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#3041 コミュニケーション能力とは何か?(1) May 10, 2015 [55. さまざまな視点から教育を考える]

<更新情報>
 □ 5/10 13:30 追記
 □ 5/10 19:00 追記 Bタイプのコミュニケーション能力の定義
 □ 5/10 21:30 追記及び修正作業
 □ 5/11 8:45 表現緩和等作業および見出し追加、重要な箇所を太字にした。
 □ 5/11 23:00 
 □ 5/13 0:20 数行追記


 根室の今朝の最低気温は4時の4.9度、冷蔵庫の中と一緒だ。庭の桜は咲いたけど、根室はまだ寒い。

 投稿欄へ何度かコメントを寄せてくれたハンドルネームtsuguo-koderaさんのブログをみたら、「複雑性の因果」と題して、3項目をとりあげて論じたものがあった。

「コミュニケーション能力、課題解決能力が高い、国際化時代への対応力はどうしたら身に着けられるのか、です。大学の講義で使う教科書や講座で学べるのは専門知識です。教養科目と言えども、先生はその道の専門家、易しい解説を心がけていても、簡単ではありません。」

 この文は冒頭である。少しわかりづらいのは、前振りがないからだろう、主語が省略されていると言い換えてもいい。「このグローバル時代に企業で勝ち残るためには三つの能力が要求されている。」あるいは「今回のテーマは」と補えば、わかりやすい文章になる。何ヶ月か前に読んだときにも、これと同様の箇所がいくつか見つかったので、印象に残っていた。ビジネス文書としたら問題ありということになるだろう。ビジネス文書の要諦は、複雑な問題であるほど「具体的でわかりやすいこと」、そして「誤解が生じないような配慮のある」こと。

  頭の良い人は自分が頭の中でわかっていることは、他人もわかっていると思い込んでしまうことがあるが、実際にはそうではないからギャップを埋めるために言葉が必要となる。
 あるドクターが自分の子どもから質問を受けて「どうしてこんなに簡単なことがわからないのかわからない、だから教えられない」と言っていた。頭脳明晰な人が苦労せずに自然にわかってしまったことをわからない人に教えるのは案外むずかしいもので、どこが問題なのか問題の所在すら感知できないことがままある。
 koderaさんのブログ記事をいくつか読んでいたら、一日2時間程度の勉強で現役東大卒合格したとどこかに書いてあった。なるほど、ときおり事情がわかりにくい文章が出てくるのはそのせいかと初回にブログ記事を読んだときの疑問が氷解した、頭がよいのが仇になっている。誤解のないように書いておくが、最近アップされたものはそういう記述が減っている、書き慣れてきたのだろう。

