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#4761 unlearnとは?:当たり前のことのようです June 4, 2022 [5.1 脳の使い方]

 6/3朝4時半ころからだっただろうか、NHKラジオで東大大学院経済学研究科教授の柳川範之氏によるunlearnについての解説が流れていた。
 unlearnとは学ばないことではなく、かいつまんで言うと、いままで学んできた思考の枠組みをいったん外して物事を観察・分析・総合してみることである。柳川さんの解説によれば「detox(解毒)」とも言い換えられる。
 unlearnの必要度を測るための六項目を挙げていた。
① 何か決まった口癖がある
② 最近ワクワクすることが減った
③ 周囲の人との対話が毎月同じような話題ばかり
④ 仕事は別分野の学びをしていない
⑤ どんなことにも、そんなことあたりまえと思いがち
⑥ すごい成果を上げた人は自分とは別世界の人だと思う

 何項目か思い当たる人は、たとえば、別メニューのランチを食べてみるとか、お店を変えてみるという風なことを繰り返してみる、つまり自分のいままでの行動パターンを変えてみる、発想を変えてみるとよいそうだ。
 根室の子どもたちの学力問題や根室の地元企業の経営改善も同じことがいえるだろう。

 辞書を見たらちゃんと載ってました。辞書はCALDです。

unlearn /ʌnˈːn/ /-ˈːn/ verb [ T ]
to make an effort to forget your usual way of doing something so that you can learn a new and sometimes better way
I've had to unlearn the way I played guitar since I started taking formal lessons
(いつもの何かをするときのありきたりの方法を忘れる努力をして、その結果新しい方法を知ることができたり、何かもっとよい方法を知ること。)

 当たり前のことですから、いままでの生き方にいくらでも見つかりそうです。unlearnという観点からサラリーマン人生を振り返ってみます。

 仕事では前任者のそれを引き継ぐと、1年以内に根底から実務を変えていました。システム開発がらみが多かった。そうでないのもありますが、前任者の仕事のスタイルをそのまま1年間やるということは一度もありませんでした。社内では誰もやったことのないプロジェクト仕事が多かったということも、参考にするモノがないのでunlearnスタイルにならざるを得なかった理由かもしれません。

 つねにlearningはしていましたよ。仕事に関係のあることも、ないことも、好奇心の赴くままでしたね。紳士服の製造卸の零細企業が社会人のスタートでした。英語版のメンズウェアとドイツのファッション雑誌がバックナンバーが揃って会社にあったので、担当は経理なのに、読みふけってました。40代半ばの社長はそれを見て、生地屋の営業が来るとわたしに反物を選ばせました。8㎝の正方形くらいの生地見本を指で触ってもんでみて肌触りを確かめます、小さな布からスーツになったときの全体像をイメージします。特に自分が着てみたいと思う生地は裁断師のUさんへ伝えます。いい縫製工場へ出してくれます。製造原価で購入できましたから、定価の4割でした。
 ヤング向けのスーツの企画を全部任せるのは社長は冒険だったでしょうね、営業担当は飛ぶように売れるので大喜びです。セールストークも大事ですが、いいものをもって行ったら他社を抑えて優先的に買ってもらえます。ドイツのファッション雑誌を見ていたら、2年遅れでドイツの流行に乗っていればいいことがわかりました。団塊世代が就職して紳士服市場が拡大したので、団塊世代に属しているわたしのセンスがたまたまぴったりだったのでしょう。自分が着たいと思う生地を選んで生産してもらいました。着道楽でした。3年間の間に裁断師の人から工場の品質向上の指導方法、型紙の制作に関すること、鋏の研ぎ方、中間プレスの重要性、下職の選び方などたくさん教えてもらいました。会社の業績がぐんと良くなったのでかわいがっていろんなことを教えてくれました。
 年配もので不良在庫が山のようにありましたが、ヤング向けのいい製品があると取引先の小売店は一緒に買ってくれますから営業の2人が大喜びです。モノがよければ見せただけで買ってくれます。お店もヤング向けの流行の商品は店を明るくするし、利益も大きくなります。捨てるしかなかった年配向けの不良在庫のスーツがお金に換わったのですから、社長も大喜び。そこそこ給料アップしてくれました。
 終戦後は作れば売れたのです、ところが40歳半ばになってそういう固定観念での企画は通用しなくなりました。人間40代半ばになるとunlearnができないのです。そういう時にたまたまいくつかの手違いで、結婚式を挙げるのに無職ではいけないので、2年くらいの腰掛のつもりである税理士事務所の紹介で就職しました。面白かった。3年勤めて大学院へ戻りました。

