#5052 映画「英国王のスピーチ」を観て:映画音楽のすばらしさ Sep. 7, 2023 [5. こころの洗濯]
数日前にNHK衛星放送で「英国王のスピーチ(原題は"The King's speech")」が再放映された。
吃音癖のある弟アルバートは、兄エドワードが離婚歴のあるウォリス・シンプソンと結婚したくて教会と対立し王位を投げ捨てたために、ジョージ6世として急遽戴冠することになる。
ライオネル・ローグという言語療法士の治療を少年のころから受けてきた彼は、戴冠式の演説のマネジメントを彼に委ねたいが、ローグに正式の資格はないし、医師でもないので、戴冠式を行うウェストミンスター寺院の大司教が反対し、評判のよい医師を選んで連れてこようとするが、ジョージ6世は拒否する。そもそもイングランド国教会が兄の結婚に反対したから自分が王位をつぐはめになったのだから、アルバートは快く思ってない節がある。ローグと二人っきりで、翌日に迫った戴冠式の演説のリハーサルが始まる。
それからまもなく、今度はナチスドイツに対する宣戦布告演説をすることになるが、これもローグがマネジメントする。何度も何度も練習したあと、本番を迎えるが、そのときに使われた音楽がすばらしい。放送室でマイクの反対側にローグがいる。かれはジョージ6世に自分に話して聞かせるようにやれと指示し、吃音のジョージ6世は言葉に詰まりながら、長い間を置いて話し始めるのだが、その間の長さがとっても演説に重みを与えていた。ローグはオーケストラを指揮をするように腕を動かす。そしてアルバートが長い沈黙を置いてからゆっくりと語りだす。
歩くようにゆっくり、そして徐々に盛り上がるこの曲はベートーベンだ。7番であることは分かったが、あとでシンフォニー7番の第一楽章を聞いてみたが違っていた。あの印象的なメロディは第2楽章だった。
ドイツへの宣戦布告演説のバックに使ったのはドイツ人の作曲家のベートーベンの交響曲7番というのは英国流のユーモアかもしれない。
最後のシーンで流れたのは聴き覚えのあるきれいなピアノ曲だった。曲名は忘れたので、どなたか知っていたら投稿欄で教えてほしい。
(英国の著名な作曲家のピアノ曲なら、エルガーの「愛の挨拶」が一押しである。たぶんこの曲だった。この映画のエンディングテーマにふさわしい。どうやら音楽担当は同じことを考えたようだ。(笑))
言語聴覚士のローグと吃音のある英国王ジョージ6世の生涯変わらぬ友情を扱ったすばらしい作品だったが、使われた音楽にも深い味わいがあった。
*「英国王のスピーチ」
<余談:藤田光一郎さんの交渉の間の取り方>
出向していた東北の臨床検査会社の資本提携解消の案件で、浜松町の東芝ビルにあるJAFCO本社をSRL創業社長の藤田光一郎さんと二人だけで訪れたことがある。
本社で藤田さんと5分ほど資本提携解消について話し合ったが、後は雑談だった。社長室ではなくて、わざわざオープンスペースの小さなテーブルを指定して、わたしの報告を聞いていたから、あとから本社の役員から何を話していたのか訊かれた。藤田さんが社員とオープンスペースの小テーブルで1時間も話しているなんてことはなかったからだ。
そのあと、立川の本社ビルを出て、中央線で新宿で山手線で乗り換え、浜松町で降りて歩いて東芝ビルへ向かった。その途中で「やはり、ebisuさんの言う通りにやりましょう」と喧嘩腰だった前言を翻しました。JAFCOの役員と部長職が出てきて会議が始まると、藤田さん、言葉が出ません。間が長いのです。圧力がグーンと大きくなるのが見えるようでした。交渉事は沈黙をコントロールする必要があることを、見せて教えてくれたのです。ジョージ6世のナチスドイツへの宣戦布告演説を見て、藤田さんの間のコントロールを思い出しました。JAFCOはIPO事業では日本でナンバーワン企業ですから、藤田さんが製薬メーカーの富士レビオと臨床検査事業のSRLの2社を創業し、一部上場企業にしたことを知っています。日本で2社一部上場した経営者はその当時は藤田光一郎さんだけでした。あの間の取り方の巧みさは、俳優でもなかなかいませんね。
