#5075 Default Mode Network:ボーっとする Oct. 1, 2023 [A2. マルクスと数学]
一昨日の朝のNHKラジオ番組でうとうとしながら、デフォルト・モード・ネットワークという言葉の説明を聴いていました。もちろん初耳です。
2001年にワシントン大学のレイクル(Marcus.E.Raichle)らの共同研究成果らしい。
脳は、ボーっとしているときに平常時の15~20倍のエネルギーを使うという。そのためにアイデアが働きやすくなり、記憶に関する部位や価値判断に関する記憶が活発に働く。ボーっとすると脳の血流に変化が起き、脳全体に均一に血液が流れるために、結果的に普段使われていない部位にもエネルギーが行き届きひらめきやすくなるのだそうな。
何かに集中すると、脳の特定の部位が活発にエネルギーを消費します。意識を分散化すると、脳内にまんべんなく血流が生じます。能力を最大化するためには脳の血流量を増やせばいいのですが、そんな方法はあるのでしょうか?
家業のビリヤード場で幼稚園の頃から遊んでいました。緑色のラシャが張られた台の上にあがって、キューで白いボールを突いて遊んでいました。白いボールが2個赤いボールが2個、オーソドックスなキャロムゲームの台でした。面白いので、夢中になって遊ぶ、そのうちに大人たちが面白がって相手してくれるようになりました。身長が足りないので、台の上に乗って撞きます。大人がやるとルール違反ですが、小さな子供のわたしだけの特別ルールでした。
夜布団に入ってから、緑色のビリヤード台が頭に浮かび、キューとボールが目の前に展開します。すると脳内で勝手にビリヤードのトレーニングが始まってしまうのです。昼間に夢中でやるから、脳が興奮しています。脳が疲れきるまでイメージの中で行われるビリヤードトレーニングは続きました。自分では止められない、疲れきるまで続き、そして疲れ果ててぐっすりねてしまう。よく寝る子供でした。こうして、脳内でカラーのイメージ操作ができるようになったのです。夢も色がついています。子供は無心で遊んでいるといろんなモノやコトや脳の使い方までも、空気を吸うがごとくに吸収してしまいます。無心になれる遊びはとっても大切です。
小5だったのか、小4だったのか定かではありませんが、120km離れた釧路に用事があってオヤジと行きました。駅近くのビリヤード店に私を置いて、戻ってくるまで遊ばしておいてくれと店主にオヤジが告げて、数時間次々に常連たちを相手にゲームを始めました。小学生なのに上手なので、腕に覚えのある大人たちが面白がって次々に交替で挑んできました。強すぎると言われ、2度持ち点アップに同意してます。それでも負けなし。持ち点をアップして撞き切りも2回やってます。十数回のゲームで店内はわいわいの騒ぎになりました。店番してお客の相手をするときにはお客様相手のお遊びモードですから、全力ではやりません。そういう癖がついていました。釧路へは遊びに行ったのだから、遠慮はいらないのです、ブレーキを外してゲームを楽しむ。そういう脳のモードに切り替えられるようになっていました。上手に撞こうとか、勝とうとかという意識はありません。無心に遊んでいるだけですが、こういう心や脳の状態を何というのかわかりません。
高校の校則はビリヤード場への出入りを禁じていました。そう伝えるとオヤジは苦笑いしていました。高校卒業するまで、ほぼ毎日数時間、家業のお手伝いしてました。
1990年代に新大久保の小林伸明先生(スリークッションゲームの世界チャンピオン、やはりビリヤード場経営者の息子)のお店の四つ球の常連会メンバーに入れてもらいました。月例会の試合で元四つ球アマチュア全日本チャンピオンの小柴さんと決勝戦で当たったことがありました。強敵ですから、全力で勝負しないと失礼です。脳のモードが切り替わりました。
初回をわたしが持ち点を撞き切ったら、小柴さんも撞き切り返し、それで延長戦へ。今度は小柴さんが先行、2度目もつき切ったのです。連続して自分の持ち点を2度突き切った人は小柴さん以外に見たことがありません、さすがに元全日本チャンピオン、すばらしい職人技でした。私は2度目は撞き切れず負けて2位でした。そのときに、小林先生は2位の賞品にブルーダイアモンド社製のチョークを1ケース(12個入り)をプレゼントしてくれました。メーカーが十数年前に廃業して手に入らないものでした。小林先生は世界大会でしか使わないと言ってました。ある時練習で使っていたら、小林先生が飛んできて、「世界大会でしか使っていないチョークだから、使うのは月例会の時だけにしてください」と仰った。そんなに大事なものをあの月例会の時だけ賞品として提供してくれたのだと知りました。撞き切りのご褒美だったのでしょう。
