SSブログ

#4758 資本論:マルクスの出発点について June 1, 2022 [98-0マルクス経済学批判]

 数回に分けて、マルクス『資本論』の方法的な誤謬を具体的に明らかにし、マルクスやその後継者であるレーニンや毛沢東がなしえなかった、新しい経済社会のデザインの基礎的な部分を明らかにするのが本稿の目的である。それは共産主義社会ではない、資本主義経済社会モデルの新たなデザインである。マルクス『資本論』の先には新しい経済社会のデザインは現れない。労働価値説が間違っているからである、その根拠も明らかにするつもりだ。

  マルクスは何を対象として経済学の分析を始めたのか、それは彼の経済学体系の方法論にもかかわる問題を孕(はら)んでいると同時に、その対象自身のDNAもまた問題にしなければならないことを明らかにしたい。それは今日の支配的な経済社会の有力な価値観になっているからである。ヨーロッパ社会の資本主義の特徴は「強欲」である。

 マルクスによって書かれ、編集された『資本論』は1867年の初版第1巻のみで、編集方針を直接指示したのはフランス語版(ラシャトル版)しか存在しない。第2巻と第3巻はマルクス死後に遺稿を集めて並べたエンゲルスの創作である。
 マルクス自身は資本論初版の後は、経済学研究をつづけたが、沈黙を守っている。没年の1883年3月14日まで16年間、書き溜め、経済学の研究ノートは書き進められたが、マルクスによって公刊されることはなかった。16年間の沈黙には重大な理由がなければならぬ。マルクスは自身の方法的な誤謬に気が付いたのだと思う。そのことに関しては明白な理由があるので次回以降で扱う。

 今回は資本論初版に基づいてその冒頭部分と、対象となった英国の資本主義が受け継いでいるDNAに言及したい。

 Der Reichtum der Gesellshaften, in welchen kapitalische Produktionsweise herrscht, ersheint als ein "ungeheute Waarensammelung ", die enzelene Waare als seine Elementarform. Unsere Untersuching beginnt daher mit der Analyse der Waare.

「資本主義的生産様式が支配している社会の富は「商品の巨大な集積」として表れ、個々の商品はその富の要素という形で表れている。したがって、我々の探求は、商品の分析をもって始められるのである。」

 The wealth of those societies in which the capotalist mode of production prevails, presents it self as "an immenseaccumulation of commodities," its unit being a single commodity. Our investigation must therefore begin with the analysisof a commodity.

 断りがない限り、ドイツ語引用は「資本論第一巻初版復刻版」(青木書店1977年第2刷り)、日本語訳は『マルクス著 牧野紀之訳 対訳初版資本論第一章』(鶏鳴双書1973年初版)からの引用である。英語版は第三版の英語翻訳(モスクワ1965年刊)による。