 渋谷の進学塾の専任講師をしながら、自前で大学院で勉強しました。修士論文を書いて卒業、どうしようかなと考えて、経理のスキルがあるので、新聞募集で応募、すぐに決まりました。森英恵の青山の本社で社長面接、ニュヨーク支店勤務かVividと婦人服の子会社を任せるか検討するので少し待ってもらいたいと言われて、その帰りにもう一つ応募していた産業用エレクトロニクスの会社の方へ断りの電話を入れたら、総務・経理担当役員が社長にあっていけというんです。社長は慶応大学大学院経済学研究科の出身なので、とにかく日本橋人形町の本社まできて会っていけと。電話を切って青山の森英恵の本社ビルから日本橋人形町へ向かい、すぐに総務経理担当役員に会いました。社長室へ行く前に社内を案内してくれました。技術部にマイクロ波計測器と制御用の高級パソコン(1978年当時200万円程度の価格)がごろごろしていました。眼がそちらへ行ってしまったのです。機械には弱いのです、目がないという意味ですよ。いじってみたいと思ってしまいました。社長の関周さんと社長室で20分ほどお話させてもらって、結局森英恵の方は辞退したのです。
 とりあえず経理部採用で取締役直属スタッフ、予算管理と資金管理を任されました。1週間後に社運をかけた6つのプロジェクトを社長が公表、その内の5つを任されました。びっくりです。経営分析・経営業績評価システムモデルを作るために、3週間ほど毎日電卓を朝から晩まで叩いていたら、入社1か月後に社長が米国出張の折に、HP67を購入して、朝出社するとわたしの机の上にあるんです。社長秘書に聞いたら「社長がebisuさんにって仰ってました」、プログラムのできるヒューレッドパッカード社製のキャリュキュレータでした当時の価格で11万円でした。さっそく400頁ある英文マニュアル2冊を読んで、経営分析・経営業績評価用モデル・システムを作り、毎月経営分析レポートを役員向けにだして、経営会議で説明、具体的な経営改善提案をしてました。やるのはやはり自分でした。(笑)
 2か月目にはHP97が机の上にありました。HPのプログラマブル・キャリキュレータを使いだしてから、それまで1日かかった計算が30分で終わりました。プログラミングが済んでいますから、データを入力して、プリントアウトし、入力データを一つずつチェックしてチェックマークを付けていけば、あとはファンクションキーを押せば、必要な25項目のデータが自動的に計算され、各指標ごとの偏差値と、偏差値の平均値が5つの指標群ごとにプリントされます。それをもとに手書きでレーダチャートを描いてました。2代目の計算機はプリンターのついた機種で22万円の高級機でした。朝机の上においてありました、社長も同じものを使っていましたが、新品に見えます。米国出張でまた買ってきてくれたのです。
 そのステップがあったので、今度は社内に導入されていた三菱電機のオフコンのプログラムをいじってみようと思いました。プロジェクトの一つ、電算化委員会の仕事もわたしにお任せでしたから、管理はわたしに任されていたので勝手にいじれました。3日間のプログラム講習で12ケタの数字で構成されたプログラム言語でした。最初の3ケタのブロックがコマンドで、あとの3つの3ケタのブロックはアドレスでした。ダイレクトアドレッシングの原始的な言語のCOOLをマスター。ほしい帳票を自分でプログラミングしてプリントアウト。プログラミングに夢中でした。この事務用言語では統計計算は無理でしたから、数値計算は相変わらずHP社の計算機を使っていました。システム開発関係の専門書は30冊ほどは読みました。learningは徹底的にやります。その上でunlearnです。外国為替の専門書も輸入業務に関する専門書も。会計情報システムに関する当時最新の本は翻訳がないので原書で読みました。管理会計に関する本は関周さんが800頁ほどの分厚い本を買ってきてくれました。朝、机の上にあるんです。要するに読めってこと。会計学や原価計算は高校時代から自分の専門分野なので内容は承知していますから、読むのは苦労はありません。好奇心でどんどん読みました。そして実務ですぐに使ってました。社長が買ってくるのはペーパーバックの本ではなくて、ハードカバーの高いほうでした。リターンコミッションで為替管理上日本へ持ち帰れないお金が米国にたまっていたので、使い道に困っていたのでしょうね。気前がよかった。でも、入社したばかりの社員の特別待遇はあまりよくありません。HP計算機のお陰で、仕事は3倍くらいできるようになりました。5つもプロジェクトを背負って、メンバーは役員がほとんど、部長が3名、課長が2名でした。実務部隊は当然私だけ。自分でやって、問題点を分析し、解決案を提案し、そしてそれを実行するのもわたしでした。独り芝居を5つ同時にやっていましたね。

