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#3919 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.86~99 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-24 .特攻における諦めと勇気
Ⅱ-25 .特攻も通常化
Ⅱ-26 .搭乗員と参謀の関係
Ⅱ-27.特攻志願説
Ⅱ-28 .特攻命令
Ⅱ-29 .特攻発令者の心情
Ⅱ-30 .特攻世界と参謀
Ⅱ-31 .特攻隊員の心情
Ⅱ-32 .特攻とは
Ⅱ-33 .特攻員と気持ち
Ⅱ-34 .特攻の心得はこう教えられていた
Ⅱ-35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる
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Ⅱ-24 .特攻における諦めと勇気
 
 特攻出撃は軍の命令ではない。搭乗員の志願であったのだ。海軍は一貫してこう主張している。陸軍も同様である。かつての上官たちがこぞってこういっている。 
 搭乗員も、そうだと言っているものもいる。書いているものもいる。しかし、否と書きようもない雰囲気の中、これが自発的志願かと疑問をもらしているものもいる。 
  しかし、沖縄戦のはじめ頃までは、先に触れてきたように、確かに志願の手続きがとられていた。正式の志願方式に「否」と書いて何か報復を受けた話は聞かない。海兵が一人も特攻に出なかったと水上機隊でさえ何もなかった。先にちょっと触れたが、十四期会報で、自分自身「別の途を志望」と書いているものが、一人いる。この同じ水上機隊で、はっきり「否」と書いたものがもう一人いたとのことであるが、二人とも制裁はなかった由。 
 公式の志願募集ではなかったが、どこへ行きたいかの希望を書かせた徳島空で、特攻の希望が少ないといわれて、全員がその晩からひどい仕打ちをうけた話は先に触れた。ただ、これは正式の隊の命令ではなかったが、そういう空気が無言のうちにあったことは否定できないであろう。


Ⅱ-25 .特攻も通常化
 
 航海学校の回天志望の時であったか、志望を変えて、そのため監禁された学生がいたこと(参照087 ︱ 25.特攻も通常化『一旒会の仲間たち』二一三頁)、何か日常業務の失敗で伏竜(水中特攻兵器)に廻されたもの(同書三二六頁)などが、同僚の追想に書かれている。 
 その他、陸軍などでは、機体故障などで帰隊、あるいは不時着したものが説教されたり、参謀の勅諭書き写し命令を受けて〈振武寮〉に缶詰にされた話、海軍の水上機隊で、帰隊するとすぐまた出撃させられたりした話は、先に触れた。が、一方では逆に、帰還してきても、すぐ当然かのごとく平然と次の特攻に従事したと書いているものもいる。個々人はさまざまである。 
 概して搭乗員は、〈不動の確信〉とか〈常時の諦観〉などとは無縁である。彼らの心情は決して一義的でない。それに、貧しい自分の経験から言えば、気持ちは絶えず動いている。不動の安定などというものとは無縁である。 
 もともと、特攻などというものは戦いの作戦などといえるものではない。世界の戦史のどこにもない。大西滝治郎もみずから「統師の外道」といっている。が、外道とはもともと人間の道を外れたもののことであろう。何故、彼は海軍の中に、いや人間界の中にとどまっていたのか。海軍の非人間性の隠れない証拠であるというほかはない。
が、特攻搭乗員が、特にこの性格と離れがたいのは、何より自分から生きて死ぬことを決めていると思っているからであろう。彼らの世界では、生と死とが全く同次元で同居しているのだ。 
 絶えず緊張動揺しているといってもいい。これはニヒルを生きる人間の当然の在り方であろう。正面から見れば、悲劇苦悶と安心面目とが一体をなしている。時によって、そのある一面が強く出るといってもいい。 
 しかし、この事態は、別の角度から見れば、彼らが安心立命を求めて絶えず精進努力を続けている状況であるといってもいいかもしれない。苦闘の人も安心の人も、それぞれの一瞬を生きるほかはないのである。搭乗員たちが外からは一見無心のようにみえるのは、このせいかもしれない。

Ⅱ-26 .搭乗員と参謀の関係
 
 もともと搭乗員の心情のこうした状況は、じつは参謀の幻想の反映であるというほかはない。よく考えれば誰でもが気づくように、特攻は明らかに成算なき自滅作戦の強行である。これに日本軍の勝利を読みとるのは幻想以外の何ものでもない。 
 最初に特攻を出動させた大西滝治郎は、初めは特攻の目的は、レイテ海戦に臨む米海軍の航空母艦の甲板を破壊し、敵航空機の活躍を阻止して海戦を有利に導くためだと言っている。ところが、これに失敗すると、 次に、航空機による全力特攻で、「これで何とかなる」態勢にもってゆく。さらには、一億総特攻の徹底抗戦を通じて、勝てなくても負けない体制を確立する。米国も我々に畏敬をもつことになるだろう、云々。 
 次々と目的が変わっていっていることは、本当の目的がないということである。つまり、特攻そのことを続行することが目的であったということである。 
 ある隊の話であろうが、特攻作戦の目的は、練習機特攻で戦況を一ヵ月間もちつなぐこと、その間にわが国の航空機工場の地下工場化が完了し、新鋭機の生産が可能になるという説明であったという
(石田修「されど特攻隊」「海軍十四期」第一八号七頁)。こんな話も語られていたようである。


Ⅱ-27.特攻志願説
 
 もともと、特攻という命令の主題目は国家の存亡に関する。志願は搭乗員をこの存亡に動員するための仕掛けである。この装置は、特攻に兵士を動員するために、参謀たち考え出した方策であったのだ。命令への動員が兵士自身の志願によるということになっているからである。 
 もっとも、参謀たちはこの欺瞞に自分たち自身は気づいていないのであろう。だから、戦後になってすら、軍の指導者たちは、特攻は志願であったと絶えず繰り返し主張している。 
 特攻が志願とされたということは、じつはそれが〈志願を求めた命令〉であることを表面的には隠してしまうことであったのだ。志願だから、命令ではないといい続けられている。しかし、志願といっても、特攻命令(つまり、〈志願するかしないかを表明する紙片〉の提出)が〈命令〉されていることを見落としてはならない。誰も何にも言わなかったら、何千人もの搭乗員が果たして特攻に名乗り出てきたであろうか。志願という言葉には何か〈欺瞞〉があるような気がする。 
 多くの搭乗員たちの苦闘は、この仕組みに深く関係している。死ぬことを決めたのは、搭乗員自身の決断であることになっているからである。生きることが、みずから死を受け容れているところに、彼らの心情の苦悶が去来しているのだ。


Ⅱ-28 .特攻命令
 
 特攻による突入は命令なのだ。「命中させても帰ってくるな」。しかし、特攻が志願とすると、この死は自分が決めたことになる。志願形式は命令による、生死の交錯をうまく隠している。国家の存亡に馳せ参ずるものとして、搭乗員の名誉、面目、勇気を約束し、自分だけが参加しない恥辱、同僚に遅れをとる卑怯を排除するのだ。 
 参謀、隊長、司令官たちは自分の死は考えもせず、成果も考えずに、兵士の死も計算に入れず、戦果を計ることも忘れて、次々と特攻を出撃させている。彼らは特別攻撃を通常化する命令者になりきってしまっている。


Ⅱ-29 .特攻発令者の心情
 
 もっとも部下の特攻搭乗員を指名する自分の責任を全く考えなかった人間ばかりではない。神雷部隊(桜花隊)の分隊長であった林富士夫中尉は、部下たちばかりを特攻メンバーに提出することに疑問を持った。「なぜ指揮官先頭で行かせないのか11 注 」。出撃者名簿の筆頭に自分の姓名を書き、司令の岡村基春大佐に提出した。岡村は即座に林の姓名を消し、「そんなことに堪えられぬようなヤワな男は兵学校で養った覚えはない」と一言のもとにはねつけている。「君は最後だ。そのときはわしもゆく」(『一筆啓上瀬島中佐殿』一〇六頁、一一六頁)。 
 同様な言葉は大西が比島から台湾に撤退するときにも使われている。比島の航空作戦の続行が不可能になったとき、多くの特攻搭乗員を出撃させた航空艦隊の長官であった大西は残留部隊を残して台湾に撤退してゆく。このとき残留部隊には陸戦に活路を求めよと指示を出している。 
 この大西の指示に対して、「直言」「剛毅」な人物で、残留する佐多司令は、大西の台湾退避に違和感をおぼえて「総指揮官たる者が、このような行動をとられることは指揮統率上誠に残念です」。大西は真っ赤になって唇をふるわせ、「何を! 生意気いうな」と佐多に平手打ちを喰わせた、という話が伝わっている(森史朗『特攻とは何か』二九七頁)。 
 もっとも、じつはもっと低い声で、「そんなことで戦(いくさ)ができるか!」と、右の拳が司令の頬に飛んだだけのことだ、と大西に好意的に書いている文章もある。この文章は大西と共に台湾に戻ってきて、戦後までも生き延びた大西の副官によるものである(同書二九九頁)。いずれが真実であるか不明である。 
比島残留部隊総勢約一万五千四百名の内、山岳地帯で生き残ったのは四五〇余名でしかなかった(同書二九七頁)。 
 大西は戦後自殺したが、その遺書には隊員を多く殺したことについて、わびる言葉はない。むしろ「よくやった」などという指揮官の言葉を書き残している。大西が何故自殺したか、よく分からない。ただ特攻搭乗員を悼む愛惜の念はない。敗戦直後は、米軍は特攻隊員を処刑するという噂が流れて、生き残った搭乗員の中には、米軍に捕まるといけないというので、すぐには故郷に戻らないでいたものも何人かいた。しばらく隠れて様子を見ていたのである。大西滝治郎が自決したのは、こうした状況の中である。敗戦の日の晩のことである。 
 神雷部隊の司令であった岡村大佐は、「最後のそのときはわしもゆく」といつも語っていたが、敗戦のときにもそのまま生き残っている。ただ、昭和二十三年七月に千葉県で鉄道自殺している。遺書はなく、「自殺の原因は、神雷戦没者たちに詫びるためではなかった」ようである。蘭印方面で昭和十八年頃に起こった「捕虜虐待事件の関係者として、連合軍の追及を苦にしてのことだった」といわれている(『一筆啓上瀬島中佐殿』一三〇頁)。


