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#3042 コミュニケーション能力とは何か(2) :<事例-2>  May 12, 2015 [A.6 仕事]

 □更新情報 5/12 11:35更新 追記アリ
 □5/12 15:30 「余談」を追記
 □5/13 10:50 エピソード二つ追記
 □5/13 23:00 追記
 □5/14 0:10 余談へ検査試薬輸入ルート追記


 少し限定して論じたい。民間企業で必要とされるコミュニケーション能力とは何かというように。

 便宜上、コミュニケーション能力を二つに分割して考える。一つは、上司の言うことには異論を唱えないとか、出世がしたいので上手にゴマをするとかという類のコミュニケーション能力で、これをAタイプと定義する。
 専門知識をベースとして問題解決に役立つコミュニケーション能力をBタイプとしよう。どちらも必要な能力だろうが、社員が全員前者のようなコミュニケーション能力しかなければ、その企業はすぐに消えてなくなる。企業体質を強化し対外的競争力を高めるには後者のコミュニケーション能力を持った社員が3%もいれば十分である。

 1984年春のある日のことである。臨床検査会社に東証Ⅱ部上場準備要員(統合システム・財務及び支払管理システム開発要員)として中途採用された入社3ヶ月目の社員Aがいたとしよう。その臨床検査会社は親会社であるFR社という製薬メーカの子会社TFB社経由で新規開発項目のCA19-9用のという検査試薬材料を輸入してた。大型の新規開発項目で、この腫瘍マーカは31年後の現在でも使われている。この臨床検査会社は証Ⅱ部へ上場するので、関係会社との取引に公正なルールを設定しないと、利益移転の疑いがかかるのでどこからもケチのつかない客観的な方法で取引をしたい。こういうルートになっていた。
 海外メーカ ⇒ TFB ⇒ 日本RI協会 ⇒ SRL
 放射性ヨードで標識するので、TFBが輸入した検査試薬材料を日本ラジオアイソトープ協会で放射性ヨードで標識して臨床検査センターのSRLが購入する。TFBが輸入する検査試薬材料の$価格にいくらの換算レートを適用するか、ルールを決めるということ。恣意性が入ってはいけない。

 TFB社取締役と、臨床検査最大手のSRL社購買課長、経理課長が3ヶ月間打ち合わせを重ねるが、具体案が作れない。上場準備を担当している証券会社からはさっさと具体案をつくらなければ間に合わぬと矢のような催促。困った経理部長は、中途採用したばかりのAに三人の話を聞いて何とかしろと指示。
 Aは会議の席上で関係者から話を一通り聞いた。そしておもむろに「来週の会議には実務フロー及び必要な帳票の具体案を提示します」と宣言しミーティングを終了させた。30分と掛かっていない。関係者は顔を見合わせて目をぱちくりしている。
 翌週の会議には約束どおり、産能大方式での輸入業務に関する事務フロー・チャートと輸入業務に関する帳票、仕切り価格に適用する換算円ドルレートに関するメモとTFB側の取り分に関するメモが提出された。
 適用する円ドル換算レートは、市場終値の月平均値を用いることに決定。各部門の担当者を決め、来月から提案された帳票を使って実務を開始することも決定。そして取引基本契約書を作成し取り交わすことも決めた。今度も会議は30分で終了した。
 実務はこの日の提案通りになされ、爾後トラブルはない。この案件に関する上場要件もクリアした。

 輸入業務や実務設計の専門知識がないと、何人集まって何度会議を開いてもまともな実務具体案はできぬもの。検査試薬の輸入に関わる関係者が集まって具体案を作るためには、必要な専門知識と経験が不可欠となる。
 日本語がうまく話せますとか、波風立てないように口を慎みますとか、上手にゴマをすれますという類のAタイプのコミュニケーション能力は、企業では新たな価値を何も生み出さない。不生産的コミュニケーション能力である。