高田馬場のビックボックスでクリスマスの頃に大会が開かれていました。4人か5人のブロックに20組くらいに分かれ、それぞれのブロックにはプロが一人参加するものです。このときに、初回にプロとぶつかりました。モードが切り替わり、持ち点を撞き切ったのです。どこを撞いたらいいのかわかるので無心になればいいだけ。観客の声が遠くなり、体から余分な力が抜けます。どのように撞けばいいかなんてまったく考えていません、そう、ボーっとしている状態になります。ふだんはゾーニングして直径30cmくらいの円内に球が集まればいいのですが、あのモードのときは理想通りの位置にボールが来ます。撞点も力加減も完全な状態になります。何かが降りてくるという状態です。プロはトレーニングを積んで、どんなときでも職人技でカバーできるようなトレーニングをしています。アマチュアのわたしにはそれがありません。
次のゲームでへタッピ―の大学生に当たったら、モードは自動解除されました。強い相手でないと切り換えられないのです。アドレナリンがでなくなったのでしょう。
中2の時に歴史を担当してくれたのは元西浜町会長の柏原栄先生でした。終戦間際に予科練に合格、土浦へ配属が決まり待機中の終戦。土浦には大学時代のゼミの恩師である市倉宏祐教授(哲学)が特攻隊で待機組、予科練の少年兵にゼロ戦の操縦を指導していたことは何度も書きました。
柏原先生の板書は独特で、字がきれいだが、粒は不ぞろい。だから、印象に残ります。お陰で授業へ集中しやすかった。授業中に全部記憶するつもりで集中して聴いていたので、授業が終わると、1~2分間はボーっとしています。そのあと、目をつぶって黒板に書かれた文字を脳裏に再現し、その黒板の文字と耳で聞いたことを結び付けていました。そんなやり方で3分ほどで復習できました。後は、北海道新聞の政治経済欄を読みふけるだけ。それだけで十分でした。記事に地名が載っていたら、知らないところはその都度地図帳で確認してました。地理と歴史と政治経済が新聞記事を通してつながっていました。小4から北海道新聞読み始めたので、小6では語彙が大人並みになっていました。最初の3か月ほどは国語辞書をよく引いていました。新聞の語彙はそんなに多くはないので、じきに辞書を引く回数が激減します。当時の新聞はルビが振られていましたので、漢和辞典を挽かなくてよかった、読みがわかっているので国語辞典だけでよかったのです。いまの子どもたちより楽でした。新書版レベルの本をスラスラ読む語彙力は小学生のうちに身についていました。中3の全国学力テスト社会科の問題で、授業では教えていない国連の国際機関名がいくつか出題されていましたが、新聞読んで、英語で各機関名を書けたからそこで2位と得点差がつきました。ラッキーでした。1学年550人10クラスでした。いま、母校は1学年100人いません。古里の現状をみると少子化の現実が身に染みてわかります。
授業を受けるときに中身が濃くて興味が湧けば、脳のモードチェンジができることがわかり、他の科目へもこの技を利用しました。効果は抜群でした。成績がみるみるアップしました。でも、教科担当の先生の授業内容が濃くないとつまらないので集中できないのです。(笑)柏原先生の教え方がよかったのです。高校でも数人そういう先生がいらっしゃいました。
「集中⇒ボーっとする⇒脳裏にカラーでイメージを再現」
眠るときにやはりボーっとモードに切り替えて、黒板を脳裏に再現して復習。脳がリラックスしていないとスムーズにいきません。神経を集中するとノイズが大きくなりますから、眠りに入るときがいいのです。8-10時間睡眠をとっていました。睡眠時間が短いと、頭が回らないのがよくわかります。寝ている間に、昼間に集中してインプットした知識が整理されるのがわかりました。だから定期テストの前は早寝して8-10時間しっかり寝るようにしていました。翌朝、頭がすっきりしているのがわかるんです。
高校生になって、2年の時から公認会計士2次試験講座の参考書で7科目(簿記・会計・原価計算・監査論・経営学・経済学・商法)の勉強をし始めました。簿記論と会計学は黒澤清先生と沼田善穂先生の対立する学説を比較しながら学びました。公認会計士試験の経済学は近代経済学でした。半年ぐらい勉強しているうちにマルクス『資本論』が気になって読み始めています。論理の組み立てがさっぱりわからないので、マルクスが方法論で依拠したヘーゲルの著作も読み始めました。数行理解するのに手を焼くことがしょっちゅうありました。文を丸ごと暗記して、暇ができると思い出して繰り返し考える、こうすると授業中でも経済学や哲学の勉強を独学でやれます。授業は雑談が多く、だいじなのは1/3くらいのみでしたから、ありがたかった、そこだけ聞いていればいい。得意科目は予習している(工業簿記は春休みの2週間弱で、問題集1冊を予習しました)ので、授業は既知の知識を確認するだけ。数学の問題も難問題は問題文を丸ごと暗記して、暇な時間があると思い出して解いていました。紙に書きだすとひらめくことが多かった。顕在意識へインプットしておくと、潜在意識が勝手に情報処理してくれます。朝起きたときには正解が頭に浮かんでいるなんてことになります。REM睡眠時に答えが思い浮かんで、慌てて起きてノートに書くなんてことが起きます。眠っている自分とそれを観察している自分があります。観察している自分が、眠っている自分を起こします。
