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#4813 COVID-19全数調査は簡単です:検査センター経由で収集 Aug. 24, 2022 [8. 時事評論]

<最終更新情報>8/27午後3時「臨床診断支援システム開発及び事業化構想案」追記

 COVID-19の拡大が収まらず、医師の側から全数報告を停止してもらいたいとの要望が出ています。いつまでこんなやりかたしているのでしょうね。

 エイズがはやり始めた1980年代後半に、エイズサーベイランス委員会から年間数十例の新規患者というデータが公表されていたころ、最大手の臨床検査センターのでは年間500件の陽性検体が出ていました。スクリーニング検査した後、全数ウェスタンブロット法で確認検査していますから、間違いのないデータです。SRLのデータと比べても厚生省のエイズサーベイランス委員会のデータは1/10以下でした。他にも検査している臨床検査センターはありましたから、おそらく年間1000件は超えていたでしょう。
 医師経由でデータを収集するとなんらかのバイアスがかかって届け出は減るということのようです。
 実際のHIV陽性患者は厚生省発表の数十倍でしたから、対策は遅れました。先進国で日本だけがエイズ患者が増え続けたのです。あれはデータ収集の拙さが招いた人災でした。

 厚生省は、臨床検査センターに指定伝染病の検査データ報告を法律で義務付けたらいいのです。
 手順は簡単ですよ。
 ①データ受け渡しのフォーマットを決める
 ②データ受け渡しのタイミングを決める
 ③各地域の保健所へのデータのフィードバックの実務設計をする

 たったこれだけでいい。検査依頼日、検査結果報告日、地域別コード、患者年齢・性別など、必要な項目と配列を決めたら、あとはデータ送信のタイミングを決定したらいい。予期せぬ問題が持ち上がったら、その都度処理の仕方を決めていけばいい。
 ああ、そうでした。臨床検査項目コードの標準化も必要でしたね。28年ほど前に臨床検査センターと全国の病院やクリニックは標準臨床検査コードで動いていますから、この点は心配なしです。ここが一番大きい問題になるので、上場準備要員として入社2年後の1986年に提案書「臨床診断支援システム開発と事業化構想案」を書き、10個のプロジェクトに分割しました。その中の一つが臨床検査項目コードの標準化でした。臨床検査項目コードが標準化されないと、臨床診断支援システム開発ができません。だからインフラの一つとして、不可欠のプロジェクトでした。いくつかの専門病院と大学病院のドクターと提携して、日本でプロトタイプをつくり、世界市場で展開するつもりだったのです。診断精度が10倍以上にアップすれば、医者にとっても患者にとっても福音です。診断や治療効率も大幅にアップできますから、世界中の医療機関をこのシステムに包摂するつもりでした。事業規模は数兆円を考えていました。SRL創業社長の藤田光一郎さんにフィジビリティスタディ予算200億円を認めてもらいました。結局、コンピュータの処理速度と通信速度が30年ほど先でないと要求仕様を満たさないので断念。NTTデータ通信事業本部との打ち合わせの結果でした。でも十数年でクリアしてますね。いまならできます。どなたかおやりになったらいかが?
 大手六社を集めて、臨床病理学会と検討作業部会を立ち上げて、標準コードが決まり、運用されています。運営事務局はいまもSRL学術部門にあるはずです。
 SARS-CoV-2の検査はPCR検査、抗体検査、抗原検査とさまざまですが、検査センター経由の集計データーは検査項目単位で可能ということです。重要なインフラである、臨床検査項目コードの標準化はもう25年以上も前に整備を終わっています。25年たってもそんなことを成し遂げたのは世界中で日本だけですよ。
 日本人が提起した世界標準規格はハリケーンの藤田スケールぐらいなものです。わたしの頭の中では、日本標準臨床検査項目コード制定プロジェクトは世界標準臨床検査項目コード制定のためのたたき台でした。続きは誰かがおやりになったらよろしい。国策プロジェクトだってかまわない。

 国立感染研や都道府県の衛生研究所がやるから、うまくいかないのです。検査を独占すること自体が害悪を振りまいています。民間検査センターに依頼した分は、検査センターから厚生労働省のサーベイランス委員会へ報告させ、保健所への届け出を免除したらいいのです。
 国会は休んでいる場合じゃないでしょ。COVID-19パンディミックで揺れています。しっかり議論してやり方を決め、法律を制定するのは、国会議員のあなたたちの役割です。必要な時に仕事しないで休んでいてどうするのですか?

