SSブログ

#4929 労組はいつまで春の賃上げ闘争なんてやっているのだろう?Feb. 16, 2023 [97. 21世紀の経済社会 理論と理念と展望]

 ユニクロが「最大40%の賃上げ」をすると1月中旬に公表した。海外のお店との給与格差を縮めないと人材確保ができないからだという。「最大40%」ではなくて平均がどれくらいになるのか訊いてみたいものだ。

 ところで、業績の悪い企業は給与アップはできないのはモノの道理だ。原資がないから分配のしようがない。賃上げできるのは大手企業で業績の良い会社だけである。赤字の企業は賃上げしたいと経営者が思い、労働者が願ってもない袖は振れない。
 ステレオタイプな賃上げ春闘なんていつまでやっているのだろう、労働組合はそろそろ戦略を変えたらいいのでは?
 春闘は1956年に始まったから、67年目だ。いつまでステレオタイプな運動続けるの?労組幹部のみなさん、頭硬すぎませんか?

 労組の幹部に、賃上げ50%を要求しろなんて言ったら、無理というに決まっているが、やり方次第だよ。それ以上の要求だってできるし、実現できる。

 具体的な経営改革案を労働組合で作ってみたらどうだ?現場は働いている者たちが一番よく知っている。だったらそこから、生産性を2倍に上げる方法を考え出したらいい、説得力だってあるだろう。同じ人数で売上を倍にする方法を考えればいいだけだ。それが実現できるなら、経営者は50%の給与アップを約束できる。非正規雇用の給与もアップしてあげたらいい。自分たち次第です。

 従業員持ち株会に全株式の3割を割り当てろという要求だって条件次第で可能になる。従業員へのワラント債の割り当てだって、生産性が2倍にアップできれば、可能だ。取締役会で決議して、株主総会で承認されたらOKだ。
 経営者が無能なら追放して、労働組合が経営すりゃいい。具体的な経営改革案が創れたらこれらのことはすべて可能だ。

 もう5%とか10%の賃上げなんてちまちましたステレオタイプで使い古した闘争はやめて、戦略転換すべきではないのかね
 マルクスも真っ青な労働組合運動を始めてみようというパワフルな労組幹部は大企業には一人もいないのか?
 そんな企業組合が出現したら、資本主義とはもう呼べないだろう?
 21世紀の新しい経済社会が出現する


<エピソード-1>
 帝人とSRLの臨床治験検査合弁会社の経営を任されたことがあります。SRL近藤社長の指示は四つでした。
①新聞発表通りに1月に新会社の立ち上げをすること
②赤字部門の合弁会社なので黒字にすること
③帝人の臨床検査会社を吸収合併すること
④帝人の持ち株を引き取る交渉をすること
 これら四つの課題を3年間でやる約束をしました。その代わり、やり方は任せてもらう。経営の実権はSRL側ではわたしに持たせてもらうことを約束してもらいました。新会社立ち上げのプロジェクトが行き詰まり、どうにもならなくなって、1996年11月に練馬の子会社(SRL東京ラボ)から呼び戻されたのです。合弁会社立ち上げ時のわたしの職位は部長職でした。取締役会のメンバーですらなかった。でも、経営戦略はわたしが立案し、取締役会で承認後、わたしが実行してました。常勤取締役はSRL側は1名、千葉大薬学部卒のOさん、帝人側は営業担当取締役1名、社長は帝人の臨床検査子会社と兼務という状態でした。毎月開かれる取締役会には非常勤で帝人本社のI常務ともう一人、SRL側から2名の営業担当取締役と事業管理部担当取締役がやはり非常勤で出席していました。
 1年後にはどうにも都合が悪いので、SRLのK社長はわたしのSRL側での職位を一つあげて、SRLの社内ルールに従って取締役に任命してます。営業部門以外はわたしの管理ということになりました。経理総務部門、データ管理部門、システム部門がわたしの担当でした。もちろん経営戦略も継続してわたしの担当。