「授業に集中⇒休み時間にボーっとする⇒脳内にイメージ画像を再現⇒就寝時にもう一度イメージを再現」
こういうことを毎日繰り返していました。ビリヤード店の店番しているときでも、暇な時で練習する気が起きないときはボーっとして、数分間授業の復習やら、インプットした概念の整理を繰り返していました。顕在意識で脳内でさまざまな相互に関連のある概念をいじくりまわしてひとつの構造に組み上げるのと、潜在意識でジャンルを超越して突合するのは脳の機能として明らかに違います。後者はDMNでの出来事ですが、前者がよくわかりません。30年後に脳科学者が解明してくれるかもしれませんね。画像イメージを脳内で自在にいじくりまわせるようになると、数学や哲学分野の学習にとっても便利です。それを言葉に置き換えて伝えるのはとっても困難です。音楽や絵画の美しさを言葉で表現するようなものですから。
座禅とヨガが好きで、中学生のころから真似事でやっていました。大学生になってからそれぞれ本を何冊か読み独習していたのです。座禅をするときには意識を呼吸に集中し、雑念を放置します。雑念が次々にわいてくる状態をマインドワンダリングというんだそうです。次々にわいてくるイメージにとらわれず、ゆっくり長い呼吸にだけ意識を置く。すると息を吐いて、吐き切ると自然に吸気が起きる。そしてまた息を吐き切る、それだけです。マインドワンダリング状態が収束します。雑念が消えます、どこにも焦点を合わせない心の状態、意識の分散化が起きます。全方位に意識が向いていますから、意識の集中とまったく逆のベクトルの現象です。慣れてくると、歩いているときにも意識を呼吸に置けばすんなりそういう意識の分散モードに切り替えられるようになっていました。こういう脳の使い方や呼吸のコントロールで意識を制御する方法の意味するところが、これから脳科学で「発見」されるのでしょうね。
20代後半には、会議の時にも数呼吸で意識の分散化ができるようになっていました。先入見があると人の話を丸ごと受け入れられないから、意識の分散化が必要なのです。自分の思考を抑えてボーっとしている状態です。先入見をゼロにできるところが最大の効用かもしれません。数学の難問だって、思い込みがあると正解手順を見落とします。深くてゆっくりした呼吸に切り換えて、思い込みをいったん消します。意識の集中よりもずっと高度な技ですが、トレーニング次第でだれでも獲得できます。
意識の分散化ができない人は先入見に囚われて抜け出られません、檻のようなものです。
(トラウマも同じです。トラウマは潜在意識に刻み込まれ脳の機能に深刻なダメージを与えます。顕在意識がそこへ引っ張られてしまうのです。)
大事なことですから、少し脱線させてください。
1978年から6年間、産業用エレクトロニクスの専門輸入商社で経営分析と経営改革を担当していました。5つのプロジェクトを同時に担当していました。経営分析は思い込みや先入見を外すのがむずかしいのです。25ゲージ5つのディメンションのレーダチャートをつくり総合偏差値を計算して財務状態と経営成績を四半期ごとにモニターして経営分析報告書を提出して役員全員に説明していました。予算編成や予算管理、長期計画もこれらの経営分析システムと連動させていました。思い込みがあるとそういう風にデータが見えてしまいます。結果がすぐに追いかけてきますので、データを分析するときは先入見を外すのが鉄則でした。そして経営改革もこれらのシステムに連動しているので、具体案が効果がなければすぐに目標数値未達として現れます。かならず事前に損益シミュレーションをしていますから。そういう経験を6年間積んでさまざまな経営改革を担当させてもらったのは得難い経験でした。呼吸をコントロールすることで、先入見を外して、データ自身が語るところに耳を傾けるという習慣が身についたのです。
経済学にはシューレ(学派)があります。マルクス経済学では宇野学派が最大です。当然宇野弘蔵先生の著作を皆さん熱心に読んでいます。そうすると、宇野弘蔵の視点を通して『資本論』を読んでしまうのです。これが先入見となります。『資本論』そのものを見ることができなくなりますので、アウトです。
共産党のみなさんは赤旗をよく読んでいます。出版物も大月書店のものが多いのではないでしょうか。他のものはほどんど読まない。創価学会のみなさんも創価新聞をよく読み、出版物も創価学会からのものに偏って読むようになります。
その結果何が起きるのか?対立する学派や対立する学説のものを読まない、異分野のものを読まなくなれば、ボーっとして脳がDMN状態になっても、知識の融合やひらめきが起きないということです。材料がありませんから当然でしょう。
ところで、労働組合の活動家で、渋沢栄一の本を読む人がFB友にいます、とっても珍しい。渋沢翁の本はマネジメントそのものですから。労働組合で渋沢翁やドラッカーの著作を読むなんて、なかなかすごい人です。