 クリニックや病院で検査している分だけ、直接入力したらいいのです。入力が面倒なら検査センターへ検査外注すればいい。そうすれば余計な入力仕事に時間を省かずにすみ、診療に専念できます。

 厚生労働省の医系技官はこういう仕事は専門外で苦手のようですから、エイズから30年以上たっても、「届け出」に関するDX化が進みません。医療とシステムの複合領域の仕事ですからニーズを満たす人材がいないのでしょう。
  病気に関する様々な問題は、官と医師だけでやれる時代ではとっくにないのです。1980年代後半のエイズパンディミックがそうしたことを教えてくれました。官と医師だけで取り組んで惨憺たる結果を招きました。
 専門家集団としての民間企業が入り込まなければ解決できない大きな問題があるということです。

 大手3社の臨床検査センターの学術部門とシステム部門を招聘して、相談したらいかがですか?
 簡単です。(笑)
 連絡いただけたら、調整してさしあげられるかもしれません。
 シーズンごとくらいに定期的にミーティングされたらいかがですか?
 
<余談:SRL創業社長藤田光一郎さん>8/27午後5時追記
 藤田さんが入社2年目のわたしの「臨床診断支援システム開発及び事業化構想草案」のフィジビリティスタディにOKを出してくれたのは、1984年に入社して、予算編成と管理を担当しながら、経営統合システム開発を8か月で本稼働(財務会計システム及び買崖金支払いシステム、投資及び固定資産管理システム、各システム(原価計算システム、購買在庫管理システム、販売会計システム)間インターフェイス仕様書作成)させたこと、それともうひとつ理由があったと思います。利益を増やすために最大の費目であった検査試薬の仕入価格交渉を提案し、実際に交渉を担当して初年度20億円のコストカットを実現したからです。購買課長が不可能だと回答したので、副社長の谷口さんが「プロジェクトを創るから、おまえがやれ」とこうでした。3年間で60億円ほどは利益に影響しています。だから、藤田さんはご褒美の意味もあったのだと思います。入社1年後に課長職への昇格申請を経理部長がしてくれましたが、異例だったので人事部が反対して没。上場準備要員としては一番最後の入社でした。それが一番速い昇格申請だったので、それだけの理由で人事部が反対、仕事の内容が理解できなかったのでしょうね。
 藤田光一郎さん、バランス感覚のある人でした、そしてSRLはの自由度の大きい会社でした。
 89年12月に購買課から学術開発本部長直属スタッフへ異動、91年4月に新設された関係会社管理部へ異動。93年に金沢の臨床検査会社買収と福島県の臨床検査会社資本提務交渉を担当していますが、藤田社長特命案件でした。5つのディメンション・25ゲージの経営指標群、総合偏差値をつかった経営分析と、経営改革案を作成して交渉してます。どちらでも好きな方を選べと言われて厄介な方の福島県の資本提携会社を選びました。93年6月に取締役経営企画部長で3年の約束で出向でした。1年後に黒字化案をつくり、損益のシミュレーションをして最終確認に親会社のSRLへ藤田さんと副社長の谷口さんの最終了解を取り付けに行ったら、「聞いていない」とのお返事。文書でも報告していたので、すぐにピンときました。売上は2倍、売上高経常利益率が20%になる劇的な経営改善案だったので、SRL子会社の中ではナンバーワンになってしまいます。親会社の2倍以上の利益率です。それで、ストップかけられました。「わたしの勇み足でした」って言ったら、藤田さんと谷口さん、びっくりした顔してました。二人は当然反論を予想していたのです。食えないやつと思ったでしょうね。意図が読めたので、これ以上話しても無駄とわかったのです。引くときはあっさり引きます。わたしの後に交替で3人出向しましたが、藤田さんは手を引くことに決めてました。すぐに私と資本提携解消についていくつか起きる問題への対処法を打ち合わせて、福島県の会社の上場準備支援に入っていたJAFCOへ出向きました。それで幕引き、もち株は売り払いました。JAFCOとの交渉は見事でした。JAFCO側は藤田さんは東証1部へ2社上場した現役社長ですから、扱いが丁重でした。藤田さん、言葉はゆっくりでしたね。そして時々間が空きます。グーンと大きな圧力が生じるのが見えるようでした。役者です。わたし一人だけ伴なってJAFCOへ出向いたのです。圧力のかけ方、とっても勉強になりました。会議が終わって、「お車はどちらへ?正面に回しますので」と問われ、「新宿から電車できました」と答えると、「え、セキュリティ上まずいですよ」とびっくりされてました。その数年後、光洋中学校の隣のクラスの伊藤君が、JAFCOの社長に就任しています。野村證券は不祥事で3度、役員が全員退任してましたから、ついていたのでしょう。ツキも大事です。早く出世していたら、彼も辞任でJAFCOの社長にはなれなかった。人間万事塞翁が馬です。
 高校同窓会名簿に伊藤君の住所の欄は空欄でしたね、セキュリティ上公表できないのだそうです。野村證券の子会社JAFCOはそういう文化の企業といこと。