 自分で設定した経営目標は赤字会社を黒字にするだけではありませんでした。帝人の臨床検査子会社とSRLでは課長の給料に1:2を超える差がありました。いずれ転籍が目に見えていたので、SRLよりも高い給料を支払ってやろうと仕事を引き受けたときから思ってました。
 SRLの社員も合弁会社へ転籍する場合に、給料が下がったのでは、面白くないでしょう。そのためには親会社を上回る売上高経常利益率を実現する必要がありました。子会社は例外なしに親会社の給料よりも低かった。だから、例外を作ってやろうと思ったのです。そうできる業績を叩きだせば、本社の社長Kさんは笑ってOKだったでしょう。
 治験検査の利益率は20%ほどしかなかったので、いままでの事業スタイルでは黒字化は不可能でした。それで、治験検査のデータ管理事業を大幅に拡張し、生産性を数倍にアップすることを考えました。担当して半年後に、経営分析の結果を踏まえて事業の核をデータ管理事業にシフトしたのです。利益率の低い検査事業から高収益のデータ管理事業への転換でした。
 製薬メーカー別に特注だった管理システムをパッケージ化して、NTサーバーに載せました。コンパクトで高性能だったので製造原価は3割以下、製薬メーカーはお金があるので、値引く必要なしでした。売上高総利益率はすぐに35%を超えました。決算報告書を帝人側のメインバンクの三和銀行本店にもっていくと、「ebisuさんの言っていた以上の結果が出ている、来年も同じことになるのでしょう、資金が必要な場合には親会社の保証なしでいくらでも出せます」そうおっしゃったので、「いくらまで可能ですか?」と訊いたら「わたしの判断で10億円まで出せます」と部長さん。どの程度その決裁権限をもっているのかと知りたかったので聞いてみました。運転資金が足りなくなりそうだったので、お付き合いでインパクトローンで1%の金利で借り入れしました。必要だったからです。あとで、SRLの事業管理部からクレームがつきました。「勝手に借り入れした、取締役会での決議もない」と言われたのですが、取締役会の決議が必要だなんてそんな職務分掌や決裁権限規程はありません。親会社の決裁権限表を見てのことでした。会社が違う。(笑)
 それに取締役会決議はわたしの所管事項ではありません、そのときはボードメンバーではなく、オブザーバーで取締役会に出席していました、身分は部長でした。そして親会社のK社長から経営の全権を委譲されていましたから、事業管理部からとやかく言われることもない。事情を知らぬ事業管理部でしたね。最初からK社長からの特命案件で、直接指示で動いてましたから、その都度、K社長には詳細な報告書を送っていました。わたしとしてはそれで十分でした。文句があるなら、事業管理部担当役員が社長と話せばいいだけ。わたしは彼らの教育係ではないので、ほっておきました。

 パッケージシステムを開発するときにパワフルなラックマウントにNTサーバーを導入していますが、そのときも事業管理部からクレームがありました。「過大投資だ」と。じつはベテランのシステム担当者Wさんから、ユニシスにオフコンを発注したいと要求があったのをやめさせてます。ラインプリンタが2000万円×2台とシステム、オフコンで7000-8000万円の見積もりを受け取っていたのです。わたしが前職で18年前に使ったことのある三菱電機製のオフコンの後継機でした。こんなオールドファッションなコンピュータでは治験データ管理パッケージシステムが開発できません。だから理由を言ってWさんにユニシスとはもうさようならしようと告げました。そもそも合弁会社立ち上げプロジェクトが始まって数か月して、暗礁に乗り上げて、「誰がこの急場をしのげるか?」ということになり、わたしの名前を挙げたのは自分だと言ってましたから、貸しがありました。素直に引っ込んでくれました。どこかでまた彼の要求を聞かなければいけないだろうなと思いながら。
 事情をちっとも知らぬ事業管理部は、5000万円のNTサーバーが赤字会社には過大投資だと、文書で通知してきました。実際には三菱電機製のオフコンを導入するよりも3000万円も安いし、データ管理事業を拡張することで、粗利益率が飛躍的にアップしていたのですが、気がつかぬ。親会社のK社長には逐一文書で報告していたので、無視しました。経営分析の経験があれば数字の裏に何かがあることぐらい気がついてあたりまえです。気がつかないのだから言ってもわからない。5年くらい経営分析のスキルを磨かないととても無理。簿記や管理会計やシステムの専門知識だけでなく線形回帰分析など推測統計学も必要なのです。必要なツールもプログラミングして使えないといけない。事業管理部担当取締役が非常勤取締役で毎月合弁会社の取締役会に出席していたのに、マネジメントできてません、お粗末でした。