 このことからわかるのは、仕事で必要とされるコミュニケーション能力とは、複数の分野の専門知識と経験がベースになったものだということ

 設計された帳票は、コンピュータシステムに載るように設計してあった。上場準備で購買在庫管理システムを開発中だったから、それに載せることも考慮してあったのである。Aは入社3ヶ月だが、「財務及び支払い管理システム」開発責任者だから、「財務会計および支払管理システムにもつなぐことを考えて実務設計や帳票設計をしていた。さらに半年後には全社予算編成を任され統括管理することになった。実質的な「財務大臣」である。SRLというのは面白い会社だった。社歴数ヶ月の30歳代の男に、いきなりいろんなことを任せられる会社だった。

 試薬輸入業務設計に必要な専門知識は、輸入実務に関する知識、外国為替管理に関する知識、実務設計に関わる知識、経理知識、コンピュータシステム開発の5つである。そしてこれらの5分野の専門知識を一人の人格に統合するためには、これらの分野の専門書を読み、理解する基礎的学力が要求される。
 ようするに、基礎的学力が高いことが、必要な複数分野の専門書を読み、問題を解決し、生産的なコミュニケーションをするための基礎的条件である

 1984年の実際の事例を再現。 



<余談:腫瘍マーカCA19-9 創業社長F田さんそしてあとを継いだK藤さん>
 O田医院へ行って来た。前回が昨年6月だったので、まもなく1年近くになる。呼吸が苦しくないのでついつい足が遠のいていた。体内のビタミンB12が枯渇するころなので、静注しないと危ない、悪性貧血になってからではまずいので、こんなに期間をあけてはいけませんと叱られた。行こう行こうと思いながら、延び延びにしてしまった、反省。
 ところで、今回は身体の状態を見るために血液検査もしてもらうのだが、一般検査項目の他に腫瘍マーカが3つあり、その中に1984年に輸入実務をデザインしたCA19-9も含まれていた。この検査項目は寿命が長い。「1年ぶりですから腫瘍マーカも入れておきます」と主治医。同じ行に並んで、CEAとSCCがあった。CEAも腫瘍マーカだからSCCもそうなのだろう。SCCという検査項目は知らないのでネットで調べたら、扁平上皮癌のマーカで、食道癌を引っ掛けることができる。婦人科系の扁平上皮癌もわかるようだ。
 HbA1cも懐かしい項目だ。1ヶ月くらいの血糖値を図る。SRL八王子ラボの臨床科学2課の一室には、1986年ころ30台ほどグリコHbA1cの測定器が並び、24時間機械が動き続けていた。担当者の顔まで思い出した。彼もそろそろ定年だろう。2課の課長だった沖縄出身のS袋さんとは、10年ほどあとで、練馬の子会社で一緒に仕事をした。彼はラボ部門の責任者、私は管理部門の責任者だった。下地作りが終わりこれから考えていたことが実行できるところで、帝人との治験合弁会社の立ち上げが暗礁に乗り上げ、本社社長から呼び戻され、そちらを担当することになった。それはそれで大変面白い仕事だった。赤字の部門を出し合って、会社を作り、3年間で黒字にしろという指示だった。他に2つ実に明解な指示があった。相手側から株を引き取り合弁の解消(完全子会社化)と帝人の臨床検査会社買収・子会社化だった。どういうわけか三つとも期限内にやり終えた、スタッフがよかったからだろう。同期中途入社のH本さん(原価計算システム担当:現在新規上場会社の監査役)は、「ebisuさんのことだから、3年なんてかけないでしょう」と合弁会社への出向が決まったときに、笑いながら言った。福島県郡山市の臨床検査会社への資本参加交渉と、創業社長とY口副社長がボツにした劇的経営改善案のことを、わたしと入れ替わりに出向したから誰かから聞いたのかもしれない。売上高経常利益率が20%になる具体案だったから、事前にアナウンスしてあったのに、お二人は「聞いていない」とおっしゃった。染色体検査事業に関わる改善案だった。仙台にある遺伝子研究所の現場を見て管理者の説明を聞き、ポイントになるところを確認した。前処理の培養技術と人的生産性にかなりの差があった。ニコンの子会社とSRL染色体検査課の染色体画像解析装置の開発中止とIRS社(英国)染色体画像解析装置導入に購買課の機器担当として関わっていたから染色体検査についてはよく知っていたのである。