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#5022 北方領土返還:いまになって気がついたこと Jul. 23, 2023 [21. 北方領土]

 ある理由があって北方領土返還運動には距離を置いてきました。

 お袋は択捉島で育ち、終戦のときには根室に住み、働いていました。だから「元島民」ではないのです。千島歯舞諸島居住者連盟という北方領土返還運動団体がありますが、彼らがいう「元島民」とは終戦時に北方領土に住んでいた人たちだけです。この定義が、北方領土を故郷とする人々を分断した、排他的で狭量なものに見えていました。

 わたしはいま東京に住んでいますが、古里は根室です、根室で生まれて根室高校を卒業した18歳まで根室で育ちましたから、「元根室市民」「根室っ子」です。
 おまえはいま東京に住んでいるから「元根室市民」ではないというのと同じに聞こえるのです。だから「元島民」という千島歯舞居住者連盟の定義には違和感があります。

 択捉島蘂取村で生まれて育ったお袋は、北方領土返還運動とは距離を置いていました。
 秋になると蘂取村の前浜に流れ込む川に、鮭がびっしり上ってきて、手で掬い上げられるほど魚影が濃い、竹竿を立てても倒れないくらいたくさんの鮭が遡上してくる。兄が鮭を手で掬い上げてイクラをとるのですが、「そんなにとっても腐るだけだから、それくらいにしたら?」と声をかけます。そんな話をするときにお袋はとってもうれしそうでした。
 漁獲量は根室の3倍もあったそうですから、文字通り「宝島」でした。腕の良い青森の出稼ぎ漁師だった母方の父が、まだらボケが始まってしばらくしてから、「宝島」だと懐かしそうに話していました。青森の両親の具合が悪くなり、農業を手伝うために択捉島を離れて戻らざる得ませんでした。その後母親は再婚します。漁場の権利があるので、そうせざるを得なかったようです。漁獲量が大きいことが災いしています。そして十数年、青森の父親とは音信が途絶えます。あいにくと根室に働きに出る前に、択捉の両親は相次いで亡くなります。
 お袋は根室空襲で焼け出されたときには、「パンツの替えも持ち出せなかった」と言ってました。500人の死者が出たそうですが、リヤカーにご遺体を載せて運ぶのを数日間手伝ったそうです。火葬にはできなくて弥生町の浜から海へ流しました。小学生の頃にあの浜で遊ぶと人骨らしき白いものが砂や小石に混ざっていました。母の兄は満州で侵攻してきたソ連軍と戦って戦死してますから、21歳の女の子が一人で終戦後を生き抜いてきたのです。だから、苦労したのは「元島民」だけではないと思っていたはず。

 叔母の動画や小学校の先生だった岩田宏一さんの動画を見ました。敗戦の後にソ連軍が入ってくる、そして強制労働がはじまる。叔母は国民学校の1年生でしたから強制労働の対象外でしたが、十代の叔父貴は漁労(ノルマのある強制労働)に駆り立てられました。1年数か月後に食糧がなくて窮乏化が著しくなったころに、引き揚げが決まり、輸送船が蘂取村に着くと、大きな網の中に荷物を入れて、その上に子供や年寄りが載せられ、周りを大人たちが囲むように網に張り付き、ウィンチで船上に引き揚げられたそうです。持ち揚げるときに網はすぼまりますから、荷物や網に押し付けられて顔がしばらく腫れあがった。
 根室へ輸送されるかと思ったら、韃靼(間宮)海峡を渡って樺太の真岡の収容所に運ばれたことを着いてから知ります。トイレは別棟につくられており、深い穴に板を渡してあるだけ。子どもや年寄りがふらついて何人も落ちます。ほとんど助からなかった。だから、「子供は一人でトイレに行ってはいけない」と言われていたそうです。
 友だちや知っている人たちが栄養失調で次々に死んでいく。やったことのない木材伐採作業で、やり方を知らないものだから、倒れてくる方向にいた人は下敷きになって何人も死んでいます。死んだ赤ん坊を抱いたお母さんの話が出てきます。ソ連兵に赤ん坊が死んでいるとわかれば、おいてこなければならない、函館に着いてから泣いています。
 そういう経験をして、同じ船で函館に着く。財産も何もない、どうしていいのかわからない不安を抱えていました。根室空襲に遭ったお袋と一緒の気持ちだったでしょう。同じだったのですよ。

 異常な経験をして、同じ強制収容所で暮らし、友人や知人が栄養失調や肺結核で死んでいく中で生き延び、同じ船で戻ってきた。引き揚げ者たちが「引き揚げ者」あるいは「元島民」というひとつのコミュニティを形成したのはむしろ当然の成り行きだったでしょう。「元島民」の定義をいま読むと、そういうことがよくわかります
 叔母もお袋も形は違えど同じ苦労を乗り越えてきたことが、いまはよくわかります

 敗戦という過酷な時代を生き抜いてきた叔母やお袋、戦死した人、引き揚げる途中で命を落とした人、無事支那から引き揚げてきた人たち、そういう人たちが、灰燼に帰した街を作り直してきた。団塊世代はそうした努力の上に高度成長期の時代に社会人となることができました。忘れてはならないことです。