<東大紛争(1969)の影響:盟友k藤>
 わたしは1984年2月に、軍事用及び産業用エレクトロニクス輸入商社から国内最大手の臨床検査センターに転職したが、同じ時期に上場準備要員として採用された2歳年下のK.Hさんがいた。彼は学園紛争で東大の入試が中止になったとき(1969年)の受験生だった。koderaさんが東大大学院生だったときのことだ。全共闘(山本義孝議長・東大大学院理論物理学専攻)による東大安田講堂占拠があって幼馴染のFが立て篭もっていて逮捕されたと噂に聞いた。私のいた大学でも約50人の退学処分を発表した。その中にゼミの先輩の名前もあった。市倉宏祐先生(哲学)の一般教養ゼミ(『資本論』と『経済学批判要綱』をテクストに使用)の同期には赤軍派のメンバーS藤もいた、「動乱」の時代だった。
 東大入試の中止が1月にアナウンスされ、Kはしかたなく中大法学部(当時はダントツで司法試験合格者最多)に入学した。家庭の事情で浪人できなかったと語っていた。会社を辞めて独立して事業を軌道に乗せると2年後に40歳代で胸部癌を患い、4ヶ月ほどで亡くなった。奥さんは東大理三の才女、某海外有名メーカの化粧品部門の開発部長をしていた。Kとはよく二人で新宿で飲んだ。独立すると言って会社を辞めて1年後くらいに取締役を頼まれ、経営コンサルタントの仕事を一本手伝ってあげた。会社に役員を引き受けたことを報告したら、無報酬で土日の取締役会出席でも兼務は不可と人事部から通知があった。会社を辞めて独立した人間を土日にサポートするだけの話、非常勤取締役にすぎぬ、仕事にはなんら差し支えは出ない、それでもダメだと意地の悪い裁定だった。2~3年のことだから、応援してやってもいいではないかと言ったが、聞き入れられなかった。
 業界ナンバーワン会社では会社の看板を背負ってできる仕事の範囲が広いから、わたしに辞めるつもりはなかった。大学病院を束ねていくつかの疾患分野の臨床診断支援システムをつくることや、さまざまな産学協同研究、臨床病理学会との臨床検査項目コード標準化プロジェクト(日本標準コードになった、市立根室病院の院内システムもこの検査項目コードを利用している)、製薬メーカとの検査用機器の共同開発、検査試薬の共同開発などがやれるし実際にいくつかやった。
 その後、Kから副社長をやってくれと言われて断ると、事業をまるごとわたしに譲りたいので社長をやってくれと申し出があった。「取締役では不足で断ったのではない真意を誤解しないでくれ、まだSRLでやりたい仕事があるからだ」と具体的な理由を挙げて丁重に断った。
 当初は企業健診のコンサルタント会社だったが、次第に健診機関の経営改善に関するコンサルが増えていった、そちらの方面の仕事はわたしのテリトリー。彼がやれるのは企業健診のコンサル営業であり、健診機関の経営改善に関しては専門知識も実務経験もなかった。どうしてあの時に気がつけなかったのだろう。顧客から持ち込まれた案件を一つやって見せたら、頭のよいKのことだからコピーできるだろうと安直に考えていた。逆だったのだろう。とてもできないと悟ったのだ。過去5年分の財務データに基づく財務及び経営分析、長期経営計画や具体的な業務改善の立案、損益のシミュレーション、単年度予算、資金収支計算書、銀行との折衝のしかた、先端の理論と実務経験を数年間積まないと、とてもお金をいただけるような仕事はできない。事業経営の壁に行き当たったから、コンサルの応援を私に依頼したのだ。事業の方向が変わってしまっていたから、応援要請してわたしの仕事のやり方を観察していたのだ。福島県郡山市の会社へ役員出向が決まれば、土日のKさんの会社の手伝いも不可能。景気のよさそうな話をしていたから順調だとばかり思っていたが、わたしの思い込みだった。冷静に事態を眺めたら、ほんとうのことが理解できたはず、愚かだった。
 社長就任を断ったのが3月ころ、そのあと4月にKさんは社員数人に営業権を有償で分割譲渡した。万事窮す、立ち行かなくなっての営業権譲渡だったのだ。あのときはそういう風に考えなかったから、ずいぶんあっさりそして優雅に会社経営から手を引いて、営業権の売却で得た資金で10年くらいぶらぶらするのだろうくらいに考えていたが、状況を改めて考えると見事な撤退作戦だった。撤退をやり遂げて5月の発病。電話の声がすこしかすれたようでおかしいので、訊くと「微熱が続いている」という返事。嫌な予感がして、「大きな病院ですぐに検査してもらえ、癌の疑いがあるかもしれない、もしそうならKの年齢では命に関わる」そう伝えた。ちょうど福島県郡山市の臨床検査会社と経営分析資料を携えた資本提携交渉が終わり、役員出向が決まったときだった。「末期だったら入院しないで自宅で治療しろ」とまで薦めた。それからしばらくして暑中見舞いのはがきが届いた、「余命3ヶ月、本人いたって痛みなし」と1行だけ書いてあった。勘というのは怖いものである。
 担当医を説得しての自宅療養、通院による抗癌剤と放射線治療を選択した。もう手術ができない状態だった。横浜済生会病院で末期癌患者では初めて通院治療例となった。
 暑中見舞いのはがきを受け取り、横浜「港みらい」高層マンションにすぐに見舞いに駆けつけた。3度あいつを見舞った。放射線治療で髪の毛がなくなって真夏に毛糸の帽子をかぶっていた。45分ほど昔話をすると「疲れたから15分間ベッドに横になってくる、すぐ起きてくるからまだ帰らないでくれ」と、奥さんが帰ってくるまで寝たり起きたりを繰り返した、次から次と昔話が出た。「あの時本当はどうだったんだ?」、そう訊くこともあった。室内の冷房で頭が寒いと言った。将棋が強かったあいつは3番所望した、最後の将棋になることがわかっていたが、病気のあいつを相手に手を抜けなかった。いつもどおり手を抜かずに相手した。三番目を投了したときにあいつは、「負けました」とくったくのない笑いを浮かべた。いつもはわざとらしく目をむいて顔を紅潮させ悔しがるのだが、あの時だけは晴れ晴れとした笑顔だった。
 いいやつだった。転職するときのリクルートのSPI試験で偏差値68、ちょっと自慢していた。初めて会ったときに、SPI試験結果表(幅1cmほどの紙の切れ端)をわたしに見せてくれた。「ほう、高いね」と応えたら、自分のを見せたからebisuさんのも見せろとダダをこねた。おいおいそんな約束していないぞと断ると、自分のを見せたんだから、ebisuさんのも見せろとしつこい。辟易したので見せたら「え!」と絶句。上場準備で5名中途採用されていたので、自分の偏差値が一番高いと確信していたようだ。5人の中には一ツ橋大が2人いた。しばらく間があって、「あの年に東大入試があれば、オレは東大卒業だった」、そう言った。それ以来、一目おかれた。あんな偏差値は仕事の能力とはほとんど相関関係がないのだが、頭脳の柔軟性だけは判断できる。年齢が上がるにしたがって柔軟性がなくなり、偏差値は落ちるのが通常だがまれに柔軟性が落ちない者がいるのである。いろんな仕事にチャレンジして専門分野をいくつも持つ者はいつまでも頭が固くならない。偏差値に弱いKは頭が上がらなくなった。何かあるたびに酒を飲もうと誘われた。ちょっと子どもっぽいところのある人物だった。
 入社当初の配属は彼は人事部付き、私は経理部所属、席も近いのでお互いの仕事ぶりも気性もよくわかった。転職時の彼の年齢は33歳、わたしは35歳。1984年2月に出遭い、1993年11月に逝った。平成5年9月に癌で逝ったオヤジの49日に奥さんから「先ほど亡くなりました、今朝ハイヤーを呼んでくれといい、肩を貸して病院へ行くとモルヒネを打ってもらって数時間、苦しまずにそのまま逝きました」と電話をもらった。葬儀には出られなかったので、オヤジの49日の法要を片付けてから駆けつけ、線香を上げさせてもらった。「苦しむ必要はないから、痛みがひどくなったらモルヒネを使って楽に逝かせてもらえ」と癌が判明してから伝えてあった。最後の時間を在宅での療養、そしてモルヒネを使って苦しまずにいくこと、全部わたしの勧めたとおりにやってのけた。奥さんの理解と協力があったからだろう。
 享年43歳。合掌。