 納期管理と為替管理用と円定価表のために別のオフコンを導入、今度はコンパイラー言語、RPG-2に似た言語で、progress-2と言ったかな。これもプログラムをマスター。外部設計と実務設計は自分でやり、オービックの担当SEの芹沢さんが内部設計担当、彼はオービックのトップレベルのSEでしたから、技術が盗めます、愉しい開発でした。円定価表は営業課長の遠藤さんとの共同作業。利益重点営業委員会だけわたしの担当ではなくて遠藤さんの担当でした。彼が営業は時間の半分を見積書作成に費やしている、それぞれが仕入先と納期に関するメールのやり取りをして営業効率が悪いと問題点をわたしの相談してきました。システム化するしかないので協力してほしいと。日本電気横浜工場と府中市の分倍河原工場で同じマイクロ波計測器を納入しているのに価格が違うとクレームがついていました。東京営業所と横浜営業所の担当者の間で相談がなくバラバラに見積書を作って出していたのです。クレームは当然のことでした。同じ定価表で仕事すればあとは値引き率だけです。大きな問題がありました。受注時に定価を決めても円安になったら1000万円のマイクロ波計測器や時間周波数標準機は仕入れ価格が1200万円になったりします。為替レートが動くからです。大赤字になります。それで、円定価レートと仕入レートと為替予約レートを連動することで、為替差損のでないシステムを創りました。常に為替差益が2%でます。当時の輸入商社では初の画期的なシステムでした。オービックの芹沢さん、自分のところのユーザーだけで20社ほど販売できそうだと言ってました。輸入商社をやめて2週間ほどしてから「オービックへ移って一緒に仕事しませんか」と電話をもらいました。オービックの本社は三井ビル化住友三角ビルで、NSビルとは300mくらいしか離れていませんでした。その受注時の円定価レートと、仕入時のレートと決済時のレートの連動システムを利用して、競合製品のない製品を中心に売上高粗利益率をアップして、平均値で27%から42%へもっていきました。営業は見積書を作る時間が1/10以下になったので、営業の生産性が1.5倍ほどになりました。150人の規模の会社の粗利益は6億円アップ。上場が夢でなくなりました。利益の三分割方式をオーナー社長に納得してもらったので、1/3は内部留保に、1/3は配当に、1/3は社員のボーナスに配分しました。賞与がアップして安定したので社員は「これで家のローンが組める」と喜んでいましたね。
 社長の関周さん、コンピュータシステム開発なんてしたことのない私によく任せてくれました。慶応大学経済学研究科修士課程卒業なので、理論経済学を専攻して簿記1級なんて人材はそうはいないので社運をかける大冒険してくれたのでしょう。感謝してます。6年間仕事しましたが、実績のない中途採用社員に、社運をかけたプロジェクトをこれほどたくさん任せてくれる社長は滅多にいませんから、恵まれてました。思う存分仕事してました。
 別々に開発した三つのシステムと経理システムを統合することになり、そちらもわたしの担当になりました。その統合システム開発の途中で社長の大学時代のご友人(IBM以外の米国コンピュータメーカのPOSシステムの営業担当)が関わってきたので、問題が生じました。以下月間かけて関係部門からヒアリングしたレポートを見せてもらいました。あまりお粗末なので調べたら、POSの営業だっただけでシステム開発経験がないのです。どちらがメインかわからないような体制では仕事がうまくいくはずがありません。船頭が2人の仕事は御免でした。一度目は電算化推進委員会のメンバーを集めて、全員一致で手を引いてもらうように社長へ申し入れをしました。しかし、また会社に来て社長と打ち合わせをしていました。面倒くさくなって自由にやりたかったので、職を辞しました。「わたしは手を引きますので、友人の方に任せておやりください」。皆さん送別会を盛大に開いてくれました。社長と総務課長だけが来ていませんでした。他の役員のみなさんはいらっしゃってました。6年間の仕事を認めてくれてましたから。お二人の部長さん、やめて2週間くらいしてから具体的な社名を出して課長職で就職を斡旋できると仰ってくれましたが、やめた翌日からSRLで仕事していたので、「ご心配かけましたが、決まってもう働いています」とお伝えしたら、「そうだろうな」と電話の向こうで笑っていました。
 東北大学の助教授が顧問になっていて、毎月営業担当者と技術部員向けに勉強会を開催していました。マイクロ波測定器の測定原理やミリ波の測定原理などの講習会でした。一度も欠席しないで営業担当者や技術部員と学びました。お陰でそちらに強い人脈ができました。毎月のように海外50社の産業用・軍事用エレクトロニクス・メーカーが新製品を発表していましたから、それぞれエンジニアが説明に来ます。そちらの説明会にも欠かさず出ていたので、「門前の小僧習わぬ経を読む」ようになっていました。ディテクターとコンピュータ処理部とインタフェイスでできているんです。わたしはデータ処理部や機器制御部のコンピュータを中心に理解すればよかった。ディテクトする周波数帯域が違うだけで、基本構成はみんな一緒なのです。この計測器の技術的知識の蓄積がSRLへ転職してから思わぬところで威力を発揮しました。ひょんなことから購買課へ異動することになって、当時世界最先端の臨床監査ラボだったSRL八王子ラボの機器を全部見ました。そして分類・整理して固定資産管理システムを投資まで含めた画期的なものに作り直しました。職権を利用してメーカーと検査機器の共同開発や新製品を市場へ出す前のテスト調整をSRLの検査部でやるような調整を勝手にやってました。誰もそんな指示は出せませんから、自由にやってました。栄研化学のLX3000だったかな、市場へ出す前に数か月間テストしました。契約書類を整えたいと申し入れがあったときに、「上場準備中なんだ」と営業担当者に告げると、顔色が変わって「どうして知っているんです?社外秘なんです」、それで一つだけ相談に乗ってあげました。そうしたら、お礼に開発中の大型検査機にの話が入ってきました。ビーズ凝集反応を利用した酵素標識した検査薬と大型検査機の開発情報でした。市場に出す前にSRLでテストをやる提案をしました。現場と調整をして半年間のテストが始まりました。すぐにトラブルに見舞われました。再現性に問題がありました。現場は使い物にならないと怒っています。栄研化学の側も対応が悪いようなので、介入しました。そのまま市場に出したらトラブル続出で普及しなかったかもしれません。半年間独占使用の条件を付けていたので、うまくいったらSRLの営業にも独占販売ですからメリットが大きかったのです。酵素標識のビーズコーティング検査試薬だったので、RI法に比べて3ケタほど精度がいいのです。朝立ち上げると再現性が悪くて、一時間ほど使い物にならない、間に入って技術的な調整指示ができました。輸入商社でさまざまな種類の世界最先端の産業用理化学機器を学んできたからできましたね。どこで学んだことが生きるかわかるわけがありません。その時その時を一生懸命にやったらいいだけです。いつでもunlearnです。虚心にモノを見る、そして考え、思いついたことを試してみる、そしてまたまっさらに戻って考える、それだけでいい。
 セキテクノトロンは2010年頃に業績不振で上場廃止になっています。3代目の東大卒の社長のときに他の会社へ吸収合併されたようです。初代はスタンフォード大学卒で、HP社のヒュ—レットやパッカードと友人でした。それでHP社の総代理店としてスタートしています。2代目は慶応大学大学院経済学研究科卒でした。
 社員持ち株会で株をもっていた社員がかわいそうです。経営者の責任って思いですね。

