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#4913 主治医とのコミュニケーション Jan. 21, 2023 [38. cancer]

 1/18水曜日に、極東の町の消化器内科医であるO先生の書いてくれた紹介状をもって、最寄りの消化器内科医のクリニックで診察をお願いした。

 紹介状を見ながら、いくつか質問がありましたが、その中に一つが飲んでいる薬に関するものでした。服用している薬はないが鉄剤のサプリメントを飲んでいると伝えましたが、「飲んでも意味ないよ」と仰る。言下に否定されたので、強い調子の響きがありました。
 鉄分の吸収は大半が胃で行われるので、胃の全摘をしたわたしが鉄剤のサプリメントを服用しても効果がないという話でしょう。鉄分の吸収は胃で行われるのがすべてではありません、腸管からも吸収されますが、胃に比べて微量だということ、それを承知で服用しているのには理由があります。わずかの時間に理由なんて聞く暇はありませんから、そうですかとしか返事のしようがありません。主治医をお願いしたいドクターのご意見ですから、とりあえず伺っておきました。

 術後6-7年で、フェリンが基準値(20-220ng)下限の1/4(4.9ng)に下がり、肝臓の貯蔵鉄が減少して、フェジンとビタミンB12を静注してもらうようになりました。そのころから、鉄剤のサプリメントを飲んでいます。主治医は「フェロミア」を処方してくれたのですが、錠剤が大きいので、手術でできた喉の接合部にあるポケットに引っかかりなかなか落ちていかない。そうすると吐き気がして気持ちが悪くなる。金づちで砕いて飲んだりてましたが、体に合わない。それでオリヒロの「チュアブル鉄」に切り換えました。「チュアブル」とは「噛める」という意味です。やわらかい錠剤で噛んで唾液で溶かして飲みこめるので、胃の全摘手術をして、喉の部分に接合部があって狭くなり、ポケットができているわたしには「チュアブル」が楽なのです。そういう経緯は極東の町の主治医は、お付き合いが長いのでよく承知してくれています。

 血中の鉄濃度が低くなれば、散歩をしても息が切れるし、就寝時、とくに朝方、呼吸が苦しいことがあります。体調は一定ではありませんから、たまにそういうことがあります。息はしても酸素を運搬する鉄が赤血球に不足しているから苦しい感じがするのです。かてて加えて、赤血球数も基準値下限ぎりぎりでした。
 横になって静穏にして、身体を内観していると酸素が体に取り込みにくくなっているのが感じられます。中学生のころから、我流でヨガをしていたので、自分の身体の様子がある程度わかります。自分の身体の声に耳を傾けていると、最初は曖昧な兆候がだんだんその正体を現して来るのがわかります。スキルス胃癌と尿管結石のときの身体の自覚症状がそうでした。

 鉄剤も体調によって吸収がよかったり悪かったりしているように感じています。鉄剤を服用するようになって、歩いているときに息が苦しくなることはなくなりました。いま住んでいるところは丘の上ですが、坂を上がるときに息切れがして、女房殿の歩く速度についていけないことが数年前にはありました。「先に歩いていってくれ、ちょっと休んでゆっくり歩くから」、そう伝えて先に行ってもらいました。ちょっと情けなかった。
 ちゃんと飲んでいると、そういうことがありません。だから腸管から少しは吸収されていると考えています。鉄剤のとりすぎは肝機能へ悪影響があるので、成人の半分の量だけ摂取しています。
 そういうことを続けていたら、3か月おきにしている検査データも、フェリチンが基準値下限ぎりぎりで、基準値割れが少なくなってきました。「悪性貧血のライン」まで下がることがなくなりました。一度4.9ngまで下がり、悪性貧血になったことがあります。そのときは通院の間を開けすぎて、取り返しのつかないことになると主治医に叱られました。現在の病名は「鉄欠乏性貧血」です。
 