マルクス『資本論』の体系構成がつかみたくて市倉宏祐先生(哲学=ヘーゲル、イポリット、ガタリ、パスカル研究)の学部を超えた一般教養ゼミの門をたたき、『資本論』と『経済学批判要綱』を3年間読んでいます。
価値表現の関係という”場”と交換関係という”場”、生産関係という”場”へと論理がより具体的で現実的、そしてより複雑なものへと進んで行くのがわかりました。先に行くにしたがってより具体的で複雑な”場”になります。「単純なものからより複雑なものへ」という論理の展開順序が見えました。生産過程関係の次は市場関係という”場”が展開されますが、マルクスは”市場関係”を展開できませんでした。ヘーゲル弁証法は2項対立ですから、体系構成の方法で行き詰まったのです。市場関係論で展開される経済学の概念は2項ではないし、労働価値説も破綻します。そこにマルクスが気がついてしまったとわたしは推測しています。だから、『資本論第一巻』を出版した後、10年間本を公刊していません。沈黙したまま、たくさんの遺稿を残して『資本論第2巻』を出版することなく亡くなっています。
学部生のときには、他人にわかるようなやり方で、自分が見つけたものを説明できませんでした。
大学院で勉強しながら、渋谷の進学教室で専任講師をして、あるときユークリッド『原論』を購入して読み始めました。無理数の背理法による証明を2400年前にどうやってやったかを中3年生に説明したかったからです。それで読み始めたら、探していた方法がそこにありました。公理的演繹体系です。資本主義の分析は公理的演繹体系で構成すればいいことがわかったのです。おそらく、マルクス『資本論』研究者で、2400年前に書かれた数学書であるユークリッド『原論』を読んだ人はほとんどいないでしょう。だから気がつかないし理解できないのです。『人新世の『資本論』』の著者もその中の一人です。
マルクス経済学とユークリッド『原論』というかけ離れた専門分野の間に、方法的な相同性があることに気がついたのは、デフォルト・モード・ネットワークのお陰です。
数学史に興味がわいて、そちらの分野の本もしばらくの間読み漁りました。デカルトが『方法序説』でやはり「科学の体系構成」を論じていることもわかりました。「科学の四つの規則」として箇条書になっています。マルクスが参考にすべきはヘーゲル弁証法ではなくてユークリッドやデカルトでした。マルクスはひどい数学音痴でしたから、ユークリッド『原論』は読んでいないと思います。『資本論』や『経済学批判要綱6分冊』の中には言及がありません。たぶん彼の残した膨大な遺稿の中にも見つからないでしょう。彼の学術論文はギリシアの自然哲学に関するものだったのに、ギリシア数学の記念碑であるユークリッド『原論』を読んでいません。マルクスの遺稿『数学手稿』を見て、なるほどと思いました。彼は微分の無限小概念が理解できなかったのです。数学の勉強は微分で行き詰まっています。数学手稿は「数学の学習ノート」でした。そもそも『資本論』には指数計算も対数計算も出てきませんし、微積分の計算もありません。四則計算のみでしたので、違和感がありました。何か原因があるはずだと、『資本論』を読み終わって感じました。だから、『数学手稿』を読んで、その原因がわかり、納得でした。限界効用なんて考えが出てくるはずもありません。
数学が苦手なマスクスには、ユークリッド『原論』もデカルトの『方法序説』も、マルクスには手の届かぬものでした。だから、体系構成の方法で破綻しました。
こうした異分野の知識を融合させるとか、相同性を見つけるためには、脳のモードチェンジが必要です。DMNが必要なのです。もっとも、好奇心がなければ異質の分野の専門書など読むはずもありませんから、DMNが働いても知識の融合現象も、相同性の発見もありえないことはお分かりいただけたでしょう。
異分野の古典を丹念に読み込み、そして意識的にDMNに脳を切り替えることができれば、いままで誰も見たことのない世界が垣間見れます。
資本主義を分析しても、新しい経済社会は見えてきません。それはデザインの問題だからです。新しい経済社会をデザインし、やってみる、そしてまずいところがあれば修正していく作業を積み重ねたらいいだけです。株式会社制度に問題があれば、まずい部分を規制したらいい。代替案があれば試したらいい。
経済社会の単位は企業活動です。実務レベルで動かないといけません。だから、マルクスもレーニンも大失敗をしました。企業経営の能力も経済社会のデザイン能力も持ち合わせていませんでした。労働組合はいまだに経営を敵視していますが、どんな社会も企業経営で成り立っていますから、そこのところを抜きにして賃上げすらできません。賃上げしたかったらスキルを磨いて転職するのが手っ取り早いのです。転職が嫌なら、自分が仕事している会社の経営改革を担い、「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」にするしかないではありませんか?