 資本論初版は1867年の刊行で、その10年前からマルクスは『経済学批判要綱』(通称『グルントリッセ』)や『経済学批判』の草稿を書いている。マルクスが分析の対象としたのは産業革命以後の19世紀中葉のイギリスの経済社会であった。
 用語に関して2-3注意したい。
 マルクスはkapitalishe Productionsweiseと書いておりそのまま訳すと「資本家的生産様式」であって、「資本主義的生産様式」ではない。資本主義はcapitalismであってそのドイツ語はKapitalisumus。資本家的な生産様式が支配的となったイギリスの経済社会から資本論を書き始めていながら、「社会」は複数形「諸社会」になっているから、イギリス以外も想定していたということだ。他の国がイギリスの後を追うように単線的な発展形態をとると考えていたのだろうか。
 資本家的生産様式が典型的に現れているのは製造業であった。その製造業では紡績業のように機械化によって飛躍的に生産性を上げてそれまでとは比較にならぬ量の商品生産している企業群がある。そういう現実を見て、「社会の富は巨大な商品集積として現れ」と表現した。もちろん、そうした機械化による大量生産ではない、手工業主体の製造業も併存していた。だから、それら相互の関係を表現して「資本家的生産様式が支配するherrschfen」と書いたのだろう。これからは「資本家的生産様式の支配する」大量生産の時代、そういう生産様式が製造業の中では力をもって手工業的な生産様式をも支配していくと理解すべきなのだろう。注意しなければいけないのはマルクスは生産業にしか言及していないということだ。資本家的生産様式が支配的となるのは製造業だが、商品生産は農業や漁業のような生産業の商品も含んでいる。だから、資本家的生産様式が支配する諸社会の富である商品とは、あらゆる産業が産み出す商品群を指していると読める。その中で支配的な位置を占めているのは大量生産の製造業である。製造業に関してはこれから「資本家的生産様式」が世界中の国々に浸透していくとマルクスは考えていたようである。『資本論』冒頭の文は、アダムスミスの『諸国民の富の性質と原因に関する一研究』"An inquiry into the nature and causes of the wealth of nations" というタイトルを想起させる。スミスは of nationsと書き、マルクスは der Gsellschftenと書いた。
 関係代名詞がin welchenと対格(Akkusativ)になっていることから、資本家的生産様式が社会の隅々まで浸透していく様子を表している。herrschenは英語ではrule(支配する)であるが、いま述べたように「in+対格」を従えているので、英語訳版の方のpreveil(普及する、広く行われる)という訳語がドンピシャに感じる、うまいものだ。だが、単に普及していくのではない、他の生産様式が併存しながらも「大量生産製造業が支配的な生産様式」になっていくという意味が英語版には失われている。マルクスは生産様式と書き、製造業以外には言及していない。
 マルクスは、サービス産業が製造業と肩を並べ、その世紀の終わりころには製造業を凌いでいるなんて20世紀の状況は考えられなかった。21世紀には形をもたない電子データの情報製品であふれている。マルクスが想定している商品が製造業に限定されたのは19世紀の現実に足場を置いて観察したからで、しかし、いま見れば、人間労働が商品の価値を規定するなんていう労働価値説は妄想でしかないことは明らかだ、は情報商品の価値は労働が規定するものではないことは明らかだ。
 辞書を引いたら、managementに対応するドイツ語はdie Leitung である。kapitalishe Produktions weise 「資本家的経営様式 kapitalishe Leitungsweise」 と書いてくれたら、わたしにはすんなりわかる。他の産業も含むからだ。
  労働価値説が企業経営の経験のないインテリ・マルクスの妄想だったことは次回以降で述べることになる。サムエルソンはその著書『経済学』の最終章でマルクスの時代には労働価値説が現実とマッチしていたと述べているが、サムエルソンには悪いが、当時も今もそんなマッチングはありえないと思うので、この点についても次回以降で具体的に明らかにしたい。
(実際は他の国では単線的には「資本家的生産様式」が浸透していかなかった。リストがドイツの後発性を採り上げ、自国産業育成のために保護貿易の必要をその著書で公表していた。自由貿易は先発のイギリスに圧倒的に有利でした。そのままでは他の国に「資本家的生産様式」が根付くことはなかったでしょう。マルクスがリストの『経済学の国民的体系』を読んでいたら、単線的な歴史観である唯物史観で割り切るようなことはなかったでしょうね。マルクスはステレオタイプで粗雑な歴史観で物事を見ています。)

 そうした資本家的生産様式での生産物ではない商品もまたたくさんある。資本家的生産様式が支配的となる時代以前から連綿と続くさまざまな職人仕事による製品群もその中の一つである。例えば、パン屋、肉屋はそれぞれが職人仕事で19世紀は「手工業」に分類される。20世紀の終わりころにはパン屋も工場で大量生産されるようになったから、「手工業そして小売り」と「工場生産品」の2つの形態が併存している。21世紀になってからは情報商品という新しい商品群が重要な一角を占めるようになっているが、こういう種類の商品もマルクスの視野の外である。ちょっと厄介で、コピーするだけでいくらでも生産しうるのである。一度開発してしまえば、以降のコストはほとんどゼロ。労働価値説が通用するはずもない商品群の売上が急激に増大している。こういう変わり種といえる商品群もマルクスの分析の視野の外にあることは19世紀中葉の資本主義しか見ていないマルクスには当然のことである。そしてそれにとどまらぬ、製造業以外のサービス産業もマルクスの視野の外にあった。
 日本について述べると、輸出製造業の製品割合は15%程度にすぎぬ。マルクスの理論、労働価値説ではこうした製造業以外の分野の商品群の説明ができないということ。