 2年半で四つの課題は全部クリアしてます。SRLの誰にもあんな仕事を三年間の期限付きでやれる人はいません。いないから、K社長はわたしに特命案件で担当させました。Kさんが社長になって初めての大型案件、一部上場企業同士の合弁会社設立だったのです。それが頓挫しては困ります。
 こういう重要な案件でわたしはスケジュールを伸ばしたことは一度もありません。常に期限付きで仕事してました。
 入社早々の経営統合システム開発ではわたしの担当した財務経理システム及び買掛金支払いシステム、投資・固定資産管理システムは8か月で本稼働しています。他のチームは2年~3年かかっています。東北の臨床検査会社の経営分析をして立て直しのために1億円の出資交渉をまとめ、3年間の期限付きで役員出向(経営管理室長)したとき(1991年)には、14か月で染色体検査を中心に黒字化案をまとめて、最終的な実行承認をもらうために、SRL本社へ呼ばれて創業社長の藤田さんとY口専務に会いました。そうしたら、やるなというのです。SRL本社の売上高経常利益率を上回ります。出向先のT社長には持ち株を譲渡してもらって完全子会社化の準備ができていました。黒字転換すると、慣例上T社長をSRL本社役員として迎え入れることになる。それを嫌ったのです。すぐに出向解除命令が出ました。3年の約束を15か月でSRL本社へ戻されたのです。黒字化案は染色体事業のほかに腹案がもう一つありました。簡単すぎるので採用しなかっただけ。生産性を2~3倍にするシステムを1年前にSRL千葉ラボで実験済みでした。それを移植するだけでいい。関係会社管理部でわたしが担当したので、システムの内容は知っていました。
 出向したときに東北の臨床検査会社のT社長、「おかしな会社だ、営業担当常務でもう一人来ているが、職位が逆だろう?」、そう言ってました。
 SRL入社3年目のことですが、SRLの親会社の富士レビオの元経理部長が監査役で来ていました。上場のためのシステムを8か月で本稼働させ、検査試薬のコストカットを提案して、20%16億円のコストカット交渉をしたのもご存じでした。あるときラボのバスで一緒になりました。「ところでebisuさん、いまどの部署にいるの?」「購買です」「そうか、購買部長か」「いえ、平社員です」、そう告げると絶句してました。臨床業界で初上場で、上場要件を満たすシステムのお手本はどこにもありません。T口監査役、上場の時に経理部長職だったのでしょう、だから、仕事の評価ができたのです。
 取締役学術開発本部長のI神さんに購買課からスカウトされて数か月が経ったところで、「数年したら、俺が使われているかもしれないな」って、半分冗談でしょうが言いました。学術情報部と精度保証部と開発部の3部門ありましたが、誰にもできないという仕事がわたしにいくつも回ってきました。開発部の仕事では製薬メーカーとの検査試薬の共同開発作業の標準化、PERTチャートを使ってやりました。沖縄米軍からの出生前診断検査導入依頼をシステム部が不可能だとことわったので、学術営業部の担当者の章夫が困って、わたしの向かいの席の女史がわたしに英文の資料をポンと投げてよこして、「ebisuさんならできるでしょ、章夫がシステム部に断られて困っている、助けてやって」、同じ案件が慶応大学産婦人科医からも来ていました。こちらは出生前診断検査トリプルマーカ―MoM値の日本人基準値に関する共同研究でした。どちらも1か月ほどで片づけました。国際的にも価値のある研究になったので、あのドクターは教授になれたかな?製薬メーカに話をつけて学術研究なので、検査試薬の無償提供をしてもらい、検査と多変量解析はSRL側で無償でやってあげました。応用生物統計の専門家のFさんは慶応大学産婦人科医とは学会である事件を起こしているので、仕事したくない。「ebisuさんの依頼だからやるんですよ、他の人ならやりません」そう言ってました。6000人の妊婦のデータが集まり、日本人基準値が、白人を100とすると黒人が120,日本人は130でした。だれもが110くらいを予想していました。これは、日本人のルーツがどこか欧米人とは異なる、ネアンデルタール人とかデニソワ人とか別系統の人類と交雑した結果ではないかと思わせる結果でした。Fさん、このトリプルマーカ―の多変量解析の仕事が終わって、ほどなくSRLを辞して独立しています。