入社当時は経理部所属、そして統合システム開発と全社予算の統括を担当していたから、創業社長もF銀行出身のY副社長もわたしが一部の検査技術に詳しいことをご存じなかったのだろう。関係会社管理部で資本提携交渉を担当してそのまま出向、そして1年間でそういう具体的な経営改善案ができるとは思うはずがない、それが普通の思考だ。直接話を聞いたときにもできっこないからやらせておけと考えたのだろうが、相手が悪かった。「聞いていない」と二人で口裏を合わせて言うので、理由が飲み込めた。その案を実行したら、郡山の会社の社長を本社役員にしなければならなくなる、それを嫌ったのである。赤字の関係会社が子会社、関連会社でダントツに利益率の高い会社に化けてしまう。面白いものだ、仕事をしすぎてはいけない。「わかりました」とあっさり引き下がったら、二人でびっくりして顔を見合わせていた。わたしが引き下がるはずがないと身構えていたのだろう。この二人には何度も直接報告を入れていた。ことが重要なので、直接会うか電話でSRL郡山営業所から電話で報告していたのである。お二人の真意が即座に飲み込めたので聞きたくもなかった。郡山の会社の社長はSRLのカラーにそぐわないことは、私も承知していた。小さくない波乱を必ず生じる。創業社長と副社長の判断は当然のことでもあった。わたしが創業社長でも同じような判断を下しただろう。F田社長はその後この会社のことでJAFCO本社と交渉をしたのだが、私を本社社長室に呼び、社長室内ではなく、みんなの見えるテーブルで二人だけで小一時間も話をした上で、わたし一人を同道した。テーブル席での話は3分、JAFCOと激しいやり取りをすると主張した。あるルートから情報が筒抜けになるのでやめるようにと私の案を話したが、聞き入れてくれない。本筋の話はたった3分、その後50分ほども小声で雑談だけ(F田さんがみんなの見えるテーブルで小一時間も社員と打ち合わせをしたことがなかったので、あとから何を話していたのかあちこちから訊かれた)。F田さんは役者である、この人俳優になってもそれなりに大成した人だと思えた。浜松町駅で電車を降り、JAFCO本社へ歩いていく途中で、「どうしたらいいですか?」と唐突にebisuに問う。再度「情報が漏れますので、わたしの案どおりに穏やかにやってください」そう告げると、「そうしましょうか」とあっさり受け入れてくれた。最初からわたしの案を呑むつもりだったのである。交渉は見事だった。なにしろ二つの会社を東証一部上場した社長は、F田さんだけ。言葉少なにゆっくり話して、間をおく、その間のおき方が凄い。向こうも役員が対応しているのだが、空気が張り詰め、圧力が増す。次の言葉を固唾を呑んでまっている。名優の芝居を隣でみているようだった。きちんと報告していたのに、「聞いていない」ととぼけて経営改善案を拒絶したことに対するお返しだったのだろう。だからわたしの案を丸呑みしてにっこり笑って見せ、交渉ごとはこうやるものだと、問わず語りにわたしに教えてくれたのだ、腹芸である。F田創業社長は、交渉ごとに関するコミュニケーション能力がとても高い方だった。
 交渉が終わって、JAFCOの役員が私に問う、「お車はどちらに?正面玄関へ回すように手配しますので」。「電車で来ましたので電車で帰ります」というと、一部上場会社の社長なのだから電車は拙いですと向こうが慌てていた。F田社長は面白い人で、あるときA専務が羽田に迎えに行った、タクシーで社長を送りつつ仕事の報告をしようとしたら、「社員が電車で移動しているのだからわたしもタクシーは使いません」と怒ってさっさとモノレールに乗ったとか。朝も8時前に会社に来て8時過ぎには営業所や客先訪問に外出する。日直よりも先に来て鍵を開け、日直が来ると「おはよう、出かけます」と一言告げて出かけてしまう。
(入社2年目のときに、F田社長は200億円の臨床診断システム開発提案の稟議書に資料を見ただけでOKをだしてくれた。お陰ですぐにNTTデータ通信事業本部などと予備調査を開始できた。1985年だったから、通信回線やパソコンの処理速度が当分の間追いつかないことが判明し、棚上げした。画像解析データの転送がどうしても必要だったが、3000万円クラスのミニコンでも処理速度が不足していたし、光回線がまだなかったから転送速度もとても無理だった。10年後におおかたが解消できるとは予想できなかった。コンピュータの処理速度と回線の性能向上はこの40年間つねにわたしの予測を超えていた。)

