中に黒板に書かれた文字を再現すればいいだけ。成績は勝手に伸びていきました。店番の合間に、目をつむって思い出すだけで、数分で復習できました。お店で夢中になって遊ぶことで、ユニークな学習方法を自然に身につけてしまっていました。だから、さまざまな概念を頭の中に思い浮かべて関係を探ることが大好きです。経済学の研究も自然にそちらの方へ向かいました。だいぶ遅れましたが数学も。20歳代の半ばころにユークリッド『原論』とマルクス資本論体系の相同性に気がついたのです。
 高校卒業するまでずっとお店の手伝いをしてましたから、門前の小僧習わぬ経を読むの類でして、ビリヤードの腕前はいつのまにかセミプロクラス。高校卒業して古里の根室を離れて東京生活が始まると、都内の有名ビリヤード店をいくつか訪れました。そしてプロのトレーニングメニューを知ることになったのです。一流のプロの中には、親切にトレーニングメニューを教えてくれる人がいました。ノートに50ページほどトレーニング図面を書き溜めてあります。セミプロからプロになるためのトレーニングメニューです。こんなノートは世の中にあまりないでしょう。プロは公開したがりません。スリークッション世界チャンピオンの小林伸明先生はNHKのビリヤード講座を担当したときに教本を書いていますが、高度な技は書かれた本がないのです。理由をお聴きしたことがあります。「半端な腕前の者が半端な理解でこうはならないとクレームを言う、面倒くさいことになる、だから書かないんです」とおっしゃりながら、そのレベルの技をわたしには丁寧に教えてくれました。「面授」なら人を選んで教えられるので、小林先生は教えてくれました。誤解するような人の質問には答えないでしょうね。
 「毎日来なさい教えてやるから」と言ってくれたのは、八王子市にあるチャンピオンというお店のオーナーの町田さんでした。そこには息子さん用の鉄製のキューがありました。プロのプレイヤーにするのに素振り用に鉄製のキューをつくったと言ってました。それを見て『巨人の星』の「大リーガー養成ギブス」を思い出しました。うちのオヤジなら、考え付いても息子が可愛くてそんなことやらせっこありません。遊びでいいんです。次男の正さんがアーティステックビリヤード世界2位です。長男も同じ鉄製のキューで素振りしたはずと思って、聞いてみました。腕はよかったそうですが、まだプロのビリヤード選手で飯が食える時代ではなかった、それで板前にしたと。次男のときにはプロのプレーヤーで飯が食えるかもしれないと思ったそうです。正さんはボークラインゲームでは全日本チャンピオン。皇族がビリヤードのコーチを受ける霞会館で現在の天皇のコーチだったようです。小林先生が自分の後は彼になったとおっしゃっていました。小林先生の推薦だったのでしょう。
 そういうわけでプロのトレーニングメニューのすごさを知ってます。一流のプロの指導技術や指導メニューは効果抜群です。

