#4784 子育てに最善の方法はあるのか? July 20, 2022 [58. 家庭のしつけ]
思い出話からスタートします。
2歳くらいのことではないかと思うのですが、茶碗を並べて、金槌で叩いて音を聞いて、また次の茶碗を叩いて壊れる音を聞いて不思議な顔をしている。お袋が止めようとしたら、オヤジが「いいからやらせておけ」と。
2歳くらいのことではないかと思うのですが、茶碗を並べて、金槌で叩いて音を聞いて、また次の茶碗を叩いて壊れる音を聞いて不思議な顔をしている。お袋が止めようとしたら、オヤジが「いいからやらせておけ」と。
結局、全部お茶碗割ってしまい、その日の晩御飯のために茶碗を買いに行ったとお袋。
次は幼稚園の頃のことです。電気が面白くてはさみと何かをコンセントに突っ込んで、びりびり、それがとっても楽しい。ショートしてあやうく火事にするところでした。
小学校の低学年の時に、目覚まし時計の中身が見たくて、新聞紙を広げて、外した順番に部品を並べました。全部分解し終わり、さて元に戻そうとしましたが、できるはずもありません。専用工具がないのですからね。ばらすのは簡単、組み立てるのはメカニズムをある程度知っていて、道具が必要なことがわかりました。やってみて気がつく。オヤジはやはり、にこにこしてみていただけで、何も言いません。数日後に新しい目覚まし時計が机の上にありました。オヤジには一度も叱られた記憶がありません。
子どもが何かに夢中になってやっているときは、危険がない限りやらせておいたらいいのです。孫にはそうしてます。
ところで、わたしは小さな塾で生徒たちを教えています。
学力の高い生徒と同じ教え方をしたのでは、学力の低い生徒には理解できません。学力に応じて説明を使い分けてます。だから、高校生の大学レベルの知識を教える場合もあります。
同じ学力の生徒に同じ説明をしたら、結果は同じかというと、そんなこともありません。全然違います。
解答集の解説を読んで、さっさと先に進むのが好きな生徒もいるし、1時間考えてもなお、質問せずに粘り強く思考を続ける生徒もいます。5分考えてわからなければ質問をするというのが多数派かな。ああ、1分で見切りをつけて次々質問する生徒がたまにいますよ。
テストの点数が同じでも、そうした生徒の性格とか気質や思考の型の違いも時には考慮した説明をすることになります。個別指導を積み重ねていると、すべての生徒に一つのやり方でベストな教え方なんてないことを生徒たちが実例で教えてくれます。教えながらこちらもその生徒にはどういう教え方が最善なのか学んでいるのです。
オヤジは子どもにはとっても寛容な人でした。「介入」しない、邪魔しないのです。ああしろ、こうしろとは言いません。でも子供の将来にとって危ういと感じると、大事なところは上手に伝えてくれる人でした。
そのエピソードを一つ紹介します。小学生の低学年の頃は石炭ストーブでしたから、焚き付け割りが長男のわたしの仕事でした。(小1の時から、家業であるビリヤード店の手伝いもしてました。9割がたは、大人に相手してもらって遊んでいただけ。愉しくて夢中でした。根室信金本店が歩いて1分でしたから、釣銭の両替も小1の頃からしばらくはわたしの仕事でしたね。そんな簡単なことでも最初はちょっと勇気が必要でした。)
焚き付けの材料は木工場から出る木切れと廃材でした。廃材には5寸角(断面が15cmの正方形)のものも混じっています。それは長柄の鉞で何度もたたいて叩き折ります。そんなことを小学生1年のころから中学3年ころまでやっていると背筋力や握力が並外れて強くなります、角材に当たる瞬間にギュッと握りしめないと折れません、握力は自然に強くなります(握力はいまでも65kgあるかもしれません。会社勤めをしていた時には毎年健診があるので測定してました)。木切れは手刀と拳で叩き折っていました。たまに生木が入っているので、半端な速度で手刀や拳を振り下ろすと、撓(しな)ってビーンと弾かれます。とっても痛いので、そうならぬよう気合を入れて叩き折ります。何百何千回と繰り返したので拳はそのタイミングを覚えてしまいます。
