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#4947 WBC準決勝にみた価値観の違い:メキシコ対日本 Mar. 21, 2023 [97. 21世紀の経済社会 理論と理念と展望]

  日本とメキシコの準決勝戦を途中から見ていた。9回裏の日本の攻撃は大谷翔平からだった。彼が初球を打ち二塁打に、両手を上げて「続け!」という意味の雄たけびを上げていた。その瞬間に、四番吉田、五番村上で逆転というシナリオが頭をかすめたが、それではまるで下手くそなシナリオライターの書いた、できすぎたストーリーに思えたが、結果はその通りになった。不調だった村上は、肝心なところでしっかりセンターフェンスへ激突する二塁打を放った。2点追加で、6:4で逆転勝利 
 おめでとう!

 メキシコの4番バッターが三振したシーンがあった。三振した後、両手でバットの端をもち腿にあててへし折った。あれは日本選手ならやらないだろう。選手もプロならバットを作っているのもプロである。相手の仕事をリスペクトしていたら、バットを折るなんてことはできないのである。それは造った人の仕事に対する侮辱だから。
 ミスが出て悔しくてもバットをへし折らないというのは、つまりは自他に区別がないということ、大数学者の岡潔先生風に言うと、無差別智の働きだ。自他の区別を立てるのは自他弁別智で動物本能の表れである。無差別智は自他に区別をしない、大脳前頭前野の働きである。自分の仕事に忠実・誠実であることは他の人の仕事に対してむ尊敬の念をもつということ。

 もう一人、途中でリリーフ投手が調子が悪かった。グラウンドに唾を吐いた。あれも日本の選手ならやらないだろう。グラウンドを整備している人たちの仕事をリスペクトしていたらできない行為である。
 日本の小中高の学校では、生徒達に学校の清掃をさせる。だから、社会に出てからも、他人が清掃したところに唾を吐くなんてことはしない。

 こうしてみると、日本人のプロは無差別性智の働いているものが多いことに気がつく。自我を抑えたプレイは大谷翔平のバントにも表れた。とにかく出塁して後へつなぐことだけ考えたプレイだった。そのあと3点が入って同点になった。

 「売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よし」という日本人の伝統的な価値観は、じつは無差別性智の働きです。自他弁別本能である自我がむき出しになったら、我がよければ他人はどうでもいいということになり、「だまされる方が悪い」という極端な考えにまで行きつきます。それが欧米企業のオーソドックスな価値観です。
 日本が輸出すべきは、品質の高い製品群ばかりではなく、こうした経営哲学、経営上の倫理観でしょう。それらは無差別性智、平等智によって支えられています