Ⅱ-30 .特攻世界と参謀
 
 搭乗員の文章を見て、気づかれることの一つは、概して家郷や親族に比して、友人、知人に関する文章が少ないことであろう。つまり、横の関係に触れているところが少ない。横の関係とは一般の世間との関係であろう。あるいは、生きている人間世界のことといってもいい。横が少ないとは、現実の人々が生きている世間にあまり関わっていないことといってもいい。つまり、彼らは、幽鬼奈落の世界に近いところにいたのである。 
 もっといえば、彼らは国のために死ななければならなかった。にもかかわらず、必ずしも本人がその現実の国に直接的に結びついていない。人間界を離れてしまっている。しかし、この事態は、参謀がじつは「横の関係」を直視し得ず、現実の生きている日米関係を離脱してしまっていたことの反映ともいえるかもしれない。搭乗員はこの参謀世界に組み込まれてしまっていたのだ。現実の世界からの超越(つまり、死の世界への参入)を命令されていたのだ。 
 参謀軍令部は、現実における〈日米戦力〉から逃避して、自分らの作戦手柄の幻想しか考えていない。参謀が盛んに日本の運命を叫びながら、じつは真の日本の敗戦状況を見ていない。考えていない。 
 搭乗員たちはこの参謀たちの世界の映しを生きているに過ぎない。つまり、参謀の話で動いているため、搭乗員たちは、現実の生きている国の実情を考えていない。当然かもしれぬ。搭乗員たちはほとんど特攻作戦の正確な成果を知らされていない。彼らは、死に神、幽鬼の世界に組み込まれてしまっている。 
が、特攻仲間は人間であって人間でない。出撃する仲間を前にして、「明日往く」「そうか」以外に言葉はない。言葉は空虚、口を出ると、もはや本当のことでなくなる。気持ちがいいつくせない。無理にいうと、現実に沿わないといってもいい。 
 雷撃隊員と特攻隊員とが同時に出撃していったことがある。両者の態度、言葉は全く違っている。雷撃隊員は日常の言葉を使っている。特攻隊員はひたすら沈黙。ただ歴史の実態は逆の結果になっている。雷撃隊員は全滅。一人も帰ってこなかった。ところが、特攻隊員は何人かが不時着、生存して帰還している。これが歴史の現実である。 
 特攻隊員の行き先は、無の奈落である。だから、当然現実ならぬ天上、地の底が現実的意味を持ってくる。あるいは、その非現実が彼らの真の現実となるといってもいい。奈落を生きる特攻搭乗員は、すでに死の世界に組み込まれているのだ。


Ⅱ-31 .特攻隊員の心情
 
 しかし、何かに心情が一定して決まっているのではない。生死との間で絶えざる迷いと悟りの戦いがあり、心情の苦闘があるといってもいい。この苦闘が一方から言えば、不断の絶えざる精進であったことは先に触れた。 
 といって全く孤独に生きているのではない。お互いに仲間に支えられて、その中で生きているのだ昭和二十年の四月にはすでに鹿屋の出撃基地に待機していて、たまたま敗戦まで四ヶ月近くも出撃する機会がなかった搭乗員がいる。 
 敗戦で八月に家に帰ってきてから、先に出撃散華した同僚たちが毎晩夢に出てくる。お前だけ生きて帰るとは怪しからん。腹を切ってこちらの国にやってこい。とうとう、村の菩提寺の和尚さんに頼んで戦死した同僚特攻員たちの供養をしてもらったところ、それからは彼らが夢に出てこなくなって、ゆっくり眠れるようになったといったことを書いている仲間がいる  注41 。 
 奈落の国も孤独ではない。むしろ固い絆で結ばれているのかもしれない。特攻仲間世界は独自の世界なのである。


Ⅱ-32 .特攻とは
 
 ただ、特攻は生を生きられず、死を生きるほかはない。個体が死に、全体が生きるということである。悲しみが偉大に通ずるということであろうか。個の死を悲しみ、全体が生きると思うと解するひともあるかもしれない。他人に役立つことで、他人が自分を評価し、大きな名誉が残るというひともいるかもしれない。 
 また別の観点からいえば、不確実な勝利(観念の世界)を信じて、部下の消滅という現実を正当化する参謀の立場もあるかもしれない。死を絶対化する道徳教育(自己満足)に陥っていたにもかかわらず、外的成果(救国)を叫ばざるをえなかった矛盾に気づいた軍令部参謀はどれほどいたのであろうか。 
 参謀の不誠実な歴史観が、時代の不可避の真の現実となってしまい、ほとんど正確な戦果が発表されない状況の中で、搭乗員は薄々この事態を自覚していたかもしれない。が、彼らは特攻作戦そのものを拒否していない。恐らく隊を脱走したものはいなかったのではないか。 
 しかし、特攻戦術指導者中島正中佐は、人間を爆弾とする立場に立つ。爆弾命中の成否のみを問題にしている。隊員の苦悶、悲しみは全く理解していない。この指導者はこういっている。「彼等は自分が、何か特別のことをするのだ、というような意識さえ現わさなかった。或いは、〝死〟ということよりも、如何(どう)して〝命中するか〟に心を奪われていたのかも知れぬ」(保阪正康『「特攻」と日本人』八十六頁)。 
 特攻の意味は何だったのか。死んだからとて戦争は勝ちになるのか 注42 。この疑問を指揮者も隊員も考
えてない。ただ死ねばいいことになってしまっている。ここに特攻隊員の悲しみがあり、またそこに彼らの偉大さがあったともいえるかもしれない。 
 特攻者の気持ちはいかに。爆弾の成否より、父母家族の将来。人間に帰って死ぬということであろうか。

Ⅱ-33 .特攻員と気持ち
 
 特攻から帰還したもの、特攻不時着の経過はよく書かれているが、搭乗員自身の特攻そのものに対する気持ちはあまり書かれていない。書ききれないほど複雑で、また書いても詮無いことと思っているのではないか。それほど多様で複雑であったに違いない。自分の苦しさ、生き残った思い、自分の意味づけ、自分の納得など、語っても仕方ないし、語りきれない。 
 何故志願したのか、なども正確には答えきれない。命を賭してあえて志願した理由は、二極の動揺の中にあって、もはや言葉や説明を超えている。他人はもちろん、本人さえ正確には意味づけ出来るものではない。彼らはただ、非運を負って飛行機に搭乗し、痛ましくも太平洋に消えていったのだ。
この男たちの命は、理屈や納得や言葉を超えた執念と悲哀を伝えている。語りきれない、あるいは語り切れるといったら嘘になるといってもいい。 
 誰もが立派であることを見せたいところがある。練習生だと本当に一生懸命教えられた通りに言葉を続ける。が、悲しみが内にこだましている。予備学生だと、何としても自分なりの納得を示そうとしている。その代わり悩みや疑問も多い。その一部は彼らの文章ににじみ出ている。 
 特攻の意味とは何なのか。死んだからといって必ず勝ちになるのか。この疑問を指揮者も隊員も考特攻の心得はこう教えられていたえていない。ただ、死ねばいいになって終わっている。ここに特攻隊の本当の悲しみ。そして悲しみの中の偉大さがある。


Ⅱ-34 .特攻の心得はこう教えられていた
  「と号空中勤務必携」(陸軍が昭和二十年五月に作製した特別攻撃隊員用の「教本」)
 
 衝突直前  
  ◎速度ハ最大限ダ    
   飛行機ハ浮ク ダガ    
   浮カレテハ駄目ダ  
  ◎力一パイ、押エロ押エロ    
   人生二十五年、最後ノ力ダ    
   神力ヲ出セ 
 衝突ノ瞬間   (…)  
  ◎目ナド「ツム」ッテ    
   目標ニ逃ゲラレテハナラヌ  
  ◎眼ハ開ケタママダ
(押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈陸軍編〉』九九頁)
 
 他の部隊でも、目を閉じては成らぬことは強調された。目を閉じれば、操縦桿を押す力が一瞬ゆるむ。速度は減じ、飛行機は浮く。飛行機は目標をオーバーしてその上を通り過ぎてしまうことになる。それを防ぐために、降下突入にはとくに着意しなければならぬ。眼を開けたまま突入してゆくためには恐怖心を克服する強烈な精神力が必要であった。

Ⅱ-35 .特攻に疑問を持っていた隊員もいる
 
 橋本義雄[早稲田大。操縦。出水空。筑波空]は筑波空の特攻隊員として訓練を受け、最後はS三〇六(特攻部隊)に所属して待機。が、敗戦まで出撃の機会なく、生存。 
 特攻訓練中に、零戦は特攻機に向いていないという考え(急降下と共に降下角度が段々深くなる)、また直接突入の特攻方法に疑念(飛行機と共に突入する爆弾の威力は、落下に従って加速する投下爆弾の威力に及ばない)を抱き続けていたところから、戦後には忌憚のない海軍への行動批判を述べている(「零戦特攻の戦法」『学徒特攻その生と死』二八〇〜二九一頁)。 
 出撃した特攻機は、いくつか「敵大部隊見ユ」「敵戦闘機見ユ」などの電文を残している。が、必死の搭乗員をどんどん投入しながら、当局はこれらの特攻機の戦果について発表したことがない。どれだけの効果があったのか(二八九頁)。 
 敵に恐怖感を与えたとはよく言われた。が、参謀に関わる問題はこんなことではあるまい。 
 つまり、それですむ問題ではあるまい。搭乗員に死を要求しながら、この戦法が戦況をどれだけ変え、どれだけ我が軍に有利をもたらしたか、特別の作戦であるだけに当然その戦果は明言公表すべきであったはずである。 
 にもかかわらず、当局は、まるでよそ事のように「特別攻撃隊は皇国必勝の大道を邁進し、一億特攻を実践する国民の鑑みである」と空虚な言葉を嘯くだけであった(二八九頁)。
 
 当時から無謀な作戦を事もなげに立案し、尊い生命と貴重な虎の子戦闘機をむざむざと失わせた連合艦隊司令長官をはじめとして幾多の将星、縄付き参謀共は何時の間にか霞ヶ関の役人よろしく栄達、立身のみに走り国家の大計に汚点をつけたその責任は何時までも拭い去ることは出来ない。
(同書二九一頁)