オヤジは兵隊へ行くまでに30ほども職を変えています。十代にあるところで丁稚奉公をしたときに、頭にカーッときて殴ったのだそうです。そのまま辞めて店を出ていった。数年してそこへ行ったら、殴られた人が前歯がぞっくり金歯になっていた、後味が悪い思いをしたと言ってました。オヤジは十代のころから町内対抗の自転車レースの選手とボクシングをしていたのです。そのころの写真を見ると精悍な顔つきをしてます。兵隊に行ってからは、朝鮮か華北で「命の要らないもの集まれ」という募集に応じて落下傘部隊へ転属。親や兄弟姉妹にも所属を言ってはいけない秘密部隊で、忍者まがいの夜間訓練をする精鋭部隊でした。一人で正規兵3人を同時に相手できると言われてました。
しばらくしてから、オヤジがなぜ丁稚奉公時代のそんな話をしたのか理解できました。焚き付け割りをしているときに、横を通っても何にも言わなかったが、おそらく危ないと思っていたのです。手刀や拳で本気で人を叩いたら、人を殺しかねないと感じていたのでしょう。わたしは拳で人を叩いたことは一度もありません。顔面のどこを叩いてもまともにヒットしたら粉砕骨折させてしまう。身体が生木を折るタイミングを覚えているので手加減できません。高校生の頃は身体を半分ひねるだけで、打撃力が180㎏ありました。片足踏み込んだら250kgくらいの衝撃が拳に生じます。オヤジが後悔交じりに話してくれなければ、危うかったかもしれません。人を殴ろうかと思ったことは1度ありました。殴れば相手を殺すだろうし、自分の人生もそこで終わりになる、そんなに値打ちのある人間ではなかった、抑えることができました。高校時代は喧嘩するなら校長と、そう思っていました。雑魚相手ではつまらない。生徒会選挙で邪魔されたことがあったので、カチンときて一度やりましたね。(笑)
子どもの教育はむずかしいものです。仮にオヤジと同じように子どもに接する親がいたとして、どうなるかは子どもの受け止め方次第で結果が違ってくるでしょうね。オヤジは戦後富良野で地回りのヤクザ5人に映画館で因縁を付けられて、「顔を貸せ」とトイレへ連れ込まれた。歳が5歳ほど離れた甥っ子がすぐに見に行ったら、5人とも倒れていたそうです。それ以来地回りのヤクザはオヤジと通りですれ違うと道を開けたそうです。落下傘部隊の降下訓練、戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」の撮影時の事故で右腕複雑骨折、それで生き残った。オヤジの部隊は南方で全滅しています。お袋が結婚したころには後遺症で右腕が上がらなかったそうです。だから富良野のヤクザとは左腕一本。オヤジが死んだときに葬儀に駆けつけてくれた旭川の(オヤジの)甥っ子がそんな話をしてくれました。
わたしの高校時代は根室商業から引きずった総番制度がまだありました。1年生の時に仲の良かったうちの2人は総番制度グループのメンバーで、2年の時に3年生と「13:7の決闘」で停学を食らっていました。総番制度の引継ぎで3年生と2年生がもめたのです。3年生の何人かがケガをして病院へ行ってことがばれて、北海道新聞が大きな見出しで採り上げましたから、処分せざるを得なかった。根室高校最後の総番長のヒロシとは同じクラスでよくつるんでました、気が合った。子どもたちはさまざまなタイプの友人と交わることでも育っていきます。そうしてみると、学校の先生たちの役割は、子育てに1/3くらいの比重がありそうですね。
