#1352 『道徳感情論』 Jan. 25, 2011 [82.言葉のアンテナ]
別宮貞徳『裏返し文章講座 翻訳から考える日本語の品格』という本を読んだ。この人の本は二十数年前に1冊読んだ気がするのだが、書棚に見つからない。『誤訳悪訳の病理』という書名だと思っていたら、これは別人の本だ。なんだったのだろう、とにかくこういう翻訳の批評家がいることは知っていた。
別宮氏はこの本の中で水田洋が訳した『国富論』と『道徳感情論』を俎上に上げている。要するに訳文が日本語になっていないということ。
私の手元に『道徳感情論』A.スミス著・水田洋訳(1973年筑摩書房)があるので、論より証拠、冒頭部分を引いてみよう。
「第一部 行為の適宜性について
第一篇 同感について
人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、あきらかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びとの運不運に関心をもたせ、かれらの幸福を、それを見る喜びのほかにはなにも、かれはそれから引き出さないのに、かれにとって必要なものたらしめるのである。この種類に属するのは、哀れみまたは同情であって、それはわれわれが、他の人びとの悲惨を見るか、たいへんいきいきとしたやり方でそれを考えさせられるかするときに、それに対して感じる情動である。・・・」(『道徳感情論』)
非常に読みにくい文章であることは言うまでもなく、読み返してもよくわからない。
私は1977年ころ、いまはある経済大学の経済学部長をしている友人から薦められて(かれは原著を読んでいた)読もうとしたのだが、はじめの数十ページで辟易して読むのをやめた。原著を読むしかないと思い新宿・紀伊国屋書店(旧店舗)に行ったが、原著は当時5000円ほどした。わたしの研究テーマからずれていたので他の本を買い、結局この本を買いそびれてしまった。
A.スミスの『諸国民の富』は論文を書く都合で、原書と見比べながら抜き読みしたし、リカードの『経済学及び課税の原理』はレポートを書く必要があって翻訳書と原書の両方を読んだ。
何がいいたいのかというと、周辺知識がある私でも水田洋氏の訳は読みにくくて閉口したのである。何度も読み返しながら読み進むうちにバカバカしくなってしまった。逐語訳が丸見えで、翻訳とはいえないレベル。翻訳の質が悪いことに見切りをつけて原著を読もうかと考えたという次第である。
今回、別宮貞徳氏の著書を読んでかれの言うとおりだと思う。水田氏はどうしてこれほどひどい翻訳をやってしまったのか、私は理解に苦しむ。必要があって『道徳感情論』を読みたいと思ってもこれでは原著を当たるしかないから、その迷惑は計り知れない。さっさと覚悟を決めて原著を読めということだ。
翻訳でなければ水田洋の日本語はよく理解できるものである。この書のあとがき「解説」の文章を引用してみよう。
「いまでこそアダム・スミスといえば、まず『国富論』が思いうかべられるが、かれが学者としての名声を確立したのは、三十五歳のときに出版された『道徳感情論』によってであった。その名声が、かれにバックルー公家庭教師の地位をあたえ、その地位がイギリスの政界との接触をもたらし、その接触がかれの社会的関心をかきたて、『国富論』をかく動機をうみだした、といってもまちがいではない。しかし、それだけでは、『道徳感情論』の近代思想史上の位置も、スミスの指導的発展にとっても意味も、あきらかになったとはいえない。たとえば『道徳感情論』が、『国富論』における利己心の強調と対立するかどうかという、有名な論争を、どう考えればいいのであろうか。」(同書531ページ)
このように水田洋氏の文章は分かりやすいのだが、翻訳になるとまるでわけの分からない日本語になるのはなぜなのだろう。英語の単語を日本語に置き換えただけにしか見えない。逐語訳を出版するとはなんとも大胆な人ではある。
別宮氏は次のように締めくくっている。
「論理性に欠けた文章をぼくがまずあげるとすれば、有名なものとしては水田洋訳の『道徳感情論』や『国富論』当たりになりそうですね。」(『裏返し文章講座』50ページ)
裏返し文章講座―翻訳から考える日本語の品格 (ちくま学芸文庫)
- 作者: 別宮 貞徳
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/07/08
- メディア: 文庫
* 検索していたら誤訳研究の面白いサイトを見つけた。杉田光雄、サン・フレアアカデミー副学院長という肩書きがついている。元IBMのSEだ。20回のシリーズで具体的な誤訳研究論文をネット上で公表している。私は4つだけ画面上で読んだが、これからダウンロードして印刷し、20回全文を読むつもりだ。労作である。
「日米誤訳研究」
http://blog.sunflare.info/sugita_m/
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