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#4533 川崎重工製PCR自動検査機:生産性向上と日本経済の30年間を顧みる May 1, 2021 [A4. 経済学ノート]

 川崎重工がアーム型ロボット数台を組み合わせて、移動式PCR全自動検査機を開発し、検査を受託し始めたというニュースを見た。1台当たり、2500検体/日処理できるという。このアームロボットシステムが100台あれば、250,000検体/日処理できる。株式会社メディカロイドおよびシスメックス株式会社と川崎重工の3社の共同開発製品です。Sysmexは血球計算機でお世話になったメーカです。メディカロイドというのは川崎重工とSysmexの合弁企業で2013年に設立されています、ユニークな企業が出現しました。

 厚生労働省のホームページにある4月下旬のPCR検査数は次のようになっている。
2021/4/21 96428
2021/4/22 94257
2021/4/23 91286
2021/4/24 58221
2021/4/25 35886
2021/4/26 83925
2021/4/27 81048
2021/4/28 68106
2021/4/29 91921
2021/4/30 64494


 まだ10万テスト数を超えた日はない。いまSARS-CoV-2PCR検査は保険点数が1350点で、13500円である。このアームロボットを利用すればコストは2000円程度に下がるだろう。仮に2000円とすると1/6に価格ダウンが起きる。日本人は超過利潤は浮利と考えるのが一般的である。「浮利を追ってはいけない」のである。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」というビジネス倫理にしたがえば、生産性をアップすることで実現したコストダウンは超過利潤を手にすることではなく、安く売ることで社会に還元する=「買い手よし&世間よし」なのだ。

 産業用エレクトロニクスの輸入商社にいて欧米50社の最先端の製品のコストと価格政策を6年間(1978-83)にわたってみてきたが、性能の高い製品はコストに関わらず高いプライスをつけるのが当然というのが欧米企業の基本姿勢である。つまり、浮利を追うのだ。儲けられるときにできるだけ儲けるのが向こうの企業。
 それは最大手の臨床検査センターSRLで予算編成と管理を任され、入社2年目に検査試薬のコストダウンを提案したときにも同じだった。言い出しっぺのお前がやれと副社長の指示があり、プロジェクトを作って任せてくれた。入社2年目で平社員、交渉相手は営業部長と取締役である。マルチアレルゲンなどの最先端の検査試薬をもつヨーロッパの大手製薬メーカーF社が頑強に値引きを拒否したが、値段を下げることで市場を寡占でき、売上が倍になるから、やってみろ、言う通りにならないなら来年の価格交渉で価格は元に戻してやると言って、3割仕入値段を下げさせた。こちらが言った以上に効果があって、日本法人の社長さん、昇格しました。

(この会社とは関係がよくなったので、検査機器を開発している別事業部の検査機器開発情報をタイムリーにいただけました。紙フィルター式の液体シンチレーションカウンターは世界初導入。ガラスの壜を使った液体シンチレーションカウンターに比べて20倍くらいも生産性が高かった。ガラスのバイヤルを天井近くまで積んでいたので、担当者は地震があったら怖いと言ってましたが、この紙フィルター方式の液体シンチレーションカウンターを入れたら、ガラスのバイアルがなくなったので、検査室が妙に広くなった気がしました。γカウンターもデザインがとってもよかった。SRL仕様で100本ラックが使えるものを作ってもらいました。数年してラボに行ったら、全部そのメーカーに変わっていました。現場で実際に使う人にとっては毎日目にするのでデザインも大事なんです。)

 性能が良い商品の値段はコストは関係なし、競争相手がいないのだから、できるだけ高い価格をつけるというのが、欧米企業の価格戦略、それが基本的なスタンスだった。だから、他社に比べてはるかに性能の良い製品が出たら、コストに関わりなく値段は高いし、生産性がアップしても競合品が出てこない間は、価格は高いまま維持する。
 そういうことが30年間も続いていたら、日本と欧米の間ではモノの価格が違ってくるのはモノの道理だ。
 欧米の企業は給料をアップして生産性向上に報い、物価を押し上げたのに対し、日本企業は生産性アップがあっても従業員の給与はあげずに、値段を下げた。これは商道徳の違いの影響が大きい。テレビを見ているとヨーロッパで外食するとびっくりするほど価格が高くなった。逆に、ヨーロッパの人々が日本へ来ると、外食のコストが安くて驚いている。30年間で大きな差がうまれた。