 話しを治験合弁会社へ戻します。株の引き取りと、帝人の臨床検査ラボの買収交渉の最中に帝人の常務から、帝人の臨床検査子会社を治験合弁会社の子会社にして、経営はebisuさんがやってもらいたいと申し入れがありましたが、SRL社長Kさんはノーでした。無理ありません。彼はわたしが入社して6年たったあたりで厚生労働省の課長補佐から創業社長の藤田さんにスカウトされて入社していますから、彼の入社前にわたしがどんな仕事をしていたのかまったく知らなかったのです。そしてSRLの硬直化した人事制度がまた邪魔をしました。「職位は過去の業績に対する評価だ」、わたしを社長にできない理由がそこにあるとK社長が言いました。
 入社早々予算編成と経営統合システム開発を担当し8か月で本稼働させたのは、SRLでは異例のスピード、そのあとは16億円の検査試薬のコストカットを提案し、実現。翌年も2割カット交渉をしています。SRLの当時の数年間の利益の4割はわたしが稼ぎ出したものでした。そのあと、学術開発本部へスカウトされて異動、開発部の製薬メーカーとの検査試薬共同開発を標準化しています。
 有力な100%子会社の社長職はSRL本体の取締役と兼務というのが慣例でした。硬直化した人事制度上K社長にはプッシュできなかった。帝人の臨床検査子会社の社員は気の毒でした。リストラをすることになったのです。救済案はあった。でも、そういう仕事を担える人材がSRLにはいなかった。わたしが兼務でその臨床検査子会社の社長をやれないなら、治験検査に特化したラボはほとんど不要でした。ラボを視察して、K社長にリストラし選択肢がないと報告書に書きました。1時間見て回ればどの部門に問題があるのか、経営分析の専門家であるわたしには理解できました。検査にも詳しい。3000項目ある八王子ラボではラボ見学ツアーがありますが、海外からの製薬メーカー希望者にはわたしが説明して案内していました。システムや検査のこともわからないと経営改革なんてできっこありません。帝人の臨床検査子会社の社員は、帝人側で再就職斡旋をするということで両者の合意ができました。あれが一番辛かった。

 SRL東京ラボで千葉ラボに入れたシステムを導入すれば、生産性が大幅にアップするので、東京ラボのM社長と連携したら、社員の救済ができました。給料は下がらない。東京ラボのM社長は、合弁会社を担当する直前に一緒に仕事してました。老朽化したラボ移転をする寸前だったのです。100mの直線ラインがとれるような一般検査自動化ラボを構想していました。大型検査機器はGPIBを標準装備してもらうつもりでした。当時の双方向のインターフェイスバスです。85年12月から提案した検査試薬のメーカーとの価格交渉で購買課へ異動しています。機器購入と臨床検査機器開発を担当していたので、3年間で各メーカーに強力なコネクションを築くことが可能だったのです。合弁会社を担当する前に一緒に仕事していましたから、わたしは東京ラボのM社長に直接話をするルートがあったわけです。生産性の高い自動化ラボを創ることで、対BML戦略を考えていました。同じ価格で、BMLの大口ユーザーを狙い撃ちにするだけでよかった。奪取できたらBMLの売上が減る、奪取できなくてもBMLは対抗上仕切り価格を下げざるを得なくなります。だから、利益の大きい首都圏市場でBMLは手痛い打撃をこうむることになります。業績は低迷、株価は暴落しますから、その段階でTOBを仕掛けたら、SRLの傘下に組み込めました。そういう大きな構想で動いていて、賃借物件だった老朽化した建物を棄てて、自前で土地を購入してラボを造ることまではM社長と話し合いができてたのです。後は不動産屋へ広い土地を探すように依頼すればいいところまで来ていました。200mの平面ラインが確保できるなら、SRLの八王子ラボの移転まで考えていました。取得できそうな土地が見つかった段階で、親会社の社長のKさんに話をしようと思っていたのです。SRL東京ラボへ出向する前は、経理部管理会計課長職で、購買部兼務、社長室兼務でしたから、親会社の社長のKさんを説得できると思っていました。東京ラボのM社長、話があると社内電話があり、社長室へ行くと、下を向いて、「ebisuさんには臨床治験合弁会社のほうを担当してもらうと親会社社長のKさんの指示があった、逆らえない」、そういいました。これも運命かと受け入れました。
 最近、SRLは売上でBMLに負けているんです。あんなに差があったのに、20年眠っていたからです。ウサギと亀の競争そのもの。