 世の中にはさまざまなタイプの人がいるから楽しい、そして時に悲しい。


< コミュニケーション能力 事例-1 :F川君とM野君>
 大学院のときに専任講師をしていた渋谷の進学塾でもS木君という東大出がいた。ガタイがでかくて声が大きく、愛想のよい本部室長だった
。もう一人、治験検査事業の合弁会社で一緒に仕事をした東大出がいる。東大理三⇒大学院出の応用生物統計専門家のM野君だ。彼には帝人とSRLの治験事業の合弁会社でデータ管理とデータ解析の仕事を担当してもらった。営業部門担当常務はO部さん(千葉大薬学部(北大よりも少し上))、データ管理、システム部門、総務・人事・経理担当役員が私だった。仕事のできる者たちが集まっていたから、赤字部門の別会社化でもどうってことはなかった、黒字化は3年の期限内に余裕を残して実現できる、黒字化どころか利益率では本社を軽く上回ることになるだろうと予想していた。しかし何をどうするということは考えていなかった。いつものことだが、現場で考えればどこをどのようにいじくれば、利益がどっさりでてくるかがわかるのである。
 M野君は八王子ラボにいたときには金沢大学出の応用生物統計の上司のF川君と折り合いが悪かった。馬の合わないというのはよくある話で、どちらも不幸だ。上司のF君は切れ者の応用生物統計専門家だった。顧客であるドクターの学会発表でも、データやその統計処理に問題があると遠慮なく意見を言う。一度某有名大学医学部のドクターの発表データを学会席上で批判してトラブルを起こした。後始末に創業社長のFさんが平謝りをしたという噂が社内に流れたことがある。F川君の意見は正当なものだったが、相手は重要顧客、言い方や言う場所というものがある、不器用な技術者の彼はそういう配慮ができない。とにかく技術的なことでは妥協がないのである。だから、一緒に仕事をするときは全幅の信頼がおける。仕事の品質は抜群によい。
 まさかM野君とあとで一緒に仕事をするとは夢にも思わなかったころ(わたしが八王子ラボにいたときに)、M野君はなぜダメなんだと酒を飲みながらF川に訊いたことがあった。「センスがないものは鍛えたってダメ、ebisuさんやわたしはセンスがあるが彼にはない」と断言、「鍛えればものになる」という私の意見に議論は平行線だった。東大理三⇒東大大学院応用生物統計のM野君を歯牙にもかけなかったF川、なかなかのもの。いまF川と議論したらわたしは何というだろう?

 出生前診断検査のMoM値の検査(検査項目はE3(エストリール)、HCG、AFPの三項目)を沖縄米軍から依頼され、文献を取り寄せてHP社製の科学技術計算用のプログラマブル計算機で、線形回帰して計算式を算出し、システム仕様書を書き上げてパソコンで処理できるシステムを作り、沖縄米軍に説明に行った。母体血で胎児の染色体異常がスクリーニングできるのである。1年後に異常値の出た2事例が、羊水染色体検査(確認検査)で異常と確認されたと報告を聞いた。沖縄米軍の評価は高かった。女の兵士が妊娠すると、出生前検査が法律で義務付けられていた。
 そのころ日本人のMoM値標準値を算出したいというK大産婦人科の要望が営業を通じて上がってきていた。わたしは学術開発本部で取締役I神さんの直属のスタッフで、学術営業からシステムができないと回答したと本部内の女性スタッフから聞いていた。やれない理由は聞かずともわかっていた。取り寄せた英文文献を読んで、いくつかの項目が入力できないことを知っていた。妊婦の体重、人種、妊娠週齢の3項目が業務受付システムでは入力できないのである。それでパソコンでシステムを作り、受付時にこれらの3項目と識別コードを沖縄営業所で入力しておいて、ラボからの検査結果データをオンラインで取り込みファイルの結合処理をすませ、計算式に必要な変数を入れてMoM値を計算して結果報告書を営業所でプリントアウトした。I神取締役と学術営業のS藤君と、担当プログラマーU野君と4人で沖縄へ、あいにくと6月、梅雨空の出張だった。
 K大医学部産婦人科からの依頼も学術開発本部でわたしがコーディネートした。製薬メーカに事情を話してデータ利用を認める替わりに、検査試薬を無償提供させる交渉もした。合計で3000万円を超える検査とデータ解析をただで請け負った。品質と業績のよい会社はこういう協力がいくらでもできる。当時は開発部の仕事である検査試薬の共同開発も担当していたので、製薬メーカのDPCさんとは検査試薬の共同開発をやっていたし、もう一つのメーカF社は購買課のときに当初は値下げ交渉に応じなかった。日本の商慣習を説明し、品質がよいのだからディスカウントすれば、売上は1.5倍にはなるしシェアーを高められると説得して値下げに応じてもらった。日本法人の社長は翌年売上が増えて本社へご栄転。日本(SRL)仕様でのγカウンターの開発にも応じてくれた。LKB事業部のフィルタ方式の液体シンチレーションカウンターは世界初導入だった。そういう経緯があったから産学協同研究に全面協力を即答してくれた。学術研究協力だから検査も無償、稟議書はすんなり通った。わたしは営業部門とラボの検査部門、システム部門の管理職を集めて仕事の重要性を説明し、それぞれに仕事を割り振った。ついでだからやったことのない検体のハンドリング(受け入れ処理)も数回経験した。本当は検査現場にはいって検査を少し体験してみたかった。理屈は文献を読めばわかるが、体験してわかることが必ずある。
 数年かけて3000人の妊婦のデータを解析して日本人の基準値ができあがった、もちろん学会発表はK大産婦人科である。その基準値はデファクトスタンダードになった。
 検査と多変量解析がすめば民間検査センターの出る幕は終わりである。多変量解析は研究部のF君に担当してもらった。K大医学部とは過去のイキサツがあるが、「ebisuさんの依頼だから」と二つ返事でOKしてくれた。しっかりプロの仕事をしてくれたから、学会発表もスムーズ。後に業界3位の財閥系検査センターが基準値をつくろうと画策したが、すでにK大医学部産婦人科のデータがあり、それが日本のデファクトスタンダードであるとたしなめられて、企画はボツになったと聞いた。
 ついでだから言うが、MoM値の標準値は人種で差があり、黒人が白人よりも十数%高いのだが、日本人の標準値は白人よりも3割ほど高かった。国際的にも学術的な価値の高い研究となった。1990年ころの産学協同研究である。現在は第2世代の出生前診断検査がなされている。
 それにしても、日本人の基準値が白人と黒人の間ではなく、黒人よりさらに高いというのは、いったいどうなっているのだろう?誰もが日本人の基準値は白と黒の間に来ると想定していた、理由はわかっていない。
 それから数年して、治験検査事業のデータ解析にM野君が欲しいので、本社社長に頼んだら、すぐに了承して人事異動をしてくれた。もちろんF君に否やはない。「ebisuさん、よろしく頼む」と快諾。
 M野君に具体的な目標と段取りを説明したら1年で成果を出してくれた。指示と段取りを間違えなければ仕事はびっくりするほどよくできるのである。そういう人間は目標と具体的な段取りを上司が示せなければ宝の持ち腐れとなる。それどころか自信喪失で精神障害を起こしかねない。挫折の経験がない者は弱い。
 顧客ごとの仕様でつくっていたシステムを汎用パッケージ化したのである。データ処理の受託コストは大幅に下がっただけでない。武田製薬向けに作ったものをパッケージ化したから、システムの信頼性も高かった。M野君とシステムのW辺、K野の二人と、データ管理のM宅君のお陰で、狙い通りデータ管理事業の売上が急進すると同時に受託量が増えた。利益が3億円ほど増え、黒字転換してしまった。年間1億円ほど赤字を出していた事業を2年で黒字に転換できた。赤字企業を黒字に変えるのはそんなにむずかしいことではない。