 1年前(1991年7月)に千葉ラボ(子会社SMS)へのシステム新規導入による経営改善で、わたしは親会社関係会社管理部からの支援要員で稟議書「SMS再構築基本プラン」を書いてました。新システム導入は生産性を2倍以上に高めるもので、赤字会社が黒字会社になる損益シミュレーションが稟議書の添付してありました。結果はそれ以上になっていました。
 福島県の会社は仙台にラボをもっていて、そこで染色体検査や病理検査をしていました。染色体検査事業を拡張して黒字転換する構想でした。当時の売上は30億円弱でしたが、改善案が軌道に乗ると売上高経常利益率は20%というわけです。そんな臨床検査会社は国内にありませんでした。いまもありません。一般検査ラボのほうを新システム導入するとさらに業績は伸びます。東北ではSRLを凌駕することになったでしょう。わたしの経営改革案は、実績がシミュレーションをつねに上回ります。実証済みでした。
 危険を察知した藤田さんは、わたしに出向解除を命じました。15か月で94年10月1日付で本社経営管理課長・購買部課長兼務・社長室兼務で戻ることになりました。つまらない仕事でした。購買部のほうはシステム開発でしたから、1週間で仕様書と実務設計書を書いて担当者へ渡しました。それまでは富士通の汎用大型機で動いていました、業務用サーバーを使ったコンパクトなシステムでした。1984年に購買在庫管理システムの半分はわたしが仕様書を書いています。これはまったくの作り込みでした。富士通側で仕様書を書いていたようで、富士通とシステム部が癒着があって抵抗してました。仕様書比べたら比較にならない、素人仕事でした。システム部の担当者もシステム部長もわたしが1984年に経営統合システムの仕様書と実務設計書を書いたことを知りませんでした。
 1年後ぐらいに、本社でパーティがあり、そのときにシステム部長のS田さん、わたしのところへ来て、「あの折はすいませんでした、ebisuさんのこと知りませんでした」と謝っていました。素直な人でした。彼は八王子ラボの若手の病理医でした。経営統合システム開発をしたときは、SRLシステム部はタッチしてません。ラボの基幹業務システム開発を富士通とやって大トラブルでしたので、経営統合システム開発はNCDさんとやったのです。購買部へ社内出向していたシステム部員、事情を知らないので横柄な態度でした。しかたありません。苦笑いで対応。90年に沖縄米軍向けの出生前診断検査トリプルマーカ―導入の時は、実務設計をしてプログラミング仕様書を書き、システム部からC言語のプログラマーのU野君を1か月借りて、仕事しました。学術営業部のS藤君がシステム部へ案件を持ち込み、「不可能です」と断られた案件でした。だから、経営統合システムにノータッチだったシステム部の中にはその件でわたしのスキルを知るものが数名いました。その中の一人が、96年の秋に帝人との治験合弁会社設立プロジェクトが暗礁に乗り上げたときに、乗り切れるのはebisuさんだけだと声を上げたのです。近藤さんは社長になってはじめての一部上場企業との合弁会社だったので、失敗したくないという事情がありました。それで、出航ちゅうの一番古い子会社の東京ラボから近藤社長に呼び戻されました。
①治験合弁会社のスケジュール通りの立ち上げ
②赤字会社の黒字化
③三年後の合弁解消
④帝人の臨床検査子会社の吸収合。
 以上の四課題を3年で達成するように指示され、期限内に全部クリアしてます。近藤さんには必要な人員2名の異動と経営の全権をわたしに委任するという条件を飲んでもらいました。やり方は任せるということでなければ、引き受けないつもりでしたが、たまたまSRL本社へ最初のミーティングに出向いたときにエレベータ前で出くわし、3分ほど話して、条件を即決で飲んでくれました。ありがたかった。自由にやれなきゃ、こんな課題四つを期限内には不可能ですから。

 購買在庫管理システムはわたしが1週間で書きました。仕様書と実務設計書どおりで開発されたようです。前回の開発から10年たっていましたので、大型汎用機からクライアント・サーバーシステムへ変更しました。94年ですから、もう大型汎用機の時代ではなかったのです。中身は変わりません、基本的にに乗せ換えです。もちろん実務設計はまるっきり異なってました。NCDさんに宇田さんという優秀なメンテナンス要員の責任者がいたので、彼に私が書いた仕様書を渡すだけで仕事は済んだのです。5年ほどメンテナンスを担当していて、宇田さんとってもスキルがアップしてましたから、いまさら富士通さんが入る余地はありませんでした。基幹業務システムよりもずっと複雑でしたから技術的に無理でした。入社3年目くらいのスキルの低いSEを派遣していたようです。トップクラスのSEなら一緒に仕事できたかもしれませんね。スキルの低い人と仕事すると、余計な手間がかかります。たくさんあるアプリケーション業務を一つ一つ教えないといけないのです。原価計算、在庫管理、支払管理、投資・固定資産管理...など広い業務知識が必要なのです。


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