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根室・弁天島遺跡発掘から130年(北海道新聞)オホーツク文化解く鍵 [21. 北方領土]

  2,008年6月17日   ebisu-blog#205 
  総閲覧数: 16,968/204 days (6月17日12時00分) 

 6月17日北海道新聞朝刊23面より

 根室弁天島遺跡発掘から130年
  オホーツク文化解く鍵
  ▲地元考古学者・北構保男さん
  ▲北大名誉教授・菊池俊彦さん

【根室】「オホーツク文化研究の原点」と言われる根室市の弁天島遺跡が今年、最初の発掘から130年を迎えた。戦前、北千島で発掘調査の経験がある地元の考古学者、北構保男さん(89)=根室印刷社長=と、サハリンや大陸の古代史にも詳しい北大名誉教授、菊池俊彦さん(65)に、これまでの研究について話し合ってもらった。(幸坂浩)

 弁天島は、根室港に浮かぶ小島。大塚貝塚(東京)で国内初の考古学的な発掘が行われた翌年の1878年(明治11年)、火山地質学者で「お雇い外国人」の英国人ジョン・ミルンが千島調査の途中、調査した。
 その後も弁天島を訪れる学者が多く、北構さんは「日本の考古学の黎明期に弁天島が研究活動の糸口になった」と指摘した。
 サハリン・北海道・千島列島に広がったオホーツク文化の成り立ちに関連して、菊池さんが「サハリン南部が起源で、北魏(中国・南北朝時代)の成立が関係している」と話すと、北構さんは「弁天島でも出土している牙製婦人像は、仏教の影響を受けた可能性がある」との見方を示した。
 今後の研究について、北構え産は「千島は北大西洋と北東アジアの文化のクロスワード。分からないことはまだ多い」と強調。菊池さんは博物館交流から始め、将来は日ロ共同調査を」と提唱した。
 対談の内容は夕刊文化面で、17日から3回掲載します。

 地元考古学者として印刷会社現役社長でもある北構さんは、終戦後印刷会社を始めてから、ずっと二足の草鞋をはいてきた。最初は新聞社をつくるつもりだったが、周囲に説得されて印刷会社を興したらしい。以来、社長業と考古学研究を営々と続けてこられ、還暦を前にして学位取得を目指し、それまでの学術研究を博士論文にまとめ、國學院大學での論文審査を経て69歳で学位を手にされた。郷土の尊敬すべき先輩の一人である。
 町議や市議をしていて3足の草鞋をはいていた時代もあるのに、政治の世界から身を引き、なぜ学問の世界に戻ることを決意したのかお聞きしたことがある。
 じつは市長選に立たれたことが一度だけある。肩書きで人間をみることをせず、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりしりた物言いが当時の根室の気風には合わなかったのだろう。だからこそ根室市長をやって古い根室をいったん壊して欲しかった。現在の根室の姿が相当に違っていただろうと思うと、まことに残念である。郷土を愛する心が深ければ絶望もまた深かったのだろうと想像する。以来、印刷会社の経営と研究生活に専念することになった。近所でもあり、オヤジ(故人)を介してお会いしたのはそれから数年後のことだった。
 あれから36年か、時のたつのがあまりにも速い。オヤジは北構さんの人柄を褒めていた。何度か話を聞きいている。器の大きな人である。落下傘部隊の生き残りで政治にはトンと興味を示さなかったオヤジだが、北構さんが選挙に出る都度、「北構保男」と投票用紙に書いていた。
 肩書きで人を判断せず、誰とでも親しく話しをし、話しても無駄だと知れば敬して遠ざかる。自分の時間を大切にし、おきな声で人目をはばからずものを言い、豪放な性格の人である。すでに故人であるが、「北国賛歌」の作詞者、歯科医の田塚源太郎先生と同期(根室商業)で仲が良かった。田塚先生は国後島が故郷である。北構先生同様に背の高い、人情に篤い人だった。子供の頃、可愛がってもらった。
 北構先生はご高齢であるので、先生の研究を受け継ぐ者が現れて欲しい。

 2500年前に根室はオホーツク文化圏に属し、独自の文化をもつオホーツク人が居住していた。考古学から郷土の古代史を知り、それと対比しながら現代史に属する北方領土問題を捉えることも大事な歴史的視点である。
 北方領土問題については千島館長の吉岡さん(光洋中学校長定年後千島会館館長、2年先輩)が根室市内の小中学校の新任の先生を対象に講義をしたことが最近新聞に載った。学術研究面がないがしろにされてきたことが北方領土返還運動の弱点のひとつになっている。郷土史についてもっと、専門的で学術的な運動や広がりがあってよい。故人だが、根室高校教諭だった山田先生がクラブ活動の指導を通じて資料収集をされていた。十数年前にご自宅で見せてもらった資料は残っているだろうか。当時の根室高校の先生で、根室出身ではないのに定年後も根室にお住まいの先生は、郷土史家の山田先生と柏原栄先生のお二人である。柏原先生は西浜町にお住まいで、町会長をやられている。柏原先生には中学時代に日本史を習った。黒板に書く字の大きさが実に変幻自在で、授業が終わる頃には隅までびっしり字が埋まっている。お元気で何よりである。山田先生と共に生徒会を担当されていた時期があったような気がする。山田先生と谷口先生だったかもしれない。1年ずれて両方だったか、記憶がはっきりしない。僻地の根室に来られて、最初の内は都会の高校へ行きたいと思っていたかもしれないが、わたしたちが教わった頃は根室をこよなく好きになっていたように見えた。山田先生は根室に骨を埋めた。柏原先生もいずれはそうなるのだろう。いい先生に出会えたと思う。
 北方4島交流センター「ニホロ」はオホーツク沿岸地方の歴史や根室の郷土史のような学術的な面ではあまり役に立っていないように見える。学術的な研究の背景を欠いてしまうと返還運動は説得力が弱まる。戦後63年たっても北方領土返還運動が「引揚者の運動」の域を出ないのはこの辺にも原因があるのではないか。ここまで書いてはたと思いが別のところへ行く。北方領土返還運動を「引揚者の運動」に矮小化してきたのは、他ならぬ根室の町自身と運動関係者であったのかと。
 もしそうなら、これからやればよい。一学年先輩の鈴木さんが市教育長の職にあるが、「北方領土原点の町の市教育委員会の役割」とは何なのかを考え、教育の面から郷土史研究を支える施策をお願いしたい。

 話を戻そう。先生は北大の弁天島発掘調査を中学生のときに手伝って考古学に興味がわいたという。考古学者が論文や本を出したときに、送られてくるものが多いと仰っていたから、3万点を超す本や資料も集めたというより半数以上は「集まった」といった方がよいのかもしれない。

 今日(17日)から3回北海道新聞夕刊に掲載される対談が楽しみである。新聞に載っている写真のお顔は、とても嬉しそうに見えるので、ご本人が一番楽しんでいるのだろう。


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