 1986年ころ、セイコーの腕時計組み立て工場でアームロボットによる自動組み立てラインを見学した。結石の前処理をするのに向いたロボットを探していたからだ。十数台で1ラインができており、たとえば、製品Aを100個組み立てたら、すぐに製品Bを50個組み立てるという風に、パーツフィードシステムがうまく組み合わされていた。細かい作業に向いたアームロボットだった。
 それを使ってSRL八王子ラボで下請けメーカさんと結石の前処理作業用のシステムを開発した。あれから30年以上たっているから、川崎重工のようなアームロボットメーカーがPCR検査分野に進出してくるのは当然である。臨床検査大手の3社は震撼しているだろう。
 だが、ラボの自動化はそんなに甘いものではない。20年後でも、特定分野の300項目くらいが対象となるだけだろう。その分野の検査コストが劇的に下がり、保険点数も劇的に下がる。だが他の分野はそうはいかぬ、SRL1社だけで、3000項目以上の検査受託をしているのだから。

 1991年ころSRLの子会社の千葉ラボへ新システム(基幹業務システムとラボシステム)を導入したことがある。親会社の関係会社管理部でこのプロジェクトを担当した。当初目標通りに全体で生産性が3倍になった。赤字の子会社が簡単に高収益会社に化けた。社員の給料はボーナスが増えたから2-3割くらいアップしただろう。だが、生産性は3倍である。だから、多くは内部留保に回ることになった。生産性がアップに比べたら授業員の人件費のアップはわずかなものだった。子会社を経営して、親会社よりも高い売上高経常利益率を実現し、親会社よりも高い給料を支払ってやりたかったが、関係会社管理部にはそういう権限がなかった。千葉ラボは練馬にある子会社ラボと統合したが、3年後くらいにその会社へ出向して、大型自動化ラボを作り、親会社以上の売上高経常利益率を実現し、そのうえで親会社より高い給料を支払ってやろうと、計画を進めていたが、案がほぼ出来上がりつつあるときに、本社に呼び戻されて、近藤社長から帝人との治験合弁会社の経営担当を命じられた。プロジェクトが暗礁に乗り上げたのでそれを何とかしろということとあと3つ具体的な指示があった。3年で黒字化と合弁解消そして帝人の臨床検査子会社買収の3つだった。経営に関しては判断を任せてもらうことで引き受けた。「わかった、やり方は任せる」と言ってくれた。赤字部門の合弁会社だったので、難易度がそこそこ高くそちらの仕事も面白そうだったのだ。期限以内に四つの課題すべてクリアした。

 SRLから業界の大手3社に目を転ずれば、どの会社も日々自動化、システム化に取り組んでいるから、30年前に比べたら、数倍に生産性がアップしているだろう。しかし、それぞれの会社の社員の年収は何倍にもなったりしない。競争で価格が下がると同時に、配当や内部留保に回されるからだ。検査の定価である保険点数は2年ごとに下方改訂されている。生産性アップは価格低下として利用者に還元されているのである。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」でいいのである。

 こうして、いろんな産業で生産性がアップし、内部留保が増え、その一部だけが社員や非正規雇用の従業員に回る。日本の大企業経営者たちは社員数を減らし非正規雇用を増やして利益を追求するようなイージーな経営に走ったから、労働分配率は下がった。その一方で自分たちの報酬は3倍程度に引き上げた。「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」という伝統的な経営倫理を忘れて、自分さえよければいいという、欧米型の価値観に大きく傾いたのが、この30年間だろう
 労働分配率を下げるというイージーな経営をほとんど全産業にわたって30年以上も続けてきたのは、経営能力の貧弱な経営者の大企業が多かったからだ。難関大学を卒業して大企業へ採用され、他大学出身者よりも早く部長職や取締役になる。ところが、仕事はできない者が多い。受験勉強をよくやった者ほど、仕事のマネジメントがわからない。それは仕事やマネジメントには受験問題のように正解がないからだ。センスや嗅覚がよくなければできない分野である。新規事業分野に踏み出せば、そのほとんどが失敗、中には大きな損失を出して、子会社の清算をしなければいけないようなはめになる。

 設備投資や研究投資に回せるだけの種を見つけらるほどの経営のセンスがないから、膨大にたまったお金をつかって、海外の企業を買収するケースが増えた。買収しても経営能力が貧弱だから、巨額損失を出して処分する。郵便事業でも最近そういうことがあった。

 おさらいすると、過去30-40年間日本企業は生産性アップに努力してきた。それは主として現場の工夫によるものだった。生産性のアップは従業員の年収アップにはつながらず、非正規雇用を増やし、労働分配率が下がり続けた。その反面、配当が増え、内部留保が3倍ほどにもなった。なぜそうなったのかは、経営哲学の違いによるところが大きい。日本企業は浮利を追わない、生産性アップは製品の価格低下によって取引先や消費者に還元されている。だから物価が上がらない。金融政策で何とかなるようなものではないのである