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」と「浮利を追わぬ」の二つの商道徳で企業運営をしてみたらいいだけですよ。そういう伝統的な経営思想あるいは商道徳を守っている企業が日本には老舗として数千社も残っています。職人仕事に強い関係のある企業群です。そういう伝統企業に何かプラスするものがあればなんとかなりそうです。
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2001年にワシントン大学のレイクル(Marcus.E.Raichle)らの共同研究成果らしい。
脳は、ボーっとしているときに平常時の15~20倍のエネルギーを使うという。そのためにアイデアが働きやすくなり、記憶に関する部位や価値判断に関する記憶が活発に働く。ボーっとすると脳の血流に変化が起き、脳全体に均一に血液が流れるために、結果的に普段使われていない部位にもエネルギーが行き届きひらめきやすくなるのだそうな。
何かに集中すると、脳の特定の部位が活発にエネルギーを消費します。意識を分散化すると、脳内にまんべんなく血流が生じます。能力を最大化するためには脳の血流量を増やせばいいのですが、そんな方法はあるのでしょうか?
家業のビリヤード場で幼稚園の頃から遊んでいました。緑色のラシャが張られた台の上にあがって、キューで白いボールを突いて遊んでいました。白いボールが2個赤いボールが2個、オーソドックスなキャロムゲームの台でした。面白いので、夢中になって遊ぶ、そのうちに大人たちが面白がって相手してくれるようになりました。身長が足りないので、台の上に乗って撞きます。大人がやるとルール違反ですが、小さな子供のわたしだけの特別ルールでした。
夜布団に入ってから、緑色のビリヤード台が頭に浮かび、キューとボールが目の前に展開します。すると脳内で勝手にビリヤードのトレーニングが始まってしまうのです。昼間に夢中でやるから、脳が興奮しています。脳が疲れきるまでイメージの中で行われるビリヤードトレーニングは続きました。自分では止められない、疲れきるまで続き、そして疲れ果ててぐっすりねてしまう。よく寝る子供でした。こうして、脳内でカラーのイメージ操作ができるようになったのです。夢も色がついています。子供は無心で遊んでいるといろんなモノやコトや脳の使い方までも、空気を吸うがごとくに吸収してしまいます。無心になれる遊びはとっても大切です。
小5だったのか、小4だったのか定かではありませんが、120km離れた釧路に用事があってオヤジと行きました。駅近くのビリヤード店に私を置いて、戻ってくるまで遊ばしておいてくれと店主にオヤジが告げて、数時間次々に常連たちを相手にゲームを始めました。小学生なのに上手なので、腕に覚えのある大人たちが面白がって次々に交替で挑んできました。強すぎると言われ、2度持ち点アップに同意してます。それでも負けなし。持ち点をアップして撞き切りも2回やってます。十数回のゲームで店内はわいわいの騒ぎになりました。店番してお客の相手をするときにはお客様相手のお遊びモードですから、全力ではやりません。そういう癖がついていました。釧路へは遊びに行ったのだから、遠慮はいらないのです、ブレーキを外してゲームを楽しむ。そういう脳のモードに切り替えられるようになっていました。上手に撞こうとか、勝とうとかという意識はありません。無心に遊んでいるだけですが、こういう心や脳の状態を何というのかわかりません。
高校の校則はビリヤード場への出入りを禁じていました。そう伝えるとオヤジは苦笑いしていました。高校卒業するまで、ほぼ毎日数時間、家業のお手伝いしてました。
1990年代に新大久保の小林伸明先生(スリークッションゲームの世界チャンピオン、やはりビリヤード場経営者の息子)のお店の四つ球の常連会メンバーに入れてもらいました。月例会の試合で元四つ球アマチュア全日本チャンピオンの小柴さんと決勝戦で当たったことがありました。強敵ですから、全力で勝負しないと失礼です。脳のモードが切り替わりました。
初回をわたしが持ち点を撞き切ったら、小柴さんも撞き切り返し、それで延長戦へ。今度は小柴さんが先行、2度目もつき切ったのです。連続して自分の持ち点を2度突き切った人は小柴さん以外に見たことがありません、さすがに元全日本チャンピオン、すばらしい職人技でした。私は2度目は撞き切れず負けて2位でした。そのときに、小林先生は2位の賞品にブルーダイアモンド社製のチョークを1ケース(12個入り)をプレゼントしてくれました。メーカーが十数年前に廃業して手に入らないものでした。小林先生は世界大会でしか使わないと言ってました。ある時練習で使っていたら、小林先生が飛んできて、「世界大会でしか使っていないチョークだから、使うのは月例会の時だけにしてください」と仰った。そんなに大事なものをあの月例会の時だけ賞品として提供してくれたのだと知りました。撞き切りのご褒美だったのでしょう。