 1/18は主治医になってもらうドクターとの初めてのコミュニケーションだったから、まずはドクターのご意見を聞きました。3か月に一度フェジンとビタミンB12を静注していると説明したら、「それなら、(サプリも)少しはきいているかも」と仰った。
 検査結果を見て、フェジンとビタミンB12の静注をすべきか否かを判断するという。最初はちょっと心配になりましたが、さいごの言葉でホッとしました。
 鉄サプリを飲んでいるのに「やめました」と嘘は言いたくないのです。病状を正確に把握してもらうためには患者は嘘をついてはいけません。信頼関係を壊しますから。
 東京で主治医をお願いできそうなドクターが決まり、新しい関係が始まったのですから、それを愉しむことにします。なんだか新しい会社へ転職したような気分です。(笑)


<極東の町の主治医に感謝>
 極東の町の主治医は、ワインバー・サリーで何度かお会いしてから、もう20年来のお付き合いです。だから病歴も経緯も最初からご存じ。お父さん先生には平成3年にオヤジが大腸癌の診断をつけてもらいました。オヤジが焼き肉屋をしていた時に、わたしの主治医は中学生だった。帰省すると、「岡田医院の息子は焼き肉の食べっぷりがいい」とよく言っていたので記憶にあったのです。その息子、つまり大先生の孫を7年間ニムオロ塾で預かって個別指導しました。道北道東推薦枠で、国立旭川医大へ2年前に現役トップで合格しています。一般入試でも余裕で合格の得点だったようです。2次の小論文テストが300点満点中295点だったのは、6年間消失の音読テクスト17冊を選んで、音読トレーニングをしたことが寄与していたのでしょう。本の中身について大学のゼミレベルの議論を中3のあたりからしていました。レベルを上げてもしっかりついて来れたんです。知的には早熟な子供でした、もう20歳になりました。

 そういうわけで、極東の町では主治医とのお付き合いが長かったので、阿吽の呼吸で...いろいろ無理も言ったし、聴いてもらいました。抗癌剤TS-1の副作用が強かったときに、2クールほど休んだり、量を減らしています。「休んだり量を減らすと再発の危険性があります」と警告がありましたが、「そのときは運命、受け入れます」と無理を承知で押し通しました。逆隔離入院しなければならないほど、白血球数が基準値を大幅に割り込んだ時期があったのです。日和見感染で命がなくなりかねない白血球数でした。塾を休んで入院治療を受けるよりは、再発のリスク覚悟で授業を続ける方を選びました。どうせいつかは死ぬ、それなら前のめりで死にたい、病院のベッドでは死にたくないというのがわたしの本音でした。主治医は理解してくれました。まだ、お子さんを預かる数年前のことです。術後8年たった2014年1月6日、小学5年生の正月から、息子さんをお預かりしました。その時点で、首都圏で難関大学受験の生徒達とは、受験勉強のスタートが1年と9か月遅れていました。首都圏で難関大学を受験する生徒は有名私立中学を受験するので、45年ほど前は小4が受験勉強のスタートでした。その差を詰めるために受験戦略を立てました。PERTチャートで大雑把にスケジュールを具体化してみたのです。高2の時は数ⅡBでクリティカルパスが生じて少し追われましたが、生徒の方が事情を理解してよく対処してました。戦略がなければ間に合わなかった。理系の生徒は国語の得点が問題になるので、小手先の受験テクニックを教えることではなく、質の高い本を17冊選んで、日本語音読トレーニングをすぐに始めたのです。それが功を奏しました。著者の考え、対立する考え、わたしの考え、自分の意見と4通りの読み方を随時していたので、論理的思考のトレーニングでもありました。大学の優良なゼミで学んだくらいの効果はあっただろうと思います。
 地域医療を担う医師を一人育てたいと思っていましたので、授業中に地域医療問題や毎年17億円の赤字を出している市立病院の具体的な経営改善の仕方も含めて、雑談の話題に取り上げて議論していました。この生徒は標準的な難易度の数学や英語の問題なら、雑談しながら問題を解けるんです。手が止まってしまう生徒には3分以上話しかけません。
 主治医が息子をニムオロ塾へ通わせてくれたおかげで、30年後の極東の町の地域医療が担える人材を育てておきたいというわたしの希望が叶いました
 2006年に巨大胃癌とスキルス胃癌の併発をして、診断をつけていただき、入院する病院を紹介してもらいました。術後は3か月に一度経過観察をして胃だ抱きました。簡単に言うと、命を救ってもらったわけです。命を永らえたお陰で、偏差値45の根室高校から国立旭川医大へ現役合格者を出すお手伝いができました。たまたまそれが息子さんだった。運命の糸は複雑に絡まっていました。