いろんな先生に育ててもらいました。小学校の担任だった鶴木俊輔先生、中学校の担任の山本幸子先生、根室高校では白方功先生、そして担任だった冨岡良夫先生、大学のゼミの指導教授(哲学)だった市倉宏祐先生、大学院では増田四郎先生(西洋経済史)、わたしの場合は先生の結構比重が大きい。同じようにビリヤードの常連のみなさんにも育ててもらいました。インテリがいたんです。根室新聞の自裁小説を連載していた歯科医の福井先生や短歌を詠んでいた歯科医の田塚先生、このお二人が面白がってかわいがってくれました。大工のHさん、肉屋のケンジ、ラーメン屋のショッちゃん、寿司屋のマツ、信金の職員のお二人、根室印刷のお二人、英字新聞を読んでいた明昭高校の先生、北洋相互銀行の若くて元気のいい二人、ビリヤードの天才の西井さん、昭和天皇のビリヤードコーチの吉岡先生などなど。いい大人もちょっと危ない大人も周りにたくさんいました。生態系と同じでさまざまなタイプが揃っていたことが大事なんです。
教育する方とされる方と、関数関係はなさそうです。まったく同じインプットでもアウトプット(結果)が違ってきます。インプットが違っても結果は同じことがありえます。教育は「多対多対応」なのでしょう。
同じ教え方で同じ結果が出せるわけではない、生徒の資質や気質や性格、そして思考の鋳型がことなるので、結果は自然に別のものになる。つまり教える側はそれらを見極めて、最善と思う指導法を選ばなければならない。
難関大学を目指す生徒と、平均点が取れなくてあえいでいる生徒への指導法が異なることは誰でも納得いただけるでしょう。学力の低い生徒への指導は実に根気が必要です。惜しみなく手間をかければ、かけただけのことはあります。説明の仕方を何通りもやってみたり、すぐに忘れるとか復習して来ないので何回も繰り返したり、徒労のことももちろんあります。こちらがめげたらアウトです。
学校の先生たちは教育や指導に関してまた違った考えをもっているでしょう。
友人の水野正司さんが子育てについて本を書きました。リライアブルに注文してあるので、届き次第読んでみようと思っています。
関連の書籍を1000冊も読んで、その上で論を展開したと聞きました。
書名を書いておきます。
『向山家の子育て21の法則』
水野さんは根室管内で長年学校の先生をされてました。定年前にお辞めになって著述業へ変身。授業の名人、才能あふれる人です。根室管内には凄腕の(元)教員が数人いるということ。
別海中央中学校の元校長の青坂さんも授業の名人の一人です。厚床の校長もしてました。この人を根室の教育長にしたらよさそうです。学校へのICT導入のお仕事をなさっていますから、文科省の方針にも沿っています。2010年頃だったかな、ずいぶん荒れて学力が下がっていた啓雲中学校を正常に戻した校長先生と教員数人がいました。校長のお名前は佐藤ヨシアキ先生だったかな。協力した教員は一人は光洋中学校で、もう一人は柏陵中学校で仕事しています。お二人とも抜群の授業技量をお持ちです、根室管内に人材はいますね。そういう人たちを適材適所で重用してこなかっただけ。不思議な町です。発展の芽を自ら摘んでいるかのような...
子どもが何かに夢中になってやっているときは、危険がない限りやらせておいたらいいのです。孫にはそうしてます。
ところで、わたしは小さな塾で生徒たちを教えています。
学力の高い生徒と同じ教え方をしたのでは、学力の低い生徒には理解できません。学力に応じて説明を使い分けてます。だから、高校生の大学レベルの知識を教える場合もあります。
同じ学力の生徒に同じ説明をしたら、結果は同じかというと、そんなこともありません。全然違います。
解答集の解説を読んで、さっさと先に進むのが好きな生徒もいるし、1時間考えてもなお、質問せずに粘り強く思考を続ける生徒もいます。5分考えてわからなければ質問をするというのが多数派かな。ああ、1分で見切りをつけて次々質問する生徒がたまにいますよ。
テストの点数が同じでも、そうした生徒の性格とか気質や思考の型の違いも時には考慮した説明をすることになります。個別指導を積み重ねていると、すべての生徒に一つのやり方でベストな教え方なんてないことを生徒たちが実例で教えてくれます。教えながらこちらもその生徒にはどういう教え方が最善なのか学んでいるのです。
オヤジは子どもにはとっても寛容な人でした。「介入」しない、邪魔しないのです。ああしろ、こうしろとは言いません。でも子供の将来にとって危ういと感じると、大事なところは上手に伝えてくれる人でした。