 お袋は、兄が満州の荒野でソ連軍と戦って戦死しています。オヤジは落下傘部隊の生き残りで、「加藤隼戦闘隊」という戦時宣伝映画撮影時の事故で、飛行機から飛び出すときに主導索にひっかけて右腕複雑骨折してました。お見合いの時に箸はもてますが、腕が上がらず、口を箸のところまで持って行って食べたそうです。それを見て、お袋はこの人と結婚しようと決めたそうです。怪我をした兵隊さんのお嫁さんになろうと。
(終戦後の食糧難の時代に、オヤジは富良野で農産物を買い付けて根室で売っていたことがあります。富良野の映画館でヤクザに絡まれ、トイレに連れ込まれて、数分後に甥っ子のノボルさんが行ったときに、5人とも床に転がっていたそうです。右腕は上がらないので左腕一本でやつけてしまった。それ以降、富良野のヤクザは通りで出会うと、道をさっと開けたとノボルさん。オヤジの葬式の晩に楽しそうに話してくれました。ボクシングをしていたし、落下傘部隊員は正規兵を同時に3人相手にできるほど精鋭だったのです。小学生低学年のころから手刀や拳で焚き付けを割っていたわたしにボクシングは教えてくれませんでした(が、男の孫には教えたようです)。何年間も数千本の焚き付けを叩き折ってましたから、拳や手刀が固かったので、わたしにボクシングを教えたら人殺しになるとでも思っていたのかもしれません。無心に手刀や拳で焚き付け割りをしている横を通りかかっても何にも言いません。若気の至りで、十代の時に人を殴ったことがあるそうで、数年後にその人にあったら歯がぞっくり金歯になっていたと、そんな話を聞いたことがありました。オヤジが怒る理由はあったのですが、後味の悪いものだと言ってました。高校を卒業した年に新宿でパンチボールを叩いたことがありますが、踏み込まないで腰のひねりだけで180kgありました。握力の65㎏は40歳過ぎてもかわりませんでした。プロのボクサー並みの打撃力ですから、半がわきの焚き付けを折るようなタイミングで、人の顔面殴ったら粉砕骨折です。踏み込んだら250㎏くらいの衝撃はあったでしょう。硬い拳で怒りに任せて殴ったら、殺しかねないので、人を叩いたことがありません。加減ができません。
 ヤクザの親分のTさん、ビリヤード店の常連でした。オヤジに対する言葉と態度が丁寧なので、不思議に思ってどういう知り合いか訊いてみたことがあります。終戦間もなくのころ、根室で地元のヤクザの若頭に松の湯で目があってしまい、「表に出ろ」ということがあったとオヤジ。それがTさんとの出遭い、続きは笑って話してくれませんでした。旭川の甥っ子のノボルさんにオヤジの葬式の時にそんな話をしたら、にやっと笑って、富良野での一件を話してくれました。Tさんはお袋のことを「姉さん」と呼んでいました。いえ、決してご同業ではありません。Tさんがビリヤード店への出入りを許したのは幹部の4人だけでした。「ここは〇〇さんの店だ、お前たちは出入りはなんねえ」、そう言いました。けじめのはっきりした人でした。チンピラと違って素人を威嚇するようなことはありません。とっても礼儀正しいのです。お店の雰囲気はお客がつくります)

 岩田先生(姉の小学校の担任でした)は亡くなる数年前に、花咲町の自宅まで話においでと言ってましたが、その内にと思っているうちに、訃報に接しました。奥さんが厚岸の親戚の「てっちゃん」と根室中学の同級生でした。
 歯舞諸島出身で引き揚げ者の一人である柏原栄先生がご存命です。柏原先生は、花咲小学校⇒光洋中学校⇒根室高校と団塊世代のわたしたちと一緒に勤務先が変わっています。元予科練、終戦が少し遅ければ、土浦航空隊へ配属で特攻兵として飛行訓練を受けるところでした。大学の指導教官の市倉宏祐教授(哲学)が土浦で予科練の少年兵に操縦を教えていました。ゼロ戦の操縦を教えるのですから、「優秀な若者ばかりだった」とそうおっしゃっていました。
 カテゴリー「1.特攻の記録:縁路面に座って」に市倉先生の遺稿を全文掲載してあります。哲学者による唯一の特攻の記録です。

 動画 岩田宏一
 動画 鈴木咲子

<余談:四島一括返還>
 叔母と言っても10歳しか離れていないので、「歳の離れたお姉さん」でした。
 インタビューの最後のところで、四島一括返還を主張しています。2島なんて言ったら、永久に国後島と択捉島が返ってこないし、ロシアは約束を守らないとも言ってました。全面的に賛成です。ビザなし交流の欺瞞性にも触れています。どうやら、千島歯舞居住者連盟の中でも意見はさまざまなようです。少し年の離れたお姉さんと、距離が縮まった気がします。


#195 すこし過激な北方領土返還論:MIRV開発・組み立て・配備・解体ショー

#1892 映画「マーガレット・サッチャー」と北方領土 Apr. 6, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-04-06


#2053 マーガレット・サッチャーと領土問題: 北方領土・竹島・尖閣列島 Aug. 14, 2012 
 
http://nimuorojyuku.blog.so-net.ne.jp/2012-08-14


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