高田馬場のビックボックスでクリスマスの頃に大会が開かれていました。4人か5人のブロックに20組くらいに分かれ、それぞれのブロックにはプロが一人参加するものです。このときに、初回にプロとぶつかりました。モードが切り替わり、持ち点を撞き切ったのです。どこを撞いたらいいのかわかるので無心になればいいだけ。観客の声が遠くなり、体から余分な力が抜けます。どのように撞けばいいかなんてまったく考えていません、そう、ボーっとしている状態になります。ふだんはゾーニングして直径30cmくらいの円内に球が集まればいいのですが、あのモードのときは理想通りの位置にボールが来ます。撞点も力加減も完全な状態になります。何かが降りてくるという状態です。プロはトレーニングを積んで、どんなときでも職人技でカバーできるようなトレーニングをしています。アマチュアのわたしにはそれがありません。
次のゲームでへタッピ―の大学生に当たったら、モードは自動解除されました。強い相手でないと切り換えられないのです。アドレナリンがでなくなったのでしょう。
中2の時に歴史を担当してくれたのは元西浜町会長の柏原栄先生でした。終戦間際に予科練に合格、土浦へ配属が決まり待機中の終戦。土浦には大学時代のゼミの恩師である市倉宏祐教授(哲学)が特攻隊で待機組、予科練の少年兵にゼロ戦の操縦を指導していたことは何度も書きました。
柏原先生の板書は独特で、字がきれいだが、粒は不ぞろい。だから、印象に残ります。お陰で授業へ集中しやすかった。授業中に全部記憶するつもりで集中して聴いていたので、授業が終わると、1~2分間はボーっとしています。そのあと、目をつぶって黒板に書かれた文字を脳裏に再現し、その黒板の文字と耳で聞いたことを結び付けていました。そんなやり方で3分ほどで復習できました。後は、北海道新聞の政治経済欄を読みふけるだけ。それだけで十分でした。記事に地名が載っていたら、知らないところはその都度地図帳で確認してました。地理と歴史と政治経済が新聞記事を通してつながっていました。小4から北海道新聞読み始めたので、小6では語彙が大人並みになっていました。最初の3か月ほどは国語辞書をよく引いていました。新聞の語彙はそんなに多くはないので、じきに辞書を引く回数が激減します。当時の新聞はルビが振られていましたので、漢和辞典を挽かなくてよかった、読みがわかっているので国語辞典だけでよかったのです。いまの子どもたちより楽でした。新書版レベルの本をスラスラ読む語彙力は小学生のうちに身についていました。中3の全国学力テスト社会科の問題で、授業では教えていない国連の国際機関名がいくつか出題されていましたが、新聞読んで、英語で各機関名を書けたからそこで2位と得点差がつきました。ラッキーでした。1学年550人10クラスでした。いま、母校は1学年100人いません。古里の現状をみると少子化の現実が身に染みてわかります。
授業を受けるときに中身が濃くて興味が湧けば、脳のモードチェンジができることがわかり、他の科目へもこの技を利用しました。効果は抜群でした。成績がみるみるアップしました。でも、教科担当の先生の授業内容が濃くないとつまらないので集中できないのです。(笑)柏原先生の教え方がよかったのです。高校でも数人そういう先生がいらっしゃいました。
「集中⇒ボーっとする⇒脳裏にカラーでイメージを再現」
眠るときにやはりボーっとモードに切り替えて、黒板を脳裏に再現して復習。脳がリラックスしていないとスムーズにいきません。神経を集中するとノイズが大きくなりますから、眠りに入るときがいいのです。8-10時間睡眠をとっていました。睡眠時間が短いと、頭が回らないのがよくわかります。寝ている間に、昼間に集中してインプットした知識が整理されるのがわかりました。だから定期テストの前は早寝して8-10時間しっかり寝るようにしていました。翌朝、頭がすっきりしているのがわかるんです。
高校生になって、2年の時から公認会計士2次試験講座の参考書で7科目(簿記・会計・原価計算・監査論・経営学・経済学・商法)の勉強をし始めました。簿記論と会計学は黒澤清先生と沼田善穂先生の対立する学説を比較しながら学びました。公認会計士試験の経済学は近代経済学でした。半年ぐらい勉強しているうちにマルクス『資本論』が気になって読み始めています。論理の組み立てがさっぱりわからないので、マルクスが方法論で依拠したヘーゲルの著作も読み始めました。数行理解するのに手を焼くことがしょっちゅうありました。文を丸ごと暗記して、暇ができると思い出して繰り返し考える、こうすると授業中でも経済学や哲学の勉強を独学でやれます。授業は雑談が多く、だいじなのは1/3くらいのみでしたから、ありがたかった、そこだけ聞いていればいい。得意科目は予習している(工業簿記は春休みの2週間弱で、問題集1冊を予習しました)ので、授業は既知の知識を確認するだけ。数学の問題も難問題は問題文を丸ごと暗記して、暇な時間があると思い出して解いていました。紙に書きだすとひらめくことが多かった。顕在意識へインプットしておくと、潜在意識が勝手に情報処理してくれます。朝起きたときには正解が頭に浮かんでいるなんてことになります。REM睡眠時に答えが思い浮かんで、慌てて起きてノートに書くなんてことが起きます。眠っている自分とそれを観察している自分があります。観察している自分が、眠っている自分を起こします。
「授業に集中⇒休み時間にボーっとする⇒脳内にイメージ画像を再現⇒就寝時にもう一度イメージを再現」