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注 39   『続・あゝ同期の桜』では二〇〇、二〇二頁。
注 40   『一筆啓上 瀬島中佐殿』一一六頁に出てくるエピソード(林富士夫ではなく、新庄という人物 の発言と思われる)。
注 41   出典不明。Ⅳ︱ 15 .にも同様のエピソードが紹介されている。
注 42   同様の文章が次節にもあるが、原文ママとする。なお、保阪正康『「特攻」と日本人』を確認したが、 引用箇所は特定できなかった。 
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和辻哲郎の視圏―古寺巡礼・倫理学・桂離宮

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  • 作者: 市倉 宏祐
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#3918 弊ブログ記事一覧:#3801~3900 Feb. 3, 2019 [0.1 ブログ記事履歴]

 2018年8月5日から2019年1月17日までの弊ブログ記事のリストをアップします。
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#3800 もったいない:育てそこなっている貴重な人材群 Aug. 5, 2018
#3801 放射状柱状節理:花咲港天然記念物「車石」Aug. 6, 2018
#3802 金刀比羅人社例大祭:宵宮 Aug. 9, 2018
#3803 根室金刀比羅神社例大祭本宮:神輿巡行 Aug. 10, 2018
#3803 根室金刀比羅神社例大祭:本宮の昼Aug.11, 2018
#3804 根室金刀比羅神社例大祭:本宮の夜 Aug. 10, 2018
#3805 高1:7月進研模試全国平均と根室高校平均比較:学年トップの学力は? Aug. 14, 2018
#3806 四百年に一度の巨大地震でも水道は大丈夫な根室 Aug. 15, 2018
#3807 脊椎の圧迫骨折チェック:女性は60歳を過ぎたら毎年身長を測定しよう Aug. 19, 2018
#3808 成績上位層がスポイルされている Aug. 20, 2018 
#3809 成績下位層もスポイルされている Aug. 21, 2018
#3810 上位10%をどのように育てるか Aug. 22, 2018
#3811 弊ブログ記事一覧:#3601~3700 Aug. 25, 2018
#3812 弊ブログ記事一覧:#3701~3800 Aug. 25, 2018 
#3813 根室市長選挙 保坂いづみさん立候補の意向 Aug. 27, 2018
#3814 秋刀魚のシーズン到来 Aug. 29, 2018
#3815 ジャミ秋刀魚は来年の資源:具体的な水産政策が不可欠 Aug. 30, 2018
#3816 根室市長選挙:基本理念真っ向から対立 Sep. 1, 2018
#3817 根室もようやく電気がつきました:満天の星、きれいだった Sep. 7, 2018
#3818 根室市長選挙投票日 Sep. 9, 2018 
#3819 根室市長選挙投票率48.5% :石垣新市長誕生 Sep. 9, 2018
#3820 新市長殿の趣味はジャズ:公正・公平な市政を心掛けてもらいたい Sep. 11, 2018 
#3821 北海道胆振東部地震でわかったこと:自家発電機 Sep. 14, 2018
#3822 避難所への電気の供給:政治の役割 Sep. 15, 2018
#3823 濃霧の中を走る:4本目の電信柱が見えない Sep. 15, 2018
#3824 手動式空気入れで車タイヤの空気圧調整をしてみる Sep. 19, 2018
#3825 今年ようやく600km走破 Sep. 22, 2018
#3826 地震はなぜ起きるのか:地震は爆発現象であるという説 Sep. 23、2018
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#3867 教育講演会④:修学旅行の巻 Nov. 30, 2018
#3868 教育講演会⑤:教育長は外出中 Dec. 1, 2018
#3869 教育講演会⑥:補遺 学び合い Dec. 1, 2018
#3870 巨大冷蔵庫内をサイクリング Dec. 2, 2018
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#3917 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.67~85 Feb. 3, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

  本欄の左にあるカテゴリー・リストにある「0. 特攻の記録 縁路面に座って」を左クリックすれば、このシリーズ記事が並んで表示されます。
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Ⅱ-
17.特攻の死の感慨
Ⅱ-18 .特攻志願実情、実態 :
        ◇「自分と出会う」市倉宏祐◇

Ⅱ-19 .同僚たち
Ⅱ-20 .〈望〉と〈熱望〉
Ⅱ-21 .第一次の隊員たち
Ⅱ-22 .特攻志願理由
Ⅱ-23 .酒巻一夫の日記

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 Ⅱ-17.特攻の死の感慨
 
 特攻隊員でありながら、自分は切迫した気持ちはなかった、といっているものもいる。 
 すでに触れたが、個人的に分隊長から呼ばれて、大井空の大八洲隊に編入された斎藤登茂雄は、こうして「薄暮飛行から夜間飛行へと錬度を上げながら出撃命令を待っていたが」、五月十一日に大井空特攻隊は解散された。
 
 命拾いしたと思ったのも束の間、同年六月大井空の特攻隊は再び編成され、鈴鹿空で偵察訓練を受けていた私は呼び戻されて第二中隊(…)となった。専ら夜間飛行の訓練が続いたが、八月始め、第二中隊は松山の拝志基地に転出し、待機中終戦となり、(…)またも死を免れたのである。 
 前後二回の特攻隊生活は「いずれ出撃して死ぬのだ」と覚悟した日々であったはずだが、それほど切迫した気持ちになった記憶がない。生来鈍感で死というものを切実に考えなかったのか、特攻死を受忍し諦めていたのか、或いはまだ出撃命令を受けていないので、死に直面した心境に達しなかったのであろうか。 
 この点、敬服するのは同期の河晴彦君で、三月に特攻隊に入ってから六月二十二日に戦死するまで、常に死をみつめ考えていたようで、五月十八日の母堂への手紙には「一日一日を宝玉の様にいとおしみ、惜しみなくくらしています」と書いている。
(「浜までは蓑を着る」「海軍十四期」第一九号一〇頁)
 死に鈍感なのか。あまり考えもしない性分なのか。それとも、諦めているのか。日々に追われているのか。自分自身がはっきり分からないのかもしれない。痛烈な経験というものには、こうした面があるような気もする。
 
 しかし、回天志願では、はじめ決心が付かなかったひとがいる。何人かが自分でそう書いている。もちろん逆に、自分ではっきり決めたひともいる。
 
 大石法夫[航海学校。二分隊四区隊]
 
 何人応募したか今も知らぬが、ともかく小生は翌朝分隊長室を訪うた。同班の某学生は一人息子とかで慰留され、部屋で泣いていたが、小生の場合は言葉も少なくすぐ許可してくれた。
  「貴様は兄も二人いるし、もっとも適任である」。そんな言葉をもらった。
  (…)もう来年は桜の花を見ることはない。死ぬのなら平然と死にたい。見苦しい死に方はし たくない。…)人の子と生まれて親の愛情は手厚くいただいた。就職したら給料をもらったら、まず第一に親にお礼の気持をさせてもらおう。(…)それははかない夢となります。
  (…)回天の中で一応操作を終えますと、望郷の念が起こります。競争ばかりしたなあ。(…) 人間に生まれた甲斐があったという平和な日があっただろうか。ないとなったら自分の人生は何であったのか。靖国神社へ祭られたとしても何の意味があるのか。もしあえて意味を尋ねるなら、両親に二四年間、人一倍愛情を注いで養育をしていただいたことが、ただ一つの誇りであった。
(『一旒会の仲間たち』二〇一〜二〇三頁)
 
 この人の文面からは、彼が何故志願したのかが全く分からない。あるいは、自分でもその理由がはっきり分節化しえていなかったのかもしれない。人間の気持ちには、こうしたものが多々あるのではないか。一つの例として引かせてもらった次第である。
 
 初の募集には決心が付かず見送り、二回目のときに応募したひともいる。
 
 田英夫[東京大経済学部。四期兵科予備学生。航海学校。震洋](同書一二八〜一二九頁)は、最初の募集の日の晩は決心が付かず、眠れず、志願した仲間がぐうぐう眠ってゆくのを一晩中気にしていた自分を書いている。彼も二回目は志願しているが、何故最初は見送り、二回目には決断したかは、書いていない。誰も拒否はしたくない。しかし、いま死ぬのはちょっと抵抗がある。どうしようかといった苦悶ではなかろうか。細かい気持ちのひだなどは表現しきれない。あるいは、こうしたことなども、自分でははっきり表現できない、あるいは自分自身でも分からない点があるに違いない。


Ⅱ-18 .特攻志願実情、実態
 
 特攻志願、あるいは特攻体験については、自分が何と書き、どう感じていたかを、多くの人がごく親しい少数の人にしか喋っていないのが実情のようである。何故かほとんどの人があまり話さない。会報に書かれたものの中でもこのこと自体に触れた文章はたいへん少ない。 
 これが何故なのかも一つの問題であるが、詳しくは本来書けない性質のものなのかもしれない。具体的に署名入りで、何と書いたか、どう感じていたかをはっきり述べている人は、たくさんの会報記事の中で、わずか二、三人でしかない。ここでは、戦後何十年かの後のコンパのときにあれこれ聞いた話で補うことにする。
 
 沢田泰男[大正十一年六月二十九日生まれ。東京大法学部。昭和二十年五月八日横須賀上空戦死] 

 昭和二十年四月十二日(日記)
  (…)特攻隊員に命名されて、体当りするまでの気持なんていうものは、とても筆などにては 真を写し切れるものではない。この心境は、かかる経験を有するもののみが味わいうるものとして、書くことはやめよう。 
 さらば、父母、弟妹よ、師よ。御健康をお祈りします。
(『あゝ同期の桜』一四六頁  注36
 
 戦後五十年以上も経った頃になって、頼まれてたまたま新聞に自分が書いた文章を掲げておく。ひとそれぞれに思いがあって決してこれが一般的であるなどとは思わないでほしい。もっと勇壮な方もいるであろうし、もっと慎重に多くの面からこの作戦を考えた方もいるであろう。ただ一人の例として考えていただいたらいいと思う。

◇「自分と出会う」市倉宏祐◇
            朝日新聞記事(平成十年三月十日)
 