 関周さんに名ばかりの上司である部長(1年間で一度も仕事の指示をされたことがありませんでした。質量分析器などの分野の営業部長でシステム開発の知識ゼロでしたから誰も担当できる管理職がいなく兼務だったのです)経由で辞職届を出した後で、一月半の引継ぎ期間中に1日休みをいただいて、リクルート社の中途採用斡旋を利用しました。試験を受けて7段階で最高の評価、35歳の時に偏差値72でした。担当した方から、「3年後にまたおいで、これだけの実務経験を積むと頭が固くなって偏差値は下がるのが普通ですが、あなたの場合はさらにパワーアップしていると思うので、興味があります」、unlearnスタイルで仕事してきたことをしっかり見抜いていました。転職のつもりがなくても自分の実力の評価を兼ねてリクルートを再訪したらいいとススメてくれました。一番いい企業からの求人ファイルがオープンになりました。外資の半導体メーカー(フェアチャイルド・セミコンダクター・ジャパン)の経理マネジャーが一番給料が高かった。1984年で800万円でした。プレジデント社もファイルの中にあったのでどんな企業家興味津々で赤坂の本社へ伺いました。知的な女性社員が多かった。一番業績がよかったのはSRLでした。本社は新宿西口日生ビル、30階建ての超高層ビルの22階でした。オフィスは一番きれいでしたね。一度は超高層で仕事するのもいいな、そう思いました。そういう経緯で臨床検査最大手のSRLへは東証2部上場準備要員として雇われました。上場準備のために一番最後に採用になったのがわたしでした。1984年に350億円の予算編成と管理を任されました。2月1日に入社して、3月には経営統合システム開発を任されました。会計システムと支払いシステムそして固定資産管理システム開発、各システム間インターフェイス仕様書の作成がわたしの仕事でした。8か月で全部終了しています、ノートラブル、テストデータまで自作してます。富士通の当時最大規模の汎用大型機を使うことになっていました。システム開発予算も10倍ほどでしたね。売掛金管理システム、購買在庫管理システム、原価計算システムがそれぞれチームで別々に開発がスタートしていました。経理部のチームが一番遅れていました。全部で4つのシステムで統合システムになっていましたが、だれもこれら4つの分野に詳しい人はいません。ユーザー側の担当者はコンピュータシステム開発経験がありませんでした。プログラミングもできないのに外部設計書なんて書けるわけがありませんし、あたらしいコンピュータ処理を前提とした実務設計もできるはずがないのはあたりまえでした。3月にチーム全部の打ち合わせがあったときに、インタフェイス仕様が問題になりました。どのチームもできないと匙を投げています。やってほしいと各チームから要望が出たので引き受けました。一週間後にインターフェイス仕様書を書き上げて各チームにこれでやるように指示しました。あれから38年たちますが、いまもインターフェイス仕様だけは当時のままでしょうね。複数の分野の専門知識と経験がなければできないのです。
 固定資産システム開発が難易度が高かった。八王子市役所へ固定資産税の申告をするのに10cmほどもある固定資産台帳を申告書に手書きで写していました。1月と2月の2か月間アルバイトを3人雇ってやっていました。固定資産実地棚卸実務がいい加減で、記載事項がミスだらけでした。たとえば、孵卵器は腐乱機、インキュベーター、恒温槽、フランキーなどと表記されていましたので、担当を引き受けてすぐに本社と八王子ラボの固定資産を実地棚卸して現物を確認、記載ミスを訂正しました。そして分類コードを作りました。冷蔵庫なら4度C、-20度C、-45度C、-85度C,-150度Cに分類しました。そのおかげで―85度の冷凍庫がどの部署に何台あるかすぐにわかるようになりました。もう一つの問題は減価償却予算がでたらめで、毎年1億円以上の誤差が出ていて、担当証券会社から精度が悪いので上場審査で引っかかるというのです、経理担当役員の岩本さん困っていました。「ebisu、なんとかせいや」(笑) それで投資予算を固定資産管理システムに付け加えました。そのデータをもとに減価償却費予算をコンピュータで計算したのです。誤差は2000万円以下になりました。上場審査場の大きな問題の一つが解決しました。ああ、2か月4人かかっていた固定資産税の申告書は八王子市役所に電話して、そちらのフォーマットで出力するのでプリントアウトの提出に変えてもらいたいと交渉したら、OKの即答。初めてのケースだったかもしれません。こうして固定資産税申告書の手書き作業は消滅しました。八王子ラボの第二ラボ建物の1/3くらいは日野市なので、日野市役所にも電話で交渉したら、「それくらいなら、八王子市役所へ申告してくれて結構です」との返事。日野市には富士通ファナックや桜カラー、日野自動車などの有力企業の工場があるので、裕福だったのでしょうね。