 時は小学生のころ、昭和30年代初めころにさかのぼります。昭和天皇のビリヤードコーチだった吉岡先生は毎年根室に来られて、ラシャの張替えをして、そのあと根室でナンバーワンの腕前の人を相手にアメリカンセリの技を見せてくれました。短クッションで往復するセリです。角に来て、方向転換するときがむずかしいのです。図面上で検討して理屈は呑み込めても、何度もパターントレーニングをしないと身につかない技です。短クッションのセリは吉岡先生以外には見たことがありません。白髪のとっても品の好い方でした。
 スリークッション世界チャンピオンの小林先生にはボールの配置した図面を描いてもって行き、質問をしたことがあります。丁寧に教えてくれます。マッセのキューの構え方を教えてもらいました。吉岡先生とは違った構えで、クビにキュー当たります。吉岡先生の方式はこめかみの上のあたりにキューが当たります。小林先生の構えの方が撞点がよく見えるんです。
 シルクハットというマッセの大技のもち主である町田正さんのマッセの構えは記憶にありません。あの大技は世界で町田正さんだけの技です。台の端から端までL字を描いて玉が走ります。キューの重量は23オンス以上(私が普段使っていたのは14.5オンス)でしょうね、うんと重くないとやれない技。あんな勢いで球を撞くことができたとしても止められません、ラシャを撞いて破いてしまいます。それがちゃんと止まっているのですから驚きです。あの技をテレビで見たときはどういうトレーニングでああなったのかまるでわかりませんでした。お父さんのお店に素振り用の鉄のキューがありました。あれで素振りを繰り返さないと身につかない技です。マッセトレーニング専用の1辺が50㎝くらいの正方形の台がありました。スレート(石)をカットし、枠木を誂える、そしてクッションもゴムを切って貼り付ける、とっても手間をかけて造ったもの。お父さんが息子にマッセの練習させるために特別につくったものです。世界一にするためには何でもやる、父親の執念を感じました。町田正さんはキューの切れがものすごくいい、そして柔らかい。才能もありますが、道具とトレーニングもなければ絶対に身につけられない技、それが「シルクハット」です。トレーニングの仕方がどれほど重要かわかります。おそらく小林先生でも真似できません。そういう特別なトレーニングをしていないからです。
 アーティステック・ビリヤードで世界2位の町田正さんのお父さんのお店へ出入りするようになって、数回目の時、「プロだから、コーチ料をとるのだが、ebisuさんにはタダで教えてあげる」と言われました。わたしは自分の筋がよかったからと思いたいのですが、もっていたキューがある名人の作だったからでしょうね。タップも世界最高クラスのメーカの逸品がつけてありました。「いまもうないよこのタップ、十数年前に見たのが最後、鑢(やすり)を当てさせてくれないだろうか?」と申し入れがあり、OKしました。タップをいとおしむようにやすりを充てて削った後に、タップの調整の仕方を教えてくれました。角を落として半球状に仕上げます。台の上に置いた球と目からキュー先のタップのカーブがちょうどかぶさるような位置から見て、同じになるように調整します。そのほうが球の端の撞点をついたときにミスショットが少なくなります。いや、そうではない、だいじなのはいままで狙えなかった外側の下の撞点を撞き抜くことができるようになった、軽い弱いショットでドロー・ショット(引き)ができるようになりました。大きさの異なる円と円が打突でぶつかります。タップの角に当たるとミスショットが出やすいのですが、半球状に調整すると角がないのでミスショットになりにくいのです。吉岡先生のタップの調整の仕方は半球の上面、そうですね半径で割ると1/4くらいのところでカットしたような穏やかなもの、だから角が立ってます。そういうやり方がスタンダードでした。町田先生のタップの調整法はわたしにはまったく異例だった。理屈がわかったのでそれから、町田先生方式のタップの調整をしています。どうぞ、セミプロ以上の腕前の方は、真似してください。安物のタップや腕が悪ければどんなに素晴らしいタップの調整ができてもおそらく効果は小さい。(笑)
 小林先生は平成のときの天皇のビリヤードコーチ、常連会で準優勝したときに世界最高のチョークをワンケース(12個)を賞品としていただきました。アマチュア全日本チャンピオンのK柴さんに決勝で負けました。一回目は撞き切り(自分の持ち点をノーミスでクリアすること)ましたが、その裏をK柴さんも撞き切り、延長の2戦目はK柴さんが先、2回続けて撞き切りました。試合で撞き切りなんて滅多にあることではないのです。それが3回続きました。初回にわたしに撞き切られたので、あいつ本気モードになった。(笑) さすが元全日本アマチャンピオン本気出すと半端なく強い。ゲームの種類はキャロムゲームの三つ玉です。
 見ている人たちが手に汗握る白熱の試合、準優勝でしたが、観客に大いに楽しんでもらえました。メーカーがとっくに潰れて、小林先生が世界大会用にしか使わないチョークを準優勝商品にいただいたのです。半分は残っています。ダイヤモンドを砂にしたようなきらきらしたものが青色のチョークに混ざってます。思いっきり端を撞いても、ミスショットにならない。こんなチョークは初めてでした。
 町田正さんは今の天皇のビリヤードコーチでした。ボークラインゲームを3回お相手願いました。このゲームの全日本チャンピオンですからね。わたしはお相手していただいただけで感謝感激でした。トレーニングメニューは正さんのお父さんの方に教えていただきました。ノートが50ページほどあります。
 そういうコーチに巡り合うのは、ほんとうに稀。自分の方から出かけないとお会いできません。熱意があれば、叩くと案外と門は開くものです。どんなに偉そうに見えても、実績があっても、相手もやはり人間なのです。熱意にはいつか応えてくれます。(笑))
 駿台予備校の荒木重蔵さん(数学)が小林先生のお店の常連会で一緒でした、プロクラスの腕前です。三菱銀行のN川さんもお上手だった。システム関係の担当だと言っていたような気がします。常連会には日本野鳥の会の方が2名いました。1986年から1992年ころまでの話です。町田先生のビリヤードは八王子、小林先生のお店は新大久保から徒歩2分のビルの2階、仕事が忙しくて、なかなかいけませんでした。
 小林先生のお店にはベルギー製のスリークッションの台が4台ほどあったかな。ラシャが綾織りでなくて平織りだった。掌を当てて前後に動かしてもラシャがほとんどずれません。人間の力では無理そうなのでどうやってラシャを張るのか訊いてみました。ラシャを引く専用の道具があるんだそうです。それで引っ張りながら隙間をつめながら鋲を打つそうです。台にはヒータがついてました。日本は梅雨があるので湿度が高くなるからです。湿度が高くなると、角度が小さく出てしまいます。ベルギー製の台のラシャ張替え一度だけでいいから手伝ってみたかった。吉岡先生のラシャ張替えを小さい時から何度も見ていたし、中学生ころからはオヤジを手伝ってラシャの張替えやったことがありました。いまできるかな?あやしい!自分一人で全部をやったことはなかったけど、作業の段取りは記憶にあります。お手伝いくらいしかできないでしょうね。あれ、結構楽しいのです。張り替えたあと、まっさらなラシャの上で玉を走らせてみる。なつかしい。