 ebisuはもともとは経理の専門家であると同時に、プログラマブル科学技術用計算機(1979年ころ)を使って財務データや人員データを利用した統計解析作業をして自社の経営分析や長期経営戦略を立案する仕事をしていた、そして83年ころはから統合システム開発を任されたから、統計学に関する基礎的知識と実務経験があった。線形回帰や曲線回帰分析を多用して長期戦略立案をしていた。だから応用生物統計の専門家がSASという専用統計解析ソフトを使ってどのような仕事をしているか概要を聞いただけで理解できた。彼らと専門用語での会話が成り立つのである。
 中途入社半年後に全社予算の統括を一人で任されて大きな権限を手にしていたことは八王子ラボの管理職はよくご存知だ。技術屋は相手が異分野の専門家でも自分のテリトリーの仕事が理解できる者には心を開くのである。わたしがいうBタイプのコミュニケーション能力とは確かな専門知識に裏打ちされたものを指す
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 koderaさんは6月に根室へいらっしゃると投稿欄で予告があった、書いたものだけではわからない、だから人に会うのは楽しみである。
 ブログが縁で根室まで来られた最初に人は釧路のZAPPERさん、その次が栃木県のHirosukeさん、そしてkoderaさんが三人目ということになる。)

<子どもたちのコミュニケーション能力の低下は危機的状況>
 小さな私塾をはじめて12年が過ぎ、子どもたちのコミュニケーション能力の衰えに危機感を感じている。ケイタイがスマホへ新化し、ゲームも40年前のインベーダとは比較にならぬ高精度の画面とソフトでリアルさを実現し、子どもたちから時間を奪い続けている。その中には中毒症状を呈してなかなか抜けられない子どもも増えており、もはや心療内科領域と断ぜざるを得ない子どもが10%以上いる。それらの機器の高度化と反比例するように子どもたちのコミュニケーション能力が急速に低下しつつあることが気がかりだ。弊ブログでなんども具体例を挙げて紹介している。
 小4程度の語彙力しかない中学生は根室ではすでに20%を超えている。学校・学年に細分化すると多い学校・学年では40%に達するところすらある。
 公立中学校で行われている文協学力テストで五科目合計点で400点を越える生徒が12年間で1/4以下になり、平均点が下がり続けている。最近では200点前後の学校・学年が出現し始めた。市街化地域3校ですら、最高と最低を比べたら、五科目合計点の平均値に70点(1科目14点)の差がある。指導教授が一般教養科目の哲学(倫理学?)で同じ商学部で、会計学科と商業学科では毎回10点以上の差があるとおっしゃっていたことを思い出す。あるのは都会と地方の学力格差問題だけではない。同じ地域(根室市街地)間での学校学校間学力格差、同じ学校での学年間の学力格差問題がある。
 コミュニケーション能力をAとBの二つに分割すると、Bの方は「読み・書き・そろばん(計算)」の基礎的学力に依存している

 社会に出て必要なコミュニケーション能力とはなんなのか、数回に分けて具体的に論じるつもりだ。5回ぐらいになるだろうから、順を追ってアップしていく。小寺さんのブログの当該記事を読んで、それぞれお考えいただきたい。自分の考えをハッキリさせておいてから、ebisuの論を読めばいっそう面白さが増すはず。
 どうぞ、下記のURLをクリックしてお読みください。



*「複雑性の因果」
http://blog.goo.ne.jp/tsuguo-kodera/e/f7b2993f3db7c09c68cd3c4b1b00f4e9

 
*#3041 コミュニケーション能力とは何か?(1) May 10, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-10

 #3042 コミュニケーション能力とは何か(2) :<事例-2>  May 12, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-11

 #3043 コミュニケーション能力とは何か(3):理系と文系 May 16, 2014 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-14



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tsuguo-kodera

 辛口のコメントを頂きました。忌憚ないご意見、感謝しています。管理人様が会社のコミュニケーション能力について数回書かれるようですので楽しみにしています。
 私のブログは今回、営業目的で2か月書きました。営業は難しいです。本当のことは十分の一も書けません。それが会社に勤めた私の心でもあります。どこかにそのように断った記事があるはずです。
 そのお気に入りにあるバドミントン娘の記事も私が書きました。両方の2か月分を読むより、むしろこちらの記事の概要ページをさっと読んでいただけたら私の言いたいことが分かりやすいかもしれません。
 私はブログで思いを伝えることはできないと考えています。教壇でも一度もされたことはなかったように思えます。
 だからバドミントンで教育する考えに至りました。体育館の私の遊ぶ姿を見せられないのが残念です。その可能性の調査で根室に参るつもりです。
 言葉や文字はもうたくさんなのです。街にいる人々と子供たちの顔を見て、シャッター通りを見るだけでも良いのです。人にその感性を伝えることはあきらめています。行動はお見せできるだけです。
 管理人様の凄まじい街の描写に心が動かされ、行動しようとしているだけです。
 私は確かに教壇で教えるのは素人です。得意は司会であり、人の能力を引き出すことです。私はそれがコミュニケーション能力の大切な要件だと思っています。
by tsuguo-kodera (2015-05-10 20:35) 