 従来のやり方にとらわれない事例はシステム開発だけではありません、他にもあります。
 予算編成と管理も任されていたので、大きな費目を選んでコストカットを提案しました。一番大きい費目は材料費、検査試薬代でした。売上の25%程度を占めていました。それと複写費です。営業所やラボなど別々の契約になっていたので、機器はゼロックスに統一、ゼロックス本社と1億円を超えている複写費を3000万円カットできると提案。総務が自分でやると言ったのでお任せ。ゼロックス本社から役員が来て交渉におじてくれました。予定通りコストカット。試薬代は購買課長が不可能だというので、管理部門担当副社長の矢口さん(富士銀行から、ルく軍士官学校と海軍兵学校の両方に合格し海軍兵学校卒、戦後東大に入り直した人、受験勉強のエキスパートでした)が「ebisu、言い出しっぺのお前がやれ」との指示。価格交渉プロジェクトチームを作ってくれました。
 検査試薬の卸会社は10%のマージンしかないので、卸問屋と交渉するのは無理・無駄。購買課長は今までの経験にとらわれていました。世界中の大手製薬メーカと直接交渉の段取りをつけて、SRL本社に来てもらい、次々にこちらの要求20%カットを飲んでもらいました。向こうは営業担当役員が来ますから、こちらも管理部門担当の常務が対応します。わたしが横に控えて要求事項を説明します。ようするにいままで相手の言い値が購入していたので、高すぎたのです。交渉が終わると、味を占めた副社長はわたしを購買課へ異動させました。話が違う。(笑) お陰で3年間で60億円を超えるコストカットをしています。
(副社長には大きな貸しができました。そのあとでも一度東北の関係会社がらみで、貸しが増えました。助けてあげました。その会社から手を引くときに、わたしと交替で派遣した役員の報告を聞くときに、同席させました。彼が応接室を出ていった後で、谷口副社長は「いま聞いた報告はどこまで本当の話なんだ?」とわたしに聞くのです。谷口さんは知っていましたよ、だから私に同席させて牽制させていたのです。別チャンネルで聞いて知っている話を、そのままお伝えしました。そのあと新しく社長になった近藤さんと相談したでしょうね。完全に手を引きました。手を引くという方針は創業社長の藤田さんが決めたことです。近藤さんがそれを引き継いで資本提携を解消したということなのでしょう。交替で派遣した3人には赤字の会社を黒字にするようなスキルは何もありませんでしたから、創業社長の藤田さんの出向人事を見て手を引くつもりなことはすぐに読めました。赤字が増えるので資本提携解消へもっていけばいいだけのことです。東北の臨床検査会社を助けてあげたかった。社員が150人ほどいましたから。SRLをやめて東北の会社へ移籍して救う方法はありました。生産性を2倍にアップする基幹業務システムとラボシステムはSRL千葉ラボで実験済みでした。20億円台の臨床検査会社を数年で売上100億円を超える規模にはできたでしょう。売上高経常歴率も15%くらいにもっていける、そんな程度の経営力は当時ありました。株式上場して増資割り当てオプションで10-20億円くらいは儲けることができたでしょうね。でも興味がありませんでした。仕事が簡単すぎたからです。業界ナンバーワンのSRLでしかできない仕事がたくさんありました。欲が深かったのかもしれません。)
 ファルマシアがマルチアレルゲンの試薬で値引き交渉に頑強に抵抗しましたが、日本支社長に「2割カットを受け入れたら、売上は爆発的に伸びる、SRLの営業が拡販するので、値引きしてみたらいい、ダメなら来年の価格交渉で元の仕入価格に戻してあげます」といったらしぶしぶ受け入れました。SRL分だけで10倍以上になったので、市場の認知度が上がってしまいました。ファルマシア・ジャパンは売上を大きく伸ばして、日本支社長はご栄転でした。それ以降、ファルマシアはとっても協力的でした。傘下のLKB事業部が96チャンネルの液体シンチレーションカウンターを開発したときには、真っ先に連絡をくれたので、2台すぐに導入しました。紙フィルター方式の96チャンネルですから、時間当たりの処理量は192倍以上になりました。それまでバアアル(ガラス瓶)に試料をいれて一列にガチャガチャと読みこんでいたので、天井までバイアルが積んであり、検査担当者が地震がきたら崩れてきそうで怖いと言ってました。紙フィルター方式の液体シンチレーションカウンター導入で検査室はガラガラになりました。危険な瓶の山はゼロ。自動分注機とセットで運用したので、生産性が300倍ほどになったのではないでしょうか。
 購買システムにはいくつか不具合があったのでそれの手直しをすると同時に、機器担当となり、メーカーと検査機器の共同開発やSRL仕様での機器開発を要請しました。100本ラックがSRLの社内仕様で、同時に業界の標準仕様になっていました。フランス政府がPSS社のPCR自動検査機を大量導入しましたが社長の田島さんはアドバンテック東洋という企業の営業マンで、SRL御用達の分注機メーカーでした。すぐに独立してずいぶん大きな会社になりましたね。なかなかやり手でした。(笑)
 ファルマシア・LKB事業部の製品はデザインがいい、RIガンマカウンターをSRL仕様で造ってもらいました。そのまま日本市場で売れるから、カタログに載せることも勧めました。1台入れたら、それまでアロカ社(日本無線の子会社だったかな?)のRIガンマカウンターがいかにもダサい。数年たってから検査室を見たら、7台全部ファルマシア・LKB社製のガンマカウンターになっていました。ラボ見学希望者が多いので性能とともにデザインも大事なのです。ウィルス検査室の蛍光顕微鏡はオリンパスやニコン製品もありましたが、全部ツァイス社製品に変えました。電子天秤は各検査室で使っているので、異動しても同じ電子天秤ならマニュアルを読まずにすみます。世界ナンバーワンのメトラー社の製品に統一しました。メトラーに電話して、八王子ラボの電子天秤はメトラー社のモノを標準品にするという条件で、特別な価格をだしてもらいました。島津製作所の電子天秤と購入価格がほとんど一緒でしたね。