 昭和二十年の早春、沖縄を守るための神風特別攻撃隊が発令された。この時のことが思いだされてならない。私は谷田部海軍航空隊でゼロ戦の訓練を受けていた。志願を求める司令の話があり、その場で熱望、望、否、の何(いず)れかを記入する用紙が配られた。 
考える時間は十分ぐらいであったかと思う。これまでの生涯がすべて尽くされたほど、大変長く感じられた。最後に〈熱望〉と書いた。決断は一瞬である。その場で血書して志願した者も(四月に沖縄に突入)、また否と書いた者もいた。 
 最初の攻撃隊の発表があるまで、何日かあった。志願の決断のときよりも、この間の方がはるかに重厚な思いをした。道は二つ。選ばれるか、残るかである。一は死であり、他は生である。誰しも従容として死地につきたい。死の覚悟といった言葉は、いくども聞いてきた。ところが、今は全く違う。自分とは何か。いや、何であったのか。この自分が消滅するのである。 
 生きていたい気持ちは否定すべくもない。しかし、自分の死によって国の危機が救われるかもしれない。特攻作戦は回天の戦術でありえたのか。あらゆる面から検討されるべきである。が、いま問題なのは、自分がこの作戦に身を投ずることである。 
 ときに、死にたくない気持ちが強くなる。悪い時代に生まれた。何年か後に生まれてきたら、こんな思いはしなかったであろう。 
 ときに、気持ちが落ち着いてくる。いや、その時代に生まれた者が、その役目を果たせばそれでいいのだ。自分は日本人の生命の流れの一齣(ひとこま)を生きる。隊の外を通る若いお母さんや幼い子供たちを見ていると、何とも心が安らかになる。私が死ねば、彼らは生き残れるかもしれない。誰かれもが、自分の兄弟姉妹のように思われる。一体となって生きている実感が湧いてくる。 
 しかし、飛行場の縁路面注 37に座って、地平線に沈む大きな夕日を見ていると、生きていたい気持ちが悠然と起こってくる。この気持ちは、生きていたいという以外には、余り内容がない。もはや生命の流れとも、一体となる実感とも無縁である。閉じられた私だけの暗い世界である。それだけにまた計り知れない魅力がある。 
 一は生命の流れを守る私であり、他はそれに支えられた自分だけの私である。一は流れに一体化する安らぎであり、他は自分に囚われる執着である。二つの私は通常は絡み合っていて見分け難い。それが突然明確な姿で別々に現れる。熱望の決断は、この二つの私を統合したたまゆらの一瞬であったのだ。分離すれば、一方は絶えず他方に反転して、夫々(それぞれ)の境地を護りえない。安らぎも執着も、何れも迷いであって、悟りではない。むしろ両者の交錯が自分の生きている命運なのだ。
 交錯を直視していると、そのリズムがゆっくりしたものになってくる。 
 攻撃隊は八次まで突入したが、沖縄が陥落して、特攻配備は本土防衛に移行する。幸か不幸か、私は終戦まで攻撃隊員に選ばれることがなかった。今もなお生きることに恵まれている。
 彼らが征かなければ、私たちが征っていたであろう。どんな思いで彼らが出撃していったかは、私たちの思量を超えている。ただ、代わりに生き延びることを譲ってくれたことだけは確かである。己は生命の流れの底に身を沈めて、私たちをその流れの上に残してくれたのである。我々に代わって、身を捧げた人たちの魂の鎮(しず)もりが響いてくる。
 
 当時の状況に少し触れておく。
 
 次に特攻隊の編成があるまで、隊内に残っていた我々はいろいろな経験をした。使われてないエプロン(格納庫の前のコンクリート広場)が敵機の目標になるというので、これを壊す作業。鉄のハンマーでコンクリートを割る作業であるが、これは一撃ごとに頭がカチンとする。簡易防空壕を造るために大きなヒューム管を六、七人で飛行場の隅に運んで行く作業。見た目には楽なように思われたが、やってみると腕立て伏せを何百回もすることになるわけである。 
 敵が上陸してきたときには、陸戦もできなくてはということで、何人かで館山の砲術学校へ一ヶ月講習を受けに行ったりした。航空隊ではもっぱら飛行機の訓練をしているだけであるので、日米間の戦争の実状はほとんど知らなかった。 
 ところが、館山に行って驚いた。日本のどんな大砲をもっていっても、アメリカのM4戦車では跳ね返ってくるというのである。兵隊が穴に隠れていて、特別の形をした爆薬を竹竿の先につけてぶつけるか、軍艦の砲弾にロケットをつけてベニヤ板の台座の上を滑らしてうまく当てるか、するほかはないという。 
 その実物をじっさいにやって見せてくれるのである。戦争がそんな状態になっているのを知って、そのとき初めてこの戦争はもう危ないかもしれないという気がしたのであった。 
 航空隊に戻ってくると、空襲の度に教官たちが邀撃にでるわけである。戦闘配備になると、我々は戦闘指揮所の周りに詰めて、飛行機を動かしたり、燃料を入れたり、機体を磨いたりする。機体が磨かれていないと速力が五ノット違うといわれていた。空戦でそれだけ違えば勝敗に関わるわけである。 
 発進の命令が出ると、一五、六機のゼロ戦が風向きを度外視して全機が一度に離陸してゆく。たいへん勇ましい光景である。 
 ところが、これに引き替えて、帰ってくるときが寂しい。一機一機と帰ってくる。主翼に敵の機関銃の弾で穴がいくつもあいているのに、そのまま燃料を詰めてすぐに離陸して行くのである。 
 しかし、まだ帰ってくるのであれば、うれしいのであるが、暗くなっても、半分ぐらいしか帰ってこない。帰ってこない飛行機を待っているのは寂しいものである。 
 空戦が終わって、二、三日は、これこれの標のついた飛行靴があったとか、〈ヤ〉(谷田部空の飛行機についている記号)の何番の記号のついた翼の破片があったとか、あちこちの村や町から連絡が入る。結局何の連絡もなく、どこでなくなったか分からない飛行機もいくつか出てくるのである。 
 若い紅顔の飛行兵曹が「帰ってきてから食べますよ」「とっておいて下さい」と握り飯を半分残して出撃して行ったが、暗くなった戦闘指揮所のテーブルの上に、一つぽつんと半分食べかけた握り飯がいつまでも残っていたことは今でも忘れられない。 
 高等学校の寄宿寮の部屋で一緒だった友人が気象兵で鉾田(茨城県)の観測所にいた。航空隊に所属している気象隊で、彼のほかはほとんど若い女の子ばかり。外国の電波が入る。娘さんたちが楼上楼下を駆けめぐっている。一晩ゆっくりしゃべりながら、軍隊にはいろいろの持ち場があることを今更ながら思い知ったことであった。 
 あまりにも搭乗員の消耗が激しかったからであろうか、敵の本土上陸作戦に備えて兵力温存するため、米機の空襲に対して教官たちが邀撃に出動しなくなっていった。そのうちに隊そのものが敵の艦載機の攻撃を受けることになり、若い水兵がグラマンのロケット砲にやられて体が破裂した姿などは悲惨なものであった。 
 沖縄の敗北と共に、我々の中から神雷部隊(〈桜花〉という人間爆弾の部隊)の搭乗員に転出するもの、本土防衛の特攻隊の訓練に北海道に転勤するものなどの動きがあり、私なども朝鮮の元山にゆくことになっていた。それが八月に終戦になったわけである。 
 八月の十五日には、厚木から戦闘機が飛来して決起を促したり、副長だか、飛行長だとかが、我々の自決の問題はどうするのかといった士官の会議があったりしたが、結局飛行機が勝手に飛び出さないように、八月の二十二日には搭乗員は全員即刻帰郷になった。


Ⅱ-19 .同僚たち
 
 特攻志願については、さまざまな思いをした。谷田部空の特攻隊(神風昭和隊)に選ばれたひとの中には、本当に心底希望して、喜びすすんで隊員になった人たちがいることも、紛れもない事実である。こんな人たちがいた。


 血書 
 笹本洵平[台北帝大]は悠々としていて、細々とした器用なところない大きいひとであったが、この人が特攻志願に当たって即座に指を切って血書で願書を提出したことを聞いてびっくりした。私なども何とか行かなければならないかなという気持ちはあったが、血書して往くなどという気持ちは理解し難いものであった。
 
 分隊長に特攻を直訴した佐藤、松村両君の気持ちについても同じ思いをした。 
 一人は先に谷田部空から鹿屋まで進出する文章を紹介した佐藤光男、今一人は松村米蔵[日本大]で、二人とも土浦航空隊では私と同じ班にいた同僚である。谷田部空で、昭和二十年の二月に特攻志願が求められた日の夕方に、たまたま本部の方から二人が帰ってくるのに遭遇した。二人とも今、分隊長にわざわざ特攻隊に入れて欲しいと申し出てきたとのことであった。 
 驚いた。松村には奥さんがいて、赤ちゃんもいたはずである。どうしてそこまでやるのか、分からなかった。しかし、そういう人がいたことは事実なのである。佐藤とたいへん仲が良かったので、二人して志願する気になったのであろうか。二人とも、特に愛国の言辞をこととしていた人たちではなかった。今でも分からない。残念な人たちである。松村は昭和二十年四月十四日に第一昭和隊で、佐藤は四月十六日に第三昭和隊として出撃している。 
 戦後になって、私の同僚の一人が追悼会のおりに、松村の奥さまに聞いた話であるが、彼女が「あのとき一万円出していたら、主人は特攻をはずしてもらったかもしれないのですってね」といっていたことが忘れられない。ありもしないことを吹き込む人たちがいるわけなのだ。 
 彼らの本当の気持ちはどういう気持ちであったのか、今私たちにもやっぱり分からない。個人個人によってそれなりの心構えがあったと思うほかはない。奥さんは、その後、神主として息子さんを育てて、めでたく立派に神社を嗣いでいるとのことである。