ebisu

tsuguo-kodera さん

貴ブログを全部を読んだわけではありません。もちろん、読んだ部分のみに限定したコメントです。

わたしはとりあえず思ったままを書き連ねてアップします。それから手を入れます。1回で完全原稿が書けるといいのですが、なんども見直す羽目になります。

だから最初は表現がきつい、校正を繰り返している内にだんだん穏やかになりますので、ご寛恕を願います。

ところで「バドミントン娘は凄い」という記事の中で次のような表現が出てきます。

>私はとても不思議です。何故医療関係のバドミントン娘は素敵な3Kが多いのか。教育界や政界の女性はなぜ3Kご本尊が多いのか。不思議です。

3Kは普通は「きつい、汚い、危険」を現しますが、そういう意味に3Kをとると、わたしには文の意味がわからないのです。
おそらく何人かの読者がそう感じているでしょう。
独自の定義で3Kを使っているなら、ちょっと説明を入れてくれると助かります。
たぶん、koderaさんの頭の中では自明なことなのでしょう。
文意が不明なあたりになにか重要な意味がありそうでとっても気になるのです。(笑)
by ebisu (2015-05-10 21:54) 

ebisu

koderaさん(2)

>得意は司会であり、人の能力を引き出すことです。私はそれがコミュニケーション能力の大切な要件だと思っています。

わたしは2分法で考えていました。コミュニケーション能力Aタイプはたとえばゴマすりや波風を立てないような世俗的な智慧、Bタイプは専門知識をベースとしたコミュニケーション能力です。Bタイプの事例を5個ほど事例を挙げてみようと考えていました。

ところが、上記のコミュニケーション能力が提示されました。人の能力を引き出すことは、私の用語では「触発」です。これは高級そうです、Cタイプに分類したい。
Cタイプは、意図して起こせるものと意図せずして起きてしまうものがありそうに思えます。結果論からいうと、どちらもすばらしい。

陽明学に何度も言及されているので、ネットで調べてkoderaさんの言わんとしている真意をつかもうと思うのですが、この方面に関しては浅学菲才を痛感するばかりです。

弊ブログでは地域医療問題や教育格差問題、そして日本経済の現況やその未来、さらに経済学をとりあげて3000本も主張をアップしてきましたが、このごろはすべてがあるがままでいいではないかという気分になってきました。
世の中なるようになるのですから、何も心配することはない、何が起きてもただそのままその現実を受け止めるだけで十分ではないか、そういう考えが頭をもたげてくるのです。

現実に疲れたのか、それとも心が広くなりつつあるのか、さっぱりわかりません。身体も齢を重ねるごとにポンコツになっているようですから、精神も影響を受けてだんだんに阿呆になりつつあるのでしょう。しかし、それでいい、そう思うのです。
自分にやれる範囲のことだけやり続けているうちに人生に終わりが来たら、それはそれでとっても幸せなことではないでしょうか。
by ebisu (2015-05-10 22:27) 

ebisu

koderaさん(3)

海陽亭から海側に100mほどで緑町商店街にでます。その次の通りが広小路で飲食店街、さらにもう一本向こう側が梅ヶ枝町商店街です。かつて(50年前)は夕方は人でごった返していました。

緑町には「恋問いサロン」という名前だったか、すずき時計店の旧店舗を市が借り受けて「サロン」になっています。土日だと子どもたちが遊んでいるのですが、水曜日の4時到着では無理ですね。4時に閉館します。ですから平日は子どもたちは施設があってもそこを利用できません。大人は仕事している時間ですからもちろん利用できません。6時まで開いていたら、パソコンもあるので、子どもたちも大人も利用できるのでしょう。

グーグルマップで市立図書館を検索してみてください、海陽亭からとほ5分のところにあります。放課後利用している中学生がいるかもしれません。

スポーツだと、青少年体育館が根室高校の奥にあります。部活を終わった生徒たちが、7時ころから自主練習しています。タクシーで5分の距離です。バドミントン部の生徒もいるかもしれません。強い選手は部活の後、自主練習しています。自主練習までするから強いのかもしれません。

その代償としてスポーツ障害を起こす選手もいます。どこからが過度な練習なのかを指導できる者が少ないのでしょう。
百聞は一見にしかず、時間があればごらんいただきたい。
by ebisu (2015-05-10 22:44) 

ebisu

「素敵な3K」見つけました。
http://blog.goo.ne.jp/badmintonmusume/e/f66a9b9403b40ce28ac001926b236850
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今日の3Kは、臭い汚い危険の3Kではありません。綺麗、可愛い、かっこよいの3Kです。ご愁傷様です。なぜご愁傷様と言いたくなったのか分かりますか。巷を歩き、非常勤に出かけ、町で様々な年齢のご婦人や男性と出会います。多くはまさに3Kのご本尊の印象のように感じているからです。
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素敵な3K ⇔ 3Kご本尊

そういうことですか、なるほど。
教育界や政治家の女性はご本尊の3K。

これで熟睡できそうです。(笑)
by ebisu (2015-05-11 00:54) 