こういうことを毎日繰り返していました。ビリヤード店の店番しているときでも、暇な時で練習する気が起きないときはボーっとして、数分間授業の復習やら、インプットした概念の整理を繰り返していました。顕在意識で脳内でさまざまな相互に関連のある概念をいじくりまわしてひとつの構造に組み上げるのと、潜在意識でジャンルを超越して突合するのは脳の機能として明らかに違います。後者はDMNでの出来事ですが、前者がよくわかりません。30年後に脳科学者が解明してくれるかもしれませんね。画像イメージを脳内で自在にいじくりまわせるようになると、数学や哲学分野の学習にとっても便利です。それを言葉に置き換えて伝えるのはとっても困難です。音楽や絵画の美しさを言葉で表現するようなものですから。
座禅とヨガが好きで、中学生のころから真似事でやっていました。大学生になってからそれぞれ本を何冊か読み独習していたのです。座禅をするときには意識を呼吸に集中し、雑念を放置します。雑念が次々にわいてくる状態をマインドワンダリングというんだそうです。次々にわいてくるイメージにとらわれず、ゆっくり長い呼吸にだけ意識を置く。すると息を吐いて、吐き切ると自然に吸気が起きる。そしてまた息を吐き切る、それだけです。マインドワンダリング状態が収束します。雑念が消えます、どこにも焦点を合わせない心の状態、意識の分散化が起きます。全方位に意識が向いていますから、意識の集中とまったく逆のベクトルの現象です。慣れてくると、歩いているときにも意識を呼吸に置けばすんなりそういう意識の分散モードに切り替えられるようになっていました。こういう脳の使い方や呼吸のコントロールで意識を制御する方法の意味するところが、これから脳科学で「発見」されるのでしょうね。
20代後半には、会議の時にも数呼吸で意識の分散化ができるようになっていました。先入見があると人の話を丸ごと受け入れられないから、意識の分散化が必要なのです。自分の思考を抑えてボーっとしている状態です。先入見をゼロにできるところが最大の効用かもしれません。数学の難問だって、思い込みがあると正解手順を見落とします。深くてゆっくりした呼吸に切り換えて、思い込みをいったん消します。意識の集中よりもずっと高度な技ですが、トレーニング次第でだれでも獲得できます。
意識の分散化ができない人は先入見に囚われて抜け出られません、檻のようなものです。
(トラウマも同じです。トラウマは潜在意識に刻み込まれ脳の機能に深刻なダメージを与えます。顕在意識がそこへ引っ張られてしまうのです。)
大事なことですから、少し脱線させてください。
1978年から6年間、産業用エレクトロニクスの専門輸入商社で経営分析と経営改革を担当していました。5つのプロジェクトを同時に担当していました。経営分析は思い込みや先入見を外すのがむずかしいのです。25ゲージ5つのディメンションのレーダチャートをつくり総合偏差値を計算して財務状態と経営成績を四半期ごとにモニターして経営分析報告書を提出して役員全員に説明していました。予算編成や予算管理、長期計画もこれらの経営分析システムと連動させていました。思い込みがあるとそういう風にデータが見えてしまいます。結果がすぐに追いかけてきますので、データを分析するときは先入見を外すのが鉄則でした。そして経営改革もこれらのシステムに連動しているので、具体案が効果がなければすぐに目標数値未達として現れます。かならず事前に損益シミュレーションをしていますから。そういう経験を6年間積んでさまざまな経営改革を担当させてもらったのは得難い経験でした。呼吸をコントロールすることで、先入見を外して、データ自身が語るところに耳を傾けるという習慣が身についたのです。
経済学にはシューレ(学派)があります。マルクス経済学では宇野学派が最大です。当然宇野弘蔵先生の著作を皆さん熱心に読んでいます。そうすると、宇野弘蔵の視点を通して『資本論』を読んでしまうのです。これが先入見となります。『資本論』そのものを見ることができなくなりますので、アウトです。
共産党のみなさんは赤旗をよく読んでいます。出版物も大月書店のものが多いのではないでしょうか。他のものはほどんど読まない。創価学会のみなさんも創価新聞をよく読み、出版物も創価学会からのものに偏って読むようになります。
その結果何が起きるのか?対立する学派や対立する学説のものを読まない、異分野のものを読まなくなれば、ボーっとして脳がDMN状態になっても、知識の融合やひらめきが起きないということです。材料がありませんから当然でしょう。
ところで、労働組合の活動家で、渋沢栄一の本を読む人がFB友にいます、とっても珍しい。渋沢翁の本はマネジメントそのものですから。労働組合で渋沢翁やドラッカーの著作を読むなんて、なかなかすごい人です。
マルクス『資本論』の体系構成がつかみたくて市倉宏祐先生(哲学=ヘーゲル、イポリット、ガタリ、パスカル研究)の学部を超えた一般教養ゼミの門をたたき、『資本論』と『経済学批判要綱』を3年間読んでいます。