Ⅱ-20 .〈望〉と〈熱望〉
 
 また、こんな人もいた。特攻志望の書類を提出したすぐ後のことであったかと思う。学生舎に帰って、ベッドを整理していると、そこに一人の同僚が帰ってきた。「何と書いたか」。「熱望」と答えると、彼も「俺もだ」。あまり元気がない。 
 そこへもう一人が戻ってきた。「俺は望と書いたよ」。「俺は熱望だよ」。
  「しまった」といったかと思うと、その同僚は、アッという間に自分のベッドの周りを全速力で、 早周りし始めた。少なくとも三十回以上も。 
 何を言っても、ただ一層早く回るばかり。見ている私自身も、「そうか、我ながらつまらないメンツに囚われて熱望と書いたかな」と思った。しかし、黙っているほかはなかった。志願には、やはりメンツを気にする部分があって、直接の自分の気持ちに忠実に「望」と書いた一人に敬意を払うほかはなかった。 
 といって、私自身はやはりもう一人のように、自在に廻りきれないものがあって、己れ自身の確信の無さを思い知らされて、「これが自分なのだ」と、自分自身に納得するほかなかったことを覚えている。 
 このことは、何故自分が「熱望」と書いて、「望」と書かなかったこととも関係しているかもしれない。熱望、望、否。後年のコンパのときの話では、「望」と書いた人たちがたいへん多かったようであった。何故あのとき、自分は熱望にしたのか。はっきりした理由は自分でも分からない。 
 よく戦況を知っていたわけなのではない。とくに特攻のみが日本を救う途だと熱望していたわけでもない。我々は真の戦局は知らぬ。参謀は当面の戦果を求めているだけだったのかもしれない。が、一方では微かではあるが、日本を救えるなら死んでも仕方がないという気持ちがあったことも事実である。 
 戦況とは別に、何か自分個人の生き方やそのことへの意地のようなものが働いていたように思う。もとより、国を救うべき時だとは思っていた。が、特攻が唯一の作戦であると確信していたわけではない。が、にもかかわらず熱望とした背後には、何か「望」では自分自身に対して潔くないような気がして、自分の意地みたいなもので「熱望」と書いたような気がする。対面とか、面目とか、あるいは、自分だけ助かることなどにはなりたくないといったような勝手な気持ちがあったようである。 
 何となく、「望」と「熱望」との相違が感じられているわけである。何かしらこだわりがあることが考えられる。「望」と書くと潔くない気がしていたが、本人は決して断固特攻を願っていたわけでもない。「望」より「熱望」のほうが思い切りがいいとか(若かったせいでもあろう)、今からいえば、つまらないことにこだわっていたといえるかもしれない。 
 しかもそのときは、みんなが「熱望」と書いたと思っていた。戦後のコンパで、あの時何と書いたかといったことが話されて、多くの人が「望」と書いたことを聞かされて、我ながら自分が堂々たる確信を持っていなかったことを情けなく思ったことであった。 
 また、「否」と書いた人もいた。
  「否」と書いた人は、二、三の分隊では一〇〇人にうち一人はいたとのことが、会報には載っている。 しかし、誰がどんな気持ちで否と書いたかなどという記事は全くない。自分が何と書いたかは、誰も聞かなかったし、特に親しい仲間にしか話さなかったように思う。たまたま、否と書いたとみずから語ってくれたひとがいた。年をとった母がいるからといっていた。私はこれを聞いて全く感動したことを憶えている。 
 末子の私にとっても母親は最も大切な存在であったからである。多くの人が特攻を志望したが、彼は自分の心情を貫いたのである。私にも年老いた母がいた。が、自分には書けなかったことが、我ながら情けなかったのかもしれない。 
 もっとも、戦後三十年もたった頃であったであろうか、たまたま彼の話になったとき、その頃の彼は戦闘機で縦横に空中戦がしたかったから、特攻を志願しなかったといっているという話を聞いた。何か割り切れない感じがしたが、何も変える必要はないのに、こう変えざるをえないものが、やはり何かあったわけなのであろうか。いずれが真実なのか、それとも両方とも真実であったのかもしれない。あるいは、特攻志願の本来の姿などというものは分からないものなのかもしれない。



Ⅱ-21 .第一次の隊員たち
 
 どういう理由で、初めの三〇人ほどの人々が選ばれたかは分からない。第一陣で鹿屋に出撃しながら、敗戦まで出撃の機会がなく、何人かが運良く帰ってきた。この中の一人の人の話では、「熱望」だけではなく、何かもう二、三句つけ加えた人が多く選ばれていたようだといっていた。 
 一方、同じく運良く帰ってきたもう一人は、「熱望」と書いたものは、みんな選ばれて特攻隊員になったと考えていたという。たまたま、小生が「熱望」と書いたという新聞記事を見て、「熱望」でも行かなかった奴がいたんだと天を仰いでいた。じじつ、「熱望」と書きながら、寝台を駆けめぐった同僚も運良く行かなかった。



Ⅱ-22 .特攻志願理由
 
 特攻志願提出のときに、何と書いたかを書き残している人はけっこう何人かいるが、その間の感情の動きを細かく書いている人はほとんどいない。いくつか挙げておこう。
 
 航海学校で、震洋特攻募集のときのこと。

  (…)決定的に命を捨ててしまうには、まだ娑婆っ気たっぷりだったが、格好よく死にたい。 どうせ負戦だから、木っ端微塵になりたい。ほんとに、そう思いこんで、単純に、どんな特攻隊かも詳しく知らないまま志願した。いきなり不採用になった。 
 けったくそ悪く翌日の練兵に出ず、 Only strike したのが功を奏したのか区隊長はじめ偉いサンが、「そんなに行きたいか?」と、いうことで、採用された。
高木渉[大阪商大]『一旒会の仲間たち』一七四頁)


 鹿島水上機の特攻志願

  「A︱すぐ」「B︱次」「C︱他の道」「D︱いや」を記名で理由を付けずに出せ。銀河の事故や 特攻機が標的直前でスティックを引くのが多い事を聞いていたので、敢えて理由をつけて「C」と書いた。部屋に戻って某も「D」を選んだと聞いて、共に後難を恐れたがそれは無かった。
(須永重信「私の一年八ヵ月」「海軍十四期」第三五号八頁)
 
 もともと、CやDをみずから提出したことを会報に書いているひとは、この人一人だけである。本人は特攻隊には編成されなかった。



Ⅱ-23 .酒巻一夫の日記
 
 偵察課程の方で面識はないが、酒巻一夫[昭和二十年四月十二日串良より特攻出撃]は、入隊以来の日記が残っており、まことにひとときの迷いもなく、いつも文字通り立派な軍人たらんとする文章を残されていて、こんな方がおられたのかと、今更感慨深いものがある(参照   『学徒出陣 50 周年記 念特集号』四五〜五〇頁、「関東十四期」第五号三頁、「九州十四期」平成二年十一月十五日号六頁)。 
 彼は昭和二十年の三月十七日大井空の偵察課程を卒業して、艦爆艦攻の百里原空に着任。着任と同時に全員特攻要員と申し渡され、三月二十二日には早くも特攻隊員に指名され、四月十二日には串良基地から出撃している。 
 彼は「いつもニコニコして自信と落着きが感じられ」る人柄であったが(萩原浩太郎「百里原空の三人の友」『別冊あヽ同期の桜』二一八頁  注38 )、彼自身はみずから「躍る思い」といい、「自信なしとはいえ、殉皇の至誠を捧ぐるの機に恵まれ、感奮邁往せむ」と日記に記している(『学徒出陣 50 周年記念特集号』四八頁)。 
 特攻指名から「百里原空進発までの十日間激しい特攻訓練の明け暮れであったが、同期生には露ほども胸の苦衷を垣間見せなかった」(江名武彦「弧雲愁傷・九七艦攻隊散華」土居良三編『学徒特攻その生と死』二九八頁)。
  「凛とした風姿で偵察席に仁王立ち、帽振る私共に挙手の礼で応じて離陸して往った」(同書二九九 頁)。
 
 水上機特攻の岩永敬邦[東京大。操縦。北浦空。詫間空]はこう書いている。

  〔特攻志願の紙片は〕半紙を八つ切りにした紙を二つ折にして、熱望、希望、希望せず、何れ でもよいから、記入して出せと申し渡される。名状しがたい硬さが部屋を占める。勿論それは熱望という二字で埋められねばならない仕掛けになっているものなのだ。一枚一枚を開いていくうちに、行間に、蔽えぬ動揺を伝えるものも見える。
  (…)
 四月十一日朝、魁、水心隊搭乗員整列の令達が流れる。(…) 
 今日の特別攻撃隊員の名が呼びはじめられた。
  「今度は俺だ」読み上げられて行く人毎に、一語々々が、己れの名前に近よってくる。それは 既に所与としての距離であり、時間であり、刹那である。ガキッと己れの名前が己れの肉体を噛み込んだ、暗黒い光がさっと眼を蔽って去った。生命の時間と方向が、今度は本当に刹那に決定されてしまった。二十三歳の生命はその瞬間に生命を絶った。絶たれて尚定められた時間の間、己れの意志と力によってその道を歩かねばならぬ。
(『別冊あヽ同期の桜』一六九頁、一七一頁 注39
 
 前田夘一郎は、航海学校で第三分隊にいたときの人間魚雷〈回天〉志願の体験をこう書いている。

  (…)今日若い人たちから「なぜ志願したか?」と質問されるが、当時は志願することについ ては説明は不要であって「志願しない」ことについて説明を要した。しかし戦後から現在に至る間は逆となって「志願する」理由が問題であった。本当はこのことが重要であったと今でも私は考える。私は海軍入隊時飛行科を志願したくない理由を試験官に答えたが説明とはならなかった。しかし試験官は飛行科を第三志望としていることと、私が長男であることと、私が繰り返し志願したくないことを察してあえて飛行科に採用の判定をしてくれなかったことに今もって恩義を感ずるとともに恥ずかしいことをしたと内心恥じていた。
  (…)私は志望すべきや否やについて話し合う環境もなく時間もなかった。(…)前線の弾丸雨 飛の下の死生観もなく死を畏れていたことはもちろんであって、形而上の一般論で結論など出るはずがないまま、灯火管制下の薄暗い中での自習が終わったところで、本部二階の教官室に赴いた。
  (…)分隊長は「このたびのことに関して学生の総員志願のことを期待したが、必ずしもそようなことにならなかった。しかし選ばれた諸官は分隊長の期待に添うごとく任務を完遂すべし」と訓示があった。
(「わが海軍航海学校の憶い出」『一旒会の仲間たち』三四五〜三四九頁