<余談:体の変化の感知>
 2006年6月6日の朝、前日お昼に食べたうどんが、朝起きたらまだ消化されていない、逆流して苦しい。夕食は摂れませんでした。膨満感があり朝ごはんも食べられない状態が来てしまいました。女房殿に「もうご飯も食べられなくなっているのにどうして病院に行かないの」と叱られました。オヤジの男兄弟4人全部が癌で亡くなっていました。それぞれ別の癌です、オヤジは大腸癌でしたが、肺癌と肝臓癌で二人亡くなっています。オヤジは70歳で大腸癌の手術の後、2年で再発し全身転移で亡くなっています。だから、70歳前後で誰も罹っていない胃癌になると思っていました。それが57歳のときだったから焦った、しかも臓器は予想が的中して胃でした。早すぎる。ほんとうに焦りましたよ。結果は分かっているのですから、病院へ行って診察を受けるのが嫌でした。オヤジの兄弟では手術で入院したまま亡くなるケースが2人いました。女房のお父さんも、病院へ検査入院して末期の大腸癌であることが判明し、治療の施しようがなく5か月後に69歳で亡くなっていました。57歳だと進行も速いことが容易に予想できました。

 極東の町の消化器内科医は一人だけ、岡田先生のみ。市立病院には当時は消化器内科医も消化器外科医もいなかった。初めて岡田医院へ診察してもらいに伺いました。岡田優二先生に、昨夜食べたうどんが消化できない、胃を通過できない、膨満感がある、オヤジも含めて男兄弟はみんな癌でなくなっているので癌家系であることを説明し、「胃癌だと思うので内視鏡で診てほしい」と伝えました。ヘンな患者が来たと思ったでしょう。
 内視鏡で幽門手前に巨大胃癌が映っていた。岡田先生は思わず「鉗子!」と叫んで、看護師から鉗子を受け取り、内視鏡の細いパイプ中を通して患部をつかみ取りました。細胞診検査に回すためです。後日、細胞診検査結果は診立てどおりの癌でした。
 内視鏡検査が終わった後、映像を見せてもらってます。大きな癌が幽門をふさいでいました。胃の出口の幽門が見えないのです。内視鏡がその先へ入っていきません。それくらいふさがってしまっていました。「食べ物は通らないからすぐに入院するように」と勧めてくれましたが、17日後の6/23に中学生の前期中間テストがあるので、

事情を話して、その当日の6/23まで入院を伸ばしてもらったのです。「食事が通る状態ではない、普通の生活は続けられない」、そう仰った。その通りでしたが、ヨーグルトを少し食べながら体重を減らしつつ、2週間と3日間凌ぎました。釧路市立病院は1か月待ち、釧路医師会病院なら先輩が副院長なので、すぐに入院の手配ができるというので、そこに2006年6月23日の9時に入ることに決めました、ありがたかった。これで逝っても本望でしたが、なぜか助かるような気がしていました。生徒達には、テスト結果をメールで送るように行って、1か月間の休塾を伝えました。「お腹にお出来ができたので、入院して手術します、恥ずかしいから内緒にしておいて」そう説明すると、げらげら笑ってくれました。「先生、内緒にしておくから、早く帰ってきてね!」、うれしかった。その中の二人が看護師さんになって働いて、極東の町の地域医療を支えてくれています。
 内視鏡診察の時に、「幽門手前が詰まっていることは自覚症状と一致していますが、もうひとつ、重くて冷たいものが広がっていっている感じがしています、おそらくスキルス胃癌だと思うので、粘膜細胞を採取して病理診断をしてもらえませんか?」と頼みました。粘膜の採取は外科手術設備がないとできない、入院しないと無理だと説明がありました。そうですよね、粘膜細胞を採ったら穴が開きかねません。浅はかな素人考えでした。6/23に入院してからスキルスの診断がつくまで3週間ほどかかっています。スキルスがあるのとないのでは術式が違うのでちゃんと事前に正確な診断をつけてもらう必要がありました。副院長の富田先生がガストロ映像でスキルス胃癌の診断をしてくれました。術後に摘出した臓器がSRLへ病理診断標本として回されました。執刀した外科医の後藤先生が説明してくれましたが、病理診断書はSRLのものでした。「巨大胃癌とスキルス胃癌の併発」と書いてありました。

