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#5112 同期の桜・ムサシの訃報 Nov. 12, 2023 [A9. ゆらゆらゆ~らり]

 高校同期のヒロコから昨日電話が入っていたので、電話してみた。昨日、根室会があり、そこでムサシが11/3に亡くなったと聞いて連絡してくれたのだ。
 同じクラス3Gの3人、ヒロシとムサシとトシ(ebisu)が東京へ出てきた。根室高校最後の総番長のヒロシとは一緒に上京したから、同じ飛行機便で東京へ降り立った。全日空のスカイメイト、料金は半額6800円だった。1967年当時は中標津空港がない。ムサシは拓大へ進学した。ムサシも総番グループ、三人の副番長のうちの一人だったが、ボンボンで気の優しい奴だった。
 東京へ出てきて、わたしは新宿や池袋の盛り場を遊びまわっていた。夏になるとムサシから一通の葉書が来た。ホームシックにかかって寂しいので会おうと。そういうやつだった。
 二人でヒロシの高円寺のアパートに泊まって酒を飲んだ。数回そんなことがあった。
 二十数年前だったかな、一度、有楽町で偶然にすれ違った。声をかけたら照れくさそうだった。奥さんを亡くしてから数年たっており、女性と一緒でほほえましかった。

 ヒロコはクラスは違うが仲の良い友人の一人である。生徒会で一緒だった。ヒロコは初台の「男子禁制」のアパートに住んでいた。なぜかそこは根室人が数人まとまっていた。新宿駅から歩いても20分ほどの距離だったから、新宿で遊んだついでに何度か行ったことがあった。鍵をかけていないので、本でも読んで暇をつぶして1時間も待っても戻らないとあきらめて新宿へ戻る。男女の気遣いをしなくていい気さくな友人である。
 同じアパートにヒロシも来ていたことを、30年もたってから知った。彼の奥さんになる人が同じアパートにいたのである。だから、時々行っていたとヒロシ。大笑いした。ヒロシは歌舞伎役者のよう顔立ちで野球部、ずいぶんもてていたが、晩熟(おくて)だった。

 根室会に来ていないので、連絡が行っていないのではと気遣ってヒロコが電話してくれた。ヒロコの亭主も数年前に亡くなっている。団塊世代はそういう時期に入ったということだ。来年、東京の同期会を開く予定なので、決まれば連絡をくれるそうだ。ありがたい。行けるかどうかはそのときの体調次第だ。

 まだしばらく東京の空気を吸っているつもりだが、元気そうに見えても、突然体調を崩すということがある。会いたい人には、機会を逃さずいまのうちに会っておいたほうがいいのだろう。
 高校時代の友人は付き合いの長いのが多い。会うと不思議とあの時代のこころに戻れるから不思議だ。

 1月にヒロシが亡くなって、ムサシが逝った。向こうは賑やかそうだ。何年かしたら、また三人で楽しい酒が飲めるかもしれない。
 ムサシの冥福を祈る。

<余談:3回英語授業を潰した>
 1年生の時の沢井先生は中高6年間で最高でした。音読は低音ですばらしい。説明も理論的でした。文型中心の授業をしてくれました。北大卒の先生で、根室高校の後は釧路国立高専の教授になったそうです。高2と3年次はH先生に変わりました。やる気のない手抜きの授業になぜか無性に腹が立ちました。
 あるとき、授業中に席を立って廊下へ出ていき、体育館へいって体育の授業で使っていないことを確かめ、バスケットボールをもって教室に戻り、「体育館空いている、バスケットしようぜ」と声を掛けると、バスケット部のムサシと総番長のヒロシが「おう!」とひと声、ムサシはニコニコしてついてきます。
 3回目には、H先生が校長からお咎めがあったようで、気の毒で3度だけにしました。
「授業中に体育館で遊ばせている先生がいる」
 職員会議でそう叱責があったようで、他の先生から聞きました。担任の冨岡先生だったかな。私がやったことは当然ご存じですが、お咎めなし。理由なくそんなことをする生徒ではないとよくわかってくれていました。