 山鹿少尉
 
 一方では、特攻を逃れる機会をみずから断った予備士官もいた。 
 山鹿悦三少尉[三高。東京大。偵察。神風特別攻撃隊八幡振武隊。南西諸島]がこの士官である。 
 これは石田修[東京大。操縦。徳島空。宇佐空]が、この山鹿悦三について語っているものである。

  (…)私は宇佐空着任後、司令、飛行長に呼び出され、飛行長付を命ぜられた。その時、「君と は、最後に、我々が同乗して出撃するから、それまでは作戦関係の事務を分担するように」と命ぜられた。 
 その後、飛行長付の業務が多忙のため、増員する必要が生じ、私に、同期生中から候補者二名を選ぶよう命ぜられた。そこで、任官序列に従い先ずK・H君(元徳島空第三分隊学生長)を指名 
し、決定した。次に山鹿君を指名したが、彼は「特攻出撃のため、ここまで来たのだから断る」と峻拒し、その後、特攻出撃した。まことに痛惜の至りである。
(「されど特攻隊」「海軍十四期」第一八号七頁)

===============
注 36  二〇〇三年版では一六四頁。
注 37  朝日新聞に掲載された文面には「縁路」とあったが、著者の原稿を確認したところ「縁路面」 となっていたため修正した。著者は常々、縁路面に座って眺めた風景やその時々の心象などにつ いて話していた。
注 38   『続・あゝ同期の桜』では二六〇頁。

注 39   『続・あゝ同期の桜』では二〇〇、二〇二頁。 
===============

邀撃:[ようげき]名〙 (「邀」は待ち受けるの意) 来襲して来る敵を待ち受けて攻撃すること。むかえうつこと。



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  • 作者: 市倉 宏祐
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 1997/10
  • メディア: 単行本
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  • 作者: 市倉 宏祐
  • 出版社/メーカー: 北樹出版
  • 発売日: 1994/04/25
  • メディア: 単行本

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#3916 雪かき道具の紹介とMTB「8の字乗り」 Feb. 2, 2019 [36. 健康]

 冬は雪かきと車庫前でのマウンテンバイクの「8の字乗り」が趣味、雪かき道具はいろいろある。
 最近よく使うのは鍬、鋤、鋼鉄製の各スコップとプラスチックにステンレス製の刃がついたスコップ。


SSCN2562.JPG

 赤いのがステンレス製の刃がついたプラスチックのスコップ、これだと左側にある鋼鉄製のスコップの3倍の雪が載る。凍りついた雪の塊は鋼鉄製の頑丈な鍬か鋤の出番だ。これを大きく振りかぶって打ちおろすと、ときに抜けなくなる。頭の部分に手をかけて引けば抜ける。


SSCN2551.JPG

 赤いママダンプは中央部分が罅割れた。重い氷の塊を載せると、割れた部分が下がって引っかかり、滑らない。雪かきシーズンを乗り切るには買い替えが必須、それで柄の長い緑色のママダンプを購入した。作業が楽だね、柄が15㎝ほど長いだけで、押すのにかがまないですむから、とっても楽。赤いママダンプは今月粗大ごみとして処分予定、いままでありがとさんでした。


SSCN2558.JPG

 家の前にバス停がある。右側に影になってパイプが写っているが、バス停の標識である。以前はバス会社のブルがきて、バス停前の雪を道路向こう側の中学校のテニスコートの前まで運んでいた。予算が厳しいのかブルが回ってこなくなった。だから1/10馬力くらいしかないが、柄の長い緑色のママダンプで道路を横断して雪を運んでみたら、案外やれる。ブルで運ぶのとそん色ない。そんなわけで道路の向こう側に雪山が出現した。(笑)
 道路が乾くとママダンプでは運べない。乾いたアスファルトを引きずるとすぐにひび割れしてしまう。だからその時は、写真①の赤いスコップの出番である。あれに一杯雪を載せて、せっせと道路を横断して運ぶ。「右確認よし、左確認よし、ゴー」、その都度左右確認して運んでいるが、横断しているのを視認したドライバーが安全のため速度を緩めて通過してくれる場合もある。
 バス停の利用はお年寄りが多いから、雪をしっかりかいでおいたら滑って転ぶこともなくなる。骨折したら寝たきりになり、生活が楽しくない。でも、バスで病院に通う年よりも減った。隣近所の年寄りは夫婦いずれから亡くなると、子どものところへ行くケースが多くなる。二人とも亡くなると、家を処分。いまはまだ買う人がいるので、空き家にはなっていないが、いずれ買い手がいなくなるだろう。それまで10年ないかもしれぬ。


SSCN2549.JPG


SSCN2561.JPG

 ④は1/30に撮ったもの、MTBのタイヤの跡がくっきりついてます。⑤は2/2の写真。アスファルト面はすっかり乾いています。
 車庫前の除雪がすんだら、MTB(マウンテンバイク)で「8の字乗り」だ。半径1.6mの円が二つつながっており、それをトレースする。平均時速は3-4㎞くらいだ。あまりゆっくり回ると、MTBの速度計が反応しなくなり、ゼロ表示となる。時間のカウントがストップするようだ。ヘッドフォンでラジオ英会話を聴きながら時間を計測したら、2割くらい時間が短くなっていることが分かった。時速3㎞を切るとどの辺りかわからないが、時間のカウントがなされない。ときどきストップしてどこまでバランスがたもてるかガマンしてみる。面白いんだ。
 ④の写真では昼間の陽光で雪が溶けてアスファルトが濡れている、凍りついたら危険だ。⑤の写真の状態になってしまえば、夏と変わらない。


SSCN2557.JPG

 この写真は今日、2/2に撮ったもの。雪を掻いた歩道は乾いている。気温は-9.3度~-3.8度、終日氷点下だ。昨日はとっても風が強くて最大風速が20.8m/sあった。西北西の風だからとっても寒かった。

<MTBの8の字乗り>
 正月からMTBの「8の字乗り」は累計18000mだ。一周22mだから、818周した計算になる。気が向いたときに10分とか30分できるところがいい。平均時速3.2㎞だと分速53mだが、337分間もMTBに乗っていた計算になる。運動量は小さいがバランス感覚を維持するのにいい。



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#3915 市倉宏祐著『特攻の記録 縁路面に座って』p.53~66 Feb. 1, 2019 [1. 特攻の記録 縁路面に座って]

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Ⅱ-
10.四方中尉の人間宣言

Ⅱ-11 .三座水上偵察機特攻隊の出撃と米駆逐艦モリソンの沈没
Ⅱ-12 .特攻志願の仕組み
Ⅱ-13 .〈特攻隊に予備学生を使う〉
Ⅱ-14.航空隊における特攻隊員の募集
Ⅱ-15 .航空隊における正式の特攻隊募集
Ⅱ-16 .署名について

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 Ⅱ-10.四方中尉の人間宣言
 
 十四期生の会報には書かれていないが、水上機特攻についてこういう話が残っている(岩永敬邦「水上機特攻その六ヵ月」『別冊あヽ同期の桜』一七五〜一七六頁  注25 )。
 
 生きて帰った特攻隊員は恥を忍ばなければならない。確かに生きているのだが、その思考も行動も、すべて死の枠の中にはめこまれてしまっている。国家も愛も、それは生きる次元からの発想でしかない。だとすればその思考から国家や愛情の論理が消えても当然であろう。
 
 兵隊の組織も人間の作った社会でしかない。天皇の観念で括られている兵隊組織の中に、〈事実としては死んでいるが、実際には生きている個体〉(死に損ない特攻員)が出てくることで、次第に兵隊組織の中に〈人間〉が入ってくる。つまり、異質なものが入ってくる感じである。人間性を捨象した肩章秩序の中に、人間が自覚され始めて、胡座をかき始める。死に損ないの吹きだまり集団が出現する。 
 遺書を書き、辞世の句を残すのは、まだ死に損なわない人々である。吹きだまりはアナポリ(海兵出身者)から睨まれる。嫌われる。しかし、もう人間として上から事態を見つめる知恵が出る。目立たず、静かに人知れず発進する。まさに知らないうちに、生死を超えている。四方巌夫中尉[京都師範。十三期予備学生。神風特別攻撃隊第二魁隊]がこれである。 
 四方中尉は見事にアナポリに人間宣言をたたきつけて死んだ最初の一人であった。
 
 彼は午前の攻撃に出て帰って来た。帰るなり又飛び立たされて天候不良で引返した。横たわる暇もなく夜の攻撃に加えられた。それは死の強制と受取られる程のものであった。一方に一度も出撃しない一群もあったからである。 
 彼は夜、出撃前に従兵にビール箱を持たせた。アナポリの部屋にビールビンを投げつけて叫んだ。
  「アナポリ、出てこい。前線に行って見ろ、戦争しているのは予備士官予科練だけだぞ」
 その夜、彼は突入寸前まで電鍵をはなさず敵状を報告し、降下に移って「長符」を送信し乍ら、発信音と共に消えた。嘉手納の監視哨は見事な敵巡の轟沈を報告している。


Ⅱ-11 .三座水上偵察機特攻隊の出撃と米駆逐艦モリソンの沈没
 
 水上機による特攻搭乗員は、すべて予備士官と予科練出身者のみであった。海兵出身士官は一人もいなかった。 注26
 しかし、水上機特攻の壮絶な力戦奮闘には米軍側の記録が残っている。 
 駆逐艦モリソンは昭和二十年五月四日沖縄本島の残波岬の北方五〇浬近くを朝七時過ぎ哨戒中、〇七一五〜〇八二五の間、九九艦爆四機、ゼロ戦三機の特別攻撃を受ける。艦爆全機とゼロ戦一機は海面に散華したが、最後に突入したゼロ戦二機の内の一機は第二煙突を掠め、第一煙突基部に突入、第一缶室を破壊、他の一機は五インチ第三砲塔を掠め甲板に突入。右舷後部機関室外板を海中に吹き飛ばした。ここまでが経緯一から二までのまとめで、三以降を以下に引用する。
 