 染色体画像解析装置はニコン子会社のニレコ社と共同開発してましたが、1時間1検体しか処理できないので、根本的な問題アリと感じて、開発にストップをかけました。いくつかの副所長案件で暗礁に乗り上げた開発が、実地棚卸の時に見つけたからです。検査現場で聞くと「副所長がやった開発で使い物にならない」と言ってました。全部お咎めなしで廃棄処分をするので、申請書を書いてもってくるように伝えたので、現場はホッとした顔をしていました。平社員のわたしの権限はとても大きかった。経理担当役員で経理部長の岩本さんと管理担当役員の谷口専務はラボのことはわからないので、わたしの決定はそのまま彼らの決定になっていたのです。予算管理の責任者をしていたので、そういうことが自由にできました。
 購買課は担当者ごとにカタログを自分の机の中に保管していたので、誰かが休むと鍵がかかっていて型録を閲覧できません。大きな本棚を設置し、カタログを試薬、検査機器、消耗品、備品などに分類して、穴をあけて8㎝のファイルにとじ込みました。これで、誰が休んでも検査現場からの問い合わせに答えられます。
 購買の次は学術開発本部でした。担当取締役の突然のスカウトに応じました。システム化しているので手が空きますから、仕事時間の半部は2回の図書室で海外の科学雑誌と医学専門誌を読み漁れます。自席でチョムスキーの『knowledge of Language』を読んでいたら、学術開発本部担当役員の石神さんが通りかかって、「何読んでいるんだ?」と本を手にしてみました。彼が2階の席に戻ってすぐに電話がありました。「俺のところに異動して仕事しないか?」、お誘いでした。OKしました。
 開発部は製薬メーカーと検査試薬の共同開発してましたが、5人のメンバーはそれぞれ自分のやり方でてんでんばらばら。担当役員で移動してきた石神さんはマネジメントに困っていました。わたしも検査試薬の共同開発を二つ(DPC社Ⅳ型コラーゲンと塩野義製薬の膵癌マーカー)担当することになったので、PERTチャートを使って、共同開発手順を標準化しました。誰がどこまで進んでいるのか一目でわかるようになりました。
 学術営業から持ち込まれた沖縄米軍への出生前診断検査、トリプルマーカ―MoM値はシステム側から不可能だという回答があり、わたしの席の向かいに座っていた、米国在住25年の「お年産」が、「ebisuさんならできるでしょ」とニューヨーク州から取り寄せた学術論文をポンとわたしの机の上に置きました。「学術営業の佐藤さん、困っているから助けてあげて」、読んでみたらすぐにシステム部が不可能という理由がわかりました。これもいままでのやり方を前提としたら不可能な仕事でしたね。人種、妊娠週令、体重が検査値計算さんのための変数になっていました。それとデータを読みこんで曲線回帰式を算出しなければなりません。不可能だというはずです。報告依頼書の項目を増やさなくてはいけませんから、大改造になります。異動してきて1か月ほどでしたが、頼まれたので、HP43cを使って曲線回帰式を求めて、プログラミング仕様書を書きました。通常の処理では不可能なので、沖縄営業所にパソコンを置いて、患者の人種、妊娠週令、体重を入力し、検査結果を八王子ラボから送信してもらい、ファイルの結合処理をして検査結果報告書を出すという実務デザインを決めて、関係者に了解をもらい、システム部にはC言語の使えるプログラマーを一人回してもらうように依頼しました。3週間ほどで完成し、沖縄米軍へ説明に行きました。石神取締役と学術営業の佐藤君とシステム部の上野君、そして私。沖縄の司令官にとっても喜んでもらえました。女の兵士が妊娠したら出生前診断検査を受けることが法律で義務付けられていました。違法状態が解消できたのです。三沢基地の仕事がBMLからSRLに変更になりました。沖縄司令官の「配慮」でした。
 MoM値は検査データの日本標準をつくるために慶応大学病院産婦人科医から学術営業に協力要請が来ていました。ついででしたから、こちらも片づけました。多変量解析は研究部の古川君に担当してもらい、検査試薬はメーカー2社に「学術研究への協力」という名目で無償提供してもらいました。わたしがいつ購買部長になって戻るか知れないので製薬メーカは全面協力してくれます。もちろん社内協議のために「学術協力」で稟議書を書くように要求してます。検査コストはSRLもち、数年にわたって6000人の妊婦のデータをとったので検査費用は1億円ほどかかっています。データ解析は研究部古川君の担当、彼はしっかりしているのでいい共同研究になりました。白人を100とすると黒人は120でしたから、日本人はその間かと思いきや、多変量解析の結果は130でした。日本人の人種の由来が白人や黒人とは別系統の混血のような気がします。
 学術開発本部で仕事していた時はラボ見学対応の仕事もしています。わたしの担当は海外の製薬メーカからのラボ見学希望者への対応でした。部が10個くらい、それぞれ3課くらいあるので、種類が多い。検査項目は3000項目を超えていましたので、解説しながら検査室を回るのはなかなかできない仕事でした、学術開発本部内の学術情報部の3人の担当者の仕事でした。その3人から、購買から移動した私にできるわけがないとクレームを本部長に申し立てたのです。無理ありません。部長の川尻さんはにこにこしてみているだけ。業界6社の臨床検査項目コード検討委員会を業界内だけの者から、学会を交えた日本標準臨床検査項目コード検討委員会へと2回目の会合でひっくり返したのがわたし。1986年に「臨床診断支援システム事業化構想案」を200億円の予算で藤田社長からOKもらってフィジビリティスタディしていたので、その中の10個のプロジェクトの一つが、「臨床検査項目コードの標準化」でした。世界標準コードを制定するつもりでした。それがないと、「臨床診断支援システム」が成り立ちません。インフラの一つでした。川尻さんは当時臨床化学部部長でした。自治医大の櫻林教授(当時助教授)が臨床病理学会の項目コード検討委員会委員長で、臨床科学部の免疫電気泳動の学術顧問だったので、彼女を巻き込んだのです。その成果もあって、臨床化学部長から学術情報部長へ異動になっていました。大手臨床検査センターからそれぞれ学術部門とシステム部門の担当者を委員会に出すことになっていたので、SRL顧問の櫻林郁之助教授が創業社長の藤田へ川尻臨床化学部長の学術部門への異動をお願いしたのだと思います。この臨床病理学会(現在は、日本臨床医学会)の日本標準コードはSRLが事務局となって、2年ごとに保険点数の改定に合わせてインターネットで配布されています。全国の病院がこのコードで動いています。市立根室病院もわたしの掛かりつけ医である岡田優二先生の岡田医院のシステムも例外ではありません。