 2年次の化学の先生もいい加減な授業でした。2度質問をしましたが答えられず、あきれて自分で勉強することに決めました。わたしたちが卒業してから別海町へ転任し、あまり授業がずさんだったために首になったといううわさを聞きましたが、公務員ですから首にはなってないでしょう。そういう噂がたつほどの先生だったということ。この先生のときには授業妨害してません。教える能力のない先生もいていいと思っていましたから。でも、やる気のないのは許せませんでした。
 いい先生もいました。授業がうまかったのは簿記の白方功先生(北見北斗高校出身、バッキーシラカタの愛称で呼ばれていました)、政治経済の柏原栄先生、英語の沢井先生、生徒に慕われたのは担任に冨岡良夫先生とバスケットボール部顧問の野沢先生。担任は「ドンタ」野沢先生は「ショッちゃん」の愛称で呼ばれていました。
 新任で二年間だけの付き合いで授業を持ってもらったことはありませんでしたが、ラグビー部を創設時に顧問を引き受けてくれた明大ラグビー部出身の村田先生、お願いしたので部員集めと1年後の部への昇格はわたしの方で手配しました。発足1年間は「同好会」という規定が規約にありました。同好会の部への昇格は、活動実績を見て生徒会の判断でできたので、お約束できました。指導がいいからすぐに強豪校のひとつになりました。予算の配分は、当時は生徒会会計が部長と副部長を生徒会室に読んで単独で決めていたので自由にやれました。予算は生徒会会計の専権事項でしたから、権限が大きかった。もちろん公平性には意を砕きました。
 予算と帳簿の記帳と決算業務が生徒会会計の仕事でしたから、毎年仕事のできる生徒を選んでいました。指名権は生徒会会計にありましたから、先輩の指名があれば否やなナシでした。拒否権ないのです。生徒会選挙の時に、先輩の副会長が2名、次期生徒会長に立候補しろとこれも「命令」でしたから、その旨生徒会顧問へ告げると、校長が反対、表向きは「生徒会会計をしているので、立候補はダメ」、でもそんな規程はありませんから無視してよかったのですが、生徒会顧問が困った顔をされたので、同じクラスだったH勢に副会長への立候補を依頼、副会長の先輩二人に事情を告げて、H勢の応援演説をお願いしました。お二人とも快諾してくれました。副会長の先輩二人がなぜわたしを会長候補に推したのかは理由がありました。1年の終わりころ会計に指名されて、まもなく、丸刈り坊主頭の校則改正を副会長と会計の先輩に相談したら、「おまえがやれ」と言われて、11月の修学旅行に間に合うようにスケジュールを引いて、作戦を練り、2年生になったばかりの四月に保護者へ丸刈り校則の改正を目的としたアンケートを実施しました。髪型は基本的人権の一部だと誘導するようになっていましたので、保護者の方はOKです。校長が弱いのはPTAですから、PTAを味方につけたら、勝負は勝ったようなものでした。あとは集計結果をまとめて、校則改正の規約に則って全校生徒集会を開催して賛否を問いました。それで校則改正ができたのです。修学旅行の3か月前でした。髪を伸ばして東京都・大阪・奈良、11泊12日の修学旅行を楽しみました。その経緯を見ていた副会長二人が、「会長に立候補しろ、応援演説は俺たち二人がやる」そう言ってくれたのです。そして校長の反対。
  そういうわけで会長は中学の時、隣のクラスにいたオサムが立候補となりました。あいつは、一人褌を締め、たんたんと「鉄砲」をしていました。たった一人の相撲部、でも性格が温厚な大柄な男でした。
 オサムは漁師の親方の次男坊、あるとき(1967年)16段変速のサイクリング車に乗ってきました。生徒会室の窓の外に置いてました。ピカピカの新車で。
「オサム、自転車ちょっと貸せ、前の道路を走ってみたい」
「いいよ」
と二つ返事でした。貸したくなかったと思います。(笑)
 アナログのスピードメーターがついていました。
 根室高校前からセブンイレブン方向は緩い下りです。そこを全速力で走ってみました。ダンプカーが前にいました。スピードメーターに目を落としたら、あと少しで時速70㎞です。その瞬間に赤い光が目に入りました。ブレーキランプでした。T字路ですからダンプはブレーキをかけて右に曲がります。あ、と思った瞬間におもいきり右側に自転車を倒して、センターラインを越えて反対車線に出ていました。ブレーキをかけたらタイヤの細いロードバイクですから、タイヤがロックしたまま滑ってそのままではダンプの車体の下に入り込んで、命はありません。どーどバイク用のヘルメットをかぶっていてもアウトだったでしょう。そんなものはあの時代にありません、たまたま対向車線には車がいませんでした。生きるか死ぬかの一瞬の判断、後からドキドキです。あの瞬間は「生きてる!」って実感がわいたのです。危ないことほどドキドキワクワクなのです。流氷に乗って遊ぶのと一緒でした。
 オサムが買ってもらったばかりの新車のサイクリング車をあやうくお釈迦にするところでした。あいつ、大事にしているのわかっていましたからね。強引に「貸せ!」って言いました。あの時に死ななくてよかった。優しい奴だから、オサムのこころに傷がついたでしょう。
 ムサシは牧場主の長男、どちらもボンボンで人柄のいい仲間でした。