さてここからは雑談ですので、本論とは関係がありませんので、読み飛ばしてけっこうです。
JAFCOの部長から「お車を正面玄関に回しますのでどちらへお止めになっていますか?」と問われ、「電車できました」と答えると、「セキュリティ上まずいですよ、一部上場企業の社長ですから」、そう注意されましたね(笑)野村証券の子会社であるJAFCOの社長はこのあとに中学校で隣のクラスだった伊藤君がやっています。不祥事で野村証券の役員が2度も総入れ替えになったので、ラッキーだった。中学校の同期名簿には彼の住所と電話番号が不記載になっていました。なるほど役員のセキュリティを重視する企業のようですね。
藤田さんは電車利用が可能だとタクシーも使わないのです。「藤田社長」と職位で呼ぶのは禁止しました。だから「藤田さん」なのです。社員が毎日社用車で病院を訪問して検体を集荷して利益が出ているのだから、社長が贅沢してはいけないという人でした。しかし、本社で仕事が忙しくて比較的多い人数が残業していると、都庁前の新宿NSビル22階に本社があったときには、最上階30階のレストラン街の有名寿司店から大きな桶に載せた寿司が二つ届きます。いいネタばかりです。もちろん会社の経費ではなく、藤田さんのポケットマネーです。経理部門に2年弱いたので、他の課員が伝票見ていますから知っていました。「ebisuさん、藤田社長は伝票まわしてこないんだよ、自分のポケットマネーから出している」そう言ってました。自分の個人的な利益は後回しにして考え行動する人でした。素敵なオーナー経営者でしたね。そんなことはオーナー社長しかできません。
「売り手よし買い手よし世間よしの三方よし」と「従業員にもよし」の四方よしのオーナー経営者でした。わたしが入社したのは1984年2月1日でしたが、前年12月のボーナスは5か月出てました。組合(職場代表者会議)の4.5か月の要求に5か月の回答でした。その年の新入社員へは80万円以上が出てましたから、父親よりもボーナスが多かったなんて話がありましたね。(笑) 1983年の大卒初任給平均は13.2万円ですから、初任給も相場よりも随分高かったのです。売上が年率で20~30%も伸びていて、いくら人を補充しても追いつかない時期でした。女子社員に、「ご亭主SRLへ転職しないか?」「運転免許持っている、じゃあ営業で採用だ」なんて時代は1980年ころまででした。給料が高いので、応募倍率のとても高い企業へ変わりつつありました。東証1部へ上場した年には20人に採用枠に1万人を超える応募がありました。
東証2の部への上場準備で1982年から8名ほどが中途採用されましたが、わたしの採用は1984年2月1日付で、その中の最後の一人でした。ぎりぎりセーフ。簿記1級と経営分析とデータに基づく経営改革と経営情報系の統合システム開発経験があったからです。欧米50社の世界最先端の産業用エレクトロクス製品の知識も臨床検査機器を理解するうえでとても役に立ちました。6年間毎月行われていた東北大の先生の講義や、海外メーカーのエンジニアが開発したばかりの製品の説明に年間20回ほどは着て説明会を開催していたので、面白いので全部出席してました。「ディテクター+処理装置+インターフェイス」という理化学測定器の原理はどれも同じでしたから、臨床検査機器の理解にそのまま流用できました。本社部門にそんな人材は一人もいませんでした。複数の専門分野に精通した人材はとっても少ないのです。8人の内、わたしだけでしたから。