価値表現の関係という”場”と交換関係という”場”、生産関係という”場”へと論理がより具体的で現実的、そしてより複雑なものへと進んで行くのがわかりました。先に行くにしたがってより具体的で複雑な”場”になります。「単純なものからより複雑なものへ」という論理の展開順序が見えました。生産過程関係の次は市場関係という”場”が展開されますが、マルクスは”市場関係”を展開できませんでした。ヘーゲル弁証法は2項対立ですから、体系構成の方法で行き詰まったのです。市場関係論で展開される経済学の概念は2項ではないし、労働価値説も破綻します。そこにマルクスが気がついてしまったとわたしは推測しています。だから、『資本論第一巻』を出版した後、10年間本を公刊していません。沈黙したまま、たくさんの遺稿を残して『資本論第2巻』を出版することなく亡くなっています。
学部生のときには、他人にわかるようなやり方で、自分が見つけたものを説明できませんでした。
大学院で勉強しながら、渋谷の進学教室で専任講師をして、あるときユークリッド『原論』を購入して読み始めました。無理数の背理法による証明を2400年前にどうやってやったかを中3年生に説明したかったからです。それで読み始めたら、探していた方法がそこにありました。公理的演繹体系です。資本主義の分析は公理的演繹体系で構成すればいいことがわかったのです。おそらく、マルクス『資本論』研究者で、2400年前に書かれた数学書であるユークリッド『原論』を読んだ人はほとんどいないでしょう。だから気がつかないし理解できないのです。『人新世の『資本論』』の著者もその中の一人です。
マルクス経済学とユークリッド『原論』というかけ離れた専門分野の間に、方法的な相同性があることに気がついたのは、デフォルト・モード・ネットワークのお陰です。
数学史に興味がわいて、そちらの分野の本もしばらくの間読み漁りました。デカルトが『方法序説』でやはり「科学の体系構成」を論じていることもわかりました。「科学の四つの規則」として箇条書になっています。マルクスが参考にすべきはヘーゲル弁証法ではなくてユークリッドやデカルトでした。マルクスはひどい数学音痴でしたから、ユークリッド『原論』は読んでいないと思います。『資本論』や『経済学批判要綱6分冊』の中には言及がありません。たぶん彼の残した膨大な遺稿の中にも見つからないでしょう。彼の学術論文はギリシアの自然哲学に関するものだったのに、ギリシア数学の記念碑であるユークリッド『原論』を読んでいません。マルクスの遺稿『数学手稿』を見て、なるほどと思いました。彼は微分の無限小概念が理解できなかったのです。数学の勉強は微分で行き詰まっています。数学手稿は「数学の学習ノート」でした。そもそも『資本論』には指数計算も対数計算も出てきませんし、微積分の計算もありません。四則計算のみでしたので、違和感がありました。何か原因があるはずだと、『資本論』を読み終わって感じました。だから、『数学手稿』を読んで、その原因がわかり、納得でした。限界効用なんて考えが出てくるはずもありません。
数学が苦手なマスクスには、ユークリッド『原論』もデカルトの『方法序説』も、マルクスには手の届かぬものでした。だから、体系構成の方法で破綻しました。
こうした異分野の知識を融合させるとか、相同性を見つけるためには、脳のモードチェンジが必要です。DMNが必要なのです。もっとも、好奇心がなければ異質の分野の専門書など読むはずもありませんから、DMNが働いても知識の融合現象も、相同性の発見もありえないことはお分かりいただけたでしょう。
異分野の古典を丹念に読み込み、そして意識的にDMNに脳を切り替えることができれば、いままで誰も見たことのない世界が垣間見れます。
資本主義を分析しても、新しい経済社会は見えてきません。それはデザインの問題だからです。新しい経済社会をデザインし、やってみる、そしてまずいところがあれば修正していく作業を積み重ねたらいいだけです。株式会社制度に問題があれば、まずい部分を規制したらいい。代替案があれば試したらいい。
経済社会の単位は企業活動です。実務レベルで動かないといけません。だから、マルクスもレーニンも大失敗をしました。企業経営の能力も経済社会のデザイン能力も持ち合わせていませんでした。労働組合はいまだに経営を敵視していますが、どんな社会も企業経営で成り立っていますから、そこのところを抜きにして賃上げすらできません。賃上げしたかったらスキルを磨いて転職するのが手っ取り早いのです。転職が嫌なら、自分が仕事している会社の経営改革を担い、「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」にするしかないではありませんか?
「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」と「浮利を追わぬ」の二つの商道徳で企業運営をしてみたらいいだけですよ。そういう伝統的な経営思想あるいは商道徳を守っている企業が日本には老舗として数千社も残っています。職人仕事に強い関係のある企業群です。そういう伝統企業に何かプラスするものがあればなんとかなりそうです。
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2023-10-01 09:11
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