 話を合弁会社の方へ戻します。四つの課題を期限内にクリアしたので、引き受けた仕事は予定通りに完了です。半年ほど前から病棟の全面建て替えをするので常務理事で来てほしいと首都圏の300ベッド弱の特例許可老人病院からの常務理事でのお誘いがあったので、老人医療ビジネスで、介護から医療までシームレスなビジネスモデルを構築してみたくなり、SRLを辞しました。50歳を境に、儲け仕事ではなくて、社会貢献度の高い仕事をしたいとかねがね思って、迷ってました。

 合弁解消した後は、SRLから社長が来ることになっていましたが、わたしのお目当ての学術開発部門担当取締役のIさんが、話をする直前にSRLをやめてしまいました。親会社社長のKさんの了解は取り付けてました。Iさんは90年から15か月ほどわたしの上司で、学術的なバックグラウンドのある人でしたから、臨床治験のデータ管理会社社長にはうってつけだったのです。他には人材がひとりもいませんでした。治験合弁会社の常務取締役のOさんも、Iさんを社長で呼ぶと告げると大喜びでした。他には誰が来ても無理、わたしもお付き合いするつもりがありませんでした。思う様にやれなけりゃ、転籍する社員に、SRL以上の給料を支払ってやれない。それは我慢のできないことでした。

 労働組合にそういう経営のエキスパートが現れたら、給料の5割アップぐらいそんなにむずかしいことではないのです。わたしの言いたかったことはそういうことです。

<エピソード-2>
 1978年9月に中途入社して84年1月末まで仕事したた産業用エレクトロニクスの輸入商社でも、入社早々から5つのプロジェクトを担って、3年間経営改革をしました。その結果業績は大きく改善し、オーナー社長に、利益を株主と内部留保とボーナスに三分割することを承認してもらいました。長期計画にも単年度予算にもそういうことを組み込みました。社員は喜んでましたね。「これでローンで家が買えます!」ってね。それまで円安になると経営危機でボーナスがガクンと下がる、円高になるとボーナスがたくさん出るという具合に、シーソゲームをしているような経営状態でした。売上高粗利益率は27%から42%にアップしていますから、利益が増えるのはあたりまえでした。営業事務(3か月に一度為替変動に対応したレートで定価表を出力)や納期管理業務、輸入業務、為替管理業務などをシステム化して生産性を大幅にアップしました。わたしが辞めたあと株式上場しています。そして、2010年頃に業績不振で上場廃止、吸収合併されてます。これも社員が気の毒でした。40代、50代の社員は再就職が困難だったでしょう。「賃上げ」どころではありません。

<結論>
 どんな業種でも、高収益企業になれば、ボーナスは増やせるし、基本給も大幅にアップできます。チマチマした5%賃上げ闘争なんて、ばかばかしくって、よくそんなことを60年以上もやっていて、疑問を感じないなという気がします。従業員はのワラント債の割り当てを要求したっていいんです。会社が退職金を出さなくったって業績改善してワラントを実行すれば、社員はそれぞれ数千万円の利益を手にできます。その上で、退職金も出たらうれしいでしょ? 


にほんブログ村

nice!(0)  コメント(2) 

nice! 0

コメント 2

tsuguo-kodera

 言いたいことを事例込みで言ってくれたと思います。40年前に富士通社内で賃上げ春闘など止めろ、時代遅れだと言っていたことを思い出しました。その同期入社した友人もぽろっぽろと櫛の歯の欠けるようにあの世行きです。寒さが身に沁みます。
 遅まきながら引きこもりの人向けに教科書を書いています。教育も、新規事業も、塾経営も、国家予算立案も、中小企業の改革も、遠隔診療も、全部ひとつの論旨で説明できそうに思えてきました。
 偏差値30の不登校児が売れるソフトを開発したくなる教科書です。1年の計画です。それが完成するまで死ねません、ボケません。それが目的なのかも。(笑)
by tsuguo-kodera (2023-02-17 11:51) 

ebisu

koderaさん

40年前に「賃上げ闘争などやめろ」と言っていたのですか、それは早過ぎましたね。(笑)
時代の変化を敏感に感じ取って労組が変われば、資本主義は終焉して新たな段階に入りそうです。
マルクスも、レーニンもスターリンももうテク等も知らないゾーンです。
職人仕事中心の社会、「労働」ではなく「仕事」、苦役ではなく自己実現であり喜び。インテリにはわからない世界ですが、職人にはわかる。
貴兄もわたしも、職人でした。

貴兄はずいぶん時代の先を走っていたようですね。
制作中の本はとても面白そうです、早く読んでみたい。

by ebisu (2023-02-17 19:00) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。