(藤田社長は1990年頃に、八王子ラボで廃液に関する内部告発があったときに、2階に第2社長室を置きました。学術開発本部長直属スタッフだったわたしの席は社長室のパーティションが背中にありました。一番近かったのです。毎週金曜日は30分ほど開発部のメンバーと本部長とわたしと、藤田社長へ情報提供をしていました。そのあと関係会社管理部へ異動し、藤田さんの特命案件(北陸の臨床検査会社の吸収合併と東北の臨床検査会社への資本提携交渉)を二つ処理しています。赤字だった子会社千葉ラボの黒字化のための新規システム開発導入も関係会社管理部でわたしの案件でしたので、損益シミュレーション付きの稟議書にOKを出してくれてます。予定以上の結果が出ています。86年には「臨床診断システム開発と事業化案」に200億円の予算とフィジビリティスタディを承認してもらっていたので、藤田さんとは接点が多かったのです。)
藤田さんの特命案件で資本提携交渉をした後、赤字の会社立て直しを引き受け、3年の出向予定が1年半で解除になりました。作った再建案が染色体検査事業の拡張で売上高経常利益率15%という劇的なものだったので、実施をとめられ出向解除となったのです。1億円の資本提携から子会社化する具体案の調整も出向会社の社長と大株主との交渉が済んで、子会社化していました。売上高利益率15%は子会社中でダントツナンバーワンですし、SRLよりも業績がよくなる損益シミュレーション付きの具体的な計画案でした。重要な子会社社長はSRL役員を兼務するというのが慣例でしたから、それが嫌だったのです。毛色が違い過ぎました。藤田さんの人柄を考えると、無理のない結論でしたね。三年間で黒字にできっこないと思っていたのでしょう。赤字の会社を黒字にすることにしか目が行っていなかったわたしが浅はかだったのです。
本社の「管理会計課長・社長室・購買部兼務」で戻したのには藤田さんに何か意図があったのか、新しく社長になった近藤さんの判断だったのかわかりません。購買部の兼務は購買在庫管理システムの更新時期に来ていたので、わたしに担当させたかったのでしょう。1週間でクライアント・サーバーシステムへ乗せ換える仕様書を書いて購買部のシステム担当チームに渡しました。富士通の汎用大型機を使うつもりだったようで、当てが外れて担当者はむくれてました。1993年頃だったから、もう汎用大型機の時代じゃありませんでした。最初の購買在庫管理システムはわたしの担当ではありませんでしたが、システム開発経験のない人3人でやっていたので仕様書の半分は書いてあげました。購買課で機器購入担当を2年半した経験があったので、運用もシステムの内容も熟知していました。
後でシステム部長のS田さん(病理医)が、「ebisuさんのことなんにも知らなくてあの時は失礼しました」って謝ってました。SRLシステム部は、能力が低くて、1984年に経営統合システムを開発したときにはノータッチでした。NCDさんという外部のベンダーを使って、外部設計と実務設計はこちら側でやりました。NCDさんの役割は内部設計とプログラミングのみ。
グループ会社を含めた25ゲージのレーダチャートと総合偏差値による業績評価システムは1978年にエレクトロニクス輸入専門商社で開発したものをEXCELに乗せ換え済みでしたから。1992年に関係会社管理部に1年半ほど在籍しましたときに、グループ企業全部の業績評価をそのシステムでしています。経営分析のコメント付きで業績評価をしました。経営改善用のまったく新しい業績評価システムでした。
子会社関係会社の業績を管理するにはわたしが本社へ戻ってやるしかなかった。いまでも、あんな25ゲージ・5ディメンションの総合偏差値業績評価システムをもっている会社は日本にはないかもしれません。
産業用エレクトロニクスの専門輸入商社にいた1978年に会社の経営体質と財務構造を変革するためにHP-67とHP-97を利用してプログラミングして開発したシステムでした。科学技術計算専用のプログラミングのできる電卓型計算機でした。統計計算のパッケージと数学のパッケージも別売でありましたので、それも会社で購入してもらいました。したい仕事を思いっきりさせてもらって幸せでしたね。