 学術開発本部長の石神さん、「一度ebisuを連れてラボ見学を見せる、そして次にebisuにやらせて、3人がチェックする」という提案をしました。分厚いマニュアル渡されて一緒に回りました。RI部の精度管理システムはヨウ素を標識に使っているので減衰しますから、コンピュータでデータ補正する必要があります。そこだけわたしには目新しかった。わたしはSRLでは管理系システムのNo.1SEでもありますから、解説を聞いて質問をRI部の担当者に二つさせてもらっただけで十分でした。翌日、三人を伴なってユーザーを連れて回りました。染色体画像解析装置の共同開発を断念させ、英国の染色体画像解析装置を導入したときの購買の機器担当ですから、日本電子の営業マンやエジンバラの画像解析装置の開発会社の技術者にもいくつか質問して、なぜ20分で5検体も処理できるのか理解していたので、説明はずっとマシでした。結石の前処理ロボットも、共同開発相手の技術屋さんと一緒に仕事していたので、粉状にした試料を金属のへこんだ穴から引きはがすブレードの形状についてまで詳しいのです。結石の標本箱がどこにあるのかも承知していましたし、なにより検査担当者とそれぞれ仕事を一緒にしていたので、顔見知りです。ほどんどの検査課をフリーパスで出入りできたのはわたしだけでした。リンパ球の表面マーカー検査機器も、担当者とはよく話していたので熟知してました。ラボ見学が終わって、ラボ見学担当の3人へ石神さんは「どうだった、問題あったか?」そう聞いていました。異論のあるはずがありません。彼らは勘違いしていただけなのです。大学病院検査室の見学者から、見学が終わって雑談を始めると、「ところebisuさんはどこの検査部にいらっしゃったのですか?」と質問を受けることがありました。「経営管理や予算管理、システム開発が本職で、検査部で仕事したいと思ったことはありますが、やらせてくれません」、そういうとたいがい絶句します。海外の見学者もそうです。臨床検査技師の資格のないものあるいは薬学関係で学位のないものが、ラボを説明して回るなんてことはとても無理ですから、学位がeconomicsだと説明するとやはり絶句します。逆に、管理部門のエキスパートだとわかると、海外メーカの人は設備一式売ってくれないかという交渉が始まったりします。自動化ラボでは世界一でしたからね。説明聞いて自分の目で見て納得するとそういう要求も出てくるんです。売るくらいなら、SRL・アメリカンを作って、進出します。市場規模が大きいので売上2000億円は固いでしょう。ちまちま日本で競争しているよりもそっちの方がよほど愉しい、そう考えていました。ひそかに人選もね。(笑)
 手が足りないときは国内のユーザのラボ見学対応を手伝ってあげました。忙しい時は同じ本部内の助っ人ができたのですから無理する必要ありません。ラボツアーは全部回り、詳細な説明をすると4時間かかりますが、相手の興味に合わせて回るコースを端折ります。2時間くらいに収めていました。
 経験に縛られると相手の実力を見誤ります。unlearnで虚心に対応するのがベストでしょう。
 そのあと関係会社管理部へ異動し、関係会社の経営分析と業績評価をしますが、これは輸入商社時代に創った経営モデルをEXCELに乗せ換えただけ。5分野、25項目の指標群と総合偏差値で業績評価のできる優れたシステムでした。1992年だったかな。
 この経営モデルを使って臨床検査会社の買収と資本提携も担当しました。三井物産から買収した千葉ラボが赤字なので、基幹業務システムとラボシステムを入れ替えて、生産性を2倍以上にアップし、一気に大幅な黒字に持っていくことを目的としてプロジェクトが立ち上がりました。SRL本社関係会社管理部でわたしの担当案件になりました。導入後、事前のシミュレーションを上回る生産性のアップで一気に黒字になりました。
 そのあと買収した金沢の臨床検査会社か出資交渉をまとめた東北の臨床検査会社のどちらかへ出向して立て直して来いと藤田社長の特命指示。千葉ラボの方式でやれば簡単でしたが、出向先の社長のプライドを折ることになるので別の方式がないか探しました。千葉ラボのシステムは東北の会社のシステムを導入していたのです。それが悪いとは言いづらかった。本人は自分が臨床検査会社で一番システムに詳しいと思いこんでいましたから。出資交渉の時に、パソコン十数台をつないで、基幹業務システムを開発中でした。ボードをひっくり返して裏を見ていいかと社長のTさんに聞いたら、けげんな顔をしながらOKしてくれたので、ひっくり返しました。「社長、これ販売目的で開発したものですね、マッピングではなくてプリント基板を使っています」、そう指摘したらぎょっとした顔してました。わたしのことを経営管理や経理畑の人間だと思い込んでいたのです。
 使用している沖電気製のパソコンもまずかった。罫線が引けないのです。パソコンは1992年にはまだ業務で使えるレベルではありませんでした。千葉ラボで使ったのはデータベースマシンのAS400と別のもう一台でした、ブルグのどこかで言及しています。
 社長室に戻り、やんわり開発は中止したほうがいいと告げました。瑕が深くなります。来年の売上についての予測値を話したら、自分の推計と同じだと言って、営業所ごとに線形回帰したデータがEXCELのシートに展開されて集計されているデータを見せてくれました。見ただけでどういう計算したのかは理解できるので説明の必要はありません。それにもぎょっとしてました。「どうやって推計したのですか?」と聞くので、「5年間の決算データとラボを見たらわかります、プロですから」と煙に巻いておきました。それからはわたしの意見をよく聞いてくれました。
 仙台のラボに染色体検査部門があり、八王子ラボへ3台導入したのと同じ機種が使われていました。実は日本電子輸入販売の営業マンから、八王子ラボへ納入した後、帝人の臨床検査子会社と東北の臨床検査会社に売れたという情報をつかんでいました。経営が苦しいので検査項目を広げるというのは販売不振のラーメン屋がカレーライスも売るようなもので、経営的にはアウトです。数年前にわたしにはわかっていたことでした。東北は創業社長の藤田さんの、帝人は近藤社長の特命案件でわたしが関わることになりました、1989年に買収しようと思っていましたから、めぐりあわせが不思議です。
 SRLは染色体検査市場の8割を握っていましたので、染色体画像解析検査でSRLは需要の多い染色体検査に体制が追い付いていませんでした。受注制限していました。一気に生産量を増やすために東北の臨床検査会社の仙台のラボの染色体課を組み込んでしまば可能です。それで生産性を調査しました。直接責任者からヒアリングしてます。売上高経常利益率が10%を超える案を出向先の社長に伝えて、SRL藤田社長にも案を送付してます。実行段階に入る寸前にSRL本社に呼び戻されて、社長と副社長へ確認したら、「聞いていない」というんです。理由は表情を見てすぐにわかりました。ちゃんとレポートを文書番号を付けて送付しているので、「報告してますよ」と主張できましたし、社長と副社長も反論されると思っていたようです。「事情はわかりました、わたしの勇み足ということですね」と念を押しました。お二人はビックリして顔を見合わせていました。それで、後任を4名送りましたが、藤田社長の腹は資本提携解消でした。メンバーの選択をみてわたしはすぐに藤田さんの意図がわかりました。シノン提携の解消に、浜松町の東芝ビル内のJAFCO本社へ藤田社長と一緒に出向きました。会談決裂するような話を本社のみんなの見えるテーブルでわたしにして、あとは雑談でした。浜松町の駅で降りて歩いている途中で、「ebisuさんの言うとおりにするかな」なんて言うんです。実際の交渉は、相手に圧力をかけるように長い間(ま)をとった話し方でした。JAFCO側は日本で東証1部に2社上場した商業社長の訪問ですから、緊張していました。打ち合わせが終わると、「お車はどちらへ回しましょう」といわれて、「電車で来ています」と伝えたら、「え、セキュリティ上まずいですよ」と一言。藤田さんそういう人なのです。
 資本提携した東北の臨床検査会社が10%を超える売上高経常利益率はまずかったのです。子会社化すると、SRLのグループ企業では売上高経常利益率がナンバーワンになります。子会社社長は本社役員のポストが慣例になっていたので、T社長をSRL本社役員にはしたくなかったのです。3年の約束で役員出向しましたが、15か月で呼び戻されました。本社経営管理部経営管理課長、社長室と購買部の兼務辞令が出ました。本社経営管理部はエリートコースです。ご褒美と申し訳ないというキモチだったのかな、異例の3部署兼務辞令でした。(笑)