<余談-2:根室高校総番制度>
 根室高校の総番制度がいつから始まったのかはわかりません。戦前の根室商業高校時代からだろうと思います。5年先輩のSMさんも総番長でした。野球部のキャプテンでもありました。親戚のお兄さんですから、高校1年の時に半年だったか、1年間だったか、事情があって一緒に暮らしていた期間があったので、総番制度について知るところとなりました。ヤクザともめごとがあれば、学校を代表して総番長が話をつけるルールになっていました。なにせ、気の荒い「ヤンシュウ」の多い漁業町ですから、トラブルはあったのです。
 ヤクザともめごとがあったときには、向こうの流儀で「挨拶」をします。「仁義を切る」というアレです。やくざ映画で見たことあるでしょう。SMさん、やって見せてくれました。仁義の台詞が総番長に代々伝わっていました。右手を前に出して、左手を後ろに回して腰を落とし、「お控えなすって、さっそくお控えなすって下さって、ありがとうござんす。手前生国発しますところ...」とやるわけです。見事な仁義でした。そのときに仁義の台詞を書いた小く折りたたんだ紙をもらいました。机の中に入れたまま数十年がたち机もなくなってしまいました。残しておきたい資料でした。
 あの紙をわたしに渡したということは、総番長の後継者には渡していないということ。ヒロシに確認してみましたが、あいつはそういう引継ぎはなかったと言いました。ヒロシもSMさんと同じ野球部でした。二人に面識はありません。普通科ができても、総番長は商業科から出すのが不文律でした。仁義の台詞はSMさんが時代にそぐわないので、後継の総番長に引き継がなかったのでしょう。根室高校生がヤクザともめごとを起こすなんてことはとっくにありませんでした。親分のTさんも、わたしを少し危ない奴と見ていたようで、「姉さん、息子に何かあったら言ってくれ」そう言っていたと、2002年11月に根室に戻ってきてから、当時を思い出して笑って教えてくれました。
 総番長も5代前のSMさんまでは、責任重大だったわけです。ヤクザともめごとがあったら、それを収めるのは、校長でも生徒会の会長でもなく、総番長の役割と責任でした。半端な覚悟ではやれません。いざとなったときに逃げるようでは総番長にはなれません。根室高校の前身の根室商業はそういうバンカラな学校だったのです。
 短歌をよく詠んだ歯科医のT塚先生は、大正6年のお生まれだったかな、根室商業時代に、線路上で両手を広げて蒸気機関車を止めています。どのあたりだったのか、たぶん花咲港へ行った帰りのことではないかと思います。「乗せてくれ」と一言。国鉄の機関手は停車して乗せた、なんて逸話が残っています。根室商業の学生はそんなことをしても大目に見られた時代がありました。いま根室高校の生徒がそんなことをしたら、即逮捕でしょう。

 ところで、T塚先生は軍医で中国の華北で終戦を迎えています。そのときのことを短歌で残しています。弊ブログでも書きました。ああ、検索のために実名を記しておきましょう。田塚源太郎先生です。オシャレで品のよい方でした。ビリヤードの常連客の一人です。先生のために帽子掛けスタンドが置かれていました。いつもソフトハットをかぶって来られました。落下傘部隊のオヤジとは気が合っていました。オヤジは「軍医殿」という態度で接していました。いやいや、一度も「軍医殿」なんて呼ぶことはありませんでしたね、そういう接し方をしていたということですよ。二女のケイコさんが、小中高と同じクラスでした。
 田塚先生は根室印刷の創業者で考古学者・文学博士の北構保男先生と根室商業の同期です。親友だと言ってました。田塚先生が亡くなってから、残された短歌を(田塚先生の)奥さんや娘さんと編集して遺稿集がつくられています。わたしも1冊もっています。田塚先生は国後島の蟹漁の親方が実家、お父さんが早くに亡くなられたようで、お母さんが漁場と漁を仕切っていたそうです。発掘で何度か訪れたことがあるので、北構先生は「大漁師」と形容していました。人を何人か使って、カニ漁は値が張るので、金額が大きいのです。いま、あんな大きなタラバ蟹がとれたら、漁獲高は軽く1億円を超えるでしょう。国後島沖にはそれくらい密に蟹が生息していました。根室商業には5月になってから入学してきたと北構先生がいってました、ずいぶん気があったようです。

 話が転々として申し訳ありません。身近に接して知ったことを書き残しておかないとという思いがどうしても起きます。
 


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