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吃音癖のある弟アルバートは、兄エドワードが離婚歴のあるウォリス・シンプソンと結婚したくて教会と対立し王位を投げ捨てたために、ジョージ6世として急遽戴冠することになる。
ライオネル・ローグという言語療法士の治療を少年のころから受けてきた彼は、戴冠式の演説のマネジメントを彼に委ねたいが、ローグに正式の資格はないし、医師でもないので、戴冠式を行うウェストミンスター寺院の大司教が反対し、評判のよい医師を選んで連れてこようとするが、ジョージ6世は拒否する。そもそもイングランド国教会が兄の結婚に反対したから自分が王位をつぐはめになったのだから、アルバートは快く思ってない節がある。ローグと二人っきりで、翌日に迫った戴冠式の演説のリハーサルが始まる。
それからまもなく、今度はナチスドイツに対する宣戦布告演説をすることになるが、これもローグがマネジメントする。何度も何度も練習したあと、本番を迎えるが、そのときに使われた音楽がすばらしい。放送室でマイクの反対側にローグがいる。かれはジョージ6世に自分に話して聞かせるようにやれと指示し、吃音のジョージ6世は言葉に詰まりながら、長い間を置いて話し始めるのだが、その間の長さがとっても演説に重みを与えていた。ローグはオーケストラを指揮をするように腕を動かす。そしてアルバートが長い沈黙を置いてからゆっくりと語りだす。
歩くようにゆっくり、そして徐々に盛り上がるこの曲はベートーベンだ。7番であることは分かったが、あとでシンフォニー7番の第一楽章を聞いてみたが違っていた。あの印象的なメロディは第2楽章だった。
ドイツへの宣戦布告演説のバックに使ったのはドイツ人の作曲家のベートーベンの交響曲7番というのは英国流のユーモアかもしれない。
最後のシーンで流れたのは聴き覚えのあるきれいなピアノ曲だった。曲名は忘れたので、どなたか知っていたら投稿欄で教えてほしい。
(英国の著名な作曲家のピアノ曲なら、エルガーの「愛の挨拶」が一押しである。たぶんこの曲だった。この映画のエンディングテーマにふさわしい。どうやら音楽担当は同じことを考えたようだ。(笑))
言語聴覚士のローグと吃音のある英国王ジョージ6世の生涯変わらぬ友情を扱ったすばらしい作品だったが、使われた音楽にも深い味わいがあった。
*「英国王のスピーチ」
<余談:藤田光一郎さんの交渉の間の取り方>
出向していた東北の臨床検査会社の資本提携解消の案件で、浜松町の東芝ビルにあるJAFCO本社をSRL創業社長の藤田光一郎さんと二人だけで訪れたことがある。
本社で藤田さんと5分ほど資本提携解消について話し合ったが、後は雑談だった。社長室ではなくて、わざわざオープンスペースの小さなテーブルを指定して、わたしの報告を聞いていたから、あとから本社の役員から何を話していたのか訊かれた。藤田さんが社員とオープンスペースの小テーブルで1時間も話しているなんてことはなかったからだ。
そのあと、立川の本社ビルを出て、中央線で新宿で山手線で乗り換え、浜松町で降りて歩いて東芝ビルへ向かった。その途中で「やはり、ebisuさんの言う通りにやりましょう」と喧嘩腰だった前言を翻しました。JAFCOの役員と部長職が出てきて会議が始まると、藤田さん、言葉が出ません。間が長いのです。圧力がグーンと大きくなるのが見えるようでした。交渉事は沈黙をコントロールする必要があることを、見せて教えてくれたのです。ジョージ6世のナチスドイツへの宣戦布告演説を見て、藤田さんの間のコントロールを思い出しました。JAFCOはIPO事業では日本でナンバーワン企業ですから、藤田さんが製薬メーカーの富士レビオと臨床検査事業のSRLの2社を創業し、一部上場企業にしたことを知っています。日本で2社一部上場した経営者はその当時は藤田光一郎さんだけでした。あの間の取り方の巧みさは、俳優でもなかなかいませんね。
さてここからは雑談ですので、本論とは関係がありませんので、読み飛ばしてけっこうです。