(わたしがSRL八王子ラボで仕事していた当時は(86年12月から91年まで)名取さんが病理検査課の課長をしていました。病理医が4名いたかな。高橋先生(技術部門担当副社長)、塚田先生、島田先生、三人だけお名前の記憶があります。学術開発本部スタッフとして仕事していた時に、高橋先生の個室はわたしの席から歩いて6歩、創業社長の藤田光一郎さんの個室はわたしの背中にパーティションがありました。だから3歩でした。光一郎さんはドアは開けっ放しですから、普通の声で話していると内容がわかります。一度だけどなったことがありました、演技でしたね。内部告発があり、部長職を叱らなければいけない特別なシーンでした。滅多に人を叱責しない人なのです。ある時A専務が羽田にハイヤーでお迎えに行きました。緊急の要件があったからです。藤田さん出迎えたA専務に、「社員が車を運転して集荷しているのに私はハイヤーなんて乗りません」ときつく叱って、A専務を置き去りにして、さっさと羽田からモノレールに乗って浜松町へ、山手線に乗り換えて新宿本社へ戻ったとか。創業社長の光一郎さんはそういう人でした。親に反対されて家出して奥さんと一緒になった、そんな話は光一郎さんご自身から聞いたんだったかな、社内での噂話だったのか覚えていません。製薬会社の富士レビオと臨床検査会社のSRLの2社を創業し、東証1部へ上場を果たした、日本初の経営者でした。金沢の臨床検査会社の経営分析と買収、東北の臨床検査会社の経営分析と資本提携の2つは光一郎さんの特命案件でした。3か月くらいの間に両方、分析と交渉を担当してます。「どちらか好きな方を選んで出向してください」と言われましたが、東北の会社の社長が資本提携にはわたしが役員で出向することが条件だと申し入れたので、選択の余地はありませんでした。14か月で黒字化案をつくって最終確認にSRL本社へ社長と副社長に説明に行ったら、翌月出向解除、本社勤務で呼び戻されました。3年の約束でした。黒字化も約束の一つでした。SRLを上回る売上高経常利益率になる具体的な経営改善案を作成して持って行ったら、「やるな」ということ。経営改善案が劇的過ぎたのです。SRLグループでナンバーワンの業績の会社の出現を意味していました。出向解除と同時に出された辞令は、経理部管理会計課長、社長室と購買部兼務の辞令でした。それぞれやるべき具体的な課題がありました。子会社経営管理は25項目のレーダチャートと、それに基づく総合偏差値評価の方法を関係会社管理部に在籍したいたときに、やって見せてますから、1年我慢して経営管理部として独立してもよかった。管理会計課には鍛えるのに応えてくれそうないいスタッフが3名いました。)

 冬季間は雪かきに精を出して、汗びっしょり。あるとき、腰のあたりがダル重くなりました。ダル重さがとれません。おかしいなと思っていたら、腰の左側に痛みが走るようになって、おしっこに赤い色がつきました。12/30だったかな、苦しくて主治医に電話して症状を伝えたら、
「尿管結石の症状です、辛ければ救急車を呼んで入院したほうがいい、我慢できるなら1/6にX線CTを撮るように手配しておきます」
 それで、水分をたくさん摂るようにして過ごしました。1/6にはもう痛みがなくなっていました。CT画像には膀胱のところに白い粒がはっきり写っていました。2度目は東京に来ていた時に、今度は右側がダル重くなり、すぐに痛みが走るようになって、泌尿器科の病院へ駆け込みました。痛み止めの座薬で翌日には出たようでした。