 小林先生もビリヤード店の息子です。わたしは「小林さん」と言ったことがありません。どういうわけか出遭ったときから「小林先生」でした。ネットで調べたら小林先生は7歳年上、誕生日が3日違いであることを知りました。あれ、忘年会のときに聞いたかもしれません。誕生日が近くて肩組んで写真撮りましたね。聞いた、聞きました。忘れてました。
 昨年11月に77歳で亡くなられています。お世話になりました、ご冥福をお祈り申し上げます


*ビリヤードスリークッション世界チャンピオン小林伸明
7https://ja.wikipedia.org/wiki/小林伸明

**町田正
http://champion.wp.xdomain.jp/

 町田先生のこのお店はお父さんが経営していたもの、とってもなつかしい。SRL八王子ラボ勤務のときに20回ほどしか行けませんでした。正さんは京王八王子駅前のビルの2階でご自分の店をやっていました。お父さんが亡くなって移られたのでしょう。

<余談:小寺さんと友人K藤>
 小寺さんがバドミントンが学力をアップするのにとっても役に立つと彼のブログで繰り返し述べておられます。市民バドサークルを三十数年間奥様と主宰して来られた。息子さんや娘さんもそのサークルの一員です。小寺さんは東大現役合格、そのまま大学院へ進学し、マスターを終えたあと富士通へ。野球が大好きで、東大野球部のメンバーだったそうです。野球のことは技術的なことをよく知っていますから、大学時代は勉強には熱が入らなかった方かもしれませんね。東大の人は頭で野球する。(笑)
 都内随一の進学校である開成高校に「たまたま合格」(小寺さんの弁)した息子さんは開成でもバドクラブに所属、いまは東工大教授で量子コンピュータを教えています。娘さんもバドの名手だそうです。バドの名門高校関東第一高校の教頭先生のようです。国語が専門。
 小寺さんのブログの愛読者の一人ですから、いつのまにかプライベートなことをよく知っています。