 内部留保が厚いから、COVID-19で打撃を受けても、ほとんどの大手企業は3年間ぐらいはなんとかなる。その間に研究開発投資を増やして、新たな事業や製品開発の種を増やしたらいい。あいにくと、そういうことができる経営者は大会社になるほどいないのである。中小企業からいい芽が出てくるのだろう。大企業の中で経営能力の劣るところがつぶれ、中小企業の中から経営能力に秀でた企業が大企業にのし上がっていく、新陳代謝があるのは健全な証拠だろう。

<余談-1:社員の年収アップ>
 1978-84年1月末まで勤務した、産業用エレクトロニクスの輸入商社では、実務デザインとシステム化によって経営改革を推し進めた。経営改革を目的とする6つのプロジェクトの内5つを中途入社2週間後に任された。役員と部長職ばかりのプロジェクトで、課長職は3名だけ、実務は平社員のわたしが全部やることになった。なんてことはない、プロジェクトメンバーは、毎月わたしの提案と仕事の進捗状況を確認するだけだった。成果が出たところで、オーナ社長の関周さんへ相談して、利益の三分割を会社の経営方針としてもらった。あっさりOK出してくれた。うれしかった。
 予算でボーナスも決めておき、それを上回れば、利益の三分の一は社員還元を「公約」したのである。仕事のやり方を変えて生産性が倍くらいにアップしたから、業績は飛躍的に良くなった。利益の1/3は内部留保へ回した。経営に何かあっても3年間は耐えられる財務構造にしたかったからだ。残り1/3は配当に回した。
 輸入商社だったから円相場の変動に業績が左右されていた。円安に振れると赤字になるから、ボーナスが雀の涙になるので、社員は住宅ローンが組めないという経営状態だった。為替変動から業績を切り離す方法を見つけたので、ボーナスを安定して、それも円高のときと同じくらい高額の賞与が出せるようになり、社員のみなさん喜んでいましたね。
 三菱電機のオフィスコンピュータと日本電気の汎用小型コンピュータのプログラミングを覚えた。仕事の半分くらいがシステム開発だったので、システム開発スキルもこの会社にいたときに50冊ほど専門書を読んでスキルを磨いた。オービックのS澤さんという優秀なSEと仕事したので、彼のスキルをコピーできました。NEC情報サービスには汎用小型機を入れる代わりに、ナンバーワンのSEを派遣してもらうように関社長が交渉してくれた。T島さんというSEがきて、その人と半年ぐらい一緒に仕事して、彼のスキルもコピーさせてもらった。システム開発に関する専門書は、翻訳の出ていない分野もあったので、原書も何冊か読んでいる。本で学んだスキルは仕事ですぐ使ったので、磨くことができました。スキルアップは国内でその分野ではトップレベルの優秀な人と仕事して、そのスキルをコピーするのがいい。
 35歳でSRLに転職したときには、経営情報系システム開発に関するスキルは国内ではトップレベルでしたよ。ありがたいことに、SRLに転職して1か月後に大きなシステム開発を任されました。当時国内で最大規模の富士通製汎用大型コンピュータを使うことになっていたので、うれしかった。
 システム開発部がDECのミニコンを使ってラボシステムをつくろうとして失敗して、2台使っていないのがあったので、経営分析に自分でプログラミングできる統計計算用のコンピュータが欲しかったので、経理担当取締役に交渉したが、都市銀行からの出向役員だったので、システム部長との交渉は無理でした。3000万円もするミニコンを使わないまま放置。統合経営システム開発と予算編成や予算管理のほかに固定資産管理も担当していたので、仕方ないので年度の終わりに除却しました。入社半年ぐらいのことです。もったいない。

<余談-2:物流コストが勝負>
 川崎重工が開発したアームロボット式PCR全自動検査機は動画を見ただけで、大手検査センターの技術者はコピーできます。より高性能なアームロボットPCR自動検査機の開発ができます。開発に要する期間は急げば半年くらいでできるでしょうね。必要な文中システムや前処理の自動化にアームロボット技術の利用はもう30年以上も前からやっているので、成熟した技術の応用で済んじゃいます。性能が同じでは愉しくないから、1.5倍くらいのものをつくればいい。
 川崎重工は半年リードできるだけかもしれませんね。国際空港への設置も移動式アームロボットPCR自動検査機はとっても役に立ちます。現場で検査可能ですから。
 川崎重工の弱点は検体搬送網をもっていないことです。ですから、国際空港などへの設置に限定使用されるだけになるかもしれません。
 大手検査センターは温度管理がしっかりされた、検体搬送ネットワークをもっています。全国の病院を網羅しているので、そこに載せるだけでいいから、新たな物流コストがかかりません。生産性の同等の機器なら、後は物流コストがモノを言います。大手検査センター3社がどういう対応を見せるか楽しみです。
 PCR検査の棲み分けがつくことになるのでしょう。異業種からのこういう新規参入があるというのはいいことです。コストが下がります。結果として安くて高品質な検査を国民が利用できるようになる。「生産性向上によるコスト低減=販売価格の低下」、デフレ万歳ですよ。