 このように、だれでも自分の身体に起きている変化がわかることがあります。そういうことも理解してくれたら、主治医とコミュニケーションがスムースにいくのですが、相互理解には時間がかかります。
 こちらの病状や治療の仕方についての希望を理解してもらうことも大切ですが、主治医の話を聞くのが先です。スタートしたばかり、1年間どんなふうになっていくか楽しみたいと思います。

 次回は金曜日に緊急で治療をお願いした経緯をアップしようと思います。歯科医とのコミュニケーションについても言及することになりますが、H先生とはもう24年の付き合いになっていますので、良好なコミュニケーションが成立していてとっても安心です。要するに、医師と患者のコミュニケーションが熟成するには数年単位の時間がかかるということ。あたりまえですね、焦らず、慌てず、ゆっくりやればいいのでしょう。

<標準臨床検査項目コード作成に関するドクターとの縁>
 どういうわけかドクターには恵まれています。櫻林郁之助教授が臨床病理学会項目コード委員会の委員長でした。SRL入社の年、1984年に彼から臨床病理学会項目コード検討委員会の仕事を手伝うように依頼がありました。経営統合システム開発という大きな仕事を抱えていたので、そのときはお断りしました。やりにくいなら、総合企画室への異動を創業社長の藤田さんへお願いしに行くというので、やめてもらいました。東証2部上場のための、大きなシステム開発だったので交代できる人がいませんでした。
 1年間でシステム開発が完了し、暇に飽かせて1986年に「臨床診断システムの開発と事業化案」を書き、創業社長の藤田光一郎さんに200億円の予算を認めてもらって、フィジビリティスタディを開始しました。プロジェクトを10個に分割した中の一つに、項目コードの標準化がありました。大手六社で業界内の検査項目コードの標準化をしようとBMLから呼びかけがあったときに、業界内のコードでは病院が使ってくれないので、臨床病理学会の櫻林郁之助教授に参加してもらって、学会から公表してもらおうと提案し、全員賛成で、先生を招聘することになりました。臨床化学部の免疫電気泳動の指導医でもあったので、川尻臨床化学部長を通じて、櫻林先生へ連絡を取ってもらい、1987年に産学共同プロジェクトがスタートしました。大手六社で使っている項目コードを全部出してもらって、学術的な分類をしています。そして附番しました。メンテナンスをしないといけないので事務局をSRL内に置いています。いまでもそうでしょうね。日本中のすべての病院とクリニックのシステムがこの臨床検査項目コードで動いています。2年に一度、保険点数が変わりますが、その都度、項目コードと保険点数のテーブルが作成され、ネットにアップされています。病院のパッケージシステムがそれを取り込みに行くので、病院で個別に入力する必要がなくなりました。

 1990年からその産学協同プロジェクトで創られた臨床検査項目コードが臨床病理学会から公表されて、日本中の医療機関で利用されています。あれから33年たっていますが、いまだに世界中で日本だけです。先進的な事例になりました。わたしは臨床検査項目コードの世界標準をつくるつもりでした。「臨床診断エキスパートシステムの開発と事業化」のインフラ整備プロジェクトの一つでした。

(極東の町の市立病院の経営問題を取り上げたときには、元院長のドクターとメールで具体的な話を頻繁にしてました。決算資料を見て経営分析して経営改善案を練っていましたが、その裏付けが必要でした。元院長からの情報はとっても役に立ちました。どういうわけか、地域医療の問題を取り上げると、こういうキーマンが全面的に協力してくれるのです。自分の利害損得を度外視しているからでしょう。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」でいつでもいいのです。)



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