 もう一つ重要な視点がある。19世紀中葉のイギリスの産業資本とその経営は、普遍的なものではなく、前時代からの「強欲性」という遺伝子をしっかり引き継いだ特殊ヨーロッパ的なものでもあった。15~16世紀初頭の大航海時代はヨーロッパの上流階級はオリエントとの貿易でほしいものを貪欲に手に入れようとしたが、支払い手段の金銀はすぐに底をついた。彼らはそういう貿易の隘路をどのように解決したのだろう?

「オリエントからは、樟脳、サフラン、大黄、タンニンなどの薬品、鉱物性の脂や揮発油などが輸入された。もっとも渇望されたのは、いうまでもなく砂糖や胡椒、グローブ、シナモン、ナツメグといった各種の香辛料だった。故障は一時期貨幣の役目をしていたこともあった。グローブの香辛料は故障の三倍の値段だった。さまざまな染料も輸入された。繊維では生糸と麻で、高級絹織物やビロード、金糸、銀糸も持ち込まれた。アジアを原産地とする宝石、サンゴ、真珠、高七陶磁器も運ばれてきた。これに対してヨーロッパが納入できた商品リストはささやかで、簡単だった。羊毛、皮革、毛皮そして蜜蠟である。このほかにはほとんど何も、地中海の向こう側の人たちを魅了できるものをヨーロッパは提供することができなかった。
 オリエントとの交易は慢性的な赤字だった。ヨーロッパ人は、ヨーロッパの外の地域から購入したものはすべて金・銀で支払わなけてばならなかった。何トンもの金・銀がアラブ商人の懐に消えていった。
 しかしヨーロッパ上流階級の人々のオリエント商品への渇望は、ドン予億で開くことを知らなかった。需要の増大に比例してヨーロッパの金・銀の貯蔵量は減少していった。そこで、何世紀にもわたってアジアへの輸出のために特別な商品が用意されたのだ。その商品とは、ヨーロッパ人の奴隷である。」
『驕れる白人と戦うために日本近代史』松原久子著・文芸春秋社2005年刊、123頁より

「しかし真実は、どれ雄はヨーロッパのオリエントへの主要な輸出品の一つだった。なぜならば、ヨーロッパは奴隷意外に商品価値をもったものは何もなかったからである。」同書124頁
「「奴隷(スレイブ)」は語源的に「スラブ人」と同じである。大掛かりな奴隷狩りが行われた。ポーランドからボルガ河畔に沿ってウラル山脈にいたるロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷狩りの専門家たちによって、スラブ人の男女たちが捕らえられたのである。」同書125頁

 ウクライナへロシアが侵攻して米国とEU諸国が武器を送って助けているが、400百年前にはウクライナ人を奴隷として売り飛ばしていたのは現在のEU諸国の上流階級の人々だった。米国の農場へ向けたアフリカの黒人奴隷貿易はそのあとである。つまり、欲しいものを手に入れるためなら奴隷狩りも、奴隷売買も厭わない強欲な者たちであった。貿易は国家の事業かあるいは民間のお金を集めてなされた、株式会社制度の前段階である。一航海してたくさんの商品をオリエントから持ち帰り、利益を分配した。何でもありの強欲資本主義の遺伝子は産業革命の300年前に創られていたのである。そしてそれは次第に企業形態を高度化させ、東インド会社にも、それ以降の会社組織にも形を変えて忠実に引き継がれているようにみえる。東インド会社はインドの優秀な若者たちがイギリスに反抗することを恐れて、両腕を切り落とし勉学できないようにしている。ビジネスのためなら、利益を極大化するためなら何でもありなのである。

 明治期の産業革命以前の日本はヨーロッパとはまったく違う発展をしている。ビジネスに倫理規範がすでにあった。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」は近江商人の商売の倫理だが、広く普遍的なものになっている。住友家の家訓にもあるように「浮利を追わない」というのも日本のビジネスの伝統的な価値観の一つである。欧米の資本主義と比較すると、お互いの特徴がよくわかる。