<余談:1990年当時のSRL臨床検査ラボの生産性と技術水準>
 スミスクラインビーチャムという大手製薬メーカーが米国にあり、傘下に米国最大の臨床検査会社をもっていた。海外製薬メーカーのラボ見学対応は当時学術開発本部スタッフだったわたしの担当だった。2時間ほどのツアーをして見せた説明してあげた。その後、ラボの自動化設備を売ってほしいと要望が出された。当時のSRL八王子ラボの自動化技術は世界一だった。もちろん生産性の高さも世界一である。
 ラボの自動化は、労働集約性の強い仕事からなされた。例えば、RI部門の検体分注である。一日中分注のみをしている社員が数十名いた。毎日、毎日分注だけ。こんな作業は非人間的でつらいだけだから、そこから機械化が始まっている。わたしが入社する前からだから、1980頃からのことだろう。染色体画像解析装置の開発も、顕微鏡で染色体の写真を撮った後、数十人の社員が写真から染色体を切り取って、大きい順に並べて台紙に貼り付けていた。これもつまらない単純作業である。貼り付けた染色体写真は数年すればその一部がはがれるなんてことも起きるから、検査報告書の品質も、品質管理上大きな問題だった。だからニコンの子会社と共同開発を2年間やっていた。目標値である6検体/1時間をクリアできないので、わたしが入社2年目固定資産担当になったときに共同開発をご破算にした。その直後に英国メーカーのIRSが5検体/20分の高性能の染色体画像解析装置を開発したことを知り、ラボ管理部の機器担当O君と染色体課のI原課長とY山係長、4人でサンプルを持参して性能確認に行った。すぐに3台導入している。結石の前処理作業用アームロボットの開発もそのころ(1987年)だった。結石サンプルを砕いて、五円玉のような金属に粉末状にした結石を固める、それを赤外分光光度計にセットするのである。じつに単調な仕事で、そんなことを毎日毎日繰り返すのはつらい、非人間的な労働で、単純作業だから機械化すべき仕事だ。こういう切実な現場のニーズに基づいて、現場の人間がみずから自動化に参加するのがSRLのやりかただった。そういう仕事から、小さなメーカーがいくつか技術力を蓄えて大きくなった。PCR自動検査機をフランスで売り込んだPSSさんはそういう会社の一つである。
 ラボの自動化は1990年代になると、検査機器と基幹業務システムへのネットワークへ移っていった。1984年にSRLへ上場準備要員として転職して、経営統合システムや予算編成・管理を同時に担当し、固定資産も減価償却費が予算と実績が1億円以上乖離しているので、何とかしないと上場審査でクレームとなと経理担当役員から相談されて、ニーズを満たす固定資産・投資管理システムを開発し、固定資産実施棚卸もマニュアルや管理ラベル、固定資産分類コードの作成など一連の仕事をしたので、ラボの固定資産を全部チェックさせたもらった。臨床検査機器は機器に双方向のインターフェイス機能がないことに驚いた。その当時はマイクロ波計測器などの理化学機器は双方向のインターフェイスバスのGPIBが標準機能として付属していたからだ。メーカーがやらないので、1990年ころからSRL側でDECのミニコンを使ってやり始めたのである。細胞性免疫部の白血球の表面マーカーの検査への導入が最初だった。この時に私は学術開発本部に異動しており、機器の管理やメーカーとの共同開発業務から離れていたので、制御用コンピュータの選定に関与していない。関与していたらDECのミニコンは却下、HP社製を使うように再検討を要求しただろう。HP社のマイクロ波計測器制御用のコンピュータは1980年ころから双方向バスを標準装備しており、そのバスが世界標準規格となっていたから、HP社の機器制御用パソコンを使うべきだった。SRLのシステム部にはそういう知識のある管理職がいなかった。
 マイクロ波計測器分野に比べてインターフェイスバスは15年以上遅れた。検査機器のメーカー側に双方向のインターフェイスバスが不可欠だという認識がなかった。そういうユーザがなかったからだろう。ユーザーのシビアなニーズがメーカーを育てるのである。
 栄研化学とはラテックス凝集反応を利用した大型検査機器の開発最終段階のインスタレーションテストを半年やって、問題点を洗い出してクリアし、市場へだした。あのテストをやらなかったら、高感度のラテックス凝集反応を利用した検査機器はトラブルで消えていたかもしれない。ある件で、栄研化学に協力してあげたら、その返礼として、開発中の検査機器の情報を教えてくれた。それで臨床検査部でのテストを提案して受け入れてもらった。半年か1年間、検査センターではSRL先行・独占という条件を付けた。こういう仕事が平社員でもできる不思議な会社であった。当時の臨床科学部の部長は女性で、K尻さん。臨床検査コードの標準化でも協力してもらった。自治医大の櫻林助教授(1986年当時)が臨床検査4課の顧問だったからだ。臨床病理学会項目コード検討委員会と大手六社が数年にわたって検討作業を続けて、検査項目コードは日本標準ができた。いま全国の病院やクリニックのパッケージシステムはこのコードで動いている。
 コードの標準化はラボの自動化や病院の検査システムにも、社会保険の請求システムにも大きな影響を与える。そういう環境のある国はいまだに日本しかない。標準化作業が終わり、SRL学術情報部にコード管理事務局が置かれたのは1993年ころだろうか。