  東大安田講堂の事件があったときに大学院の1年生だったというので、私よりいくつか年上です。1969年1月の東大安田講堂事件では根室幼稚園の幼馴染が立てこもった一人だったので記憶しています。SRLで東証Ⅱ部上場準備要員として私より2か月先に採用されたK藤がその年の受験でした。東大の受験はその年はなかった。「あればわたしは東大法学部卒だった、浪人できないので仕方なく中大法学部へ行った」とK藤。41歳の時に会社を辞めて独立起業、2年後に事業が軌道に乗り始めたときに胸部に進行性癌ができて、半年で逝きました。癖があるけどとってもいい奴でした。事業が軌道に乗り始めたら、一緒に事業をやらないかと誘ってくれました。最初は副社長、断ると社長のポストではどうだろうと。臨床検査業界最大手のSRLでなければやれない仕事がいくつもあるので、それも断ると、事業を分割して営業譲渡、その直後の発病でした。奥さんは東大理三卒、ある有名海外メーカの化粧品部門の開発部長でした。

 小寺さんはバドミントンが学力アップに効果があると繰り返し述べていますが、わたしの場合はビリヤードです。無心に遊ぶ時間をもつことがどんなに脳を活性化するかよくわかります
 子どもの学力アップに興味のある方は、小寺さんのバドミントンのブログをお読みください

**バドミントンが拓くあなたの未来
https://blog.goo.ne.jp/badmintonmusume/e/e446278865d

 #3066 C中学校バドミントン部:首都圏の技術指導チャンネルを開く Jun. 24, 2015
https://nimuorojyuku.blog.ss-blog.jp/2015-06-24

<余談-2:バーチャル空間で無心に遊べ>
 ビリヤード台を頭の中に浮かべて、ゲームを楽しむ技が小学生の時にに身についていたことはすでに述べた。さまざまな問題を脳内の引き出しにしまっておいて、いつでも取り出してそれをいじくることができたから、ルーチンの仕事のほかにプロジェクトをいくつ抱えても負荷にはならなかった。多い時にはルーチンのほかに5つのプロジェクトを2年間抱えていたことがある、このときの5つのプロジェクトはメンバーが役員と部長が2人、課長が3人、実際にプロジェクトの作業をするのはわたし一人、産業用エレクトロニクス輸入商社で愉快な仕事だった。財務委員会、長期計画委員会、収益見通し分析委員会、為替対策委員会、電算化推進委員会、あとで6つ目の利益重点営業委員会の方もシステム化案件を含んでいたので、東京営業所長(課長職)のE藤さんから円定価システムを頼まれて一緒に実務の検討からやった。移動平均値で円定価に使う為替レートの計算式を決め、平均的な納期で仕入レートを決定、推定仕入額を計算して、バルクで為替予約をした。それで、為替差損の発生が消滅、日米金利差で、仕入額の2%ほどつねに円高差益がでるという利益構造に変えた。E藤さんはわたしが付き合った営業マンの中ではナンバーワン。