ゆうき

いくつかブログ拝読させてもらいましました。
非常に教養がお有りですね。
特にSPIで東大に行けた人を絶句させるとは凄すぎますね。
根室で東大生の学力を凌駕するとは驚きですが、先生はどちらの大学のご出身ですか?
by ゆうき (2015-05-12 06:15) 

ebisu

ゆうきさん

専修大学商学部会計学科です。偏差値50で入れます。
高校時代から『資本論』でやりたいテーマがあり、東京経済大学大学院で理論経済学を学びました。

根室高校商業科卒です。大学に行くつもりはなく、高卒で公認会計士になるために商業科へ進学しました。中学の担任が反対して、母親を2度呼んで説得していました。「この子は大学へ行く子だ」、そう言っていたと母親。「でも本人が進路を決めているので・・・」。
二次試験の勉強に高2から明け暮れていました。数学はつまらないので普通科の参考書で勉強していました。英語の勉強の仕方は当時はわかりませんでした。家業のビリヤードを毎日3時間ほど手伝いながらの中高時代です。
英語の勉強は学部に入学してからで、読みたい経済学の原書があったから、しゃにむに読んでいるうちに勝手に力が付いてしまったというだけのことです。

究極的なことを言うとどこの大学でもいいのです。トップ3%は互角です。
1級上のTさんは母校の情報学部の教授で、週に2度東大で教えています。もう一人は学部の市倉宏祐ゼミ(哲学)の先輩、青森大学の経営学部長のTさん。学部のゼミの同期のIはは母校の哲学科の教授になっています。

東京経済大学大学院は当時はレベルが高くて、慶応大学大学院と入試難易度が一緒でした。
1学年上のS木さんははこの間まで千葉商科大学の経済学部長をやっていましたし、一つ下のF井君は流通経済大学の教授です。ちょうど間の私は大学には思うところあり残りませんでした。

どこの大学でもトップ3%はそれ相応の力があります。
指導する先生が優秀なら、少数の生徒もそれ相応に育ってしまうようです。

根室高校普通科の進研模試の英数の平均点は20~30点で、釧路湖陵高校は60点台、それでも科学の甲子園では根室のチームが昨年は勝利しています。トップ3%は偏差値に関わらず互角。

仕事の能力に、SPI偏差値は多少関係はありますが、多少ですよ。一部上場企業では、早慶は学歴になりません。一ツ橋、東大、京大クラスですね、学歴がものを言うのは。でも結局は仕事ができるかどうかです。学歴は何の保証にもならない。

大学に入学してから、そして社会人になってから、どれだけ仕事を任されて逃げずにやってきたかで、力が決まるのです。
さて、偏差値があまり高くない大学で勉強している学生さんたち、ここからが戦いです。

by ebisu (2015-05-12 09:16) 

tsuguo-kodera

 根室の旅行はお金を払いました。とりあえず確定させて来ました。管理人様の塾に行きたいですが、行けなくても構いません。根室は、私か妻が病気にでもならない限り行くでしょう。根室の海と人を見るのが楽しみですので。
 以下は余談です。上のどなたかへのコメントバック、全体の論旨はとても良く納得できました。しかし最後のまとめは若干違和感がありました。
 私は戦いと言う言葉がまず嫌いです。子供の時に喧嘩しすぎて、大学生以降、逃げ続けた人生を誇りにしています。逃げることでゼロから新しい研究や業務に何度も挑戦し、失敗し、今の私になったと思っています。
 今は結局なるようになるのだから、好きに、したいこと、新しいことをしようと考えています。それでゼロから根室を皮切りに、いろいろ調査をしたくなったのです。
 私は、得意は司会だと言いました。でも好きなことは、至らない若者の創造性を開発するお手伝いです。人の創造性は知識とほとんど関係ありません。誰もが持って生まれた基本の能力と思っています。
 新しい自分の能力向上に頑張る期間と、とどまって人に言われたことを手抜きで良いからする期間を繰り返すのが創造性の開発に寄与すると考えています。繰り返しサイクルの多いほど向上する点で有利のように思えています。何回も挑戦できるからです。
 逃げ足は私は速いし、見切るタイミングも早いです。事にあたりて後悔せず、と生きてきました。私の場合、事は、逃げたことが多かったかもしれません。
 陽明学は難解ですが、基本は簡単かもしれません。俗の中に誠あり、だけで良いのかも。心とか善とか、認識とか判断などとか、持ち出さない方が分かりやすいと思います。
 私は陽明学の基本である三教の統合をめざし、子供さんのバドの相手をしたいのです。もっとも教と言っても、私は無神教です。キリストもイスラムも好きになれません。日本の神様も好きではありません。
 陽明学の三教とは道教、儒教、仏教です。それが学問の基本かもしれないと考えています。管理人様が陽明学は分からないと言ったように思えましたので、蛇足とは思いますが、コメントをしてしまいました。
 再度言いますが、一期一会を楽しみに過ごします。あまりコメントはしないつもりです。当方のコメントがなくても行くつもりなのだと思っていただけたら幸甚です。よろしくお願いいたします。
 
by tsuguo-kodera (2015-05-12 12:51) 

ebisu

ひとつの問題についtろいろな考え方があるからいいのでしょう。
同じなら、ああそうかえで終わりです。
こうした投稿欄での議論が若い人たちに何らかの役に立てばと願っています。

陽明学には三教というのがあるのですか。仏教と道教は肌に合いそうです、哲学ですから。『論語』よりは『荘子』のほうが好きです。

日本の神様、八百万の神々は、わたしは嫌いではありません。なぜだかわかりません、理由なんて考えたこともありません。八百万の神々がおわすところで生まれ、育ち、そして死んでいくからかもしれません。そこのなにもかも、すべてをひっくるめて受け入れることになる、そういう人生でいい。

