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#853 日本語のルーツは韓の国、百済にあり?  Jan.3, 2010 [44. 本を読む]

 物部氏の滅亡の経緯、聖徳太子や蘇我入鹿、藤原氏の始祖である中臣鎌足の出自と藤原という氏の謎、聖徳太子の側近だった秦氏に関する謎、天智天皇と弟の天武天皇の年齢に関する謎など、この時代には天皇家を中心とした謎が多い。何か重大なことが隠されているという漠然とした疑問を抱き、いろいろな假説に基づく歴史小説を読んでみたが、どれも的を外しているような感があった。

 日本語はどこから来たのか?タミール語からというのが言語学者の大野晋だ。韓国人の金容雲という人が『日本語の正体』(2009年8月初版)を著した。
 1927年生まれ、ソウルの檀国大学特別教授で数学者、日韓比較文化論の専門家と奥付にある。韓国語ではなく、日本語で書かれた本である。戦時中に日本語で教育を受けた世代だ。
 著者は謎の多い時代にスポットを当てて、ひとつの有力な仮説と言語学上の数々の「証拠」を並べて日本語のルーツを明らかにしてみせる。
 年の初めに日本語のルーツに思いをはせてみよう。

 飛鳥・天平の頃は都の人口の80%が百済人だったという。著者は数字の根拠を次のように説明している。

 「日本の飛鳥王朝と百済王家は親戚関係(実際は百済の分国)にあり、応神天皇以来天武の代までの約260年間、百済王子と百済学者が天皇の側近にいたのです。つまり、宮中では百済語が使われていました。宮中語が百済語であると主張するのは、次のような根拠があるからです。722年に書かれた文献では高市群(飛鳥文化発祥地)の人口のうちで80~90%が百済人であるという記録があります。彼らはヤマトの基盤でした。その時代の金石文は、すべて吏読で書かれており、712年に完成した『古事記』は百済系の学者により漢字を使い百済式吏読と百済語で書かれたのです。」132頁

 奈良というのは韓国語では「国」を表す一般名詞だそうで、ルーツは新羅語だという。それが日本で固有名詞化した。「クニ」というのは百済語だそうだ。

  邪馬壹国の「壹」は壹与をトヨと読むように、「やまと(の)くに」と読むべきだというのは、他の本でも見たことがある。歴史学者はいつまで「やまたいこく」と誤読を続けているのだろう?
 使者が「ヤマトノクニ」と言ったのを中国側が「邪馬壹国」と実に野蛮なそして卑下した漢字で表記した。邪悪の邪に馬である。
 自分のところが「中つ国」で周辺は野蛮国だというのが中国の発想の基本である。東夷、西戎、南蛮、北狄という言葉が中国の奢りをよく表している。日本は東夷である。夷はエビスである。

 百済は「分国」である日本に人材を供給しすぎたために、本国に人材が枯渇し、それがゆえに滅びたという説があるらしい。牽強付会の説の勘があるが妙な説得力もある。なにやら、戦後六十数年にわたり都市へ人材が流出し続けて、最近疲弊の激しい地方に似ているからだ。わがふるさと根室もそうした地方のひとつであり、いま人材が枯渇している。

 東言葉には新羅語が、京言葉や関西弁に百済語の影響が強いという。日韓語で数詞が共通していることを日韓語のルーツが同じであるとの証拠のひとつに挙げている。「ひふみよいむなやこともちろ(一ニ三四五六七八九十百千万)」というのは『ほつまのつたえ』にもあるが、百済語がルーツであるらしい。

 膠着語として日本語と韓国語は同類に分類されており、動詞が最後に来る文構造は日韓語で共通である。音韻体系のみ変化したと著者は書いている。韓国側が中国に合わせるために、固有名詞すら漢音に書き改め、科挙制度も取り入れて、全面的に唐音を取り入れ、音韻体系が変わってしまった。中国と陸続きという地政学的事情で変わらざるを得なかったという。だから、古い百済語が音韻体系もそのままに日本に残ったという。
  統一新羅が国策として唐音を導入し、音韻体系が激変したのに対し、日本語は古い百済の音韻体系を維持した。音韻体系上はまったく異なる言語に分かれたが、文法構造は現代日本語と韓国語でまったく共通している。文法構造の同じ言語は、同一のルーツを持つというのがこの著者の結論である。