 三、以上の攻撃だけでは沈没に到らなかったと思われる同艦に止めを刺したのは三機の Wood-and-Canvas twin-float bilplane of ancient Vintage であった 注27 。 
 四、七機の「骨董品然とした木製帆布張り双艀舟の複葉機」が低空低速で接近して来るのを観守る裡に、その一機は二十粍対空機銃の命中弾を再度蒙り乍ら突撃を続けた。艦尾二十粍対空機銃座に帆布の切れ端をばらばら降らせながら、四十粍対空機関砲座、及び、五吋第三主砲に突入、爆薬は上部操舵室、及び五吋第三主砲を吹飛ばした。 
 五、他の一機は、艦尾から接近中、直掩戦斗機、F4U・コルセアー機の追尾を受け、同艦のウエーキ(航跡)に着水した。しかし操縦員は、尚もひるまず航跡を追い、離水滑走に移り、離水するや否や直ちに五吋第四主砲塔に突入し、大誘爆を生ぜしめた。 
 六、以上二機の九四水偵(九四式三座水上偵察機)突入成功による大爆発のため「モリソン」は急速に浸水し始め、止むを得ず艦長ハンセン中佐は「総員退去」を下命した。 
 七、「総員退去」命令と同時に艦首を向天、直立のまま沈没した。突入と沈没の間十分。 
 八、被害は少からず、三三一名乗組中、一五三名戦死、又は行方不明。一〇八名負傷。内六名は爾後死亡。
 
 以上の文章は「モリソン」戦斗報告( History of U.S. Naval Operations in World War II. Volume XIV”
 林孝之[航空自衛隊百里原管制隊]訳)一九四五年五月十一日の分による(中野宗直[東京大。 操縦。詫間空]「 14 期会報」第一号四頁)。



Ⅱ-12 .特攻志願の仕組み
 
 特攻作戦が問題にされたとき、特攻出撃が命令であれば、究極的にはそれは天皇の命令ということになる。これでは天皇を傷つける恐れがある。特攻を命令で行うのはどうか、の議論がでてきて、結局特攻出撃は搭乗員の志願志望によるという形がとられたといわれている。 
 軍当局は、特攻というと必ずこの見解に立っている。参謀、隊長、司令官などの見解は必ず忠烈なる兵士が、みずから志願して国の危機に身を挺したという形で書かれている。 
 また種々に出されている特攻についての書物でも、大抵のものはそう書かれている。いや、特攻について触れた執筆者だけでなく、軍の当局者はすべて本当にそう思っているらしい。


Ⅱ-13 .〈特攻隊に予備学生を使う〉
 
航海学校でのことであるが、教育中の予備学生を特攻隊員に使うという、軍紀文書が残っている。昭和十九年八月二十日起案、八月三十日発布「特殊兵器要員に充当すべき海軍予備学生の選抜並に教育に関する件申進」という文書で、こう書かれている。「⑥兵器(回天)及び甲標的(特殊潜航艇蛟竜)艇長適任者各五十名を選抜のこと」。志望者は直接に学生隊長に申し出ること  注28 。 
この文書には、選抜要領に「志願者より選抜のこと」と明記されている(武田五郎「ああ回天」『一旒会の仲間たち』258〜259頁)。 
これは航海学校の場合であるが、恐らく航空隊の特攻隊員募集にもこうした文書がでたのであろう。ただし、航空隊では多く望否の紙片を提出する形態がとられている。確かに特攻の編成に志願の形がとられたことは確認されている。十四期の予備学生の文章によると、志願はさまざまな形で行われている。



Ⅱ-14.航空隊における特攻隊員の募集
 
募集の仕方についても、いろいろの仕方があることが語られている。徳島空では予備学生の卒業が近くなった頃、正式の特攻調査志願以前に本人の希望機種の調査が行われたことを何人かの予備学生が触れている。


徳島空特攻願書事件
 
 水本均[京都大。徳島空。大津空]「機種選定
 
 昭和二十年一月、私は徳島にいた。ある夜、海兵出身のY分隊長が、搭乗志望機種の提出を求めた。それに先立ち彼は、黒板にいちいち機種を書きつらね、それぞれ丁寧に説明を加えて行き、最後に〝特攻機〟と書いて、
  「特攻機に乗りたい者は志望するように」 
と、簡単につけ加えた。そして、
  「何であれ、遠慮はいらない。自分で最も最適と思う機種を選べ。飛行に適性なしと悟った者は、 地上勤務でもよろしい」 
と説明を終えた。私たちは、艦攻、艦爆、水偵など、それぞれ志望する機種を書いて提出した。 
 私たちの受難は、その夜から始った。就床間もなく、Y分隊長の怒声による総員起しがかかった。 
「貴様らの根性に俺は泣いた。特攻機を志望しない者が意外に多い。なかんずく、陸上勤務志望とは何か。精神がたるんどる。叩き直してやる」 
 かくて全員修正された後、飛行場一周かけ足。へとへとになってやっと寝る。その翌夜は、海兵出身士官による総員起し、修正。その翌夜は先輩予備士官。さらにその翌夜は十三期による総員起し、修正である。彼等に言わせると、
  「十四期は徴兵上りで、兵隊根性が抜け切れていない。勇気がない。そのうえ理屈が多い。そ んなことでは、一人前の海軍士官になれない。特攻機を志望しなかった者は、徳島から卒業させない。いつまでも予備学生にとどめる」 
ということであった。毎晩、起され、なぐられ、そのうえ楽しい外出も禁止である。 
 当時私たちは、関大尉の零戦による敷島特別攻撃隊の体当り戦法の話は聞いていた。しかしこれは、あくまでも零式戦闘機という機種の飛行機による特攻であり、その機種は戦闘機である、練習機の〝白菊〟ですら、やがては特攻に参加して、特攻機と呼ばれたが、〝白菊〟の機種はあくまでも練習機である。私たちは機種の選定に当り、自分の技倆と好みに応じて、艦攻、あるいは、艦爆などと、選んだにすぎない。そうして志望して搭乗した機が特攻にかり出されるか否かは、その次の問題である。Y分隊長の質問が「特攻隊を志望するか否か」であれば、あるいはY分隊長の満足できる結果が出たかも知れない。なぜなら、私たちの前に残されていた道はただ一つ、特攻隊員になることだけであり、この道を拒否することは、不可能だったからである。
(『あゝ同期の桜』209頁  注29)

 この事件はほかの人も書いているが、ここでは別の筆者による徳島空特攻願書事件をもう一つ掲げておこう。 
徳島空、天草空の相良輝雄の「若き日のいのち」はこう書いている。

  「神風」で想い起こされるエピソードは、天草空配属前に徳島空で偵察訓練を受けていたころ のことである。或る晩の温習時間に突然入って来た分隊長は黒板に十種ほどの海軍用機を掲げ、搭乗希望の機種名を配られた紙片に記載するようにとの事であった。私の注目を引いたのは、中に「神風特攻隊」が含まれていたことだった。自ら志願する意志もなく偵察機を希望した。紙片が集められ就寝して三十分も経たない中に「総員起こし!」「兵舎前整列」の号令であわてふためいて一同並んだところ、分隊士数名による全員の横ビンタが飛び、それから例によって分隊長の長口の説教。曰く「キサマ達はヒキョウモノ!」「国のために死ぬのがそれ程恐くて惜しいのか!」「二五〇名中に神風志願が僅か一割とは何たる事か ?! 」「不忠者、恥知らず!これでキサ
マ達の根性のクサレが判った。ヨーシ之から精神を叩き直してやるッ」「上陸も禁止、休暇も取消しだ。飛行場駆け足一周!」と云うわけで、翌日から日本海軍の伝統的シゴキが始まったのである。数週間後、配属先の天草空では計らずも希望通り水上偵察機に搭乗していた私であったが、その悦びも束の間、司令に呼び出されて名誉ある「神風」編入命令を受けた時は暫し茫然とした。
(「海軍十四期」第十九号22頁)

 水本均は、機種選定について、特攻機を他の機種と並列させて選定させるのは、論理的にいえば、もともとナンセンスであったと指摘している。 
 水本は分隊長の論理の不整合を指摘しているが、さらにコメントすれば、いかなる機種でもいいと前置きしているのに、こうしたことをするのは人間の信義に反するような気がする。分隊長命令にやみくもに従った他の士官たちの行動にも何か肌寒いものを感ずる。 
もっとも、我々がそのときの士官たちの立場におかれたら、果たして分隊長の言辞に批判を投じえたであろうか。我ながら情けない行動しかとれなかったのではないか。またそんなことをしたら半殺しでは済まなかったかもしれない。 
 我々自身もいつしか〈海軍ムラ社会〉の組織軍律の中に組み込まれて、本来の人間の魂と勇気とを失ってしまっていたわけなのだ。日本海軍がアメリカの海軍に敗れるほかはなかった根本の原因は、こうしたところにあったのかもしれない。 
 ただ、観点を換えて考え直してみると、特攻を望か、否かを記名する場合でなく、ただ言葉でそのことを聞いた場合でも、望は一〇%もいたわけである。これは何を意味するのか。解釈は分かれるかもしれない。あるひとは、特攻望か、否かと、聞かれれば、全員望だったはずだといっている。 
 そうかもしれない。こうした状況の中で、特攻志望の実態を一概に決めることはできないような気がする。特攻望否の割合には、さまざまの原因、種々の綾あり、一概に規定出来ぬところがあるからである。逆に、海兵士官の方からいうと、彼らが予備学生をぶん殴ったということは、学生全員がまさに特攻志望であることを望んでいたのであろうか(愛国心の証として)。あるいは、予備学生は特攻要員でしかないということであろうか。 
 しかし、私自身の気持ちから云えば、一〇%(二五人)もすすんで特攻を受け容れる人がいるということが、学生の国に殉ずるモラルの高さを示しているような気がしてならない。