「三教の統合」、なんとスケールの大きなことでしょう。
by ebisu (2015-05-12 13:37) 

tsuguo-kodera

 また蛇足です。コメントバックにたまらず書いてしまいます。
 儒学も孔子の教えにこだわらず、四書五経や孔子、荘子、老子も同じように評価する考え方です。論語も批判しても構わないのです。だから革命家の思想などとも言われてしまいます。中国でも昔から時の施政者から嫌われて燃やされる書なのです。
 すべてを認めて、かつ疑って、取り組む考え方のようです。管理人様はすでに陽明学の達人のように、このコメントバックは読めます。
 庶民の日々の暮らしに真実や真善美があるという教えです。今の日本の官僚や政治家は全く反対の考え方でしょう。時の施政者に都合のよい朱子学で儒教を理解しているだけだと私は考えています。
 だから私は道徳教育という考え方も大嫌いです。人は本来道徳的によい考え方をする生き物だと信じています。環境が悪いからできないのです。
 dolce先生のブログと私のブログに最近コメントしてきた林田様は麻鬼の教えで学校改革が成功したとあります。
 生徒が自由に参加できる麻雀クラブを作って学校を変え始め、先生方の考え方を変えられたそうです。つい最近林田さんのコメントが私のブログにあり、知りました。
 林田様の本も買いました。内容は、先生が達人になれたら何でもいいと理解しました。生徒のために心を尽くせば学校は変わると彼はいっています。
 ぜひ、陽明学 林田でアマゾンで検索してください。たくさんの本が買えます。私は陽明学は彼の本を最近読んだのと、父から聞いた祖先の話だけです。
 父の話ですが、頼山陽の先生がいたようです。彼の書にあります。大学の入学試験問題に頼山陽の笠岡時代の話があり、学友小寺の一文があったのです。
 頼山陽は国学で有名でしょう。明治の施策に都合がよかったのでしょう。
 当方の東大合格はまったくの運でした。それで国語ができたのです。背景がわかっていた問題の要約や解釈だったからです。
 数学は父が一週間まえに試験練習させてくれた問題が出題されていたのです。試験前ですることもなく、退屈だったので、遊んでくれたのでしょう。
 練習では解けなかったのですが、問題集の回答を見て解けるようになっていたのです。おかげで満点だったと思えるほど全問よく解けました。こんな心理状態なら、誰でも受かったはずです。
 なお、なぜ明治の文明開化の歴史から消えたのか不思議ですよね。実は大塩平八郎の乱の連座で、切腹した塾長が私の祖先だったようです。国学と儒学と蘭学などを教えていたようです。ただで、希望者は庶民にもです。笠岡市の郷土史の資料にありました。私もやりたいわけです。バドでです。
 ところが、江尾時代末期、陽明学は危険思想とされ、幕府の俸禄はゼロになり、文明開化の時代、土地や神社の塾などの財産はすべて成功者にとられたようです。
 父の話は裏から見た話があり、表の郷土史と合わせてわかりました。郷土史には、子孫は東京に出て行き方知れずと書いてありました。笑えました。私がその生き方知れずの人なのです。
 また長々と書いてしまいました。すみません。
by tsuguo-kodera (2015-05-12 16:07) 

ebisu

笠岡市は岡山県ですね。
根室人で笠岡市と聞いて、県名がわかる人はほとんどいません。ご他聞にもれず、わたしもわからないので探しました。岡山と尾道の間、旧福山藩ですね。
根室の約2倍弱、人口5.1万人の都市。人口減少速度は根室よりは幾分緩やかそうです。

バドミントンを通じてやりたかったことは、小寺家のルーツにその淵源があったのですか。

>実は大塩平八郎の乱の連座で、切腹した塾長が私の祖先だったようです。国学と儒学と蘭学などを教えていたようです。ただで、希望者は庶民にもです。笠岡市の郷土史の資料にありました。私もやりたいわけです。バドでです。

そこにある思いが何なのかがわからずに貴ブログを拝読していましたが、行動を支えている根っこの土台石を見せてくれたので、心情の一端が理解できたような気がしました。
大いにおやりください。

ご来根をお待ち申し上げます。

by ebisu (2015-05-12 23:10) 

ゆうき

ご回答ありがとうございます。
しかし専修大学に進学したのは何故でしょうか?
中央大学の経理研究会などの方が会計士試験のための環境が整っていると思いますが?
在学中に会計士合格したのでしょうか?
by ゆうき (2015-05-15 01:53) 

ebisu

ゆうきさん

素直な質問ですね。(笑)
中大はもちろん受験しましたよ。中大が第一志望でした。簿記はできても国語と英語が追いつかなかった。中大には不合格、入れなかったのです。
高校商業科の授業時間数は国語と英語に関しては普通科の半分です。もちろん数学に関してもね。その分他の科目(簿記・会計学・その他商業科目)が目白押しです。履修科目の数は商業科のほうが多いのです。2年生のときに工業簿記を教えてくれた先生が、神戸商科大学の受験を薦めてくれましたが、冗談にしか受け取りませんでした。
経済的に大学進学なんて考えられませんでしたから。中学高校と毎日家業のビリヤードを3時間ほど手伝っていました。勉強する時間が一日10時間以上取れるのは夏休み・冬休み・春休みの年三回のみ。土日はビリヤード三昧していましたから、門前の小僧で腕はセミプロクラスです。いまでも3ヶ月あればプロテストに合格できます。

中大だろうが、専大だろうがどちらもトップレベルは3年次で2次試験に合格します。合格者数に圧倒的な差があるだけですよ。
どこの学校へ行こうがトップになるだけの勉強をするつもりなら、公認会計士2次試験は現役合格します。一日10時間前後勉強すれば基礎学力がキチンとあれば合格します。

同じ根室出身のN先輩の友人のK本さんは、3年でただ一人の現役合格者でした。大手監査法人の京都の責任者をしていましたが、まだやっておられるかどうか。この人は会計学方面にかけてはわたしよりも能力が高い、脱帽です。普通科卒業で1年生の11月に日本商工会議所簿記検定1級に合格しています。半年で商工会議所簿記検定1級合格はほんとうにすごいのです。記述式の問題が半分出題されます。
公認会計士受験の年の4月には布団を実家に送り返して勉強しています。畳の上で仮眠する以外は勉強時間に充てていました。受験科目を勉強するのに覚悟が違うんです。凄いやつがいるものだと驚きました。
公認会計士2次試験科目(簿記論、会計学、原価計算、監査論、経営学、経済学、商法)に、そんなに入れ込むだけの動機がわたしにはありませんでした。
経済学を勉強し始めたとたんに、受験勉強の底の浅さに気がついてしまいました。受験勉強が性に合わなかったのでしょうね、枠を外した勉強が始まってしまい、どうにもとめられません、1年生のときから哲学と経済学の本を読み漁って「経済学体系とは何か」と問い続けていました。いくぶん学者向きにできていたのでしょう。