(昨日、フランスからPCR検査機械の製造で感謝状をいただいたPSS社長の田島さんが営業マンとしてはE藤さんの次かな。1986年ころはアドバンティック東洋という会社の営業マン、SRLの業務部の自動分注機開発のメーカ側の担当者だった。自由に開発をやりたかったのだろう、SRLをがっちりつかんで、会社に見切りをつけ数年で独立している。購買担当で、八王子ラボの検査機器に限らず、固定資産購入はわたし一人でやっていたから、かれのところへの購入協議書の審査を何件もしたし、発注書も何枚も書いた。独立した当初も同じ。わたし一人で年間20億円以上買っていたし、製薬メーカとの検査試薬の価格交渉はもっと金額が大きかった。だから、よほどしっかりしていないと危うい。お誘いに呑み込まれたり、自分の方から接待を要求する、そういう人が絶えなかったのである。程よい距離を保つのが好い。
 田島さんには一度だけ八王子の居酒屋で酒をご馳走になったことがあった。その居酒屋の店主の趣味が全国の酒造巡り。で全国の造り酒屋を回って自分が飲んでおいしいと思った酒だけ買ってくる。といっても十本単位だから、あとで送ってもらっていたのだろう。取材がはいって有名になるともう行かないと言っていた。特別に仕入れた銘酒が地下蔵にたくさんしまってあった。メニューや壁に名前が張ってある銘柄を選んで注文して飲んでいると、「こちら飲んでみてください」とおもむろにガラス製のグイ呑みを三つ並べた。二つは美味しかった、無名の地方メーカーだった。一つだけまずいと感じたので、苦労して仕入れた酒をまずいと言っては失礼だから、「この盃の酒は悪いけど僕の口には合わない」と言ったら、満面の笑み。田島さんと酒談義しながらカウンターで飲んでいたので試されたのだ。そのあとで、とびっきりの酒を出してくれた。こんな味の日本酒があるのかと思うような逸品、驚きました。「すごいお酒を集めてますね」と言うと、医療関係でお金をたくさんお持ちの客が酔って、「一番いい酒をだせって言われるんですが、この酒は出しません、もったいない、味のわかる人にだけ」、酒の選び方も目利きだったが、お追従も上手なオヤジだった。お陰で気分良く酔えました。田島さんとは好い酒呑みました。
 それから何年かして営業本部の関係会社管理部に異動して三鷹の居酒屋で飲んでいた時に、田島さんが八王子ラボの管理職と連れ立って入ってきて、カウンターの隅で飲んでいた。しばらくすると、そのお店で一番高い日本酒が二つまわってきた。卒のない人だ、ちゃんとわたしがいることに気がついていたのだ。わたしがいつ購買部長で八王子ラボに戻ってくるかわからないとでも考えていたのかな、心配なかった。会社はもうそんな部署ではもう使ってくれない。購買システムを作り直すときに、経営管理課長と社長室、購買部の兼務辞令が出たが、一週間でクライアントサーバーシステムでの作り直しの仕様書を書いて担当者に渡した。システム部門でもめたいた。病理医のシステム部長は管理系統合システムのことをご存じない、知識ゼロだった。元々の購買管理システムは担当プロジェクトチームの三人が困ったいたので、外部設計書を半分書いてあげたし、試薬の価格交渉で購買課へ異動になったときに、不具合を全部直してあった。担当システムハウスが管理系統合システムを富士通の当時最大の汎用大型機で稼働させることに決めた合ったので、汎用大型機でEASY-TRIEVEでプログラミングされて動いていた。いい機会だからNTサーバーに載せ替える仕様書を書いて渡したのである。購買在庫管理システムはわたしが書いた仕様書通り、汎用大型機からNTサーバーへ移された。NCDさんの宇田さんが汎用大型機で統合管理システムの運用メンテナンスチーム10人ほどの責任者をしていたので、システム部門から彼にわたしが書いた仕様書を渡すだけで仕事は終わったはず。2年ほどしてそのシステム部長と本社で会社全体の何か催しごとがあったときに、「あの折は大変失礼しました、何も知りませんで」と挨拶があった。ラボ時代に病理医のその人とは何度も話したことがあった。購買の機器担当だったり、学術開発本部スタッフとしてのわたししか知らないから、システム開発の専門家で、会社の統合システム全体の設計を担当していたことを知らなかっただけ。入社した年の1984年にわたしが仕様書を書いて開発した「投資・固定資産管理システム」も購買部に移管されていた。