JAFCOの部長から「お車を正面玄関に回しますのでどちらへお止めになっていますか?」と問われ、「電車できました」と答えると、「セキュリティ上まずいですよ、一部上場企業の社長ですから」、そう注意されましたね(笑)野村証券の子会社であるJAFCOの社長はこのあとに中学校で隣のクラスだった伊藤君がやっています。不祥事で野村証券の役員が2度も総入れ替えになったので、ラッキーだった。中学校の同期名簿には彼の住所と電話番号が不記載になっていました。なるほど役員のセキュリティを重視する企業のようですね。
藤田さんは電車利用が可能だとタクシーも使わないのです。「藤田社長」と職位で呼ぶのは禁止しました。だから「藤田さん」なのです。社員が毎日社用車で病院を訪問して検体を集荷して利益が出ているのだから、社長が贅沢してはいけないという人でした。しかし、本社で仕事が忙しくて比較的多い人数が残業していると、都庁前の新宿NSビル22階に本社があったときには、最上階30階のレストラン街の有名寿司店から大きな桶に載せた寿司が二つ届きます。いいネタばかりです。もちろん会社の経費ではなく、藤田さんのポケットマネーです。経理部門に2年弱いたので、他の課員が伝票見ていますから知っていました。「ebisuさん、藤田社長は伝票まわしてこないんだよ、自分のポケットマネーから出している」そう言ってました。自分の個人的な利益は後回しにして考え行動する人でした。素敵なオーナー経営者でしたね。そんなことはオーナー社長しかできません。
「売り手よし買い手よし世間よしの三方よし」と「従業員にもよし」の四方よしのオーナー経営者でした。わたしが入社したのは1984年2月1日でしたが、前年12月のボーナスは5か月出てました。組合(職場代表者会議)の4.5か月の要求に5か月の回答でした。その年の新入社員へは80万円以上が出てましたから、父親よりもボーナスが多かったなんて話がありましたね。(笑) 1983年の大卒初任給平均は13.2万円ですから、初任給も相場よりも随分高かったのです。売上が年率で20~30%も伸びていて、いくら人を補充しても追いつかない時期でした。女子社員に、「ご亭主SRLへ転職しないか?」「運転免許持っている、じゃあ営業で採用だ」なんて時代は1980年ころまででした。給料が高いので、応募倍率のとても高い企業へ変わりつつありました。東証1部へ上場した年には20人に採用枠に1万人を超える応募がありました。
東証2の部への上場準備で1982年から8名ほどが中途採用されましたが、わたしの採用は1984年2月1日付で、その中の最後の一人でした。ぎりぎりセーフ。簿記1級と経営分析とデータに基づく経営改革と経営情報系の統合システム開発経験があったからです。欧米50社の世界最先端の産業用エレクトロクス製品の知識も臨床検査機器を理解するうえでとても役に立ちました。6年間毎月行われていた東北大の先生の講義や、海外メーカーのエンジニアが開発したばかりの製品の説明に年間20回ほどは着て説明会を開催していたので、面白いので全部出席してました。「ディテクター+処理装置+インターフェイス」という理化学測定器の原理はどれも同じでしたから、臨床検査機器の理解にそのまま流用できました。本社部門にそんな人材は一人もいませんでした。複数の専門分野に精通した人材はとっても少ないのです。8人の内、わたしだけでしたから。
(藤田社長は1990年頃に、八王子ラボで廃液に関する内部告発があったときに、2階に第2社長室を置きました。学術開発本部長直属スタッフだったわたしの席は社長室のパーティションが背中にありました。一番近かったのです。毎週金曜日は30分ほど開発部のメンバーと本部長とわたしと、藤田社長へ情報提供をしていました。そのあと関係会社管理部へ異動し、藤田さんの特命案件(北陸の臨床検査会社の吸収合併と東北の臨床検査会社への資本提携交渉)を二つ処理しています。赤字だった子会社千葉ラボの黒字化のための新規システム開発導入も関係会社管理部でわたしの案件でしたので、損益シミュレーション付きの稟議書にOKを出してくれてます。予定以上の結果が出ています。86年には「臨床診断システム開発と事業化案」に200億円の予算とフィジビリティスタディを承認してもらっていたので、藤田さんとは接点が多かったのです。)