 半年で、気に入らぬことがあったので経営管理課長の椅子を蹴っ飛ばしました。子会社への出向調整をするように上司の役員である経営管理部長へ要求したら、一番古い子会社の東京ラボ(練馬)へ出向調整してくれました。そこで、グループ全体のラボ移転を計画して、社長の箕輪さんと相談しているところへ、また本社から呼び戻しがありました。箕輪さん下を向いて「本社社長の近藤さんからの指示だから逆らえない、帝人との治験合弁会社を担当しろという指示があった」、それを聞いて翌日会社立ち上げのプロジェクトが暗礁に乗り上げているので、参加するために立川本社へ出向くと、エレベータに乗る近藤社長とばったりでくわしました。
「聞いていますか?」
「帝人との治験合弁会社を担当しろということでしょ、そのために来ました、プロジェクトのミーティングに参加するためです。指示事項があったら聞いておきます。」
「①日経新聞に公表した通りに1月から合弁会社をスタートさせること、②赤字なので黒字にすること、③当面は50:50の合弁会社だが、いずれ資本は引き取るので交渉すること。④帝人の臨床検査子会社の買収をしてもらいたい。」
「やり方は任せてもらいます、SRL側の経営の全権はわたしに委任してくれますか?」
「わかった、任せる」
 数分で話は終わりました。3年に少し残して課題は四つともやりました。これも未知の分野、unlearnです。

 前から引きがあった300床弱の特例許可老人病院の常務理事を1999年10月に引き受けました。病棟建て替えで困っていたからです。老健施設やグループホーム、訪問看護などを病院の傘下にもって、シームレスな医療と介護を実現したかったからです。一箇所でうまくいけばあとは全国展開するつもりでした。理事長と折り合いがうまくいきませんでしたね。11億円で病棟の建て替えをやりました、坪単価65万円。国からの補助金と同額でしたから持ち出しナシ。施工は新日鉄のゼネコン部隊。RC造ですから市立根室病院と一緒です。地盤が悪いので100本ほどパイルを下の岩盤まで打っています。担当は新日鉄の東大出の一級建築士でした。予算額を最初に言って建築仕様をつめたらその後の仕様の変更はなし、工事完了して補助金が入金されたらすぐに支払うという約束で、仕事を受けてもらいました、地盤が軟弱だったのでコスト割れしたかもしれません。でも母体が大きいのでそれくらいは、呑み込めます。実績になりますからその後の他の病院の建て替え仕事に利用したらいい。

 振り返ってみると、わたしのサラリーマン生活は、最初から最後までunlearnでした。


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