 SRLは八王子ラボの自動化をラボ内の検体搬送システムを含めて大手メーカーとやろうとしたが、システム要件書や仕様書すらかけない技術レベルだった。八王子ラボでの検体搬送システムは当時の技術では垂直移動があるので、リスクが大きすぎた。ジャムってひっくり返ったら検体がダメになる。臨床検査センターとしては絶対に起こしてはいけない事故である。だから、わたしは1980年代の終わりころに八王子ラボの移転を構想していた。本社の経営管理課長と社長室と購買部兼務を数か月で蹴っ飛ばして、子会社への出向を希望したら、たまたま一番近いSRL東京ラボへ話が決まった。ここでやれる仕事は何かと考え、やろうとしたのは、子会社のラボ移転を口実にグループ全体のセントラルラボを建設して、八王子ラボの移転をすることだった。150mの平面ラインで自動化ラボの構想をまとめて、それから親会社の近藤さんの了解をもらうつもりだった。1995年ころのことだ。具体案が子会社のM社長との間で合意ができつつあったときに、帝人との合弁会社立ち上げでプロジェクトに問題が発生し呼び戻されてしまった。あと半年もしたら物件を見つけて本社の近藤社長とラボ移転について話し合えるとワクワクしていた。その近藤社長から子会社社長のMさんに出向解除と帝人との合弁会社担当の指示。ああ、それも運命かと気持ちを切り替えた。
 SRLシステム部には検査機器とのインターフェイスに専門知識のある社員も管理職もいなかった。近藤社長の発案で自動化をやり始めたが50億円費やしてできなかった。近藤さんは任せる人を間違えた。わたしを帝人との合弁会社に投入してしまった。他に人材が居なかったからしようがなかった。
 ラボの自動化プロジェクトをマネジメントできる人間は他にはいなかった。近藤さんが創業社長の藤田さんの要請で厚生省の医系技官からSRLに転職してきたときには、経営統合システム開発はとっくに終わっていたし、学術開発本部へ異動していたからラボの検査機器共同開発もわたしの仕事とシステム開発で持ち合わせているスキルを知らない。
 SRLは2018年にあきる野市へ新ラボを作った。20年以上遅れたということ。人財が育っていればいいが、そうでなければ、1年間以上すったもんだしただろう。誰がやっても大仕事だ。

 ところで、雑誌「東洋経済」に載ったディビッド・アトキンソンの日本衰亡論に言及したブログがあるので、アトキンソンの説と比較したら面白い。経済は理屈があってそれに合わせて現象を観るというアプローチと現象を見てそこから理論を組み立てるというアプローチがある。アトキンソンのやっているのは前者の方法だ。マルクス経済学者たちが唯物史観に合わせて歴史を見るのと方法論としては同じ。大学院でたった3人で、西洋経済史の大家である増田四郎先生の謦咳に接したお陰で、そういう歴史の見方を払拭できた。
 著名な経済学者の一人にアンソニー・アトキンソンがいるが、『21世紀の資本論』の著者ピケティに影響を与えたその人とは別人です。元々は金融アナリストで、経済学の専門家ではありません。竹中平蔵氏とともに菅首相の政策ブレーンの一人。
*アトキンソン氏の日本衰亡論。 (okita2212.blogspot.com)


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