大学2年のときに学部を超えた一般教養ゼミ(市倉宏祐教授、哲学)に入れてもらいました。なぜか商学部の人間が多かった。『資本論』(3巻5冊)と『経済学学批判要綱』(5分冊)を読みました。(市倉ゼミの本ゼミ(哲学)のI君はいま哲学科の教授です)
経済学の体系とは何なのか、それまでの研究に違和感があり、その正体を突き止めたかったのです。高校2年のときに『資本論』を読んで抱いた疑問が膨らんでいました。そしてその輪郭が見え始めていました。それまでの学説の理解とはまったく異なる地平に立っていたのです。

結論です。公認会計士2次試験は不合格、受験していません。

中学生のときに、商業科へ進み、公認会計士の勉強をして、金融機関に就職し、2次試験を受験するという計画を立てました。しかし高校3年生の12月になって経済的に大学進学が可能になってしまったのです。
人生とはわからないものです。考えてもいないことが起きます。

大学生になり、たまたま興味をもったゼミの市倉先生が哲学者として一流だった。大学院では元一ツ橋大学長の増田四郎先生に院生3人でゼミ形式での授業をお願いしてかなってしまった。偶然が続くんです、そして歩くべき道が自然にできてしまう。そこを歩いてきただけ。

母校の専修大学大学院に「進学できなかったわけ」も書きます。
大学院入試には4年生の秋に学内試験がありました。その試験ではトップでした。たまたま理論経済学で指導教授であったH教授のゼミ生が受験していました。わたしは商学部会計学科の学生です。なんで商学部会計学科の学生が理論経済学で大学院を受験するんだ?専門分野の間違いだろうくらいに考えられたのでしょう。経済学については素人、そう判断したのも無理はなかったかもしれませんね。30人ほど教授がUの字型に並び口頭試問がありました。
ずっと上座にいるH教授が「君は経済学を知らん」というので、出身学部学科ではなく
「答案を見ておっしゃっているのでしょうから、どこか具体的にご指摘ください」
というと
「貨幣としての貨幣の規定とは何だね?」
と薄笑い。他の教授の何人かの笑い声が聞こえました。
当時は、商学研究科は独立してなくて、経済学研究科のなかに間借りしていました。経済学の教授たちは会計学は学問として認めていなかったのでしょう。その会計学科の学生の答案ですから、経済学を知らないという思い込みをしてしまったようです。

「『経済学批判要綱』第1分冊、貨幣の第三規定にあります」

と、簡単に告げました。その瞬間、座はシーンとなりました。見る見るうちに、H教授の顔が真っ赤になっていくのが見えました。大恥をかかせてしまったのです。

『経済学批判要綱』は当時は経済学の先端分野の研究対象の本、しかも最重要のテクストでしたが、H教授は不勉強だった、研究していなかったのでしょう、理論経済学を担当していながらです。まことに情けないことでした。同じ席にいた30人の教授にばれてしまった。商学部会計学科の一学生に理論経済学の核心分野の貨幣論で己の無理解をさらけ出し完敗したのです。恥をかかせるつもりはなかったのですが、真摯に問い、真摯に答えたらそうなってしまった。これも天の配慮だったのでしょう。しかたありません。

大学院へ進学していた同じゼミの先輩(現青森大学経営学部長)から「君の後輩は苦手だよとHさんが言っている」と言われました。学内試験は合格者ナシでした。
口頭試問のあった日に大学院長の内田義彦教授(経済学説氏では日本では三本指に入る著名な学者)から市倉先生に異例の電話がありました。内田教授はわたしに期待を寄せてくれていたようです。市倉先生が喜んで話してくれました。
専修大学では将来を嘱望されたそこそこ優秀な学生だったのです。(笑)

2月の入試も大学院経済学研究科は合格者なしでした。百パーセント合格できると思っていました。トップの私を拒絶したら、2番目はとれない。それで合格者なし?
しかたなく、経理関係の専門知識があったので、就職し、3年後に遣り残したテーマに片を付けたくて、母校を再度受験しましたがまた「合格者なし」でした。もちろん、成績はわたしがトップだったでしょう。
他に2校受験しましたが、どちらもトップ合格でしたから。

受験偏差値なんて、受験科目に関する学力を現すだけですから、そこからはみ出している部分を測定できるわけがありません。

だから、リクルート社SPI試験も頭の柔軟性は測定できますが、仕事の能力全般を適切に反映するものではないのです。
偏差値が高くても(低くても)、中身がしっかりしていれば、つまり基礎学力が高ければ、どうってことはないのです。

いままで仕事で、この人となかなかできると感じたのは、SRLの創業社長とその後を引き継いだK藤社長、そして東和フードサービスのK野社長、そして輸入商社のナンバーワン営業のE藤さんの3人だけです。
東大、一ツ橋、京大、いろんな大学出身者と仕事しましたが、こいつは凄いと思う人はなかなかいないものです。

当時の東経大の入試難易度について書いておきます。
ほぼ慶応大学大学院経済学研究科と一緒です。基準に達する応募者がいないという理由で、開設後十年間合格者なし、院生がいませんでした。それで文部省からクレームがありました。開設を許可したのにどういうことだと。その後方針を転換しました、いまは入りやすいでしょう。私の学位番号は5番です。
増田四郎先生の授業を受けた3人の内、一人は千葉経済大学の経済学部長をしていました。S木さんです。かれは、慶応大学大学院へも合格していましたが、母校を選択しました。
1学年下の後輩は母校の流通経済大学の教授をしているようです。

わたしがなぜ大学に残る道を選ばなかったのかは、弊ブログのどこかに書いています。

質問にない余計なことまで書いてしまったようです。(笑)


by ebisu (2015-05-15 15:48) 

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