 歴代の役員の中では、そういうことがやれるのは日本生命から出向してきたT内常務だけだっただろう。この人は一橋大学出で、能の名手である。人間国宝級をずらりと並べた舞台で仕手をつとめるのを一度だけ見た。製薬メーカとの価格交渉のときにタッグを組んだことがあり、隣の席で彼の交渉を見させてもらった。力量を見たくて、事前打ち合わせだけして、一切口を出さずにみていた。交渉を終わった後で「どうだった?」と訊かれて、「舞台の呼吸そのものでしたよ」と応じると、満足そうな笑みを浮かべ頷いた。間のおき方と声の出し方が独特で巧かったのである。
 この人は余計な仕事をしなかった、超然としていたと言ってよいだろう。要所要所で、資金をニッセイへ流す役割だけはしっかり果たした。一ツ橋にはなかなか個性的な人物がいる。知っている4人の内ではこの人が最高だった。一人は人格と仕事の両方でまるでダメだった。もう二人はコメントする必要がない。

 創業社長のF田さんからバトンを渡されたK大医学部出身のK藤社長、この人は論理的で裏表のないいい人だった。お坊ちゃんの育ちのよさがそのまま出ていた。この人への報告はほとんどが文書である。20本くらい進捗状況を報告したのではなかったか。e-mailは使わなかった。社内のシステム部門で管理権限のある人間数人が閲覧していることを知っていたからである。
 重要なことはすべて紙の文書で報告した理由は、前回の郡山の会社の件での失敗に懲りていたからでもあった。K藤さんは三つの課題の進捗状況をモニターして、要所要所で本社担当役員を動かし、バックアップしてくれた。だから三課題とも期限内完了できた。K藤社長へは主として文書でのコミュニケーションで、大事な局面ではお会いして報告した。だから、文書作成能力がコミュニケーションの基礎をなしていたと言いうる。このあたりのコミュニケーション能力は、もう複数の専門知識のレベルではない。それを超えている。お互いの気心や本音を知るために何度か「ノミュニケーション」のお誘いも何度かあった。
 百年を超える歴史のある一部上場企業との合弁事業はSRLとしては初ケースだった。自分の会社の力量がどれほどのものかを測るには、格上の会社の胸を借りるのもよい。帝人は紳士的な会社であるというのが私の印象である。常務のI川さん、専務のMさんとは経営方針の説明で何度かお会いした。洗練された感じを受けた。帝人本社エリートは東大や一ツ橋が多く、早慶だとかなり肩身が狭いのが実情である。
 K藤社長と仕事を支えてくれたスタッフ、満足のいく仕事だった。課題を三つとも期限内に終えたらある種の「卒業」という気分になっていた。K藤さん、とてもいいタイミングで使ってくれた、ありがとう。


*#3041 コミュニケーション能力とは何か?(1) May 10, 2015 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2015-05-10

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