そのエピソードを一つ紹介します。小学生の低学年の頃は石炭ストーブでしたから、焚き付け割りが長男のわたしの仕事でした。(小1の時から、家業であるビリヤード店の手伝いもしてました。9割がたは、大人に相手してもらって遊んでいただけ。愉しくて夢中でした。根室信金本店が歩いて1分でしたから、釣銭の両替も小1の頃からしばらくはわたしの仕事でしたね。そんな簡単なことでも最初はちょっと勇気が必要でした。)
焚き付けの材料は木工場から出る木切れと廃材でした。廃材には5寸角(断面が15cmの正方形)のものも混じっています。それは長柄の鉞で何度もたたいて叩き折ります。そんなことを小学生1年のころから中学3年ころまでやっていると背筋力や握力が並外れて強くなります、角材に当たる瞬間にギュッと握りしめないと折れません、握力は自然に強くなります(握力はいまでも65kgあるかもしれません。会社勤めをしていた時には毎年健診があるので測定してました)。木切れは手刀と拳で叩き折っていました。たまに生木が入っているので、半端な速度で手刀や拳を振り下ろすと、撓(しな)ってビーンと弾かれます。とっても痛いので、そうならぬよう気合を入れて叩き折ります。何百何千回と繰り返したので拳はそのタイミングを覚えてしまいます。
オヤジは兵隊へ行くまでに30ほども職を変えています。十代にあるところで丁稚奉公をしたときに、頭にカーッときて殴ったのだそうです。そのまま辞めて店を出ていった。数年してそこへ行ったら、殴られた人が前歯がぞっくり金歯になっていた、後味が悪い思いをしたと言ってました。オヤジは十代のころから町内対抗の自転車レースの選手とボクシングをしていたのです。そのころの写真を見ると精悍な顔つきをしてます。兵隊に行ってからは、朝鮮か華北で「命の要らないもの集まれ」という募集に応じて落下傘部隊へ転属。親や兄弟姉妹にも所属を言ってはいけない秘密部隊で、忍者まがいの夜間訓練をする精鋭部隊でした。一人で正規兵3人を同時に相手できると言われてました。
しばらくしてから、オヤジがなぜ丁稚奉公時代のそんな話をしたのか理解できました。焚き付け割りをしているときに、横を通っても何にも言わなかったが、おそらく危ないと思っていたのです。手刀や拳で本気で人を叩いたら、人を殺しかねないと感じていたのでしょう。わたしは拳で人を叩いたことは一度もありません。顔面のどこを叩いてもまともにヒットしたら粉砕骨折させてしまう。身体が生木を折るタイミングを覚えているので手加減できません。高校生の頃は身体を半分ひねるだけで、打撃力が180㎏ありました。片足踏み込んだら250kgくらいの衝撃が拳に生じます。オヤジが後悔交じりに話してくれなければ、危うかったかもしれません。人を殴ろうかと思ったことは1度ありました。殴れば相手を殺すだろうし、自分の人生もそこで終わりになる、そんなに値打ちのある人間ではなかった、抑えることができました。高校時代は喧嘩するなら校長と、そう思っていました。雑魚相手ではつまらない。生徒会選挙で邪魔されたことがあったので、カチンときて一度やりましたね。(笑)
子どもの教育はむずかしいものです。仮にオヤジと同じように子どもに接する親がいたとして、どうなるかは子どもの受け止め方次第で結果が違ってくるでしょうね。オヤジは戦後富良野で地回りのヤクザ5人に映画館で因縁を付けられて、「顔を貸せ」とトイレへ連れ込まれた。歳が5歳ほど離れた甥っ子がすぐに見に行ったら、5人とも倒れていたそうです。それ以来地回りのヤクザはオヤジと通りですれ違うと道を開けたそうです。落下傘部隊の降下訓練、戦時宣伝映画「加藤隼戦闘隊」の撮影時の事故で右腕複雑骨折、それで生き残った。オヤジの部隊は南方で全滅しています。お袋が結婚したころには後遺症で右腕が上がらなかったそうです。だから富良野のヤクザとは左腕一本。オヤジが死んだときに葬儀に駆けつけてくれた旭川の(オヤジの)甥っ子がそんな話をしてくれました。