Ⅱ-15 .航空隊における正式の特攻隊募集
 
 募集の仕方については、いろいろの仕方があることが語られている。 
 名古屋空草薙隊(艦爆隊)。特攻志願者は氏名に丸印つけて提出せよ。「いよいよ来たるべきものが来たという決意を新たにしたのであった。当時の状況からして、当然全員志願したことと思われる」(泉義一[明治大。操縦。出水空。神町空]「名古屋空草薙隊」『別冊あヽ同期の桜』200頁  注30 )。 
 松島空でも、四月に特攻隊(九六陸攻)の募集があり、志願するものは「一歩前へ」で、志願が求められた
1注 注 (花田良治[山口高商。操縦。出水空。松島空]「九州十四期」昭和六〇年八月十五日号5頁)。 
 宇佐空については、美座時和[拓殖大。操縦。出水空。百里原空。宇佐空]が、特攻が始まったときのことを語っている。
  「夕食後、指揮所前へ整列した我々に特攻を熱望する者は一歩前進の令が下るやいなや一斉に、ダッ と全員の足並みが揃って出た時の感銘は確かに今でも嘘ではない」(「同期の桜会報」第七号七頁)。筆者は、皆がそろって、さっと出たことに誇りを持っている。 
徳島空であったか、同じ仕方で、一名除いて全員ということが伝えられている。こうした事態には、よく「一名を除いて」という表現が使われているが、その一名がどんな人物であるかには触れていない。 
 多くの隊で用いられた仕方としては、小さい紙片を渡され、熱望、望、否のいずれかを書いて提出せよ、といったものが一般的であった。 
 水上機の鹿島空では、「A‐すぐ」「B‐次」「C‐他の途」「D‐否」の四項目の一つを選ぶのが、志願書類の内容であった。 
 外の仕方では、「申し出」の形をとったところもあった。三日以内に分隊長に申し出る。家族や同僚に相談しないこと。この仕方では、個人の決断が尊重されているといえるかもしれない。 
 航海学校の予備学生から回天搭乗員を募ったときには、この形がとられている。また博多空で神雷桜花隊員募集のときにも、同様な形で特攻隊が編成されている。 
 山本芳知[早稲田大。操縦。博多空。戦七二二]によると、十九年暮れに任官してすぐに、戦闘機要員に対して、分隊長より一五名の神雷搭乗員募集が行われている  注 32
  「当時の情勢下、われわれとしては、好むと好まざるとにかかわらず応募せざるを得ない。自分も 直ちに分隊長に申し出る」。十三期第一陣。十四期第二陣。博多空、美保空、各一五名。海兵ゼロ(『別冊あゝ同期の桜』201〜202頁  注33 )。 
 大津空。昭和二十年に、偵察課程卒業者が徳島空から三月十四日に、大井空から四月十二日に着任すると、着任の日から自動的に特攻分隊編入(同書187頁  注34 )。
 北浦空。昭和二十年二月二十日に応募紙片が配られ、一〇〇人中一名を除き、九九名が署名し志願したといわれている。 
 大井空から三月十六日、十四期偵察来る。三月下旬から移動。詫間空へ。四月十二日には、大津空特攻隊の第一陣が詫間空に進出。ところが、総員見送りの後早速私物を遺品として郷里に発送しようとしていた矢先、四月十五日全員が大津空に引き返してきた。詫間空が第十航艦所属の水偵特攻隊の集結により手狭となり、とりあえず原隊に引き返して待機となったのである。ついに敗戦まで出撃の機をえていない。 
 詫間空。昭和十九年五月二十五日に、土浦基礎教程を卒業するとすぐに三座水偵の操縦学生として詫間空に着任。昭和十九年十二月に少尉任官にあたり、森司令の祝いの弁。「君等は水兵から七階級特進した。異例の事でありお目出たい云々」。この挨拶に何か異様な感じをうけた。水上機隊の特別の雰囲気であろうか。
 
特に特攻志望の志願はなかったが、昭和二十年二月八日「特攻隊についての感想」を提出させられる。その後すぐに十一日には特攻隊が編成。十四期三三名のうち、一五名が訓練に入っている(中野宗直『別冊あヽ同期の桜』179〜180頁  注35 )。 
 水上機隊は、特攻隊搭乗員には、開戦以来敗戦まで、海兵出身の士官は一人もいない。特攻隊員はすべて予備学生と予科練のみである。このことは多くの人が感じているが、一体何を意味しているのか。本当のことは分からない。 
 特攻志願の初めの頃は、各部隊が何らかの仕方で志願の形式を守ったようであるが、次第に特攻が当然の風潮が主流を占め、随時に特攻隊の編成が行われ、それぞれそれなりの仕方で隊員が決定されたようである。 
 特異な仕方であるが、松山空では、個人面談が行われている。
 
 斎藤登茂雄[東京大。土浦空。大井空。松山空。大井空]「神風特別攻撃隊大八洲隊始末記」
 
 二十年三月に入ったころと思うが、私は二分隊長三堀大尉に呼ばれた。「ここで特攻隊を編成するが志願するか」とのじきじきの問いである。今から考えると不思議であるが、ほとんど抵抗もためらいもなく、「志願します」と即答した。やはり未熟ながら、海軍に入って一年有余の教育で、無批判に体制順応、滅私奉公の心構えが出来ていたようだ。分隊長は、「せっかく最高学府まで出たのになあ」と一応の思いやりは示したが、どういう基準で選んだのか分からないが、指名で呼び出した者が同意したのだから、遠慮なく特攻隊に編入したことと思う。
(「海軍十四期」第一三号六頁)


Ⅱ-16 .署名について
 
 渡辺真一郎[土浦空。操縦。谷田部空。美幌空]「特攻所感」(「海軍十四期」第一六号6頁)特攻隊で自らすすんで生命を捧げた戦友の行為は尊いものであるが、これを命令したものが安穏と生きのびたことには憤りを感ずる。 
 命令者に対する怒りは当然であるが、この文章はただ特攻そのものの非人倫性には触れていない。こんな風に書いている。
 
 私は、特攻隊志願をさせられた時の雲ひとつな青い空とあきらめの気持を憶い出す。その後特攻隊解除になった時、本当にホッとしたものである。これは最近読んだ『海軍中攻決死隊』(光文社刊)の中で歴戦の搭乗員横山長秋氏も同じことを書いている。
 
 じっさいは、こちらが署名するのであるが、人によっては、署名する本人は「させられた」といった感じをもつひともいたわけなのだ。つまり、自分としては「させられた」のであって、「した」のではないということであろう。もちろん、「躍る思い」のひともいる。が、全員が必ずしもそうだとはいえないことであるわけなのだ。 
 といって、志願命令を無視して、全く自分の意志で行動する気持ちをもったひとの文章は見当たらない。恐らくいないのであろう。ここに、特攻志願の一つの仕組みがあったともいえるわけである。特攻志願は決して一通り一様な気持ちではないことを理解しておかないと、本当の搭乗員の気持ちを十分に理解することは出来ない。


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注 25   『続・あゝ同期の桜』では二〇七〜二〇八頁。
注 26  押尾一彦『特別攻撃隊の記録〈海軍編〉』光人社、二〇〇五年、二三七〜二四〇頁の海軍神風 特別攻撃隊出撃一覧表「水上機の神風特別攻撃隊」で確認したところ、確かに一人もいなかった。
注 27  引用原典のタイプミス。正しくは「 biplane 」。
注 28  この軍紀文書とは「海人三機密第三号の六二」という文書である。原本を参照することはでき なかったが、神津直次『人間魚雷回天』に全文が掲載されている(単行本版二六三〜二六六頁)。 武田五郎「ああ回天」に一部掲載されているものと比較すると、全く同じではなかったので、『人 間魚雷回天』掲載の「海人三機密第三号の六二」の該当箇所を掲載しておく。
     「⑥兵器搭乗員及甲標的艇長適任者各五〇名を選抜し(…)」(二六三頁)  
    「一、選抜要領       (イ)本要員は志願者より選抜す」(二六四頁)  
   なお、当該文書には「志望者は直接に学生隊長に申し出ること」という記述は見られない。
注 29   二〇〇三年版では二三八〜二三九頁。
注 30  『続・あゝ同期の桜』では二三七〜二三八頁。
注 31   原典には「一歩前へ」という記述は見られない。
注 32   原文ママ。「神雷」とは桜花特攻を行う部隊名であるため、ここでは「桜花搭乗員」のことを 指すと考えられる。
注 33   『続・あゝ同期の桜』では二三九〜二四〇頁。
注 34   『続・あゝ同期の桜』では二二二頁。
注 35   『続・あゝ同期の桜』では二一二〜二一三頁。
===============

<ebisuコメント>
Ⅱ-10にでてくる「アナポリ」という用語は米軍の海軍兵学校の所在地「アナポリス」を指し、日本の海軍兵学校出身の兵士たちを揶揄している。前線で特攻兵として戦っているのは学徒動員された予科練の者たちだけであり、職業軍人であるはずの海軍兵学校出身者は特攻を命令するだけで自らはやらない。大和魂を失っているから、「アナポリ」つまり米国海軍兵学校出身者と変わらぬということ。
 市倉先生は昭和19年4月1日に第14期
海軍飛行予科練習生として学徒動員された。予科練の1年間の訓練期間が終わると、「予備士官」となり、さらに1年後に少尉任官で正式の将校となる。海軍兵学校は職業軍人のエリートコース、ここを卒業して少尉任官まで4-5年かかるのが普通だったから、やっかみもあって予科練や予備士官を苛め抜いたのだろう。男の嫉妬は手がつけられぬもの、人間性を根こそぎ奪ってしまう。
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四方中尉は見事にアナポリに人間宣言をたたきつけて死んだ最初の一人であった。
 
 彼は午前の攻撃に出て帰って来た。帰るなり又飛び立たされて天候不良で引返した。横たわる暇もなく夜の攻撃に加えられた。それは死の強制と受取られる程のものであった。一方に一度も出撃しない一群もあったからである。 
 彼は夜、出撃前に従兵にビール箱を持たせた。アナポリの部屋にビールビンを投げつけて叫んだ。
  「アナポリ、出てこい。前線に行って見ろ、戦争しているのは予備士官と予科練だけだぞ」
 その夜、彼は突入寸前まで電鍵をはなさず敵状を報告し、降下に移って「長符」を送信し乍ら、発信音と共に消えた。嘉手納の監視哨は見事な敵巡の轟沈を報告している。
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*https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍飛行予科練習生
*電鍵デンケン モールス信号を送信するための装置である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E9%8D%B5



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