 「日本人の最大の発明は漢文を日本語で読む訓読体であろうと思います。その訓読体の発明により漢文で表せない微妙な心の中を自由に日本語で書けるようになったのです。それが平安朝のかな文学を可能にしたのです。」
 
 なるほど、中国の古典に恋愛文学がなく、世界最古の恋愛文学が源氏物語である理由は言語学的理由があったのか。なるほどなるほど。
 新羅とヤマトの間に通訳が必要になったのは白村江の戦いから50年後、8世紀中盤の頃のことだという。それまでは通訳なしに話しができた。白村江の戦いに破れ、百済が滅亡すると、大挙して百済人が日本へ帰化してくるが、日本側はそれを受け入れている。7世紀までは
「朝鮮半島の言葉と日本の言葉には大きな違いがなく、文字(吏読と万葉仮名)も共有していました」
というのが、著者の主張である。

 飛鳥・天平時代に多くの文化人や技術者が韓(カラ)の国から都に移り住み、天皇や皇太子の教育係になったことは史実であり、言葉がそのまま通じたという推測もなりたつ。とくに来てすぐに高い官位で迎えられた人が多いことも、言語が共通であればよくわかる。
 薩摩語と韓国語がよく似ていることも著者は傍証のひとつに挙げている。

 それにしても、皇国史観が盛んな明治以降はこういう研究は公表できなかったのではないだろうか。
「10世紀に編纂された『延喜式』によれば宮中には三柱の韓神(カラカミ:二柱は百済系、一柱は新羅系)が祀られています。まず、祝詞「のりと」と言う言葉はカラ語であり、韓神にたいするのりとの内容も当然、韓(カラ)の神が聞き取れる言葉であったはずでしょう。」124頁

 つまり、著者は天皇家のルーツを百済系王族だと主張している。これは皇国史観とは相容れないだろうが、言語学的な傍証からも有力な假説である。

 「応神14(403年)、百済系の弓月君(融通王)が120県の民を率いて百済から、また応神20(409)年には阿知使主(あちのおみ)が17県の民と共に倭に来ます。前者は秦氏の始祖とされています。これはまったくのエクソドス(大脱出)です。・・・1県を千人としても15万に近い数となります。・・・百済王家と応神王朝の間に深い絆がなければ考えられないことです。」109、110頁

 著者はノルマンコンクェストとも比較している。フランスのノルマンジーからイギリスに渡って王朝を築き300年にわたってイギリス貴族はフランス語を話していたが、結局英語に吸収されてしまった。

 わたしは1万年のスパンをもつ縄文文化が日本の伝統文化の基底に脈々と流れているような気がしてならない。中国からの漢字も仏教も、韓の国の文化や言語も、米国流の民主主義や経済も、すべてを溶かしこみ滔々と流れる日本文化の底流があるのではないだろうか。

【2011年12月29日追記】
 いまひとつ、まったく逆の假説が成り立つ余地を指摘しておきたい日本が本家で百済が分家という位置づけであるだから百済人は日本古語を話していた。、帰化人が言葉で不自由をしたという記録が残っていないのはそういう事情が背景にあるからだと考えれば納得がいく。朝鮮半島でも日本語を話していたのである。朝鮮半島は朝鮮人と中国人と日本人がそれぞれ地域的に固まって住んでいたのではないだろうか。
 前方後円墳という"証拠"もある。韓国のものに比して日本の方が2世紀も古く、規模は断然大きい。仁徳天皇陵はギザのピラミッドをしのぐスケールだ。工事にかかる人数を考えてもその王権の強大さが想像できるだろう。 

 #1038 米軍が極東根室を守るために花咲港へ続々上陸 May 23, 2010 
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 #1153 『日韓がタブーにする半島の歴史』を読んで Aug. 9, 2010 
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 #1353 日本チーム決勝進出:延長そしてPK戦、日本対韓国 Jan. 26, 2011
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 #1375 戦時中、もう一つのベトナムと根室 Feb. 7, 2011 
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