 とにかく、野球をこんなに長時間見たのはいままで数回、とっても楽しかった。

<余談:民間企業の仕事のプロ>
 民間企業でも事情は同じである。社内にはそれぞれの部門に腕の立つプロがいる。こちらが渾身の力で仕事をしていると、部門の違うトップレベルのプロと自然にコンタクトが増える。いざというときこういうネットワークの人材はお互いに二つ返事で動くようになっていた。
 6年間いた産業用エレクトロニクスの輸入商社では、技術営業の東京営業所長のE藤さんや大阪営業所長のS藤さん、技術部のN臣さん、N中さん。部門が違うがお互いの仕事を理解し相互に尊敬する仲間だった。そういう輪は社外にも広がっていく。オービックのNo.1SEのS沢さんやNEC情報サービスのT島SEもそういうレベルの人だった。お二人ともこの分野では業界トップレベルでした。産業用エレクトロニクス輸入商社でのわたしの仕事は、会社の財務構造と収益構造を変革することだった。入社1週間後にそれぞれ具体的な目標をもった5つのプロジェクトを任された。メンバーのほとんどが役員と部長職、課長職は6つのプロジェクトで3人のみ。入社したてのわたしに会社の命運が任された、1978年9月のことです。2年間で経営改善のためにシステム開発を3つやりました。わたしの専門は簿記や原価計算や予算管理、それとマルクス経済学でした。システム技術はそれまでまったく関係なしです。すぐに数十冊の専門書を読みながら次々に使って、スキルアップしました。仕事がなければいくら専門書を読んでもスキルはアップしません、ラッキーでした。
 臨床検査会社SRLでは検査部門にたくさんプロがいました。本社管理部門には高学歴は数人いましたが、仕事ではプロが一人もいませんでしたね。最初の2年間は経営統合システムの開発と全社の予算管理でした。次いで八王子ラボで仕事していた4年間に、ネットワークができあがっていました。後にPSS社を起業し社長となる取引業者の営業であった田島さん、結石ロボット開発をお願いした取引業者の技術者の方、ファルマシア社や栄研化学の担当者、学術営業のS藤君、研究部の応用生物統計の専門家のF君、慶応大学病院産婦人科から相談のあった出生前診断MoM値の日本人基準値プロジェクトで非公式プロジェクトチームを組みました。S藤君は後に栄養学で米国で学位を取り、独立起業しています。F君も慶応大学とのプロジェクトが終わると独立起業しています。
 システム部門ではK原さん。二人で大手六社の臨床検査項目コード検討会議に出向き、臨床病理学会を巻き込んだ産学協同プロジェクトに方向を変えました。民間検査センターが統一コードを作っても病院が採用してくれませんから、意味がないのです。自治医大の櫻林郁之助教授が学会の項目検討委員会の委員長でした。先生から、学会の仕事を手伝うように頼まれていた経緯があったので、渡りに船でした。毎月1回会議を開き、1991年に初版の日本標準臨床検査項目コードを公表しています。それ以来、全国の病院がこのコードで動いています。
 櫻林先生に学会の仕事を手伝うように頼まれたのは、SRLに転職した1984年のことです。経営統合システム開発をしている最中でした。なぜか先生はシステム部門には声を掛けず、わたしに声をかけてくれました。「やりづらいなら、創業社長の藤田さんへ総合企画部への異動をお願いする」と。そのときは他の人にはできない経営統合システム開発を担当していたので、お断りしてますが、2年後に「臨床診断支援システム開発と事業化案」を書いて、藤田さんの了解をもらい、インフラ整備の一つとして、日本標準臨床検査項目コード制定の仕事に関与できるようになりました。自治医大の河合先生のススメで藤田さんが特殊検査会社を創業したのですが、櫻林先生は河合教授の一番弟子で、SRL顧問でした。臨床検査部の免疫電気泳動の指導医です。先生は「SRLは宝の山」とおっしゃっていました。データがあるのでいくらでも論文が書けます。臨床検査部の女性部長のK尻さんから、櫻林先生に連絡をつけてもらっています。彼女とは1989年に学術開発本部へ異動したときに学術情報部長となっていたので、1年半の短い間でしたが一緒に仕事してます。
 創業社長の藤田さんも無差別性智の人でした。その次に社長になった近藤さんは慶応大学医学部出の医師で厚生省の医系技官です。育ちの良いお坊ちゃんで、情に流されずに理性で割り切れる人でした。情が理解できないところが欠点だったかもしれません。わたしの印象では総じて好人物で、経営者としての資質は優れていました。SRLの役員で他に近藤さんに匹敵する能力の人はいませんでしたから。東北の臨床検査会社に出向して15か月で本社に呼び戻され、管理会計課長と社長室兼務の時に、近藤さんが社長でした。半年間だけ、居たくない部署だったので、わがまま言って子会社へ出向しましたが、2年たたないうちに、帝人との治験合弁会社の立ち上げと経営を担当しろと呼び戻されて、出向。1996年11月だったかな、合弁会社立ち上げのプロジェクトが暗礁に乗り上げました、新聞に公表した期限通りに間に合わない、それで呼び戻されました。SRLには他に担当できる者がいなかったのです。条件は以下の四つ、期限は3年間でした。①期限通りに立ちあげること、赤字部門の合弁会社だったので①黒字にすること、③合弁解消してSRLの子会社化すること、④帝人の臨床検査子会社を買収して子会社にすること。これら四つを3年でやることが近藤社長の特命事項でした。四つの項目全部、期限通りにやり終えました。
 話が前後しますが、1992年だったかな、東北の臨床検査子会社の経営分析をして、資本提携話を取りまとめ、創業社長の藤田さんに同時期に買収した金沢の臨床検査子会社と、いずれか好きな方へ役員出向しろと、指示があったのは。東北の会社を3年間で黒字にしろというのが創業社長である藤田さんの特命事項でした。15か月で、現実的な黒字化案をつくり、実行しようとしたら、藤田さんからストップがかかりました。売上高経常利益率が15%になる経営改革案をもって行って、最終承認してもらおうと本社で社長と副社長と打ち合わせの席でのこと。あらかじめ説明資料は送付してありました。藤田さん、経営改善に反対でした。経営状態が悪くなったら、出資比率を上げて、ゆくゆくは子会社化するつもりだったようです。この打ち合わせの後、すぐに出向解除、本社管理会計課長と社長室及び購買部兼務辞令が出されました。藤田さん、なかなかの演技者、肚の中が読めてませんでしたね。笑って、出向解除を受け入れました。相手が藤田さんでも2度目はない、いい勉強になったと思いました。SRLと連携しなくても、一般検査ラボとして高収益会社にするB案の用意がありました。1992年に子会社の千葉ラボでテスト済みでした。藤田さんと副社長のY口さんは、わたしがSRL辞職して東北の会社の経営を担うことを危惧してましたね。だから、出向解除の辞令は速かった。わたしにはそんなつもりはありませんでした。やろうと思えばできたというだけ。業界ナンバーワンのSRLでなければできない面白い仕事が他にいくつもありました。