藤田さんの特命案件で資本提携交渉をした後、赤字の会社立て直しを引き受け、3年の出向予定が1年半で解除になりました。作った再建案が染色体検査事業の拡張で売上高経常利益率15%という劇的なものだったので、実施をとめられ出向解除となったのです。1億円の資本提携から子会社化する具体案の調整も出向会社の社長と大株主との交渉が済んで、子会社化していました。売上高利益率15%は子会社中でダントツナンバーワンですし、SRLよりも業績がよくなる損益シミュレーション付きの具体的な計画案でした。重要な子会社社長はSRL役員を兼務するというのが慣例でしたから、それが嫌だったのです。毛色が違い過ぎました。藤田さんの人柄を考えると、無理のない結論でしたね。三年間で黒字にできっこないと思っていたのでしょう。赤字の会社を黒字にすることにしか目が行っていなかったわたしが浅はかだったのです。
本社の「管理会計課長・社長室・購買部兼務」で戻したのには藤田さんに何か意図があったのか、新しく社長になった近藤さんの判断だったのかわかりません。購買部の兼務は購買在庫管理システムの更新時期に来ていたので、わたしに担当させたかったのでしょう。1週間でクライアント・サーバーシステムへ乗せ換える仕様書を書いて購買部のシステム担当チームに渡しました。富士通の汎用大型機を使うつもりだったようで、当てが外れて担当者はむくれてました。1993年頃だったから、もう汎用大型機の時代じゃありませんでした。最初の購買在庫管理システムはわたしの担当ではありませんでしたが、システム開発経験のない人3人でやっていたので仕様書の半分は書いてあげました。購買課で機器購入担当を2年半した経験があったので、運用もシステムの内容も熟知していました。
後でシステム部長のS田さん(病理医)が、「ebisuさんのことなんにも知らなくてあの時は失礼しました」って謝ってました。SRLシステム部は、能力が低くて、1984年に経営統合システムを開発したときにはノータッチでした。NCDさんという外部のベンダーを使って、外部設計と実務設計はこちら側でやりました。NCDさんの役割は内部設計とプログラミングのみ。
グループ会社を含めた25ゲージのレーダチャートと総合偏差値による業績評価システムは1978年にエレクトロニクス輸入専門商社で開発したものをEXCELに乗せ換え済みでしたから。1992年に関係会社管理部に1年半ほど在籍しましたときに、グループ企業全部の業績評価をそのシステムでしています。経営分析のコメント付きで業績評価をしました。経営改善用のまったく新しい業績評価システムでした。
子会社関係会社の業績を管理するにはわたしが本社へ戻ってやるしかなかった。いまでも、あんな25ゲージ・5ディメンションの総合偏差値業績評価システムをもっている会社は日本にはないかもしれません。
産業用エレクトロニクスの専門輸入商社にいた1978年に会社の経営体質と財務構造を変革するためにHP-67とHP-97を利用してプログラミングして開発したシステムでした。科学技術計算専用のプログラミングのできる電卓型計算機でした。統計計算のパッケージと数学のパッケージも別売でありましたので、それも会社で購入してもらいました。したい仕事を思いっきりさせてもらって幸せでしたね。
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2023-09-07 12:12
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