 産業革命以後を見ると、国によって違いが濃く出ているように見える。ドイツはイギリスに遅れて産業革命を迎える。イギリスから廉価な輸入品であふれかった「未開」のドイツが自国の産業を育成するためには保護貿易が必要だった。リストは『経済学の国民的体系』(1841年刊)でそのことに言及している。リストの重要性を教えてくれたのは西洋経済史の大家である増田四郎先生である。増田先生と他に2人の大学院生とともに、1年間かけてリストを読んだ、至福の時だったなあ。マルクスはこの著作を読んでいただろうか?

<まとめ>
 19世紀イギリスの資本家的な生産様式は先進事例であると同時に、「飽くことのない強欲なビジネス哲学」という特殊な色合いをまとっていた。そのDNA「強欲さ」は20世紀になって覇権がイギリスから米国へ遷っても引き継がれている。配当を多くし、経営が困難になれば平気でレイオフし、経営者が10億円もの年収を得るようなことが平気で行われている。
 対照的なのが、江戸期に普及した日本の商道徳である。「売り手よし買い手よし世間よしの三方よし」は利潤の極大化を目的にしない、信用第一にして周りと調和した商売のスタイルを築き上げた。強欲や「浮利」を追うことを嫌うのが日本人が育んできたビジネス倫理である。

<次回以降>
 資本論の方法論であるヘーゲル弁証法の基本的な欠陥に言及し、順次、労働価値説が虚妄の理論であることを明らかにしたい。マルクスの方法はヘーゲルというよりもむしろデカルトの「科学の方法第三の規則」と同じもので、プルードンの「系列の弁証法」にも似ている。これも次回以降で詳論したい。
 『人新世の資本論』の著者斎藤幸平氏が『資本論』に経済の行き詰まりを打開する方法があるという主張をしているようなので、そのあたりも取り上げていきたい。
 マルクスは資本の私的所有に問題があると言っているが、共産主義社会の具体的なビジョンには数か所しか言及がない。「生産手段の私的所有」をテーゼとすると、そのアンチテーゼは「資本(生産手段)の協同化」である。ロシアでレーニンが、中国で毛沢東が資本の国有化をやったが、労働者の搾取が資本家から国家に変わっただけのように見えるが、なぜそういうことが起きるのかにも次回以降で言及したい。

 経済社会の分析とあたらしい経済社会の創造はまったく別の仕事であることが明らかになる。マルクスにもレーニンにも毛沢東にも、それらの後継者たちもの不可能だった。新しい経済社会モデルのデザインは働いたことのない、あるいは経営に携わったことのないインテリには無理なことが明らかになるだろう。
 マルクスは企業経営がわからず、工場経営をしていたエンゲルスに資本回転率について何度も問い合わせている。全世界の企業が採用している複式簿記の知識もない。必要なスキルをもたずにとても狭い窓からしか経済社会を見ていなかったのである。頼りにしたのは当時の流行り病のヘーゲル弁証法だった。二項対立で描けるほど経済社会は単純ではないということも具体的に明らかにしたい。


にほんブログ村

牧野紀之訳「対訳初版資本論第一章」鶏鳴双書3、1973年初版が検索しても出てこないので、別のモノを紹介します。



対訳・初版資本論 第1章及び附録

対訳・初版資本論 第1章及び附録

  • 出版社/メーカー: 信山社出版
  • 発売日: 2022/06/01
  • メディア: 単行本





資本論〔第1巻〕〈初版復刻版〉 「Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie」

資本論〔第1巻〕〈初版復刻版〉 「Das Kapital. Kritik der politischen Oekonomie」

  • 作者: Karl Marx/著
  • 出版社/メーカー: 青木書店
  • 発売日: 2022/06/01
  • メディア: 単行本
 これは目から鱗が落ちるいい本です、おススメします。

驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)

驕れる白人と闘うための日本近代史 (文春文庫)

  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2008/09/03
  • メディア: 文庫

経済学の国民的体系 (岩波オンデマンドブックス)

経済学の国民的体系 (岩波オンデマンドブックス)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/12/10
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)




nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。