 SRLに必要だったのは、もっと大きなビジョンをもって、戦略を練り、実際にそれを進められる人でした。たとえば、米国進出、画期的なラボの自動化システムによる大幅なコストダウンなど。人材が育っていないのでしょうね、いまだにSRLでは手がついていない仕事です。ラボの自動化は200mの平面ラインと双方向インターフェイスを考えていました。1989年頃のことです。近藤さんの後はよほど凡庸な人たちが社長だったのでしょうね。SRLは売上で業界2位のBMLに追い抜かれています。あんなに差があったのに...
 染色体検査の画像解析データベースも学術目的で、個人の識別情報を抜いて研究者に公開すれば、日本から染色体異常に関する学術論文がいくらでもでますよ。世界最大の染色体画像解析データベースになっています。病理もデータベースが大きい。診断結果の確定している病理画像データを大量に読みこめば、精度の高い病理診断が可能です。病理医のスキルアップの道具としても使えます。
 こうした金儲けとは関係のないアカデミックな事業もまったく手がついていません。こういう仕事がSRLの知名度を上げ、社会的評価を高くします。

 自分の損得抜きに(=無差別性智)仕事していると、自然にそういう仕事ぶりの仲間が増えていきますよ。類は友を呼ぶというのはほんとうです。(笑)

*道教委から2014年に全道の小中高の各学校へ大谷翔平の「文武両道」ポスターが配布されています。
大谷翔平「文武両道」ポスター2014年



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tsuguo-kodera

 なるほど。先生らしい素晴らしいWBCのテレビの見方ですね。感服しました。
 私はテレビも無いので試合が決まった後にパソコンで映像を見ます。テレビ番組は宣伝ばかりです。ネットのステルス宣伝の方がまだましです。
 大谷や佐々木投手が160キロなら金田が長嶋の1年目に投げた球は170キロと思うと妻に言うと耳タコと言います。王、長嶋だけでなくイチローの世界も遠くなりました。野球は嫌いになりました。
 バドの全英オープンも全滅でした。会場から友人が報告してくれました。中国と韓国が凄いとです。短い間の奢る平家でしたね。
 楽しみは出版と会の主催だけになりましたが、あるだけましでしょう。
 WBCのプレイについて野村監督ならどういうのか、あの世で会ったら聞いてみたいものです。
by tsuguo-kodera (2023-03-22 18:57) 

ebisu

koderaさん

金田の投げる球ってそんなに凄かったのですか。
化け物ですね。
ところで、大谷は体がずいぶん大きくなりました。
ガッツもナンバーワンでした。
ラストの9回は大谷が投げましたが、最後のバッターがMVPのトラウト、ハリウッド映画のラストシーンのような、できすぎたストーリーでした。

WBCに出場した30名の選手の中には、身体では大谷に匹敵する人はいませんでした。よくあそこまで体をつくったものです。普通のトレーニングメニューでは無理だということは、わたしでもわかります。

アーティステックビリヤード世界2位の町田正さんは鉄のキュウで素振りをしていましたが、日本のビリヤードプロで鉄のキューでマッセのトレーニングをした人は、彼以外にいないでしょう。
大台でやるL字マッセという大技を「シルクハット」と言いますが、あれができるのは世界で町田正さんだけです。鉄のキュウで素振りしないと身につかない技です。

by ebisu (2023-03-22 22:25) 

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