わたしの高校時代は根室商業から引きずった総番制度がまだありました。1年生の時に仲の良かったうちの2人は総番制度グループのメンバーで、2年の時に3年生と「13:7の決闘」で停学を食らっていました。総番制度の引継ぎで3年生と2年生がもめたのです。3年生の何人かがケガをして病院へ行ってことがばれて、北海道新聞が大きな見出しで採り上げましたから、処分せざるを得なかった。根室高校最後の総番長のヒロシとは同じクラスでよくつるんでました、気が合った。子どもたちはさまざまなタイプの友人と交わることでも育っていきます。そうしてみると、学校の先生たちの役割は、子育てに1/3くらいの比重がありそうですね。
いろんな先生に育ててもらいました。小学校の担任だった鶴木俊輔先生、中学校の担任の山本幸子先生、根室高校では白方功先生、そして担任だった冨岡良夫先生、大学のゼミの指導教授(哲学)だった市倉宏祐先生、大学院では増田四郎先生(西洋経済史)、わたしの場合は先生の結構比重が大きい。同じようにビリヤードの常連のみなさんにも育ててもらいました。インテリがいたんです。根室新聞の自裁小説を連載していた歯科医の福井先生や短歌を詠んでいた歯科医の田塚先生、このお二人が面白がってかわいがってくれました。大工のHさん、肉屋のケンジ、ラーメン屋のショッちゃん、寿司屋のマツ、信金の職員のお二人、根室印刷のお二人、英字新聞を読んでいた明昭高校の先生、北洋相互銀行の若くて元気のいい二人、ビリヤードの天才の西井さん、昭和天皇のビリヤードコーチの吉岡先生などなど。いい大人もちょっと危ない大人も周りにたくさんいました。生態系と同じでさまざまなタイプが揃っていたことが大事なんです。
教育する方とされる方と、関数関係はなさそうです。まったく同じインプットでもアウトプット(結果)が違ってきます。インプットが違っても結果は同じことがありえます。教育は「多対多対応」なのでしょう。
同じ教え方で同じ結果が出せるわけではない、生徒の資質や気質や性格、そして思考の鋳型がことなるので、結果は自然に別のものになる。つまり教える側はそれらを見極めて、最善と思う指導法を選ばなければならない。
難関大学を目指す生徒と、平均点が取れなくてあえいでいる生徒への指導法が異なることは誰でも納得いただけるでしょう。学力の低い生徒への指導は実に根気が必要です。惜しみなく手間をかければ、かけただけのことはあります。説明の仕方を何通りもやってみたり、すぐに忘れるとか復習して来ないので何回も繰り返したり、徒労のことももちろんあります。こちらがめげたらアウトです。
学校の先生たちは教育や指導に関してまた違った考えをもっているでしょう。
友人の水野正司さんが子育てについて本を書きました。リライアブルに注文してあるので、届き次第読んでみようと思っています。
関連の書籍を1000冊も読んで、その上で論を展開したと聞きました。
書名を書いておきます。
『向山家の子育て21の法則』
水野さんは根室管内で長年学校の先生をされてました。定年前にお辞めになって著述業へ変身。授業の名人、才能あふれる人です。根室管内には凄腕の(元)教員が数人いるということ。
別海中央中学校の元校長の青坂さんも授業の名人の一人です。厚床の校長もしてました。この人を根室の教育長にしたらよさそうです。学校へのICT導入のお仕事をなさっていますから、文科省の方針にも沿っています。2010年頃だったかな、ずいぶん荒れて学力が下がっていた啓雲中学校を正常に戻した校長先生と教員数人がいました。校長のお名前は佐藤ヨシアキ先生だったかな。協力した教員は一人は光洋中学校で、もう一人は柏陵中学校で仕事しています。お二人とも抜群の授業技量をお持ちです、根室管内に人材はいますね。そういう人たちを適材適所で重用してこなかっただけ。不思議な町です。発展の芽を自ら摘んでいるかのような...
2022-07-20 14:47
nice!(0)
コメント(0)
コメント 0