 田島さんの話だった、回してくれたコップ一杯千円ほどの高級なお酒は相方と一緒に喜んでいただいた。帰りがけにありがとうと挨拶すると、いつもの笑顔、田島さんと酒の席はその2回だけ。
 試薬の問屋三社と取引していたが、各社年に一度だけ、居酒屋でご馳走になった。付き合ってあげないと、三社とも取引金額が年間数十億円と大きいので担当営業が困るのだ。試薬問屋の担当役員と会うのは年に一度の飲み会だけ。価格交渉は全部、製薬メーカの部長と役員がラボに来て交渉するように切り替えたから交渉事はない。卸の業者相手に価格交渉をしても10%ほどしかマージンがないので、徒労。20%カットが目標だった。入社して2年目の11月、予算編成の責任者のわたしが16億円の試薬カットを提言したことから、専務がプロジェクトを作るから、言い出しっぺのお前が行ってやってみろということになった。購買課長ができっこないと言ったのだろう。迷惑な話だった。卸問屋とちょこちょこ交渉するからやれない。製薬メーカ相手に交渉すればいいだけ。予定を超えた。製薬メーカーには卸問屋のマージンは現状を維持するように約束を取り付けておいた。卸問屋いじめはしない。それから毎年、消費量の増えた試薬の価格交渉が恒例となった。情実が絡む余地は小さくなった。親会社のレビオからは少しだけだったが、レビオの子会社の東レ富士バイオは1984年に導入したCA-19-9が超大型案件だったから、検査試薬の仕入額が大きかった。会社上場で客観的な取引価格を決めないといけないので、入社した3か月目くらいに経理部長のI本さんの指示で、東レ富士バイオの役員と「取引価格の決め方」を決めた。当時は平社員、I本さん自分の担当だったが、富士銀行からの出向部長でどうやったらいいのかわからなかったのだろう。「ebisuお前がやってこい、東レ富士バイオ役員の〇〇さんには電話入れておくので、明日1時に練馬のラボの会議室だ」。20分ほどで紙に書いていった方法で納得頂いた。ドル建ての輸入価格に過去3か月間の為替レートTTBの移動平均値を使うと決めたはず。予定量は計算できるから、毎月先物為替予約をしておけば東レ富士バイオさんの方で為替差損の発生はないよと伝えたら、喜んでいた。為替変動による為替差損発生が向こう側には頭の痛い問題だったのである。お会いする前にそこのところの問題の大きさがわかっていたから交渉は簡単だった。36年もたっているのにいまでもこの癌マーカは使われている。わたしも何度もこの癌マーカのお世話になった。手術前は数値が1000を超えていた。それ以来、基準値を超えたことがない、お世話になりたくない検査項目だ(笑) 
 膵癌マーカ検査は1990年ころ学術開発本部で仕事していた時に、開発部の仕事を理解し、各担当がそれぞれ独自のやり方でやっていた業務の標準化をするためにDPC社Ⅳ型コラーゲン検査試薬と塩野義製薬膵癌マーカ検査薬の共同開発を担当した。こちらの腫瘍マーカのお世話にはなっていない。当時は「死のマーカ」と言われた。検査で陽性に出たときには手遅れだった。膵臓は胃の裏側にあるので見つけにくい。最大手の臨床検査会社にいると、いろんな部門で面白い仕事にありつけます。その都度、異動した部門で、その部門特有のスキルを身につけます。その前から、好奇心に任せて必要な勉強はあらかた終わっていることが多い。だから、異動してから実務でスキルを磨くことになります。いい仕事しないとスキルは磨けませんから。)


 中途入社すると産業用エレクトロニクスの輸入商社でもSRLでも、すぐに予算編成と予算管理の仕事をルーチン業務として任されたが、数十ある費目(中項目レベルで数十項目、SRLでは細目レベルだと百を超えていました)を、時間がぽっと空いたときに三ケタで数項目を動かして頭の中で計算を繰り返していた。だから、どの費目あるいは部門の費用や売上や粗利に異常がでれば全体への影響が三ケタの概数で頭の中で計算できた。珠算で暗算が得意だったからだろう。長期経営計画もそうだった、脳内でのシミュレーションの賜物。暇を見つけると引き出しから取り出していつもやっていたから、具体的な実行計画がデザインでき、それを紙に落とす、そして年度予算編成にもって行けばいいだけだった。
 赤字の会社の経営を任されたときにも、新規事業にかかる経費や必要人員や増加する費用や増加する売上、減少する分野の売上、会社の現状の業務の流れ、そしてシステム化したまったく別の実務でたえず頭の中でシミレーションしていた。思いついたアイデアを組み込んで、数年間の損益シミュレーーションや財務構造への影響が判断できた。だから、業種を変えても現場で数か月仕事をすれば、何が問題で、どこをどのようにいじれば黒字になるのかわかったし、すぐに実行できた。シミュレーションの裏付けがあるので、あとは紙に書いて稟議決裁をもらえばいいだけ、簡単な話だった。で、失敗したことがない。

 ビリヤードで無心に遊んだ時間に育った能力は、このように社会人になってからさらに威力を増した、業種を変えて転職しても経営はつまるところ一緒だったのである
 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし

 仕事でそれを貫いただけ。


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